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2009.01.30

第四話  倭国大乱

〝邪馬台国〟119頁
大乱とは中国では天子に対する、むほんである。これは〝邪馬台国〟の122頁に書かれている。
国土地理院の福岡と前原それも
五万分の一の地図を是非眺めて欲しい。九州説の伊都国の糸島半島は古代には離れ島だった。仮りに糸島にしても、九州本土側でも海岸線しか人が住む所がない。攻めるには、一日で充分な地形である。
何年も続いたとあれば、何故続く要素があったかを考えるべきだ。中国にまで響き渡ったのなら、中国に無縁の内乱ではおかしい。
中国の難民が大量に、無差別に、何十年も瀬戸内海に所きらわずやって来た。これと中国からの屯田兵とが高梁川をはさんで争ったのである。
高梁川の西側と東側とで古墳に著しい差があることは後程述べる。東側には貴族や将校が居ったから古墳が多い。西側は難民だから古墳の代りに廃寺が多い。これが証拠だ。

p-24
P24

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2009.01.26

第四話  大倭

倭人伝に祖賦を収むるに邸閣あり、国に一り、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむと書あれている。(原文が正しい)
 米倉国(狗奴国)とは久米国の東部津山だある。ここには高床式倉庫があったと鳥越氏の〝吉備の古代王国〟170頁に説明がある。
 大倭は〝ヒルゼン古事記〟でヤマトと読むと述べ、久米郡大倭村が該当すると述べた。
 久米国には師団があり、男王が居った。被服しようがあったと説明ずみだ。大倭で監督したと、倭人伝が証明してくれた。
〝古代の吉備の王国〟には久米と津山周辺に前方後円墓が約70基あると書かれている。学者ならこの異常値に説明が入要だ。これこそ久米国存在の理由だ。恐らく将校の古墳だと考えたい。
 津山より東方には古墳が減って、廃寺が山奥にしては異常に多い。ここは播磨から舞鶴国への街道すじだ。津山に鄭閣国(米倉)があり、商人はこの付近に居った。古墳をつくれない代わり、寺を寄進したと考えたい。


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2009.01.23

第四話  伯耆と出雲 〝邪馬台国〟  21page

〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟で古事記の国譲りの時に、倉吉の高千穂から、タケミカズチの命が米子方向に攻めたと述べた。出雲と伯耆は敵対関係だと申上げた。
 〝邪馬台国〟154頁にA型血液型の分布が書かれている。島根県と慶尚南道の血液型が全く同一である。従って出雲人は古代に南朝鮮から渡来したと考えてよいだろう。
 水野氏の〝日本民族の源流〟に、頭型の長幅示数分布と血液型の分布が左の如く示されている。隠岐と伯耆は、頭は同一で、隣りの出雲とは著しく異なる。更に伯耆と同一の頭の人はデルタ地帯に多い。これこ福ノ神族の立証である。出雲と伯耆は異民族だ。
 左記のA型の血液分布は〝邪馬台国〟に載せられたもので、新羅と出雲は同一民族で九州よりも交流が密接なことの証明だ。
 福ノ神族が隠岐から南下して、倉吉に上陸した。後日出雲を攻略した、小生の説を立証してくれている。漢倭奴国王印は九州がもらう理由は全くないと云えないか。


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2009.01.21

鳥取県の古墳・銅剣・銅鐸分布図

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左の図は、山川出版社 山中寿夫著『鳥取県の歴史』から無断拝借しました。この図を見て、皆さん、何を考えられますか?  黒丸は古墳です。銅鐸は見えにくいですが、伯耆国分寺とある下に八橋と読めます・その真ん中あたりに出土しています。これが、鳥取では一番西にあります。そして、天神川周辺に。千代川周辺です。大まかに言いますと、天神川より西が、伯耆国、東は因幡国です。銅鐸に限って言いますと、真ん中より東が多いことになります。
 今回は、それぐらいを頭に入れておいて、古墳に注目したいと思います。
日野川を挟んで東西に多くの古墳が分布しています。
 ここが、伯耆の国の汗入郡と会見郡になりのます。私が現在書いています〔天孫降臨〕は、八橋・上神大将軍塚とかいてある辺りです。この辺りに、紀元前100年ころに、ヒルゼン高原(高天原)に居たアマテラスが、孫のニニギ命を行かせます。大国主神に話合いで国譲りをさせたことになります。
 100年後は、神武天皇の時代になりますが、神武天皇は、伯耆の国の経営だけでは、追いつかなくなります。地図の一番左は、出雲になります。 ここからは、日本では最大の銅剣と銅鐸が発見されました。
荒神谷遺跡の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本と加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の発見です。
ここは、神武天皇にとっては、最大の敵ですが、出雲の人をかまってはおれませんでした。主力は、奈良と九州と岡山でした。地図の左上の弓状に突き出た半島の先が、境港(島根半島の日向浦)の所から神武東征に出発しました。
 この頃が、天皇家の最大の勢力範囲であったと思われます。

地図が大きく掲載できませんので、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-date-20090121.html
に掲載しました。こちらも上手く掲載されていませんが・・・。

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2009.01.19

第四話  自殺勧告の証書  19page

倭国には、舞鶴国(伊都)、久米国(狗奴国)と倭国の都、ヤマト(邪馬台)があった。
それぞれに、卑弥呼女王、男王、女王の民政長官が居った。卑弥呼は倭国の代表である。
 卑弥呼は玉の国(投馬)とヤマトの紛争の末に、共通の倭国代表に専任された。
 今度は久米国の男王と卑弥呼が、意見が合はないで戦争になった。
 倭国が独立国なら、内戦の仲裁を願い国に依頼する理由がない。又何人もの使いが、日本に来て、難升米に詔書を渡すことも納得ゆかないことだ。
 この文章の続きが、卑弥呼以って死す、となっている。久米国の男王には全く触れてないことは、久米国の勝利であり、卑弥呼自殺勧告書だから、詔書だから、詔書は卑弥呼に渡す筈もなかった。この仲裁結果が、久米国が占領計画の実権を持ち、従って師団があったことを立証している。倭人伝はわざわざ
久米国の位置も人口も書かなかったのは、今一つの師団があった証拠である。

絳青?・緜衣・帛布・丹・木○・短弓矢。掖邪狗等壹拝率善中郎將縛印綬。
 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
 其八年、太守王?到官。倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齋詔書・黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之。
 卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、?葬者奴碑百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王、國中遂定。
 政等以檄告喩臺與。臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、途政等還、因詣臺、辭上男女生口三十人、貢白珠五千孔・

卑弥呼以って死す (もってしす)と解釈すべきだ。

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2009.01.17

第四話  新羅国王 〝邪馬台国- p-155〟   17page

朝鮮の史書〝三国史記〟に、新羅の第四代脱解王は倭の人だと書かれている。
 生れは多婆那国と書かれている。漢字もない時代だったから、多婆那国はタジマではなかろうか。
 但馬と新羅との交流は古事記にもでてくるし出石の地名も書かれている。戦後朝鮮からの密航者山陰海岸にやってくる・九州とはいくら距離が近くてね。海流が邪魔するので交流出来なかった。
 出石の新羅との交流は〝兵庫県の歴史〟に面白く、くわしく書かれているから譲る。
 〝三国史記〟には「倭国の東北千里」に多婆那国があったと書かれている。千里は80キロで西大寺ヤマトの東北には、正しく但馬国が存在する。朝鮮の文献も、西大寺ヤマトに一役かってくれた。
 倭国の塵は難升米が239年に報告したことを全ての解説者は忘れている。スリラー小説よりも倭人伝の解読は容易で、九州説は方向も里程もでたらめである。

16ページには、〝邪馬台国〟155頁  と 古事記に現れた、出石 岩波文庫 が書かれています。
① 〝邪馬台国〟155頁-----朝鮮の史書〝三国史記〟の新羅本紀には、第四代脱解王は
「倭国の東北一千里」にある多婆那国の生まれだとある。倭にいた人が新羅で大臣や王になったりしているわけだ。朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨氏(歴史学)は、「多婆那国がどこにあったか、筆者はまだこれを出雲地方に探し出せないでいる。しかし、この地方と関連ある地帯であったろうことはいいうる。倭国東北一千里というとき、この倭国は大和ではなく北九州であることを思い出さねばならない。ここから出雲は東北方向にあることだけは事実である」(「古代朝日関係史」) 

②故、その天之日矛の持ち渡り来し物は、玉津宝と云ひて、珠二貫。又浪振る領巾、浪切る領巾、風振る領巾、風切る領巾。また奥津鏡、併せて八種なり。こは伊豆志の大神なり。


私から一言----この〝邪馬台国-〟の編集者は、邪馬台国-は九州にあることを目手居られます。そのことを駄目押しする人の意見を紹介することによって、九州に邪馬台国があると説明しておられます。
それは、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨氏(歴史学)が、「多婆那国がどこにあったか、筆者はまだこれを出雲地方に探し出せないでいる。しかし、この地方と関連ある地帯であったろうことはいいうる。倭国東北一千里というとき、この倭国は大和ではなく北九州であることを思い出さねばならない。ここから出雲は東北方向にあることだけは事実である」(「古代朝日関係史」) と言っておられるから、確かですと。
この本は、多くの人の説のうち、自分たちの都合の良いところだけ繋ぎ合わせて、一冊の本に仕上げておられます。新聞の編集と同じやり方です。

 では、田村氏の「多婆那国はタジマではなかろうか」という至って、いい加減なことが仮定になっています。ところが、その後ろに書いてあることが、およそ、いい加減なことのようですが、真実です。
「但馬と新羅との交流は古事記にもでてくるし出石の地名も書かれている。戦後朝鮮からの密航者山陰海岸にやってくる・九州とはいくら距離が近くてね。海流が邪魔するので交流出来なかった」は、事実です。中国から、九州へは来られますが、朝鮮からは、大きな船で、こぎ手が多くないとどうしても、山陰の海岸に着いてしまいます。
 
多婆那国はタジマとしますと、但馬を中心として、半径、一千里を半径にして、縁を書きます。「倭国の東北一千里」にタジマがあると書いてありますから、逆に、但馬の南東一千里に邪馬台国があることになります。
 田村氏は、邪馬台国はずばり、西大寺ヤマトだったとされました。
 これでも、朝日新聞と良い勝負です。しかし、西大寺ヤマトが邪馬台国だとして、魏志倭人伝の距離・方角を当てはめていきますと、すべて解決ですから、田村氏の勝ちになります。

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2009.01.15

第四話  宋への上奏  p-15

日本国の占領経過報告、天皇が宋に上奏したことは、戦後派の大学受験者は習ったはずである。この上奏文の続きになにが書かれていたか。
 左記は〝日本人とは何か〟74頁である。
天皇は〝いまは喪中だから、じっとしているけれども、喪があけたら再び東の毛人、西の夷人、海を渡って韓にまで軍事行動を行います〟と上奏したのである。
 天皇自ら過去からの日本占領に努力して来たことを報告し、更に今後の計画まで、宋に連絡していた。福ノ神族存在と性格の立証だ。
 〝日本人とは何か〟は日本のトップレベルの学者が、16人集って、ゼミナールを行った報告である。16人の学者は昔の天皇が中国からの占領軍の最高司令官だったことを知りながら、この事実は論議するどころか、かくすために騎馬民族説を展開している。
 国学院の樋口教授が死ぬ覚悟でないと云えないと述べられたのは、恐らくこの点ではなかろうか。

田村氏が取り上げられている〝日本人とは何か〟74頁は、次に記しますが、この本と同じ題名の本は、
①山本七平著 ②加藤周一著 ③谷沢栄一・渡部昇一 がありますが、どれか判りません。
以下、14ページに掲載されている文章を記します。

意味での日本統一を果たした。しかしそれは、大和の豪族と合体しながら、前から存在していた統一性を別の形で受け継ぎ拡大していったものです。この騎馬民族の王朝は、それ以前の王朝とは異なり、政治、軍事、外交の権を掌握して、官僚と武人による実力によって国家をきちんと統治した。いわゆる統一国家政権としての性格をはっきりもっていたので、そういう意味で、四、五世紀ごろには、日本人の統一性は政治、社会の面から整理されていたでしょう。
 この間、稲荷山古墳の鉄拳の文字が部分的に解読され、大野晋さんなども、「大王とは雄略天皇だろう」と言っておられ、ほとんど定説だろうと思われます。そうして、江田船山古墳から出た鉄剣銘も同じで、両方とも雄略天皇の名が出てくるとすれば、中国に対して天皇が出した上奏文のなかに、いまは喪中だから、じっとしているけれども、喪があけたら再び東の毛人、西の夷人、海を渡って韓にまで軍事行動を行うという意味の言葉があるのも必ずしも高言とは言えないでしょう。 実際にそのこらになると、日本の大部分はすでに大和朝廷の支配下で統一が進んでおり、毛人などとじかに接触したり、隼人や熊襲などを統一対のなかに入れようとしたりしていたとみて差し支えないものと私は思います。
以上です。

資料として、倭王武の上奏文のタイルで、次の文があります。
興(安康天皇)がなくなり、弟の武(雄略天皇)が即位した。武は使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅(任那と同じ弁韓の地)・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称した。宋の順帝の昇明2年(478)武は宋に使者を遣わし次のように上表し(申し上げ)てきた。≪封国は偏遠にして、藩を外になす。(私の国は中国から離れた僻遠の地で、海外にあります)昔から私の先祖はみずから甲冑に身を固め、山川を跋渉し、休む暇もなく、国土征服に努めてきました。東は毛人(蝦夷か)の55国、西は衆夷(熊襲か)の66国を征服し、さらに海を渡り、朝鮮半島の95国を平定しました。(下略) 順帝は詔を下し、武を使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅(任那と同じ弁韓の地)・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭王に徐した(任じた)。


私からの一言----読まれて、お解りになりましたか?  判らなかった方は、ここを読まないで、もう一度、戻って読んでください。
 〝日本人とは何か〟が三冊ありますので、どれか読んでみようと思っていますが、お金がありませんので、③谷沢栄一・渡部昇一 にしようかと思っています。しかし、買わないで図書館ででもと思っています。

〝日本人とは何か〟は 一ページだけですので、少し無理がありますが、何のことはよく理解できません。 田村氏は「中国に対して天皇が出した上奏文のなかに、いまは喪中だから、じっとしているけれども、喪があけたら再び東の毛人、西の夷人、海を渡って韓にまで軍事行動を行う」のところだけは、本物だと思われたらしいです。 この元になっている資料も添付しておられます。しかし、〝日本人とは何か〟を書いた人は、「この騎馬民族の王朝は、それ以前の王朝とは異なり、政治、軍事、外交の権を掌握して、官僚と武人による実力によって国家をきちんと統治した」と書いています。著者ではなく、16人もいたら気がついても良いだろうと言った気持で、この文章はいっぱいですが、
最後に、「国学院の樋口教授が死ぬ覚悟でないと云えないと述べられたのは、恐らくこの点ではなかろうか」を書き加えられましたが、8と9ページの 【第四話  騎馬民族説  週間朝日 56.2.15増刊号】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/56215-da27.html を読まれなかったら意味が判らないと思います。(騎馬民族説は、一字一句立証がないとフィクションにすぎないと書いてあります )  騎馬民族説は、現在では、賛成する人は、あまり居られないと思います。

もう一度、田村氏の文章を読んでください。
「日本国の占領経過報告、天皇が宋に上奏したことは、戦後派の大学受験者は習ったはずである。この上奏文の続きになにが書かれていたか。」 田村氏は、此の時の天皇は、誰でもが信じている応神・仁徳・履中・雄略であると思われて、この文章を書いておられます。
何時から、考え方を変わられたか判りませんが、その後、河内幕府の存在という仮説を展開しておられます。
 
No215  大倭朝廷と河内幕府の対立
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-11

No216 大倭朝廷と河内幕府の対立 その2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-12

No217 大倭朝廷と河内幕府の対立 その3
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-13
No218 大倭朝廷と河内幕府の対立 その4
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-14
No219 本当に河内幕府はあったの?
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-15
No220 河内幕府と宋書
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-16
No221 河内幕府が行った朝鮮征伐
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-17
No222 河内幕府が行った朝鮮征伐 その2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-18
No223 河内幕府と広開土王碑
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-19
No224 江上氏の騎馬民族説
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-20

倭の五王と河内幕府 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page792.htmlの画面で、<戻る>をクリックして頂きますと、この辺りのことで、考えたことを全部記しています。元になるものは、田村氏の書かれたものです。
 田村氏は、調べながら、どんどん、考えが変っていかれました。
研究に引かれたものは、と言いますと、朝日新聞がデタラメを書いた。東大の先生が、嘘を承知でデタラメを書いたなど、許せないと思われたことが、大いに関係があったと思います。

No224 江上氏の騎馬民族説には、スサノオのことを書いています。この人たちは、騎馬民族です。中国人ではありません。スサノオは、岡山・鳥取・出雲に神社の祭神で、いっぱいです。最大の拠点は、京都です。頂点に八坂神社があります。
 私は複雑すぎるので、京都や三重や関東は調べたくありません。しかし、どなたか挑戦してください。プロの意見を聞きますと駄目になると思います。

 京都を調べると、何故、天皇が京都に1200年もおられたか? なぜ、藤原京は、すぐに、平城京にうつったのか、聖武天皇はどうして、あちこちに移動されたのか? 日本書紀にどうして、天皇でもない神功皇后の項目があるのか、どうして、天武天皇の所が、二つもあるのか、どうして、古事記は推古天皇で終わっているのか、何もかも、すべて解決します。
 前方後円墓が、どうして、競争するがごとく、大きくなっていたのか、古墳時代の解明は楽しくなります。

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2009.01.13

第四話  占領軍軍司令官  前ページ12

「古代史の問題は実は現在の政治と文化の問題である」という見地から、埼玉県入間郡(この部分、書いてありましたが、ブログ編集者の私がカットしました)
黒田善治氏から、なかば専門的にわたる長文の投書が寄せられた。あまり長文なので、ここに全文を紹介するわけにはいかない。要約すると----。

1. 明治の太政官で一切の古物は帝宝博物館入りとなったが、のち石器時代のものにかぎって人類学者の所有となった。日本人類学会は世界で二番目に古いが、当時の最高テキストであるタイラーの人類学を学者は絵だけを見て、あまり勉強しなかった。当時読みこなしていてくれたら、日本の考古学はもっと進んでいたろう。少なくともお遊びとは切れていたはず。高等お遊びは、現在もくりかえされている。

2.大和説がどれもしり切れで勢がないのは、戦前では不敬罪にかかるのを恐れたからだ。この影響はいまでも完全になくなっていないと思う。

3.運よく戦争責任は免れた古代研究学徒は、戦後いきなり脚光を浴び、引く手あまたとなった。ブームで、表題さえ変えれは同じ内容でも売り切れる。こうして高度成長で甘やかされた学徒に、どれほどの学力が蓄積できたろうか?

4. 邪馬台国に素人がたくさん手をつけるのは、この分野では学者の能力と素人に大差がないからだ。戦後すぐの若い学徒が、いまは学閥をしきる大物に変身して、大衆の前進におびえているかも知れない。

5.邪馬台国研究で第一に必要なのは、人名地名を中古音、上古音でまず示すことだ。第二に日本書紀の漢文の人名、地名を中古音と朝鮮音で読むことだ。

6.倭の使者がもらった率善中郎将という官は、兵力を出動させて魏の軍事行動を助けた異民族の首領に授けられる。これは両司馬ともいい、指揮権を示すための鐸が与えられる。一大率の率は率善の率だし、のちの太宰府の率(帥)にもなる。

7.弥生、縄文の土器の編年は戦争中のもので、再研究の必要がある。

8.要するに邪馬台国研究を軸に、古代研究はおおきな転換を迫られている。

朝日新聞社  〝邪馬台国〟 256頁

146ページからは、読者からの投書欄になっていて、その中の一文です。
下線の部分は、田村誠一氏が、付けておられました。

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第四話  占領軍軍司令官  〝邪馬台国〟256頁

左記の投書は、〝邪馬台国〟に載せられていた。卑弥呼の使いとして、魏の都に行った難升米は、魏の植民地征服のための、最高指揮官に任命されたと投書は教えてくれた。
  前漢の時代に占領目的でヒルゼン高天原を設定した。57年は漢倭国王の金印をもらったのは、漢の植民地が誕生したことを意味していたのだ。小生の説に誤りはなかった。
 後漢から、魏に国が変わったので、卑弥呼は親魏王に任ぜられた。
 魏志倭人伝は倭国が中国の占領地域であることの証明ではないか。
 小生が天照大神は実在したとして展開した古代史の基本には誤りはなかったことになる。
 重要なのは、むしろ朝日新聞の態度である。
いかなる理由があるにせよ、黒田氏の投書は〝邪馬台国〟出版前に入手していたのに、一顧も与えなかった。
 占領軍か否かは邪馬台国では無視できない基本問題だ。学者優先こそ朝日の態度で、権勢におもねることは、この一事で分かる。


私より一言----上記のことで、「前漢の時代に占領目的でヒルゼン高天原を設定した」の部分は、私は現在でも、納得できない部分です。著者の田村誠一氏は、その後、古事記の最初に書かれている神々が、高天原の予備調査をし、イザナギとイザナミが国造りをしていったように、古事記の解釈をしておられます。
上の文ですと、主語は書かれていませんが、中国の前漢の人が、高天原を建設したこととしておられます。 矛盾しますが、田村誠一氏が、どのように歴史に取り組んで行かれたか、見て頂ければと思います。
では、ここに書いてあることは、間違っているのかと言いますと、大いに,朝日新聞に対して立腹しておられることが判ります。


魏志倭人伝の最初に書かれてあることは、
【倭人は帯方の東南大海の中に住み、山島によって国邑をつくる。もと百余国。漢のとき朝見する者あり、いま使訳の通ずるところは三十国】と書かれてあります。
〔使訳の通ずるところ〕とは、中国の使者と言葉が通じるところの意味でしょう。昔、漢の時代には、100余国があったが、その内、今では、占領して魏の国の者がいて、言葉が通じると書いてあります。

〔左記の投書〕の部分は次回に書きます。

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2009.01.10

第四話  高天原 その2

 Page10に書いてあること

 次に八束花園に群成古墳がある。多くは円形で大形である。既掘古墳を見た。封土の高さ十七尺、直径百二十尺、中央に大石槨があって頭蓋骨(前歯に加工の跡)馬具、祭具、剣、玉、矢等の副葬品があった。
 羨道は北に向って居る。発掘に加わった人の談によれば、石槨内には全部朱が塗ってあったそうである。今もその一部を留めている。出土品より見るに、他と同様千二三百年を出ない古墳である。蒜山一帯には、南面に古墳が点在している。それは上蒜山、擬宝珠山まで続いている。上蒜山高原に大古墳がある。西茅部郷原の東大蛇附近には、群成古墳がある。比較的小規模ではあるが、沢山な土器と珍しい馬の埴輪がでている。今、茅部小学校に蔵している。尚附近の河原に、木葉の化石がでる。大森、黒杭附近にも古墳が多い。佐藤秀利氏の畑中出土祝部土器に朱で文字のようなものを書いたものがある。八束には石器時代の遺跡がある。大字下見字中津加茂神社の東の山の中腹「ミダワダニ」と称する地の、前田慶一氏所有の煙草畑の中から、多数の打製石鏃が発見された。これをこの辺では「星のくそ」と呼んでいる。私も数個の石鏃と破片と弥生式土器とを採取した。石材は隠岐の産と言はれている。黒耀石その他である。この山腹は、蒜山一帯を見晴らす勝景の地で、明に古代の石器製作場である。無数の損製及破片が、散布包含されている。附近の谷に毒草とりかぶとが多い。其の他、穴居の趾と思はるゝものが、二川村粟谷東北の山下「オケダワ」にあ

此の下に、
佐竹淳如遺稿 〝神代遺蹟考〟の一部
入手先 東京山中会事務局
    千葉県市川市真間5-14-6

と書かれています。 古いデーターですので、ご自分で確かめてください。

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第四話  高天原

Page11に書いてあること

 高天原がヒルゼンにあったことに、疑問を持たれる方は、先づ佐竹淳如氏の遺稿〝神代遺蹟考〟に目を通して欲しい。
 この遺稿は昭和三年に、勝山中学の英語教師が、僅か一年でまとめられたのである。副題が、高天原は日留山高原だった、である。
 ヒルゼンに高天原があったとの論文の一部は左記で、これは四十頁の一部にすぎない。
佐竹氏はこの論文を、戦時中でなく、昭和三年に書いて不敬罪に問われた。
 この本にもヒルゼンの、大宮大明神に伝はる無形文化財の大宮踊りの歌詞がのせてある一部分は、文化と文物の稿に紹介しておいた。
  歌の文句は天子の子が踊るとなっている。
この踊りがNHKのシルクロードで放映された、天山山脈の南のクチャの踊りと同じではないか。2000年間、ヒルゼンで歌い、踊りつがれて来たのである。
 地形も都としては理想的である。要害と耕地面積の点では日本中でベストだ。

〔ヒルゼンに高天原があったとの論文の一部は左記で、〕でと書かれています。これは、左の10ページのことです。

次回に、10ページをそのまま、入力し直します。


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2009.01.08

第四話  騎馬民族説  週間朝日 56.2.15増刊号

Page 9に書いてあること

〝日本人はどこから来たか〟の増刊号で東大の江上教授は左記 (ブログ開設者、注---8ページの文章----後に掲載) の様な騎馬民族説を発表した。この学説は技術者の常識では、立証不完全である。従ってあくまで仮説に過ぎない。
しかるに仮説を確立されたものとして、歴史学会は理論を展開している。不都合があればこじつけが常道の学会の様だ。
 〝元〟は騎馬民族でヨーロッパを征服したが、日本人だけが騎馬民族と云はれる理由は?
ゲルマン民族は言語がまちまちだ。民族が違って英語を話す民族がある。日本人だけは、言語のルートが民族と関係ある理由?
外来民族の血液型が原住民に変化することを承知なら、日本国内の外来民族の血液型の立証がすむまでは仮説であるべきだ。
 南朝鮮からは出雲に来るのがルートだ。新羅には卑弥呼も渡ったし、日本から文化は流れた。船で何千頭かの馬が運べる証明と馬が何を食べたかの証明が先づ必要だ。
 国学院大学の樋口教授の別稿の学閥に対する意見は?  学問は多数決論理でよいか?

8ページに書いてあること
 〝日本民族とは何か〟 75頁
 ただ、騎馬民族王朝の場合、南朝鮮の任那(日本府)を根拠としていた時代には、倭人の国を征服した形でしたが、畿内に移った応神、仁徳以後は日本の倭国王になりきってしまった。みずから倭国王と名乗り、自分の連合王国の版図のなかに秦韓、慕韓、百済、任那、新羅などの国名をあげているけれども、これは英国が植民地を含めたユナイテッド・キングダムを全体を称してグレート・ブリテンと名乗ったのと同じようなものでしょう。もともと倭国というのは北九州の一部の小さな国だったのですが、だんだん大きくなつて,雄略天皇が上表文を書いたころは非常に拡大していました。そういうことで、中国と対等とはいえないまでも、かなり有力な地位を占めるようになったことをみずから意識して「自分を倭国王にしてくれ」と、かつて支配下にあった南朝鮮のいろいろな国の名前をあげて、それらすべての王者であることを承認せよと中国にせまり、中国側も日本・朝鮮にまたがる大和朝廷の「ゆないてっど・キングダム」を認めた。そのころから日本は、ある意味で東アジアにおける大国にのし上がってきたといえましょう。

 一番下に、
  〝日本民族とは何か〟 75頁
騎馬民族説は、一字一句立証がないとフィクションにすぎない

と書いてあります。

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2009.01.06

第四話  朝日新聞出版  〝邪馬台国〟  その2

このページは、「その2」としました。例によって、私の考えたことです。
 この文章は、朝日新聞社が発行した〝邪馬台国〟に対する批判と、自分の商売が無茶苦茶になったことを書いておられます。
 中国文化大革命を礼賛し、蔭で何万人の人が殺されたのは報道しない。ちゃんと、報道していたら、中小企業の人は、中国と付き合うことはしなかっただろうと。

 歴史を正しく理解することは、現在の生活をする上では大切なことであることを言いたいのに、このページの文章を読んでいますと、朝日新聞社への批判と自分たちの商売がうまくいかないことの愚痴に聞こえます。

 しかし、その腹立ちさが、田村誠一氏の歴史に対する基本姿勢になっています。主観に基づく歴史の解明は、意味がないということです。どのような小さなことでも、客観的な資料に基づいて、物事を考え、それぞれに証明が必要だとされています。
 2000年も昔のことを述べるために、一々、証明などできるわけがないと思われるでしょうが、そのようなことはありません。
 ご自分が仮設らしきことを書いた以上、とことん、証明できるものを探しだしておられます。

 63ページの小冊子とは言え、非売品とは言え、これぐらいハッキリと書きますと、朝日新聞社から訴訟をおこされたら負ける恐れがあります。冊子には、名前も住所も書いておられます。
私の様に、自分の名前も書かないで、この文章をかいているのと、えらい違いです。

この冊子を出版された時は、まだ、歴史に興味を持って間なしだと思います。なのに、朝日新聞に挑戦状を出したようなものです。勝つと自信があるのは、「取上げた多数の項目の中に九州説を肯定する材料は皆無で、朝日の筆の魔力で読者を迷はせたのである」との部分です。歴史上の資料がなくても、「もし、この時期に邪馬台国があったとすれば、九分九厘まで北部九州沿岸地方であり、・・・・・」(135ページ) と断定できるほどの文章になっています。
 とは言うものの、この7ページの文章を読んだ時に、意味が良く判りませんので、〝邪馬台国〟を古書店で購入しました。ずっと、通して読みましたが、私も歴史に興味をもって、日は経っていませんでしたから、すっと、読んでなるほどと思っただけでした。

「この前年には朝日は、〝野生号〟で倭人伝と同一コースの航海に挑戦した。対馬海峡は黒潮のため、えい航してやっと渡ったのである。南朝鮮と九州はいくら近くても、渡れない」
この文章は、どのように思われますか? 別にどのようにも思いませんでしたが、最近になって、なるほどと思うようになっています。
 勿論、7世紀頃になりますと、対馬海峡をまっすぐ渡ってきたようですが、2000年前は無理だったでしょう。それでも、大陸からは、日本に多くの人が渡ってきた証拠がいっぱいです。
 田村氏のエネルギーは、嘘の歴史を書いた朝日新聞社と、報道しなければならないことを報道しなかった朝日新聞社に向けられたのではないかと思えるほどの意気込みを感じるページになっています。

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2009.01.05

第四話  朝日新聞出版  〝邪馬台国〟 page7

朝日新聞社は昭和51年に〝邪馬台国〟を出版した。これは同文献の134頁にみられる様客観的でなく、邪馬台国は九州説の主観に基いて執筆されている。
 しかも驚くべきことに、取上げた多数の項目の中に九州説を肯定する材料は皆無で、朝日の筆の魔力で読者を迷はせたのである。
 この前年には朝日は、〝野生号〟で倭人伝と同一コースの航海に挑戦した。対馬海峡は黒潮のため、えい航してやっと渡ったのである。南朝鮮と九州はいくら近くても、渡れない。この様九州説に否定材料を、〝邪馬台国〟には採用していないから、主観的だ。
 中国文化大革命を礼賛し、蔭で何万人の人が殺されたのは報道しない。最近は中国が大量のプラントを解約し、我々中小企業は困っている。正確な中国情報の提供を怠って、プラント契約者を批判できるのか。
 常に権勢におもねって、客観的情報の提供を怠っていることが、邪馬台国問題にも云えるのである。             


私からの一言----いつも一言と書きながら、長すぎますので、一言。
明らかに、朝日新聞社に対する批判のようですが、そうでもないのです。文章全体を読んでください。

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2009.01.01

第4話 古代史学の謎  その3

前回と同様に、今度も私の考えたことです。
5ページに田村氏が書かれたことに対する私の感想です。

 こんな短い文章なのに、三部に別れています。言いたいことはいっぱいあるのに、「古代史学の謎」のタイトルを1ページで収めようとしました。書いていましたら、気がついたら、三部に分かれていました。
① 歴史界では、どうして、反論しないのだ 樋口教授が言われないのであれば、私が名指しで言おう。そして、騎馬民族説は、誰が考えてもおかしい。東大の先生です。

②ご自分は京大の卒業なのに、京大閥という言葉を使ってまで、古代史は東大に牛耳られたことを嘆いておられます。

③次は丸山ワクチンのことです。丸山ワクチンはご存じですか? 丸山ワクチン と書いてありますから、インフルエンザなどと同様に、免疫の理屈を取り入れた予防薬の様でしょう。違うのです。癌のひとに使うと状態が悪かった方が、どんどん、症状が良くなられました。だから治ったのかと言いますと、やはり治らなくて、亡くなられたのだと思います。思いますとは、無責任のようですが、私は医学者ではありませんから、知らないという所が、正確なことになります。
 聞いた所によりますと、病気になりますと、血液検査をします。正常値と言う言葉を聞かれたことがあると思います。そこから外れている人は、病気だという考え方が普通です。たとえば、カルシウムが足らないようでしたら、カルシウムを増やして説液の中のカルシウムの量を増やそう。コレステルの数値が高ければ、コケステロールを多く含む食べ物を食べないようにしようという考え方です。
 本当は、このような考え方は、正しくありません。動物は死ぬ寸前まで、生きようといろいろのことをして、死なないようにしています。もし、コロステロールの値が低いのであれば、コレステロールを多く含んでいるものを食べようとはせず、どうして、脳は、コレステロールの値を下げようとしているのか、その理由が判れば、その部分を改善すれば、コロステロール値は正常値に戻る筈です。

 お解りですか?
上に書いたことは、正しいかどうか、お医者さんに聞かないで、自分で調べてください。
丸山ワクチンを使われた患者さんは、この血液の生化学的な数値は、異常値がいっぱいだったのが、どんどん正常値に改善され、それだけではなく、一般的な所謂気分が、良くなって、どんどん治っていかれたそうです。しかし、その内に、やはり、癌に負けてしまって亡くなられたようです。
 勿論、どのかたも良くなられることはなかったと思われますが、当時は、癌に効く安全な薬が無かったので、有名になった薬です。もう45年ほど前のことになるでしょうか?
このくすりは、調べればすぐに分かりますが、ある大学の丸山先生という方が、開発されたものです。正確に言いますと、薬とは言わないそうです。治験薬と言って、まだ実験をしている最中のものであったと聞いています。
 そのようなものは、副作用が多いかも知れませんから、多くの実験をして、副作用がないことと、効果があることを確かめて、政府が薬として承認してから許可され、薬となります。
 当時は、薬として認められていても、副作用が多かった薬がいっぱいでした。ところが、この丸山ワクチンは、副作用らしきものはなかったと聞いています。使い始めますと、見事に症状が良くなりますので、使われる先生(治験用と言って)もおられて、話題になりました。癌には効かなくても、痛みがとれたり、楽になるのであればいいと思われますが、薬として許可にならなかったものです。
 10年ぐらいは、問題になった治験薬です。今でもあるのではないでしょうか?

それが 古代史学の謎 とどう関係があるのかと言いますと、全く関係ないのに、田村氏は、ここに書かれました。
 許せないと思われたのです。
丸山ワクチンがどういう次第で、薬として認められなかったのか、詳細は知りませんが、新聞報道を見直すだけでも、経過は分かると思います。

田村氏は、医学の分野で学閥が優先されたと理解されているのだと思います。

この第4集を手にした時に、同時に、『丒のたわごと』前編 ガンよ、おごるなかれ 中編アマゾンに学べ 80ページの冊子 『子のたわごと』---癌予防への提言--- 左開きで34ページまで。 左開き、すなわち、後ろから、34ページまでは、『汗に生きる』石川 正著 「私の健康観より抜粋」となっています。

この奇妙な2冊の本を頂戴しました。
『丒のたわごと』には、前編、中編があるのに、後編がありません。ところが、実際は、61ページより、読売新聞の昭和59年12月26日の大阪の加美遺跡の方形周溝墓の報道を掲載しておられます。次のページからは、「偽史が証明された歴史教科書」のタイトルで18ページ続いています。この小冊子は、売るためではなく、知っている人に読んで頂こうと造られたものです。
 ただ、それだけかと言いますと、田村氏は、当時としては、なかなか治すことができないことに、ある者が言われた「ガンは熱によわい」その後、癌はストレスによってなるとかも言われました。いや、汗ともおおいに関係があると言い出したのは、同じ京大出の石川という人です。この方は、経済学を勉強した人ですが、汗とウンコの研究など、多くの研究の末、汗をかくことの重要性、しかも、身体の表面を温めて汗をかくのではなく、身体の中から温めるとガンは
熱に弱いから癌はなおるとの理論から、石川式サウナの開発となったようです。そして、この製品の発売をされるようになったようです。この製品を売るために、宣伝用に作った
面もあるかも知れませんが、実際に読みますと、そのようなことはありません。
 生き生きと、癌の征服に取り組んで居られる様子が伝わってきます。

京大出の経済学と電気を学んだ人が、医学の勉強で頭がいっぱいになっている様は楽しく感じます。
 そのようなときに、癌患者が楽になると判っているのに、邪魔をしたのは、またもや、東大の連中だということでしょうか?

]無料で配布したというものの、全般は、癌の話で、後半は、「偽史が証明された歴史教科書」ノタイトルということは、またもや、東大の連中が、間違った教科書を書いて居るということでしょうか?

兎に角、これだけのことを書きますと、第4話 古代史学の謎 に書かれた意味が判るというものです。

面白いですね。いや、そんなことを言ったら失礼かも知れません。 この2冊を発行された59年と60年は、田村氏にとっては、商売もそこそこに、怒り心頭という言葉ピタリであったのではと思っています。
 
 でも、その後、田村氏の凄さが始まったのではないかと、想像しています。 東大閥の連中には、負けないとの気持ちがいっぱいだったと思います。すべて、東大閥の邪馬台国は九州に対抗するための、資料あつめが始まったと思います。
 その後は、確かめた段階で、間違っている所の指摘をされています。

よく言いますね。素人が少し勉強すると、有頂天になって、自分が一番正しくて、他の人は、すべて間違っているというパターンです。

如何でしたか、このように考えませんと、第4集の今後の意味が判らなくなります。

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