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2009.02.28

第四話  古墳  岡山県

県史シリーズでは、大和を除けば岡山県が最も多い。鳥取県と岡山県に大形古墳が多くしかも、ヒルゼンの山奥にも古墳がある。津山周辺だけで前方後円墓が約70あることは、古代文化は九州ではなく、中国地方を縦断した地帯にあったことだ。
 古代吉備の国は広島県の山奥の三次盆地まで伸びていた。高梁川の西岸からが玉の国である。難民が主体であると述べた。
 高梁川の東岸が邪馬台国で、ここは貴族が多かったから古墳も大形が多い。ここに七万戸の人口はあてはまる。
 玉の国は五万戸である。死んでも大形古墳はは作れない。反対に寺を寄進したことが左図は示してくれた。極楽浄土に行きたいことは貴族も難民も変わりはない。ただ難民と申し上げても、国を捨てた時は難民だつたが、稲作で急激に裕福になれたことを、廃寺が教えてくれた。廃寺になったのは、芦田川の草戸千軒(〝古代山陽の遺跡〟参照)と全国に、商人として発展して行った証明だ。


P38


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2009.02.25

第四話  古墳  福岡県と鳥取県

山川出版社が県史シリーズを出版された。同一企画だから、各県の古代の比較の参考になる。左は福岡県と鳥取県の古墳の分布だ。
 古墳は少く共当時の豪族を葬ったものである点に異論はないであろう。先づ鳥取県の前方後円墓と大型古墳が倉吉平野と米子平野に如何に多いかに留意して欲しい。
 これに比べ福岡県は面積が3倍で、同じ、程度の古墳は三分の一である。九州説の伊都国の糸島や対岸の本土は平地もなく古墳を作る余地もない。九州説伊都国の古墳は福ノ上族ゆかりの地名である。
 遠賀川流域は神武東征の時、岡田宮のあった所である。筑後川流域も福ノ神族ゆかりの地名が多い。
 九州に古くから文化があり、大和に東漸したと云はれてきたが、古墳だけ較べても、倉吉に文化が劣っていた。
 倉吉は倭人伝で笛の国(不弥国)のあった所にふさわしい文化が残っている。

Fukuoakofunn


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2009.02.24

第四話  植生〝邪馬台国〟46頁

P-35

わざわざ植生を、朝日はとりあげている。邪馬台国のあった時代だけの、しかも九州だけの植生を論ずればよい。
 照葉樹林説を唱えれば、九州には邪馬台国の時代に照葉樹が繁り、けだものも沢山居ったと考える。狩猟で食物を入手していたと考えるだろう。 
 人工破壊で松に植生が変はると〝邪馬台国〟に書かれれば、読者は九州は古代は照葉樹林だったと考えるだろう。
 火山灰に覆われた所は如何に不毛かは、ビルの中では分からない。ヒルゼンも火山灰に覆われている。京都盆地よりも広い耕地面積だが、6000人の食糧しか取れないでいる。
  九州には、アソ、ウンゼン、キリシマ等の火山がある。これも自然破壊ではないか。しかも人工破壊以上である。古代も現在同様九州全土松が生えていたと考えたい。
 倭人伝に各種の照葉樹があったと書かれた以上、植生も九州説否定材料だ。

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2009.02.23

第四話  植生〝邪馬台国〟46頁

わざわざ植生を、朝日はとりあげている。邪馬台国のあった時代だけの、しかも九州だけの植生を論ずればよい。
 照葉樹林説を唱えれば、九州には邪馬台国の時代に照葉樹が繁り、けだものも沢山居ったと考える。狩猟で食物を入手していたと考えるだろう。 
 人工破壊で松に植生が変はると〝邪馬台国〟に書かれれば、読者は九州は古代は照葉樹林だったと考えるだろう。
 火山灰に覆われた所は如何に不毛かは、ビルの中では分からない。ヒルゼンも火山灰に覆われている。京都盆地よりも広い耕地面積だが、6000人の食糧しか取れないでいる。
  九州には、アソ、ウンゼン、キリシマ等の火山がある。これも自然破壊ではないか。しかも人工破壊以上である。古代も現在同様九州全土松が生えていたと考えたい。
 倭人伝に各種の照葉樹があったと書かれた以上、植生も九州説否定材料だ。

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2009.02.22

第四話  水行陸行〝邪馬台国〟96頁

福ノ神族は中国の占領軍だった。中国は南船北馬である。華北の日常の交通手段は馬だが、騎馬民族ではない。中国は民族のルツボで、仮に本に渡来した一部の貴族が馬に乗ったから、日本民族は騎馬民族と、唱えるのは、き弁である。
 華南は船かがないと全く移動できない。朝鮮は中国に占領された期間が長い。この時も山東半島と朝鮮の間は船が交通手段である。
 中国人は弥生期以前の日本人よりは航海にたけていた。先住民が稲作技術を日本に導入出来た理由はない。
 〝ヒルゼン古事記〟で境港(古代は日向浦でこの地名は現存)から陸行で津山に来たと述べた。後の出雲街道のルートである。
 津山から吉井川を下れば西大寺ヤマトまで十日で行ける。
 戦前には京都の保津川の様な急流でも、舟は両岸からロープで引張って、遡っていた。
 古代の内陸の交通手段では舟運は常識であった。

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2009.02.11

第四話  沖ノ島 海の正倉院

NHKのテレビが、福岡の沖合70キロの海の正倉院,沖ノ島を放映した。人の到底住める様な島ではなかった。 
 
ここには コメントを書かないでください。この2ヶ月 あまりにも多いので、【楽しい人生は】
は閉鎖しないとしかたがないなと思っています。


Photo


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2009.02.07

第四話  鏡論争 〝邪馬台国〟86頁 

神獣鏡について、倭人伝に興味のある方はご存じの筈だ。魏から100枚の鏡をもらったのに九州から一枚も出ないため、大騒ぎをしている。これこそ九州に邪馬台国がない証拠ではないか。
 
 難升米は、魏の植民地占領軍の軍司令官に任命され、都に長期滞在していたこの間に特製されたので、朝鮮で出土する筈がない。
 漢では墓に剣と玉と鏡を入れるのが礼儀である。日本占領中に戦死した将校は一枚づつ副葬されたまでである。鏡も一種の慰問物資にすぎない。
 九州の前原町の古墳で沢山の 漢の鏡が出土することは、船は境港に向っていたことになる。神武東征の時の、華南からの船は鹿児島から瀬戸内海に進んだ筈である。
 九州の出土品が弥生後期には貧弱になって、小生の説の立証に役立ってくれる。


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2009.02.05

資料 大崎廃寺

岡山市大崎にある。足守川中流域の東岸山裾部に位置し、平地部に造られている。
廃寺の北側の山には、多くの古墳があり、大崎古墳群の中には、7世紀代のものもあるらしい。知足院古墳などの後期古墳が50基前後集中している。周囲には4,5世紀のものとして佐古田堂山古墳や小盛山古墳などがある。
 3.5キロ南に山陽道が走っている。高松城址の北西に位置する。

発掘調査はされていない。が、塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。
瓦--山背北野廃寺出土瓦と類似した7世紀前半の有稜素弁八葉蓮華文軒丸瓦を採取。
山背の秦氏と関係があるかも知れない。
水切り瓦出土、栢寺廃寺との関係あり?
以上 『吉備の古代寺院』p13より。           H21.02.05

地図あり、http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kodai-jiin/01.html
水切り瓦の拓本もあります。
「佐古田堂山古墳」「小盛山古墳」の写真があります。
http://homepage2.nifty.com/kodairoad/2008/1_80.htm

大崎廃寺地図
http://www.isekiwalker.com/iseki/135977/  地図をご覧ください。竜王山があります。この山の麓には、いつのことか判りませんが、全国的に、中国人が住んでいたと考えますと、辻褄が合います。鬼ノ城の表示も見えます。ここは、これらの中国人が立てこもった所だと考えています。少し、地図を西へずらしますと、「高尾山」が見えます。これは、イザナギの系統の人が、基準にした山ではないかと考えます。
【高尾山】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html
【大崎廃寺塔跡】http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/33okayama/osaki/osaki.html

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2009.02.04

資料 秦原廃寺 (はだわら)

http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phhatahaijisojya2.html に掲載されている
総社市教育委員会の看板の文章。 (心礎の写真あり)

岡山県指定重要文化財 秦廃寺(秦原廃寺) 昭和34年3月27日指定
古代、日本に伝来された仏教は、聖徳太子の出現によりその興隆期を迎え、大化の改新を経て、聖武期にその最盛期を迎えた奈良仏教へと発展していきます。
この秦廃寺は、現在不動の心礎及び礎石は各一をとどめるにすぎませんが、出土する瓦等から、飛鳥時代に創建された岡山県内最古の寺院跡とされています。
当時の寺域、伽藍配置等については明確ではありませんが、寺域は、東西一町、南北一町又は一町半と想定されます。
また、伽藍配置については、寺域の南限、かって柱根一を出土した付近に南門、その北東の塔心礎の位置するところに塔、その西側に金堂、それらの北側に講堂跡が存在したものと考えられます。

ここから出土する軒丸瓦は、二種類が確認されていて、その一種類が、岡山県内で最古の飛鳥様式の八葉単弁の蓮華文の瓦で、もう一種類は、吉備式と呼ばれるものであります。
      昭和57年3月 総社市教育委員会

『吉備の古代寺院』の秦原廃寺の部分を読むことが出来ます。
http://books.google.co.jp/books?id=WRZzg7glaBUC&pg=PT102&lpg=PT102&dq=%E7%A7%A6%E5%8E%9F%E5%BB%83%E5%AF%BA&source=web&ots=6iqqNCRcMQ&sig=VuOHr9UgynjVRLz0DaarGbhoyfQ&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=5&ct=result

廃寺の場所は、総社市秦です。総社の西に位置する。少し、詳しい地図で眺めて頂きますと、凄い所に造られています。高梁川の右岸(西岸)で標高20~24mぐらいの山と川に挟まれた所にあります。地名としては、秦の南北に、上秦、秦下、南秦、中村、橋本、山の麓には、天神谷、山根があります。山根のところに180mほどの「城山」がありますから、総社の方から西へやってきたときに、「城山」が目印になり、橋本は、ずっと後になってできた集落ですが、古くは、ここに橋があったのではないでしょうか?
行ったことが地図ありませんので、このように地図で判断しますと、麓にそって、上秦から秦下に曲がった道路があります。これが古代からあった道路と思われます。他はすべて、真っ直ぐの道ですから、新しい道と思われます。
 川から麓までは、600メートルほどですから、寺が建てられた時は、もっと、川が寺の傍を流れていたと思われます。
 凄い所と書きましたのは、どうして、川が氾濫すれば流されるような危険な所に建てたかです。危険を冒してでも、重要な地点であったことになります。
『吉備の古代寺院』には、寺跡の周囲の関連しそうな古墳を挙げておられます。
南南西約1キロの山頂部に石棺内に須恵器を納めた5世紀中葉の秦金子古墳一号墳。
南西約1.5キロに波形石製家形石棺を納めた6世紀末の金子石塔塚古墳。
南西約2.5キロの竜山石製刳抜式横口式石槨の長迫二号方墳などがあります。
 外に、南西約4.5キロに6世紀末~8世紀の板井砂奥遺跡があり、これは、大製鉄遺跡群であるそうです。
 この遺跡の西側を南下して下道郡の中心地、箭田大塚古墳や箭田廃寺のある山陽道に出ることになります。
所在地の地名「秦」、和名抄の「秦原郷」からやはり秦氏が挙げられる。発掘調査では直接の関わりを示すものは見つかってはいないが、河原の文様は山背の秦氏との関わりを想像させるものがある。また、鉄生産も古くから秦氏などが関わると言われているのと板井砂奥遺跡も秦氏が関わっている可能性が高いのではと書いてあります。
廃寺の北700mに姫社神社があります。姫社神社は製鉄と関係するとかんがえられ、このこともこの地域が製鉄と関係があることを示していると書いておられます。

 『吉備の古代寺院』では、出土した瓦について、詳しい考察が行われています。
①7世紀前半の素弁八葉蓮華文軒丸瓦が最も古い。類例は山背広隆寺、摂津市天王寺。
② 同時期の他に類例のない素弁八葉蓮華文軒丸瓦も出土している。
③7世紀後半に吉備式重弁八葉蓮華文軒丸瓦を使って伽藍を整備したようである。
 このようにまだまだ、考察しておられます。
その他、押出仏のことも書いておられます。 上に記しました所で読むことが出来ると思います。

今度は、私の考えを書きます。私は知らないことの方が多いのです。京都のことを知りたいのですが、ここはややこしそうですので、手を付けていません。京都に太秦という所があります。ここは、絹の中心地ではと思っていただけです。太秦は、秦氏と関係があると思っていましたら、『吉備の古代寺院』では、鉄と関係があると書いておられます。
 何分プロの方ですから、ここに書いてあることの方が正しいのだと思います。

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2009.02.01

第四話  高地性集落 〝邪馬台国〟91頁

高地性集落は瀬戸内海に、弥生初期の後半に発生した。比較的低い山の、周囲が見晴らせる所に防さいが築かれた。
 村上、甲元、伊東三氏の〝山陽の古代遺跡〟128頁に、この地図が示してある。広島から岡山にかけて、全くないに等しい所が、玉の国(投馬国)だった。
 華南からの難民は、玉の国の高地性集落のない所には自由に侵入出来た。次には更に華南から遠い、西大寺ヤマトの地域にまで侵入を計ったから、この南の児島半島にまで高地性集落が出来る。
 難民は舞鶴国の命令も聞かないし、年貢も収めないから大乱になった。難民は何十年にもわたって来たので倭人伝にまでこのことが書かれた。
 高地性集落は弥生の後期にも発生する。これは神武東征のときの大量の華南から呼び寄せた屯田兵が対称だった証明だ。
 卑弥呼を共立して玉の国が誕生し、地域協定と年貢がかたずいたと考えたい。

高地性集落は瀬戸内海に、弥生初期の後半に発生した。比較的低い山の、周囲が見晴らせる所に防さいが築かれた。
 村上、甲元、伊東三氏の〝山陽の古代遺跡〟128頁に、この地図が示してある。広島から岡山にかけて、全くないに等しい所が、玉の国(投馬国)だった。
 華南からの難民は、玉の国の高地性集落のない所には自由に侵入出来た。次には更に華南から遠い、西大寺ヤマトの地域にまで侵入を計ったから、この南の児島半島にまで高地性集落が出来る。
 難民は舞鶴国の命令も聞かないし、年貢も収めないから大乱になった。難民は何十年にもわたって来たので倭人伝にまでこのことが書かれた。
 高地性集落は弥生の後期にも発生する。これは神武東征のときの大量の華南から呼び寄せた屯田兵が対称だった証明だ。
 卑弥呼を共立して玉の国が誕生し、地域協定と年貢がかたずいたと考えたい。

私より一言-----高地性集落のことはご存じですか? プロの方では書いてある方が居られますが、どうして、こんなに沢山あるのか、何のためにあるのか突き止められた方はありません。
これほど、重要なことはないと思うのですが、こちらは、発掘しても、あまり役立つものが出ません。実際に、登ってみますと、田村氏の言っておられることが納得できると思います。
私も真似をして登るつもりになっていましたが、体力的に、駄目なことが判りました。現在、登れるように体力作りをしています。
大阪府柏原市の高尾山頂遺跡や兵庫県芦屋市三條町 の会下山遺跡は感動の地でした。

出来るだけ登るつもりでしたが、資料すら集まっていません。この高地性集落の麓が、絹の道だったと思っています。これまでに、集めた資料を次のアドレスに載せています。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html
 高い所に登りますと、の一帯が良く見えてきます。

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