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2009.03.30

第12話 古事放談 1-2

8 吉備にあった漢の古墳
 9 中国人が書いた日本書紀
 10 九州になかった邪馬台国
 11 卑弥呼の墓だった箸墓
 12 河を忘れた古代史
 13 建国の日は正しかった

 この冊子の特徴は全て根拠が示してあることである。しかも根拠にしたものは古事記日本書紀と国土地理院の5分の1の地図の外は中国の魏志倭人伝等と朝鮮の三国志史記である。
 記紀の影響を受けた資料は原則として使用しなかった。
 小字や大字だとそこに住んだ人は同じ氏族だから地名を考えることが役立つ。しかし村名になると地形などが取り入れられ、町村合併では歴史は分からなく。
 市は重要な地域だが旧町村名が消えても何も歴史を教えてくれなかった。
 地形図は古代人に取って生活環境のよい所を教えてくれる。ここにどの様な地名が多いかが古代史を解くのに役立ってくれる。

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2009.03.29

第12話 古事放談1-1

倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-1

 大山・蒜山国立公園の蒜山高原(以下ヒルゼン)に高天原が
あったと教えられたのは55年の夏だった。ここにささやかな
山小屋を持っていたので、目をさまされたのである。
 元来が電気ヤである。古事記や日本書紀は見たこともない。
記紀とは何のことかも友人に聞いてやっと分かった次第である。
 高天原を知っていると述べれば昭和ッ子でない証明だ。
 面白半分に書いたので、もちろん手前勝手で贈られた多くの
友人にはチンプンカンプンでご迷惑をおかけしたことである。
 小冊子が13冊になったので、まとめとして≪卑弥呼の霊に捧ぐ≫
を57年夏に出版した。第12話は今回改訂版にした次第だ。

 1 神々のふるさとヒルゼン
 2 地図が解いてくれた倭国と邪馬台国
 3 ヒルゼン古事記 
 4 西大寺ヤマト
 5 古代史と大江山
 6 正史だった古事記
 7 崇神天皇の妹だった卑弥呼

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2009.03.28

第12話 序言---2ページ

古代史の裏付けとして神社を調べて行く内に意外な事実が現れて来た。
 隠岐の百数十社の神社の祭神は古事記の神代に登場してくる神だった。 しかしこの隠岐で藤原が幣帛料を出すために選んだ式内社の祭神に限って、神代にもどこにも登場しない素生が分からない神だった。
 伯耆の神社の全ての神社の神々は神代に登場し隠岐に共通の神を祀った神社があったのである。
 式内社の祭神を学者が3132社の内約半数調べた資料で天皇を祀った神社は一社も含まれてなかったことが判明した。
 これから得られた結論は藤原は天皇の敵で味方ではなかったことだ。
 天皇は雲南系だし藤原や倭の五王は漢民族でよかったのである。
 マッカーサーの様な占領政策が11世紀まで続けられたのである。
 古事記が天皇家の従って日本の正史であり日本書紀は占領軍の不比等が創作した欺書だったのである。

私からの一言
 短い文章ですが、内容は充実しています。
①「隠岐の百数十社の神社の祭神は古事記の神代に登場してくる神だった」を調べるには、大変なエネルギーが要ります。このことを全部頭に入れませんと、意味が判らないと思います。
隠岐島の神社--2
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page213.html
に記して置きましたので、ご覧ください。見ただけではなにも解りません。全部、手書きで写して貰いますと、いつかは役に立ちます。

②「隠岐で藤原が幣帛料を出すために選んだ式内社の祭神に限って、神代にもどこにも登場しない素生が分からない神だった」
 このことは、未だに確認できずです。神社のみを書いておきましたので、調べてください。 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1210.html
隠岐は16社あります。伯耆は、たったの6社で、狭い島が16社。これだけでおかしいと思わなければなりません。

③「伯耆の神社の全ての神社の神々は神代に登場し隠岐に共通の神を祀った神社があったのである」
 たったこれだけの文章ですが、これを確かめようと思いますと、1年はかかりそうです。
今、確認をしようとしている最中です。鳥取県神社誌を読んだだけでは覚えきれませんので、鳥取県の神社をすべて、頭に入れる作業をしています。
一つ一つの神社の資料は、http://asilka.blog61.fc2.com/ に毎日、保存しています。いつ終わるか判りません。鳥取県では、現在の所、西伯郡に多くの神社があることが自然と分かってきます。素盞鳴尊が多く祀られていることも。

④「式内社の祭神を学者が3132社の内約半数調べた資料で天皇を祀った神社は一社も含まれてなかったことが判明した」
 この部分は、日留山人氏の研究ではありません。どなたが発表されたのでしょう。一社もというのは、間違いだろうと思います。でも、少ないことは確かでしょう。調べてください。

①~④まで、調べられますと、
〔 これから得られた結論は、藤原は天皇の敵で味方ではなかったことだ。天皇は雲南系だし藤原や倭の五王は漢民族でよかったのである〕の結論が導くことが出来ます。

どれか、確認の作業に挑戦してください。
例えば、鳥取県神社誌を読もうとします。大阪・兵庫では、持っている図書館は、一ヶ所です。コピーをするだけで、大変です。後ろに待っている人から叱られるほど、膨大なものです。
読んでも余程、興味がないと頭に入りません。全部書き移して、素盞鳴尊を祭った神社は、何件あるかなど、いろいろ調べているうちに、頭に入ってきます。

全部調べても、「倭の五王は漢民族でよかったのである」などは結論として浮上しません。
倭の五王は、歴代の天皇ではありません。

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2009.03.26

第十二話を始める前に

12


「田村誠一氏に捧ぐ」のフォルダー名で、田村誠一氏が出版されました冊子をそのまま掲載してきました。第4話が終了しましたので、次回から、少し飛ばして第12話 「河を忘れた古代史」を連載します。毎日ですと、考える時間がなくなりますので、数日に一回(一ページずつ、)の程度で掲載します。
 今回、表紙を掲載したのは、理由があります。ごらんの通り、赤色です。これまでは、すべてカラーですが、大人しい色ばかりでした。どうして、このような色になったか、読みながら、考えて頂けばと思います。

 12話から変わったことは、まだあります。著者の名前が、「日留山人」です。これは、「ヒルセン人」です。ヒルゼン高原(蒜山)のことです。現在は、ヒルゼンと「セ」濁って読んでいますが、昔は、「セン」だったと思います。11話までは、すべて、本名の田村誠一です。
 もう一つ大きな違いは、11話までは、無料でしたが、有料で600円となっています。私が持っている第12話は、改訂版となっています。第1版 昭和56年12月25日の発行。評判が良かったようで、第2版 昭和57年10月15日の発行となっています。

第13話 日留山人著 「建国の日は正しかった」 昭和57年2月11日 750円 
     日留山人著「卑弥呼の霊に捧ぐ」   昭和57年8月15日 2200円
 の広告が、裏面に書かれています。

 私の考えでは、いくら立派なことを書いても、無料では駄目だと思われたのではないでしょうか。
 もう一つは、第八話は持っていませんから、どのような内要か判りませんが、11話までは、すべて各論だと思います。3ページの所で、これまで出版された冊子のタイトルを書いておられます。
 各論は、いくら詳しく調べても駄目だと思われたのではないかと思います。たとえば、三角縁神獣鏡のことをいくら詳しく調べても、日本史は解らない。古墳のことを調べても、解ることは、死んだ人がどのような人であったかが分かるだけです。100個の古墳を調べて、分析しても、やはり、日本史は解りません。
 この12話は、日本史を研究しておられる方は、「河は忘れていませんか」と問いかけられたものだと思います。
 人間は生きていくには、「水」と「塩」が必要です。となりますと、先ず、海の傍から住むことを始めて、河を遡って行ったと考えるべきでしょう。
 縄文時代ことになります。日本の縄文時代の遺跡は多く発見されて詳しく分っています。では、日本の縄文時代の歴史は分かっているかと言いますと分かっていません。
 例えば、日本の古代は、すべて、朝鮮と中国から、九州へ入って来て順番に全国に広まったと考えているから、古代史は、よく解っていないことになります。
 では、どこがいけないのか、
こんなことを考えながら、第12話を読んで頂ければと思います。12話が終わりましたら、又。第五話から掲載を始めます。
 このコーナーは、そのまま、コピーして頂きますと、ご自分の文章に取り込めますので、利用して頂いて結構です。その代わり、必ず、「田村誠一氏の著書より」と書いてください。
 お金がある人は、できれば、復刻版を出して頂けますと、日本の歴史は随分変わってくると思います。
 残念ながら、アクセス数は、30から80の間です。従いまして、本当に読んで頂いている方は、30人ぐらいだなと推察しています。せめて、100人ぐらいの方の目に触れれば嬉しく思います。     H21.03.26

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2009.03.25

第四話 旅行記でなかった魏志倭人伝

左記は朝日新聞がまとめた最新の〝続・邪馬台国のすべて〟に載せた地図である。朝日新聞がこの地図を発表すれば、国民はこれがホントだと信ずる筈だ。
 主観的に九州をPRしている小生が主張する理由の一つだ。この地図は魏志倭人伝を旅行記として読んでいる。誰が読んで倭人伝を旅行記と云えるだろうか。
 三国志は中国の重要な国史である。ついでだが古事記も中国と同一民族の人が、前文にある様に誤りを正した国史である。
 三国志は倭国以外の国も、前文に地理、後半は歴史で統一して書いてある。例えば騎馬民族で一番大きい高句麗は人口三万戸にすぎなかったことも参考になる。
 海流を横切って対馬海峡を渡ることと、出雲から新羅に渡海することと何れが簡単かも地図を見て考えて欲しい。
 地図でついでに華南から日本に来ることは如何に容易かを考えて欲しい。黒潮に乗れば何万、何十万でも来られる。

私から一言--第四話はこの記事で終了です。田村誠一氏の腹を立てておられ様子が、ありありと感じられる一冊でした。多くの方は、なにを云って居るのだと思われたと思います。
 9割の方は、魏志倭人伝に書いてある邪馬台国が九州だと思っておられますから、いくら田村氏が、説明し様が、だれも耳を傾けません。
 朝日新聞の方は、こうした全国の学者のかたの説明を集めて書いておられますから、皆さんも、なんら疑問を挟む余地もないと思います。
 学者の方が、論文を書いたり、本を出版したり、講演会をしても、精々、一度に、3000人ぐらいのことでしょう。
 朝日新聞は、購読者の10分の1の人が、読まれても、100万人の人が、頭に入れられたことになります。その影響力は莫大なものです。
 最終回は、穏やかな文章になっています。
でも、こんなことでは、負けて居れないと、研究は進みます、ある程度完成するごとに、本の形にされましたが、やはり、誰からも認めて貰えなかったと思います。
 次回からは、第五話は飛ばして、第12話をお伝えします。

掲載しました地図の上をご覧ください。不弥国は、遠賀川の上流にある飯塚市になっています。これは、飯塚市の教育委員会も認めておられることです。
 ここには、立岩遺跡があります。この遺跡から出土したものから判断されたと思います。
 本当かどうか、調べる気になっています。一回目は、次に掲載しました。
No542 天孫降臨(115) 九州・立岩遺跡 
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-03-24

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2009.03.23

第四話 湖南人?  新羅人 〝邪馬台国〟 154ページ

上記文献に日本人の血液分布は、湖西省とハンガリー人にだけ見られる独特の血液分布だと書かれている。
 日本人と華南人の血液型が似ていると指摘したのはオッテンベルグや古畑種基氏である。
 赤城毅彦氏は〝古代日本人の謎を解く〟で種々の角度から華南人だと立証している。
 これに対し江上氏の騎馬民族説には納得の行く証明が残念ながら出くわさない。
 これは日本民族の問題である。丸山ワクチン式に密室で処理しないでほしい。週刊朝日の56/02/15増刊号で国民はなぜ騎馬民族なのか分った人があるだろうか。
 朝鮮経由位分かり難い説明はない。朝鮮は古代からあらゆる民族に占領されたことがある。従って朝鮮経由なら、はたしてどの民族かの説明が欲しい。
 日本に先住民が居ったのを全部殺したのであれば少人数でも、その渡来民族であってよいだろう。しかし、進駐軍が極めて僅かで血液型も変わらない位の時の民族の定義が先決だ。

私より一言---このページは、私にとっては、難問です。理解するには、丸山ワクチンのことと週刊朝日の56/02/15増刊号の内容を読む必要があります。
 DNAを比較検討するならば、理解できますが、血液型の分布のみで、日本人のルーツは、華南人であると結論付けるのは、無理でしょう。はっきりと華南人とは、どう言う人たちを言うのか、定義が必要であり、血液の検査をした人が、ここ300年ぐらい、同じ地域にすんでいたことを確かめませんと意味がありません。実験動物は、何代にも亙って繁殖させたねのを使用します。 例えば、犬であれば、どのように実験しても良いことにはなりません。雑種などを使った実験などは、なんの意味もなしません。


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2009.03.22

第四話  舶来文物と文化   55ページ

高松塚古墳の壁画は奈良の文化である。正倉院の建物は奈良の文化だが、内容は文物である。しかも舶来品である。奈良の文物遺産に過ぎない。
 この文化と文物の違いがはっきりしない学者が如何に多いことか。
 九州説を唱える根拠の一つが、糸島半島の古墳の出土品である。この出土品の沢山の鏡は舶来品であった。これを九州に文化があったことの証拠に使用した。この鏡が国産品なら文化があった状況証拠の一つになる。
 舶来品なら、舶来の文物であり、文化ではない。古墳も建物も同じで、技術者を呼んで来ればよいから、文化があったことにはならない。しかし、沢山の古墳群があって始めて文化があったと称してよい。
 文物は足が生えてペルシアからでも移動が可能である。しかし、天山山脈の2000年前の踊りがヒルゼンに今も伝えられ、大宮踊りとして残っている。これは文化ではないか。
 文化と文物を九州説は混同も甚だしい。

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2009.03.21

第四話  地勢  〝邪馬台国〟45ページ

何時の世にも、都はなぜその場所に選ばれたのか理由があるはずだ。古代には、面積と要害が重要だ。しかも権力で理想的な位置の選定と都市計画が出来た筈である。
 九周節で伊都国を糸島半島に家庭する位おかしな話があるだろうか。糸島半島は離島であった。対岸も伊豆半島ほどではないにしても海岸線にしか住めない。
 都としての立地条件は何一つない、むしろ最悪の地形である。朝日は何を思って、地勢の一項目を設けたか。九州説の否定材料だ。
 九州を旅行した方なら、九州にはアソと湯布院しか内陸部に平地がない。広いアソの盆地は今も不毛で、農業ができない。
 縄文時代の続人口を左の様に多くても、25万人と想定するなら、邪馬台国七万戸、投馬国五万戸、奴国二万戸の人口が、九州の一部にあったと考えられるか。
 数十万の福ノ神族の渡来を、倭人伝は間接的だが証明してくれている。岡山から福山の沿岸にはこれだけの収容力がある。

またもや、私からの一言です。
 白村江の戦いの後、中大兄皇子は、667年、大津へ遷都してそこで即位した(668年)ことになっています。大津宮に行かれたことはありますか?  都の一部が発掘され、都の跡とされています。田村氏の書かれているように、都は、あるべき所になければなりません。
 壬申の乱で勝った大海人皇子は、飛鳥に戻って都を定めています。大津は駄目だと思ったことになります。ところが、天武天皇になってから、信濃に都を作るつもりになったのか、下調べをさせています。飛鳥は駄目だと思ったのでしょう。その後は、何処に都が定められましたか?  
 大津の宮は、中大兄皇子が造ったのではなく、造らせられたと考えています。
 大津の宮は、延暦寺の麓の阪本にあります。ぜひ、訪れてください。

朝日新聞の記者は、九州に行かれなかったと思います。地勢は、45ページから48ページにあります。最初の10行は、福岡市立歴史資料館三島格館長の文章をそのまま、拝借しておられます。三島格氏は、この文を別の意図で書かれたものだと思います。
 次は、大阪に住む自然史研究家の梶山彦太郎氏と地質学者の市原実氏の大阪湾が今の八尾市あたりまで、海であったという研究成果を紹介して1600年前の邪馬台国の時代の頃だと書いています。全く関係ないことです。今の状態を念頭に置くと邪馬台国のあった所を間違いますよと忠告しています。
 次は、植物学の粉河昭平氏、林業試験場植生研究質の苅住昇氏の研究成果。大阪市立自然史博物館の那須孝悌氏の花粉の研究。人間による自然破壊のことは、四手井綱英氏(森林生態学)に語って貰っておられます。
よく、読んでください。新聞記者の言葉は、一つもありません。
新聞記者は、これだけ書いて、だから、邪馬台国は、九州に遇ったと結論づけようとしています。
 これは、別に驚くに値しません。現在の新聞記事は、報道以外は、すべて、このような知識人の話の羅列です。
 田村氏と私の文章の長さをくらべてください。知らない間に、私も朝日新聞の人に腹を立てています。
しかし、33年前のことです。


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2009.03.19

第四話  何を食べたか? 〝邪馬台国〟60ページ

邪馬台国九州説を朝日は支持する以上(134頁) 倭人伝に出て来た十五万戸の九州人が何を食べたかを論ずるべきだ。
 主食をごはんに想定しているが、奈良盆地で十二、三万人分しか米はとれない。(76頁)
 九州の内陸部に奈良盆地位広い 耕作地はない。仮に海岸線に邪馬台国や投馬国があったと仮定すれば貝や魚は食べられる。しかし、五万戸なり七万戸の海岸線なら、何キロの長さになることだろう。
 何を食べたと論ずる前に、九州に十五万戸分の食糧があったかを考えて欲しい。
 西大寺ヤマトではこれだけの耕地面積はあった。主食は福ノ神族は、もちろん玄米食の精進料理であった。
 健康食品だから倭人伝では百歳もの長生きしたことになっている。栄養失調や重労働のない貴族は百数十歳まで生きた人があってもおかしくない。
 これに反し先住民は新鮮でない魚貝や栄養失調で長生きは少なかったろう。

私から一言---このページでは、田村誠一氏は何を言いたかったのかと云いますと、九州に邪馬台国があるというのは、間違いでしょうと。日本の新聞社では、トップの販売力が持つ朝日新聞社が、このような間違ったことを書いた本を売っても良いのか?

一度、図書館で、朝日新聞社発行の「邪馬台国」を読んでください。昭和51年の発行ですから、33年前の本です。前から順番に読まれたら、別におかしいとは思われないと思います。なぜかと云いますと、33年前と今とは、歴史のとらえ方が同じだからです。
 田村氏が、この第四話を書かれたのが、昭和56年です。
 田村氏の書かれた上に書かれた文章のどこが間違っているかと云いますと、間違ってはいません。
では、邪馬台国九州説はまちがっているのか と云いますと、9割の方が正しいとしておられます。
前原市には、伊都国があったのです。そうしませんと、九州の方にとっては、困ることばかりです。伊都国に負けない国がありました。それが吉野ヶ里遺跡です。この遺跡に、どれほど膨大なお金を日本人は、使ったのでしょう。これからも、吉野ヶ里は、お金を使うことになります。そうしませんと、日本政府も、佐賀県も困ることになります。
 今、これと同じことを東京中央郵便局の保存でもめています。大臣が乗り出しました。正しいのでしょうか?

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2009.03.18

第四話  周旋五千里 ---49ページ

一日歩いて出発点から、どの方向に何キロ地点に来たか分かるのは鳩だけだ。
 倭人伝は、三国志の一部だから、他の国についても、地理と歴史がかかれていする。阿部氏の〝卑弥呼の倭王〟から地理の一部を抜粋したのが先である。
 朝鮮の人が書いた三国史記では、「多婆那国(播馬)」は倭国の東北千里となっている。
一里を80米とすれば、、西大寺ヤマトの東北80キロに但馬は位置している。この測量技術は驚かされるではないか。
 左記を見れば韓だけは同じ三国志でも、単位が魏ではなく、朝鮮の単位である。壱岐からは魏の単位であるべきだ。邪馬台国までの旅程は新設に一万二千里と朝鮮の単位だ。
 日本の周囲まで五千里(2200キロ) と正確だ。福浦が青森の下北半島にまで配置されている。城山は既に述べたが、各地の天狗山と愛宕山が測量に一役買っているらしい。
 三国志と同時代に一級の戦略家スサノオの命が活躍したとしか思えないのである。

私からの一言-----地図は読み取ることができますか?
下に書かれてある文章は如何でしょうか?

夫余の戸数を確認してください。読めない時は、
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/fuyo.htm にあります。8万戸とあります。
高句麗は戸数3万戸です。
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/koukuri.htm

地図は、3世紀の頃のものです。前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりである。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置され、漢四郡と呼ばれる。 しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東半島に移転している。
そり頃の楽浪郡は、漢書地理志には楽浪郡は朝鮮県など25県を支配し、その戸数は6万2,812戸,口数は40万6,748人とあります。伊都国は、千余戸の家。奴国は2万余戸。邪馬台国は7万余戸。どうして、日本だけこんなに多かったのでしょう。九州に邪馬台国があったというのは、間違いであることが判ります。

581年に建国された隋は中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗しています。そこで、まず、百済をやっつけるために、新羅と組んで、挟み打ちとしました。やられた百済は、日本に援軍を求めました。(660年(斉明天皇6年) 中大兄皇子が質的な首班となって百済に援軍を出します。これは、中国の策略で、完敗です。白村江の戦いと云います。

P48

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2009.03.16

第四話  条里制 岡山県 ---47ページ

鳥取県は過疎の地で古代には、大和から最も遠い所であった。ここの条里が如何に壮大だったかは〝鳥取県の歴史〟34頁を見てほしい。倉吉は笛の国(不弥国)のあった所である。
 岡山県は左図を見てほしい。山奥の津山に人口の割に完備した条里は何を意味するか。
狗奴国すなはち、久米国のあった所である。
 ここから吉井川を下った所が西大寺ヤマトの都、古都が現存する所である。高梁川までが邪馬台国、西大寺ヤマトである。ヤマトと読むべきことは〝ヒルゼン古事記〟に述べた。
 ここに七万戸の人が240年には居ったが、大部分の人は大和に移動した。条里制は完全に実施されているではないか。 
 高梁川から広島県の山間の三次盆地までが投馬国(玉の国—玉島国) である。〝ヒルゼン古事記〟の難民の福ノ神族が渡来した。
 高梁川の西岸に条里がないことが、難民だった証拠である。倭国大乱は高梁川を挟んで何十年か争はれたのである。


P46


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2009.03.12

第四話  条里制 兵庫県 ---45ページ

条里制とは都市計画である。日本には大化の改新後に条里制が施行された。平城京はその代表だが、見事に破壊してしまった。
 都市計画は文物ではなく、文化である。なぜ文化が過去の方が高かったか。日本に育った文化はあるだろうか。古墳も文化であり、副葬品が舶来品でなければ日本の文化である。
 地名も歴史遺産である以上文化である。これを新住居表示で今また破壊している。自分達だけの便利さを強調したのは郵政省の役人である。歴史を守るには明日香村でも、ヨーロッパの都市でも、ぎせいがが必要だ。
 条里制が破壊されず、発展していたら、新住居表示をしないですんだ。
 左表は兵庫県の条里制である。一大率が指導したから、大化の改新前に、山奥にまで実現出来たと考えたい。条里制の施行が騎馬民族で可能だろうか。出雲街道を途中から加古川を遡って、舞鶴国に行く道が、最古の街道だったと考えたいのである。

P44


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2009.03.10

第四話  廃寺 ---43ページ

古代仏教を一番早く取入れ出来る下地を持っていたのは先住民でも、騎馬民族でもない。福ノ神族は中国から来たので、最初に取り入れた。
 騎馬民族説や九州説の学者は、九州に廃寺がないのを如何に考えるのだろう。鳥取は福岡県の三分の一だが、廃寺は左記(下にコピーを記載)の様に二十二を数える。
 廃寺は過去に、その土地に文化があった立証である。鳥取県は日本最小のあまり人に顧り見られない県である。ここに出雲よりも、大和よりも文化が高かった時代があった。
 法隆寺と同時代に同じか更に大きい寺が、倉敷周辺だけで四つもあったのである。すべてが東京中心のため文化遺産は破壊されるのにまかされているとも申し上げたら失礼だろうか。
 倉吉は倭人伝の不弥国(笛の国)があった所である。高千穂の軍司令部があったから貴族も将軍もここに集っていた。
 九州高千穂説が神話で、ヒルゼン高天原は実話だった立証である。
P42


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2009.03.08

第四話  舞鶴国  (丹後国)---41ページ

〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟で大江山のふもとに舞鶴国があったと、地図で示した置いた。ここには天皇の御座所の天座や天王更には郡使が船を下りた天津、郡使が常駐した勅使の地名まで残った。
 更に天照大神を祭った内宮や豊受神社、皇大神社まで残っている。
 県史シリーズでは、左(下に掲載)の様に大形古墳が丹後半島に、韓国の見える所に集中している。高千穂も古事記でわざわざ韓国に向かっていると書かれた。韓国までも征服して、漢の東域を全部占領することが悲願だったのである。
 卑弥呼は朝鮮の史書に、新羅に使が訪れたと書かれている。九州よりも新羅との交通は便利である。卑弥呼の古墳も恐らく丹後半島にあるのではなかろうか。
 県史シリーズの中に古代文化は丹後から、丹波に流れたとある。九州の文化も新羅の文化も舞鶴国から流れたと考えたい。
 舞鶴国は日本と朝鮮支配の、最良の場所に古代もあったし、今はソ連との基地である。

私から一言-----上に書かれてあることは、全部正しいかどうか 未だに、解りません。
しかし、「ここには天皇の御座所の天座や天王更には郡使が船を下りた天津、郡使が常駐した勅使の地名まで残った。更に天照大神を祭った内宮や豊受神社、皇大神社まで残っている」は本当です。
 ここに書いてある所へは、岡山県の方でも、車で、日帰りで行くことが出来ます。日曜日は、高速が、どこまで走っても、1000円です。ガソリン代はかかりますが、4人でのられまして、スピードを出しませんと、満タンで往復できます。
豊受神社、皇大神社の神社には、感動されると思います。

京都府の地図をご覧ください。丹後と山城にお墓が集中しています。実際にいかれますと、よくわかります。大きな古墳と神社を見て回るだけで、一週間あっても足りません。行ったからと言って、古代のことはなにもわかりません。しかし、この地が重要であったことが自然と分かってきます。


P40


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