« March 2009 | Main | May 2009 »

2009.04.30

古事放談1-27

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-27
**********************************
九州とは一体どんな国だったのだろうか。朝鮮から九州は近いといった地理的な距離だけが古代史で根拠になっていた。
 しかし、240年代の魏との往復はすべて南鮮の沿岸を通っただけである。なぜ南鮮の内部を通らなかったが論ぜられていない。
 南鮮の内陸部を通れないから長距離の航海するなら、九州から江南の方がはるかに近のである。
 これだけの長距離を航海出来る船なら、日本海は湖と同じでしかも風が吹いた時は沖にさえ居れば安全である。
 最近友人が北前船のことを教えてくれた。紀州のミカンを江戸に運ぶことは命がけだった。しかし、関門海峡を越えて日本海を東北まで行くことは安全で、北陸えは物資はこのルートを通ってはこばれたのである。
 大阪人は北海道のコンブを愛用する。このコンブは全て敦賀経由だった。
 話は飛ぶが柿本人磨は流刑で浜田から益田に移される時に妻にあて歌に、都にのぼる時に読んだ歌とあって都には西行したのだ。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.29

地名 鹿塩(3)

3つ目の「鹿塩」は岐阜県川辺町(加茂郡)鹿塩です。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.49575778&lon=137.05220889&ac=21503&az=2&v=2&sc=3
 此の地も山の中です。ここの「鹿塩」には、天皇と関係があるようなものは、なにも発見できません。北東に、宝塚市の鹿塩とおなじようにゴルフ場があるぐらいです。
 もう一つは、地名に石神という地名があるぐらいです。
もう一つは、加茂郡です。全国に加茂郡が3ヶ所あります。この加茂郡には、なにかを共有する人たちが住んでいたと考えるのが普通です。
 知りたいことは、ここの「鹿塩」が天皇家となんら関係があったかどうかです。
 前の二ヶ所のように、鹿も塩も関係はないようです。

もう一つの鹿塩は 下伊那郡大鹿村鹿塩です。
 鹿塩の地図をご覧ください
西に天竜川、東に国道152号線が走っています。天竜川の方は、152号線とは別に、川が並行して走っています。  天竜川と152号線は関連はなさそうです。
多くの道は、川の流れにそって発達しました。152号線は、鹿塩川に沿って走っています。中央構造線が村内を南北に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流しています。村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠です。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入しています。大鹿村は南アルプスと伊那山地に挟まれた山間地帯となります。従いまして、鹿塩川も中央構造線のずれの生じた低いところを流れ、それに沿って、道が発達したことになります。
中央構造線

大鹿村鹿塩で取り上げるべきことは、梨原にある葦原神社です。この神社は、明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社と云われています。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷の最上位の席は鹿塩であったことも注目すべきことです。北の分杭峠を越えて北上しますと、諏訪大社です。大鹿村鹿塩と諏訪大社は、何時の頃からか判りませんが、関係があったようです。
残されている資料としては、嘉暦4年(1329年)3月北条高時から信濃国の地頭・御家人に対して出された下知状により行われた諏訪大社五月会・御射山御頭に勤仕した郷村中に大河原・鹿塩の両村が記載されている。いずれにも地頭がいた。(神長守矢文書)
出所ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B9%BF%E6%9D%91最も、注目すべき点は、「南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった」
宗良親王(むねながしんのう)
 南北朝時代に活躍した後醍醐天皇と、藤原為子の八番目の皇子として生まれました。二十歳の時に比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、香坂高宗氏に迎えられて大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動されました。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣されました。親王は南北朝第一の歌人と称され、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」があります。親王終焉は静岡県伊井谷などの各地の説がありますが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都後醍の三宝院に保管されており、現在では最も信頼性の高い資料とされています。
御所平(釜沢)
 宗良親王が仮御所に住まわれた地。いくつかの平坦な屋敷跡がありましたが、今は残っていません。
「何方も山のはちかき柴の戸は、月見る空やすくなかるらむ」と親王自らが詠んだ歌を刻んだ石碑が建っています。
以上の出所はウィキペディア(Wikipedia)』です。
鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。
製塩が行われていたことと、大鹿村の鹿とで「鹿塩」という地名が生まれたようにも思えますが、私は違うことを考えています。
 〔鹿塩〕の地名の所には、天皇や皇族を護衛する人たちが住んでいたのではないかと推察しています。
上記の資料によりますと、宗良親王は、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣。
 とあります。行ったことがありませんので、どのような所か判りませんが、地図から判断すると山間部です。このような所に30年間も住んでいたということは、此の地が重要な所であったことになります。
 「鹿塩」は、ただの山ではなく、他のところから攻めにくいように、干渉地帯の役割を得、又、何がしの兵力を有していたのではないでしょうか?
名前からその土地の性格を知られないために、大鹿の鹿と塩を含む温泉から命名したように名付けたのではと思っています。 少し、強引なところはあります。
 それを薄めるために、前回、地名 鹿塩(1)において、兵庫県宝塚市には、鹿塩と御所の前という地名があることを紹介し、鹿塩という地名は天皇と関係があるのではないかと、見て頂きました。

| | TrackBack (0)

2009.04.28

古事放談1-26

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-26
**********************************
吉備の鬼ヶ城と全く同じ山城が九州と山口にあった。神籠石と名づけられ7ヶ所見つかっている。これこそ山城である。これは神が籠ったのではなくて雲南人の敵の鬼が籠ったのである。籠(カゴ)をこもると読ませるのは日本人のチエである。籠るとは竹ヤブに逃げた竜すなはち中国人と考えればよい。
 ついでに熊襲の襲を「ソ」と読ませるのは日本式でもともと曽だった。襲の字をよく見ると絹の衣を着た竜で中国人である。絹を身につけて密輸出していたのである。
 京都に貴船神社がある。ここの祭神は高龗神である。雨の下の竜とは天下を支配した中国人だった。この神を祀った神社も各地に見付かる。
 中国臭の竜のつく地名を全国から探し出して見ることだ。
 先づ九州には大宰府の東に竜王山がある。近くには山でありながら鬼岩の地名がある。
 ○城と二字目に城がつく地名が多発するのである。竜王山と鬼ヶ城は下関の北にも、揃っていた。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん


一言----岡山のみなさん、是非、鬼ヶ城へ、一度は行ってください。双眼鏡があればベターです。当時の人は、双眼鏡がなくても、船が通るのは見えたし、そこに乗っている人も見えたと思います。

| | TrackBack (0)

2009.04.27

地名 鹿塩(2)

もう一つの鹿塩は 下伊那郡大鹿村鹿塩です。
 鹿塩の地図をご覧ください

西に天竜川、東に国道152号線が走っています。普通は、もう少し、川の近くを走るものですが、間が離れています。天竜川の方は、152号線とは別に、川が並行して走っています。  
多くの道は、川の流れにそって発達しました。152号線は、鹿塩川に沿って走っていますが、中央構造線が村内を南北に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流している。村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠です。の難所である。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入しています。即ち、大鹿村は南アルプスと伊那山地に挟まれた山間地帯となります。従いまして、鹿塩川も中央構造線のずれの生じた低いところを流れ、それに沿って、道が発達したことになります。

〔中央構造線〕
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm
中央構造線は諏訪湖から出発して、九州まで続いています。このことから、いろいろのことを知ることができます。


大鹿村鹿塩で取り上げるべきことは、梨原にある葦原神社です。この神社は、明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社と云われています。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷の最上位の席は鹿塩であったことも注目すべきことです。北の分杭峠を越えて北上しますと、諏訪大社です。
残されている資料としては、嘉暦4年(1329年)3月北条高時から信濃国の地頭・御家人に対して出された下知状により行われた諏訪大社五月会・御射山御頭に勤仕した郷村中に大河原・鹿塩の両村が記載されている。いずれにも地頭がいた。(神長守矢文書)
出所ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B9%BF%E6%9D%91
最も、注目すべき点は、「南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった」
• 宗良親王(むねながしんのう)
 南北朝時代に活躍した後醍醐天皇と、藤原為子の八番目の皇子として生まれました。二十歳の時に比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、香坂高宗氏に迎えられて大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動されました。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣されました。親王は南北朝第一の歌人と称され、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」があります。親王終焉は静岡県伊井谷などの各地の説がありますが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都後醍の三宝院に保管されており、現在では最も信頼性の高い資料とされています。
御所平(釜沢)
 宗良親王が仮御所に住まわれた地。いくつかの平坦な屋敷跡がありましたが、今は残っていません。
「何方も山のはちかき柴の戸は、月見る空やすくなかるらむ」と親王自らが詠んだ歌を刻んだ石碑が建っています。
以上の出所はウィキペディア(Wikipedia)』です。
鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。
製塩が行われていたことと、大鹿村の鹿とで「鹿塩」という地名が生まれたようにも思えますが、私は違うことを考えています。
 〔鹿塩〕の地名の所には、天皇や皇族を護衛する人たちが住んでいたのではないかと推察しています。
上記の資料によりますと、宗良親王は、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣。
 とあります。行ったことがありませんので、どのような所か判りませんが、地図から判断すると山間部です。このような所に30年間も住んでいたということは、此の地が重要な所であったことになります。
 「鹿塩」は、ただの山ではなく、他のところから攻めにくいように、干渉地帯の役割を得、又、何が市の兵力を有していたのではないでしょうか?
名前からその土地の性格を知られないために、大鹿の鹿と塩を含む温泉から命名したように名付けたのではと思っています。 少し、強引なところはあります。
 それを薄めるために、前回、地名 鹿塩(1)において、兵庫県宝塚市には、鹿塩と御所の前という地名があることを紹介し、鹿塩とい地名と天皇が関係があるのではないかと、見て頂きました。

| | TrackBack (0)

2009.04.26

古事放談1-25

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-25
**********************************
吉備最大の造山古墳の西北に鬼ヶ城がある。ここから吉備路が一望である。
 山の上に3キロ以上に巨石が並べてあった。万里の長城を築いた技術は中国軍の全員が持っていた。
 ここに中国軍が最後にこもったのである。
全員殺された。この血が流れて川になった。血吸川と名付けられている。この海に注いだ所が赤浜である。古代にはここまで海が入込んでいた。
 桃太郎が吉備団子を持って鬼退治した伝説がある。中国人の藤原が11世紀までマッカーサー元帥の様に君臨していた時代に真実を伝えられるだろうか。なぜ鬼退治の様な伝説が生まれたかの社会情勢を考えてみることだ。
 桃太郎は海を渡って鬼征伐に行ったが、吉備路には海が入りこんでいたので、これも正しかった。
 桃太郎は吉井川を降って吉備に来たことを教えてくれた。この時は吉井川の上流の久米国も占領されていたので、ここの征伐を先にやったことを伝えたのである。

私から一言----地名「血吸川」。よくもこのような地名が残ったものです。普通は、後の世の人は、名前を変えようとするものです。 天皇家の人が、ここで待ち伏せしても、大陸からやってくる敵は、やっつけることはできません。彼らは、通過するだけです。双眼鏡を持って行ってください。当時は、どこまでが海であったか、水がないので、見張るところと愈々最後の時には、短期間だけ籠る所だったことが判ります。
 となりますと、現在復元されている建物は、立派すぎると思われます。堅牢な城と思わせただけではないでしょうか?
どのように想像しても自由です。楽しめばいいと思います。

| | TrackBack (0)

2009.04.25

古事放談1-24

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-24
**********************************
明日香村に石舞台の遺跡がある。加工された巨石の一群である。これこそ巨大古墳が壊された残がいだ。
  ここの古墳を壊して箸墓に敗残兵にはこばせたとしたら話が出来すぎだろうか。この古墳こそは難升米のものだったと思えてならないのである。
 石舞台から箸墓なら日本書紀にかかれた様に石を手渡しで運べるのだ。二上山は途中に湖があったろうし、未加工の石はそのままではコンベヤの様に次々と準備できない。
 卑弥呼は城に幽閉されていたことは、倭人伝を読めばすぐ分る。伊都国すなはち丹波の伊勢大神宮の近くで城跡を探してみた。
 これは案外簡単に見付かった。物部町に本城奥の地名が残っている。この場所は古城となっていた。
 更にこれがある所は物部町であることは、城を護ったのは物部だった。
 神武天皇が征伐した従って雲南人の敵がニギハヤヒであり、この
子孫が物部ではないか。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

私から一言---明日香村の石舞台を見られましたか。大きいですね。
日留山人さんは、沢山の古墳を見られたのでしょう。沢山の古墳を見られて、その上で、明日香村の石舞台に行って、ゆっくりと一時間ほど眺めていますと、このような考えになります。こんなに丸裸にされた古墳は少ないと思います。

物部町の古墳は、埋め戻されていますから、全部見ることはできません。
どこで戦争があったのかと思われるほど、今は静かな農村です。

【綾部市の遺跡】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page360.htmlをご覧ください。あまりにも多すぎて、全部掲載しないままになっています。
綾部市に立派な資料館があります。是非立ちよりください。
学芸員の方に、物部のことについて、いっぱい質問してください。きっと、嫌がられると思います。本当は知っておられるが、嫌だということは、知られたくないことがあるのだと思います。
 どこの町にも、例え、2000年前のことであっても、知られたくないことはあると思われます。しかし、そうなりますと、一層知りたくなるものです。
 この辺りは、魏志倭人伝にかかれてある伊都国では無いかと思っています。
高速代が安くなりました。綾部市の物部の集落を歩いてください。
古墳と名の付くものを沢山見て回りますと、プロでなくても、新しい発見が出来ます。

綾部市私市古墳-- http://www5.nkansai.ne.jp/off/a-siryoukan/もお立ちよりください。 由良川が一望できます。

| | TrackBack (0)

2009.04.24

古事放談1-23

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-23
*********************************
日本書紀は箸墓は昼は人が作り夜は神が作ったと書かれている。これなら神話である。神様が条件の悪い夜に働らくのはおかしい。
記事倭人伝に卑弥呼は鬼道を事としと書かれている。
この二つの書物の神と鬼を入れかえて欲しい。
卑弥呼は神道を事としたのでピッタリである。箸墓は夜には鬼がつくったことになる。
鬼とは中国軍の敗残兵のことである。箸墓を敗残兵につくらせるのは当然である。
箸墓の石は手渡しで大坂山から運んだと書かれた。大坂山とは生駒山系の二上山である。
樋口清之氏が大和湖があったと述べられている。大和川は亀瀬の難所があり、ここは地すべりが生じると大和は湖になる。従って二上山と箸墓の間には湖があったことになる。更にこの距離は直線でも15粁で1米に1人づつの間隔でも1万5000人の列になる。
だから神話だと片付ける位は学者でなくても云える。むしろなぜ神話的なことを書かざるを得なかったかを学者は考えるべきだ。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.23

地名 鹿塩(1)

全国に「鹿塩」と表記される地名が、3つあります。
その一つは、兵庫県宝塚市鹿塩です。読み方は「かしお」です。
地図 http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.21.35.470N34.46.33.190
阪神競馬場の西に、現在、鹿塩1丁目と2丁目があります。もう少し、西へ行きますと、仁川高丸の西に地図では表記されています。
 かつての鹿塩村は、現在の鹿塩1丁目と2丁目、駒の町、仁川台、仁川北2丁目--3丁目、仁川宮西町、仁川団地、仁川月見ガ丘、仁川旭ヶ丘、仁川高台1丁目—2丁目、仁川高丸1丁目――3丁目、仁川うぐいす台、そして、鹿塩(山地)の広大な広さになります。

有名な所では、宝塚ゴルフ倶楽部があります。このゴルフ場の住所は、
〒665-0023 兵庫県宝塚市蔵人字深谷1391-1です。
地名は蔵人(くらんど)で、鹿塩は蔵人村の南西に位置します。
昔の鹿塩村は、現在の駒の町を含みます。阪神競馬場の住所は、〒665-0053 兵庫県宝塚市駒の町1-1です。
多分、競馬場の大部分は、蔵人村であったと思われます。
かつての蔵人村は、宝塚市高司1~5丁目、美幸町、高松町、御所の前町、中野町、大成町、大吹町、新明和町、駒の町、光明町、小林(おばし)5丁目、仁川台、仁川北1~2丁目、そしてゴルフ場のある蔵人です。
 地名・蔵人は摂津国武庫郡のうち、はじめ幕府領。古代に渡来した阿知使の子孫が蔵人の官職を持ち、ここに居住した。(地名辞典)とありますが、蔵人の中に、高司(たかつかさ) と御所の前という地名があります。
御所の前の地名は、孝徳天皇が有馬入湯の際、武庫の仮行宮が造られたとの伝承がありますから、ここに遇ったのかも知れません。 高司は、元は鷹司のあった所かも知れません。御所の前は、現在の武庫川と同じ海抜19mですから、武庫の仮行宮は武庫川のすぐそばに在ったと思われます。
武庫川を渡り、北に行きますと、御殿山の地名が見え、御殿山の少し、東には、売布神社があります。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&rlz=1G1GGLQ_JAJP308&q=%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E3%80%80%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&split=0&gl=jp&ei=08PtSeD_D5SCkQWDyNCiDw&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1
高司、御所の前町、御殿山と並べますと、天皇が有馬へ行かれる時とか、狩りをされた可能性は大きいです。美幸町は御幸でしょうか?

肝心の鹿塩の地名ですが、地名に「塩」が付いています。確か、どこかで、此処で塩が取れ、その塩を鹿が舐めに来たというような記述がありました。
承応2年(1653)船坂山をめぐって鹿塩村とともに有馬郡船坂村と境界争論を起こし、船坂村が勝訴との文書が残っていますから、鹿塩村は上記の範囲よりも、蔵人村を廻り込んで、船坂村に接していた可能性があります。近くには、塩尾寺、塩瀬、名塩があり、名塩には、武田尾温泉があります。ここのお湯が塩分を含んでいるかどうか分かりませんが、鹿塩の地も、古くは塩分の濃い温泉がわいていたのかも知れません。

推理ですが、鹿塩には、天皇家の側近の軍隊が長期に滞留していたのではないかと考えています。蔵人の方も天皇の側近ですが、文書などの仕事をしていたのではないでしょうか?

有馬への行幸道
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page436.html
に、以前に調べたことを記しています。

| | TrackBack (0)

2009.04.22

古事放談1-22

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-22
********************************
魏志倭人伝には卑弥呼のために大きな墓を作ったと書いた。〝卑弥呼の墓だつた箸墓〟を11月に書いたのである。
 日本書紀には箸墓はヤマトトト姫と書いたが、国土地理院の地図はヤマトトトヒモモソ姫となって、日本書紀も衆を惑わした。
 崇神天皇の妹のために先づ箸墓を作り、隣に崇神天皇陵を作った。
 又箸墓の真東のすぐ近くに桧原神社があって元伊勢と呼ばれている。
 NHKが北緯34度32分の謎を55年に放映した。これで明かな様に箸墓の真東の三重県に伊勢神宮の斉宮が作られたのである。
 古事記で崇神天皇の妹が伊勢大神宮(甲斐節書は伊勢の大神の宮とあり、原文と異なる)を拝きまつったとあった。
 34度32分の線上に卑弥呼(日巫女)にふさわしい遺跡があった。偶然ではなかったのである。
 日本書紀は天皇の妹の自殺にきわめて手の込んだ細工をしていた。これは〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟に解説しておいた。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.21

古事放談1-21

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-21
**********************************
魏志倭人伝では卑弥呼が難升米を使者にだしたとある。これは敵国の文章である。これは難升米は卑弥呼に内緒で洛陽にでかけたことである。
 卑弥呼を人質にして狗奴国王(崇神天皇の義弟)をおびき寄せて殺そうとしたが、狗奴国王は応じない所か、戦争して来た。ここで難升米は卑弥呼に自殺を命じたのである。
 これこそ推理小説以上である。古事記には日下坐王を丹波に派遣してクガミミノ御笠を殺したと書かれている。しかも、クガミミノ御笠し「こは人の名なり」と注までつけられていた。
 御笠は姓氏録で高句麗人となっていた。人畜に劣る行為とは人質にして最後には殺したことを指すと考えられる。
 最後の魏の都に逃げ帰ったリストに難升米がなかったので、クガミミノ御笠は難升米だ。 日本書紀には天皇の妹が自殺した神話が書いてあった。神話だから日本書紀のインチキが分たのである。崇神天皇の妹が自殺したヒントは日本書紀に書かれていた。、


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

私から一言----御笠は姓氏録で高句麗人となっていた。これが本当であれば、御笠は中国の家来になっていたことになります。


| | TrackBack (0)

2009.04.20

古事放談1-20

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-20
*********************************
239年難升米は生口を101人連行したから、魏のスパイだったことが分かる。
 魏志倭人伝は中国の正史でしかも敗戦記録である。従って敗戦の責任を雲南系日本に押し付ける作文だから裏を読むことだ。
 陳寿は衆を惑わす必要があるから、卑弥呼に責任を伝嫁して、卑弥呼は能く衆を惑わすと陽動作戦をやったのである。
 詔書等は何とでもあとから作文出来るので信用出来ない。しかし難升米が日本派遣軍司令官任ぜられたことは事実である。
 魏は日本占領目的をハッキリ正史残したことになった。
 240年に魏から軍使が日本軍の防備態勢を視察にやって来たのである。
 このあと久米王国の懐柔を試みたが失敗した。245年武力による占領に方針に変更し、帯方郡の部隊に出動を命じた。軍旗を下付されたことは出征と解すべきだ。
 しかし戦局は不利だったので247年には4000粁離れた魏の本国軍に出動命令が出されたのである。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.19

古事放談1-19

**************************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-19
**************************************
瀬戸内海等に二度高地性集落が発生したと書かれている。高地性集落とは敵の侵入を防止するために見晴らしのきく小山の上に設けた集落である。とりでと呼んでよいだろう。
 190年から250年の間のとりでが二回目である。
 奈良の東大寺山の高地性集落は、天皇勢のとりでだった。
 倭人伝には大人には4、5婦と書かれ、学者は一夫多妻だと解説した。しかし雲南系日本人は一夫多妻ではない。
 日本では一つの屋根の下で若夫婦が何組かは一緒に暮らすのが一般である。この若主人が全て出征して高地性集落等で防備していたのだ。 
 倭人伝を見れば卑弥呼には男弟ありて国を治むと崇神天皇の存在が書かれている。久米国王には卑弥呼に弓を引くアダ名の卑弥弓呼となっていたのである。
 日漢戦争は武力にたよったために失敗した。従って日魏戦争は中国人どくどくの謀略で、久米国王をおびきよせて毒殺する策を用いた。このために沢山のギフトが準備された。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

 私からの一言----高地性集落と言われている遺跡に一度、登ろう。
低い山ですが、本当に下がよく見えます。当時の人たちは、5キロ先の人などは見えたのではないでしょうか? 双眼鏡を持参してください。
高地性集落の下をやってくる敵を見つけようとしたのですが、①190年から250年の間のとりでが二回目である----こんな時代に何のために見張りをしたのでしょう。②的とは誰でしょう。

高地性集落---私の調べた集落
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html

| | TrackBack (0)

2009.04.18

古事放談1-18

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-18
*********************************
日中の一次戦争は漢の衰亡とスペイン風邪によって吉備の主力部隊だけは壊滅した。これこそ神風だった。
 しかし日本軍は制海権がなかったので、四国、九州や東北の残存兵を征伐できなかったのである。
 敵は再度来襲することは必定である。これに対する防備策が取られた。
先づ吉備上道国には7万戸の屯田兵を集めた。ここが邪馬台国で正確には夜麻登国と書いてヤマトと読むべきだった。
 吉備下道国には5万戸を終結させた。ここはもと漢の主力軍が居ったのである。倭人伝には投馬国すなはち玉の国と呼ばれた。
 日本海の最良港で門戸の日向浦を奪われないために松江国(末盧国)に四千戸、根国(奴国—米子)に二万戸を配備した。
 天皇の軍隊の本拠地久米国(狗奴)を死守するために、日本海側も護りをかためた。又物資をこの津山盆地に置いて監督したことは魏志倭人伝で邸閣国と大倭(現在久米町)として記録されている。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん


私より一言---こんなに古い時代にスペイン風邪があったのかと言うことになります。このことは、
No519 天孫降臨(92) 伯耆国の寺院18) 日本で一番古い(5) 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-02-01
に書いています。三国の別々の資料を合わせますと、可能性は大きいです。できれば、この年の数年前に、他のくにに資料が残っているかどうかです。

又、吉備の主力部隊だけは壊滅したことは、
【No36 岡山県の気になった古墳】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-09-12
に書いています。
〔日中の一次戦争〕と書いておられますが、日本と中国の戦いは、ずっと前になりますが、【No124 孝霊天皇、漢人を攻撃する】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-29にも書きました。

追記---古事放談1-17が 記事が半分のままで掲載していました。もう一度、戻って読んでください。

| | TrackBack (0)

2009.04.17

古事放談1-17

********************************
国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-17
********************************

銅鏡が多数出土したのは古墳が壊されたせいではないか。
 日本人は土地に執着が極めて強い。しかも家系を大切にする。従って離村するのは余程悪いことでもした時だ。
 都に出て出世しても故郷の墓を大切にする。従って吉備や河内等で古墳が多数壊されたのは古墳の主とその一族が悪事をして挙句には離村したとしか考えられない。
 巨大古墳を作るには何千、万かの人を動員した筈である。しかも死者の命令でなしに子孫が作ったのである。この場合には墓守りを村人が続けるのが日本の風習である。
この様に考えるだけでも壊された吉備や河内、山城の古墳の主は中国人と考えるべきだ。
 明日香村の石舞台は壊された古墳の残がいだから、古墳の主は極悪の敵国人だ。
 九州では沢山の銅鏡がわざわざ壊してあった。これは景行天皇が九州征伐した時に破壊したと考えたいのである。
 なぜこんな常識的な考えが古代史では通らないのか不思議千万だ。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

お詫び---このページ 半分しか書いていませんでした。 「この様に考えるだけでも壊された」以下が抜けていました。

「古墳の主は極悪の敵国人だ」と書いておられる日留山人さんは、どうやら、天皇家のお見方のようです。正確には分かりませんが、大正2年ころのお生まれです。当然だと思います。

銅鏡が割れているのは、割れたと割られたに分かれますが、 常識的な考えでいいのではないでしょう。


| | TrackBack (0)

2009.04.16

古事放談1-16

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-16
**********************************
吉備には巨大な古墳がある。この中で最大の造山古墳は107年に生口を連行し中国の正史に名前を残してもらった王師升だろう。
 石棺は九州の阿蘇の石で作られていた。
石棺を自由に運ぶ海運力を持っていたのである。石棺を日本人が作る筈はない。呉の石工まで大量に連れて来ていたのである。
 184年に漢に内乱が起きて以後は銅鏡も銅剣も玉も日本で作らざるを得なくなった。
 わたししが予言して来たのはこの様な根拠があったのである。そして三角縁神獣鏡には中国から証人が現われて来た。
 中国の考古学者が三角縁神獣鏡は中国人の呉の人が日本までやって来て作ったと研究結果を発表したのである。
 57年9月10日の新聞では古墳から出土した刀は全て、日本の砂鉄から作ったものではなかったと科学的に解明された。
 なぜ日本製でない武器が古墳から出土したのだろうか。素人が考えても、生産地が国内、国外何れにしても、古墳の主は雲南系日本人ではない。侵略軍の古墳となぜ云えないのか。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.15

古事放談1-15

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-15
**********************************
戦争が長期になり補給路が長くなれば漢の財政だって容易でない筈である。漢も衰亡の道を進み出したのである。184年には漢に内乱が発生した。(黄巾の乱)
 漢からの補給が絶えたのである。189年頃には強烈なスペイン風邪が流行し、漢の皇帝もバタバタ死んだ。
 中国軍から感染して記紀共に、崇神天皇の御世に人民の大半が死んだと書かれている。朝鮮の三国史記にも193年に倭の人が千人から食に飢えて渡来したと書かれている。
 この敵の勢力が衰えた時に播磨と吉備を征伐して、中国軍主力を全滅させた。
 これは7代孝霊天皇の御世の出来事と古事記に書かれている。この時崇神天皇は40才位だった。
 ここで一次日中戦争に休戦期間が出来た。魏志倭人伝は卑弥呼を共立した収ったとウソを書いたのである。
 崇神天皇の妹は大江山の伊勢大神宮の宮司(ヒミコ)だったことは古事記に書いてあった。
地図には伊勢神宮が載せてあった。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん


私より一言----「崇神天皇の妹は大江山の伊勢大神宮の宮司(ヒミコ)だったことは古事記に書いてあった」
こんな簡単なことですが、古事記のどこに書いてあるかを、ご自分で確かめてください。

| | TrackBack (0)

2009.04.14

古事放談1-14

************************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-14
************************************

 渡洋作戦で補給のことを忘れたのである。日支事変で日本軍も全く同じ失敗を重ねた。
狩猟民族を攻める時は頭目だけ倒せば、羊は勝手についてくる。食糧は先方持ちである。
九州は不毛の地だし、瀬戸内海には稲作が始ってなかったので貯蔵食糧がなかった。日本人は奥地へ逃げればよいのである。
何れ食糧が切れて敵は後退する外なくなる。日支事変と全く同じで終がないのである。
中国は吉備に主力を置いた。ここが吉備王国と学者には見えたのである。古代史に出てくる地方の豪族はほとんどが占領軍である。東北にも前方後円墓があったので、東北王朝があったと云われたがこれも中国の占領地だ。
魏志倭人伝の冒頭に漢に朝見した国が百余国と書かれている。雲南系大王が朝見する筈はない。
前方後円墓を作った大王が朝見したと考えてよいだろう。従って全国に百余国の漢の侵略した拠点があったのである。
鳥取県なら湖山池、東郷湖、米子の3ヶ所が中国の占領地として考えられる。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.13

古事放談1-13

***********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-13
***********************************
中国の文献に生口と書かれれば漢和辞典を引く手間を惜しまないことだ。奴れいではなくて捕虜と書かれている。
 107年に倭面土王師升が生口を献じたと書かれている。文字の切目で王師升とも国王の師升とも二通りの解釈が出来る。
 国王が荒海を往復することは非常識だから面土国の捕虜を王師升が連行したと、常識通りに解釈すれば問題は至って簡単だ。
 いささか口が過ぎたかも知れない。しかし漢が107年に宣戦布告したとは思いませんでしたとすまされるだろうか。
 生口を奴れいと解した人は総退陣する位の責任があるだろう。
 漢は何十万かの水軍を日本に侵攻させたのである。漢の様な史上最大の侵略主義の国が日本だけノータッチの理論は通らないのである。元でも14万動員した以上この規模以上は当然である。
 この時九州と瀬戸内沿岸全てを占領した。
しかし重大な作戦ミスをやったのである。

私からの一言----「漢は何十万かの水軍を日本に侵攻させたのである。漢の様な史上最大の侵略主義の国が日本だけノータッチの理論は通らないのである。元でも14万動員した以上この規模以上は当然である」この部分は、日留山人さんにしては、少し、暴論のような気がします。

「漢は何十万かの水軍を日本に侵攻させたのである。漢の様な史上最大の侵略主義の国が日本だけノータッチの理論は通らないのである」ここまではまだいいと思いますが、元が14万人だから、漢もと言うのは、どうかと思います。最も、私は中国の歴史を知りません。
 ただ、理論の立て方としては、少し無理かと思います。

ただ、これ以上に矛盾するのですが、現在の中国は、此の時と同様に、危険な道を歩いてい.るように思えてなりません。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

| | TrackBack (0)

2009.04.12

古事放談1-12

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-12
**********************************
日漢戦争は107年に始まった。この年に漢のスパイが日本人を捕虜にして連行した。
 これが今までの学者の解釈を誤った点である。中国の文献に生口160人とあったのを、生口は捕虜のことだと主張した学者があった。
 しかし別の学者グループは、生口は奴れいのことだと主張して、捕虜との学説を封じてまったのである。
 古代史やこうご岳には言論の自由がないのである。このことは樋口清之教授も〝大和の海原〟で述べて居られる。
 今までは古墳は4世紀以降と云わないと学問として認められなかった。従って間違っても卑弥呼の時代に古墳があったとは云えないのである。
 従って九州の前方後円墓は4世紀以降になる。古墳から銅鏡がでれば前漢のものでも、4世紀以降まで、わけもなく保管していたとの学説がはばをきかすことになった。
 古事記は年代的におかしいと全く相手にされないことになったのである。

昭和56年12月25日発行

| | TrackBack (0)

2009.04.11

古事放談1-11

************************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-11
***********************************
日本民族は漢民族に迫害された少数民族の混成である。これらが古代史を解く鍵である。
 古くはチベットや雲南からの人が隠岐に挙点を築いた。紀元3世紀には中国の中山王国の亡命者がやって来た。これも漢民族に滅ぼされた人だ。
 ついでに秦に滅ぼされた周の王子、天照大神がヒルゼンに来た。月読命は天山山脈から揚子江を下って来た。スサノオの命は北朝鮮を漢に占領されて亡命して来た。
 天照大神は雲南の漢に圧迫された稲作民をデルタ地帯に入植させる様命令した。この結果何十万かの稲作民が計画的に主として日本海沿岸全域に入植した。
  この時の門戸は日本海で最良の日向浦である。国土地理院の地図では境港大橋の真下である。
 神武天皇が東征に出発し港は実はここだった。ここでは数千隻の船でも安全に停泊出来る。ここにも古代人のちえがあった。
 日本民族は全て漢民族とは宿敵関係にあった混成民族である。漢鏡に無縁の人達だ。


| | TrackBack (0)

2009.04.10

古事放談1-10

倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-10
古事記は雲南系天皇が中国人の鎌足と不比等の目を盗んで、必至に書き残した天皇家の記録である。
 日本書紀は国賊不比等が天皇の即位を制作したのである。この根拠は〝卑弥呼の霊にささぐ〟に述べておいた。
 日本書紀の崇神天皇の項には海外の属が騒いだと書かれている。魏志倭人伝の時代は崇神天皇の御世だった。
 海外の俗と書いて、海外の賊とは書かれてないことは、日本書紀の作者が中国人だったことである。
 日本書紀は海外の俗と同俗の人が書いたとかんがえることだ。
 古事記と日本書紀には人名は一致したものがない。地名も時には異なっている。天皇の年令も全て異なっている。
 記と紀には共通の事項は全くなかった。この問題を先づ解決すべきだろう。

私から一言--「記と紀には共通の事項は全くなかった」という話は、多くの機会にかいてきましたし、お話をしましたが、誰ひとりとして、賛同された方は、ありませんでした。
 当然だと思います。90割以上の人が、日本書紀は日本の正史と思っておられます。当然、古事記は、天皇家が作ったものですから、信用置けないことになります。

古事放談1-10を書かれた日留山人は、さらっと書いておられますが、このことを調べるだけで、一年を費やされたと思います。私ももっとも、重要なことだと思い、少しずつはじめていますが、まだ、1割も確かめていません。確かめてはいるのですが、それをどのようにまとめれば良いのかが分かりません。


| | TrackBack (0)

2009.04.09

古事放談1-9

竜王山とか竜王の地名は何所に見つかるだろうか。吉備征伐をした吉備路には国土地理院の地図だけでも、10数ヶ所ある。
 これでは最早固有名詞ではなくて普通名詞である。竜王とは竜の国の大王のことと考えてよい。竜の国とは中国のことである。
 この様に考えて地図を眺めると景行天皇が征伐した九州や長門に存在する。
 ヤマトタケルが征伐した甲斐、信濃、伊吹にも見つかるだろう。
 大和では奈良市の南の山が竜王山があり、西に竜王町がある。
 崇神天皇の時には奈良市内の一部だけが天皇の陣地で周辺は全て魏の難升米の軍隊に包囲されていたと考えたいのである。
 これを裏付けるのは天理市、桜井市はもちろん、奈良市に隣接した北や西からも銅鏡が出土したことである。
 雲南系天皇が敵国の銅鏡を副葬品に使用することが位不自然なことがあるだろうか。
 古代史を解く上での謎は残る所は古墳の年代を4世紀から7世紀と考える点だけだ。

私から一言---「これを裏付けるのは天理市、桜井市はもちろん、奈良市に隣接した北や西からも銅鏡が出土したことである」 全部書きだしてください。終わりましたら、全部は要りません。3分の1だけ、訪れますといろいろのことが、判ります。

「雲南系天皇が敵国の銅鏡を副葬品に使用することが位不自然なことがあるだろうか」
これは、学問以前の話です。私が死んだら、棺桶の中に、誰かから貰った大切なものを入れるでしょうか。私は入れません。では、残されたものが、入れるでしょうか? 残された者は、どれが大切か判りません。
 昔のお墓に入っていた物は、決まっていたようです。

| | TrackBack (0)

2009.04.07

古事放談1-8

崇神天皇が丹波征伐をした。ここにも丹波半島の海岸にまで前方後円墓があった。
 崇神天皇が山城のタケハニヤスを征伐した。
この地点には椿井古墳があってここから30数枚の銅鏡が出土した。しかも、ここは高麗村と呼ばれていた。
 吉備を征伐したのは孝霊天皇で、この時は飾磨をも征伐した。更に隠岐や伯耆も征伐したのである。(角川文庫 〝鳥取県の伝説〟)
 景行天皇は九州を8年かけて征伐したし、更に仲哀天皇も九州征伐の途中に九州で崩御された。
  天皇は雲南系であり、日本人も雲南系である。征伐された所からは全て漢鏡が出土したし、前方後円墓があった。
 異民族間に平和共存が常識だと学者はお考えなのだろうか。異民族が融和して混血して新しい民族が出来たことが古代にあったのだろうか。
 現在の日本人の風俗習慣が漢民族や韓民族よりも雲南奥地等の住民とあまりにも、似た点が多いことを学者はご存じなのだろうか。

| | TrackBack (0)

2009.04.06

古事放談1-7

〝吉備古代史の未知を解く〟は倉敷考古館長夫妻が書かれ56年7月に発行された。
 この本には古代史の学説をくつがえさざるを得ない重要な事がかかれていた。
 吉備には巨大古墳が非常に多い。この石棺が吉備の石でなかったのである。これはX線回析法によって石の産地が解明されたのである。古墳の主は吉備に住んでいた人ではなかった。
 石棺のあるものは九州の阿蘇の石を加工して運んだものである。しかも河内にも同じ阿蘇の石棺があった。
 四国の讃岐の火山石の石棺や高砂市の竜山石を使用したものであった。生駒山系の二上山の石まで使用されていた。
 これらの地域に共通して云えることは、漢の銅鏡や中国の呉の人が日本までやって来て作った三角縁神獣鏡が出土したことである。
 なぜこれだけの事実があるのに漢が九州、吉備、飾磨、河内、四国を侵略していたと学者は発言されないのだろうか。少く共この地域は共通の支配者が居ったのである。

私の一言----前回は、私の一言が長すぎました。
 今回は、短く。倉敷考古館長夫妻著〝吉備古代史の未知を解く〟を読んでください。
高砂市の竜山石、生駒山系の二上山の石も一度、実際に見に行ってください。岡山とどれほど近いかを体験してください。中国人の存在を否定しますと、阿蘇から持ってくる理由が見つかりません。

| | TrackBack (0)

2009.04.04

古事放談1-6

倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-6
 月読命を祀った神社が多数あることは、月読命は偶像ではなかったと考えるべきである。
大江町に天照大神と月読命を祀った伊瀬大神宮(古事記の崇神天皇の項にこの様に書かれて居る) があることは天照大神も実在のしかも独身の男性の神だったと考えてよい。
 津軽平野には、神武天皇を祀った神社が2社ある。これも神武天皇が津軽まで行かれた今一つの根拠である。
 熊本の天草には、ここにも天がつく地名がある。これは異常に多い。
 更に天草だけでこの中の40数社が見つかる。これが神武天皇が雲南系日本人を呼び寄せた証拠である。
 雲南から河を降れる底の浅い船なら、編成風で海面をすべることが出来る。揚子江の南の会稽から季節風が吹く日に沖に出れば一両日で天草に間違いなしに渡れる。
 天草と天がつくちめいには雲南しゆかりの意味が含まれていたのである。地図を眺めながら、古代のロマンを愉しむことである。

私から一言----いつも同じことばかり書きますが、この短い文章は短すぎます。少々、説明してもしきれないことになります。第12話は、飛ばして掲載しました。この12話は12冊目です。全体の流れを書かないとだけだと思われたようです。
 この文章は、読んでも全く解らないと思います。
①大江町に天照大神と月読命を祀った伊瀬大神宮(古事記の崇神天皇の項にこの様に書かれて居る) があることは天照大神も実在のしかも独身の男性の神だったと考えてよい。
大江町に天照大神と月読命を祀った伊瀬大神宮があることは、天照大神も実在したということである。普通に考えますと、神社に祭られてあるからその神が実在した理由にはなりません。このことを立証しようとしますと、3年はかかります。多くの神社を調べますと、その神に祭られている神は、実際にその土地に居られた可能性が高いことが分かってきます。または、その神を崇拝していた人々が、神と一緒に移動した姿が浮かんできます。

(古事記の崇神天皇の項にこの様に書かれて居る) この部分を読んで確かめる人は、ゼロだと思います、どの歴史家も崇神天皇など、歴史上の人物でないと言いながら、ご自分の著書の中で、それより古い天皇のことを書いたりしておられます。せめて、古事記に本当に書いてあるかどうかだけ確かめてください。
 崇神天皇はいつ頃の天皇かと調べますと、紀元300年ころの天皇とされておられます。

嘘か本当かわかれませんが、奈良の箸墓古墳に並んで、景行天皇、崇神天皇の御陵が並んでいます。どれだけ大きいかご覧ください。古墳の長さなど測っても意味がありません。どれだけ大きいかを肌で感じてください。
 古墳時代は3世紀から始まったと書いておられるものがほとんどです。この辺りでは崇神天皇の西に黒塚古墳もあります。一つの古墳に一時間ずつ掛けてみますと、現在の歴史観が間違っていることだけはすぐに分かります。
 では。なにが正しいのかと言われると困ります。
 崇神天皇の御代に大飢饉が発生し、半分ぐらいの人が、死んだことが、記紀に書かれてあります。この時は、中国の皇帝も同じ年に、二人亡くなっています。西暦192年のことです。三国史記も調べてください。これだけで、崇神天皇は西暦200年前後の人であることが判ります。これだけが証拠ではありません。
 崇神天皇か、300年頃のことだとかいてある本は、読んでも意味がありません。
②天照大神も実在のしかも独身の男性の神と書いてあります。
 これを読まれた方は、以後、読みたくなくなると思います。どの資料にも女性とは書いてありません。これを調べるだけで一年かかります。朝鮮してください。
インターネットでは、想像力をたくましくして、綺麗な女性の絵が書かれています。これでは、小さい方は、全員女性と思ってしまいます。

③天草だけでこの中の40数社が見つかる。
此の部分は、すぐに見つかると思います。私がホームページに掲載していますから、見つかると思います。実際に行かれますと、それ以上のことが見つかると思います。
④揚子江の南の会稽とは、どこにあるか確認してください。

如何ですか、私は全部確認しました。
 奈良盆地だけで、遺跡、古墳、寺、寺院、山など、1000ヶ所ほど訪れました。同じところも数回行ったところもあります。行くたびに、違うものが見えてきますから、不思議です。九州の方でも、一週間の休暇を取れば歩くことが出来ます。
大江町は丹後です。国道9号線をひたすら走りますと、到着です。
⑤月読命が祭られている神社を取り出し、10社を度歩いてみますと、なにかが発見出来ます。

北朝鮮と中国が、共同で日本を攻めようとしています。記念日ですから、書いておきます。

北朝鮮は、建国以来、中国にやられてばかりです。そうであれば、中国に文句を言えばいいのですが、よう言いません。何時でしたか、北朝鮮は、中国の領土だと宣言しました。北朝鮮は、抗議をしましたが、それ以上のことはよう言いません。これで、北朝鮮は、中国のものです。
北朝鮮と高句麗は同じではありませんが、一部は同じでしょう。その歴史を書いておきます。
598年 隋文帝が百済の要請で高句麗遠征。伝染病で失敗。
 611年 隋煬帝が113万の兵総計300万人を高句麗に遠征。30万人の兵全滅。百済・新羅の要請。
 613年 再度高句麗遠征中に、河南省に内乱、平定に撤退。
 614年 高句麗遠征和平後内乱。
 618年 隋滅亡 高句麗は国内の中国人1万人を送還。
 642年 高句麗、泉蓋蘇のクーデターで、宝蔵王を立てる。
 645年、647年、648年 の三次高句麗遠征失敗、李世民(文帝) 死す。
 倭では 大化改新---日本が、一人前になったと言われていますが、間違いで、日本にいた中国人が日本を
制覇した記念に、中国の元号の制度を始めて使う。
 650年 新羅は唐の完全属国化、盛んに唐制度が取り入れられ、654年武烈王即位。
 660年 唐は高句麗と組む百済の攻撃に転ずる。
 662年百済滅亡し、倭に援軍要請
 663年 白村江の戦い。 後の天智天皇敗北。
 668年 高句麗滅亡。唐と新羅連合軍による。

以下、672年の壬申の乱に繋がります

この表を見るだけで、韓国と北朝鮮は、同族でないことが判ります。

| | TrackBack (0)

2009.04.03

古事放談1-5

津軽平野の海岸に天皇山と称する珍しい地名が見付かる。この地名こそは神武天皇ゆかりの地名である。神武天皇は古事記ではカムヤマトイワレヒコと書かれ天皇の文字が始めて登場する。
 〝卑弥呼にささぐ〟で神武天皇は西暦元年に即位され、73年に崩御されたと根拠を示しておいた。従って、1900年昔の水田は神武天皇の御世に相当する。
 天皇山の様に天がつく地名は、雲南ゆかりと考えてみることだ。天山山脈、通天河(揚子江の源流)と同じ使い方である。
 と明に天王がつく所が蒜山高原や各所にでてくる。これは雲南系大王に縁のある所だ。
 丹波の天田郡には雲南経由で西域から来られた月読命が居られた。月読命はイザナギ命にここの夜久野(古事記では夜食之国と書かれ写本の時夜之食と変った筈)に行く様命令されたのである。
 天田郡に数社と隣りの伊勢大神宮(大江町)に月読命を祀った神社がそんざいする。これこそは月読命が実在した証拠ではないか。

以上日留山人氏著 『倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史』より


私からの一言---突拍子もない妄想の様に思われますが、伊勢大神宮(大江町)は、三重県の伊勢神宮に遠い北陸の人で、大いに賑わったとされています。
ここには、結論だけが書かれていますが、膨大な量の資料から攻めることは可能だと考えます。
 何分、紀元前150年のころですから、いろいろのことを組み合わせますと、浮かびあがってきます。
理屈抜きに、伊勢大神宮(大江町)を訪問してください。素晴らしいところです。
内宮と外宮があります。

| | TrackBack (0)

2009.04.02

第十二話 古事放談1-4

 雲南から東北にまで稲作民を計画的に入植させた根拠は津軽平野には十三
潟すなはち葦が繁るデルタ地帯がある。
 天照大神が「豊葦原の水穂国を作れ」と天孫ニニギ命に命令した。これは葦が豊かに繁っている所に水田を作れと命令したのだ。
 日本海側の葦が繁ったデルタ地帯には例外なしに福や宮が付く地名と稲に縁のある地名が密集して、独特の地名のパターンがある。
 これが天照大神の命令を忠実に実行された証拠である。古事記で天照大神の田のあぜをスサノオ命が壊した。
 あぜとあるからには陸稲ではなくて水田である。天照大神は揚子江の中流から亡命して来たと私論
別稿で述べておいた。
従ってジヤポニカ種のもみは天照大神が始めて日本に導入、雲南系日本人が全国に普及させたのである。
日本民族の2、300万人が雲南系だったことは魏志倭人伝で風俗習慣が海南島人と同じだと、これも1700年昔にすでに、証言されていたのである。

| | TrackBack (0)

2009.04.01

第12話 古事放談1-3

日本本土には、先住民としてアイヌ人が居った。中国山地には毛無山といった不思議な山が数ヶ所ある。
 ここから1000キロ離れた青森と岩手にも毛無山が数ヶ所あった。これは地名をつけた人が同じグループだったことだ。 
 アイヌ人は毛深いので毛人と呼ばれていたのである。毛無山があることはこの付近にはアイヌ人が住んでいたと解してよいだろう。
 米が全く取れない所に田のつく地名が、集っている所がある。
 例えば津軽平野には田のつく村は実に8ヶ村と更に稲垣村がある。稲が育つ筈がない所にこの様な地名が発生する理由を解けばよい。
短期間に数年間に何万かの稲作民を入植させないことにはこの様な現象は起らない。
これが計画的に移民を入れた根拠である。津軽の様な雲南から遠い所まで稲作民を入植させたことは、入植が全国規模で行われたことを教えてくれる。
 従来の学説では津軽には稲作は行われなかったが1900年昔の水田跡が現れた。

| | TrackBack (0)

« March 2009 | Main | May 2009 »