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2009.05.30

古事放談 3-5

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-5
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隠岐が日本国の最初の地点だとすれば先ずづ古事記の記述をみることである古事記では隠岐の三つ児の島を生んだと書かれている。
 隠岐は島前(ドウゼン)、島後(ドウゴ)に分けられ、この間はフェリーでも一時間半位かかる位離れている。
 しかも島前は三つの島からなって居るので、もともと島後を隠岐と古事記は考えていたことが分る。島後を生んだとは書かれてないが、本州は大倭豊秋津島を生んだと書かれている。
 従って古事記では日本の起点は隠岐になっている。さもないと隠岐は四っの島であるから三っ児では矛盾が生じることになる。
 古事記に「子淡道之穂之狭別島」を生んだとあり、解説書はこれを淡路島としているがこれもおかしい。
 これは島根半島のことで、古代には米子から夜見浜が淡道として通じている穂すなはち先にある幅が狭い島のことであ。
 米子の「子」がここに登場する。淡道は狭別島の形容詞と考えるべきではないか。
 島根半島の島を書き忘れてよいだろうか。

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2009.05.28

古事放談 3-4

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-4
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古事記で少名彦名命は天ノ羅摩船に乗って美保崎に現れた。チベットはラマ教の国である。羅摩船とはチベットの船のことだった。
 チベットではヤクの皮で船を作る。この船は激流を降るのに適している。更に乾かしてかついで山を超えることが出来た。
 これで問題は解けたのである。揚子江の中流は金沙江と呼ばれ雲南を流れている。ここでベトナムのハノイを流れる紅河に流れを変えればよい。
 この皮船なら揚子江の河口付近まで福建省の沿岸を北上して季節風を利用すれば九州に容易に渡れたのである。
 九州から黒船に乗れば隠岐に確実に来られるのだ。これは海上保安庁の海流図が謎を解いてくれたのである。(〝卑弥呼に捧ぐ〟)
 チベット人や漢字が分った中山王国の人と雲南の人が隠岐で別々のコロニーを作り、何れ交流すれば隠岐を日本語に統一が先づ可能である。
 これには先づ隠岐の地形が問題になる。地形図なしでは古代史は解ける筈がない。


私から一言----このページは、前回の続きです。紀元前に仏教が日本にチベットを経由して、伝わり、その仏教の音楽として、五弦の楽器が伝えられました。勿論、正倉院に残されているような、螺鈿細工は日本で花開いた技術でしょうが、五弦の楽器は、キジル千仏洞と日本書紀にしか残っていない以上、中国や朝鮮を通らなかったことになります。中国や朝鮮を経由したと云われる方は、証拠を示すことはできないと思います。

この文章の意味が判る人は、物事を普通に考える人です。前回に、中国や朝鮮を通らなかったと考えたのであれば、他のルートはないかと田村氏は考えられたのでしょう。
 そこで、「古事記で少名彦名命は天ノ羅摩船に乗って美保崎に現れた」が頭にひらめきました。次は、きっと、チベットから船で下ってくることはできるだろうか、古事記にある天ノ羅摩船とは何だろうと。この辺りの思考はとまることはなかったと思われます。
「チベットではヤクの皮で船を作る。この船は激流を降るのに適している。更に乾かしてかついで山を超えることが出来た。」この事実はどこで見つけて来られたのでしょう。
この事実は、標高が低い分水嶺を越えるときに、利用したと思われます。京都宮津の由良川を遡った人たちは、加古川を見つけ瀬戸内海に移動するルートを見つけたと思います。

「ここでベトナムのハノイを流れる紅河に流れを変えればよい」を読んだ時に、田村氏は、ここへ行かれたのだと思いました。ところが、すぐ後に、「これは海上保安庁の海流図が謎を解いてくれたのである」と駄目押しをしておられます。私も真似をして、海上保安庁の海流図を手に入れようとしましたが、ありません。こうなりましたら、神戸の海上保安庁でも行って来ようと思っていますが、果たしていません。
 時間はかかりますが、普通に考えることによって、新しい発見が出来ます。

次に、私が考えたことを記しています。
【少名毘古那神と国作り】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page409.html

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2009.05.26

古事放談 3-3

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-3
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チベットの数字の読み方が中国で行われずに日本にあることは、この間に直通ルートがなければおかしい。
 正倉院の御物に例えば五弦の楽器やイランのカットグラスがある。更に宮中の雅楽の楽器がシルクロードのクッチャにある。
 正倉院のすばらしい御物は唐には出土しなかったが日本には残ったと学者が発言しておられる。
 西域の宝物が中国では出土かったとすればこれは中国で腐ったためと云えるだろうか。
 現に2400年昔の中山王国の出土品は、さん然とした輝きを持って出土したのである。
 西域の楽器が中国経由ならば中国には日本の何十倍かの遺品があってよい筈だ。更に楽器が日本人に好まれるなら、中国の楽器がもっと日本にないことにはおかしい。
 揚子江の源流はチベットに達し、西域からこの上流には西安に行くより容易に行けた。
 しかし揚子江を河口まで降ったのであれば流域すなはち中国にその痕跡がないことにはおかしくないか。

私から一言---正倉院の御物にある五弦の楽器はご存じですか?
螺鈿紫檀五弦琵琶は次のアドレスでみることができます。
http://www.eonet.ne.jp/~suwasekai/nanfu-gazou.htm
 あるホームページによりますと、
〔五弦琵琶はインドに起こり、中央アジアから北魏に入り、日本に伝わったと考えられ、ペルシャを起源とする四弦琵琶とその発祥を異にしている。
正倉院存庫の琵琶は、現存するものとしては世界唯一のもである〕と書いておられます。
 しかし、次のページには、
http://www.gulf.or.jp/~houki/travel/nanro.html
〔五弦琵琶は唐時代には亀玄(きじ)琵琶とも言われていた〕と書いておられます。
 それの証拠とも思える壁画が、キジル千仏洞に五弦琵琶を持った飛天が描かれています
http://yui-wsh.kir.jp/memory/kijil.html

 これらのものは、シルクロードを経由して、日本に伝わったとされています。田村氏は、古事放談 3-3において、それは間違っているのではないかと述べておられます。
日本に伝わったのは、チベットを経由して、紀元前に仏教が伝わり、その仏教の音楽として、音楽が伝えられ五弦の楽器が正倉院に残されたのではと考えておられます。
 文化は、なんでも中国、朝鮮を経由したという考え方は、検討する必要があるのではないかと思います。
 その証拠らしきものを書いたものがありますので、興味ございましたら、読んでください。
【No526天孫降臨(99) 伯耆国の寺院(25) 仏教伝来(4)】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-02-22

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2009.05.25

古事放談 3-2

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-2
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青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸と九戸までの地名がある。この読み方はチベットと同じ読み方だった。十二里村や十三村も同じ読み方である。
 この読み方が何時から行われたかは興味ある問題である。 
青森は黒陶や漆器等紀元前400年の中山王国の出土品と同じものが出土した。又津軽平野には蓬田、蟹田、森田、柴田村、金田村、鶴田村、武田村、田舎館村,稲垣村と実に稲作に縁のある地名が9ヶ村もある。
 ここは寒冷の地で元来米が取れる筈がない所である。従って数百人が仮りに稲作をはじめても、米ができないから後続がある筈がない。
 従ってこの地名は神武天皇の計画入植の時につけられたと考える外ない。
 この様に考えると青森の地名は2000年前にすでに決まっていたと考えたいのである。
 中山王国の亡命者か従って漢字を使用する民族がこの地方に渡来していたのである。
 青森に戸来(ヘライ)の地名がありヘブライ人が渡来した伝説も否定は困難なことだ。

私から一言――――田村氏は、時間さえあれば、地図を眺めておられたと思います。私が歴史にのめり込むきっかけになった人に、辻保治氏が居られます。全国の国土地理院の25000分の1を所持。何時訪問しても、拡大鏡を手に地図を眺めておられました。「イカルガ」の話をしますと、整理ケースから、5~6枚の地図を出して来て、ここにもある、こちらにもあると見せて頂きました。「イカルガ」は、川が集まる地形にみられました。このような所には、「川合」とか「落合」が付けられていますが奈良の法隆寺がある斑鳩も、奈良盆地の川の水が集まる所です。
 このように、地図を眺めていますと、いろいろのことが思い浮かびます。そのすべてが、正しいわけではありませんが、田村氏は、青森と岩手に、一戸、二戸、三戸、九戸を見つけられました。一里とか一ノ坪とかはいくらでもあります。
「この読み方はチベットと同じ読み方だった」
たったこれだけの文章ですが、コンピューターもないころです。何日かけて見つけられたのでしょう。 
十二里村や十三村も同じ読み方である。十三村は十三湖辺りに有った村でしょうか。十三湖は、「ジュウサンコ」と読むのだと思いますが、十三村は、かつては、「トサ」と読まれたようです。元禄13(1700)年、十三村は、津軽家五代・信寿の土佐守任官を機に「トサ」を「ジュウサン」と呼ぶようになるとされています。私の近くでは、地名「十三」は、〔ジュウソウ〕です。
このように眺めていきますと、自然と蓬田、蟹田、森田、柴田村、金田村、鶴田村、武田村、田舎館村,稲垣村が目に入ったと思います。

〔青森は黒陶や漆器等紀元前400年の中山王国の出土品と同じものが出土した。〕の文章も急に書かれています。中国の中山王国で発掘されたものの展覧会が全国で行われたようです。何度も出かけられたらしく、その時の感動が、この文章となっています。
 どうして感動したかと言いますと、青森の黒陶器や漆器は、いつか、どこかで目にされていたのでしょう。漆器が、青森ではなく、北海道函館で、見つかった時には、凄いニュースだと思いましたが、誰一人として取り上げた方はおられません。
漆器は、中国から伝わったとされていますが、此の時からは、逆に日本から伝わった可能性が出てきたことです。漆器だけがかってに伝わりません。人間の交流があったことになります。紀元前7000年のことです。

 ここに書いてあることが、一気に繋がったのだと思います。

一つ一つを見ると、学者の方はだれ一人として取り上げられないことばかりを挙げておられます。 3年前、5年前に見たこと知ったことが、ある日、繋がって見えた時の喜びは、言葉では伝えることはできません。

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2009.05.23

古事放談 3-1

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-1
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地名は同一地名も大切だがパターンで考えると民族の動きがつかめるのである。
 中国山地には珍妙な毛無山が数ヶ所ある。
しかもここから1000キロ離れた青森と岩手にも毛無山(森)が数ヶ所見付かる。
 これは地名を必要とした人が同種だったことを意味する。これも重要なことだ。
 毛無とは毛人すなはちアイヌが居らないとかんがえればアイヌは近くに住んでいたことだ。
 日本の本土には北から西までアイヌが原住民として居った証拠である。
 56年のNHKのテレビは古代史を考えるのに多くのヒントをくれた。今まで古代史を書かれた学者にとっては自分たちの学説が次々とくずされ苦難の年だったことだろう。
 日本民族はどこから来たか。先づ少数だがチベットから来たと考える外ない。日本と数字の発音が全く同じだったのである。
 1,2,3,4をイチ、にー、サン、シーと発音していた。ヒー、フー、ミーではなかったのである。これだけでも大変なことである。

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2009.05.21

古事放談 2-12

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-12
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「卑弥呼以って死す」とは自殺を賜ったことである。人質にした上で作戦が成功しなかったから殺したのである。
 古事記では、丹波のクガミミノ御笠を殺したと書かれている。しかも「これ人の名ぞ」とわざわざ注意書が付けられている。よくよくの人畜に劣る行為をしたことになる。
 このクガミミノ御笠こそは難升米だった。洛陽に逃げ帰れたのは僅か20人で、この中に難升米の名は見当たらなかった。
 自殺を賜ったヒントは日本書紀に天皇の妹が自殺したと書かれている。自殺の記事は日本書紀ではこれ以外には出て来ないから、よくよくの事である。
 人民に自殺のうわさが伝わった以上日本書紀の作者は無視出来なかったと考えたい。
 箸墓の威容がある以上これも黙殺できないので苦心して神話をいくつも登場させたのである。
 箸墓は昼は人が作り夜は神がつくったと書かれ、神が夜働いたとあればこれも神話だ。
神とは鬼であり中国の敗残兵のことだった。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

参考に---
『楽しい人生』の中の【魏志倭人伝を読む 邪馬臺國はどこだ その6】に、
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/04/_6_f1ad.html
を書きました。

ここに、福原会下山人著の「多紀郷土史話」には、玖賀耳之御笠は海外から侵入してきた凶賊で日子坐王に攻められて逃げ回って最後に殺されたことを紹介しています。高句麗人であったことも書かれています。

【魏志倭人伝 邪馬臺國はどこだ】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/__1.html
から、飛ばしながら、その6まで書いています。

【魏志倭人伝を読む】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
にまとめています。こちらも内容は、同じものです。

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2009.05.20

古事放談 2-11

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-11
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伊都国に郡使がくると、人民は津に迎えたのである。伊勢大神宮の南に天津と勅使の地名まで残っていたことが何よりの証拠だ。
 この近くに物部町がある。神武天皇東征の時の敵はニギハヤヒであった。この人は天照大神しか持って居る筈がない天ツ瑞を手に入れて、ナガスネヒコに自分が天ツ神の後継者だと欺したのである。
 この神武天皇の敵の子孫が物部である。物部の子孫が伊勢大神宮を斎き祀っていた崇神天皇の妹を人質にして城の中に幽閉した。物部町の本城奥の地名から本城の位置まで判明した。
 最近丹波の古図を手に入れた。これにはこの地点に古城の地名が示されていたのである。古図に古城と書かれるには、魏が占拠した時代の城と考えてよいだろう。
 丹後半島には海岸に前方後円墓がある。又西暦20年代の貨泉まで出土する。ニギハヤヒも難升米も雲南系日本人の敵の中国人でよかった。クガモモノ御笠は高句麗人に化けて卑弥呼に近づいたのである。

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2009.05.18

古事放談 2-10

崇神天皇の義弟の久米国王が丹波征伐をして、人畜に劣る卑劣な行為をしたクガミミノ御笠を殺したと古事記に書かれた。
 不比等の日本書紀はこのことはゴマ化して書く外なかった。不比等は中国人だったのだ。
 国土地理院には丹波に伊勢大神宮が載せてあった。又記では崇神天皇の妹が伊勢大神宮を斎き祀ったと書かれていた。卑弥呼とは日の巫女すなはち天照大神を奉斎する人で良かった。巫女が千人あって当然だったのである。
 丹波が伊都国で、伊都とは伊勢大神宮の都のことだった。末蘆国から東南に五百里(220粁)は正確なことがむしろ疑問な位だ。
 倭人伝では郡使の常駐する所と書かれている。これでは帯方郡と同じ中国の植民地が日本の一角にあったことになる。
 なぜ中国が日本を侵略し九州を占領し、全国に前方後円墓がある所、銅鏡が出土する所に中国の基地があったと云ってはいけないのだろうか。
 敵の水軍の本拠地は舞鶴湾だった。ここの竜宮の地名が港があった所である。

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2009.05.16

古事放談 2-9

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-9
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吉備上道国の西隣りが吉備下道国でここに吉備の巨大古墳群がある。銅鏡が伴って出土したことから、古墳の主は漢の将軍である。
 末蘆国から日野川と高梁川を南に降ればよいので、投馬国と書かれたのは玉の国のことだった。ここに玉島があり、玉の海がある。
 ここの漢軍を征伐して守備についたのは大吉備津彦の弟の若建吉備津彦である。この北の久米国(狗奴国)を守ったのは、崇神天皇の義弟の日下坐王だった。
 邪馬台国7万戸、投馬国5万戸だけでも雲南系の日本人が200万人を超える。
 神武東征の時安芸で7年、吉備で8年の間に雲南人を呼集めた証拠が得られたのである。
 神武天皇が全国に雲南人を入植させたので崇神天皇の命令で大量の屯田兵が伯耆、美作、吉備、安芸に終結出来たのである。
 藤原は式内社を制定して天皇一族を祀った神社は除外した。更に雲南人が多い上記4ヶ国には、式内社を81社しか認めずこの周辺の例えば出雲には187社の氏子には幣帛料の名目で軍資金を出したのである。

一言 ---このようなことを云った人は、おられるでしょうか?

次のことを確かめてください。
式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html  未完成です。
 式内社が少ないところが、神武天皇が雲南人を入植させたところです。反対に多いところは、漢人が征服したところです。
神武天皇を祭った神社 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
 熊本、広島、岡山、福岡をご覧ください。神武東征の折、雲南人が活躍した地域です。
此れだけでも、立派な論文ですが、一切、認められませんでした。この本は自費出版は当然ですが、全国の図書館や大学に送ったと書いてありましたが、誰一人として、賛成する人もなく、反論する人もなく、無視をされたそうです。 どうしてだったのでしょう。こんな馬鹿なという人がおられても良かったと思いますが、反論はできなかったと思います。
 
【倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史】は、112ページの冊子です。私も真似をして本を書きましたが、100万円ほどかかりました。要らぬお世話かもしれませんが、日留山人さんは、この送料だけで、幾ら使われたのでしょう。ご存命中にお会いしてお聞きしたかったことの一つです。

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2009.05.15

古事放談 2-8

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-8
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邪馬台国は末蘆国の南で陸行1ヶ月、水行10日の地点である。米子から伯耆街道を1ヶ月進んだ所が美作である。ここから吉井川を10日で降れば旧西大寺市の古都村に達するここが邪馬台国すなはち吉備上道国の都があった所である。
 吉備上道国には魏の襲来に備えて大吉備津彦が将軍として守っていた。この姉が古事記で、夜麻登登母母曽姫と書かれている。
 この人こそは邪馬台国の女王でよかった。
 しかも岡山市の岡山神社の祭神は、この女王だったのである。
 古代の皇族は等には出身国の名前に冠せられている。従って邪馬台国は、元来夜麻登(ヤマト)と書かれていたことになる。
 狗奴国とは美作の久米国のことで、現在は久米郡久米町が中心である。ここの旧名は大倭村で、この地名を倭人伝に登場する。
 魏の使者は日本軍の軍備を偵察するために沢山の贈物をよこした。しかし日本側は狗奴国を秘密にした。
 神武東征の久米のつわものはここ出身だ。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん


一言、 邪馬台国の説明が、あまりにも簡単で信じられないと思われるでしょう。この通りだと思います。この後に続く歴史が、すべて説明がつきます。
美作に、難読地名がおおいこと、しかも、「神」という字が付く。近畿地方に負けないほどの古墳が多いこと。その中でも特異的に多いのが、陶棺です。竜王山が11もあります。
 地図で眺めるだけで確かめることができます。

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2009.05.14

古事放談 2-7

魏志倭人伝は、旅行記ではなくて、中国の正史の一部である。従って、奴国の次に書かれた不弥国も当然末蘆国が起点で、東に百里でなければ不合理である。
 この地点は倉吉平野でここに高千穂の地名が現存している。ここが天孫降臨以降の政府機関があった所である。
 古事記では景行天皇の時に始めて大和に屯倉を置いたと書かれ、大和はこれまで前進基地に過ぎなかった。
 不弥国の不弥とは漢和辞典では政治がゆきわたらないことと書かれている。陳寿はここに政府機関があったことを知っていて、この様な悪らつな国名をつけたのである。
 倭人伝で壱岐のことを一大国と書かれていたのに、万人がこれを間違いとして寛容の美徳を発揮している。
 方三百里しかない国が一大国だと、ひやかして書かかれているのが何故分からないのだろう。先づこれに気付けば魏志倭人伝の編集方針が解けた筈である。倭人伝は中国が大敗したことをかくすための記録として読むべきだ。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.13

古事放談 2-6

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-6
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西暦57年に神武天皇は漢の皇帝に使者を出した。この時にもらったのが「漢委奴国王」と書かれた金印である。漢の皇帝は金印を渡せば、毎年朝貢してくると、懐柔手段に出たのである。
雲南系日本人はもともと漢の武帝に侵略されて日本に新天地を求めて渡来したのだ。神武天皇は国内統一が一段落したので、対等の立場で使者をだしたのに、金印には漢の委任統治国、奴国王と書かれていた。
 使者はこの金印を埋めてしまった。
 この金印にも奴国が登場する。従って倭人伝に書かれる200年前に、すでに奴国があったことを教えてくれた。
 邪馬台国九州説の場合には、奴国は志賀島でなければ不合理ではないだろうか。
奴国とは古事記に出てくる根国とすれば古代史には謎は残らないのである。ただ学者だけがお困りになるだけだ。
金印をもらいながら毎年朝貢しなかったので107年に漢は瀬戸内海沿岸に侵攻した。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん


私からの一言-----このペーシに書いてあることは、初めて聞かれたことだと思います。別に、そんな馬鹿なと読み過ごされても良いですが、試しに、一つずつ確かめられたら良いと思います。京大の先生が書いておられるとか、東大の先生が云っておられるというのは、駄目です。ご自分で確かめられることです。
後漢書東夷伝に西暦57年に倭奴國が使いを出したと書いてあります。
〔建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見〕

 この冊子の発行者  日留山人氏は、倭奴國の首長が神武天皇だと書いておられます。 
神武天皇は、昭和15年が皇紀2600年と言いますから、2680年ほど間の人だと云ったら、お話になりません。神武天皇は、紀元前50年頃に、神武東征に出かけ、西暦元年1月1日に、奈良にて、戦争を終結させて、柏原(御所市)にて宮を構えました。いや、それは違う、橿原市の橿原神宮の所だと云われる方もありますが、間違いでしょう。
神武東征のことを書くつもりになっています。神武東征は、日本書紀に書かれてあることが正しいと思っておられる方が、ほとんどですが、古事記の方が正しくて、日本書紀に書かれてあることのどこが正しくないのか、調べながら、文章を書いています。手前味噌の観がありますが、これから調べながら、考えながら、神武東征は、どのようなものであったのかを解明するつもりになっています。

【No565 神武東征(14) 豊国の宇佐(15) 日本書紀・諱 】です。書き始めてから、14回目です。

厚かましいですが、ついでに、私の本の宣伝をしておきます。本のはじめから、少し読むことができます。
西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日 (シンプーブックス)

奴国のことは、この前の 古事放談 2-5 に書いてあります。

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2009.05.12

古事放談 2-5

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-5
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さて壱岐から海を1000里(440粁)渡ったとあれば、日本海随一の良港日向浦が登場する。この地名は境港大橋の真下に、国土地理院の地図に記載されている。ここは別稿で述べたが神武天皇が東征に出発した港だ。
日向浦は現在は境港市の一部である。境港市は古代には夜見島と呼ばれ現在の様に夜見浜で結ばれたのは後世である。
 島根半島が松江国で末蘆国と陳寿が書いたまでである。
古事記に根ノ国が登場する。この根ノ国の島の部分が島根である。従って陸の部分が古事記では根ノ国堅州と書かれ、ここにスサノオ命が本拠地を置いていたのである。
根ノ国を倭人伝は奴国とかいたのである。松江国(末蘆国)の東南100里は正確であった。米子の子の字は根のことだろう。
ここに2万渡ったことは、2,3万人の雲南人が居ったことになる。
ここは北京、天津と同じ様に倭(大国村—西伯町)と天津村(西伯町)がある。これも地名のパターンと呼ぶべきだろう。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.11

古事放談 2-4

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-4
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魏志倭人伝は中国人向に書かれたので、日本人に読ませるためではない。対馬の次に一大国と書かれている。中国人がこれを壱岐と理解してくれるだろうか。
 倭国の中の一大国が方三百里しかなくて、韓は方四千里と比較して考えることだろう。
 九州には朝鮮から文化等が伝わったと教えられてきた。この時の朝鮮とは南鮮のことだと許り考えていた。
 しかし魏の都からは南鮮の沿岸を通ったのに過ぎなかった。しかもこれは魏の使者に限ったことではなかった。南鮮は紀元前100年から、315年に高句麗が独立するまで、一度も中国の植民地になったことはなかった。
 北鮮の中国植民地と九州とが酷似していたのである。九州は中国の植民地だったのだ。
 洛陽から一度朝鮮に文化が伝わり、ここで消化されて九州に伝わったのであればよい。
香港やシンガポール経由で和蘭の文明が日本に伝わったのなら、これは少く共中国経由と云えないだろう。
 朝鮮経由位人を惑わせる言葉はないだろう。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.09

古事放談2-3

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談2-3
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倭人伝には日本書紀だけでなくて高句麗等の北鮮の国々と南鮮の韓が同じ東夷伝に書かれている。この北鮮と南鮮の里の単位が同じでは不都合を生じる。
陳寿は衆を惑わすために、韓と壱岐までに韓の単位すなはち1里を80米を採用している。
これ以外は魏の本国の単位すなはち1里は440米を採用した。更に帯方郡から邪馬台国まで1万2千里は韓の単位で従って960粁でよかったのである。
九州は魏の植民地だった。従って九州に寄港したことは当然である。寄港すればここは魏の基地だと書かざるを得ない。
 しかし、魏は大敗して九州は景行天皇によって征伐され失った。従って記録に残すことが出来なかったのである。
神武天皇から崇神天皇まで何も事象が書いてなかったから、この間は天皇はなかったと日本の学者は発言しておられる。何も書いてない時代こそ大事件があったと考えるべきだ。書きたくても書けないことが多いのである。

一言--- 
238年ころを中心に魏鏡の資料を記します。
青龍三年(235)   方格規矩神獣鏡    大阪府高槻市安満宮山古墳
青龍三年     方格規矩神獣鏡    京都府太田南5号墳
景初三年(239)   画文帯神獣鏡     大阪府和泉市黄金塚の中央棺
景初三年(239)   画文帯神獣鏡     京都府太田南5号墳
景初四年(239)   斜縁盤龍鏡      京都府福知山市広峰15号墳
正(?)始元年   三角縁神獣鏡     群馬県高崎市柴崎古墳
正始元年(240)   三角縁神獣鏡     山口県御家老屋敷古墳
正(?)始元年   三角縁神獣鏡 兵庫県豊岡市森尾古墳

広峰15号墳から発掘された鏡には、「景初四年五月丙午之日」と書かれていたから、話がややこしくなりますが、丹後にあるということは、この辺りに議の人が住んでいたと見るべきです。
〔九州は魏の植民地だった〕と書いてありますが、はじめのころは、そうだったのでしょうか。 赤壁の戦い(208)に負けた曹操は、216年に魏王を宣言しています。卑弥呼が中国に使者を派遣されたとしているのが、239年ころとしますと、曹操の時代ではありません。この頃は、九州は呉の国の人がいたのではと思っています・

それにしても、このページは上手く書けていますね。主張に無理がないのが素晴らしいです。
昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.08

古事放談 2-2

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-2
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古代の航海を現代人の感覚で考えるから謎が生じるのである。砂漠を西域まで旅行するにも大洋を航海するにも、最も大切なことは方向感覚である。
 魏志倭人伝を書いた陳寿が方角や距離が間違っていると、万人が述べて居る。陳寿が方角や里程を間違うことは何を根拠にしたのだろうか。
 壱岐から九州には黒潮を考えれば、博多湾に先づ来ることが常識ではないか。末蘆国を松浦湾、伊都国を糸島(古代には半島ではなかった)に想定した人達は地形や冬の猛烈な風浪を考慮に入れられたのだろうか。
 陳寿は狗邪韓国から対馬、対馬から一大国間には方角が書かれていないのに、壱岐から次コースにはこの場合こそ方角が必要なのに、記入されていないことに注意を払われたのだろうか。
 卑弥呼は衆を惑わすと書いたが、倭人伝は敗戦記録だから、中国人を陳寿は惑わす必要があったのである。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.07

古事放談 2-1

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-1
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魏志倭人伝は先づ大局から眺めてみることだ。ここに14万戸すなはち少く共200万人の風俗習慣が海南島人と同じだと書かれていたのである。
 日本人は中国人とも韓国人とも異なると、これを中国人が発表したのである。日本人は前漢の武帝に圧迫されて雲南(広域)から河を降って来たと考えてよい。
 河を降れる船は木造ではない。ヤク牛の皮で作った底の平な船である。これならゴムボートと同じで、季節風を利用すれば東シナ海を一両日で九州に渡れる。
 次に魏との航海は後世の様な危険なものではなかった。これは一般の中国人が日本各地にも来られた証拠である。
 雲南から渡来した上記の200万を超える日本人と中国人の間に平和共存や混血があり得ただろうか。
 雲南人も中国人も海の交通を得意にした人達である。海を考える時九州から日本海を津軽までの距離は、洛陽から九州までの航路の半分に過ぎないのである。

私の一言----田村誠一氏が書かれた本を皆さんに知って頂こうと思って紹介してきました。
本当は、コピーして、そのまま、掲載すれば良いのですが、いっぱいミスを冒しながら、コンピューターにもう一度、打ち直して紹介しています。
 殆どの方は、著作権を楯にとって、自分の書いたものに価値があるように主張しておられます。これを歴史の世界で認めますと、歴史は謎の世界になるだけです。
 もし、田村氏の考え方が正しいと思われる方は、田村氏の文章を自分の考えとして利用して貰って、新しい日本の歴史の考え方をして頂こうと思って、頑張っています。

もし、田村氏の考え方が、正しいと思われましたら、このブログの読者は、どんどん増えるはずですが、殆ど増えません。
 それは、正しくないか、田村氏の考えられたことが、日本史を考えるときの根本であるため、どの方の日本史も覆すようなことになってしまいます。

 田村氏が書かれた本は、いっぱいですが、はじめから読んで頂きませんと、理解が困難です。なぜかといいますと、全く、歴史を考えたことのない田村氏が、考えたことが余りにも、それまでの歴史と違うので、薄い冊子を非売品として発行しておられます。
 その時の田村氏の生き生きとした姿が浮かびあがってきます。 振り返って、本を読んでみますと、間違っていると思われる所を含みながら、田村氏は心をおさえることができなかつたことが読み取れます。もう一度、はじめから読んで頂きますと分かります。
 
第一話からはじめて、第四話まで掲載しましたが、第十二話に飛ばしました。
飛ばした方が、皆さんに理解して頂けると思ったからです。

第十二話のタイトルは「河を忘れた古代史」です。
此れまで、32回にわたって、紹介してきましたが、一度も河のことは出てきません。やっと、河のことを書いてあります。その証拠に、田村氏は、古事放談 1-32から、古事放談 2-1 に変更されました。
 日本の歴史にしても、中国の歴史にしても、人間は川を遡ったり、川を下ったりしながら、生活をしてきました。
 その証拠に、日本地図を拡げますと、川に沿って大きな道が発達しています。その道に沿って、明治時代になって、鉄道が敷かれました。最近は、この歴史を破壊するように、トンネルが掘られ、橋が掛けられ、道路も鉄道も建設されました。
 そのお陰で、日本の経済は世界の中でも、優秀な国になりました。
 
このページは、田村氏が、歴史を完成させられた本だと思っています。作者は田村誠一ではなく、「日留山人」と変えて、しかも、歴史を学ぶ上で、大切なことは、河なのだと訴えながら、 サブタイトルは、「古事放談」というタイトルを付けておられます。

上手く書けませんので、又、長くなってまいました。もう一度、今回のページを読んで頂ければ嬉しいです。

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2009.05.05

古事放談1-32

邪馬台国は九州だとの説が99%以上である。更に、多数決の論理で九州説を支持する人が現れる。
 この人達が古代史を謎にしたのである。更に学閥までが言論の自由を圧迫している。
 素人がなにを云っても新聞社は大学教授にお伺いをたて、自らは何の調査もしないで報道すればよい、云はば密室構造である。
 九州に照葉樹林があったと誰もおっしゃるが何が根拠なのだろうか。人工破壊で照葉樹林が無くなったのなら、火山とは一帯何だったのか。最大の自然破壊である。
 倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか。
 景行天皇の九州征伐はなぜ考慮にいれないで突然ある天皇以降の記述はホントだと採用されるのか。
 古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である。
 古墳の年代の決め方の編年表の基本は戦前で、放射性炭素の構成がなされていないのが謎の謎の由縁である。

一言----このページの意味はおわかりですか? 少々、日留山人さん、ご立腹の様子で、言いたいことが多すぎて、この狭いスペースに閉じ込め過ぎた感じかあります。
一生懸命、勉強をされてこられましたが、勉強するほどに、プロが考えられる日本史と自分が進もうとされる歴史とのかい離に、腹を立てておられるようです。
 
このシリーズは、4号までは、掲載しました。5号から11号がありますが、敢えて飛ばしまして、倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史を掲載しています。これまで、紹介してきました中には、九州の照葉樹林のことはありませんでした。
〔倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか〕と書いておられますが、倭人伝には、雲南系日本人のことは書いてありません。しかし、このように考えませんと、古代史は解けないと思います。

 舒明天皇の御代に、遣唐使が派遣されました。第一回の時に、大仁薬師恵日という人が派遣されたことになっています。この人は、大仁と書いてありますから、十二冠位の三番目の高官です。薬師と書いてありますから、医学のことを勉強に行ったと書いてある資料がありました。630年のことです。この資料を造られた方は、間違っておられるのではないかと考えています。
東北に、いっぱい薬師を祭る神社があります。例を挙げますと、
陸奥(陸中) 胆沢 久須志神社「少名彦名命」胆沢郡胆沢町南都田字化粧坂16番地
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名命」牡鹿郡女川町大字飯子浜字飯子
 祭神は、「少彦名命」です。この神の表記は、日本書紀に書かれている神の名前です。
同じ神と思われものが、古事記に書かれています。「少名毘古那神」と書かれています。
同じではないかと思われた方は、歴史を正しく理解できないと思います。祭神に、「少彦名命」と書いてある神社の集落は、一応、いつの日か判りませんが、日本書紀を作った人たちに支配権を奪われた可能性があります。
 古事記は、712年の完成です。この古事記をみて、日本書紀が作られ、720年に完成しました。
 実は日本書紀は、712年前に完成したと云われる方もおられます。「少彦名命」「少名毘古那神」と並べてみますと、確かに同じですね。どちらかが、真似をして、漢字だけを変えたからです。真相を知りたい方は、記紀に登場する地名と神や人の名前を全部書き出して調べれば、すぐに分かります。同じものは、殆どないという不思議なことに気がつかれるでしょう。それも、日本書紀がはじめにあって、それを手本に真似をして古事記をつくることは、不可能なことを発見されるでしょう。

「少名毘古那神」は、「スクナビコナノカミ」と読んでいたと推察できます。「少彦名命」のほうは、「スコナヒコナ」と呼んでいたと推察できます。
 「ビ」と「ヒ」では、随分違います。なにが違うのか、ご自分で調べてください。一年では完成しないと思います。ということは、濁音を使った人と清音を使った人の違いは読み取る必要があります。
久須志神社では、祭神が少彦名命だけではなく、大国主神も祭られています。
 久須志神社では、少彦名命と大国主神が祭られていますが、この二人が祭られている神社には、国津神社があります。九頭神社なども同じ系統の人たちが祭っていると思います。
 その地を開拓して住んだ人たちは、大国主神が紀元前に、雲南地方から連れて来たと考えませんと、全国に分布しません。
 殆ど、岡山県から、北、東に分布します。

 このように順番考えていきますと、確かに、大仁薬師恵日は薬師であったのは事実でしようが、医学のことは、紀元前から、知られていたと解釈しませんと、紀元前は、裸足で走りまわっていた国ということになります。そんな国に、危険を冒してやってくるでしょうか? 中国人は、やってきました。韓国の方に云わせますと、そうではなく、日本にいろいろの知識を伝えたのは、朝鮮人だと云われるでしょう。
 日本書紀を読みますと、遣唐使の派遣の合間に、どれだけ挑戦の人がやって来ているか、すぐに分かります。その合間に、遣唐使が派遣されました。渤海国の人たちもやってきました。世界の人が、アフリカを目指して行くでしょうか?  金でも出れば行きます。
 630年のことです。この頃に、ワンサと日本へやって来た事実を抜きにしては、歴史を理解できないことになります。
 日留山人の怒りは、景行天皇の九州征伐、古墳の発掘と止まりません。古墳の発掘は全国で毎日のように、行われて現地説明会が行われています。その様子は、必ず、「歴史を書き換えるほどの画期的な発掘」だと絶賛されます。
 全国で、どれだけ発掘されたか、プロの方でもご存じないでしょう。

そうして、日留山人さんの〔古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である〕の言葉になると思います。
 この本の発行は、昭和56年12月25日です。1981年のことです。27年前に書かれた文章です。きっと、発掘がある度に遠くても出かけられたと思います。私も出かけました。
 27年経ちますが、日本史の謎は深まるばかりです。

薬師のことは、昨日、次の所に掲載しました。興味がありましたら、覗いてください。
壬申の乱(53) 宮滝離宮(13) 舒明天皇(12)遣唐使(2)  

一言で無くなってしまいました。すみません。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん  H21.05.04

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2009.05.04

古事放談1-31

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-31
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崇神天皇の御世に丹波、山城、河内の中国軍を征伐した。更に北陸道や東海道から会津までの中国基地を征伐した。
 雲南系日本の船は全て失ったので、改めて船を作り水軍を周防から九州に進めたのは景行天皇の御世である。
 この時九州征伐は8年かかった。次の仲哀天皇も九州征伐の半ばで崩御された。
 景行天皇は福岡県の京都郡(ミヤコ)に基地を置いて九州征伐のスタートを切った。従ってこの時に三角縁神獣鏡の生産地は壊滅したと考えてよい。
 この付近の地図には呉、小呉、鏡山、図師の地名が残っている。更に敵が籠った山城が御所谷神籠石として見つかるだろう。
 ヤマトタケルも熊襲征伐を行った。この時は女装して宴会場にもぐりこんだのである。
かくし持った小刀で熊襲兄弟を殺した。
 この部下は頭目が殺されてもヤマトタケルを襲はなかったことは、部下は雲南系日本人で奴れいとして使役されていたためだ。
 熊襲こそは日本の絹を奪略していた商人だ。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.03

古事放談1-30

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-30
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107年に漢は侵攻を大々的にやった。これ以後は全国に点々と散在していた中国居住区も恐らく王帥升の統率下になったことだろう。
 これ以後の日本は雲南系日本人を統率する雲南系天皇と中国からの占領軍の軍司令官の二人の主権者になった。倭の五王も中国軍司令官だし、藤原はこの後継者で、この状態が11世紀まで続くことになった。
 漢も全盛期が過ぎて日本駐留軍に対する補給が170年代末期には途絶えた。
 銅鏡は漢の将軍の戦死者の副葬品として欠かすことが出来なかったが、これがなくては戦死者に申分けないばかりか志気に影響する。
 あわてて一つの銅鏡を数枚に水増しした、小型銅鏡が誕生した。
 次いで福岡県田川郡採銅所村に銅山を発見して、中国の呉の人が、中国よりもデラックな三角縁神獣鏡を作った。
 中国の銅鏡より大きいことは戦争経験者ならすぐお分かりいただけるだろう。満州国では何でも日本よりデラックスだったのだ。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

 一言----こんな短い文章で、銅鏡とは、どのようなものだったかを説明した人は、居られないでしょう。
〔福岡県田川郡採銅所村に銅山を発見して〕は大切です。採銅所という名前が地図に載っています。これは、地名なのでしょうか?  必ず地図で確認してください。ついでに、他の地名もみてください。鍛冶屋敷、鏡山、小呉、呉、新仲哀隧道 


〔何でも日本よりデラックスだったのだ〕
デラックスの時は、一番調子のいい時だったのです。前方後円墓もそのように考えますと、すっきりします。あの馬鹿デカイ箸墓古墳は、一番ふるいで正しいことになります。
 その後、古墳は小さくなっていきます。

現在のどこでも良いですから、お墓に行ってください。一番大きいのは、軍人のお墓です。終戦の昭和20年前に亡くなられた方のお墓です。小さい時は、背が高いはずです。 バブルが弾ける前のお墓も同様です。

〔倭の五王も中国軍司令官〕も重要です。倭の五王を日本の天皇と考えておられる人は、5人とも、正確にどの天皇であるか説明しなくてはなりません。

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2009.05.02

古事放談1-29

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-29
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九州が朝鮮(帯方郡)よりも中国大陸に近かったのである。しかも、前漢でも南越まで水軍を出して占領した。
 従って九州各地や日本海沿岸は漢民族に点々と占領された。この時には無統制だったので地名に加茂とか加茂が付けられた様だ。
 107年に面土国(友人が面土国のことで大宰府だとヒントをいただいた)に居った漢のスパイ王帥升が日本人を捕虜にして160人も連行した。
 この時には航海は極めて危険だった証拠で、ここにも技術は年と共に劣化する証拠があった。
 160人の雲南系の神武天皇が導入した人たちは、漢の大規模な水軍の日本語通訳に必要だったと考えてよい。
 この年行以後九州は景行天皇が8年かかって征伐するまで中国の植民地だったのである。
 魏志倭人伝の従って崇神天皇の御代には帯方郡の軍隊が日本侵略に主に使用された。 朝鮮的遺跡とは北鮮の中国植民地と同じ遺跡でよかったのである。


昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

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2009.05.01

古事放談1-28

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談1-28
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神武天皇は伯耆の高千穂で、これから東の賊を征伐することを決められた。そして境港の日向浦から西に向われたのである。
 北前船よりも昔にすでに大和を征めるために、北前船と同じ航路を通ったのである。
 先づ宇佐に行かれ友人を訪ねた。何んのためにわざわざ宇佐まで行って、後戻りして筑紫の岡田宮に1年も居られたのだろうか。 邪馬台国(吉備上道国)や投馬国(吉備下道国)の12万戸、200万人以上の人は雲南系だと中国人が証言してくれた。
 この雲南人の呼寄せを宇佐の友人に頼みに行かれたと考えたいのである。
 岡田宮はすでに発表して来たが、鞍手郡若宮町に残っている。戦争の時には要害の地を選ぶことが第一条件にふさわしい。
 南には雲南ゆかりの天坊と称する山がある。更に福の宮のつく地名が密集していることは雲南系日本人が早く地名が出来たときにすでに居った証拠である。
 遠賀流域の弥生期の遺跡は神武天皇とは無縁でなかった。

昭和56年12月25日 発行  発行者 日留山人さん

 一言----「この雲南人の呼寄せを宇佐の友人に頼みに行かれたと考えたいのである」とは、何のことだと思われますか?
可能性はありますね。沢山の船で、前触れもなく押し寄せますと、攻めてこられたかと思います。古事記には、【作足一騰宮而獻大御饗】と書いてありますから、宿泊の小屋まで造って待っていた上に御馳走になっています。
 日留山人さんは、神武天皇が雲南省から、人々を呼寄せたと推理しておられます。その根拠は、現在、神武天皇を祭る神社が、あちこちにありますが、その分布を眺めますと、最初にやって来たのは、天草で、その後全国に進出し行ったと推理しておられます。

【神武天皇を祭った神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
ご自分で判断してください。

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