邪馬台国は九州だとの説が99%以上である。更に、多数決の論理で九州説を支持する人が現れる。
この人達が古代史を謎にしたのである。更に学閥までが言論の自由を圧迫している。
素人がなにを云っても新聞社は大学教授にお伺いをたて、自らは何の調査もしないで報道すればよい、云はば密室構造である。
九州に照葉樹林があったと誰もおっしゃるが何が根拠なのだろうか。人工破壊で照葉樹林が無くなったのなら、火山とは一帯何だったのか。最大の自然破壊である。
倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか。
景行天皇の九州征伐はなぜ考慮にいれないで突然ある天皇以降の記述はホントだと採用されるのか。
古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である。
古墳の年代の決め方の編年表の基本は戦前で、放射性炭素の構成がなされていないのが謎の謎の由縁である。
一言----このページの意味はおわかりですか? 少々、日留山人さん、ご立腹の様子で、言いたいことが多すぎて、この狭いスペースに閉じ込め過ぎた感じかあります。
一生懸命、勉強をされてこられましたが、勉強するほどに、プロが考えられる日本史と自分が進もうとされる歴史とのかい離に、腹を立てておられるようです。
このシリーズは、4号までは、掲載しました。5号から11号がありますが、敢えて飛ばしまして、倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史を掲載しています。これまで、紹介してきました中には、九州の照葉樹林のことはありませんでした。
〔倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか〕と書いておられますが、倭人伝には、雲南系日本人のことは書いてありません。しかし、このように考えませんと、古代史は解けないと思います。
舒明天皇の御代に、遣唐使が派遣されました。第一回の時に、大仁薬師恵日という人が派遣されたことになっています。この人は、大仁と書いてありますから、十二冠位の三番目の高官です。薬師と書いてありますから、医学のことを勉強に行ったと書いてある資料がありました。630年のことです。この資料を造られた方は、間違っておられるのではないかと考えています。
東北に、いっぱい薬師を祭る神社があります。例を挙げますと、
陸奥(陸中) 胆沢 久須志神社「少名彦名命」胆沢郡胆沢町南都田字化粧坂16番地
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名命」牡鹿郡女川町大字飯子浜字飯子
祭神は、「少彦名命」です。この神の表記は、日本書紀に書かれている神の名前です。
同じ神と思われものが、古事記に書かれています。「少名毘古那神」と書かれています。
同じではないかと思われた方は、歴史を正しく理解できないと思います。祭神に、「少彦名命」と書いてある神社の集落は、一応、いつの日か判りませんが、日本書紀を作った人たちに支配権を奪われた可能性があります。
古事記は、712年の完成です。この古事記をみて、日本書紀が作られ、720年に完成しました。
実は日本書紀は、712年前に完成したと云われる方もおられます。「少彦名命」「少名毘古那神」と並べてみますと、確かに同じですね。どちらかが、真似をして、漢字だけを変えたからです。真相を知りたい方は、記紀に登場する地名と神や人の名前を全部書き出して調べれば、すぐに分かります。同じものは、殆どないという不思議なことに気がつかれるでしょう。それも、日本書紀がはじめにあって、それを手本に真似をして古事記をつくることは、不可能なことを発見されるでしょう。
「少名毘古那神」は、「スクナビコナノカミ」と読んでいたと推察できます。「少彦名命」のほうは、「スコナヒコナ」と呼んでいたと推察できます。
「ビ」と「ヒ」では、随分違います。なにが違うのか、ご自分で調べてください。一年では完成しないと思います。ということは、濁音を使った人と清音を使った人の違いは読み取る必要があります。
久須志神社では、祭神が少彦名命だけではなく、大国主神も祭られています。
久須志神社では、少彦名命と大国主神が祭られていますが、この二人が祭られている神社には、国津神社があります。九頭神社なども同じ系統の人たちが祭っていると思います。
その地を開拓して住んだ人たちは、大国主神が紀元前に、雲南地方から連れて来たと考えませんと、全国に分布しません。
殆ど、岡山県から、北、東に分布します。
このように順番考えていきますと、確かに、大仁薬師恵日は薬師であったのは事実でしようが、医学のことは、紀元前から、知られていたと解釈しませんと、紀元前は、裸足で走りまわっていた国ということになります。そんな国に、危険を冒してやってくるでしょうか? 中国人は、やってきました。韓国の方に云わせますと、そうではなく、日本にいろいろの知識を伝えたのは、朝鮮人だと云われるでしょう。
日本書紀を読みますと、遣唐使の派遣の合間に、どれだけ挑戦の人がやって来ているか、すぐに分かります。その合間に、遣唐使が派遣されました。渤海国の人たちもやってきました。世界の人が、アフリカを目指して行くでしょうか? 金でも出れば行きます。
630年のことです。この頃に、ワンサと日本へやって来た事実を抜きにしては、歴史を理解できないことになります。
日留山人の怒りは、景行天皇の九州征伐、古墳の発掘と止まりません。古墳の発掘は全国で毎日のように、行われて現地説明会が行われています。その様子は、必ず、「歴史を書き換えるほどの画期的な発掘」だと絶賛されます。
全国で、どれだけ発掘されたか、プロの方でもご存じないでしょう。
そうして、日留山人さんの〔古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である〕の言葉になると思います。
この本の発行は、昭和56年12月25日です。1981年のことです。27年前に書かれた文章です。きっと、発掘がある度に遠くても出かけられたと思います。私も出かけました。
27年経ちますが、日本史の謎は深まるばかりです。
薬師のことは、昨日、次の所に掲載しました。興味がありましたら、覗いてください。
壬申の乱(53) 宮滝離宮(13) 舒明天皇(12)遣唐使(2)
一言で無くなってしまいました。すみません。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん H21.05.04
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