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2009.06.30

古事放談 4-5

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-5
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河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。これは〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれている。
 吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。
 これは一時期九州も四国も飾磨も河内も支配していたのは共通の侵略者で漢の軍隊だったと考えてよい。この本拠が吉備だった。
 漢は180年頃には衰亡して2本の補給が途絶えた。この時漢から銅鏡が来なくなって三角縁神獣鏡を九州で作りだした。
 この時まで占領されていた吉備、飾磨(しかま)、美作(みまさか)、伯耆を孝霊天皇の御世に奪回して、強力な防備態勢を敷いたのである。
 漢が滅びて魏になると丹波に中国軍の基地を築いた。ここは山城、河内から最後には奈良の一部を残した大和まで侵略して来たのである。
 この時の軍隊は中国の植民地帯方郡の北鮮兵が主力だった。この軍隊を240年代に崇神天皇が撃破したのである。

一言---河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。
吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。大阪府高槻市の今城塚古墳も阿蘇の石棺と言われています。
〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれています。

読んだからといって、上に書いてあることは分かりません。阿蘇のピンク石は特別であることが判ります。

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2009.06.29

古事放談 4-4

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-4
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河内は北鮮人に侵略されていたとして、如何なる矛盾が生じるだろうか。
 文物は朝鮮から渡来したと云われる。これ位間違った判断を起こさせるものはない。
 北鮮と南鮮は古代には敵味方の関係だったのである。この状態は現在も似ている。
 北鮮は中国の植民地だったので支配者は中国人だった。
 河内はこの北鮮と同じ状態に置かれていたのである。一言主神すなはち倭の五王は中国人と考えればよい。この中国の将軍は前方後円墓に葬られ、副葬品に銅鏡を必要とした。
 北鮮人は軍隊である。小隊毎に集って生活しないことには何時雲南系日本人に襲われるか分らないのである。
 軍隊である以上食糧を自給しなくて良かった。集落を作って稲作等に不自由を来たしても差支えなかった。
 昭和57年9月9日の新聞には紀の川の北岸に7棟もの5世紀の倉庫群が出土したと大々的に報道された。
 これこそ河内の北鮮軍の補給庫である。

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2009.06.28

古事放談 4-3

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-3
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雲南系雄略天皇と同じ鹵簿行列で葛城山に登って行ったのは一言主神である。
 同じ雄略天皇の時倭の五王の一人が中国の宋の皇帝に、自分達の先祖は中国皇帝のために忠節をつくして来ましたと使者を出して奏上している。
 なぜ 学者達は雲南系の雄略天皇や仁徳天皇を倭の五王の一人にして、日本を中国扱いにしないと気がすまないのだろうか。
 魏志倭人伝に書かれた漢の武帝等に征服された所に居った雲南系日本人がなぜ中国皇帝に忠節を尽くしたと云えるのだろうか。
 一言主神こそ倭の五王の一人だとすれば、雄略天皇天皇が恐怖を感じた謎は解けるのである。
 河内には方形周溝墓が多い。なぜ集落をなした遺跡が見付かるのだろうか。
 雲南系日本人は水の近くに住居を設けた方が稲作に好都合である。反対に集落を作っては日常作業に不便ではないか。
 方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば、河内は侵略されていたことになる。

一言---〔方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば〕が正しいとしますと、えらいことです。全国、北鮮人であり異民族だらけであることなります。だけど、全国の方形周溝墓を調べる必要があります。
 6月15日、福井県の小浜市へ行ってきました。国分寺跡の近くに、府中という地名があります。国府があった可能性があります。ここで、平成20年に「小浜府中石田遺跡」が発掘されました。
http://www.pref.fukui.jp/doc/maibun-c/hakkutuitiran_d/fil/032.pdf ここには、弥生中世と書いてありますが、此の地は、海抜が2mです。近くの和久里でも3mですから、紀元元年の頃は、海だったのではないでしょうか? まだ、小浜市の歴史は、なんとも言えませんが、この古い頃は、どのような所であったか、考える材料にはなります。

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2009.06.27

古事放談 4-2

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-2
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血液型を例に取ればA型とB型もなくなることはない。
 民族間でも優性遺伝子は引継がれている。陳寿は1700昔に日本人の風俗習慣が海南島人と同じだと魏志倭人伝に発表してくれた。これは雲南系日本人と考えてよい。
 雲南も少数民族である。しかし漢民族や韓民族とは異なっていたのである。
 更に240代には伊都国は中国の植民地で中国人の軍使までが常駐していた。
 この敵味方に分かれた民族間に混血が行われただろうか。混血どころか闘争が断得なかったと考えるのが常識である。
 古墳から日本製でない武器が出土したのである。恐らく稲荷山の鉄剣も日本製ではないだろう。
 この様に考えると稲荷山の古墳の主の先祖が雲南系の雄略天皇だとする学説はおかしい。
 雄略天皇の時には雄略天皇さえも恐怖を感じた人に葛城山中で出会ったのである。このことは古事記にも日本書紀にもかかれている。

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2009.06.26

古事放談 4-1

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-1
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昭和57年9月10日の新聞に古墳から出土した刀は日本製ではなかったと書かれていた。
 日本の鉄の原料は砂鉄でこれには何千年たっても消滅しない微量元素が含まれていた。
 しかし出土した刀にはこの微量元素が欠けていた。鉄の素材を雲南系日本人が輸入して日本で加工しただろうか。 
 雲南系日本人と朝鮮の帯方郡の中国の植民地の人とは敵、味方である。これさえ分かれば刀の主すなはち古墳の主は敵と云わざるを得ない。
 雲南系日本人は家系を重視する。土地に対する執着が極めて強い。考え様によっては極めて排他的で他人者が自分達の村に勝手に入りこむことを好まない。 従って異民族との融和や混血は好まない。
都に出て出世しても墓は故郷に残すのが一般である。
 騎馬民族説では三代もすれば融和、混血? したと云われている。騎馬民族だけは異民族と融和する特長を持っていたのだろうか。


一言---「古墳から出土した刀は日本製ではなかった」----雲南系日本人と朝鮮の帯方郡の中国の植民地の人とは敵、味方である

このようなものの考え方を、最近の歴史家はしておられるだろうか、今、私は石田松蔵著 『但馬史 1』を読んでいます。8年前に古書店で買ったものです。大正7年11月1日生まれの方です。発行は昭和48年3月20日(1973年)。定価1300円でしたが、購入価格は1380円でした。買ったものの、ずっと、読んでいませんでした。
 高い本を買ったのに、なぜ 読んでいなかったかといいますと、面白くなかったからです。なのに、なぜ 読みだしたかと言いますと、書いてあることが、上と同じような考え方をしておられるからです。但馬は、このころでも遺跡の発掘が少なかったのでしょうか? 少なくても、いっぱいのことを書いておられます。それを元に自分で考えることができます。

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2009.06.25

古事放談 3-24

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-24
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チベット読みの数字、五弦の楽器、銅たくジャポニカ種の稲、絹—何れを取上げても数百頁を要するテーマである。
 しかもこの五つは複雑な目に見えない糸でからみあっていたのである。
 これを解いてくれたのは、隠岐、多賀、伯耆、蒜山高原の地名だったのである。
 更には隠岐や伯耆等の神社と神武天皇を祀った神社を取上げないことには、からみ合った糸はほぐれる筈もなかった。 
 前漢の武帝に登場してもらはないことにはヒルゼンでイザナギ命と天照大神、スサノオ命、月読命が落合われた謎が解けないで古事記は神話だと一言で片付けられて一巻の終だ。
 お前の話は分り難いと友人からはおしかりと励ましばかりいただいている。しかし、何れを取上げても単独では解けない問題ばかりだったのである。
 放談の第三部の一応の終りにしたい。題目がつけ様がないから放談とする外なかった次第である。古代史の放談はまだまだ続ける外ないと思案にくれている。

一言---田村誠一氏、12冊目の冊子を出版したものの、ここで弱音を吐いておられます。まとまった形の文章を書こうと思われたのでしょうが、纏めようがありません。
チベット読みの数字、五弦の楽器、銅たく、ジャポニカ種の稲、絹の5つを別々にいくら調べても、何一つ関係がないのです。
これを解いてくれたのは、隠岐、多賀、伯耆、蒜山高原の地名だったと書いておられます。

私は、田村氏の云われることを全部確認しました。一度、挑戦されれば解ります。絹のことをいくら調べても、江戸時代までのものばかりです。考古学では、刀に絹が巻いてあったぐらいです。折角、まかれてあるのが発見されたのに、誰一人として取り上げた人はおられません。銅たくときますと、膨大な資料があるのに、何のために、誰がつくったのか、どうして、急に無くなったのか。回答を書いた人はおられません。祭祀に使われたばかりです。古代の人は、祭祀ばかりしていたのでしょうか? 古墳から発見されたものも、祭祀につかわれたとの説明ばかりです。いい加減な話ばかりです。普通に考えれば、分かります。古代の人は、生きていくのが精いっぱいだったはずです。埴輪をならべて祭祀を行ったなどなどです。
 しかし、田村氏は、この後、又気を取り直して、19話まで発行されましたが、各論では駄目だと古事記と魏志倭人伝の読み方を書いた『燦然と輝いていた古代』を平成1年に発行。その後、『燦然と輝いていた古代』・続を平成3年に発行。『燦然と輝いていた古代・追』を平成5年に発行。300ページを超える本です。そして、最後に、『燦然と輝いていた古代・総集編』を平成12年に発行されています。
 
私は、田村氏の説は、一つずつ確認をしていますが、まだ、3分の1ぐらいしか調べていません。
 これは素晴らしいと、確認したことを3つの形で書いていますが、1日読んで頂けるのは、100人もありません。
 私は、違うかたちで考えを伝えようとしていますが、無理ですね。田村氏は「お前の話は分り難いと友人からはおしかりと励ましばかりいただいている」のは、良い方です。私の場合は、友人は、すべてなくなりました。そりゃそうですよ。会ったら古代史のはなしばかりするものですから、敬遠されるようになりました。
 一言のつもりが、長くなりました。

 引き続き、田村氏のお話をお読みください。

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2009.06.24

古事放談 3-23

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-23
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中国人不比等が書いた日本書紀にはイザナギ命がサノオに「天下をおさめよ」と命令したと書かれている。
 しかし古事記ではスサノオは天の岩戸事件を起こしたために神々の座から追放された。
 この事件はイザナギ命がスサノオ命に「海原をおさめよ」と命令して、スサノオ命が自分は米子平野の根の国に赴任を希望したために、発生したのだった。
 河原が河のそばの原である様に、海原とは海の近くの原で倉吉平野のことだった。ここに後日ヒルゼンから御所を移転した高千穂があった。
 イザナギ命はこの時天照大神に「高天原を治めよ」と命令され、これはこれはヒルゼン高原のことだった。
 天照大神を祀った神社はヒルゼンに2社あることが、天照大神が居られた証拠である。 
 月読命は「夜食之を治めよ」と命ぜられ、これは丹波の天田郡夜久野のことでよかった。
 夜久野の周辺に限って月読命を祀った神社が数社見付かったのである。

御断り----古事放談 3-7  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/06/3-7-2957.html
において、隠岐の神社が、一枚の地図に詳細に記されていましたので、許可を得ないで、掲載しましたが、許可願いをお出ししていましたが、どなたにも許可していないという返事を頂戴しましたので、削除しました。
 残念ですが、私のルール違反ですので、読んで頂いている皆さんにもお詫びいたします。

一つ一つの神社は、〔隠岐島の神社〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
は、ここに掲載しています。神社に興味のある方は、いつかは必要になると思います。コピーして保存して頂ければ嬉しいです。

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2009.06.23

古事放談 3-22

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-22
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スサノオ命は高句麗人である。この本拠は現在の淀江町に合併された高麗村唐王でよい。
 前漢の武帝は紀元前108年に北鮮を中国植民地にした。この時スサノオ命は隠岐に亡命して来たと考えてよいだろう。
 イザナギ命の許に集まった天照大神、スサノオ命、月読命の年代は前漢の武帝の時で矛盾は生じないことになったのである。
 しかも三人武帝に圧迫されて祖国を棄てた人達と考えたいのである。西域の楼蘭が同時期に幻の様に姿を消したのも、圧迫があったせいと考えたいのである。
 従って月読命は楼蘭から五弦の楽器携えて日本にやって来た。
 呉は揚子江の中流である。亡命する時には第一番に明日の食糧になる種を持って行くだろう。
 従って天照大神は揚子江の中流の稲の籾を持ってくるのが常識である。日本の稲が雲南の稲でなくて、揚子江中流のジャポニカ種であることはこれで解けたことになる。

一言---楼蘭の名前を聞いたのは、いつの頃でしょうか。NHKが、発掘された楼蘭を訪ねて放映していました。砂に埋もれた柱が所々に、斜めに刺さっている映像は未だに残っています。当時の話では忽然と消えたように説明されていましたが、その後の発掘で、多くのことが分かっています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BC%E8%98%AD#.E9.84.AF.E5.96.84.E5.9B.BD.E3.81.AE.E6.BB.85.E4.BA.A1
楼蘭の歴史の項に、
〔・・・・文献史料に楼蘭の名が現れるのは史記匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の支配者冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭・烏孫・呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。〕

〔イザナギ命の許に集まった天照大神、スサノオ命、月読命〕の部分は、古事記では、どのように表現されているか、ご自分で古事記を読んでください。イザナギの子供のうち、特別な子どもとして書かれています。
 
折角、歴史を学ぶのです。この辺りに学問は必要ないように思います。

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2009.06.22

古事放談 3-21

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-21
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イザナギ命の許に現れた天照大神は一体何所から来られたのだろうか。戦後言論の自由が認められて、この様なテーマも扱える様になった。
 昭和3年には日留山(蒜山――蛭山)に高天原があったと論文を書いた佐竹先生は不敬罪のかどで勝山中学の教頭から京城の平教員に左遷させられた。
 高天原が真実ヒルゼンにあったために不敬罪に問われたと考えてはいけないだろうか。
 津田左右吉先生も不敬罪に問われた。しかし審議はしては真実が分ってはかえって政府は困るので、審議はしないままに放置されたのである。歴史は裏を読むことが大切だ。
 さて中国の文献に周の呉の太伯の子孫が日本に居るうわさがあると書き残した
 これも根も葉もないデマならば、少と共中国の正史が取上げることはおかしいのである。太伯の子孫が日本に亡命したために、うわさ話にゴマ化して書き残したと考えるべきである。
 この周とは秦にほろぼされた国だったのだ。


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2009.06.19

古事放談 3-20

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-20
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五弦の楽器だけが独り歩きするだろうか。正倉院の御物の文献を見ていると、中国独自すなはち漢民族らしい例えば竜をあしらった図案のものが少いのである。
 唐から伝来したのであれば唐臭のものが最もはばをきかせておるべきではないか。
 反対に西域やそれ以遠のものがあまりにも目につくのである。例えば五弦の楽器にはラクダの素晴らしい絵がある。
 楽器は少く共踊りと一緒にやって来たと考えたいのである。踊る人が中国や朝鮮を素通りして日本に来られただろうか。
 この様に考えると天の詔琴すなはち五弦の楽器を持って月読命が隠岐から伯耆を経てヒルゼンに来たと考えたい。
 月読命を祀った神社は隠岐にも伯耆にもあることの謎は、この様に考えれば解けるのである。
 この時もたらされた踊が大宮踊でよいだろう。そして天の岩戸の前での神々の踊は恐らく、神をたのしませるお神楽と呼ばれる大宮踊の原型ではなかっただろうか。

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2009.06.18

古事放談 3-19

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-19
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シルクロード音楽の旅の最後の部分でクチャの人が踊りながら道を歩いて行く場面があった。ヒルゼンの無形文化財の大宮踊があまりにもこの踊によく似ていたのである。
 月読命が五弦の楽器を携えてヒルゼンにやって来て、踊を大宮人に伝えたとしたら如何だろう。
 地名で宮のつく所には雲南からの貴族が居った。大宮とは天子が居った所で、ヒルゼンには雲南からの大王を意味する天王の地名は4ヶ所もあった所である。
 大宮の「大」は大礼、大葬、大典の大と同じで単なる大ではなかったのである。
 ヒルゼンに大宮踊の名前が残ったことは高天原があった証拠であり、月読命が来られたと考えてよい今一つの証拠である。
 スセリ姫が五弦の楽器を持ってカケ落ちしたことはスサノオ命はヒルゼンの西北の高麗村唐王に住居があった。スサノオ命は唐王と称していたのである。

一言---シルクロード音楽の旅は、NHKで購入することができます。ヒルゼンに大宮踊を見に行くことを楽しみにしていますが、実現していません。
動画-- 大宮踊り動画

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2009.06.17

古事放談 3-18

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-18
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スセリ姫が神代に琴を持っていたのである。琴とは弦楽器のことで、すでにこの時日本には弦楽器があった証拠である。
 天の詔琴とは一体何だろう。すでに〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟で述べたがここに書かれた天(テン)とは天山山脈や揚子江の源流の通天河と同じ解釈でよいだろう。
 少名彦名神はカイコのまゆを開いたものをつづった衣物を来て、チベットの皮船に乗ってやって来た。この時は天の羅摩船と書かれていた。
 御所を造成するスコップは天の沼矛と書かれていたのである。沼を開墾する道具まで持参で高天原に雲南の神々はやって来たのである。
 天の詔琴の詔は実はこの当時雲南にあった南詔国の一字を取ってあった。ここにも雲南を裏付ける証拠が出てきた。
 これだけ資料があれば天の詔琴こそは正倉院の五弦の楽器が中国や朝鮮経由した根拠こそ何一つ無いのである。

一言----〔少名彦名神はカイコのまゆを開いたものをつづった衣物を来て、チベットの皮船に乗ってやって来た。この時は天の羅摩船と書かれていた〕
 この部分は、古事記解明として、見事なものだと思います。

〔天の詔琴の詔は実はこの当時雲南にあった南詔国の一字を取ってあった〕
この部分は、証拠などありません。人間は何千年たっても、こういう面があります。
歴史とは、学問などと言わないで、こうした単純な人間が繰り返して生きてきた蓄積であると考えればいいと思われます。
 自分のこどもが生まれますと、多くの人は、自分の名前の一部を付けたがります。

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2009.06.16

古事放談 3-17

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-17
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イザナギ命が夜見国(御ん墓原――黄泉国)にイザナミ命を見舞いに行って、8人の雷神(中国人)と鬼に追いかけられた。
 この時みそぎをしている所にやって来たのが天照大神とスサノオ命と月読命である。
 月読命とは一風変った名前だが、月の字がついていることは月氏族で大月国から来たと考えられる。
 当時すでに仏教があったので、大山、蒜山の山は仏教式に山を「セン」と名付けてあった。又蒜山には仏ヶ仙と「仏」がついた山までも存在するのである。
 シルクロード音楽の旅にクッチャの楽器と踊が出てくる。ここの壁画等には宮中の雅楽の楽器の多くが画かれていた。
 又正倉院の御物の五弦の楽器と同じ楽器も壁画に画かれていたのである。
 古事記では大国主神がスセリ姫とスサノオ命が居眠りしているすきにカケ落ちした。この時スセリ姫は天の詔琴を持って逃げたのである。 この琴が木にふれて音をたてたので、スサノオ命が目を覚ましました。

一言----〔この琴が木にふれて音をたてたので、スサノオ命が目を覚ましました〕本当かな、確かめてください。

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2009.06.15

古事放談 3-16

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-16
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シルクロードはテレビのお蔭で何千粁も離れて居りながら雲南系日本人とあまりにも多くのかかわりあいがあることが分ってきた。
 NHKから出版されたシルクロード第三巻に幻の楼蘭・黒水域のことが書かれている。 楼蘭について愉しく書かれているが、この国は紀元前120、30年頃に東洋史に名が現れた。
 しかも僅か50年後の紀元前77年には姿を消した国である。
 年代は前漢の猛烈な侵略者武帝の時代と一致する。
 楼蘭はシルクロードの真中にあった国で、日本からの絹がここを通って運ばれていたのである。
 絹は適当な湿度がないことには良質のものは得られない。中国の河北ではいくら絹があったとしても空気が乾燥しすぎていた。
 又、同じ前漢の武帝が紀元前139年の張騫を西域の視察に派遣している。これはシルクロードが西安に通じてなかった何よりの証拠ではないか。

一言---田村氏は「これはシルクロードが西安に通じてなかった何よりの証拠ではないか」と、遠慮がちに問いかけておられます。こんな簡単な事実だけで、少なくとも、シルクロードと言われて有名な道路が、これより後のものだと云っていいのか?
でも、これでいいのですね。

参考に

絹の性能
http://www.kimono-taizen.com/why/why_022.htm
 ここに絹の特徴が書かれています。絹は吸水性、吸湿性、放湿性が良いために、いろいろすぐれた所があります。これだけで、いろいろのことを考えることができます。
吸湿性がいいですと、木と同じことです。膨らみます。正倉院の校クラつくりは、木を三角形にして作られています。空気が湿りますと、水分を遮断します。絹の断面は三角形になっていますから、織物にしますと、湿気を遮断します。
 天気が良くなりますと、放湿性が良いために乾き易くなります。日本では特に、夏に使える織物と云えます。


新潟県における絹織物発祥の地とされる---http://www.m-activation.net/page066.html

発祥の地は、ホームページを書かれた方の考えでしょう。発祥の地と言われた割には、資料は江戸時代のものです。此の地は、雲南省の人たちが入植した土地です。歴史に証拠は残っていませんが、諏訪神社がもっとも多い県です。
諏訪神社の祭神は、建御名方神です。建御名方神は、大国主神の子供で、伯耆の国に住んでいた時に、アマテラスに国を明け渡すように命じられ、大国主神と事代主神は従いましたが、建御名方神は従いませんでしたので、勝負を挑み負けたことになっています。
 逃げた先が、諏訪湖の所です。いわゆる天孫降臨の時に登場する神です。絹の神とは書いてありませんが、絹が運ばれたと思われるルートを、助けられながら逃げたと推察しています。
 以上のことから、ホームページを書かれた人が云われている発祥の地は正しいかも知れません。

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2009.06.12

古事放談 3-15

古代史を調べている内についつい派生した事象が現れてくる。従って話が横にそれることが多くなって申しわけない次第である。
 中山王国を滅ぼしたのが漢民族で、この亡命者を日本まで追いかけて来て東北に征伐に行ったのが漢の皇帝の子孫だったのだ。
 この征伐の命令をだした藤原は中国人でないことには話が通じない。
 これも中国人の陳寿が240年代に雲南系日本人が2,300万人居ったと証言していたのである。
 この雲南系日本人の支配者が天皇である。前漢の武帝は猛烈な支配主義者だった。北鮮を紀元前108年に中国の植民地にした。
 南越まで水軍を出して占領したのは紀元前111年のことである。漢の軍隊は揚子江の上流から河を降りながら雲南地区を侵略したのである。
 揚子江の上流からせめられれば雲南の少数民族はいやでも揚子江を降りるわけには行かない。揚子江の謎のカーブから紅河に逃げる外なかったと考えたいのである。


参考に。

南越国の滅亡 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
【紀元前112年の秋、武帝は罪人と江淮以南の水兵併せて10万人に進軍を命じ、・・・・・。
激しい戦闘は1年間続き、紀元前111年冬、楼船将軍の楊僕率が精鋭を率いて尋峡を攻略、・・・・】

紅河 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%B2%B3
紅河ハニ族イ族自治州 


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2009.06.11

古事放談 3-14

古事記は天皇家の歴史であり、日本書紀は不比等が天皇すなはち即位制を創作したと述べて来た。(〝卑弥呼に捧ぐ〟)
 神武天皇とか孝霊天皇は後世に藤原氏が勝手にデッチ上げたのである。
 坂上田村磨呂の先祖が後漢の孝霊帝と書かれこの皇帝は中平5年4月に崩じたと系図に注が入れてあった。
 この中平5年は188年にあたる。わたしが推定した7代孝霊天皇は186年に崩御されたのである。
 藤原は同時期の天皇に中国の皇帝の名をつけていたことになる。
 念のため神武天皇の御世は中国では後漢の光武帝である。
 神武と書いて「ジンム」と読むことは異例中の異例である。
 神戸(コウベ---これ以外の読み方も多い)
神代(コウジロ)の様に神武は「コウブ」と発音すべきだ。この様に読めば同時代の中国皇帝の光武帝と漢字が似て発音が同じだ。
 偶然として片付けられる問題だろうか。

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2009.06.10

古事放談 3-13

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-13
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 陸奥には葦が繁るデルタ地帯には神武天皇の御世に計画的雲南系日本人が入植したことだろう。しかし稲が育たなかったのでここの雲南人は津軽を越えて太平洋岸を南下し関東平野にまで入植したと考えたい。
 津軽で米が取れなくても、津軽までの日本海沿岸は先に入植者があったので、後退する余地がなかったと考えたいのである。
 津軽等に雲南系日本人より以前に白狄人がすでに居住していたことだろう。この民族は焼畑、狩猟民族だから生活圏が稲作民とは異なり競合することはなかったと考えてよい。
 この民族が蝦夷と呼ばれ、征夷大将軍坂上田村磨呂が登場するのである。
 坂上田村磨呂の先祖は後漢の孝霊天皇だった。(〝系図綜覧〟258頁)これを派遣したのは藤原継縄で791年のことである。
 藤原は中国人だと〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟に述べて来たが、中国人坂上田村磨呂を重視したことによって中国人だとの推理に間違いはなかった。
 異民族間には戦争がないことこそおかしい。

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2009.06.09

古事放談 3-12

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-12
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イザナギ命に関する地名や神社が各地から現れた。しかも白狄人の王にふさわしい白王の地名までが銅たく分布の中心の近江八幡市の島(多賀、宮内、白王、王ヶ浜の地名がある所は当時島である)に残っていた。
 中山王国の人が山東半島に逃げたと書かれていた中にイザナギ命が含まれていたと考えたら如何だろうか。
 鹿児島や直方にイザナギ命を祀った多賀神社があることは、古事記を読んでから後世の人が創建したとは考えられないのである。
 古事記を読んで神社が創建されたのであれば天照大神を祀った神社こそ全国に分布しておらないとおかしいのではないか。
 イザナギ命は津軽までも行かれたことだろう。実はここにも相馬村に多賀神社があり、イザナギ命が祀られている。
 白狄人の一部は北方に逃げたが、ここには既に先住の狩猟民族が居った筈である。従って日本海沿岸に亡命する外なかっただろう。
 一部は津軽海峡を越えて太平洋岸を犬吠崎(犬が地名につく)まで南下しただろう。


一言----学問とは何だろうと最近、富に思います。歴史に限りません。医学でも、どの分野でも、専門化し過ぎて、普通の 考え方が出来なくなっているように思います。

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2009.06.08

古事放談 3-11

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-11
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日本書紀民族は騎馬民族だとの東大の江上説を古代史に興味をもたれる方はお読みになったことだろう。
 北方系の騎馬民族が日本に侵略(短期間だけ栄えたのであれば渡来ではない)して来て既に済んでいた原住民と混血したとの説である。しかも年代は別として騎馬民族にふさわしい、南方系ではない黄金製品等が出土したことが根拠になっていたのである。
 中山王国は騎馬民族であり白狄人と呼ばれていた。この民族は漢民族に囲まれて豪華な四頭立の馬車まで出土した。
 しかも装飾金具は黄金製だったのである。すでに述べたが銅たくがあった。この銅たくは近江中心で東西に焼畑と狩猟に適する所に拡がっていたのである。
 漢民族と風俗習慣が全くことなる狩猟みんぞくが漢民族の真中にあって前296年には滅ぼされたのである。
 北京の南にあったので一部が山東半島に逃げたことは中国史に書かれていた。大部分は狩猟で生活できる北方に逃げたと考えてよい。

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2009.06.07

古事放談 3-10

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-10
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イザナギ命が移られた所は近江八幡市の多賀で、祀られた所は犬上(犬神)郡の多賀大社である。ここにも地名に犬がつけられていた。しかも従来の解説書は移られた所を多賀大社と同じとしたのである。
イザナギ命を祀った多賀神社は鹿児島市、直方市、青森県の津軽平野の相馬村にある。
 多賀の地名は仙台の多賀城茨城県の多賀郡があり、この中間の福島県に相馬市がある。
 津軽平野の相馬村と相馬市は無縁ではない。だろう。この相馬市の合併前の五つの村等と多賀郡の五つの村の名前が共通だったのである。
 更に相馬市のやぶさめや馬追いと同じ行事が隠岐の最大行事だった。
 これだけの連関関係が見付かってはイザナギ命を最早神話上の人物として虚像することが許されるだろうか。
 これらの地名等は古事記や日本書紀の影響を全く受けなかったのである。
 アベコベに日本書紀ではイザナギを命を近江ではなしに淡路に移ったと曲げたのである。

一言----「これらの地名等は古事記や日本書紀の影響を全く受けなかったのである」
この文章は、凄いことだと思います。最近の歴史界は、考古学でなければ、歴史でないような傾向があります。
 いくら遺跡を発掘しても、いくら古墳を発掘してもなにも解明されません。出土したものが、いつ頃、使われていたかが、推察できるだけです。
 古事記や日本書紀をはじめとして、その他の残された資料は、書いてあることを全部正しいと思うことは、間違っています。
 古事記や日本書紀に書かれてあることから、何は信用置けるのか、知る必要があります。
手前味噌ですが、今、その手法を試みています。

【No569神武東征(18) 豊国の宇佐(19) 珍彦】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22 
 神武東征の折、速吸之門(はやすいなと)という所にやって来た時に、一人の海人が小舟に乗ってやってきた。珍彦(うずひこ)というものです。これは、日本書紀に書かれています。古事記でも書かれていますが、珍彦という名前ではありません。記紀ともに、乗ってきた舟は、艇(日本書紀)と亀甲(古事記)と書いてあるのに、「小舟」と翻訳しておられます。

 両方とも、軍用船を表しているのではないかと思って書いています。
その後、【No580神武東征(29) 豊国の宇佐(30)  古事記と日本書紀】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-06-06
まで、12回にわたって書いています。
日本書紀を書いた人は、何を書きたかったのか、古事記を書いた人も、同様に何を書きたかったのかは、このような調子で、記紀を調べていきますと、今後、新しい発見が出来るのではないかと思っています。

 これまでの様に、日本書紀と古事記が、どちらが偽物かという捉え方は間違っていることが分かると思います。

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2009.06.06

古事放談 3-9

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-9
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隠岐の犬来の近くにはイザナギ、イザナミ命を祀った神社があった。イザナギ、イザナミ命は中山王国から亡命した証拠があった。
 中山の地名は大山の北に中山村があり、津山に中山神社がある。この津山の北にそびえる山はイザナギ命に由来する那岐山である。
 この山の中腹にイザナギ、イザナミ命を祀る諾(ナギ)神社がある。
 中山王国の王の燭台には蛇と猿が足羅羅ってあった。中山神社の祭神に猿が含まれていたのである。
 大山の北の中山村には国主の地名があり、これはイザナギ命を指していることだろう。
この中山村から蒜山高原の途中に加勢蛇川と蛇ヶヶ峠があり蒜山高原には大蛇の地名があった。蛇の地名も中山王国に由来していた。
 お断りしておくが中山国は2300年間幻の国で発掘が始まって数年にしかならないのである。
 中山王国は騎馬民族で北京の南すなはち漢民族に囲まれた白狄人の国である。イザナギが移られた所には白王の地名まで現れた。

一言----〔大山の北の中山村には国主の地名があり、これはイザナギ命を指していることだろう〕この部分は、正しいようで正しくないかも知れません。「国主」という地名は、他にもいっぱいあります。似たような地名に、国巣、国樔、国栖、国主、国津、来栖、栗栖、楠、久須があります。ここでは、大国主神と少名毘古那命が祀られていることが多いので、大山の北の中山村のことは、検討を要します。
〔この中山村から蒜山高原の途中に加勢蛇川と蛇ヶヶ峠があり蒜山高原には大蛇の地名があった。〕は事実です。
頭の隅においておくべきことだと思います。

以下の二つは私が書いたものです。
No22 美作国の高野神社と中山神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-08-23
 ここは気になりまして、2回行きました。 中山神社は痛んでいました。国の保護が必要です。美作国はユダヤ人と関係があったのではと考えています。

日本大好き No133 イザナギは中国から来た
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-23

諾神社参拝記リンク先
http://websakigake.sakura.ne.jp/06-214.html

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2009.06.05

古事放談 3-8

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-8
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チベット式の数字の読み方を追求して行く内に隠岐にたどりついたのである。 この隠岐に過疎の地に犬町と犬来の地名がある。犬が来たとは珍しい地名である。参考までに目に着いた所は安来(安南から来たことだろう) 富来 (能登半島にあり近くに福浦と福ノ神族の地名があるので富来は福来すなはち雲南人が来たと考えたい) 戸来 (先に述べた様にヘブライ人--伝説ではキリスト、が来ただろう)等が見つかった。
 古代の地名のつけ方の一つである。この犬がつく地名が蒜山高原に犬挟、犬畑と二ヶ所ある。
 ここで2400年昔の中山王国の文物展を思い出した。この文物展には目をみはる美術工芸品にまじって中山王の二頭の愛犬が金銀の首輪をつけたまま展示されていたのである。
 この文物展には銅たくが14ケ音階順に並べて出品してあった。イザンギ命が移られた青海八幡市の隣の野洲町と神戸市からも銅たくが14ケ出土していたのである。
 イザナギ命は中山王国からの亡命者だった。

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2009.06.03

古事放談 3-7

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-7
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外国から渡来するにしても、中国の水軍だけが何万の単位で敵前上陸出来たのである。
 これ以外の少数民族は仮に数人で渡来しても隠岐だけが他から攻撃されずに上陸出来た、日本でも珍しい地形である。
 しかもここに外国人が来たことは隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社があることで証明される。
 イザナギ、イザナミ命の間に天照大神、スサノオ命、月読命が生まれたとはおかしい。伯耆の387社の神社の祭神はすべて古事記の神代に登場する神々だったことを解いた学者があっただろうか。
 少く共古事記を神話と考えて来られた学者に取っては困った問題が出て来たことになる。
 この伯耆の南に蒜山高原があり、ここにも天照大神、スサノオ命、稲田姫、事代主神を祀った神社があったのである。
 神々が隠岐から伯耆を経由して蒜山高原に来られ、ここを高天原としたのであれば謎は解ける。蒜山高原は古代の都があったにふさわしい広大な要害の水田が出来る高原だった。


一言----歴史に地形が重要であることは、誰でも知っています。その証拠に、各府県の歴史を扱った書物では、はじめのページには、地形のことが書かれています。しかし、その地形が、当時住んでいた人たちに、どのような影響を与えていたかを書いておられる人はおられません。
 たった三行ですが、凄いことを書いておられます。
此の事は、現地を必ず、訪問された田村氏が、肌で獲得されたことではないかと思います。
私は隠岐には行っていませんが、田村氏が書いておられる所は、殆ど行ってきました。行った所が、2000年前の物があるわけではありませんが、地形はそのまま残っています。

①〔隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社がある〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html

②〔伯耆の387社の神社の祭神はすべて古事記の神代に登場する神々だった〕
まだ、全部調べていませんが、次の所に掲載中です。コピーして利用してください。
http://asilka.blog61.fc2.com/

③〔蒜山高原があり、ここにも天照大神、スサノオ命、稲田姫、事代主神を祀った神社があった〕
〔ヒルゼン高原に渡来した神〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page686.html

次の図は、隠岐島にある神社の位置と神社名を示したものです。
あいらんどパークホテル 的射氏より頂いたものです。

2007年 産経新聞1週間隠岐の連載の記事がでましたが、その時紹介されてた八幡
浩二さんが作成したものですとのコメントが書かれてありました。

掲載の許可を得ていませんので、拡大したら字がボヤケルようにしました。
島の様子は、ご自分で他の所から、得てください。隣の集落に行く道はすくないよう
に思いのます。
島中、神社がいっぱいである雰囲気だけをご覧ください。

この下に、地図を掲載していましたが、あいらんどパークホテル 的射氏に許可のお願いをしましたところ、掲載しないでほしいとのことでしたので、消去いたしました。八幡浩二様には、ご迷惑をおかけいたしました。お詫び申し上げます。
 
尚、隠岐島の神社のすべては、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html に掲載しています。その多さだけを見ていただきましても、凄い島だということが分かります。ただ、古代には、各神社を結ぶ道はあまり多くなく、川ごとに集落があり、神社も独立していたのではないかと想像しています。 一番いいのは、実際に隠岐島に行って歩くのが確かかも知れません。

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2009.06.01

古事放談 3-6

隠岐から話が横にそれたが放談としてお許し願いたい。先づ隠岐には大きな島が四つふったのである。
 しかも隠岐の島は周囲は山が海岸までせまって、所によっては300米の断崖がそそり立って無数の入江がある。
 従って異なる民族が沢山やって来ても、お互いに争いなしに独立したコロニーが築けたのである。
 漢字が分る人も現代式の数字の読み方をする人もタミール語を語源とする人も隠岐に集って来てお互いに通じる日本語が形成したと考えたい。
 中国の漢字と同じ意味の訓読みがここで発明されたのである。「子淡道之穂之狭別島」が分る人が紀元前に日本に居ったのだ。
 隠岐で日本語が形成されれば、東北に一戸から九戸まで現代式地名の読み方があっても不思議ではない。
 九州から日本語が漸進して東北にまで伝ったのであれば言語の基本の数字の読み方が統一されることはあり得ただろうか。


一言---なんだか丸め込まれたような気がしないでもありません。無理のないところが心地良いです。

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