« June 2009 | Main | August 2009 »

2009.07.31

日本語のふるさと(4)

*****************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(4)
*****************************
遣隋使や遣唐使の成功の確率が非常に低かったことは、この時代には、中国も海を行く航海術を忘れてしまっていた。
 三国志の時代の様に揚子江を挟んで戦争をした時代の方が航海術にたけていた。この時点で正倉院の五弦の楽器をふりかえって見てほしい。最早危険を犯しても、楽器の演奏者もましてクッチャの踊り子も日本に来る筈はなかったのである。
 少くともヒルゼンの大宮踊りは、天子の子が踊るのに文句通り、天照大神がヒルゼンに居る時に歌われたものである。
 いかも月氏族である月読命が直接クッチャから踊りを伝えたとすれば納得のいく問題である。
 残る問題はクッチャからはたして、シルクロードを通って西安まで来て、中国を素通りして日本になぜ来たかである。
 西安にまで日本が如何に素晴らしい国だと伝わっていただろうか。
 全てノーと返事する外ない。

| | TrackBack (0)

2009.07.30

日本語のふるさと(3)

***************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本語のふるさと(3)
***************************
日本の中国との交通に関しては、魏志倭人伝を注意して読むことである。魏の都とは、3500キロ位離れている。
 久米国から攻撃を受けると早速、指図を仰ぎに、朝鮮まで行きそれから使者が魏の都に行った。すぐ軍使が日本まで飛んで来たのである。
 書かれているだけでも公式訪問は2年に一度位、お互いにやっているではないか。
 明治時代までの京と江戸位の旅行感覚だったのである。水さかづきして行き来したから日本国内の方が危険度が高かったかも知れない。
 魏の軍使が248年頃命からがら逃げ帰ってから425年まで国交が断絶した。この間に日本人は航海術を忘れてしまった。
 船が壊れるとますます丈夫にして重くしたのが間違いだった。これでは手でこいでも進む筈はなかったのである。
 皮船に一人乗って居れば、これ位安全なことはない。しかも手でこげば船は進し風も利用出来たのである。

| | TrackBack (0)

2009.07.29

日本語のふるさと(2)

***************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本語のふるさと(2)
**************************
五弦の楽器にはラクダの背に楽人が乗って演奏している姿が象がんされている。
 これだけ素晴らしい楽器を演奏者をつれないで日本にもって来ただろうか。立派だから、貴重品だから益々演奏方法を知らないで日本に持ってくることはあり得ないことである。
 まして 朝鮮経由で、朝鮮にさとられない様に楽器だけを日本に持ってくる位おかしな話があるだろうか。
 五弦の楽器は演奏者はもちろんのこと、踊りのチームも日本に、しかも朝鮮経由でなしに直接来たとしか考えられない。
 シルクロードから西安なら、これだけ素晴らしい楽器は中国の王墳から多数出土しないことにはおかしいと考えられるが如何だろうか。
 クッチャの踊りに至っては、踊りが中国に伝わって先づ中国で普及してから、日本に伝来しただろうか。踊る人が直接西安を通らずに、揚子江を皮船で下れば、日本海には対馬海流と偏西風で安全に来られたのである。
 これこそ古代史を解く鍵である。


一言----古墳が発見されますと、中から、何が出土したかで大騒ぎになりますが、其の古墳の周りの状況から、ある者が、出土しないとおかしいことが判りますと、出土しなかったことが重要になります。

 田村氏の発想「シルクロードから西安なら、これだけ素晴らしい楽器は中国の王墳から多数出土しないことにはおかしい」の疑問が生まれます。
 では、他にルートはあるだろうか・・・・。

| | TrackBack (0)

2009.07.28

日本語のふるさと(1)

**************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(1)
**************************
NHKのシルクロードの放映は、日本人のふるさとは意外な所にありそうだと教えてくれた。
 ヒルゼンには天山山脈の南のクッチャの踊りと同じ踊りが大宮踊りとして残っていた。
 歌の文句には天子(テンコ)の子が踊るとなっている。
 大和や京都に都があった時に、こんな、うちとけた文句が歌に入れられるだろうか。
 これ一ツ考えてもヒルゼンに天照大神が居られたと云えるのではないか。
 このヒルゼンの踊りは大宮踊りと呼ばれ、無形文化財である。大宮と勝手に後世の人が名前をつけられただろうか。
 大宮とは大和や京都の様に日本の都でないことには、自由に使える言葉ではない。
 天山山脈のクッチャからは、宮中の雅楽が伝わって来た。又正倉院の五弦の楽器が伝わって来た。
 五弦の楽器は何度写真を眺めても、古代にこれだけの宝石をちりばめたものが、どうして、出来たものかと目を見はるものである。


一言、NHKのシルクロードの放映は是非もう一度、見て欲しいものです。お金のある人は、CDを買いますと、何度でも見ることができます。お金のない人は、図書館で見ることができます。図書館に行く時間のない人は、NHKで、もう一度放映するように、ハガキを出します。こちらは当てになりませんが、NHKのシルクロードは、文化財だと思います。

ヒルゼンの大宮踊りは、今年は訪れて、一緒に踊ってください。文化は、みるものではなく、一緒に楽しむものです。

| | TrackBack (0)

2009.07.26

日本のあけぼの(10)

****************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(10)
****************************
中国と日本が1枚の地図で、シルクロードやチベット、雲南の放映を眺めて欲しい。
 三国志の戦略家の行動半径を考えて欲しい。孔明は揚子江を2500キロ遡った蜀で兵力を養った。
 魏国が使用する手でこぐ船では揚子江は遡れないのである。
 秦の始皇帝や中山王国が如何に高度の文化を保有していたことか。しかし何れも突然滅ぼされたのである。
 この時期がイザナギの命や天照大神と同じ頃だったのである。
 しかも日本と支那大陸は当時のセンスでは揚子江の両岸位の距離である。日本が中国と無縁と考えられる根拠すら見当たらない。
 チベットの皮船なら風速10米の偏西風なら、揚子江から日本まで1日で来られる。
 対馬海流を利用すれば1ノットでも雲南から日本海岸まで50日はかからない。
 こんなチベットや雲南、シルクロードから簡単安全に来られる所に、中国の圧迫を受けないですむ天国があった。

一言----毎日、田村誠一氏の『 第8話 吉備にあった漢の古墳』の冊子を1ページずつ、書き写して紹介しています。田村氏は、驚くほど、あちこちに行かれました。しかし、上に書いてあることは、日本国内をいくら歩いても、かける文章ではありません。 では、ここに書かれた所にはいかれたのかと言いますと、きっと、行っておられないと思います。
テレビはよく観られたようです。 [シルクロードやチベット、雲南の放映]
本はよく読まれたようです。 [三国志・秦の始皇帝や中山王国の書物・偏西風関連の本・揚子江は写真集か・対馬海流・最大の能への刺激は地図のようです]

これほどに、多岐にわたる知識が増えますと、勝手に想像力が湧いてくるのですね。

想像と言っても、この文章に書かれたことは、正しいように思われます。
後は、実際に行って、確かめるだけです。

そのためには、時間とお金と体力です。

田村誠一氏は 明治のお生まれだったと思います。

| | TrackBack (0)

2009.07.25

日本のあけぼの(9)

お粗末な国産の銅鏡が作られた背景にはこんな事情があったのである。
 その内に銅が足りなくなって小形の銅鏡にせざるを得なかった。180年頃には本国の漢が衰亡しつつあったので銅の補給まで絶えたのである。
 188年に漢国でスペイン風邪が猛威をふるい日本には漢の補給船で伝染した。大和にまでも流行し人民の大半が死んだのである。 漢の占領軍はスペイン風邪で全滅にひんし190年孝霊天皇の御世に降伏した。卑弥呼を共立して倭国大乱が収まったと誤魔化した。
 崇神天皇の御世に漢の再来週に備えて、瀬戸内海から紀州の海岸に高地性集落を築いたのである。同時に吉備上道国に7万戸、下道国に5万戸の屯田兵を配備した。
 これ以後は魏志倭人伝によって別稿で説明を加えておいた。
 朝鮮総督と魏の将軍が240年に詳さに倭国の軍備を視察した報告が魏志倭人伝である。
 日本は絶えず中国から占領目標にされる位恵まれた環境だったのである。

| | TrackBack (0)

2009.07.24

日本のあけぼの(8)

**************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(8)
**************************
漢は20万程度の水軍を日本攻撃に使用しただろう。しかし瀬戸内海沿岸はまだ稲作が始って居らなかった。 
食糧を占領地で略奪する中国の戦術が日本では通用しなかった。さりとて支那海を手こぎの船で本国に引揚げられなかったのである。
中国から僅かづつ食糧の補給を受ける外なかったのが長期戦が何十年も続いた理由である。同時に佐賀平野で自給するための稲作まで始めたのである。
おひただしい漢の銅鏡は日本人が欲しくて入手したものではない。漢の兵隊が死ねば、1人1枚づつ墓に入れてやった。
師升等の漢の将軍は吉備で死んだので、漢の最新式の前方後円墓が吉備に残った。
九州の北部は漢軍の中継基地であり、食糧の補給基地だった。一つの古墳に漢の銅鏡が20枚、30枚と入りられたり、佐賀平野の古墳が1枚ずつ埋葬されたのが理由である。
日本人の古墳で銅鏡が出土すれば手柄を立てた証拠として埋めた筈である。銅鏡は戦死者が多くなって足りなくなった。


一言----こんなにシンプルでいいのかという気がしますが、これは、最高だと思います。歴史学は、あのりにも学問的になり過ぎています。

| | TrackBack (0)

2009.07.23

日本のあけぼの(7)

***************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(7)
***************************
稲作の計画移民は日本海側の全河川と潟には例外なく入植した。津軽平野は東北では最も多く入植した所である。
 稲作技術は1世紀には全国に一先づ行き亘った上で、不毛で中止した地域が生じた。
 この時に近畿を中心にニギハヤヒが勢力をのばして行ったので神武東征が行われた。 大和に進駐したがニギハヤヒは勝チ目がないと、分かるとサッサと神武に寝返って、あべこべにナガスネヒコをニギハヤヒの部下に殺させた。  
 この事件が50年頃片付いたのである。銅たく圏が同時に消滅した。
 107年には将軍師升が九州にスパイとして潜入した。
 天皇だけは銅たく圏の中心で、にらみをきかせ、軍隊は、日本海からも攻撃されにくい美作の久米国に置いた。

| | TrackBack (0)

2009.07.22

日本のあけぼの(6)

**************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(6)
**************************
ヒルゼンから撤退したのは紀元前1世紀である。これと同時に天照大神は月読命の隣りの大江山に隠遁した。
 この二人の天ツ神は大江山の麓の伊勢神宮にまつられた。現在は大江町で元伊勢である。
 イザナギの命が築いた銅たく圏はナガスミヒコが引継いでいたのである。
 丹波国に中国からニギハヤヒがやって来て天照大神の子孫になりすました。
 ナガスネヒコとイザナギの命は天照大の友人だったことを知っていた。この状態の所にニギハヤヒが自分は天ツ神だと偽って自己紹介をした。ナガスネヒコはニギハヤヒを天ツ神と信じて尽くしたのである。
 この年代は紀元ゼロ年から50年のことだ。天照大神から5代目の神武天皇の御世である。天孫族は玄米主食で長生きだから親子4代が同時に生きていたじだいである。 
 神武天皇はチベット雲南等の少数民族を大量に計画移民として導入した。この時日本にやって来た稲作民は百万以上だったと思われる。

| | TrackBack (0)

2009.07.21

日本のあけぼの(5)

***************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本のあけぼの(5)
***************************
残る一人が天照大神である。この人の家系が古事記である。恐らく中国の周の時代の呉から少人数でやって来た貴族である。
 イザナギの命は天照大神に高天原を譲って近江の近江八幡に移った。ここを本拠地にして中山大国の縁故者を近畿一円に入植させた。
 この人達だけが銅たくを日本でまねして作って生活をエンジョイしたのである。
天照大神はヒルゼンに留って稲作を試みたが、米はできなかった。この時ヒルゼンに居った人は万をはるかに超えていた筈である。
 この時スサノオの命の子孫の大国村のボスだった大国主命は米子平野を支配していたのである。
 この米子平野は稲作の適地だったので、天孫族は談判の末手に入れた。
 大国主命はかってヒルゼンを追われた、スサノオの命の子孫であることを思い出して欲しい。早く云えば天孫族とは仲が悪かった。
 米子平野を手に入れると天照大神は、ニニギの命にバトンを渡してヒルゼンから倉吉の高千穂に政府機関を移した。

| | TrackBack (0)

2009.07.20

日本のあけぼの(4)

******************************
  第8話 吉備にあった漢の古墳
    日本のあけぼの(4)
******************************
中山王国からの人達にイザナギの命が含まれていた。中山王国は北京の南で300年間狭い、一県位の所で独自の高度の文化を持った、狩猟と焼畑の少数民族白狄人の国だった。
 中国の中から追出されても、イスラエルを追われたユダヤ人と同じで、白狄人には、行く所があったろうか。
 この人達も少数民族で決死的に脱出して日本海沿岸はもちろん、津軽海峡を越えて、太平洋岸を房総半島まで南下した。
 この人達は日本で狩猟と焼畑の適地を選んで住んだ。北方系民族だから日本でも、東北が多くなったのは当然である。
 隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した。ここが高天原である。ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である。しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた。
 シルクロードのかなたから月氏族の月読命がやって来た。この神は丹波の夜久野の国をあてがわれた。福知山周辺の広大な原野で天山山脈の南と同じ地形であった。古代の人は日本の地形を驚くばかりよく知っていた。


一言---いかがですか。煙にまかれたように思われたでしょう。全部、始めて知られたことばかりだと思います。全部、自信に満ちた文章です。
例えば、「福知山周辺の広大な原野で天山山脈の南と同じ地形であった。古代の人は日本の地形を驚くばかりよく知っていた」の記事は本当でしょうか?

これを確認することは容易でありません。福知山は簡単です。田村氏の所為で、私は5回行く羽目になりました。まだ、完全ではありませんが、地図なしで走ることができます。
天山山脈の南は、行くことが出来るのでしょうか?  行かなくても、地図があれば解ります。10年前ですと、中国から地図を持ち出すことはできませんでした。中国へ行った人に勝手来るように頼みました。もし、カバンをチェックされて地図が見つかりますと、2,3日の取り調べを受けたと思います。現在は日本で買うことができますが、地形図は較べようがありません。田村氏は天山山脈も行かれたのだと思います。

〔隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した。ここが高天原である。ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である。しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた〕二なりますと、もっと、大変です。
 〔隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した〕を証明するためには、隠岐とヒルゼンに共通点を見つけるしかありません。隠岐とヒルゼンに行きませんとお話になりません。
〔ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である〕これは、古事記に書いてあるのですが、古事記を100回ほど読みますと、分かるかも知れません。
〔しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた〕 これは、古事記を一回読んだだけで分かります。

〔中山王国は北京の南で300年間狭い、一県位の所で独自の高度の文化を持った、狩猟と焼畑の少数民族白狄人の国だった〕は、調べてもきっとわからないと思います。

| | TrackBack (0)

2009.07.19

日本のあけぼの(3)

**************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(3)
**************************
恐らく紀元前1000年頃に一隻の皮船が隠岐の島後に漂着しコロニーが形成される。
 皮船はチベットから、川を下って対馬海流と偏西風で隠岐に運ばれたのである。
 日本民族を形成したのは中国に圧迫された民族で、漢民族は居らなかった。
 朝鮮は如何に地理的に近くても、後世帰化人として認められた人以外には日本民族には含まれて居らない。
 日本人は全てポートピープルである。気概を持った進取の気性に富んだ少数民族だから中国の迫害を受けたのである。
 ポートピープルでもベトナムの様に、第三国が介入して同一民族の半分が漢民族となったのとは本質的に異っている。
 朝鮮と九州は地理的に近くても、三国史記では5世紀までは、全く交流した様子は、うかがわれない。
 隠岐に次に渡来したのは中国の中山王国からの亡命者であ。島後のチベット人と反対側にコロニーを作り、その内にチベット人と交流が始った。


一言----この文章を読まれた歴史のプロの方、なんと馬鹿げた仮説だろうと思われたでしょう。証拠はゼロです。こんなつまらない文章を載せるから、インターネットで引っ掛かり、読む羽目になったと思っておられるでしょう。
 歴史のプロでしたら、インターネット見たいなものに頼らないで勉強してくださいと云いたいです。
 少し、歴史の勉強をされた方ですと、自分が勉強したことと、全く違うことが書いてあるので、何と馬鹿な人だと思われたでしょう。歴史好きの方は、勉強されたと思っておられるでしょうが、歴史のプロが書かれた本を読んで、自分が共鳴した部分のみを取り込んで、自分の考えだと思っておられるだけです。

田村氏は 日本のあけぼの(2)で書いておられるように、本屋で手に入れることが出来るものは、200冊。全部買われたと思います。その他に、図書館にある本も読まれたと思います。
 そして、古事記と日本書紀に書いてあることは、考慮に入れないで、考えたと書いておられます。

 そうしましたら、上に書いてあるような仮説になったと云うことです。それにしても、自信満々ですね。今度は、この仮説を立証できる材料を探されたことになります。

それにしても、この自信に満ちた態度が気に入らない方がいっぱいだと思います。
私も3年ぐらいは、少々腹が立ちましたが、少し、ギャフンと云わすことが出来ないかと思いながら、田村氏が言われる本は全部読みました。言われる神社にも行きました。書いてある地名も見に行ってきました。地名を見に行くということは、どう言うことだと思われますか。
 
そして、最近は、書かれてある仮説は、正しいように思えるようになっていますが、一言では、説明ができません。 
 
 頑張って、転載しますので、最後まで読んで頂ければと思っています。

| | TrackBack (0)

2009.07.18

日本のあけぼの(2)

**************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本のあけぼの(2)
**************************
現在本屋で手に入る本は、200冊許りは目を通したのである。この中で不信に思った点については別のアングルから解明したつもりである。
 古墳等の年代は科学的根拠のないものは無視したので、読者は時に2世紀以上の開きがあることに気付かれるだろう。
 古事記にも何ヶ所おかしい所があったが気付いた時は意見を書いておいた。古事記には根っからの神話は全くなかった。
 日本書紀は天皇が即位出来る筈もないのに即位させて、所々エトを中国に合わせ全くの偽書だった。
 古事記は天皇の家系だから、歴史としては日本書紀ほど精しくない。
 地名が歴史を教えてくれるのは、その地名がつけられて23世紀位の期間だろう。従って地名のパターンで崇神天皇までの歴史を考えて見たのである。
 日本人と日本語のルーツとルートを考えるのに役立ったのは、シルクロードやチベット雲南のNHKの放映だった。

| | TrackBack (0)

2009.07.17

日本のあけぼの(1)

*****************************
第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本のあけぼの(1)
*****************************
昭和55年8月に友人に大山・蒜山国立公園のヒルゼンに高天原があったとの、ヒントを与えられた。
 この時以来思い付くままをパンフレットにして来たのである。予備知識ゼロでしかも電気ヤが極めて断片的なことを月々一冊にまとめて友人に配って来た。何回お前の書くことは分かり難いとご意見を聞かされたことか。しかし改めるよりも、日本の建国のベールに包まれた部分が分かる度に、分っただけでも書いてお知らせする気持ちにかり立てられて来た。
 昭和56年の終戦記念日が近づいた。一先づ自分なりの、日本の建国を全く別のアングルから眺めた有様をお知らせしたい。
 最初に先づ古事記、日本書紀の影響を受けた資料は一切採用しないことにした。国土地理院の5万分の1に載った地名を主にして、地名パターンで、最初地名を必要とした人々を割出したのである。地名には歴史が語られている筈だ。仮りに地名が変更になったのであればこれも歴史である。


一言-------今日から、【第8話 吉備にあった漢の古墳】の始まりです。
 この文章は、田村誠一氏が作られた第8番目の冊子に掲載されているものです。
田村誠一氏は、故人ですので、この文章におかしい所がありましても、返事を書くことはできません。 
 ここに書かれてある歴史が、正しいと間違っていることではなく、全く、歴史の知識がない田村誠一氏が、どのように考え、晩年を楽しく過ごされたかを知って頂ければと思います。

 歴史のある国に生まれた者のみが、経験できることだと思います。

| | TrackBack (0)

2009.07.16

古事放談 5-8

ヤマトタケルが甲斐征伐したが、ここには富士川があり、銅鏡が出土し、前方後円墓が非常に多かった。地名にも龍王村、山城村、駒城村と中国臭の地名が残っていた。
 天竜川、千曲川等と数多くの川が中国人に占領されていた証拠が備っていた。
 これらの全ての占領地に共通した条件は絹だったのである。
 九州で最近出土した絹は紀元前100年のものだった。地名に絹に縁のあるものがこれらの川の流域から見付かる。
 これは漢字で最初に地名を付けた時に絹がすでにあった何よりの証拠である。
 青森のチベット式発音の数字がついた地名や田の付く地名は2000年昔のものと考えてよい。
 この絹が紅河から西域に運ばれたと考えたいのである。しかもある時期この絹は中国人に奪略されていたのである。
 シルクロードはやはり日本書紀から始まっていたし、中国で出土の上等の絹は日本産だった。

一言----倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史は、これで終了です。この冊子は、112ページのものですが、昭和56年12月25日の発行になっています。
この冊子では、「この絹が紅河から西域に運ばれたと考えたいのである」と書かれて、推理されただけになっていますが、その後の調査で、証拠はいっぱいでてくることになります。
 
昭和55年11月21日の発行の第1話 神々のふるさと ヒルゼン
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.htmlから始めて、第4話まで紹介しました。考えがあって、第12話を紹介してきましたが、次回は、やはり飛ばして、第8話を紹介します。
 
 全くの歴史の素人である田村誠一氏は、友人から、ヒルゼンが古事記に登場する高天原と聞き、自分なりに調べを進めるうちに、次第に、本当のことであると思われます。
 そうするほどに、現在の正しいとされている歴史と離れていくために、だれにもれなくて、落ち込んでみたり、反発してみたり、その苦労のあり様が、あちこちで見ることができます。
第12話 河を忘れた古代史では、タイトルは立派ですが、はじめから、仕舞まで、「古事放談」でした。しかし、決して言いっ放しではなく、短い文章の中に、怒りも織り交ぜながらの叫びに似たものがありました。コピーでもして、又読み返して頂けましたら、嬉しいです。

| | TrackBack (0)

2009.07.15

古事放談 5-7

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-7
**********************************
すでにいくつかの河を取上げたが、古代史で最も重要な役目をはたしたのは、久米国と吉備上道国(備前)を結んだ吉井川です。
 利根川が古代史に登場しないのはおかしい。関東には本来は次第の天皇となるべき崇神天皇の第一王子、豊木入日子命を上毛野、下毛野の君として配置されている。君子の「君」として派遣されたのである。
 ヤマトタケルが征伐した筑波には結城がある。古来結城紬の名産地である。こま周辺に絹かに縁がある地名が多い。
 結城の地名が示す様にここも中国人に占領された所である。この近くに埼玉古墳群がある。これこそ中国人の墳墓である。
 稲荷山古墳の鉄剣も恐らく日本の砂鉄で作られたものではないだろう。少く共前方後円墓は特定の天皇陵以外は古墳の主は中国人である。更にこの周辺からは銅鏡が沢山出土していたのである。
 崇神天皇の時二将軍が会津まで征伐に行った。ここを流れる川が阿武隈川である。この下流に巨大な前方後円墓の雷神山古墳がある。

参考に 埼玉古墳群
http://bell.jp/pancho/travel/saitama/sakitama%20kofungun.htm

雷神山古墳
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/siseki/kunisiseki/kuni-siseki05.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/miyagi/12_ntri/raijin1.html

上の方が、教育庁文化財保護課のホームページです。
「遠見塚古墳よりさらに広い地域を統括した、きわめて大きな権力をもった首長の墓と考えられている。・・・」言葉は悪いが、当り前のことでしょう。たとえば、此の地を天皇が、統治をまかせていたとか書けないものでしょうか。

| | TrackBack (0)

2009.07.14

古事放談 5-6

***********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-6
***********************************
崇神天皇は銅鏡を沢山持っていたタケハニヤスを征伐した。
丹波を征伐したがここにも銅鏡が出土した。
 孝霊天皇が征伐した吉備にも銅鏡があった。
景行天皇が征伐した九州や周防、長門からも銅鏡が出土した。
 魏志倭人伝で当時2,300万の人は雲南系だと、中国人までが証言している。しかるに学者は天皇天皇は銅鏡愛好者だとおっしゃっている。この謎を学者は先づ解いていただきたいのである。
 異民族とは融和、混血は当然だととしか思えない発言を繰返されているのだ。
 雲南系日本人は河内国と同じ地名の河内(ハノイ)を流れる紅河を通じて日本に渡来したと考えれば古代史の謎は全て解けるのである。
 「河を忘れた古代史」とは、日本国内で古代に重要な道の役目をした多くの河川と紅河を考えて欲しいためにつけたタイトルである。
 海を自由に航海した古代には河川は海の延長に過ぎなかったのである。

| | TrackBack (0)

2009.07.13

古事放談 5-5

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-5
**********************************
銅鏡の外に釣針等も椿井古墳から出土した。タケハニヤスは崇神天皇の軍隊に攻撃されてこれらのものを隠して逃げたと考えたい。
 これだけの大量の出土品があるなら、巨大古墳であってしかるべきだ。しかしこれは偶然工事現場から出土したのであって、出土するまで古墳と気付かなかった。人を葬ったのではなかったと考えたいのだ。
 この木津川は淀川の支流で同じく支流の桂川を遡れば、これも低い峠を超えるだけで魏の植民地だつた伊都国の由良川に到達出来る。
宇治川、瀬田川を通ってビワ湖にも古代の幹線ルートがあったのである。
 57年9月9日の新聞は紀の川の北岸に7棟の倉庫群が発見されたと報じた。しかしこの用途はあいまいであった。
これこそ河内を占領していた倭の五王の補給庫と考えるべきだ。倭の五王は5世紀に宋に密使を遣わしたのである。
 軍隊は北鮮人で、この人達は集落すなはち小隊毎に終結していた。従って食糧は他所から運ぶ必要があったのである。

| | TrackBack (0)

2009.07.11

古事放談 5-4

***********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-4
***********************************
魏志倭人伝で伊都国の卑弥呼の許に届けられた文書等は間違いなく邪馬台国の女王の許に届けられたと書かれた。
 
 伊都国は丹波で、邪馬台国は現在の備前である。この間の交流があったのだ。 
 ここでも地図が必要だ。卑弥呼が居った伊勢大神宮の南に由良川が流れている。この川を遡って天王坂を超えると加古川の上流である。天王坂は海抜が僅かに170米である。
 天王坂と大王が往復したにふさわしい地名が残っていた。この天王とは久米国の崇神天皇の義弟、日下坐王でよいだろう。
 加古川の下流近くに、社の地名がありここが、「木の国」と書かれた交通の要所である。
 ここから久米国に伯耆街道が通じていた。邪馬台国の女王、夜麻登登母母曽姫の許には海を利用したと考えてよい。
 崇神天皇がタケハニヤスを先づ征伐した。この賊は奈良のすぐ北の木津川の北岸に陣取っていたここの地名が高麗村で、しかも椿井古墳から30数枚の銅鏡が出土した。
 崇神天皇の敵は銅鏡愛好家だったのだ。

第17話 古事記が解いた古代史  倭人(1)
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/12/171-008f.html
テレビのお蔭で学者がなんと云おうと、わたし達の風俗習慣が雲南更にはブータンとあまりにも共通点が多いことを知ったのである。又言語の最も基本である数の数え方がチベットとは20まで全く同じだったことは、テレビの音声で知った。今年はブータンの王家の谷の放映で数え方が6まで一緒だったし納豆やソバまであることを知った。
 しかし 大野 晋が日本語のルーツはインドのタミール語だと述べても、外の学者は袋たたきにするのである。この論争の根本原因はこれを認めると皇国史観の学説が根底からくずれるので、、反対のための反対である。
 魏志倭人伝では今から1700年も昔にすでに15万戸すなはち200万人の風俗習慣が海南島人と同じだと述べている。海南島は台湾よりも遥かに南で、ベトナムに近い所である。倭人伝を論じた学者がなぜ倭人伝に書かれたこの記述に全く触れないかを、国民は反省して欲しい。下記は戦前の台湾総督府の〝海南島〟より引用させていただいた。倭人伝と呼ばれた民族は土着民族ではなかったのだ。

Photo


第17話 古事記が解いた古代史 91ページより転載

私からの一言  次のブログをご覧ください。
日本の稲作は、朝鮮半島を経由して伝えられたという事になっていますが、私は間違いだと思います。

ブータンの棚田の写真をご覧ください。
 http://washimo-web.jp/Trip/Bhutan02/bhutan02.htm
 この光景は日本のどこにでも見られる光景です。

 苗族の人は、朝鮮半島の新羅の国へも行きましたが、海南島、中国の福建省を経由して、直接日本へやって来たと考えています。
 その人たちが、日本本土に上陸して、高天原を建設したのが、ヒルゼン高原です。こちらでは、ブナ林が繁っていました。一見、ブータンに似ていますが、ブナ林の生えている所は、高度が高いのと、寒い所でした。そこで、高天原を建設は失敗し、
 ブナの現在の南限は、大阪府で、一番北の能勢町に生えています。
能勢町にも日本棚田百選に推薦されている棚田が有ります。
http://k2project.web5.jp/kesiki/nagataninotanada/nagataninotanada.htm
 
一枚目の写真は、ヒルゼン高原に似ています。 その後、天照大御神の子孫は、奈良盆地に新しい国を作ろうとしました。奈良県は、ブナではなくて、イチイガシがいっぱい生えていたのではないかと調べている所です。
 同じ盆地である京都が、平安京として選ばれましたが、この時の支配者は、天皇とされていますが、実質は中国人による支配された時代だったと考えています。


| | TrackBack (0)

2009.07.09

古事放談 5-3

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-3
**********************************
伯耆には日野川があり、出雲に斐伊川がある。高天原が蒜山高原にあるためには、この二つの川が登場しないことにはおかしい。
 しかも日野川の場合には「之」が必要である。先づ日本書紀では「簸河」と「簸之河」と使い分けがしてある。
 古事記では「肥河」と「肥上河」となって「之」の代りに小文字で上の字が加えてある。
 明らかに二つの別々の河があった。スサノオ命が遡ったのが、「之」又は「上」のつく河でこれなら日野川になる。
 蛇を切って血で赤く染った川は斐伊川だ。この蛇とは製鉄の職人のことと考えればよい。更に中山王国とイザナギ命との関係で述べたが蛇と呼ばれたのは中山王国から来た職人と考えたいのである。
 高天原が蒜山高原だとすれば、スサノオ命が高天原から追放されて、遡った川は日野川でこの上流に鳥上山は現存している。
 「八俣之遠呂地」と原文にあったのを「八岐の大蛇」と解説している。これは「八岐の遠呂地」で元来地名だった。大呂は現存する。

参考に----地名 大呂 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page268.html

| | TrackBack (0)

2009.07.08

古事放談 5-2

古事記の解説書は例外なしに「亀の甲」に乗って来たと書いたので神話になった。
 原文には「亀甲」と書かれている。「之」を間に必要とする時には、不必要な位の所にまで「之」が書き込まれていた。
 この「亀甲」の地名が米子の東を流れる日野川の川口近くと吉井川の上流の津山の錦織の近くに見付かる。これこそ亀甲が使われていた証拠である。
 古事記には当時島だった島根半島が登場しないことはおかしい。従って「子淡道之穂之狭別島」が島根半島だと申し上げた。ここに「之」の使用例がある。
 この島が倭人伝の末蘆国で通称松江国だつたのである。ここから亀甲に乗りかえて天津村(西伯町)までやって来た。
 従って日野川の下流に亀甲の地名があり、船はここで作られたことだろう。
 「之」が重大な誤解の基になったのが「伊勢大神之宮」である。崇神天皇の妹はここを拝き祭ったと原文に書かれていた。しかし解説書は「伊勢の大神の宮」と三重県にした。


参考に---亀甲のことは、日本書紀も古事記にも書かれています。神武天皇の所にです。
ここに書かれてある亀甲の取扱方で、歴史が神話になったと考えてみました。
(最も、日本書紀では、亀甲とはかいてなくて、「艇」と書いてあります。訳本では小舟になっています
)
No574神武東征(23) 豊国の宇佐(24)  艇と亀甲
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-30から5回にわたって書いています。この亀甲に乗って来たのが、日本書紀では珍彦とされています。
珍彦のことも次から、5回にわたって書いています。

No569神武東征(18) 豊国の宇佐(19) 珍彦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22 日本書紀が、古事記をみて作られたのですが、いかに、苦労したかが分かると思います。

それは、誰にも気が付かれませんでしたから、神武天皇は神話で、実在しなかった天皇とされています。

| | TrackBack (0)

2009.07.06

古事放談 5-1

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-1
*********************************
魏志倭人伝には水行10日とか陸行1ヶ月の文字が見える。
 古代には隣の集落との間には原生林の中を抜けなければならない道は存在しなかったと考えたい。
 交易が必要な時代でない限り、常時人が往復しない限り林の中の道はすく消える。けもの道が役立ったことだろう。
 古代には流れが緩い川と山の尾根を組合わせた所をいざと云う時に歩いたと考えたいのである。緩い川には川原があり、川は浅くて横断も楽だし、川の中でも渡れた。更に両岸からロープで船を引張れば大量の品物も運べたのである。
 この時に利用された船が亀甲とは前後がない船で伝馬船のことだ。
 神武天皇東征の時に古事記では神戸の和田浦(現在の和田岬)明石海峡のための水先案内がやって来た。
 この水先案内は亀甲に乗って釣りをしながら現れたのである。

| | TrackBack (0)

2009.07.05

古事放談 4-9

***********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-9
**********************************
古墳時代の前期、中期、後期と云われてもはたして何天皇の御世だか分からない。考古学と歴史学の接点が見付からない位おかしな話はないが古墳の年代が絶対年でない限り、アベコベに接点があったらおかしいのである。
 古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。
 弥生時代の遺跡で同じ様な土師器が出ればなぜ同期であり、古墳で中国と日本書紀で同年代の漢の銅鏡が出ても同時期と云ってはいけないのである。
 古墳から出た刀は北鮮と同じでも、北鮮は
長期に中国の植民地だった以上中国の武器と呼ぶべきではないか。
 将軍は中国人で、帯方郡と同じ様な占領政策が、帯方郡が独立して高句麗となった以降も河内で行われていたのである。
 魏志倭人伝で魏と使訳通じる所30余国と書かれたのは、全国に分布した例えば三角縁神獣鏡が出土した所が候補地と考えたいのである。

一言---古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。

どうしてこのようになるかとて言いますと、紀元前から、人々は、関東から九州まで、多くの人が行き来していたのに、そのように思わないから、土器は、同じところから動かないと思っているからです。出土した土器でその遺跡の存在した時代を決める考え方は、止めませんと、外国から日本の歴史は認められないと思います。

 同様に、世界の人が、日本へやってきていたのに、あまり認めたくありません。

昨日、奈良の西大寺でイスラム陶器が見つかりましたが、つぎのようなタイトルになります

国内最古イスラム陶器、奈良・西大寺で出土
「海のシルクロード」で平城京へ
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090704-OYO1T00313.htm?from=top

「海のシルクロード」は勿論あったでしょうが、証拠は残っていません。中国から雲南を通って、ビルマ経由の方は、絹が運ばれていた証拠は残っています。

古代の人は、世界中を移動していたと考えませんと、世界史に置いていかれます。

| | TrackBack (0)

2009.07.03

古事放談 4-8

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-8
*********************************
河内には藤原が定めた式内社が113社あった。この神社には戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出されたのである。
 河内の113社の氏子に国から幣帛料が出されたことになる。
これは伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い。
 実は式内社には天皇を祀った神社は全く含まれてなかったのである。
 雲南系氏子が居る神社には幣帛料は全く無くて高句麗人のスサノオ一族と素生が全く分からない祭神の神社に幣帛料が出されていたのである。
 河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった。
 異民族を祀った神社に天皇と同じ鹵簿行列で参拝するだろうか。
 雲南系神武天皇の敵ニギハヤヒと藤原の先祖の天児屋命とは同一民族と考えてよい。
 一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない。倭の五王は中国のために忠節を尽くしたと奏上した記述が中国に残ったのである。
 河内は中国の植民地時代が二度あったのだ。

一言---書いてあることが理解できましたか。理解できない方は、全部ご自分で確認されますと、解ります。
①河内には藤原が定めた式内社が113社あった
②戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出された
③伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い
④河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった
⑤一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない
 古事放談4-3  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/06/4-3-5a19.html
 と雄略天皇の所を読んでください。

| | TrackBack (0)

2009.07.02

古事放談 4-7

*********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-7
*********************************
古事記は天皇が必至の思いで書き残した記録である。従って中国人の不比等を刺激しない様に書かれている。
 又書きたくても書けなかったことを非常に多いものと思われる。重要なこと程書かれてないものとして、裏を読むことである。
 雲南系雄略天皇は暴君だと云われているが雲南系日本人の為にたたかってくれたのである。
 葛城山中で雄略天皇は一言主神と遭遇して恐怖を感じ、一言主神に頭を下げたのである。
 一言主神が登って行った葛城の山中にニキハヤヒを祀った鴨習太神社があった。
 ニギハヤヒとは雲南系神武天皇に征伐された人である。日本書紀と古事記を注意深く読めば、従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る。
 藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた。藤原は雲南系天皇の敵で11世紀までは日本は中国の占領下にあったのである。


一言---このページ大切なことです。この文章を書かれた田村氏は、ご自分は、雲南系日本人の様に考えておられるようです。田村という苗字がいつのころから付けられたか判りません。殆どの平民は、明治になってから名前を持った。それまでは、苗字だけだったとい知ったかぶりに云われる人がありますが、そうでもないでしょう。江戸時代の過去帳などは溢れるほど全国に残っていますから、全部、コンピューターに入れて公開すれば分かることです。(個人情報を主張して実現不可能とおもいますが)
 昔は隣なり村に行かないで育った村だけで一生を過ごしたと思われていますが、大きな間違いでしょう。2000年前であっても、日本中を駆けづり回っていたことが判ります。
 
日本史を考える時に、「藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた」ということは、重要なものと思われますが、田村氏が主張されて10年以上なりますが、誰一人として、賛成する人はおられません。
 当然です。現在でも、日本を治めている人は、中国系の人たちです。認めるわけにはいきません。しかし、否定しますと、日本史は謎ばかりで成り立ちません。

田村氏が言われるとおり、歴史に学問など必要ありません。
〔従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る〕は、正しいことです。
 現在、政治が混乱しているのは、当り前のことです。これまで持っていた利権が通用しなくなったからです。

| | TrackBack (0)

2009.07.01

古事放談 4-6

**********************************
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-6
**********************************
崇神天皇は東北までの中国の基地を掃討して「初国治らしし天皇」と呼ばれた。しかし九州、四国は天皇勢が船を失ったので景行天皇の御世に討伐が行われた。
 しかしこの時全国に中国人、北鮮人の敗残兵が残ったのである。
 応神、仁徳天皇は一時敵に侵略された摂津河内に都を移して、巨大な前方後円墓を築いて敵に天皇の勢力を誇示した。
 この御陵に従事したのは敗残兵だったと考えてよいだろう。しかし天皇には軍隊がなかったのである。
 敗残兵を収拾したのが倭の五王である。河内は再び北鮮兵に布陣されてしまつた。 河内だけを考えても主権者はこの様に何代も変わったと考えるべきである。
 従って古墳や遺跡の年代が絶対値でないことには古墳時代と云われても漢の将軍、雲南系天皇、倭の五王? と入り乱れて歴史は謎につつまれることになる。
 漢の勢力が最も強かった時代の吉備の造山古墳が最もデラックスでよかったのである。

| | TrackBack (0)

« June 2009 | Main | August 2009 »