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2009.08.30

崇神天皇三兄妹(1)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(1)
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046

9代開化天皇は古事記では上の如く、若倭根子日子大毘毘命とかかれている。この天皇には御子五柱あった。
この中の御真木入日子印恵命が後の崇神天皇である。妹の御真津比売が日巫女であり、卑弥呼と魏志倭人伝に書かれた。
崇神天皇の義弟が日子坐王(ヒコイマス)で久米国王であり、同じく魏志倭人伝では、狗奴国王卑弥弓呼となっている。
 名前はこの様に同一人物が呼び名が、何様もあるので本来は統一すべきだが、分かり易い様に混ぜて使用したい。
 この当時は天孫族は玄米食で現在の健康食品だけだったから長生きだった。魏志倭人伝でも百才位で80、90才のひともあると書かれている。
この時代は食物のぜいたくなんか,無かったのである。後世になって不健康食品を食べる様になって寿命は短かくなった。
平均90才でも実に5代の親子である。天皇でも同じ宮に住むことはできなかっただろう。親せきだけで数百人に達する。

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2009.08.29

スペイン風邪年代考証(4)

44


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第8話 吉備にあった漢の古墳
 スペイン風邪年代考証(4)
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〝崇神天皇の妹だった卑弥呼〟に神武天皇から崇神天皇までの世継は平均22才で生まれたと仮定した時の年代表を示した。


 7代孝霊天皇は190年に亡くなられ、9代開化天皇も191年に亡くなられたことになる。仮定のしかたのため1年の誤差だ。
 両天皇共に191年に亡くなられたことだろう。中国から漢の軍隊によって吉備
病菌が運ばれたとしたら話はうますぎる位だ。
 スペイン風邪が流行しただろうことは、中国の文献になくても、漢の年号の特殊な現象の裏を読むことでよかった様だ。
 4種類の全く別の立場で書かれた資料でスペイン風邪が流行したことは間違いない様である。
 107年に160人の捕虜を師升は漢の都に連行したので、朝貢とはあべこべだつた。
 敵国の記録を信用するとアブナイと申し上げたいのである。
 魏志倭人伝は自国民をだますために卑弥呼を共立して収拾したと書いたのである。共立の二字に日本の学者はおどらされたのだ。

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2009.08.28

スペイン風邪年代考証(3)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 スペイン風邪年代考証(3)
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古事記の崇神天皇に関する日本古典文学全集の一部を先に示した。御真木入日子印恵命とは崇神天皇のことである。
 天皇とは後世の人が勝手につけたことで、古事記には即位のことなど全く書いていない。 天皇家の家系を主にしたものにすぎない。自分の家系をインチキを子孫に伝える人があるだろうか。
 家系だから語り継がれて来たことは、子孫に正確にうけつがれることが一般である。なぜ古事記は偽書としなければ、気がすまないのだろう。人の家系なら第三者がケチを付けたくなるのは日本の進歩的学者の本性だろう。
 崇神天皇の御世に流行病があったことは、明記されていたのである。人民が無くなってしまう位猛威をふるったのである。
 中国から吉備に侵略していたから伝染したと考えてはいけないだろうか。

42p

 上の古事記で日子坐王がクガミミノノ御笠を殺したとかいてある。この続きに小さくこれ人の名なりとかいてあることに注意してほしい。鬼畜に劣る人間だと書いたのである。

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2009.08.27

スペイン風邪年代考証(2)

40p


朝鮮には新羅と百済の正史がある。これは三国史記と呼ばれている。紀元前頃から700年頃までの出来事が詳しく書かれている。
 左記は鈴木編訳の三国史記で倭国関係の事象に重点を置いたものだ。新羅の180年代を示しておいた。
 193年6月に倭人が食がなくて、千余人がやってきたとかかれている。191年に作付けが出来なかったと考えられる。
 新羅や百済の記事を500年頃までながめても、文化が挑戦経由日本に流れた形跡はない。 
 まして騎馬民族が、日本まで攻めこんで来たことも書かれて居らない。
 191年が世界的例外なら新羅や百済にそれらしい記述が無ければならない。
 191年には、朝鮮には多数人が死んだ記録がなかったのである。
 スペイン風邪は朝鮮には流行せず、中国と交流がなかったと考えて良いだろう。三国史記も意外なことまで教えてくれたことになる。


一言----ここの文章を読まれて、皆さんはどのように考えられましたか。
私は、すごい内容だと思いました。
191年にスペイン風邪という病気がなかったことは、確かですが、人から人へ伝染する病気が発生したことは確かなのでしょう。188年に漢の霊帝が死んだのは、不思議ではありません。しかし、34歳で亡くなっています。ところが、この子が病気で次々と死にました。そりゃ、皆同じ屋敷で住んでいたから、ありうる話でしょう。
 190年までに、年号が4回も変っています。皇帝ばかりではなく、国全体で、良くないことが次々おこり、年号を変えることによって、世の中が変わることを願ったのでしょう。
 
 この病気が、スペイン風邪かどうかは別にして、中国と近いしかも、従属関係にあった新羅や百済にそれらしい記述が無ければならないのに、無かったと云うことは、中国との交流は、それほど、激しくなかったことになります。その国へ、日本から千人といえ、逃げて行った人がいたと云うことです。

 同じように、伝染する病気は、ウイルスでなくて、普通の細菌の様な、コレラや赤痢もあります。どうして、スペイン風邪のように爆発的に伝染しないか、医学を勉強したら直ぐに、わかります。ウイルスは、生き物についていませんと、生きていくことができないからです。
 現在、新型インフルエンザで騒いでいる人は、医学の基本を間違っています。ウイルスが変異といって、自分の環境にあった形に変化することは確かですが、むやみやたらに変異は起こりません。今度の新型インフルエンザは、豚のインフルエンザが変異して人間にうつったと云われています。その数年前は、鳥のウイルスが、変異をして人間に伝染したと騒がれました。日本政府は、生きている鶏を袋に詰めて、埋めたり焼き殺しただけでした。本当に、変異をしたのであれば、今頃、日本人は、半分ぐらい死んでいた筈です。
 
先日、新聞を読んでいましたら、ウイルスは、最近になって発生したものであることが分かったそうです。どうして、こんなにいい加減なことを新聞に書くのでしょう。事実、そうかもしれませんが、本当であることを立証しようしようとしますと、厖大な研究が必要だと思います。

 ワクチンが全世界に足らないから、世界の人に分けてあげてくださいと云う報道もありました。東京とか、大阪は半分ぐらいの人は死ぬかもしれませんが、だれもいない、アフリカの山奥で、こんな病気が発生するでしょうか。

 話が変なほうへ行きましたが、ここに書かれてあることは、中国と日本と朝鮮の歴史の記事に、数行かかれてあることですが、三つを合わせますと、ここにかれてあることは事実と言えるでしょう。
 ということは、崇神天皇5年は、190年頃は正しいとなります。
 たったこれだけのことで、日本の歴史家は、ご自分の歴史を相当。訂正しなければならないと思います。

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2009.08.26

スペイン風邪年代考証(1)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  スペイン風邪年代考証(1)
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日本の学者は自国の本は全く信用しない。そのよい例が古事記と日本書紀である。本には思い違いが少し位あったからととて、全部をなぜ偽作とするのだろうか。
 中国の文献の場合は日中関係になると、お互いに自国に都合よい様に特に作文されているとをなぜ念頭に入れて考えないのか。
 左表(は下に掲載)は平田俊春著最新歴史年表の180年代である。190年は卑弥呼を共立したといわれる年である。
 188年には漢の霊帝が僅か34歳でしんでいる。この子は病気で次々としんだ。
 190年までに実に年号が4回も変っている。おかしいと感じるべきではないか。
 卑弥呼共立と何かあるなと考えるべきだろう。
 スペイン風邪のための子供が次々と死んだと仮定して不都合がしょうじた時に仮定が間違っていたと改めればよいのである。

 この年表には日本書紀の年号が入れてある。190年は成務天皇の60年に当たっている。日本書紀のデタラメサ加減が分るだろう。


Photo


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2009.08.25

溝咋神社の不思議

由緒は、
延喜式の古社であって、祭神は、五十鈴姫命、玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。
社頭掲示板より
 
 上の由緒には書かれてませんが、別の資料(出所不明となる)によりますと、次のようなものもありました。
「祭神溝咋耳命玉櫛媛命媛蹈鞴五十鈴媛命天日方奇日方命素盞嗚命天児屋根命 由緒第10代崇神天皇のころご祭神のゆかり深き当地に創建された、平安時代延喜式内社、昭和16年府社になる。当社の社殿は室町時代に領主溝咋兵庫介が改築し安土桃山時代に領主長谷川式部少輔が再建、江戸中期に殿村平右衛門石崎喜兵衛が二度目の再建をなし昭和61年信者の寄進によって修復される。
旧上宮
もと五十鈴媛命、溝咋耳命、天日方奇日方命、などが(現在学園町)にまつられていたのを明治42年に現在の社に合祀される」

社伝では、「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、饒速日尊の六世の孫・伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、崇神天皇の勅命により皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代(よりしろ)と考えられる神宝、「瑞の宝十種」と「布都主剣」を、天理市石上神官に遷座祭祀した物部氏の祖)によって祀られ、さらに神功皇后が三韓遠征に際して三島県新屋川原で潔禊(みそぎはらえ)を行ない、帰国後、西の川上と東の川上に社を作って、祭神の幸御魂と荒御魂を祀った。それが上河原と西河原の神社である」という。
由緒 「当社は古くは東北五〇〇メートルの溝咋村字宮田に「上の宮」(祭神・媛蹈鞴五十鈴媛命)現社は「下の宮」として、その母・溝咋玉櫛媛が祭祀されていたが、明治四十二年に「上の宮」が「下の宮」に合祀された」とある
もあります。
溝咋神社のどこが、不思議なのかと云いますと、あまり書きたくありません。なぜかと云いますと学門的でないからです。溝咋神社のことを書かれた人のものを読んでいますと、
 此の地に住んでいた三島溝咋耳命は、溝に杭を打って、安威川をコントロールしていた豪族でと書いておられる方がいっぱいです。このようなものは、全く根拠のないものです。本当に安威川のどこかに杭が出てきたのでしょうか。そうなりますと、全国のあちこちで、溝杭という地名があってもおかしくありません。
しかし、私の不思議は、これよりひどいものです。
 
「車で行きますと、どうしても境内にいけないということです」
古代には、車がありませんでしたから、車で行くことができないことは、全く関係ないのですが、この神社は、元々ここになかったのに、無理やりに造られたものだろうと推察しています。
上に書きました由緒によると、五十鈴媛命は神武天皇の皇后であることと、平安時代延喜式内社であること、第10代崇神天皇のころご祭神のゆかり深き当地に創建されたの3つくらいになります。
①崇神天皇5年の頃に、人民の半分ほど死んだと書いてありますから、西暦192年前後の事件と思われます。
古事記によりますと、大物主大神が夢に現れて私を祭れば国は救われる。祭る人は、オオタタネコにさせなさいとのお告げがあったという。オオタタネコを探してきて、祭らしたら、国は平和に収まった。 また、伊迦賀色男命に「天の八十平瓮を作り、天神地神の社を定め奉りたまひき」と書いてあります。
日本書紀でも、「」・・・そこで別に八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた」と書かれていますから、何処にどのような神社を作ったということは分かりませんが、全国に神社が増えていったとは思われます。

このように考えますと、「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、饒速日尊の六世の孫・伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、崇神天皇の勅命により皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代(よりしろ)と考えられる神宝、「瑞の宝十種」と「布都主剣」を、天理市石上神官に遷座祭祀した物部氏の祖)によって祀られ、」と書いてある社殿は、どこにかいてあるのか知りたくなります。事件が起こったのは、崇神天皇5年。崇神天皇七年九月に建てられたのは、どうやら、溝咋神社ではなさそうですが、この話は、一層複雑にさせることになってきます。この神社は、茨木市の新屋坐天照御魂神社らしいですが。
 
長くなりましたので、もう少し書きます。

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2009.08.24

倭国大乱(9)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  倭国大乱(9)
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九州から阿蘇の石で石棺を作って運ばざるを得ない人が漢国人と分かればしめたものである。
 吉備で漢の銅鏡が一つの古墳から多数出土すれば大量死だから、スペイン風邪で新だのであり、190年の古墳だ。
 九州の糸島の周辺には銅鏡が一つの古墳から多数出土することがある。ここは吉備との中継地だったことになる。
 航海中にスペイン風邪で死んだり、110年頃でも船が難破した時には水葬して、銅鏡だけは人数分納めればよかった。
 佐賀には銅鏡が1枚づつ埋葬した古墳が沢山見つかった。これは漢軍の食糧生産を佐賀平野で開始したと考えられる。
 九州基地は本渡か宇土なら好都合だった。熊本から松浦、糸島半島は漢軍に107年から190年まで占領されていたのである。
 倭国大乱が日本国内の争いならば、中国の文献がこぞって取上げる筈がない。取上げざるを得なかった理由が解けたのである。同時に日本で死んだのは20万でもよかったのだ

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2009.08.22

倭国大乱(8)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  倭国大乱(8)
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九州や吉備には漢国の将軍の最新式の前方後円墳がある筈である。
 箸墓や崇神天皇の古墳は漢国の将軍の古墳より大きくないことにはおかしい。外形の前方後円は漢国の墓をまねすればよい。
 しかし墓の内部構造は知る由もなかったのである。漢国の古墳より旧式の石棺が出土して当然である。
 倉敷考古館間壁夫妻の最新版‘古代吉備史の未知を解く’には意外なことが書かれていた。吉備で一、二の古墳の石棺の石に、九州の阿蘇の石が使用されていたのである。
 他の石棺の石は姫路の近くの石の宝殿等の石が使われていた。地元の石でなくて、九州から石棺を運ばざるを得なかった古墳のぬしこそ、漢の将軍だと考えたいのである。
 漢国の古墳が吉備にあって当然である。しかも、阿蘇の石を使った古墳が吉井川の川口近くの山陽町にまであった。
 漢国は吉井川の川口付近を占領して長期戦をやったのである。作戦までが戦術にかなっていた。

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2009.08.21

倭国大乱(7)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 倭国大乱(7)
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倭国大乱が収拾したのが190年頃である。107年から190年の間に日本で死んだ将校は手厚く葬られたことであろう。 これには漢の習慣に従って、1人に1枚の割で銅鏡と一緒に埋葬された。
 師升も190年までは長生きする筈がない。従って大和以外の最大の古墳は師升でよいのではないか。
 前方後円墓は崇神天皇の時突然大和に発生した。しかし日本人が新しい形式の古墳を突然考え出す筈はないのである。
 漢の将軍かが107年から190年の間に亡くなれば前方後円墓をつくった。これこそ最新のデザインだった筈である。
 崇神天皇の御世になってやっと平和が訪れたのである。これまでは戦争最中で古墳を作れるどころではなかった。
 古墳が大和で始めて作れる状態になったのは、卑弥呼が殺され、魏の軍使等が20人だけ逃げ帰った248年頃である。
 従って、卑弥呼の墓が和製第一号の前方後円墓である。

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2009.08.20

倭国大乱(6)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  倭国大乱(6)
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この様な状況におかれては、どうしようもないであろう。はしごを外された漢軍である。長期戦にならざるを得ない。 
 しかも大軍を出兵させた以上、正史で無視して書かないわけにも行かない位大事件だったのである。
中国からの補給部隊に頼る外なかったのである。しかもこの補給部隊が188年にスペイン風邪を日本に伝染させた。
これこそ神風邪で中国軍は全滅にひんしたのである。
漢の侵攻は自然消滅した。中国の文献が日本国内の二国間の争いならば。正史に取り上げる筈がない。
中国の正史が全て倭国大乱を取上げてしかも何時片付いたかの時期を明記できなかった事情は自然消滅のため確か様がなかったのだ。
これを魏志倭人伝では、卑弥呼を共立して内乱が収った様に、ウソを書いたのである。
スペイン風邪については後稿を参照していただきたい。このスペイン風邪は大和で流行し、開化天皇は相ついで亡くなられた。


一言----倭国大乱も今日で6回目になりました。なんだ、倭国大乱かと思われる方が多いと思います。ご自分で考えて居られる倭国大乱と話が全く異なるために、アクセス数が日ごとに減っていきます。
どこの世界に、自分の国の正史に、御隣のしかも海を隔てた日本の人が、大乱を起こしている歴史を書くでしょうか。
 生意気にも、ロクロク文化らしきない日本が、中国に楯ついたから中国は大乱と呼び、正史に書かないわけにはいかなかったのです。
 日本の歴史家は、日本中の豪族が、入れ乱れて戦争をしたように書いていますが、魏氏倭人伝を読みますと、碌な武器を持っていません。

最後の二行に書いてある「スペイン風邪」も、人気がありません。そんな馬鹿なと思われる方があるでしょうが、崇神天皇5年のところを読んでください。僅か2行ですが、日本国民が死に絶えるほど死んだと書いてあります。これは事実でしょう。
スペイン風邪であったかどうかわかりませんが、伝染病しか考えられません。
コレラ・赤痢・ペストの歴史も、調べてください。九州から始まりますと、現在のように、一気に北海道まで伝染することはありませんから、順に伝染していきます。精々、福井のあたりで病気は無くなってしまいます。
伝染病の歴史を勉強しますと、医学のことは知らなくても、現在のように、バカげた新型インフルエンザのような騒ぎはあり得ません。なにか、意図があっての騒ぎだと思います。
このような騒ぎは、崇神天皇5年(190年~192年ぐらい)以後、1800年も日本であっても、世界であっても発生していません。人類が半分以上死ぬ話です。
こんなことを考えながら、倭国大乱を読んでいただきますと、新しい歴史を発見できると思います。

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2009.08.19

上野神社 ・三島神社の不思議(2)

不思議に思ったこと①
所在地は、大殿とあったので、迷わずに大殿には、直ぐに着きましたが、結構範囲が広く神社が見当たりません。それと祭日のため、殆どの建物は閉まっていて、尋ねる方もおられません。集落から少し離れていましたが、全体が木で覆われている集落が見える所の大きな施設で尋ねようと思いましたが、閉っていました。その近くの建物の戸を無理に開けて大声で呼びましたら、60代ぐらいの方が、出てこられて、神社は知らないが、前に見えている森が大殿ですよと教えて頂きました。
2回目の挑戦で、一方通行なのは知っていますから、間違わないで小道を侵入しましたが、二手に分かれました。今度は、前回と違う右手の小道を取りますと、車は集落をはなれる一方です。とうとう、集落の反対の方に出ました。
そこに一軒の御家があり、車の掃除をしておられる30歳ぐらいの男性にお尋ねしましたら、知らないとのことでした。
今、お聞きした方は、知らないが、お寺の横にあったように思いますと云われたのですが、お寺はありますかとお尋ねしますと、御寺はこれですと言われましたが、建物は見えないで、うっそうと茂る木だけが見えました。
このお寺はどうしていきますかとお尋ねしますと、国道に出たところです。今そこに云って、集落を一周して来た所なのですがと云いますと、国道にでて、曲がって初めての道 酒屋さんのある角を入ります。道はありましたが車は無理です。あっという間に、行きすぎました。 Uターン。人が通ることの出来る道はあるものの、車は入れ
ません。
酒屋さんがお休みであるのをいい事に、お店の前に車を突っ込みました。悪いなと思いながら、駐車・下車。暫く歩きますと、確かにお寺がありました。福樹寺?だったと思います。境内には、大寺廃寺の石製鴟尾があるだけで、神社は見当たりません。二十段ほど階段を登ったところに、建物がありました。その前に、むき出しの箱型石棺がありましたが、無関係でした。
諦めて階段を下りましたが、やはり、悔しいのでもう少し村中を歩いてみることにしましたら、急に目の前に鳥居が出現。
 写真はhttp://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html 掲載しておきました。

不思議に思ったこと②
神社は山の上にありましたが、石段が見えないほど、木の葉が積もっていました。せっかく、苦労して行きましたが、廃社だと思いながら、上りましたら、新しい本殿が姿を見せてくれました。その嬉しかったことはいまだに忘れられません。
でも、神さんは不在かなと思いました。
 なにが不思議化と云いますと、参道に、歩けないほど木の葉が積もっている神社は初めてでした。
不思議に思ったこと③
廃社と思ったのは勝手ですが、ピカピカの本殿が完成していました。
 帰りは、足を滑らせないように注意しながら、居りました。

だけど、なんだか感動が湧いてくるようで、うれしくなりました。

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2009.08.18

倭国大乱(5)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 倭国大乱(5)
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倭国大乱は107年から190年の間の出来事である。これは7代孝霊天皇から10代崇神天皇の御世である。
 この年代の天皇の軍隊の本部は美作の久米国にあった。
 こじきでは景行天皇の時に始めて、大和に屯倉を作ったとなっている。これまでは政府機関は吉井川川口と久米にあった筈である。
 漢軍はこの吉備に侵攻して来たのである。久米国から吉井川経由大和のルートを中断して久米国を攻撃した。
 しかし漢国軍は食糧を調達出来ず、作戦が狂ったのである。
 中国から食糧をはるばる運ぶ外なかった。
これが長期戦になった一つの理由である。
 第二に久米国は吉井川の上流にあった。揚子江や黄河の様に大河に使用する船は使用できなかった。
 この川すじを歩いて進軍することは至難である。さりとて、今更引揚げるわけには行かない。偏西風に逆らっては、手でこぐ船は進めないのである。

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2009.08.17

倭国大乱(4)

日本に2、30万の水軍を出すことは難作業ではなかったのである。
 チベット、雲南からは神武天皇の御世に百万万かの秦や漢に圧迫された少数民族が神武天皇の御世に脱出して来た。
 これらの民族は漢国の目の敵である。漢国が攻撃する理由もあったのである。反対に日本には漢の亡命者は居らなかったのである。
 話は変るが漢の銅鏡がおびただしい数、出土した。日本人はホントに銅鏡にあこがれる様なったのだろうか。
 漢に渡ることは逆コースで危険を伴なうのである。こんなにまでして日本人は銅鏡を渇望したろうか。
 日本から出かける理由は何一つ明らかにされていないのである。
 漢の銅鏡は漢の占領軍が日本に運んだのである。戦死した人間に1枚づつ埋葬したとかんがえれば、最も自然ではないか。
 漢の祖国を遠く離れた異国で死んだ人を手厚く葬らないと士気に影響するだろう。銅鏡が多いことが漢軍が居った証拠である。

稲荷山古墳は鉄剣で一躍有名になった。同時に崇神天皇の実在を認めざるを得なくなった銘で、古事記偽作説の学者を糾地におとし入れた所である。
 この付近は国土地理院の深谷と熊谷が役立ってくれる。
 もちろん天王の地名があった。予測通りであった。正しく天孫民族の一大拠点である。
福のつく地名や神のつく地名が非常に多い。
天神のつく地名も多い。御稜威ヶ原(ミイズ)の地名も面白い。熊谷と熊の字は天孫民族が好んで使用する字だ。
 ここでも地名をパターンで考えるべきことを教えてくれた。天孫民族は集団行動の計画性をもった民族だったのである。

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2009.08.16

上野神社 ・三島神社の不思議

鎮座地は、 http://www.jinja.in/single/86839.html です。
現住所は 鳥取県西伯郡伯耆町大殿1465番
 住所が書き換えられる前は、 西伯郡幡郷村大字大殿字宮畑 
 
 鳥取神社誌に記るされてあるデーターは、
祭神 溝咋姫命、大山祇命、天照大日孁尊、素盞鳴尊

由緒 創立年月不詳、往古より郷社八幡社摂社にして上野大明神三嶋大明神を称せしを明治元年神社改正の際今の社号に改めらる天照大日孁尊、素盞鳴尊は境内末社なりしを此の時合祀す。

例祭日 10月11日
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿
境内坪数  348坪
崇敬者戸数 77戸 

この神社誌には、神社の境内の広さと、 崇敬者戸数が書かれています。神社によりますと、氏子戸数と書かれた神社もあります。 氏子はご存知ですか。この神社の場合、 祭神が、氏神となります。この氏神の子孫が氏子です。
 このような考え方は、一昔前の考え方です。
 最近は、神社によりますと、その神社の周囲の集落を守る神さんという考え方ができました。従いまして、上に書いた祭神(溝咋姫命、大山祇命、天照大日孁尊、素盞鳴尊)を産土神(うぶすな神)と言います。
 ある町に家を建てて住んだとします。この町に一生住もうと考えた時に、子供が生まれたとします。その時を機会に、氏子になりたいと神社にお願いしますと、氏子になることができます。
 たとえば、奈良の春日大社の近くに住んでいるから、氏子にしてもらえるかどうかは、知りません。
 仮に、近くの神社に云って聞けばわかります。断られることがあります。その神社には、自分の神社が受け持つ集落の範囲を決めて居られる神社があります。
 その範囲に居住しませんと断られます。

 神社では、毎日、氏子の幸せを願って、御祈りをされているはずです。そこで、氏子としましては、子供が3歳になりしたら、その報告を神にし、七五三のお祝いということになります。

 上に書かれてあるのは、崇敬者戸数です。ということは、上野神社 ・三島神社は、氏子が分からなくなったのでしょうか。
 この神社には、行きたくて云ってきました。その時のことを次の所に書いています。
【三嶋神社】
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html

境内坪数は 348坪です。広いですが、鳥居から本殿までは、ずっと坂の石段でした。
上のアドレスにアクセスしますと、写真があります。

次回、続きを書きます。上野神社 ・三島神社の不思議 どこにも不思議らしきものを書きませんでした。大した話ではないのですが、不思議だなと思いながら帰りました。

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2009.08.15

倭国大乱(3)

中国の文献では自国がやぶれた時には、日本の国名を殊更にあいまいに書いたのであった。
 何所に敗れたか分からない様にカムフラージしたのである。
 勝った戦争なら地名を正確に書く方がPRになる。従って倭面土国はソツクリの地名は日本にない筈である。
 しかし戦争経験者なら、中国と日本の地図をひろげて日本の基地を考えて見て欲しい。天草の本渡、熊本の宇土半島、伊都国の候補地糸島が適地である。
 面土国とはこの何れかだったことだろう。
 魏志倭人伝では難升米は正確な国名を知って居り、魏の都に半年も居って日本攻略法を研究したのに国名は誤魔化してあった。
 人の名前までデタラメを書いたのである。中国人の倭国に関する記事には特に注意が必要である。
 面土国は漢軍が日本攻略目的なら、九州にないと戦略的に不利である。何れにしても九州に漢国の前進基地があったのだ。

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2009.08.14

倭国大乱(2)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 倭国大乱(2)
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生口とは大工とか石工の様な職名ではない。漢の都に日本人捕虜を連行したのである。
クツチャの時の捕虜が15000人なのに、日本人の捕虜が僅か1%にすぎないのに、中国の正史に載せられたのであった。
 如何に重要な事件だったかに頭をめぐらすべきだった。
 日本人を日本人が捕虜にして、漢の都まで連行しても後漢書ははたして捕虜とかくだろうか。
 師升が漢人であって日本人を連行すれば、捕虜であり生口で奴れいに使うことは先方の勝手である。
 後漢書で師升が生口を160人連行したと書いたので師升は漢のスパイ兼将軍と考える外ない。
 師升は漢が日本を占領するために放ったスパイである。
 日本の敵状を視察すると共に、日本人を捕虜として連行した。日本語の通訳として使用する目的だったのである。

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2009.08.13

倭国大乱(1)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  倭国大乱(1)
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神武天皇は推古天皇年代表では、80年代まで長生きされた。この時までニギハヤヒは生きていたのか、否か不明である。 後漢書で漢倭面土師升が生口160人を献じたと書かれている。これはニギハヤヒだろうと述べて来たが、年表が明らかになった以上間違いで取り消したい。
 前漢も後漢も西域はもちろん北朝鮮、南の現在ベトナムに植民地を拡大していた時代である。
 例えばNHKシルクロードの音楽の旅の放映に出てくる天山山脈の麓のクツチャは、漢の都から3000キロ以上離れている。
 ここに84年には漢の軍隊が出動して、5000人の首をきった。
 生口は15000人だったのである。生口とは中国では捕虜のことだった。
 後漢書は中国の正史である。中国本位で読むべきだ。
 九州国が大和国を攻めて捕虜を160人捕えて漢の都に連行しても、中国の正史が生口と書けるだろうか。

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2009.08.12

日本語のふるさと(14)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(14)
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イザナギの命がヒルゼンから近江の多賀に移られた時、三方五湖から耳川をさかのぼって、八王子川を下った筈である。
 八王子川は地名をつけたのが何日頃だろうか。少なく共政府の命令でハチオウジと読ませることにしただろうか。
 数え方だって日本人はチベット式も大和式も昔からミックスして使われていたと解すべきだろう。
 神武天皇もスサノオの命も名調子の歌が読め、常用漢字より沢山の漢字も知っていた。
 千文字の時百済から漢字が渡来したと教えることは間違いである。
千文字と書いて、なんと読めば東大に合格できるだろうか。
 教え方がチベットから伝わったと話して早速しかられた。チベットに何所からか伝わったのである。
 チベットを通ったと言えばよかったのだろうか。
 少なく共チベット式数え方は隠岐から全国に拡がったと考えることが最も自然に思えてならないのである。

H210811

一言---前回に続き、田村氏は、ご立腹です。きっと、東大出の人に、ケチを付けられたのでしょう。しかし、京大出の田村氏ですから、東大の悪口を書くことができます。
 私などは、東大も京大も入学できませんから、はじめから腹も立ちません。
こんな、とてつもない仮説を述べれば、東大出でなくても、ケチをつけるでしょう。
 しかし、この腹を立てるエネルギーがあればこそ、新発見につながるのではないかと思います。
 この仮説が正しい可能性は、十分あります。
千文字の時百済から漢字が渡来したことは確かでしょう。しかし、紀元前から、仏教は伝わっていましたから、中国に仏教が伝わったより早いことになります。

 となりますと、漢字は百済からのみ、伝えられたことになりません。では、千文字以前に入って来た漢字は、どこへ行ってしまったのでしょう。

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2009.08.11

日本語のふるさと(13)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(13)
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数え方には、成程イチ、ニー、サンとヒ、フー、ミーの2種類がある。仮に後者を大和言葉を略して大和式としょう。
 先づ日本書紀は明らかに漢文調である。この漢文を数字に限って、現在ならチベット式に読むべきものを、大和式に読まなければならないのはおかしい。
 一書曰と書いて日本書紀を読む時に限り、アルフミニイワク、と読まなければならないのか。十有二と書いてトウアマリフタと読まないと東大の入試に合格しない。
 日本の地名で最も古いのは隠岐の島後である。天孫族が基地にした所の福浦に一宮がある。これはチベット式に読む必要がある。
 高天原のあったヒルゼンの2000年昔と思われる、一白頭と称する山がある。
 大和に二上山がある。昔はどんな呼び方をしていたのだろうか。
 日本書紀は漢文調だが、二弟と書いてフタハシラノイロト読まなければいけないのか。日本書紀には数え方は至る所で大和調が採用されたのは、学者の勝手である。

一言----日本語のふるさとシリーズでは、もっとも、素晴らしいページだと思います。
二弟と書いてフタハシラノイロト読む根拠は何でしょう。この調子のよみかたは、記紀に沢山出てきます。読むことが出来ない方が居られると思います。
 私も読むことが出来ませんでしたが、読めないと自信喪失していましたが、最近は、無視しています。歴史に興味を持った人がなくなっていく原因の一つになっています。

素晴らしい点は、二弟と書いてフタハシラノイロト読むことではありません。
 〔日本の地名で最も古いのは隠岐の島後である〕です。これは少し、無理なような気もしますが、隠岐とヒルゼンの地名・郷名・村名を全部、ピックアップしますと、いろいろのことが見つかるかもしれません。誰も試みていないと思います。

ヒ、フー、ミーの読み方は、大和式と云うより、ユダヤの人たちが使っていた言葉にあるそうです。

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2009.08.10

日本語のふるさと(12)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(12)
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タイトルは日本語のふるさとである。しかし日本人の原郷と全く無縁と云えるだろうか。
 僅か一隻の皮船が隠岐に漂着だけでも、数え方はチベット式に統一出来る可能性があったのである。
 魏志倭人伝では日本人の風俗習慣が書かれている。中国の人が中国に地続きの海南島の人に似ていると書いている。
 第一印象で海南島の人を連想した位確実なことがあるだろうか。
海南島はチベットや雲南から、日本海えの航路上にあったのである。ここから台湾海峡を通ってくるので、福建省には福のつく地名を足跡として残した。
 日本人位かつては単一民族と思われながら、多数の民族の混合だった国民があるだろうか。
 テレビでチベットや雲南、シルクロードの中にまったく日本人と同じ人を見出すことがある。しかしお隣にありながら、韓国や中国人の顔を見た時、理屈ぬきにして、日本人でないことの判定がつく。母親が自分の子供を見分ける様な第六感が働くのである。

一言----日本語のふるさとというタイトルで12回目です。日本語の起源のことを書いておられますが、少し違うのです。 日本語のふるさとは隠岐だったのです。そこで話された言葉、あっという間に、日本をかけめくりました。言葉だけが駆け巡りません。人が、凄い勢いで、先ず、日本海沿いに青森まで・・・・。
 言葉と云うものは、必要になりますと、二人の人間がいますと、通じ合う言葉が生まれます。
 しかし、ものをやり取りする時は、1,2,3 などは、すぐにお互いに通じるように、話し合いました。それが、イチ、ニー、サンとヒ、フー、ミーの2種類です、前者は、チベットからもたらされました。後者は、ユダヤ人系のひとからもたらされました。しばらくは、まじりあわなかったと思います。
 日本語の起源は、多くの研究があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90#.E3.82.A2.E3.83.AB.E3.82.BF.E3.82.A4.E8.B5.B7.E6.BA.90.E8.AA.AC
読まれますと、分かります。訳が分かりません。今後いくら研究しても同じだと思います。
日本語の起源など無かったのです。
 日本には、日本人が居て日本語を喋っていた。これは間違いないのですが、日本の歴史と離れて日本語の起源は、ここに書いてあるようなことになるでしょう。

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2009.08.08

日本語のふるさと(11)

ヒルゼンは岡山県のチベット式数え方が始めて来たのも何かの因縁だろう。
 しかし、これだけでは日本中に普及することにはならない。
 天照大神が豊葦原の中ツ国を治めよと命令された。この命令に従って百万か二百万かの計画移民を神武天皇が全ての
日本海側のデルタ地帯に入植させた。
 津軽海峡を越えて太平洋岸にも入植させて行った。
 中国山地を越え吉井川を下って瀬戸内海沿岸にも入植させた。全て1世紀の出来事だ。
 しかもこれらの人は秦や漢に迫害された、チベットや雲南の少数民族のしかも進取の気性に富んだ知識階級が皮船でやって来たのである。
 漢字まじりの大和言葉の日本語が一瞬にして全国に拡がった。九州の一かくから、日本人も日本語も拡がった説位矛盾に充ちたものがあるだろうか。

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2009.08.06

日本語のふるさと(9)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本語のふるさと(9)
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古代にどんな船が使用されていたかを知るには先づ古事記や日本書紀を見ることである。古代の道については、すでに述べたが流の緩い川で、しかも川幅がせまくて、木を切り倒すだけで渡れる所だった。
 馬に乗って歩ける所は日本中皆無だから、騎馬民族なんかあり得ない。又馬が川を渡れる所があっただろうか。
 話が横道にそれたが古事記の船はスサノオの命が使った磐船としょうするコンクリート船と鳥船すなはち揚子江の帆船の外に左に示す(省略――少名毘古那神が乗って来た船)、天之羅摩船があった。
 天之羅摩船とはラマの国の船である。ラマの国とはタベットのことだ。
 チベットの皮船は古事記にも書かれていたのである。
 この時の衣服は「ガ」の皮を裏向けにしたと書かれ、カイコのまゆを開いてつなぎ合わせていた。みの虫のハンドバッグと同じである。
 チベット式船に雲南式衣服を着てしかも、帰って来たのである。隠岐と東南アジアの外交があったことを証明してくれた。


一言---古代にどんな船が使用されていたかは、古事記には、次のように書いてあります。
故、大国主神、坐出雲之御大前時、自波穂、乗天之羅摩船而、内剥鵝皮剥、為衣服有帰来神

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2009.08.04

日本語のふるさと(8)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(8)
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Photo

ヤクの牛皮で作った皮船は、ゴムボートと同じである。激流で岩にぶつかっても大丈夫でしかも、かついで山を越えられる位軽い。
 上の写真に示す、この船はチベットで今も一般的である。3、4000年昔も同じだったはずである。世界最高の文明を当時誇っていたチベット人が、ノアの洪水で皮船で脱出したと仮定したら如何だろうか。
 対馬海流と偏西風を利用し、しかも手でこげば、日本海に来ることが一番容易だった。
 無人島の隠岐にコロニーを築けばよい。この時に日本に初めて米が伝来した。
 イザナギの命はや天照大神でも、いきなり本土に来たのでは先住民に滅ぼされるだけだ。
やはり人が居らない所に基地を築くには、チベット人の基地、西郷の反対側福浦だ。
 ここで漢字を知っていたイザナギの命、天照大神とチベット人が交流をはじめれば、日本語が誕生する。
 隠岐を基地にして大量の人がヒルゼンにやって来たことは既に何回か述べた通りである。隠岐にチベット人が最初に来ればよかった。


一言-----田村誠一氏の冊子は、いっぱいあります。今、紹介しているのは、8冊目のものですが、日本語がどのようにして生まれたかを書いておられます。
 学者の方から見ますと、お話にならないと思われるでしょう。
 しかし、田村氏の発行された本の中では、絶好調の文章だと思われます。

どうして、このような文になったかと言いますと、全部頭で考えられたわけではありません。ある程度、調べておられる内に、隠岐では、住む面積が少ない割には、神社が多いという事実を発見されましたhttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html ゆっくりご覧ください。
他の地域ではあまり祀られていない 神が祭神になっています。そうかと思いますと、古事記に登場する神もちゃんと祀られています。

誰一人として、ヒルゼン高原のことを口にされたことがないのに、ヒルゼン高原にも、古事記に登場する神が祀られていることも発見されました。
  この辺りで、隠岐は、最初に日本人がやって来たところだ-------日本語が生まれたところだ---との発想が生まれたのだと思います。このことを立証するには、とてつもない調査が必要になったのですが、そんなことはご存じない田村氏は、るんるん気分で書いておられます。 そうかと思えば、当たり散らしておられる文章もありました。

 この辺りは、「隠岐を基地にして大量の人がヒルゼンにやって来たことは既に何回か述べた通りである。隠岐にチベット人が最初に来ればよかった」
と自信満々で書いておられます。

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2009.08.03

日本語のふるさと(7)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本語のふるさと(7)
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日本語のルーツを考える時に一番大切なことは、数え方がイチ、ニー、サンになったことである。
 言語学で学者は難しく云わないことには、権威にかかわるとお考えだろう。しかし日本語に限定して数え方がチベットと、何故同じかは第一歩に片付けなければならない問題だと考えるが如何だろうか。
 仮に政府命令で物品の計数を、イチ、ニー、サンと決めても、年令はどうすればよいのだろうか。
 一宮、二上山、三条、四書五経、五島列島、八王子等は、何と読んでいたことだろう。
 九州のかくにチベット人が来ても、日本中チベット式数え方に統一できないのである。
 しかし日本には或る特定の地点に、チベット人が乗った船が一隻だけ漂着しても、日本中の数え方がチベット式になる所があった。
 前稿で天孫族の日本の第一の基地は隠岐の島後の福浦の反対側の西郷が日本語のふるさとである。ここに一隻の船が漂着すればよかった。

一言---こここの福浦-から、全国の福浦にどんどん、人は移動して行きました。

参考に
ヒルゼン古事記 福浦と福江(田村誠一氏の文)
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/page16_d4f7.html
地名 福良 (ふくら)―-辻保治氏のお話です。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/post_1006.html

No178 渡来人がやってきた証拠 福浦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05

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2009.08.02

日本語のふるさと(6)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  日本語のふるさと(6)
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漢字は百済から千文字と一緒に伝わって来たと教えられ先入主になっていた。しかし、古事記を口述したヒエダノアレイは漢文も漢字も知って居らないとおかしいことになる。
 天照大神が漢字を知って居らないことには千文字の時、いきなり地名に置きかえらる筈はないことに気付いた。
 戦前の教育はこんなことまでなぜ、ウソを教えたのだろう。改めて日本語を考えて見たのである。
 なぜ文化は全て古代には朝鮮を経由して九州に伝わったと学者は云わなければならないのだろう。発想は極めて幼稚である。
 日本にはアイヌ人が全土に居ったと仮定しよう。この時に九州の一部にアイヌ後以外を話す民族がやって来てを、この民族が東北まで、人口が増加して拡がらないことには、この民族の言葉で、日本中統一されることは起こらない。チベット人が先づ九州に基地を作っただけではだめである。

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2009.08.01

日本語のふるさと(5)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 日本語のふるさと(5)
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NHKのテレビがチベットの放映を行った。この時小学校位のこどもが、1,2,3の数え方がイチ、ニ-、サンと日本と全く同じだったことに驚かされた。
 雲南の正月の松飾り等が日本と全く同じだった。京都祇園でばらなく、ちまきは忘れられかけた夏祭の一風物詩である。
 このちまきが全く古来そのままの姿で雲南では今も台の上に乗せて売られている。
 祇園祭は1200年の歴史である。恐らく当初からちまきが配られていたとしたら、この時間と空間の距りをどう考えたらよいだろうか。
 日本はどこから来たかは、学者にまかせないで国民が考え共感を得られさえすれば、それでよいのではないか。
 なぜ騎馬民族説を、これでもかと云わんばかりの、こじつけには不賛成だ。
 毎週のテレビからは何が飛び出すかわからないが、日本中全員が古代史に参加できることは有難いことである。学者も象げの塔にばかり閉じこんで居られないことだろう。

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