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2009.09.30

資料37  資料 高鴨神社 考察(3)

『延喜式』神名帳に書かれてある[阿治須岐託彦根命神社四座]とは、どの神社のことか。
近くに、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社があり、祀られている祭神が、お互いに関係がありそうですし、高鴨神社は上鴨、御歳神社は中鴨、鴨都波神社は下鴨社と言われていると書かれていますから、9月23日に、見に行ってきました。 全ての神社は、これで、3回目の参拝となります。
 御所の市街から、国道24号線を南下しますと、左側に、直ぐに、鴨都波神社としばらくして、葛木御歳神社があります。
 少し南下しますと、花の寺とも呼ばれる船宿寺があります。ここより24号線に戻りますと、峠というほどの峠ではありませんが、風の森峠と言い、小さな祠が祭られていました。ここより先は、吉野への道になります。
 御所の市街から、国道24号線の右側には、葛城山・金剛山がそびえています。その麓に、葛城一言主神社と高鴨神社が鎮座しています。
 吉野へ抜ける道ですから、軍事的に重要だった地域だったと思われます。
 
9月24日の資料36  資料 高鴨神社 考察(2)において、最後に、〔[阿治須岐託彦根命神社四座]と、四座あったことが分かります。この四座とは、どういうことかを次回に書きます〕と書きました。簡単にわるると思ってこの様に書きました。
 
阿治須岐託彦根命神社四座とは、高鴨神社、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社の四座のことだと思っていたからです。実際に行ってきましたら、初めに書いたような立地の所に、各神社が鎮座していることが判りました。
 この4社は、全て、式内社です。 ただ、それだけではありません。名神大社とされています。
 高鴨神社は、清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社でありますと由緒に書かれています。
 葛木御歳神社の由緒を見ますと、仁寿2年(852年)には、当時大和国で最高位となる正二位の神階を贈られましたとあり、 観元年(859)正月27日甲申 従一位 『三代實録』とあり、同じ年に、同じ神階が与えられています。

神階とは、朝廷が各神社に与えた位と言うことになっていますが、よく判っていません。
 私は、藤原氏が、与えたのではないかと推理しています。では、どうして、それを解明するのかと言いますと、容易ではありません。資料は次の所に掲載されています。
 
神社史料集成(神社資料データベース)
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/jinjaindex.html

あんなこと、こんなことを眺めていますと、阿治須岐託彦根命神社四座と書かれていた四座とは、少なくとも、高鴨神社、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社の4社ではなさそうです。

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2009.09.29

[ハツクニシラス天皇]

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第5話 古代史と大江山 
 [ハツクニシラス天皇] 
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56
古事記では崇神天皇の御世に丹波の国に兵を出して、クガミミの御笠を殺したとある。
 クガミミの御笠は正しく難升米ではないか。
千余人の戦死者の中の一人だった。
 殺された今一つの証拠は後任の軍司令官は倭人伝で別人である。そして魏の使い政等と一緒に幹部20人は魏に引揚げた。
 248年に魏との国交断絶である。国交断絶は425年まで180年近く続いたのである。
 国交断絶の言葉はむしろ当を得ていない。日本に設けて居った中国の基地がなくなったのである。
 倭国とは中国の属国で、ここに卑弥呼女王が居ったことを明白にしてくれた。
 崇神天皇は古事記でハツクニシラス天皇と書かれたのは、正確な表言であった。
 卑弥呼は敵国の女王であった。今更ちやほやするのはやめることだ。同時にホントの卑弥呼は難升米に殺されていたのだ。
 倭人伝は敵国の記録であり、敵国に都合よい様にカムフラージュされていたとみるべきだ。

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2009.09.28

[古事記と倭人伝の交点は崇神天皇]

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第5話 古代史と大江山  田村誠一著
 [古事記と倭人伝の交点は崇神天皇]  5ページ
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今まではストーリーは年代順だった。今度は年代がはっきり、した時からバックして、過去にさかのぼることにしたい。
 古事記で年代がハッキリするのは、崇神天皇が亡くなられた年である。これは戌寅と書かれている。
 歴史年表は沢山出版されている。この中で古事記に準拠した年表すなはち、菅氏説と田の学者の説を併記してあるのが、平田氏の歴史年表である。
 引用させていただいたので注意して見ていただきたい。
 この年表から崇神天皇が亡くなられたのは258年である。卑弥呼が死んだのは248年だから、この天皇の御世の出来事だったことになる。
 
昭和56年4月3日発行

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2009.09.26

 [神話でなかった古事記]

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第5話 古代史と大江山   田村誠一著
 [神話でなかった古事記]
********************* 昭和56年4月3日発行

小生もスタートは、高天原はヒルゼンにあったと実話説である。
 先づ古事記で神武東征までの地名が全て、、九州以外で国土地理院の地図に実在していると申し上げた。
 この点樋口名誉教授と考え方が偶然一致していた。
 次はこの地名を使用して古代史のストーリを展開した。云幅仮設である。
 第三に魏志倭人伝に出て来る国名を解明したこれは、古墳、寺院等で裏付けした。同時に邪馬台国すなはちヤマトはは、西大寺で、九州では不都合な点を述べた。
 残る問題は魏志倭人伝には年号がはっきりさせて、いくつかの、大事件がかかれている。この外に日本の古代史は、漢書と朝鮮の三国史書がある。
 古代では数百人が往復すれば、何れかの国に記録が残る筈だが、騎馬民族説は何れにも、その様な記録がなくてもよいらしい。
 古事記を学問的に実話だと述べたいのだ。

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2009.09.25

[大和の海原]

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第5話 古代史と大江山  田村誠一著
 [大和の海原]                昭和56年4月3日発行
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52


前稿の〔西大寺ヤマト〕で国学院大学の樋口名誉教授の、古希の記念出版の[大和の海原]の一部を引用させていただいた。
 この時は実は坂田井著〝稲荷山古墳、鉄剣銘百十五文字のなぞ〟の中から採用した。
 [大和の海原]がやっと、入手できたので早速面白く読ませていただいた。樋口名誉教授がひっぱたかれてもよい、死んでしまえば自分の勝だとおっしゃったのは、大和に神武天皇の頃に海が入りくんで来ていたとの説だった、 海抜65米までが、海だったと考えられる由である。
 次に神武天皇にゆかりの地名が、33カ所がすべて見付かって、しかも65米以上の海抜の所にあったとのことだ。
 小生も大国主命や神武天皇の地名が,ほとんど、全て現存していると述べて来たのである。失礼だが樋口名誉教授の説に、我が意を得たりと思っている。

ひとこと—田村誠一氏の著作が、第一集から発行されていたのに、-第四集から第八集まで飛ばして、紹介しました。
指一本で入力していいる私としましては、苦労しましたので、多くの人に読んでいただければと思っていましたが、第一集から、-第四集までは、余り読んでいただけませんでした。初めは、内容があまりにも現在一般に通用している歴史とかけ離れているからだと思い、皆さんの興味のある[倭国大乱]や崇神天皇と卑弥呼の関係が書いてある第八集を選択しました。
 卑弥呼のことなどは、多くの専門家が書いておられて、それぞれの主張をしておられますが、田村氏の著作は、物を考えるとはどういうことかを教えて頂ける様に思います。
 
このページは、樋口名誉教授の[大和の海原]に出会った時の喜びをさりげなく書いておられます。明治生まれの人は、目上の人に対する礼儀とは、どのようなものかを教えてくれます。

私は樋口名誉教授の[大和の海原]は、読んでいませんが、その理由は、海抜65メートルまでが海だったという説は、田村誠一氏の、その後の研究によって、神武天皇が神武東征を奈良で終わらせ、橿原市の〔柏原〕で宮城を築かれ、紀元元年1月1日に天皇になられた説を正しいと思うからです。
 日本書紀に書いてあるデーターに拠れば、神武天皇が、生まれられたのが、紀元前660年という数字を採用しますと、可能性はありますが、紀元元年の頃ですと、4メートルのあたりが海岸線だったと思っています。

 ただ、奈良盆地は、65メートルではなく、75メートルのあたりまで、水がたまっていたのではないでしょうか。 東の方で云いますと、山の辺の道は、その湖岸であり、水が大和川に流れるようになった時は、一番低い法隆寺のある斑鳩の里に向かって流れ込んだと推理しています。

全部63ページの冊子です。入力間違いがあるかもしれませんが、修正しながら読んでいただければと思います。

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2009.09.24

資料36  資料 高鴨神社 考察(2)

前回は、高鴨神社の名前が出て来るのに、ようようでした。
 では、神社の資料を眺めてみます。初めの部分だけです。
 高鴨神社のホームページhttp://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ に拠れば、
主祭神 
阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ))     
事代主命(ことしろぬしのみこと)  日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神
阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと) 
古事記表記-- 阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神 
日本書紀表記---味耜高彦根神’
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと) 
古事記表記---下照比売  天若日子 
 当神社は全国鴨(加茂)社の総本宮で 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。
 主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず 死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。

 ここより、私の疑問を書きます。
主祭神は、阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ)と書いてありますが、その下にも、
事代主命(ことしろぬしのみこと)
阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと)
と4人の神さんの名前が書いてあります。

初めに書いてある阿治須岐高日子根命が主神で、他の4人の、①事代主命、②阿治須岐速雄命、③下照姫命、④天稚彦命の様にも見えますが、阿治須岐高日子根命と阿治須岐速雄命は、「阿治須岐」の部分は、同じですから、きっと、同じ人なのでしょう。

 この由緒を書かれた人は、事代主命と書いておられますが、『続日本後紀』巻四承和二年(八三五)十月戊子《十七》には書いてありますが、日本書紀にも見ることはできません。

では、上から順に検討しますと、阿治須岐高日子根命は、六国史と古事記では見当たりません。
次の事代主命は、『続日本後紀』だけです。
次の下照姫命は、日本書紀に見られますが、古事記にはありません。
次の天稚彦命は、日本書紀に見られますが、古事記にはありません。
 
 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社が、ずっと、正しく伝えているにしては、変な話です。由緒を書かれた人が、日本書紀を参考にされたのであれば、日本書紀表記に統一されなければなりません。
②阿治須岐速雄命の名前が、創建依頼伝えられているとしたら、その頃に漢字があったのでしょうか。漢字は無いが口伝されていたとしたら、阿治須岐速雄命が阿治須岐高日子根命であっても、不思議でありません。

 是は、新しい時代になって、由緒書きを書かれた時に、下照姫命も下照比売もどちらでも同じだ思われたのでしょう。

神社のホームページでは、次のようなことも書いてあります。
〔『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。〕

と謂うことは、「式内社」ですから、日本書紀に書かれてある祭神と一致することが多いです。
ただ、『延喜式』神名帳には高鴨阿治須岐詫彦根命神社] 現在ある神社は、[高鴨神社]ですから、別の神社かもしれません。
元の『延喜式』神名帳を見ていませんから、なんとも言えませんが、
[阿治須岐託彦根命神社四座]と、四座あったことが分かります。

 この四座とは、どういうことかを次回に書きます。

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2009.09.23

資料35  資料 高鴨神社 考察

どうして、高鴨神社のことを調べる気になったかと云いますと、古事記を読んでいましたら、阿遲志貴高日子根神の名前が登場しました。どのようにして登場したかを書きますと、天孫降臨の時に、アマテラスが大国主神に国を明け渡すように命じる時に、使者を差し向けました。その時の使者の一人である天若日子が8年も帰ってきませんので、問いあわせの使者雉の鳴女を派遣したら、鳴女を殺してしまいました。その時に使った矢が、高天原のところに飛んで来たので、投げ返しましたら、矢は天若日子のところに飛んで帰り、天若日子に当たって、死んでしまいました。この事実で、天若日子は、アマテラス之味方の者でないことが判りました。天若日子は、使者として大国主神の所へ行ったのですが、大国主神の子供の下照比売と結婚しました。天若日子のお葬式には、天若日子の父親や下照比売の兄の阿遲志貴高日子根神が参列しましたが、阿遲志貴高日子根神が天若日子そっくりだったので、皆が天若日子は生きていてよかったと喜びました。死人と間違われた
阿遲志貴高日子根神は、怒って喪屋を潰したというお話です。
 別にどうと云うことはありませんが、阿遲志貴高日子根神とはどのような人かなとおもって調べたら、阿遲志貴高日子根神が生まれた時の様子が、古事記に書かれていました。
大国主神から生まれた神の紹介をしてある所に、「多紀理毘売」との間に生まれた子供として、阿遲鉏高日子根神と妹高比売命が生まれたと書いてあります。
 そこに、わざわざ、「この阿遲鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂うぞ」と書いてあります。なんでもないように思われるかもしれませんが、古事記の出来た712年には、迦毛大御神が通用していたのだと思います。私が知っている大御神は、伊邪那岐大御神と天照大御神だけです。
 そこで、阿遲志貴高日子根神をキーワードにして検索をしましたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%82%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%92%E3%82%B3%E3%83%8D」アジシキタカヒコネがヒット、
 「アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。」と書いてありました。
 これはありがたいですね。良く判ります。
所が次には、「神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある」
この記事を書かれた方は、歴史のプロだと思いますが、こんないい加減なことを書いていいのだろうかと思いました。
日本書紀が正しくて、古事記は正しくないとしますと、こんな文章になります。
古事記が正しくて、日本書紀は気をつけないといけないと考えますと、おかしい所だらけです。
 例えば、先き程書きました「この阿遲鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂うぞ」では、この阿遲鉏高日子根神ですが、喪屋を壊したときは、阿遲志貴高日子根神です。基は、「志貴」だったのに、「鉏」です。ここの字は、変換できないので、「金+且」と書いておられる方が多いです。「鉏」は「スキ」と読むらしく、「鋤」にりました。「鋤」なら農業に使うので、[神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。]と書いておられます。〔鋤を神格化した農耕神である〕とは、どういうことでしょう。

ついでに、おかしい所を記しますと、「大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。」
と書いてあります。宗像三女神をクリックして調べてください。福岡県の海の中の小島に居た人です。大国主命も、福岡県に居られたのでしょうか。伯耆の国に居られたと思います。そんなに離れていて結婚されたのでしょうか。もし、福岡辺りに住んでいたのであれば、福岡に一杯祀られているはずです。
 まだ、一覧表は完成していませんが、大国主命祀る神社は、現在のところ、鳥取県だけで、139社あります。
【鳥取県神社誌 分析一覧表】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1401.html

古事記に、阿遲志貴高日子根神と阿遲鉏高日子根神の二つの表記があるということは、
日本書紀の作者が、古事記の阿遲鉏高日子根神に書き換えたと考えるしか、理由が見つかりません。日本書紀と古事記を比べますと、100パーセント近く、地名と神の名前が、難しくて読むことが出来ない漢字に帰られています。

 こうして、次々、WEBをさまよっていましたら、高鴨神社がヒットしました。

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2009.09.22

資料34 高鴨神社 奈良

高鴨神社のホームページより、データーを拝借しました。神社に伝わっている歴史は、歴史家がかいておられるものよりも、正しいことがあります。しかし、逆に間違っていることもあります。近いところでは、明治になってからは、どうしてか、天皇の勢力が強くなりました。天皇が強引にされたのではなく、周りの人間が、そのようにしたのではないかと考えています。一番おおきな変化は、神社と寺院が合体しているところでは、廃止されました。ただ、それだけではありません。祭神を変えたり、新い神を付け加えておきませんと、つぶされる恐れがありますから、祭神が増えたりしています。

今回は、奈良・御所市の高鴨神社のことを書いてみます。これまでに、2度行きましたが、明日にでも、もう一度行ってこようかと思っています。

行きますと又、考えが変わるかもしれませんが・・・・。

まずは、資料を掲載します。


高鴨神社 奈良
奈良県御所市鴨神1110  地図

高鴨神社のホームページhttp://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ に拠れば、

主祭神 
阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ))     

事代主命(ことしろぬしのみこと)  日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神

阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと) 
古事記表記-- 阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神 
日本書紀表記---味耜高彦根神’
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと) 
古事記表記---下照比売  天若日子 

 当神社は全国鴨(加茂)社の総本宮で 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。
 主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず 死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。
 それゆえ病気平癒、初宮、大祓い等 甦りに関する信仰が深く また人の歩む道を目覚めさせて下さる神様として全国より篤く御崇敬を受けております。

 「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し 「気」が放出しているさまを表しております。
 以下は
 http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ を参考にしてください。

摂社
東宮 祭 神 
     天照大御神(あまてらすおおみかみ) 
     天兒屋根命(あめのこやねのみこと) 
     住吉大神(すみよしのおおかみ)

西宮  祭神:
      多紀理毘売命(タギリヒメノミコト)(母神)
      塩冶彦命(エンヤヒコノミコト)
      瀧津彦命(タキツヒコノミコト)
末社
祓戸神社 大直日神 神直日神 伊豆能賣神 底津綿津見神
八幡神社 譽田別命
一言主神社 事代主命 
猿田彦神社  猿田彦命
聖神社  大物主命
稲荷神社  宇賀御魂命
金刀比羅神社 大己貴命
八坂神社  素盞嗚命
牛瀧神社  豐岡姫命
市杵嶋姫命神社 市杵嶋姫命
大山咋神社  大山咋神、御歳大神と伝えられる
春日神社  建御雷命
雷神社  火雷命
細井神社 水波能賣命
西佐味神社  高木大神 高龗大神 闇龗神 十二將軍大神
佐味護国神社 護國の英靈

日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神
などは、私の注釈です。
 なにか気がつくことはありましたか。

私の気がついたことは、明日に書きます。

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2009.09.21

崇神天皇三兄妹 結言

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹 結言
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日本のマルコポーロまでが、遠方の人々があこがれる位住みよい国だつた。これを伝え聞いた少数民族が、こぞって、一民族単位で紀元セロ世紀に移住して来たのである。
 祖国のある大民族が一部だけ日本に来ることは考えられない。
 揚子江は国際河川でシルクロードのかなたから、チベットと雲南の省境をも流れていた。
 駐留、下流の住民は上流から降って来る人を阻止出来なかったのである。
 大部分の人達はチベットや雲南から、越に下って、海南島を経て台湾海峡から日本海に対馬海流を利用して皮船で来たことだろう。
 中国の中山王国の人々は白狄人で大半は日本以外には亡命する国は無かったのだ。
 この中国の漢民族等に圧迫された、少数民族が集ったのが日本民族だつた。
 中国はこの民族集団を、日本に何回か基地を築いてまで征服を企てた。しかし全部失敗に終ったのである。
 今こそ建国の由来を認識して、建国当初の苦労した人々に感謝をささげるべきだ。


ひとこと----本日で、[第8話 吉備にあった漢の古墳  崇神天皇三兄妹]は終了しました。今回のシリーズは、全体を読んでいただきますと、解かると思いますが、田村誠一氏は、自信あふれる文章だったと思います。書いてあることが正しいとか間違っているとかのお話ではありません。
 人間、自信あふれているときは、頭の回転は、脅威的に働くと思っています。何分、古代史は、資料が少ないので、真実の解明は大変ですが、京大の理系で勉強されただけありまして、仮説から始まっているのですが、その仮説がをこのように考えたら、見事に仮説でなくなっているところが読み取れます。
 
 私のブログでは、いろいろ解析をしてくれますが。平均、一日に100件くらいのアクセスがありました。 最高は、9月15日の166件でした。 この数値は、アクセスがあっただけで、読まれた証拠にはなりませんが、私は今回は、200件数にはなると思いましたが、なりませんでした。

田村氏は、仕事はされたのでしょうか。 書くだけなら、小説家ですともっと書きますが、調査をするために、ほとんど、現地へ行っておられます。この様な60ページほどの冊子をどんどん出されました。 この自信あふれる文章から感じることは、仕事のほうも、同じようにバリバリされていたのだと思います。
 市ことのほうは、息子さんの田村氏が、引き継いでおられますので、一度お会いして、確かめたいなと思っています。

[崇神天皇三兄妹]に書かれたように、卑弥呼は、崇神天皇の妹だと書いておられます。

そんなバカなと思われた方は、いっぱいだったと思います。日本の歴史資料にまったく登場しない卑弥呼と日本の資料にある日子坐王とが、ドッキングして歴史の謎が解明されたと思います。

これは、みなさんに早く知っていただこうと思って、シリーズは、5,6,7回は飛ばして、8回の[第8話 吉備にあった漢の古墳  崇神天皇三兄妹]を掲載しました。それだけに、9月18日の64件のアクセスには、がっかりしました。

次回からは、[第5話 古代史と大江山]を紹介します。

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2009.09.20

崇神天皇三兄妹(14)

魏志倭人伝は卑弥呼のために大きな墓を作ったと書いた。人質を殺したと、さとられないために全くのウソを書いたのである。
 戦争を中断してまで墓を作ることがあるだろうか。後味が悪いから作文したまでだ。
 日本にやっと完全平和が訪れたのである。これまで日本には大型古墳の経験も職人もゼロだった。
 吉備には漢が立派な前方後円墓を遺した。これよりお粗末な古墳が三兄妹に作れるだろうか。
 外形の前方後円はまねすればよかった。しかし、内部構造は知る由もなかったし石工の職人も居らなかった。
 ミマツヒメのために 墓が作られた。これが国産の大型古墳一号である。次いで10年後に亡くなった崇神天皇の墓が、墓にくつっいて作られたのである。
 日子坐王の墓を恐らく吉備の漢の古墳より大きいのが残されている筈だ。
 やっと古代史は崇神天皇まで追求出来た。全てがあまりにも思いもよらないことだった。

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2009.09.19

崇神天皇三兄妹(13)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(13)
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漢の軍隊が九州と吉備を占領していたのは190年までである。
 この時崇神天皇は40才、妹のミマツヒメ(卑弥呼)は38才位だった。
 義弟の日子坐王は35才で直接漢軍と対じしていのである。戦線こう着が続いていた。
 ミマツヒメは丹波で天照大神と月読命の墓守をしていた。
 これから50年後にミマツヒメは、魏の人質に取られ殺された。この妹をとりかえすべく戦ったのが崇神天皇であり、義弟の日子坐王だった。
 この三兄妹は漢軍と戦って勝ち、魏の無理難題に一歩も退かなかったのである。
 中国はこの二つの戦を歴史にカムフラージしても載せないわけには行かなかった。あまり大きな犠牲で人民にかくすことが出来なかったのである。
 日本国内の争なら倭国大乱を取上げる筈もないし、魏の軍使が飛んで来るのもおかしい。
 しかしこの謎は解けたと考えたい。

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2009.09.18

崇神天皇三兄妹(12)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  崇神天皇三兄妹(12)
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魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
 呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった。
 シルクロードの奥地やチベットから日本海沿岸に直行出来る皮船があった。
 丸木をくって作った船は、あくまでも近距離用であった筈だ。
 古代史の謎は、古代の船を使い分けることで解ける様だ。
 難升米は魏の都に半年滞在中に軍用道路を建設したのは、魏の軍隊を港まで運ぶ専用道路だと述べておいた。
 この道路を必要とする位の大軍が、日本に派遣されて恐らく全船沈没した筈だ。卑弥呼を殺したあとの戦死者千余人と魏に逃げ帰ったのが20人に過ぎなかったことからの推察である。上陸に成功した人はなかったのである。
 三国志等を眺めると西域等でも大作戦には20万人以上の動員が多いことがヒントだ。

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2009.09.17

崇神天皇三兄妹(11)

女王卑弥呼、男卑弥弓呼とわざわざ男王を頭に付ける必要があったのか。
 兄妹であることを意識してこんな名前をつけたのである。狗奴国王日子坐王では兄妹関係がハッキリしないので、わざとこんな名前をつけた筈だ。
 発音を手がかりに該当者を探しても無駄な努力である。
 卑弥呼と卑弥弓呼がもとより和せずとは何事か。衆を惑わしているのは、難升米ではないか。罪を日本人同志に背負わせた卑劣な書き方である。
 しかもうまく呼寄せ二人共毒殺する意図がありありと分かる。
 二人を殺せば兄の崇神天皇の軍隊は孤立し崇神天皇が殺される筋書きではないか。
 正始八年にも軍旗が交付された。これは魏の本軍の軍旗である。何万か何十万かの水軍が派遣された。
 同時に魏から軍使が丹波にやって来て、人質の卑弥呼を殺してしまったのである。敗戦と魏志は書けないから原文を読んで欲しい。

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2009.09.16

崇神天皇三兄妹(10)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(10)
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卑弥呼を人質にして義弟の狗奴国王に降伏をせまったのである。
 こんな卑劣なやり方を日本人が行ったことはない。魏国や三国志の時代の戦略家に取っては日常茶飯事である。
 瀬戸内海沿岸には崇神天皇すなはち兄の軍隊が配備されている。この軍隊を久米国に北上させないために、瀬戸内海に魏の水軍を一部配備するために、率善中郎将が2人必要だった。
 狗奴国が卑弥呼奪回に出動する場合の両面作戦のため必要だった。
 正史八年(247年)に太守即ち朝鮮総督がわざわざ1500キロ離れた魏の都に、狗奴国との交戦状況を報告に行った。
 如何に重大な戦争が起きたか、しかも朝鮮軍だけでは始末に負えない魏国の水軍が出動しなければならない事態になったのである。
 倭人伝では狗奴国の男王卑弥弓呼もとより和せずとある。和せずとは口説きに乗らなかったことである。倭人伝は魏の作戦をバラシテ呉れたのである。

ひとこと---タイトルが、崇神天皇三兄妹となっていた理由が、少しずつ、おわかりになられたでしょうか。

このころ、崇神天皇は、どこに、兄は、妹は どこにおられたか、おわかりですか?
全部わかりますと、崇神天皇の偉大さが解かると思います。 巨大な魏の国に負けなかったのです。

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2009.09.15

崇神天皇三兄妹(9)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
  崇神天皇三兄妹(9)
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日本の敵状を調査するために、お土産を又沢山持って来て人民をだましたのである。少なく共日本国内を敵の将軍が見回っても、不思議に思わない様では魏志倭人伝を解説はできない。
 正始四年(243年)には使者を魏の都に出しこの時率善中郎将を1名増加した。魏国は益々戦争準備を充実させたのである。
 恐らく日本海側と瀬戸内海から、全く離れた所から侵略するために難升米と邪狗二人に増加した筈だ。
正始六年(245年)に難升米に軍旗が渡された。これこそ戦争開始、宣戦ふ告である。
これまでは卑弥呼の義弟卑弥弓呼(ヒコイマス、日子坐王)を口説いて、ワイロで卑弥呼のもとに呼び寄せる様工作しただろう。
しかし日子坐王は誘いに乗らなかった。難升米がこの時もらった軍旗は魏の朝鮮駐留軍が日本攻撃に正式に出動命令が出たことである。倭人伝の解釈を中国人に聞く位おかしなことはない。
 人質にして魏の軍隊が守備をかためた。

ひとこと------<日本の敵状を調査するために、お土産を又沢山持って来て人民をだましたのである。>
このほか、田村氏の推察された文章がいっぱい書かれていますが、魏の国の人は、チヨロコイものです。今の大国といわれるアメリカ、イギリス、ロシア、中国のすることは、こんなもものではありません。

昨日、ニュースで、新型インフルエンザの患者が増えたときには、呼吸器装置が間に合わないと報道していました。大阪府の子供たちが、カナダに旅行していたら、感染したと大騒ぎになりました。あれから、新型インフルエンザでなくなられた方は、12人です。いつだったか忘れましたが、あれから、殺された人が何人おられたか、新聞を繰って調べてください。政府は、殺人・自殺者のことは、何もしないで、大騒ぎしています。普通に考えますと、おかしいですね。
それだけ、新型インフルエンザのウイルスが危険であることを知っているからです。危険なウイルスを使って危ないことをしていたのでしょう。これこそ、私の想像ですが、その研究所の大半の人が亡くなられたのでしょう。
 そのことを世界に公表すべきです。 私ははじめ、アメリカがやっていたと想像していましたが、これほど、徹底的に対応しているということは、犯人は、日本人だということになります。
 国民に、実際に謝るべきでしょうね。そして、徹底的に、抑え込んでしまう。方法は、全員、新型インフルエンザにかかるしか方法はありません。 
 話がまったく、別な方向になりましたが、魏志倭人伝の解説書は間違っていると思います。 それよりも、古事記も日本書紀も解釈の仕方が間違っていると思います。

田村氏のきょうの文は、魏志倭人伝に難升米が、中国に帰ったときに、道路つくりをしたという、わずかな文が出発点になっています。

魏の国にとって、日本がどれほど大切な国であったかがわかります。大切なら、他の国をやっつけたのと同じように、10万の軍隊をもって行って、皆殺しにすればよかったのですが、日本では、それをしていません。

何分、古い話ですから、ここに書いてあることが正しいとは限りませんが、考え方は、正しいと思っています。
 

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2009.09.14

崇神天皇三兄妹(8)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(8)
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難升米が魏の都に行く時男生口四人、女生口六人を連行した。生口とは中国語で捕虜であることは何回か述べて来た。
 日本人が日本人を捕えて、ハイ捕虜ですと差し出すことがあるだろうか。
 難升米が魏国のスパイだから、連行した日本人は捕虜と言えるのである。生口はもともと奴れいではない。捕えて奴れいに使用したので、前後関係をハッキリさせるべきである。
 107年の師升の事件でものべたが、日本人捕虜は通訳に使ったのである。
 魏志倭人伝で正始元年は240年である。この時朝鮮総督と一緒に将校がやって来た。歴史に載せなければならない位偉い将校がついて来たのである。表敬訪問なら都だけで帰るべきだし、偉い将軍を連れて来るのは疑問を持つべきだ。
 日本国内の軍備を調べるのが本来の目的ではないか。日本各国の地理から、人口を調べる目的だから間違って居る筈がない。
 魏志倭人伝を陳寿は日本を知らずに書いたと難ぐせつけた日本人がいる。

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2009.09.13

崇神天皇三兄妹(7)

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*第8話 吉備にあった漢の古墳*
* 崇神天皇三兄妹(7) *
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スパイの難升米は魏の都からの、お土産を卑弥呼用とそれ以外の目的に分けてもらって来た。なぜ分けるべきか。おかしくないか。
 一部は卑弥呼用であり、残りは人民にあまねく展示して魏の皇帝が日本人を如何に、いとおしく考えているかを伝える目的までかかれている。要するにスパイ工作用ではないか。
 日本人を犬扱いで、チンチンシロ、チンチンしたらあげると見えすいたやり方である。
 日本人の代表として日子坐王が姉の卑弥呼の所に取りにこいではないか。
 おびき寄せて二人共毒殺である。三国志の時代である。この時代の最も常識的な戦略が日本で取られなかったら、それこそ不思議であり謎と云うべきだろう。
 中国人式に倭人伝を解釈すべきだったのである。日本人のお人よしには魏志倭人伝は手に負えなかった様だ。
 難升米が日本に帰ると、すぐ魏の都から使者が来た。表敬なら、都だけで帰るべきなのに邪馬台国まで来たのは敵状視察である。このために魏のお土産を先づ見せたのである。

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2009.09.12

崇神天皇三兄妹(6)のコメント

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(6)のコメント
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以下、すべて、ぶろぐ解説者の私のものです。


崇神天皇三兄妹(5)と崇神天皇三兄妹(6) のページの意味はお分かりになりましたか。
 ここに書かれてあることの解釈の仕方が間違っているとか、正しいとかの問題ではないのです。
 古文書を読むときには、この様に読むのだという法則が出来上がっているようで、それに従わない文章の読み方は、間違いとされています。
 それは、全くナンセンスなことであることが、(5)と(6)で主張されています。

田村氏が、「一般道路では運びきれない位の、大部隊を港まで運ぶための道路ではないか」とかかれた元になっている文章は、「汝が来使難升米・牛利、遠きを渡り、道路に勤労せり」
の部分になりますが、その後ろに書いてある「今、難升米を以て卒善中郎将と為し、牛利を卒善校尉と為し、・・・・・・」が重要なのです。
 いや、それよりももっと前の部分があっての、「汝が来使難升米・牛利、遠きを渡り、道路に勤労せり」
なのだと、田村氏は、崇神天皇三兄妹(5)と崇神天皇三兄妹(6) の間のページ p52、p53に、魏志倭人伝の一部をそのまま、入れて居られます。
 読みにくいでしょうから、ご自分の魏志倭人伝で確かめてください。

「卑弥呼、以死」等は、たったこれだけの漢字ですが、読み方は色々です。田村氏は、「卑弥呼以って死し」とすべきだと書いておられます。

その2ページを掲載しておられますから、次に、掲載しておきます。


P53


P52


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2009.09.11

崇神天皇三兄妹(6)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(6)
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一般道路では運びきれない位の、大部隊を港まで運ぶための道路ではないか。
 239年にすでに魏の水軍を日本に送る準備を完了していたのである。
 卑弥呼に親魏倭国王の印を渡すのが、本心なら水の準備なんかあり得る筈がない。親善ではなくて完全なスパイのやることではないか。
 卑弥呼を共立して倭国大乱が収拾されたと書いたのは真っ赤なウソで、漢軍が全滅したので日本は一時的に平和になったのである。
 敵の記録はすべて自国に都合よく書かれた、国民をだます作文となぜ考えないのだろうか。中国の文献なら一にも二もなく信用するのか。
 卑弥呼は衆を惑わすと書かれている。敵国の記録にこの様に書かれたことを、なぜ疑いを持たないで、卑弥呼、すなはち日本人に不なことわ、日本人は信じるのだろうか。
 卑弥呼は丹波の伊勢神宮の巫女の頭にすぎない。従って難升米を太夫に任命する筈がない。難升米は魏のスパイだと知られたくないために三国志の著者がやった作文だろう。

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2009.09.09

崇神天皇三兄妹(5)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(5)
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スパイ難升米は卑弥呼をうまくだまして、恐らくは親善のために、魏の都に出張する許可を取った。
 卑弥呼は此の時すなはち238年には86才で伊勢神宮の巫女の頭だった。千人位の巫女が神宮には居ったのである。
 難升米は魏の都で色々と戦略を半年もかけて考えた。先づ久米国王の卑弥呼の義弟を殺すことである。
日子坐王をうまく義姉の卑弥呼の所に寄こさせて毒殺すればよい。中国の一般的やり方である。もちろん二人とも殺すのである。
 このあと一挙に久米国を攻略すればよい。久米国の軍隊は瀬戸内海の沿岸を守って居るから、日本海側から久米国の軍隊の本部も食糧の貯蔵庫も被服しようも手中に収めることは簡単でないか。
 又これ以上の作戦が考えられるだろうか。
難升米は倭人伝では道路に従事せりと書かれている。
 半年後に率善中郎将の肩書をもらう様な人が道路に従事すとは、一体何事か。


ひとこと---〔難升米は倭人伝では道路に従事せりと書かれている〕此の事は、魏志倭人伝で確かめてください。
 この様な部部を翻訳された方が居られるでしょうか。
田村氏は、この部分が気になられたのですね。この記事につしつまが合うように、小説まがいのことを書いておられます。
 〔難升米は魏の都で色々と戦略を半年もかけて考えた。先づ久米国王の卑弥呼の義弟を殺すことである。
日子坐王をうまく義姉の卑弥呼の所に寄こさせて毒殺すればよい。中国の一般的やり方である。もちろん二人とも殺すのである。
 このあと一挙に久米国を攻略すればよい。久米国の軍隊は瀬戸内海の沿岸を守って居るから、日本海側から久米国の軍隊の本部も食糧の貯蔵庫も被服しようも手中に収めることは簡単でないか。
 又これ以上の作戦が考えられるだろうか〕

こんなものは、学問でない、小説であれば、どのようにでも書くことが出来ると云ってはおしまいです。魏志倭人伝には、どうしてこのようなことを書いたのか。

 以後、田村氏のガンバリが続けられ、次のページへと続きます。みなさんも、読まれる前に、ご自分でかんがえられることをお勧めします。

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2009.09.05

崇神天皇三兄妹(4)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(4)
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倭国大乱を崇神天皇三兄妹は壮年期に生き抜いて50年経過した。
 この間に漢軍の来襲に備えて吉備には12万戸の屯田兵を配備した。食糧は敵に略奪されないため別の国(邸閣国)においてあったことを魏志倭人伝は書いている。これが津山だったのである。この隣りが久米国であり、日本軍の本部があった所である。
 瀬戸内海から紀州に至るまで、海岸に高地性集落を置いた。
 漢国が滅んで魏の国になるや今度は丹波国にスパイの難升米を潜入させた。古事記に、タガミミノ御笠と称する高句麗人である。
 難升米が魏のスパイだと分かれば、読者でもその積りで魏氏倭人伝をよまれれば、卑弥呼の謎は簡単に氷解するだろう。
 へたな小生の説明がない方がよいかも知れない。蛇足として書かしていただく。
 漢は水軍で強硬策を取ったので、食糧補給が続かないで敗れた。
 三国志の時代で戦略家がうようよと居った時代ではないか。


一言---もう卑弥呼のことは飽きられてしまったのでしょうか。田村氏は、<難升米が魏のスパイだと分かれば、読者でもその積りで魏氏倭人伝をよまれれば、卑弥呼の謎は簡単に氷解するだろう>
といとも簡単に書いておられます。

しかし、アクセス数はどんどんへっていくところを見ますと、もう卑弥呼は面白くないのかも知れせん。

卑弥呼より、私は崇神天皇のところがすばらしいと思っています。ここに書かれたことは、学問でもなんでもありません。
日本の日本書紀と古事記に書かれてある崇神天皇5年に、死に絶えるほどの人民が死んだという、記事。中国で1年の間に、元号が4回もかわって、皇帝が二人死んだという記事。朝鮮では、これまた、三国史記という書物に、日本から、3000人ほどのひ人が避難してきたという記事。
 どれも、一行ほどの記事であるだけなのに、どれほど詳しく書いたものより、真実であることがわかります。

この三つを合わせて、スペイン風のようなものがあったのだろうという推察はすばらしいものです。

このようなものは、学問とは呼びませんが、どんなりっぱな学術論文より素晴らしいものだと思います。

この発想のおかげで、崇神天皇5年が、190年~192年のころのことであることはハッキリします。

どんどん、崇神天皇のことを書かれた書物を読んでください。崇神天皇は、いつ頃の人か、説はいっぱいありますが、ほとんと゛わかっていません。神武天皇になると、平気で、期限660年前とと書いておられる方がおられます。
 こんなことでは歴史になりません。

この冊子では、崇神天皇だけではなく、<倭国大乱>のことも書いておられます。 日本の歴史書に、お隣の韓国や台湾や、ベトナムのことを書きますか。 日本人が、30国も乱れて戦争をしていたなどと、平気で書くほどこそ、おかしな話はありません。

中国は、日本が生意気にも、戦を仕掛けてきたから、<倭国大乱>のことを書いたのでしょう。 どうして、大きな中国が、ちっぽけな日本が気になったのでしょう。
 気になったのではなく、重要な国であったのです。

このような考え方は、学問ではありません。普通に考えることです。

しかし、学問的でないと認めてもらえないようです。

所が、たくさん出された田村氏の小冊子は、インターネットで検索しますと、ある冊子は10000円の値段が付いていました。買われた方があるのですね。私は、< 第8話 吉備にあった漢の古墳>は、それに匹敵する内容だと思っています。


 

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2009.09.03

崇神天皇三兄妹(3)

この173年頃には崇神天皇の義弟日子坐王は20才位で久米国で、漢国軍と戦っていただろう。
 韓国軍は日本で食糧の現地調達が出来なかった時代である。その日暮らしの日本に来て、日本人が奥地に入られては、中国からの食糧が届かないことには、戦争は出来ない。
 従ってゲリラ戦になったのである。戦争が何十年と続いた理由である。最初には漢軍のことだから10万から20万の水軍が一度に来ただろう。

 中国から日本には偏西風を利用出来るから十数日もかからなかったろう。しかしこぐ船では中国には帰れないとなれば、これも長期戦になった理由である。
 倭国大乱が何十年も続いた謎は解けたことになる。

 このあと神風邪が中国から吉備に伝染したのである。補給の船がバイ菌を運搬して来たので漢国駐留軍は全滅する外なかった。
 ガダルカナル戦記古代版である。

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2009.09.01

崇神天皇三兄妹(2)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(2)
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前に推定年表を載せておいたが、7代孝霊天皇と9代開化天皇が相ついで亡くなったときに、崇神天皇は40才だった。
  日本書紀には代々の天皇が即位された様に書かれているからインチキだと述べた。
 7代8代9代と順に即位出来る筈が無かったのである。現に8代の天皇は即位できただろうか。
 中国では肉食で皇帝は30才前後で死に、数才の赤んぼが即位することが、この時代は多かった。
 天皇の平均在位で日本書紀のインチキ年代を修正する位バカゲタことがあるだろうか。
 話は横にそれたが卑弥呼は丹波の天照大神をまつった、伊勢神宮に巫女として行かされた。
 崇神天皇が生まれた頃の吉備の吉井川の川口附近はすでに、韓国軍の基地が出来ていたのである。倭国大乱の最中である。 卑弥呼は173年に新羅に親善使節をだしたことは述べた。韓国軍に攻められている以上、新羅と交友を結びたかったのだ。


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