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2009.10.31

遣漢使(1)

こんな言葉もあってよいだろう。漢の時代には先方の記録では57年と107年に二回日本から使いが行った。
 万里の波とうを超えて行くからには、特別の理由が必要である。何かのたのみ事があるから行った筈である。
 何を頼みに行ったかは、それ以後の国内変化を見出すことだ。誰が使いを出したかは、国内で利益を得た人を探すことだ。
 57年の遣唐使は思金命が出したと考えたい。天照大神は隠とんしたのだから、使いを出す理由も利益も考えられない。
 ニニギの命は幼少だから思金命は摂政だったのである。天照大神の、葦原の中州国を開拓するには、漢の移民の導入を思付いた。
 中州国すなはちデルタ地帯は無人地帯だったので、計画移民である。占領ではない。
 この申出に際しては自己紹介に天照大神は呉野太伯の後衛だと述べたから、漢の皇室は感激して漢倭奴国王印をくれたのである。
 従って57年は天孫降臨直後であり、奴国誕生の年と考えたい。 

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  38ページ

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2009.10.29

八岐の大蛇 八俣之遠呂智 八岐の大呂地

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  第5話 古代史と大江山  
 八岐の大蛇 八俣之遠呂智 八岐の大呂地

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スサオの命は蒜山を追はれて、俣野川から日野川をさかのぼった。
 古事記に出てくる肥之河を、出雲の中央を流れる斐伊川とするのはおかしい。
 タイトルの中央が、原文で右は小生の意見である。古事記で、オロチは蛇が使用されている。
 沢山道が集った横田に、大呂は現存している。八岐の大呂地でよい筈だ。
 日野川から、さかのぼるのが最も楽なルートである。
 ここには現在も日達金属の日本刀用玉鋼の工場が動いている。ただしタタラ方式だ。
 しかしスサノオの命の時代には山の斜面に沢山の煙道を山の頂上まで導いて、煙突の作用をさせていた。
 古事記が胴が赤くただれ、胴にスギ等が生えていた。目が赤く輝いていたと書いている。
 現在の日本鉱業の日立鉱山は全く同じやり方だから、2000年昔にすでに省力の最新製鋼所があったことになる。タタラは労力の多く必要な後世のやり方である。


私からの一言----ここの文は、歴史学会で表彰に値する文章だと思います。八俣之遠呂智に行きたいですが、体力と金力がなくなって行けません。 京都の大呂は行ってきました。

八岐の大呂地にかかれてある記事は、大蛇を退治した話になっていて、その結果、スサノオが助けた翁のむすめと結婚したことになっていますが、本当は、イザナギが蹈鞴による製鉄より素晴らしい方法で、製鉄していたことを太安万侶が、800年後に古事記に書いたことになります。大蛇の尾の中から出てきたことになっていますが、すばらしい太刀であったことは、草薙の太刀の名前で、天照大御神に報告したと記しています。
 
ここの話は、日本書紀の作者も、現在の歴史家も理解できなかったために、神話にされてしまいましたが、天皇家が、強かったことの証の一つだと思います。
 [天皇家の軍隊]http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1294830/
にスサノオのことを書きますので、合わせて読んでください。


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2009.10.28

天の岩戸(2)

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第5話 古代史と大江山  
  天の岩戸(2)
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天の岩戸の詳細は沢山の本で、取り扱われている。しかしなぜ発生したのかの、理由は明らかにされていない。
 スサノオの命は、倉敷平野よりも、現在の境港のある古代の夜見島で、稲作をやりたかったのである。
 この頃に渡来した人々は、稲作で楽土を築きたかった。先住民が稲作に安易に転向しないことは、土地に対する異常な執着力が古代にもあった所為だと考えたい。
 渡来民族はこの点が反対で、何れ長い年月の内に島国根性に変って行ったのではないか。
 スサノオの命は神々の座から降ろされた。住んだ所も須賀とか須佐等では宮は使えなかった。臣籍降下一号である。
 大呂の最新の製鋼所を手に入れて、仲直りのしるしに、草なぎの剣を天照大神に献上した。
 各地に鍛冶屋と金屋を置いて、稲作用、スキと剣を作ったので、士農工商の、工商の、はしりだった。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  36ページ

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2009.10.27

天の岩戸(1)

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  第5話 古代史と大江山  
   天の岩戸(1)
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イザナギの命がヒルゼンを立ち去ったら、スサノオの命は天照大神の不意を襲って殺そうとした。しかしこれを天照大神に察知されて不成功におわった。
 スサノオの命はこの時襲う積りではない、島根に行くので、いとまごいに来たと申し立てた。
 このあげく何れがまこさかを、近く生まれる子供の女の子が多い方が勝チにする、カケヒで決めることにした。
 稲作の時代には生めよふやせよで、これには女の方が優遇されたのである。
 カケでアマテラス(男神)には5人の男の子が生まれ、スサノオの命には女の子が生まれたので、スサノオの命が勝った。
 スサノオの命が勝ちほこって、早速アマテラスの田んぼのあぜを壊し、住居にクソをまき散らした。機織りの小屋に、馬の皮をはいで屋根に穴をあけて、ほりこみ、織女が死んだのである。要するに即時退去する様、追いたてた。天照大神は恐ろしくなって、天の岩戸に逃げこんだ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  35ページ

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2009.10.26

イザナギの命

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第5話 古代史と大江山  
  イザナギの命
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イザナギ、イザナミの命は連立って、楽土を求めて隠岐から倉吉を経て、ヒルゼンにやって来た。
 しかし不幸にしてイザナミの命に先立たれた。大山の西の現地名、御墓原に風葬されたのである。
 ヒルゼンは未開地だから、三人の世継に開拓のバトンを渡して、暖かい近江の多賀に移って隠とん生活をされた。
 この時の世継が、天照大神と月読命とスサノオである。この三人は名前から、出身地はべつだ。
 日本民族は元来混成民族だったのである。
 天照大神はヒルゼン高天原、月読命は丹波と但馬に挟まれた夜久野をあてがわれた。
 スサノオの命は倉吉平野をを割り当てられた。
しかしスサノオの命は島根半島(当時は島)に行きたいと鳴いてイザナギの命に頼んだ。
 ここでスサノオの命はヒルゼンから退去命令を受けたのである。古事記で海原を治めよとあるのは海岸の原っぱと解すべきだ。
 これで古事記は実話と云える筈だ。

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2009.10.24

天孫族(2)

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第5話 古代史と大江山  
 天孫族(2)
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天孫族が呼寄せた人達が、魏志倭人伝の、投馬五万戸を除いた人達である、伯耆、美作、備前の一部西大寺の人達で、倭人伝で約十万戸に達していた。
この天孫族は華南から、海の正倉院、沖ノ島を目指して、黒潮の海流を利用して、日本沿岸にやって来たか。
日本海岸は山形県の酒田平野にまで、足跡がある。ポートピプルではなくて、一つの村に、福や田、宮のつく地名が、デルタ地帯に、かたまって発生する。すなはち集団移民であった。
津山の久米国や吉井川下流の邪馬台国のひとも、日本海側から、陸地と川を中国地方を縦断して南下したのである。
 倭朝廷の重要な人達は、これらの地域から移動して行った。
これに反し投馬国の人々は、豊後水道から瀬戸内海へと進んだのである。この人達も恐らく華南の港から船出して来た筈だ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  33ページ

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2009.10.23

天孫族(1)

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第5話 古代史と大江山  
 天孫族(1)
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稲作技術を持って来た渡来民族に福ノ神族と仮に名前をつけた。焼畑農業と稲作とは耕作地が全く異なる。
 従って稲作技術を持った渡来民族が住みついた所は川の流域やデルタ地帯と盆地の低い平地に住みついた。ここには先住民が居らないから地名が、渡来人によって名付けられた。
 倭言葉の地名と中国臭の地名と、福、神宮のつく地名と稲作に関係ある地名が、せまい村単位にかたまって発生している。
 福と神のつく地名が特にかたまって発生することが多いので渡来民族を福ノ神族と仮に名付けた。しかも華南の福州と縁のある名前だった。
 この福ノ神族には渡来の理由の異なるサングループがあった。
 第一のグループは天孫族である。イザナギイザナミの命や天照大神は楽土を求めて、自らの危険でやってきた。
 次に国譲り、天孫降臨以後に、天孫族が呼寄せた人達だ。前稿ではこれらの人を占領軍と呼んだのは間違いだった。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  32ページ

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2009.10.22

雄略天皇の英断

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第5話 古代史と大江山  
 雄略天皇の英断
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日本書紀の記事は吟味して採用しないと間違いをおこしやすい。
 雄略天皇は暴君としての悪名が高い。その一例が吉備下道臣の前津屋一族の皆殺し事件である。
 都からの使いオオゾラ氏を前津臣は人質にしてなかなか返さないので、別の使いを出して連れもどした。
 オオゾラ氏は前津臣が、小女を天皇の、代表に、大女を自分の代表にして闘はせた。そして小女が負けると、刀で切殺したことを密告した。天皇は怒って征伐した。
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2009.10.21

日本書紀

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 第5話 古代史と大江山  
 日本書紀
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日本書紀では、ニギハヤヒの命の、天ツ瑞は極めて詳細な記述になっている。古事記ではさりげなく書かれている。
 ニギハヤヒが企んだゲリラの導入で起きた結果の倭国大乱で、孝霊天皇の御世に、吉備二ヶ国の和解があったことは、古事記には、記述があるが日本書紀にはない。
 崇神天皇の御世に丹波のクガノミミの御笠を征伐したことは、古事記にあって、日本書紀にはない。クガノミミの御笠が司令官で、物部の兵隊が久米国を攻撃したのだ。
 物部は天ツ瑞を持っているから、天皇を追出して、自分が天皇の位につきたかった。このために古事記が出るとあわてて、物部に都合のよい日本書紀をつくらせた筈だ。
 日本人は売国奴ニギハヤヒの命を忘れないで欲しい。同時に古事記が書かれたあと、あわてて日本書紀が現れたことも注意してもらいたいのである。
 日本書紀は悪書と申上げて来た。年代が出たら目な外にも、謎があったのである。記紀とはミソとクソだった。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  30ページ


私から一言---私は田村誠一氏ほど、日本書紀を悪書とは思っていません。しかし、よくもこれほど、一生懸命、歴史を書き換えたものだと感心しています。
この話は、1300年ほど前のことです。

 現在、調査が進行中ですから、真実かどうか分かりませんが、鳩山首相の会計担当者が、40年前に一度だけ、年賀状の交換があったと思もわれる人の名前と住所を使って、政治献金したことにして、どこから持ってきたお金か分かりませんが、入金処理をしていたと報じられています。首相は知らない筈がありません。
 悪いことをするには、このようにコツコツしませんと、バレテしまうものだなと感心しています。
 現在、〔新しい日本の歴史〕http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
のタイトルで、調べたことを書いていますが、解き明かせない程に、藤原氏は日本書紀を書くために、命を削って書いています。だから、殆どの人が、日本書紀に書かれていることを真実だと思っておられるのですが、私は少しずつ、真実が見えてくるような気がしています。
 しかし、藤原氏は日本文化の基礎を作りました。鳩山首相も、第二の日本の繁栄を築かれるかも知れません。それにしては、スケールが少々小さい気がしますが・・・・。

ニギハヤヒの事を説明できる人はプロでも居られないと思います。
京都の大江山へ一度行かれたら面白いと思います。何故かと云いますと、鬼の博物館があります。私は何も言いません。ご自分の目で確かめてください。
 近くに、皇大神社があります。元伊勢と云われている神社です。ここは内宮ですが、外宮もあります。 地図を眺めてから行ってください。「天」のつく地名がいっぱいあります。
 
この田村氏の文章は、ニギハヤヒの命と物部氏の解明の糸口になるかも知れません。

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2009.10.20

売国奴 ニギハヤヒの命(2)

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第5話 古代史と大江山  
売国奴 ニギハヤヒの命(2)
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神武勢や後のカサラギ王朝を倒すにはこの人達にさとられない様に兵力を養う必要がある。
 神武勢の兵隊は久米国が基地だった。又津山から吉井川を西大寺に送るルートがある。西大寺には、これも境港(日向浦)から、沢山の稲作移民を送り込んでいた。
 要するに華南から日本海が古代の通商ルートであった。
 従って久米と西大寺の周辺にゲリラ部隊を瀬戸内海ルートで送り込んだのである。この作戦は当然ニギハヤヒの子に引き継がれた。
 中国では倭国が乱れた期間がまちまちなのは、自国が仕組んだゲリラ活動で、客観的に物を見る立場ではなかったためだ。
 このゲリラを防ぐために瀬戸内沿岸には高地性集落が出来た。そして高地性集落のなかったのは投馬国の沿岸だけだ。これ位明らかに西大寺ヤマトと久米国の出口を攻撃目標にした証拠があるだろうか。
 ニギハヤヒの命以上の売国奴は日本書紀の歴史には見当たらないのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  29ページ

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2009.10.19

売国奴 ニギハヤヒの命(1)

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第5話 古代史と大江山  
売国奴 ニギハヤヒの命(1)
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漢書107年に倭面土国が朝貢して来たと書かれている。この時生口を160人献じたのである。生口とは中国では捕リヨのことだ。
 ニギハヤヒの命は口の上手な悪人である。しかも日本書紀ではナガスネヒコと最初は協力して、神武天皇軍を苦しめていた。神武勢が優勢と見るや神武勢に寝返りしている。
 裏で何をしているか分からない、悪人中の悪人ではないか。神武勢が分からないようにニガスネヒコの捕リヨを160人も漢に献上した。
 107年の朝貢は後漢書で、倭面土国からと書かれている。57年の朝貢と漢倭奴国王の金印を授けたことも同じ後漢書である。
 漢は倭奴国と倭面土国は別の国だったことを承知していたことになる。面土国の朝貢を認めることは、取りも直さず、奴国すなはち神武勢の討伐を援助することは、国際感覚があれば分る問題である。捕リヨを160人も献上して、兵力を誇大宣伝したのだ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  28ページ

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2009.10.18

二人の天ツ神

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第5話 古代史と大江山  
 [二人の天ツ神] 
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古事記の一字一句は愉しみながら、しかも注意深く読むことを繰返しお奨めする。
 神武東征は16年かかった。その終り頃に今一人の天ツ神が現はれたのである。すなはちニギハヤヒの命が天ツ神
のシルシを持って援軍をつれてやって来た。
 狭い日本で神武天皇が全く知らない所から突然論功行賞に、あずかる積りでニギハヤヒの命が現れた。
 古事記でニニギの命の子が、物部連の祖となっている。ここで又国土地理院の大江山の地図を歩いて欲しい。大江山の東南は物部町である。
 ニギハヤヒの命は丹波の大江山からやって来た鬼だったのである。
 天照大神は世継ぎはつれないで大江山に来た。従って亡くなった時に見回り品は一緒に埋葬された筈だ。
 ニキハヤヒの命は血統も分からないから、副葬品で天ツ神になりすましたのである。正しく大江山の鬼ではないか。

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2009.10.16

小学唱歌

昔丹波の大江山、鬼ども多くこもりいて、これは子供の時代によく歌った唱歌である。古事記に出て来てくる黄泉の国とは、米子市の南の溝口町のすぐ西隣りの、現地名御墓原だと申し上げた。
 古事記でヒコホホデミの命は、高千穂の山の西に葬られたと書かれている。申すまでもなく高千穂の山とは、大山である。
 イザナミの命を先づ風葬した所がこの御墓原であり、ヒコホホデミの命を葬った所も、この場所でよかった。
 この御墓原の西隣りの山の現地名、鬼住山である。鬼とは副葬品をねらう人だったのである。イザナギの命が、亡くなったイザナミの命に会いに出かけて、亡霊と鬼に追いかけられた場面がある。
 この時追い払った所が大山・蒜山料道路の鬼女台(キメンタイ)展望台である。
 大江山の南の山が鬼ガ城である。ここに鬼道を持ちこんだ人と、天照大神の副葬品を盗んだ、二人の大悪人が居ったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  25ページ


私のひとこと----地図を眺めていると、[鬼]という名前の付くところがいっぱいあります。これは、研究する価値があります。鬼女台(キメンタイ)は、最近つけられた地名らしいですが、本当は、もっと、昔からあったのかもしれません。 
それにしても、人間の記憶とは、面白いですね。田村さんが、唱歌で歌われたのは、80年ほど前のことなのに、こんなところで、記憶が引っ張り出されたのです。最近は、縁起悪いと思われるのか、[墓]という地名はなくなってしまいました。が、小字にははいっぱいありました。
 ここのお墓地名は、[御]がついていますから、高貴な人のお墓もあったのでしょう。[原]も付いていますが、今は、人家がいっぱいかもしれません。
 お墓の近くにすんでいた鬼は、お墓の中のものを盗んだという発想は、田村さんの幼少のころは、実際にあったのでしょう。 今は、お供えをそのまま、置いておきますと、カラスがきますので、持って帰ってくださいと看板があがっています。一年に一回ぐらい、カラスにやればいいのにと思います。
 私の記憶では、田舎にお墓参りに帰省した時に、お墓は、大勢の人で賑やかでした。鬼はいませんでしたが、お供えをお墓においた途端、その大勢の人の手が一斉に伸び、お供えはなくなってしまいました。大勢の人は、お供えを待っておられたのです。 終戦後で、貧しかったのですね。 せめて、5分ぐらいは待ってほしいと思いましたが、皆、怒る人はいませんでした。
 今は、カラスが増えるからとか、お墓が汚れるからとか言って、カラスのことを考える心の余裕がなくなりました。

この先の歴史の展開にご期待ください。

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2009.10.15

殺されていた卑弥呼(11

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(11)]
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魏志倭人伝は中国の国益になる様書いた本である。魏の使いがなぜ伊都国に、常駐したか。戦略の専門家が240年以降居ったと考えたい。外の目的があるだろうか。
 246年には狗奴国に攻撃を始めた。「狗奴国の男王と、もとより和せず」とは、敵の記録だから、だまされないことである。
 日本から先に攻撃したのであれば、、攻撃して来たと書く筈だ。
 戦いは難升米から、おっぱじめた。しかし勝ち目がないと分かると魏に使いを出した。卑弥呼が攻撃せよと、云ったからやむを得ず、戦争を始めたと、伝えさせた。
 この上は戦争責任の卑弥呼に死んでもらえば、和ぼく出来るだろうと述べた筈だ。
 いずれにしても、卑弥呼の年が年だから、死んでもらわないと、難升米のウソがバレル時期たったのである。
 難升米は悪人中の悪人だ。渡来すると間もなしに、日本占領を考え、魏の援助で事を運ばんとした。これにとことん卑弥呼を利用したのである。

 田村誠一著  昭和56年4月3日発行  24ページ


私の感想----卑弥呼シリーズは、本日で終了です。皆さんはどのように思われましたか。
内容の真偽や善し悪しの問題ではありません。
 田村さんは、どれほど、これを書いておられる時は、生き生きとしておられたかが、伝わってきます。
 内容をご存じない方は、チンプンカンプンだったと思います。卑弥呼の名前は知って居られるでしょうが、卑弥呼のことで、1時間誰かにおしゃべりが出来ますか。田村さんなら、1時間でも2時間でもしゃべられたと御思います。そうでないと、たとえ、想像であっても、小説家でも掛けない歴史の流れです。
 魏志倭人伝を読んで、おかしいところが一杯と思われたのでしょう。卑弥呼のことは、日本の歴史書には登場しません。
 魏志倭人伝にかかれていることを、全て正しいとして日本史を考えて居られる方ばかりです。 本当に、日本人はお人好しと云うしかありません。
  難升米のことは、古事記には出てきません。日本書紀のみに出てきます。どれほど沢山でてくるか、自分で日本書紀を読んでください。読むことができなくても、多いだけでびっくりされる筈です。
 日本書紀の作者は、書く必要があったから書きました。 
こんなことを考えながら、もう一度、(1)から読んでいただきますと、田村さんは喜ばれると思います。  H211014

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2009.10.14

殺されていた卑弥呼(10)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(10)] 
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歴史はくりかえすとはよく云ったものだ。皇帝を見付け出して、満州国をつくり、二次大戦を始めた。
 天皇の名で召集令状は勝手に発行した。軍部に邪魔な人間は誰でも、一銭五厘の葉書で召集した。反対すれば憲兵がピストル一発で片付けたのである。
 これと同じことを、1700年昔に、替玉の卑弥呼を利用して、鬼道の名のもとに全く同じことをやったと考えたい。
 鬼道とは難升米の創作だと考えれば、古代史の謎は一挙に解ける。
 日本人は舶来品なら、無批判に珍重する。
魏志倭人伝に難升米が、魏の軍司令官だと、明記したあっても、記事を中国有利な様に書かれているとは考えないのである。
 小生もGHQが丹波にあったと書いた。しかし天照大神の祖先にふさわしい、りっぱな余生をここで送られた。これは二次大戦の軍部同様利用したので一時は、天照大神までGHQだと感違いさせられた。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  23ページ

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2009.10.13

殺されていた卑弥呼(9)

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第5話 古代史と大江山  
  [殺されていた卑弥呼(9)]
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難升米はこの平和な日本に戦争を持込みたかった。崇神天皇を倒して、自分が日本国皇帝になりたかった。
 卑弥呼は無用の存在である。しかし大衆を戦争に狩出すには、何か大義名文が必要だ。今まで平和な伊都国の大衆を、同一民族の崇神勢すなはち奴国、狗奴国、邪馬台国、投国討伐に動員するのだ。
 大衆はそれまで尊敬している、卑弥呼の、神のお告げだからとすれば、大衆の徴用にはあつらえ向きではないか。
 しかし卑弥呼が表にでては困る。しかも自分が皇帝になりたいのだ。従って239年末に帰国すると、大江山の南の鬼ガ城に、城すなはち要塞を構築した。
 完成すると今まで、大江山のふもとの、天座に居った卑弥呼を、鬼ガ城に連れこんで、殺してしまったのである。 
 この日以後は替玉でよい。この積りで今一度倭人伝を読んで愉しんで欲しい。矛盾する点があったら教示願いたいのである。鬼道をよくし、しかも衆を惑わせばよいのだ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  22ページ

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2009.10.12

殺されていた卑弥呼(8)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(8)] 
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仮に一歩譲って鬼道が、神道や仏道の先輩で存在していたと仮定しょう。
 魏志倭人伝を書いた、陳寿は、卑弥呼が鬼道につかえて、しかも人をよく惑はすことをどこから聞いたか。
 これを伝えられる立場にあったのは、魏の都に半年も滞在し、しかも魏の上層部と、つきあっていた難升米が第一候補である。
難升米はカツラギ王朝すなはち、崇神天皇を討伐する軍司令官であった。当然滞在中の毎日の仕事は売名行為で、日本討伐の援助を取り付けることだった。
 何故半年も滞在する必要があったかこそ究明しなければならない問題だ。
 これからは想像である。倭国大乱の時に卑弥呼を共立して、国内が収ったと、ついウソをしゃべってしまった。日本の国情を239年に先方に説明する時には日本は平和だった。
 これを先づ伊都国の手柄にする必要が大ありだった。卑弥呼は鬼道をよくしたから、50年近く平和が続いたと説明した。
 
田村誠一著  昭和56年4月3日発行  21ページ

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2009.10.10

殺されていた卑弥呼(7)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(7)]
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よく頭を冷して考えて欲しい。卑弥呼は日本人だったと思う。この日本人がやった行為に相当する日本語がなくて、英語のシャーマニズムなる、一般日本人に分からない、言葉を使用しなければならない。
 これこそ謎ではないか。頭を冷して、一般読者は日本の学者が、何を考えているかを、検討して見ることだ。
 ふさわしい日本語がなければ、日本に鬼道は存在しなかったのである。
 鬼道につかえ、衆を惑わすとは、難升米がニュース源だ。
 鬼道と中国の本に書かれ、しかも魔法使いに卑弥呼がされてしまった。アラビヤ以外に日本に魔法使いが居ったことになる。
 更に面白いのは衆を惑わすとなっている点だ。よく注意して考えて欲しい。
 日本人を惑わしてやったと、三国史に書かれたことになる。
 立腹せざるを得ない、敵の交戦記録ではないか。今まで邪馬台国九州説の人達はお人好しに見えてならないのである。

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2009.10.09

殺されていた卑弥呼(6)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(6)]
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倭人伝に生口なる言葉が出てくる。これは中国の文献だから、中国の解釈に従うべきだ。漢和辞典では中国では、捕リヨのことなりとかいてある。
 捕リヨなら、奴れいとは全く別物ではないか。戦争があれば奴例制度はなくても、捕リヨはあり得る。
 読者は本屋をのぞいて見ることだ。古代の日本に奴れい制度があったと書いた本の多いことか。
 卑弥呼は鬼道をよくしたから、特に一般の関心を持たれた。鬼道とは何かよく判らないの漢和辞典をしらべたが、全く載せてないのが多い。
 やっとも一書で、しかも後漢書に引用例があることが解った。鬼道とは中国では魔法のことである。卑弥呼は魔法使いにされていたのである。
 日本ではなぜか卑弥呼はシャーマニズムをよくしたと、難しい英語しか、鬼道にあてはまる言葉ない様である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  19ページ

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2009.10.07

殺されていた卑弥呼(5)

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第5話 古代史と大江山  
  [殺されていた卑弥呼(5)] 
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読者は倭人伝で、魏からの文書と贈物の届き先が入れ違ってはいけない、と書いてあるのをご存じだろう。
 当然のことが、わざわざ、国史にとりあげなければならない、重要事項だったのである。
 文書とは元来、倭国王あてなら、卑弥呼が受取るべきものだ。これに対し、別の取扱い規程を作ったのは、敵将難升米としか考えられない。
 239年に沢山の土産物を魏から、もらった。この時の贈物は卑弥呼あてと、一般用に分けられていた。
 一般用は国中の人に見せて、魏の皇帝が如何に日本の人の為を思っているかを、PRせよと、意図が示してある。
 敵将難升米はこの翌年、魏の使いと、これから攻略する、奴国、狗奴国、邪馬台国の敵状を正々堂々と視察して回った。
 この根回しだったのである。239年に軍司令官に任命されたことを、日本人は忘れては困る。倭人伝は一字一句、興味本位で眺めることは許されない。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  18ページ

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2009.10.06

殺されていた卑弥呼(4)

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  第5話 古代史と大江山  
  [殺されていた卑弥呼(4)]
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敵難升米は魏にまでウソを云っていたことは、これだけで充分だろう。
 卑弥呼が生きていた証拠は倭人伝では全く見当たらない。倭人伝を注意深く読むと、卑弥呼には金印が授けられた。親魏倭国王印だから、魏としては国王卑弥呼に直接手渡しするのが国際感覚だ。
 しかしこの金印は朝鮮の帯方軍まで来て、宙ぶらりんになった。卑弥呼に手渡し出来なかったためと考えたい。替玉を会はすわけには行かなかったためだ。食事を運ぶ人だけが男一人だけだ。伊都国は千余戸なのに、卑弥呼に下女千人はおかしくないか。少いと替玉か否かの、ウワサがすぐ伝はるではないか。誰に聞いても分からないために、下女を沢山にしたまでだ。
 重要な国史に、ノックしないと、入室できないと書いた。如何に異常か、替玉をしいてたことは、魏の一部でも承知していたと考える外ないのである。
 親魏倭国王印が日本まで届けられなかったことは替玉だった、ためと考えたい。


田村誠一著  昭和56年4月3日発行  17ページ

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2009.10.05

殺されていた卑弥呼(3)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(3)]
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卑弥呼を共立したと難升米は、先づウソを魏に伝えたのである。
卑弥呼は共立17年前に倭国王と名のっていた。従って共立前から女王だった。
邪馬台国には、女王が居ったと、倭人伝に書かれている。邪馬台国とは吉備上道国である大吉備津日子の命の一族が支配していたから女王は居る筈もなかった。これも難升米以外にニュース源がない。
伊都国の国名で小生も振回された。恐らく大江山の西隣りが伊都支(出石)だから、伊都国とつけただろう。占領軍は自分に都合よい名前を付ける。
日本に実在の名前では魏の国にカッコ悪いではないか。
倭国の大率が居った国も出たら目でもよいし、大率もなかったと考えたい。
 邪馬台国自体、伊都国の敵国であった。
魏からの督戦の常駐員が伊都国に居ったからこの人に気付かれない点はウソでも良かったのである。倭人伝に刺史如きものあり、とある。このニュース源は常駐員だろう。

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2009.10.03

殺されていた卑弥呼(2)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(2)] 
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514


卑弥呼が実在していた証拠は、朝鮮の史書三国史記だけである。173年の新羅の記録には二度と登場しない。 友交のための訪問だった。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  15ページ


 卑弥呼が実在していた証拠は、朝鮮の史書三国史記だけである。173年の新羅の記録には二度と登場しない。 友交のための訪問だった。
従ってこれ以後75年間訪問がないこともおかしい。
 話を転じて190年頃の古事記の記録を探した所、崇神天皇より4代前の孝霊天皇の御世に、二人の将軍を吉備国に派遣している。
 「言向け和したまひき」と書かれているから、話合いで解決した。
 一人の将軍は大吉備津日子の命で吉備下道国の祖である。高梁川の西岸で、福山の芦田川の流域に含まれている。
 取りも直さず邪馬台国と投馬国である。この投馬国はニギハヤヒの命が、漢国と手を結んでゲリラ部隊を送り込んだ所だ。
 孝霊天皇の指図でこの二国は、平和休戦した。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  15ページ

 

難升米は卑弥呼に使いだとして、魏の都に239年に行った。そして卑弥呼は倭国大乱の時に両者が相談して選んだ女王だと述べたのである。
 難升米がいくら何でも自分は倭国王と名のる心臓の持ち合わせはなかった。やはり誰かの王サンの指図で行動している方が何かにつけて好都合だったのである。しかし実在されてはやりにくい。
 卑弥呼を共立したとニュースを提供したのは難升米である。攻略目標はカツラギ王朝の、つわもの達の出身国久米国として倭人伝を読むことである。
 朝鮮に三国史書がある。これは毎年の記録が残っている。左記(下記)は新羅の記録だ。173年に卑弥呼は友交のため新羅に使いをだしている。
 難升米が魏の都に行ったのは、これから66年後である。卑弥呼は生きて居れば、この時には百才位だろう。248年に死ぬまで、更に9年生きていたことになる。殺されていた証拠の一つである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  13ページ

H211001

魏の皇帝から軍司令官の肩書をもらった。倭国との親善大使ではないのである。日本に取っては敵将だ。
 倭人伝とは中国の正史である。舶来品なら敵国の記録まで、そのまま信用する態度では古代史の謎は解ける筈がない。
 先づ倭人伝の最後の一行を、読んで欲しい。壱与が実在したか否かも疑問だ。壱与が20人を遣わし、政等の還るを送らしむとある。
 真赤なウソで負けて逃げ帰ったのではないか。男女生口とは捕リヨだ。これに船をこがした。文献はウラを読むことだ。
 白珠五千孔等を貢いだとあるが、略奪物資はこれだけしかなかった。
 こり以後は約180年間国交断絶のである。この周辺の記事だけはニュース源は逃げ帰った人達からだ。
 難升米は半年も魏の都に滞在して、道路工事までやって売名した。大部分のニュース源は敵将難升米だったのである。
 先づ、倭人伝のウソとホンマを吟味することが先決である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  11ページ


ひとこと---この文章を読んで、よし、私も魏志倭人伝を読もうとして、読んだことを書いたものが、【魏志倭人伝を読む】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
に掲載しています。
 時間がありましたら、覗いてください。

日本人は、古事記は信用できないが、外国の資料は信用する人が多いようです。このページに書いてあることは、短いので、理解しにくい点はあるでしょうが、これは、現在でも当てはまることだと思います。

H210930

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2009.10.02

殺されていた卑弥呼(1)

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第5話 古代史と大江山  
 [殺されていた卑弥呼(1)] 
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難升米は卑弥呼に使いだとして、魏の都に239年に行った。そして卑弥呼は倭国大乱の時に両者が相談して選んだ女王だと述べたのである。
 難升米がいくら何でも自分は倭国王と名のる心臓の持ち合わせはなかった。やはり誰かの王サンの指図で行動している方が何かにつけて好都合だったのである。しかし実在されてはやりにくい。
 卑弥呼を共立したとニュースを提供したのは難升米である。攻略目標はカツラギ王朝の、つわもの達の出身国久米国として倭人伝を読むことである。
 朝鮮に三国史書がある。これは毎年の記録が残っている。左記(下記)は新羅の記録だ。173年に卑弥呼は友交のため新羅に使いをだしている。
 難升米が魏の都に行ったのは、これから66年後である。卑弥呼は生きて居れば、この時には百才位だろう。248年に死ぬまで、更に9年生きていたことになる。殺されていた証拠の一つである。

512


田村誠一著  昭和56年4月3日発行  13ページ

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2009.10.01

[敵将 難升米]

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第5話 古代史と大江山  
 [敵将 難升米]
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難升米は239年に、魏の皇帝から軍司令官の肩書をもらった。倭国との親善大使ではないのである。日本に取っては敵将だ。
 倭人伝とは中国の正史である。舶来品なら敵国の記録まで、そのまま信用する態度では古代史の謎は解ける筈がない。
 先づ倭人伝の最後の一行を、読んで欲しい。壱与が実在したか否かも疑問だ。壱与が20人を遣わし、政等の還るを送らしむとある。
 真赤なウソで負けて逃げ帰ったのではないか。男女生口とは捕リヨだ。これに船をこがした。文献はウラを読むことだ。
 白珠五千孔等を貢いだとあるが、略奪物資はこれだけしかなかった。
 こり以後は約180年間国交断絶のである。この周辺の記事だけはニュース源は逃げ帰った人達からだ。
 難升米は半年も魏の都に滞在して、道路工事までやって売名した。大部分のニュース源は敵将難升米だったのである。
 先づ、倭人伝のウソとホンマを吟味することが先決である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  11ページ


ひとこと---この文章を読んで、よし、私も魏志倭人伝を読もうとして、読んだことを書いたものが、【魏志倭人伝を読む】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
に掲載しています。
 時間がありましたら、覗いてください。

日本人は、古事記は信用できないが、外国の資料は信用する人が多いようです。このページに書いてあることは、短いので、理解しにくい点はあるでしょうが、これは、現在でも当てはまることだと思います。

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