鎮座地・現住所 鳥取県米子市宗像298番
http://www.jinja.in/single/86069.html
境内説明板によれば
由緒
ご祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命 ほか十八神
*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神
例大祭 五月三日
例 祭 十一月三日
歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月廿三日
創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。
一、御神徳
延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。
一、神社と古墳
神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。
上の由緒は、何時書かれたものか分かりませんが、次のものは、昭和9年に造られた鳥取県神社誌に書かれた由緒です。
宗形神社 郷社
鎮座地 西伯郡成実村大字宗像字向塔
http://www.jinja.in/single/86069.html
現住所 鳥取県米子市宗像298番
祭神 田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、武甕槌命、日本武命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、誉田別命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊、素盞鳴尊、大国主命、倉稲魂命、天児屋根命、天太玉命、猿田彦命、鈿女命、阿蘇彦命、保食神、月読命
由緒
創立年代不詳ならざれども、文徳実録に斉衡三年八月乙亥加伯耆国従五位下宗形神従五位上とあり、又延喜神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして、古来上下の崇敬殊に篤く、弘治二年尼子晴久社殿を建立し社領三百石を寄進せりと云不、其の後吉川元春右の社領の外に百二十石を増進し、太刀二振り兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠当国を領するに及び社領悉く没収せらる、旧藩主池田慶徳幕提灯を寄進せられ、慶応三年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては会見郡内の高割を以てなせり、明治初年郷社に列せられ、同四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定世良る古昔鎮座の地は現社地より北三丁余の宮の谷といふ所にして本宮と呼ぶ、本殿ありしと伝ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清ありてごふ井戸といひ断水することなし、弘治二年四月三日成実村大字日原字中尾山鎮座無格社住吉神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命 )同村大字石井字要害鎮座無格社石井神社(祭神 誉田別命 ) 同村大字奥谷字谷奥山鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊) 同村大字美吉奥屋敷鎮座無格社上飯生神社(祭神 素盞鳴尊) 同村大字同字屋敷前田鎮座下飯生神社(祭神 大国主命) 同村大字長田字笠頭鎮座無格社陽田神社(祭神 素盞鳴尊)の六社を合併す。
古昔当社の祭神今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしと云ふ)海路御来着宗像の地に鎮座せられしと云ひ、御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云伝ふ。
例祭日 4月15日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭器庫、随神門
境内坪数 1862坪
氏子戸数 230戸
どちらに書いてあることが正しいのかは、私には、調べようがありませんが、気の付いたことを記します。
①境内説明板ですから、仕方がありませんが、「ほか十八神」と書いてあります。一神 数に 相違があります。
②どうして、「ほか十八神」として、まとめられたのでしょう。鳥取県神社誌の方を見ますと、少しはその理由が分かります。「ほか十八神」の神がどこから来られたかは分かりますから、これを糸口にして、調べるとその経緯が分かるかもしれません。
何か複雑なことがあった証拠です。
③神社の方は、*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神 と書いておられますが、これは間違っています。古事記では、三人は、素盞嗚命の子供となっています。
④一番重大なことは、「創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている」
と境内の説明には書いてあります。
この説明によれば、九州からここへ遷されたものであると書いてあります。
私は逆で、鳥取県米子市宗像から、九州の宗像に遷されたと思っています。そのことは、この資料を見る前に、随分前に書いています。
【胸形神社と宗形神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1419.html
この記事は、九州のことを調べていましたら、宗像神社に突き当り、調べていたら、宗形神社となりました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1413.html に関連の記事を治めています。
これらをもとに、次の記事を書いています。似たようなものですが、よろしかったら、読んでください。
No 229 胸形神社と宗形神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-26
No 230 米子の宗形神社は古い神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-27
今回は、由緒と云うものは、当てにならないと云う所を見て頂く積りで書きました。現在は、米子の宗形神社は、九州の宗像神社を遷座したものだと思っておられますが、昭和9年のときは、そのようなことは 書いてありませんから、僅か、50年でこのように変るのです。
どちらにせよ、現地に行かれることが大切です。九州と米子と両方です。全国に6000もあると云いますから、全部しらべますと、面白いことが発見出来るとおもいます。
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