« October 2009 | Main | December 2009 »

2009.11.30

三貴子

天照大神と月読命とスサノオの命は、三貴子と古事記では呼ばれている。前稿で出身地は三人三様と申上げた。
 これが日本民族は何所から来たのかの、ヒントにならないだろうか。以下は想像である。
 天照大神は別稿でも述べた様に、揚子江流域の華南人で、周時代の呉の太伯の子孫だろう。このことを思金の命の使いが、57年に漢の皇室に告げた。出たら目では困る。何等かの根拠を示したから、金印までもらったのである。
 スサノオの命は高麗人だ。米子平野に淀江町の近くに高麗村がある。この平野の地名は大国村、大和村、大袋村、高麗村と、同時代に名付けられた愉しい地名の一つが、高麗村でしかも、この付近は発音は大和言葉だ。
 この時代高麗人の人が来ていたことになる。
 スサノオの命はこの一人だったことになる。
 大正二年に発行された。〝大日本神祇史〟(佐伯有義著)584頁に宮内省で祭っている神が載せてある。韓神社二座と園座社で、韓神社の祭神はスコナヒコと韓神だった。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行 61ページ


私から一言---以下は想像であると書いてありますが、鋭いと考察だと思います。古い地名は、殆ど、2文字か3文字です。朝来(アサゴ)、阿蘇(アソ)、新井(ニイ)、与謝(ヨサ)、養父(ヤブ)。
この付近は発音は大和言葉だの表現はバツグンです。
韓神はスサノオの子供の大年神と伊怒姫(神活須毘神ノ娘)の間に生まれた人です。このことが古事記に書いてあることが、古事記の凄いところです。
神活須毘神の名前の前に、「神」が付いています。ユダヤ人の血統を表すと考えますと、いろいろと辻褄が合うことになります。

|

2009.11.28

若かかりし頃の神武(2)

神武天皇には既に二人の子供あった。しかし大后を大久米命に世話をして欲しいと頼んだ。この前後が歌に詠まれている。
 小生には文学的に紹介する能力がないから古事記を見て欲しい。
 16番の歌に倭の地名が出て来る。これは大国村の倭である。大和に移ってからのデーターでは神武天皇が乙女を追いかける年頃ではないだろう。
 この時イスケヨリ姫が神武天皇を宮内に会いに行かれる。
 この宮内も宮中に参内と解説した本がある。これでは、大和に移ってのちになる。更に宮内は辞書ではこんな使いかたはない。
 米子の地図には宮内は淀江町に現存する。神武天皇が読まれた20番の歌に、しけしき小屋で二人は寝ましたとある。この小屋は宮内の近くの古御堂にあったと考えたら地図を歩くことは愉しい。
 神武天皇はイスケヨリ姫との間に三人の子供が生まれた。神武の青春時代は伯耆の国で過ごした様だ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行 60ページ


私より一言---〔この小屋は宮内の近くの古御堂にあったと考えたら地図を歩くことは愉しい〕 本当ですね。地図を歩くことは楽しいではなく、愉しいですね。
 地図を眺めているだけでも、一大発見ができるものです。

|

2009.11.26

若かかりし頃の神武

神武天皇は高千穂から、日向を発って東征に出た。東征とは後世の人がつけたのであって、そのために占領軍だったと申上げた。
 東へ行きたいとなっている。伯耆より住みよい所に行きたかったのである。
 この日向は境港の旧地名日向浦でよかった。しかし立証が不足である。
 神武天皇は沢山の和歌を遺された。古事記の和歌には便宜のため番号がついている。14番の和歌に伊勢が出てくる。この伊勢は伊勢国を指すだろうか。和歌も全く素養の持ち合わせががない。
 しかし解説は全て、伊勢の国の大石となっている。どうもピンと来ない。もっと限られた所の伊勢と考えたい。
 又、神武天皇は日向国から伊勢国に大和より先に行ったと考えることも不自然だ。
 倉吉の高千穂の海岸は地名が伊勢である。神武天皇が日向に居った時にタギシミミの命が生まれた。ここでも日向の国とは書いてない。
 筑紫の日向の高千穂に天孫降臨した。ここが神武の住居のあった所でよかった。

「5-58.jpg」をダウンロード


田村誠一著  昭和56年4月3日発行  57ページ


私よりの一言----筑紫の日向の高千穂は、宮崎県の日向ではありません。上の地図のところです。
田村氏は、古事記に[竺紫]とかいてあるのを[筑紫]と書き間違えられました。 『古事記』の翻訳の倉野氏は、ふりがなを<つくし>とふっておられるのですが、これが、皆さんに、九州の筑紫と思わせました。 この翻訳本は、現在でも、べストセラーズだけに、日本の歴史を変えたことになります。倉野氏はあとがきに、翻訳の仕事に、50年を費やしたと書いておられます。それぐらい、かかると思われるほどの偉業ですが、本は、一度印刷しますと、訂正が効きません。 私のブログのように、間違いだらけも困りますが、本当は、誰かが、訂正しませんと、いつまでも、間違った知識を頭にいれることになります。
太安万侶は、筑紫と竺紫の違いぐらいは知っていたでしょうが、このように書いて、日本書紀の           編集を惑わしたのだと思います。[竺紫]は<つくし>とよむのであっています。 意味は、山を登っていくと、麓のところは、ブナ林だったとおもわれます。その林が<つきた>ところで、ミソギをしたと古事記には書いてあります。
日向は、地名ではありません。太陽の当たるところです。

必ず、古事記のどこに書いてあるか確かめてください、場所を見つけるだけで、数10分かかります。 時間がかかった分、頭に残ります。しかし、私の場合、一日したら、すぐに抜けてしまいます。こんなことを15年ほど、続けています。
           
                      

|

2009.11.24

元伊勢

***********************
第5話 古代史と大江山
  元伊勢
***********************
天照大神は最初は大江山の麓に祭られた。ニギハヤヒの命も難升米も、われこそは、天照大神の正統派だとPRした筈だ。
 更に漢や魏の皇帝に、アマテラスは中国の出だとこれも宣伝材料にした。従って、親魏倭国王の金印を、卑弥呼は授けられた。
 瀬戸内海に高地性集落が再び、発生したのはこの時だ。山城にまで、侵入して来た。崇神天皇はこの討伐をやっと完了した。
 崇神天皇の御世までは天照大神は、やむを得ず宮中にお祭りしてあった。
 丹波を征服したので、天照大神の御神体を敵から、奪はれない様に、目をくらますために各地を点々として伊勢に移して祭ったと考えたい。
 舞鶴湾は境港と並んで良港だったので、中国や新羅との交通には便利だった。更に内宮等があることが敵には好都合だったのである。
 皇大神社、内宮、豊受神社があり、宮川が流れている。元伊勢と呼ばれて当然だったのに、歴史にはなぜか現はれて来ない。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  57ページ

|

2009.11.21

大国村

**********************
第5話 古代史と大江山
 大国村
**********************
地図は意外なことまで教えてくれる。夜久野国があったから、高天原がヒルゼンにあってもよいことになる。
 古事記はいよいよ神話ではなく、レッキとした古代史と云えることになった。
 話は飛ぶが米子市の南隣りの西伯町は大国村や天津村が合併して出来た町だ。天津とは中国の北京の外港と同一名だ。
 大国村の中心は、すでに述べた倭である。漢倭奴国王の金印の、奴国の都、倭の外港が天津村だつた。天津村の東に三崎の地名があるから、海はここまで、入りこんでいた。
 大国主神は文字通大国村のボスで、現在と同じでボスには兄弟が80人あってもよいことになる。古事記は稲羽のヤガミヒメにデートに行く前の名はオオナムヂの神と呼ばれていたと正確に記述している。
 国譲りとは大国主神の縄張りを、明渡せとせまったのである。大国主神とは、大国村のボスでよければ、何人あっても、不思議ではなくなった。地図が一つ謎を解いてくれた。しかし由緒ある地名と歴史が消されていた。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  56ページ

|

2009.11.20

ヒルゼンと大江山

***********************
第5話 古代史と大江山
  ヒルゼンと大江山
**********************
554


ヒルゼン(国土地理院・湯本)と大江山の地図を歩いている内に、地名の共通性に気付いた。
 もともと福ノ神族を最初に仮説として採用したのも、同じ村位の単位の所に、福、神宮等の特定の地名が多いことを見出したためだった。
 何十キロ、時には何百キロ離れた所に、この様な現象が発生した。
 左はヒルゼンと大江山の、似た地名である。いくらなんでも、無縁だ、偶然だで片付けられる問題ではない。
 天照大神がヒルゼンから、大江山の麓に移った証拠にしたいのである。
 更に皇大神社、内宮、豊受神社も、大江山の麓に鎮座している。
 ここに別稿で述べたニギハヤヒの命と倭人伝の難升米(古事記ではクガミミの命)がたてこもったのである。
 地名は歴史である。大切に古墳同様に保護して欲しいと申上げる由縁である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  55ページ

|

2009.11.19

大和の地名のおこり

*********************
 第5話 古代史と大江山
  大和の地名のおこり
*********************
大とは、中国では皇帝にゆかりの漢字である。大礼、大典、の大である。和とは講話の和であり、戦さの戦後処理だ。
 大国主命がタケミカヅチの命に降伏した所は前述の様に、日野川から東に4キロの現地名小波浜である。これは古事記には小浜となっている。
 この小波浜は最近まで大和村に属していた。大和のおこりは、この倭国占領一号の地名だったのである。学者は恐らく偶然の一致と称する名文句を必要とするだろう。
 タケミカヅチの命は、この時葦原中ツ国を譲れと談判した。デルタ地帯を譲れであって焼畑地帯の出雲は欲しくなかった。従って松江周辺と斐伊川のデルタは接収したのだ。
 出雲の古墳も新羅系出雲族と華南系天孫族に分けて考察する必要がある。
 太安万呂も葦原の中ツ国と書いたのは誤りらしい。中ツ国とは何かと反論したい。ヒダノアレが中州国と発音したとすれば速記間違いで片付く。デルタとは中州国ではないか。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  53ページ

|

2009.11.17

笛吹の国

*******************
第5話 古代史と大江山

 笛吹の国
*******************
古事記の神代の舞台が大山・蒜山の周辺だとすれば山の名前が全く出てこない筈はない。大山は中国流には皇帝の山の意味である。
 天照大神が晩年を過ごした天座の山も、大江山と、大がつく。しかも江が山につくのはおかしい。江とは中国では揚子江である。
 天照大神は出身地が江南だったことを明らかにしてくれた。
 倭人伝に不弥国が登場する。これは高千穂のある倉吉平野だと申上げた。そして笛の国だと述べた。倉吉市の打吹山の笛吹童子を引合いに出した。笛吹きでよかったがスケールが小さすぎた。
 実は大山から南に伸びる尾根に笛吹山がある。ここが笛吹国の地名のおこりなら、倉吉とヒルゼンを含めた地域が、中国名、不弥国だったことになる。
 笛吹童子はここから倉吉の打吹山に舞い降りたと考えたら面白い。それにしても日本の古代の地名を、あべこべに中国から教えられたことになる。

私からの一言
 前回の夜久野にせよ、今回の笛の国にせよ  凄い発想だと思われませんか。 少し強引なところがありますが、近くの方は、騙されたと思って、夜久野に行ってください。私は3回行きました。はじめは、月読命を祭ってある神社を求めて、走り回りました。由良川を上っていきますと、亀岡市、そして京都まで、月読命が祭られているのがわかります。月読命が、移動したのではなく、月読命の子孫の人が移動したことが想像できます。3回目となりますと、由良川にせよ、牧川にせよ、ずいぶんゆっくり流れていることに気づきます。これはどういう事だと考える余裕が出てきます。

 田村氏も何度も倉吉に行かれたのでしょう。
現在ある笛吹山は、誰かが名前をつけたことは間違いありません。山の名前やその土地の名前と神社の名前が一致することは多いです。

笛吹山は、笛の山ではなかったか、不弥国の代表する山に名前が付けられました。不弥山、そして、可愛い笛山と変わった。いや、不弥国がここにあったことを知られたくない人が、笛吹山と書き換えた。 それがどうして、打吹山になったのだ、こんなことを考えながら、打吹山に登ってください。さて、田村氏のように笛吹童子が出てくるかどうかです。5月ですと、ツツジがきれいです。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  52ページ

|

2009.11.16

夜久野国---夜食之国---夜之食国

******************************
第5話 古代史と大江山  
 夜久野国---夜食之国---夜之食国
******************************
月読命は古事記では、タイトルの最後の様に夜之食国を治めよとイザナギの命に云はれた。これでは古事記は神話である。
 原文はタイトルの中間てなかったか。これを漢文の分かる人が、おかしいと思って、夜之食国と書きかえ、勝手な読み方を解説したのではないか。
 夜食之は夜久野である。げんざいの福知山市を含んだ、京都府天田郡に、スキーで有名な夜久野がある。
 夜久野の北隣りは、古代史に出てくる出石だし、西北は天照大神が余生を送った大江山である。天田郡とは天子すなはち月読命の田があった所である。
 広い福知山が企まれ、しかも古代の河川交通の要所でもある。
 月読命が葬られた所は、近くの大江山の麓の皇大神社である。
 夜久野は縄文後期以降の古墳が左記の如く多くでる。これだけ三拍子そろって、偶然と云えるだろうか。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  51ページ


550


|

2009.11.15

四天王

***********************
第5話 古代史と大江山
  四天王
***********************
548


ヒルゼンの人から天王の地名の所が4ヶ所あると教えられた。五万分の一の地図では天王の地名が一つしかない。
 ヒルゼンにはこの外に地図で中福田と上長田の神社マークのある所が天子の住んだ所である。今一つが湯原町(湯船の湯)にある。
 中福田の神社葉現在は福田神社だがもとは大宮大明神である。大宮とは天子の宮のことである。今では大和の三輪の三輪大明神や、大神神社が最も古い由緒あるものとなっている。しかし、本家はここだと思はれる。
 ここの踊はすでに述べたが無形文化財の大宮踊で中国の天山山脈(ここにも天がつく)の踊が伝わったと思っている。
 さて今一つ湯原町の天皇は合併前の社村(名前に注意)の宇和佐である。鳥越氏の〝古代吉備王国〟で上の如く、由緒ある宮が多すぎると疑問を持たれた所だ。
 天孫降臨の時のニニギの命を護衛した天津久米命の本拠地が、ここだった筈だ。ここは久米国の玄関口だったのである。


|

2009.11.13

久米国

********************
第5話 古代史と大江山  
 久米国
********************
天孫降臨の時ニニギの命を護衛した一人が天津久米命である。美作の国の久米郡の地名はここから出た筈である。
 四天王の所で述べたが、住居は現在の湯原町の社の天王の地名の所だった。久米国への交通の要衝である。古代には流れの緩い、川原が道である。社川をさかのぼって、目木川を下れば久米国だった。
 神武東征には久米歌として、久米のつわものが活躍している。しかし解説は全て久米国の存在をしらないから誤りを犯している。
 みつみつし久米を地名としないで個人名にすることは、和歌として、おかしくないか。
 久米国は魏志倭人伝でも、狗奴国として、認めている。しかも伊都国が戦争をしかけて敗けた、つわものの国である。
男王が居ったことも中国の記録には書かれた。この男王とは神武東征に活躍した大久米の命の子孫だった。前稿の久米国は古事記で認知されたことになる。

546


私の疑問---私の持っている1:170000の地図では、社川をさかのぼっていきますと、山の中に入ってしまいます。そして、800,mを超える山を越えますと、目木川に到達しますが、これでは、久米国への交通の要衝であるとは言えません。
現地へ行くとよくわかるかもしれません。

|

2009.11.11

蒜山か日留山か

************************
第5話 古代史と大江山  
  蒜山か日留山か
************************
ヒルゼンは三方を大山・蒜山国立公園に囲まれている。
 次の図は津山市史の縄文時代の古墳分布である。
544


東北に著しく古墳が密集した所が、ヒルゼンである。
 ヒルゼンは岡山県のチベットと現在も云はれている所だ。3月は雪に埋れ、火山灰のため農作物育たない所だ。
 この様な環境に、美作の国の縄文時代の古墳の大部分が集中している。縄文後期に高天原があった証拠の一つである。
 このヒルゼンの北に座っている(そびえていない)1200米の山が蒜山である。前稿で蛭山とした。これも間違いではない。
 しかし佐竹先生の〝神代遺跡考〟の副題「日留山が高天原」の日留山が、大和言葉であって正しい。
 先日も朝日テレビが朝日で黄金色に映える蒜山を放映した。盆地だから先づ蒜山に朝日があたる。
 夕日が最後まで照らす文字通りの日留山だ。
古代に蒜山の漢字位不釣合はない。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  45ページ

|

2009.11.09

ヒルゼンの地形(2)

***********************
第5話 古代史と大江山  
  ヒルゼンの地形(2)
***********************
ヒルゼンは東西20キロ、南北10キロの高原とPRされている。ここに現在でも8000人のしか住んでいない。過疎地帯だから2000年昔がまだ残っていると申上げたい。
 宮廷雅楽はシルクロードの天山山脈のクチャから来たが、ヒルゼンにはクチャの踊りが大宮踊りとして、2000年伝えられた。
 ここは近世までブナの原生林だった。ブナ林の林相は近くの大山で見当がつく。
 縄文時代に天照大神が、この広大なヒルゼンの太古湖底だった、葦が繁った沼地に稲作を始めて導入した。
 日本中に稲作が普及したのは、思金の神が、57年に漢に使いを出して、稲作移民を、大量に全土に導入したからである。
 ヒルゼンでは稲作が出来なかったので倉吉の高千穂に降りた。ヒルゼンは3月雪に埋もれ、しかも火山灰で作物が全く育たなかったのである。
 地形は理想的だった。見てくれはよかったが地味までは考えなかったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  43ページ

|

2009.11.07

ヒルゼンの地形(1)

***********************
第5話 古代史と大江山  
  ヒルゼンの地形(1)
***********************
2000年以上昔になぜヒルゼンを選んだかの認識が先づ必要である。小生は何回か都として立地条件が最高の所を選定したと述べた。
 鎌倉幕府と同様に要害の条件を充している。実際に大山・蒜山高原を、つぶさにご覧いただくに限る。東京からはいささか遠い。しかし考え様によっては、東京からは、最も安楽に行ける所だ。
 夜行寝台で倉吉か米子で降りて、たっぷり一日遊んで、又寝台で帰ればいかがか。
 余談はさておいて九州の阿蘇ならご存じの人が多いからこれと比べて見たい。
 別府から来れば緩やかなスロープを登り切って阿蘇谷(地図では谷です) に急降下だ。
 ヒルゼンはこれと全く反対で、例えば海近くの倉吉から急坂を550米近く登ったら、緩やかなスロープを下ることになる。
 蒜山は1200米だが周囲はこれよりは、はるかに低い山が囲んでいる。阿蘇谷と同じ位の高度でしかも耕作出来る面積は2倍位あるだろう。高度は約500米である。

私からのひとこと
 このページの文章は、自信に満ちた文章だなと思いました。高天原はヒルゼン高原だったと云う仮説の証拠となるものを外の部分で発見されたのだと思います。
 「余談はさておいて」と書きながら、田村氏の日本の旅が始まります。実際に行かれたのではなく、地図の上で、ヒルゼン高原に、阿蘇に、鎌倉にと、旅をされたと思います。
 
案の定、ヒルゼンの地形は、都としての条件を満たしていると再発見され、その喜びが文章に現れているように思います。
 
では、実際に、ヒルゼンを車で走ってください。山また山で、クタクタになります。
 それは、走り回っても見えてきません。
 ヒルゼンに行きますと、一番高いところに登ってみますと、いろいろのことが直ぐに解ります。
 古事記の最初の部分を読んで、次はイザナギとイザナミが中蒜山の5合目に造ったオノコロ島に登ってください。 
 今は、紅葉は終わっているかもしれません。昨日は大山の雪景色が報道されていましたから・・・・。

|

2009.11.05

遣漢使(4)

**********************
第5話 古代史と大江山  
 遣漢使(4)
**********************
次に中国に使いを送ったのは、239年である。卑弥呼の使いと称して、難升米が行った。この時は魏の時代になっていた。
 これは別稿で述べたが崇神天皇を倒すためだった。246年狗奴国(久米国)に戦いをいどんだ。
 結局崇神天皇のヒコイマスの命に逆に滅ぼされて、古事記から難升米はクガノミミの御笠だったと足がついた。
 1007年の遣漢使の結果はゲリラが投馬国に大量に送りこまれて、倭国大乱に発展し、邪馬台国(西大寺ヤマトとの、高梁川を挟んでの紛争になった。
 これは孝霊天皇の御世に吉備国平定として報ぜられた。難升米は卑弥呼共立と出たらめの報告を、魏の皇室に行った。
 卑弥呼共立は190年頃となっている。難升米のの創作だからウヤムヤだが大差はないらしい。
 中国の史書によって、はなくも日本の古事記の年代考証の役にたったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  41ページ

|

2009.11.03

資料38  資料 宗形神社

鎮座地・現住所 鳥取県米子市宗像298番
http://www.jinja.in/single/86069.html

境内説明板によれば
由緒
 ご祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命 ほか十八神
*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神

例大祭 五月三日
例 祭 十一月三日
歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月廿三日

創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。
一、御神徳
延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。
一、神社と古墳
神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。

上の由緒は、何時書かれたものか分かりませんが、次のものは、昭和9年に造られた鳥取県神社誌に書かれた由緒です。

宗形神社   郷社 
 鎮座地 西伯郡成実村大字宗像字向塔  
http://www.jinja.in/single/86069.html

現住所 鳥取県米子市宗像298番
祭神 田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、武甕槌命、日本武命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、誉田別命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊、素盞鳴尊、大国主命、倉稲魂命、天児屋根命、天太玉命、猿田彦命、鈿女命、阿蘇彦命、保食神、月読命
由緒
 創立年代不詳ならざれども、文徳実録に斉衡三年八月乙亥加伯耆国従五位下宗形神従五位上とあり、又延喜神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして、古来上下の崇敬殊に篤く、弘治二年尼子晴久社殿を建立し社領三百石を寄進せりと云不、其の後吉川元春右の社領の外に百二十石を増進し、太刀二振り兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠当国を領するに及び社領悉く没収せらる、旧藩主池田慶徳幕提灯を寄進せられ、慶応三年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては会見郡内の高割を以てなせり、明治初年郷社に列せられ、同四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定世良る古昔鎮座の地は現社地より北三丁余の宮の谷といふ所にして本宮と呼ぶ、本殿ありしと伝ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清ありてごふ井戸といひ断水することなし、弘治二年四月三日成実村大字日原字中尾山鎮座無格社住吉神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命 )同村大字石井字要害鎮座無格社石井神社(祭神 誉田別命 )  同村大字奥谷字谷奥山鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊)  同村大字美吉奥屋敷鎮座無格社上飯生神社(祭神 素盞鳴尊)  同村大字同字屋敷前田鎮座下飯生神社(祭神 大国主命)  同村大字長田字笠頭鎮座無格社陽田神社(祭神 素盞鳴尊)の六社を合併す。
 古昔当社の祭神今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしと云ふ)海路御来着宗像の地に鎮座せられしと云ひ、御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云伝ふ。

例祭日  4月15日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭器庫、随神門
境内坪数 1862坪
氏子戸数 230戸

どちらに書いてあることが正しいのかは、私には、調べようがありませんが、気の付いたことを記します。
①境内説明板ですから、仕方がありませんが、「ほか十八神」と書いてあります。一神 数に 相違があります。

②どうして、「ほか十八神」として、まとめられたのでしょう。鳥取県神社誌の方を見ますと、少しはその理由が分かります。「ほか十八神」の神がどこから来られたかは分かりますから、これを糸口にして、調べるとその経緯が分かるかもしれません。
 何か複雑なことがあった証拠です。

③神社の方は、*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神 と書いておられますが、これは間違っています。古事記では、三人は、素盞嗚命の子供となっています。

④一番重大なことは、「創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている」
と境内の説明には書いてあります。
 この説明によれば、九州からここへ遷されたものであると書いてあります。

私は逆で、鳥取県米子市宗像から、九州の宗像に遷されたと思っています。そのことは、この資料を見る前に、随分前に書いています。
【胸形神社と宗形神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1419.html
 この記事は、九州のことを調べていましたら、宗像神社に突き当り、調べていたら、宗形神社となりました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1413.html に関連の記事を治めています。

これらをもとに、次の記事を書いています。似たようなものですが、よろしかったら、読んでください。
No 229 胸形神社と宗形神社 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-26
No 230 米子の宗形神社は古い神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-27

今回は、由緒と云うものは、当てにならないと云う所を見て頂く積りで書きました。現在は、米子の宗形神社は、九州の宗像神社を遷座したものだと思っておられますが、昭和9年のときは、そのようなことは 書いてありませんから、僅か、50年でこのように変るのです。
 どちらにせよ、現地に行かれることが大切です。九州と米子と両方です。全国に6000もあると云いますから、全部しらべますと、面白いことが発見出来るとおもいます。

|

2009.11.02

遣漢使(3)

**********************
第5話 古代史と大江山  
  遣漢使(3)
**********************
57年の次の遣漢使葉107年である。売国奴ニギハヤヒの命が捕リョを160人も、献上したのである。
 ナガスミヒコから、神武に寝返りすること事態からしてケシカラン。しかも天照大神の墓の埋葬品を盗んだとしか考えられない。
 この天つ瑞をもって神武の勝チ目がはっきりしてから寝返ったのである。
 ニギハヤヒの命は何としても神武を滅ぼしたい立場の人間だ。漢の応援をたのみに使いを出したと考えたい。捕リョ160人とはナガスネヒコの兵隊ではないか。
 何を頼んだかは別の所で述べたが、ゲリラの導入である。高地性集落の発生と、投馬国が遣漢使を送ったあとの現象だ。
 従って107年は神武東征から、ほどなくの期間と考えたい。
 天孫降臨から50年かかって東征完了ならば不合理のない年月である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  40ページ

参考に
高地性集落 (未完成です)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html

|

2009.11.01

遣漢使(2)

漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。一般にはまだ漢字は導入されてない。
 従ってこんなハンコの紙切れを見て感激する日本人は居らない。これは移民を集めるために使用して始めて威力は発生する。要するに中国向けに使用する筈だった。
 しかし不幸にして、これを運んでいた船は難破し、金印は志賀島に漂着した。
 日本国内の変化は、縄文から弥生にかけての古墳が何所に多く発生したかを見ればよい。
全て米が取れるデルタ地帯か盆地である。
 そしてその近くの村には福や神、宮、田等のつく地名が、かたまっている。
 この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
 鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
 目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  39ページ

私から一言----この文を読んでどのように思われましたか。
[漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。]当たり前のことですが、重要なことだと思います。こんな簡単なことを頭にいれておいて、漢倭奴国王の金印を見に行ってください。もちろん、本物は見ることはできませんが、偽物は見ることができます。
 偽物は、いくら見ても感動しません。 ということは、そのものの、値打ちを知っている人にしか、値打ちがありません。 それが解かりますと、ここに書いてある文章の意味が解かります。田村氏は、[この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
 鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
 目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。]の文章を書くまでに、どれほど、毎日、毎日、ルーペを手に地図を眺められたことでしょう。

今、本物のものが、陳列されています。奈良の正倉院展です。もし、感動しなかったときは、そのものは、いくら国宝と言っても国宝に値しないものです。 絹製品があるそうです。 前に陣取って、眺めてきてください。この絹を求めて、漢倭奴国王の金印がやってきたと考えます。

|

« October 2009 | Main | December 2009 »