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2009.12.31

古事記(3)

ニギハヤヒの命は、折角の大和を、神武勢に取られた。面白くないことは当然である。
本拠地丹波に帰って次の攻略方法を考えた。
 107年に生口を160人も、後漢の皇帝に献じたとある。この様な重大事件がなぜ、魏志倭人伝に書いてないかを、読者は疑問を持つべきだ。
 魏志倭人伝を書いた陳寿は、107年の朝貢を知って、朝見する者ありとだけ記した。しかし自国の謀略だから詳細は書けなかった。 
 生口とは捕りよである。奴れいとは全く別である。神武天皇にニギハヤヒは寝返りした。褒められた人間ではない。捕りよとは、ナガスネヒコの一族で、もともと自分の部下である。この人達を捕りよにした。
 この日本人捕りよを160人も漢の皇帝に献上した。何を頼んだかは、瀬戸内海に高地性集落が発生したことから判断される。
 カツラギ王朝の軍隊の根拠地、久米国を攻撃するために、ゲリラの派遣を頼んだのである。高地性集落のない所が侵入地域である。
 ここが倭人伝の投馬国である。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 22ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----ここに書かれてあることは、凄い発想だなと云う思いと、少し、待てよとの思いが交錯する所です。
①107年に生口を160人も、後漢の皇帝に献じたとある。 この部分は、わずかな文章ですが、日本の資料にはありません。
中国のような大きな国が、日本のような国のことは、どうでも良かったと思うのですが、日本人が朝見にやってきたという自慢話だけではないような気がします。
② 高地性集落は、本当に沢山発掘されています。厖大な時間とお金が費やされたのに、どうして、全国的規模で、発生したのか。それも二度にわたって造られたのか。歴史家ではっきりと説明した人はありません。

摂河泉地域の集落 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page301.html
はじめは、全国に一杯あると云うことは知りませんでしたから、先ずは大阪から、と調べましたら、34ヶ所ありました。これを全部いきますと、遺跡から眺めるだけで勝家っと思いましたが、体力が無くなり、低い山ですが登ることができなくなりました。 こで、方針を変えて、ついでに上るという方針に変えました。
 しかし、この方法は、駄目なことが分かりました。私が生きている間に、全部調べることが不可能であることが分かりました。
ところが、田村氏は、多い所を調べないで、無い所は、何だと。「高地性集落のない所が侵入地域である」
しかも、①の107年に生口を160人も、後漢の皇帝に献じた と、3つめは、倭人伝の投馬国と結びつけられました。

「カツラギ王朝の軍隊の根拠地、久米国を攻撃するために」の意味はお分かりですか。
歴史家は、カツラギ王朝と云う言葉お好きなようです。これを使いますと、歴史がすっきりするからです。あったとしても、本当に力は弱かったのだと思っています。カツラギ王朝を守るべき軍隊の姿が見えないからです。

ゆっくり、検証しながら、楽しんでください。

一年間、読んでいただきまして、ありがとうございました。
来年も続けたく思います。

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2009.12.30

古事記(2)

ニギハヤヒの命の先祖が全く系図にないことは、天ツ神でなかった証拠である。しかし天ツ神の身分証明の「天ツ瑞」をもって現はれた。
 天照大神の「天ツ瑞」は神武天皇に引き継がれ。従ってニギハヤヒは月読命の副葬品を発いた上で、「天ツ瑞」を入手して、天ツ神になりすまして、ナガスネヒコを部下にして大和を占拠したのである。
 神武天皇は天照大神の隠とん地を根拠地にして、大和に進駐していた、ニギハヤヒとナガスネヒコを征伐するために、東征したいと決定を下したのである。
 大部分の軍隊は津山に居った。この軍隊は吉井川を下って、児島湾に集結したのである。
 神武東征の時の軍隊は、「久米の子ら」となって何ヶ所かに登場する。ニギハヤヒの命はこの軍隊に敗けて、神武勢に寝返りした。
 140年後にニギハヤヒの子孫は、親のかたきとばかり、同じ久米国を攻めたのである。
歴史は同じパターンで二度繰された。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 21ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----「天ツ瑞」はお解りますか。この部分は、読みすごしていました。自分で調べますと、直ぐに、覚えてます。
大部分の軍隊は津山に居ったとは、本当かと云いたいでしょう。
しらべても、なかなか判りませんでした。判らなくても、せめて津山がどこにあるかだけでも、地図を見てください。

 100均で岡山県の地図を2部買ってください。理由は、直ぐに破れるのと、見つけた地名には、赤のボールペンと黄色と空色の蛍光ペンで記しを入れるためです。直ぐ破れる為に、補修用のセロテープも買い求めます。
 空色の蛍光ペンは、裏の白い地図の吉井川、全行程に塗ります。
津山には、赤のボールペンです。
児島湾は、範囲が広いですから、黄色の蛍光ペンです

歴史は、地図を頭に入れることです。

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2009.12.29

「古事記」(1)

崇神天皇の御代に、難升米の軍隊は物部であった。このことは国土地理院の大江山に物部町があることから証明される。
 物部の先祖はニギハヤだったことは、古事記に書かれている。
 古事記ではニギハヤヒは、「天ツ神の御子天降りいますと聞きしかば、追いて参り来つ」と、「天ツ瑞」をたてまつって仕へ奉りき、とだけ書かれている。
 古事記ではニギハヤヒは家系も分からない得体の知れない人間だ。しかし日本書紀では天降った有様はまさしく神話になっている。
 なぜかかる記述を日本書紀が行ったかを読者は考えて欲しいのである。
 国土地理院の大江山の地図は意外なことを教えてくれた。ニギハヤヒが居った物部町の隣りは大江町である。
 ここに皇大神社、内宮、豊受神社が示してある。ここには天照大神と月読命がまつられている。
 ニギハヤヒは中国から渡来して、丹波の物部町を占拠したのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 20ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.27

悪書「日本書紀」(4)

ニギハヤヒの命は先に大和を占領していた。ナガスネヒコは、ニギハヤヒが一人しか居らない、天ツ神と信じて、部下となったのである。しかし、あとで神武天皇も、天ツ神だと知って驚いた。
 神武天皇はニギハヤヒの命を征伐するために東征の途に上った。この時の軍隊が天ツ久米命の子孫である。
 ニギハヤヒの子孫が物部である。物部は丹波に居って、崇神天皇と戦って敗れた。これは魏志倭人伝で詳細が分った。伊都国の軍隊は物部で、狗奴国すなはち久米国の軍隊と戦ったのである。
 ニギハヤヒは吉備下道国に、久米国を攻めるゲリラを導入した。従って吉備二ヶ国の和睦は、ニギハヤヒの計画失敗である。
 物部の都合の悪い記事は日本書紀から抹殺され、物部の手柄話は古事記になくても、日本書紀に載せてある。
 吉備下道国は一時は久米国の敵だったから物部の残党が居った。これを念頭に置いて、古事記と日本書紀を読めば古代史は解ける。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 19ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----悪書「日本書紀」のタイトルで、4回続きました。私は悪書と云うよりは、これを作った藤原不比等は、頭のよかった人だなと感心しています。人間、このようにしたいと思ったら、何事でもどのようにでも出来るのだなと思いました。

古事記と日本書紀を比べますと、いろいろのことが分ってきます。
 私がなにを云おうが、誰も信じられないでしょうが、日本書紀に書いたことを正しいと思わせる為に、あらゆることをしたようにしたと考えています。
 式内社の祭神は、すべて、日本書紀に書いてある神の名に書き改めました。全国の神社全てを書き換えることはできませんでしたから、全ての神社を検証しますと、そのことが分ってきます。奈良の大神神社、茨木市の溝咋神社、天理市の石上神宮なども、何もないところに造ったと考えています。
 勿論、造ったときは、現在のように立派な建物があったわけではありません。

石上神宮は、これから考えて見ようと思っています。神社の資料は、厖大なものですので、、出来次第、追加しながら、「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/
に掲載しようと思っています。
 この神社は物部氏を祀っていますが、この集団のことは、歴史家はだれも解明して居られません。
 神武天皇が、長いことかかって、征伐した筈のニギハヤヒは、天孫族だったことになり、悪ものは、一人、長髄彦だったことになっています。
 これほど、おかしい話はありませんが、現在の石上神宮を訪れた人は、私のようなことを云う気にならないと思います。

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2009.12.25

悪書「日本書紀」(3)

日本書紀は一度、本の書き方を見られることである。本文のあとに、一書にいわく、一書にいわく、と書かれている。
 この書き方は、他の書物には、この様に書かれているが、日本書紀の編集者は、その意見には反対だと意志を強調したことだ。
 天孫降臨で天ツ久米命が、ニニギの命を護衛して高千穂に降りた。この天ツ久米命は、古事記では、久米の直の祖になっている。日本書紀は、一書にいわく「久米部の祖云々」とあって本文には、天ツ久米命の名前も見当たらない。天ツ久米命を頭から黙殺である。
 第七代孝霊天皇の御世の、吉備二ヶ国の和睦は、日本書紀では完全無視で、一書にいわくもない。
 第十代崇神天皇が丹波のクガミミの御笠を殺したことも、完全無視である。
 神武東征では、ニギハヤヒの命は天ツ瑞を持って現れたとだけ書かれた。
 しかし日本書紀では、ニギハヤヒの命が地上に天降った神話的表現から始まって、記載は詳細を極めている。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 18ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----〔この書き方は、他の書物には、この様に書かれているが、日本書紀の編集者は、その意見には反対だと意志を強調したことだ。〕
 この部分は、正しいかどうか分りませんが、少なくとも、一書にいわく、一書にいわく、に書かれていることは、歴史的事実として、利用することは、駄目だと思います。

しかし、自分の都合のよい時だけ、日本書紀にかいてあると引用して居られる方のなんと多いことか。
 一書にいわくの〔一書〕に古事記も入っていて良い筈ですが、どこにもありません。

このように考えますと、田村氏が云われるように、一書にいわくの部分は、正しくありません。本文のところが正しいですという解釈は、正解かもしれません。検討は必要です。

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2009.12.24

悪書「日本書紀」(2)

卑弥呼が自殺を、たまわった年は、魏志倭人伝から248年があきらかにされている。実際には景初二年十二月に、難升米が伊都国軍司令官として帰着した時に、卑弥呼を殺して、替玉にしていた筈である。
 取敢えず卑弥呼と云うことで話を進めたい。崇神天皇までが実在で認められるならば、崇神天皇が亡くなられた年は258年である。
 従って卑弥呼が死んだのも、台代が20人を魏の都に、遣わしたのも崇神天皇の御世である。
 古事記では崇神天皇の御世の、クガノミミの御笠を殺したと書かれている。
人名が古事記で明示される以上、丹波の国を征伐したのではなくて、丹波に居った、特定の個人クガノミミの御笠を殺したのである。
 魏の使者政等が引揚げた中に、軍司令官難升米の名前が見当たらないから、難升米の日本名はクガノミミの御笠だったことになる。
 日本書紀はなぜこれだけ重大な事件が古事記に載せてあるのを知りながら、黙殺したかを読者は考えて見て欲しい。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 17ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.23

悪書「日本書紀」(1)

日本書紀には古事記にないことが、多く書かれている。しかし伊都国かせ何所にあったにしても、248年頃の、一国が滅びる位の大事件が全く見あたらないのは、如何に記録があてにならないかの証拠である。
 結論を先に出してはおかしいが、日本書紀は中国の方向に偏向した書である。従って中国に不利なことを書く筈がない。
 古事記のあとになぜ日本書紀をあわてて、出さなければならなかったか。これに納得のゆく説明が残念ながら見当らない。
 進歩的な学者は、記紀を否認することに、これつとめて来た。応神天皇以前の記録は全く黙殺した来た。
 しかし稲荷山の鉄剣の銘が判読出来た以上 崇神天皇の実在は認める外なくなった。今や一つの本で崇神天皇以降は事実だが、それ以前は偽作だと、云わざるを得ない、不思議な現象が発生したことになる。
 すでに述べたが、物部、蘇我に都合の悪い記録は古事記にはあっても、日本書紀には載せて居らない。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 16ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.21

屈辱の書「魏志倭人伝」(3)

卑弥呼以て死す、とは死を賜ったのである。卑弥呼は天照大神と月読命の墓守りだった筈である。墓守りだから女性だった。結婚しないのがならわしである。
 表向きは、卑弥呼が衆を惑わしたために、始った戦争と云わんばかりである。そのために卑弥呼が責任を取って死ねば、戦争は終結すると考えた。
 しかし予想に反し戦争は激化したと書いてある。注意すべきは、戦争は卑弥呼が死んでも中断しなかった。
 卑弥呼が責任取って死んだとは、中国向けの記録である。従って信用に値する記録かどうかはあやしい。
 卑弥呼のために、大きい塚を構築したと書いてあるから信用できないのである。
 戦争が継続している最中にしかも先方が負け戦さの時に、大きな塚を一体何日で作ることが出来たか。
 この様に考えると作ったとあるのは「ウソ」だ。しかも別冊で述べたが、卑弥呼は替玉だったと考えられる。


私より一言----------卑弥呼のために、大きい塚を構築したと書いてあるから信用できないのである。戦争が継続している最中にしかも先方が負け戦さの時に、大きな塚を一体何日で作ることが出来たか。

この部分は、学者は、学問的でないと無視されるでしょう。確かに、これは学問的ではありませんが、その後、立証されれば、学問です。大切なことは、このような柔軟的な考え方が大切です。
 田村氏は、「この様に考えると作ったとあるのは「ウソ」だ。しかも別冊で述べたが」と書いて居られます。別冊を読んで見たくなりませんか。これは、田村氏の、次の本をかわすための作戦だと思われる方は大勢でしょう。
 しかし、其の後に、直ぐに、次なる仮説を書いておられます。
「卑弥呼は替玉だったと考えられる」
このように書いてあると云うことは、既に、その証拠を見付けられたことになります。
 しかし、必ず、見つかったとは限りません。

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2009.12.19

魏志倭人伝の資料

「魏志倭人伝の資料 」が、抜けていました。是がありませんと、前回の屈辱の書が理解しにくいです。
 これを読んでから、もう一度、戻って読んでください。 10、11ページです。

「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡にいたらしめ、天子にいたりて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わしてもって送りて京都にいたらしむ。
 その年の十二月、詔書して倭の女王に報じていわく〔親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以ていたらしむ。汝が在る所、はるかに遠きも、すなはち使を遣わして貢献す。こり汝の忠孝、我、親魏倭王となし、金印紫綬を仮えん。荘封して、帯方太守に付して仮綬せしむ。それ種人を綵撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利遠きを渉り、道路を勤労せり。今難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮え、引見労賜して還らしめん〕」

魏志倭人伝の資料
 邪馬台国を九州に想定した人は、魏志倭人伝の里程や方向を先づ間違っていると指摘している。魏志倭人伝を書いた陳寿にとんだ汚名をかぶせている。
 魏志倭人伝は中国の正史だから、間違いだらけと云えるだろうか。中国に取って、好ましくない事柄は、ゆがめて書いてある。しかし利害のない記録は正確であった。
 魏志倭人伝の謎は、魏志倭人伝に語らせることだ。謎解きは至って簡単である。
 難升米は魏の都に半年も居ったのである。この人は率善中郎将に任ぜられた。日本攻略のための魏国植民地軍司令官ではないか。
 半年も魏の国に、とどまって倭国の詳細を報告したのである。従って里程や方向は、古代に如何にして測量したのか、疑問を感じる位正確であった。
 しかも難升米と牛利の二人がかりで、道路を構築した。道路とは日本に派遣する軍隊を中国の港まで運ぶ軍用道路ではないか。この作業に半年を要したのである。道路測量は、この二人に取っては、お手のものだ。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 11、12ページ
発行日 昭和56年6月10日

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屈辱の書「魏志倭人伝」(2)

中国との国交はこのあと、425年まで途絶えた。180年近く国交が断絶する様な大事件だったことに気付くべきである。
 倭の国が難升米を軍司令官にして、崇神天皇の軍隊の根拠地狗奴国すなはち、美作の久米国を攻撃したのである。
 大和の軍隊があることを忘れていた。倭人伝には、邪馬台国の東に海る渡ること千余里に国あり、と書かれている。この国が崇神天皇が居った国だった。
 大和の軍隊が出動して来たので、軍司令官を今一人増やした。率善中郎掖邪狗がこの名前である。この将軍だけは逃げ帰った。しかし難升米は殺されていたが、こんなことを正史には恥しくて書ける筈がない。
 この時には千余人が殺されたとある。これは日本側の損害である。伊都国側は物部連が主力で戦って全滅したと考えられる。
 この時死んだ中に敵将難升米が、含まれていたから、逃げ帰ったリストに書かないことで難升米の戦死を倭人伝に知らした。記録はうしろから、うらを読むべきた。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 14ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.17

屈辱の書「魏志倭人伝」(1)

「卑弥呼、以って死し、大いに塚を作る。径、百余歩、殉葬するもの、奴婢百余人。更に男王を立つるも、国中、服せず、こもごも相い誅し、時にあたりて千余人を殺す。 また卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王となし国中、ついに定る。 政等、檄をもって壱与に告諭す。壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。 因って台にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大区勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢ぐ。」


屈辱の書「魏志倭人伝」(1)
 書物は、うしろから読むものだ、教えられたことがある。「魏志倭人伝」に関する限り、これは明言である。
 先づ倭人伝の末尾を見て欲しい。僅か13才の台代が、親切に魏の使者政等と、外に20人の魏の都まで遣らせたとは何事か。
 この報告は政等が行ったのである。敗けたとは知られたくない「ウソ」の記録で、これ以後、約180年間国交がなかったことは、逃げ帰ったことを教えてくれた。
 卑弥呼、以って死すとは、敗戦の責任者は、卑弥呼だから、卑弥呼に死を命じたのだ。
 卑弥呼は能く衆を惑わすと、卑弥呼に責任をおわせる、理由まで作文したのである。
 衆を惑わしたのは、難升米と、魏志倭人伝を書いた陳寿自身ではないか。
 倭人伝は、1200年間も、魏国と日本との交戦を、さとられない様に、カムフラージュしてあった。難升米位悪い敵将はなかった。
 国名や人名は難升米が正確に、書き残し来た。これを陳寿は卑劣な漢字に改めたまでである。今更正確に書く必要はなかった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 12、13ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.16

紀元250年の日本

第十代崇神天皇は258年に亡くなられた。卑弥呼が死んだのが、248年である。このあと千余人が死ぬ様な戦争があった。
 崇神天皇が丹波のクガミミの御笠を殺したと古事記に書かれた。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米とは、クガミミの御笠だったのである。
 この時魏の使者政等と20人が逃げ帰ったが、難升米の名は消えていた。日本と中国の文献が一致していたのである。
 日本から、魏の占領地域がなくなった。同時に国交は425年まで177年も断絶した。
 真の独立国になったから、崇神天皇は、「初国知らす所の御真木の天皇」と呼ばれることになった。
 神武天皇は大和を先に占領していた、ニギハヤヒの命を征伐した。初めて全国統一をなしとげたのである。同時に始めて天皇の称号を採用した。従って初代天皇である。
 初代天皇が、二人もあっては、おかしいと神武天皇を無視したのは間違いだった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 9ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----「このあと千余人が死ぬ様な戦争があった」崇神天皇の側の兵隊が死んだのか、魏の国側の兵士が死んだのか、どちらだと思われますか。
 古事記には、崇神天皇が「丹波のクガミミの御笠を殺した」とあります。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米は、魏の国の最高責任者です。田村氏は、だから、クガミミの御笠と難升米は同じ人物だと述べておられます。
 「この時魏の使者政等と20人が逃げ帰った」と記録されていますが、トップの率善中郎将難升米の名前がないというとは、死んだのでしょう。そのような不名誉なことは記録しなかったのでしょう。

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2009.12.13

紀元240年の日本

240年は、中国の魏の時代である。日本はカツラギ王朝時代で、崇神天皇の御世だった。 この年には朝鮮の帯方郡は、魏の占領下にあった。ここには太守すなはち、朝鮮総督が居った。
 日本には京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった。240年は正始元年である。
 「正始元年、太守弓遵、建中校尉遵綬を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国にいたらしめ、倭王に拝仮し、あわせて詔をもたらし、云々」
と倭人伝に書かれている。太守すなはち、朝鮮総督までが日本にやって来た。建中校尉とは、魏の近衛の将校である。何の目的で、これだけの、大物がやって来たか。
 この人達は奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 8ページ
発行日 昭和56年6月10日


私から一言----紀元240年の日本が簡単に書いてあります。全部、お分かりですか。邪馬台国は、九州にあったと思っておられる方には、なんのことか判らないと思います。
特に、「京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった」の部分は、意味がわからないと思います。

「奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった」

 この様なことは、どこにも書いてありません。しかし、その後、卑弥呼が殺されるまでの歴史の流れを知りますと、魏の近衛の将校が物見遊山にやって来たのではないと考えませんと、歴史を理解できないと思います。

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2009.12.12

古事記神話の誕生(4)

大国主命とタケミカヅチの神との、国譲りの交渉は、大和村(ヤマト、現在淀江町に合併)の小波浜で行われた。
 大和とは「天子の講和」のことである。この時に「葦原の中ツ国」を譲れと交渉した。
出雲を譲れでも、日本を譲れでもない。葦の繁った中州の地域を譲れと申出たのである。
 大国主命は、大国村(現在西伯町に合併) のボスに過ぎなかったのである。天照大神が稲作を日本に計画的に大仕掛に導入したので米の出来ない、出雲に魅力はなかった。
 「葦原の中ツ国」とは、デルタ地帯で、先住民が居らない無人地帯のことである。
 「天の岩戸」の舞台は蒜山高原で、この事件の前後関係は別冊に述べておいた。
 「黄泉の国」は溝口町の「御墓原」のことだったし、「常世の国」とは外国のことで、中国や新羅を指していた。
 古事記は、日本の正史として書かれたのだ。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 7ページ
発行日 昭和56年6月10日

お詫び---古事記神話の誕生(2)のはじめに、古事記の原文をいれるのをわすれていました。もう一度、もどってご覧ください。

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2009.12.11

古事記神話の誕生(3)

天孫すなはち天照大神の孫のニニギの命が高天原から高千穂に降りた話も神話である。
筑紫の日向の高千穂がさすがの本居宣長にも理解出来なかった。
 日向の国の高千穂に降りたので、高天原はこれよりも高い所と考えられ、空想の天国を考える外なかった。
 高天原は大山・蒜山国立公園の蒜山高原(正確には中蒜山の海抜679米の台地)にあった。
 高千穂は倉吉平野の大栄町の現在も、高千穂の地名があった。ここからの大山の山容は文字通り高千穂である。古事記に書かれた通り、韓国に面して居り、海岸は北条砂丘であった。古事記に「カササの浜」と書かれたのは砂丘が笠の砂で、笠砂と呼ばれたのだ。
 筑紫の日向とは「ツクシのヒムカ」で、蒜山を降りたにすぎない。
 原生林に覆われた時代には、人の住める所はの生えてない、「木尽し」の場所が欲しい。
「木尽し」が「ツクシ」と呼ばれた。

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2009.12.10

古事記神話の誕生(2)

2


一番知られている神話は、大国主命と白兎は雪国にしか居らないから、おかしいと感じるべきだ。
 皮を剥がれたら、兎は死ぬ筈ではないか。
 上記は原文である。「莵」の人が伏して居った所を、大国主命の兄弟神が通った。大国主命は、ボスだから、他の連中は血のつながりがなくても、兄弟と呼ばれることは、今も変りない。
 海に潮干狩に来た、和邇の人と人数を競ったまでのことだ。
 当時朝鮮には「玄莵国」があったので、「莵」の人とは挑戦から渡来した人のことだ。「和邇」とは文書担当の役人で従って、中国人である。海に来ていた、朝鮮人と中国人が人数の競争をしたまでではないか。
 八岐の大蛇も別冊で述べたが、大蛇の胴に見えたのは、自然痛風を利用した、超近代的な、山の斜面を利用した煙道だった。
 大蛇ではなくて大呂地で、ここには現在も日立金属のハガネの製鋼所が動いている。八岐とは八方向の道路のある横田町だった。

H21.12.09

私より一言----大呂地の大呂の部分の地名が、よく似た北緯に並んでいます。
「地名 大呂」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page268.html
先日、兵庫県朝来市の竹田城に行ってきました。雲海が橋渡しをする様に、西の対岸に「大路山」がありました。
竹田城は、見事な城壁が残っています。13年かかって完成したと云われています。それだけのことをして守る必要があったことになります。南の方に、生野銀山がありますから、それに対する守りかと考えましたが、そうでもなさそうです。
 大路山でなにか金属が出たのではないかと推理していますが、その証拠はなにもありません。大路は外にもありますから、検討する値打ちはあります。

竹田城 

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2009.12.08

古事記神話の誕生(1)

古事記には神話がかかれていると、万人が信じて疑いをはさむ者がおらない。むしろ、高天原か゜地上にあったら、袋たたきにされたり、戦前は不敬罪で刑務所に入れられた。
 先づ古事記は神話の先入主はすて、原文を読むことだ。神話の先入主で、書かれた解説本は、徹底的に、間違いを探し出す積りでながめれば、謎は氷解してくれる。
 天照大神は女の神だと信じられている。しかし古事記の原文を読めば、男の神である。全くあべこべになっていた。

私から一言----日本書紀には、はっきりと女性だとかいてあります。天の岩屋にアマテラスが籠られたときのことを書いてある箇所をご覧ください。アマテラスが、機織りをしているところに、馬を放り込んだ話が書いてあります。
日本書紀の大切な本論では、アマテラスが、機織りの部品で身体を損なったと書いてあります。ところが、古事記では、アマテラスが怪我をしたのではなく、機織りの女が、機織りの部品で陰部を突いて死んだことになっています。古事記には、このように品のない話が書かれています。 この部分は、藤原氏の誰かが、書きなおしたと考えています。 現在、『新しい日本の歴史』で、書いている最中です。http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
 古事記は、あちこちで、手がくわえられたという話を。

日本書紀の第一書では、幼日女尊が死んだことになっています。第三書には、スサノオは、妬んで姉(アマテラス)の田に害を与えたと書いています。陰部をついて死んだという品のないことは、書いていません。犬や猫で実験すれば、陰部を棒でついても死にません。ナイフで突けば、出血多量で死にます。
 現在、古事記は、信用できないことになっていて、日本書紀が正しいとされていますから、アマテラスは、当然、[姉]ですから、女性ということになっています。この部分には、中臣の活躍が書いてあります。藤原氏は、この時代から、重要な職種をしていたという宣伝がしてあります。

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2009.12.05

第6話 正史だった古事記 はじめに

昭和子十五年八月から、古事記と魏志倭人伝の謎を、地名を唯一の手掛かりにして解く努力をしてきました。
 毎月一冊位のテンポで、思いついた点を小冊子にして来ました。もちろん、この間次次と訂正を重ねやっと、私なりの古代史の、読み方をまとめたのが、「正史だった古事記」です。
 発想は従来とは、全く反対です。しかし古事記に書かれた地名が、伯耆、美作に現存していたことが、心の支えでした。
 諸先輩のご批判をお寄せ下さることを心待ちにして居ります。

田村誠一著  昭和56年6月10日発行 2ページ


私から一言----「古事記に書かれた地名が、伯耆、美作に現存していたことが、心の支えでした」の文章から、毎日、コツコツと地名を眺めておられた様子が目に浮かびます。
 
諸先輩のご批判をお寄せ下さることを心待ちにして居りますと書かれていますが、私が、田村氏のご本を手にして、しばらくして故人となられました。
 一度だけ、本を送って頂くために、電話をしました。その時に、次の連休に
伯耆・因幡の国 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html
に行ってきますと報告したのを懐かしく思い出します。

この本は、63頁まであります。 右手だけで、入力していますので、少しずつの掲載になります。時々、アクセスしてください。

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2009.12.02

古事記は正しかった

古代史や魏志倭人伝の謎が、沢山書かれている。更に古代の吉備王国にも謎が多い。これらの謎は、古事記を、高天原が九州ではなくヒルゼンにあったとすれば解けるのである。
 今一つ古代史に重要な役割りをはたしたのは丹波である。
 天照大神はニニギの命に後事を託して、ここに余生を送られた。 大江山の鬼(ニギハヤヒの命がこの墓をあばいて、天ツ神になりすました。
 今一人、中国の将軍難升米(古事記ではクガノミミの御笠)がこれも鬼道を創作した。
 崇神天皇が難升米を殺して、日本の真の独立ができたのである。
 先入主を捨てて、日本の創世紀を読んで見て欲しい。崇神天皇の御世までは、古事記の記述は正しかった。おかしい点があれば教示願いたいのである。
 くれぐれも申上げるが、日本書紀は古事記以後の本である。参考にとどめるべきだ。記紀と一緒くたにしたから、日本の古代史は、暗黒になってしまったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行 63ページ

私から一言----【第5話 古代史と大江山】は本日で最終回です。
私が書いたものではありませんが、ここに書かれたあることは、ご自分のものとして使って頂こうと思って、掲載してきました。できましたら、「田村誠一著  昭和56年4月3日発行 63ページ」と付け加えて頂ければ嬉しいです。
 本当は、スキャンして、そのまま掲載しても良かったのですが、それでは、引用しようとしますと、自分で入力しなければなりません。それでは、自分が生きている間に、日本の歴史は解明できません。但し、これをそのまま、本にすることは控えてください。

11月22日、一泊で生野銀山、竹田城、和田山郷土歴史館、少し離れた丹波市の「水分れ」に行ってきました。道中、丹波の古代はどのような状態であったかを考えながら走ってきました。最後のは、丹波市の「水分れ」2万年前にタイムスリップさせてくれます。この小さな盆地で何があったのか書いてみようと思っています。(現在は和田山郷土歴史館です)
日本の道(350) 文化(93) 雲海に浮かぶ竹田城
 http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1337533/ 文化(93)から順に読んでください。

「古事記は正しかった」と考えると、何処の古代史でも、自分で考えることが出来ます。

そのためには、古代史に登場するアマテラス、スサノオ、ツキヨミ、大国主神、大物主は避けて通れません。

歴史からものを見る(31)  天皇家の軍隊(28) 大国主神
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1320283/ から天皇の軍隊を数字の大きい順に読んでください。
もう1つは、古事記が正しいということを追求しています。
No608 神武東征(57) 神武天皇
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-07-26 本当は、神武東征から全部ですが、この辺りから読んで頂ければ、すこしは、日本書紀が藤原氏にとって、都合のよいように書いてあるのが分って頂けるのではないかと思います。

 どれもこれも、書きっぱなしであまり、校正をしていますので、間違いは一杯です。特に、漢字の変換ミスがひどいです。正しいものに直しながら読んで頂ければと思います。

写真も文章も、勝手に使って頂いて結構です。 平成21年12月2日

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2009.12.01

三貴子(2)

韓神はスサノオの命の子、大年神の子だったと書かれている。スサノオの命は高麗からだった、今一つの根拠だ。
 残る一人の月読命は名前が大和言葉である。外の神々とは全く異った命名である。これは漢字を全く知らない所から来た。
 NHKのシルクロード音楽の旅で、5000キロ以上離れた天山山脈のクチャから、宮廷音楽が伝わったと教えてくれた。
 雅楽の楽器が全てクチャで見つかったのである。正倉院の五弦の楽器が壁画に残っていた。そこで踊っていたウィグル人の顔は日本人そっくりだった。
 しかも踊がヒルゼンに無形文化財で伝はる大宮踊りと同じだったのである。
 月読命はクチャの人だったと考えたら如何だろうか。シルクロードを5000キロ以上たびをして、沢山の楽器と一緒に、ヒルゼンにやって来たことだろう。
 日本民族はスタートから、三民族の代表をイザナギの命は公平に選ばれたと考えたい。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行 62ページ

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