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2010.01.31

「一大国に至る。方は三百里ばかり、」

魏志倭人伝では壱岐のことを、一大国と書いている。これは誤記だと騒がれたことがなかったか。故意におおきな国と書き改めたのである。
 国名や人名に野卑な文字を、これも故意にあてたのだが、方三百里の国が、倭国では、一番大きな国だぞと、中国民に思い込ませるための作為的書き方である。
 壱岐は20キロ強の円形の島だから、朝鮮の一里が役80米の単位が適用されている。
 魏志倭人伝は三国志の一部で、この外に高句麗の国についても書かれている。これらの国の地理には魏の国の一里の単位440米が適用されている。
 壱岐は韓国の属島並みに、扱われて、一里は80米だが、ここから先は魏の単位が使用されたと考えるべきだった。
 魏志倭人伝では日本人の卑弥呼が能く衆を惑わすとかいている。これは日本人に責任転嫁ではないか。魏志倭人伝の作者、陳寿が、わざわざ衆を惑わす様な書き方をしたのだ。
千年以上も日本人を惑わし続けたのだ。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 44ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.29

「今使訳通じる所、三十国」

郡使が往来していた国は、倭人伝で、伊都国だった。「訳通ずる」とは内情の分かった国で、対馬、壱岐を除いた国は、実は全て、240年には崇神天皇が治めていた。
 「郡より倭に至るには云々」
 「郡より女王国に至るまで、万二千余里」
 当時は郡とは帯方郡で、魏国の朝鮮総督が、倭国も管轄地域だった。但し伊都国だけが占領されていた。
従って万二千余里は、朝鮮の里の単位で960キロにあたる。
 「会稽・東冶の東に在るべし」
 中国と日本の地図を眺めることだ。九州で一番高い、三角形の海抜1935米もある、宮浦岳がある屋久島に該当する。ここにも宮のつく地名があった。
 別冊で述べたが、三角形の高山は灯台の役目だった。大山、開聞岳、宮浦岳は目標にして、何十万人かの計画移民を導入したのだ。
 中国から朝鮮経由位長距離で、しかも難コースは地図を見れば明らかなのに、万人が朝鮮経由を信じたことこそ謎ではないか。古代中国人は安全かつ容易なルートを知っていた。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 43ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から、一言----このページは、日本の歴史家が間違っていたことを、こんな一ページの文章で、どこが間違っていたかを指摘されたのです。

「対馬、壱岐を除いた国は、実は全て、240年には崇神天皇が治めていた」と云う事実は、韓国の人が、気付き、最近、ここは、朝鮮人が支配していたようなことを云っています。勿論、竹島は、朝鮮のものですと発言しています。日本海も朝鮮のものなのに、日本海と名前を付けたのはけしからんと云って、現在は、韓国の子供たちに、自分たちがつけた名前を教えています。
 竹島は韓国のものです。済みませんでしたと、先日、小沢民主党幹事長は、韓国の大学で、講演して謝罪してきました。
こんな島は、朝鮮人にとって、なにも役に立たなかった島の筈です。中国人も朝鮮人も生の魚は、食べなかったのです。
朝鮮人の上を行ったのが、現在の中国です。彼らは、この時代には、朝鮮も対馬、壱岐も支配していたのです。
 だから、先日、韓国も北朝鮮も中国の領土だと宣言しました。本気で考えている筈です。
少し、脱線しました。
田村氏は、歴史を解くには、地図と地名であることを述べておられます。
大山、開聞岳を見られたことはおありですか、私は見ましたが、どんなに遠くても、見えます。
「三角形の高山は灯台の役目だった」は、此処だけではありません。全国に一杯在ります。自分が見付けた二等辺三角形の山に地図上で印をつけてください。その山を結びますと、古代の人が、通った道が再現出来ます。その道にそって、高地性集落が在る筈です。
私のつまらない「私から、一言」の方が、長くなりました。

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2010.01.27

魏志倭人伝に語らせよ

神武東征から崇神天皇までの期間の古事記には何も書かれなかったに等しい。この時代にはカツラギ王朝とこの王朝を倒す目的の、丹波の伊都国との対立時代であった。
 伊都国は中国の支援をうけたニギハヤヒの命、この子孫の物部と倭人伝の難升米(日本名クガノミミの御笠)が居ったのである。
 従って魏志倭人伝は敵国の敗者の記録であることを念頭におきながら、240年から250年代の日本を考えて見ることにしたい。
 先づ倭国内の里程や方角は難升米の報告に基いたもので正確であった。同じ三国志内で韓国だけが、1里80米になっている。従って倭国の里程の単位は、壱岐までが、韓国の単位だった。
 これ以降の里程の単位は、魏の単位で約440米だったのである。
 倭国内の地理は末盧国が基点だった。地理として書かれるからには、継続的な里程の考え方位不合理なことはない。
 卑弥呼は衆を惑わすと書かれたが、惑わす筈はなかった。陳寿の書き方に惑わされた。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 42ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から一言-----ここに書かれてあることは、お判りになられましたか。

〔同じ三国志内で韓国だけが、1里80米になっている。従って倭国の里程の単位は、壱岐までが、韓国の単位だった。
 これ以降の里程の単位は、魏の単位で約440米だったのである。〕

この部分を正しいと云うことにして、その後の歴史を考えますと、全部、田村氏の云われる通りとなり、日本史の謎は無くなります。
 例えば、〔この時代にはカツラギ王朝とこの王朝を倒す目的の、丹波の伊都国との対立時代であった〕と云えるように思います。少なくとも、伊都国は吸収などに会ったことにしますと、日本史は、九州で終わってしまいます。伊都国は、丹波にあったことになります。

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2010.01.24

古事記(22)

日本書紀には年代の記録方法がたかったのに年代がかかれているから「インチキ」ではないか。年代を決める手段はなかったのだ。
 日本書紀を編集した人達は、日本書紀の事象毎に年代を入れることによって、一般の人が日本書紀を権威あるものと、考えることを企図したのではないか。
 本居宣長も一般の学者も、マンマとこの謀略に、ひっかかったと考えたい。
 古事記には、いい加減な年代がないことがむしろ真実性を感じさせてくれる。古事記に初めて年代が記されたのは、崇神天皇の亡くなった年で、「戌寅」の年で、258年に相当する。この年を基準に中国と交渉のあった年代を推定して見たい。

 簡単に年代を列記すれば、
 57年 国譲りと天孫降臨直後
 107年 神武東征直後
 190年 第七代孝霊天皇 吉備 二ヶ国の和睦
 248年 第十代崇神天皇 クガノミミの御笠を殺す。卑弥呼死す。
 

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 41ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私からの一言---次の二つは、少し、違うように思うのですが・・・。
57年 国譲りと天孫降臨直後
 107年 神武東征直後

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2010.01.22

古事記(21)

古事記には神話が書かれていると、1200年間信ぜられて来た。国土の誕生の部分を除いては、神話は書かれて居らなかった。
 このことは別稿で、一つ一つの神話が実話だったことを述べて来たのである。
 古事記に現れた神話とされた部分の地名は全て国土地理院の地図に現存していたのである。しかも九州ではなくて、伯耆、美作に存在していた。
 年代に関しては記録方法がなかった時代である。事象は語り部によって、語りつぐことができる。しかし年代や年令の記録が間違いなく出来る手段がないからには、はっきりさせることは出来ない筈である。
 例えば年令は毎年何等かの記録をしておかないと分る筈がない。我々は、何年生まれかを知って算定する。しかし古代には算定方法はなかったから信用しないことである。
 中国には三国志等の記録が残されている。これは毎年の記録を残す手段があった。従って中国と日本との交渉年代を手がかりに、日本の年代を探す外ない。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 40ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.21

古事記(20)

天孫降臨とはヒルゼン高原の高天原から、倉吉平野の高千穂に降ったことである。こり時にニニギの命を護衛したのが、天ツ久米命とアメノオシヒの命であった。
 天ツ久米命は、久米の直の先祖である。又アメノオシヒの命は大伴の連の先祖である。
何れも軍隊である。久米とは、神武天皇東征で古事記に活躍のことが書かれた、久米の子の居った所である。
 日本書紀の編集者が、久米のつわものを全く知らなかったと云えるだろうか。日本書紀が事細かに記録を残しながら、ニニギの命を護衛した、肝心の天津久米命と、アメノオシヒの命のことは、本文に全く書いてない。
 日本書紀を編集した時には、魏志倭人伝は参考にした。しかも神功皇后を卑弥呼と同一視する様な、無謀なことを行った。
 狗奴国があったことは、倭人伝からも知って居ったのである。
 かかる編集態度の日本書紀と古事記を一緒にして、記紀と称する位矛盾したことがあってよいだろうか。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 39ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.20

古事記(19)

古事記を研究した学者は、神武天皇から、崇神天皇までの記述が全くないに等しいからこの期間は、故意につけたしたのだと述べている。
 稲作をやればやる程裕福になれた。水騒動をおこさないまでも、稲作をやる土地は至る所にあった。
 食糧と人口がバランスするまでは、平和な時代で急速に裕福になれた時代である。日本書紀全土のデルタ地帯で弥生文化が始った。
 華南からは、次から次と入植者がやって来たのである。古事記では吉備の上道国と下道国の紛争が取上げられただけである。
 ニギハヤヒの命がや物部とカツラギ王朝との紛争が続いていた時代である。
 天皇の立場から書かれた、古事記と、天皇打倒の立場の物部優先の日本書紀とは、共に魏志倭人伝に述べられた「倭国大乱」を取上げることが出来ただろうか。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 38ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.19

古事記(18)

弥生文化とは稲作の文化である。焼畑農業では生産性が低かったので、人口の増加は貧窮化である。
 この縄文時代に稲作が、天照大神によって導入された。先住民の焼畑の人々が、先祖伝来の土地を離れて、稲作の出来る所に移動たのではない。新しい移民によって、弥生文化が築かれたのであった。
 移民の多い程、余剰の食糧が生じて、物々交換の原資となった。これが農耕用鉄器の普及に役立つた。鋤は鍛造して軽く作られたので、スサノオの命が占領した、大呂の製鋼所が貢献した。
 これらのことについては、別冊で述べておいた。弥生文化が、急速に発展したのは、天照大神が「葦原の中ツ国」を治めよと、素晴らしいアイデアを出したお陰である。
 集団で計画移民を受け入れる程、益々裕福になれた時代である。金印をもらうだけの理由もあったし、金印がなくても、移民は続々とやって来たのである。むしろ我先に、ライスラッシュが日本で発生したと考えたい。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 37ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.18

古事記(17)

「漢倭奴国王」の金印は不幸にして、根の国には届かなかった。しかし、中国の揚子江以南の稲作民族は集団で、日本海沿岸の各所に導入された。
 如何に計画的におこなわれたかは、別冊でも述べた。例えば水の補給のための寄港地には福浦又は福江の地名が採用された。この地名は、天草から青森の下北半島まで、ほぼ等間隔で十ヶ所近く、国土地理院の地図上に現存している。
 集団で入植した所には、同じ地域に固まって、福、宮、神等の特定の漢字がついた地名が発生している。
 現在では極めて大量の渡来者があったことは血液型等でも立証されている。稲作技術が全国同時に普及したことは、計画移民があった証拠ではないか。
 魏志倭人伝に出て来る邪馬台国だけでも七万、奴国に二万戸の人口の大半はこの華南からの集団移民だった。
 この二ヶ国だけでも、240年には数十万人に達していたのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 36ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---このページは、表彰者の話ですが、田村氏は、この成果を発表する機会はなかったと思います。どこの資料館でお話ししても、どなたも耳を貸して頂けなかったと思います。
そこで、『第六話 正史だった古事記 』の様な冊子を毎月、出版される事になりました。僅か、60ページほどのものですが、いくらかかったのでしょう。所が、この文章を読まれて、なるほどと思われる方は、少ないと思います。
 何故かと云いますと、実際に、地図を見て確かめられる方はおられないと思います。
どこの図書館に行きましても、全国の50000分の1が、全て揃っています。
確かめてください。
田村氏は、次の所でも書いておられます。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/page16_d4f7.html

私は、地名・福良 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/post_1006.html
に書いています。

 できましたら、この福浦の掲載してある地図・国土地理院を一枚、購入してください。紀伊国屋などにいきますと、ケースに入ってあります。一枚、200円であります。購入しますと、福浦は、港にありますから、川を遡って、どのような地名があるか判ります。「福」とか〔田〕などの、稲作に関係する地名を発見することが出来ます。本当に、稲がつくられているかどうか、一度訪れます。
 毎週、出かけるのが楽しみになります。
 こんなことを3年程しますと、上の文章の意味が分かります。そうなりますと、歴史家と云われるプロの話など、どうでもいいことになります。
 〔この二ヶ国だけでも、240年には数十万人に達していたのである。〕が、日本の古墳時代の始まりになります。

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2010.01.16

古事記(16)

大国主命は「手間の山本(ヤマト)」で迫害を受けた。手間村の、手間山の西の麓に「倭」の地名が現存する。ヤマトと呼ばれる。
 ここが、国譲り後の都であり、中国に対しては、日本国の名となった。
 倭は大国村の中心でもあった。古事記では神武天皇の后候補が、歩いて居った所も、「倭」だった。
 大和平定前に「吾をば青垣の東の山の上に斎きまつれ」と書かれた「倭」は、大国村の倭であり、東の山は、大山だった。
 古事記を読むと、神々が海のかなたに行ったり、海のかなたから特別の船でやってくる場面が多い。 
 常世の国に渡ったと書かれたのは、中国や新羅の国を意味している。
 上記の「吾をば云々」の人は大年の神で、大国主命の相談相手だったが、海のかなたからやってきたのである。 
 漢倭奴国王の金印は、九州の志賀島で発見された。古代に都があった形跡の全くない所から出土したので漂着と考えるべきだった。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 35ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---〔大和平定前に「吾をば青垣の東の山の上に斎きまつれ」と書かれた「倭」は、大国村の倭であり、東の山は、大山だった〕
 騙されたと思って、一度、大国村を訪れてください。
米子市街の東を流れる日野川を遡っていくと溝口町がある。その隣町が西伯町です。県道180号線沿いに、〔倭〕がある。ここが昔の大国村です。
 いっても、他の町となんら変わりがありません。行く前に、この辺りの標高を調べてください。4m以下のところまで、海だったと思います。
 〔天津〕という地名があります。此処は港でしたが、ただの港では、天子に会いに来た人をお迎えした所ではないかと思っています。京都府の由良川にもあります。
私が行った時のことを書いています。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html

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2010.01.15

古事記(15)

天照大神の第三世「ニニギの命」はうまれたばかりである。この摂政の思金神に、「豊葦原の水穂の国を治めよ」と詔りした。
 この詔りに従って、思金神は、漢の皇帝に使者を出した。全国のデルタ地帯は無人のままであった。この葦の繁った所に稲作をする移民を送り出す様依頼したのである。
 こんな願ったり、かなったりの話があるだろうか。更に天照大神は、中国の古代の、呉の太伯の子孫だと告げた。出たら目を漢の皇帝に伝える筈がない。「ウソ」なら、たちどころに、バレル舞台である。
 移民を中国に募集するには、漢の皇帝の、何等かの、かきつけが有効である。このために「漢倭奴国王」の金印をもらった。
 もともとこんな金印を押した書類は、漢字も分らない、日本の先住民には、何の役にも立たない。稲作をやる中国揚子江以南の移民を集めるのに使用して効力が発生する。
 この金印の「漢倭奴国王」とは、ニニギの命で、奴国とは根の国だった。この金印を積んだ船は難破して、金印は志賀島に漂着した。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 34ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から一言---「奴国とは根の国だった」であったとしますと、多くのことで、話の辻褄が合います。奴の国の王となれと云ったのは、スサノオです。大国主神がスサノオの娘の須世理毘売と駆け落ちをして、とうとう逃げおうせた時に、「宇迦の山の山本に底津石根に宮柱ふと知り、高天ま原に氷ぎ他かしりて居れ。この奴」と云いました。その奴国の王である大国主神を追出したのが、ニニギの命です。
 田村氏は、古事記(11)において、57年に倭国から朝貢があったことが後漢書に書かれている。57年は、古事記の国譲り直後と考えられると書いておられます。
 国譲りの後、天津日高日子穂穂手見命---鵜葺草葺不合命----神武天皇がおられます。三人ですから、一人20年としますと、ニニギの命を含めて4人ですから、同居していたとみても良いですが、57年ですと、ニニギの命は、100歳を超えます。神武天皇は、この頃、神武天皇は亡くなったと思います。
 田村氏は、其の後、訂正されたと思います。
『燦然と輝いていた古代・続』平成元年8月発行  20ページに
57年 出雲国の大夫、漢と共謀銅剣358本を地中に隠す
    出雲国の大夫「漢委奴国王印」を受領し帰国中難破す
と書いておられます。

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2010.01.14

古事記(14)

高天原から高千穂に降りたことを、天孫降臨と呼んで、神話のハイライトになっている。
しかし古事記の原文では神話的な要素は全く含まれていない。
 天の浮橋を渡ったと書かれているが、これは蒜山独特の雲海の表現だった。この浮橋の「ランカン」に相当する山は、擬宝珠山となって地名まで残っている。
 蒜山に最後の別れを惜しんだ峠は見返り峠である。これらの地名は2000年間残って来ている。この詳細は別冊「神々のふるさとヒルゼン」に述べておいた。
天孫とは天照大神の第三世で「ニニギの命」である。天照大神は、天孫降臨の時に、第三世にバトンタッチして丹波の大江山に移られ余生をおくられた。
日系三世は、ハワイでもブラジルでも、その国の知事になっている。中国から来た、天照大神の第三世こそは、純粋の日本統治の、日本人の初代の王である。この王が「漢倭奴国王」の金印を貰った。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 33ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---「天照大神は、天孫降臨の時に、第三世にバトンタッチして丹波の大江山に移られ余生をおくられた」などは、今まで、歴史を勉強された方には、受け入れ難いことでしょうが、どこにもそのようなことは書いてありませんが、そのような証拠は無数にあります。
 天の浮橋をみたことのない方は、代用のものを、兵庫県朝来市にある竹田城で見ることが出来ます。

 竹田城http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kansai/Hyougo/Takeda/
この写真では実感できません。一度、行ってください。向かいの山まで、渡れそうな浮橋がかかります。
〔この王が「漢倭奴国王」の金印を貰った。〕の部分は、私は賛成できないのですが・・・・。


第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.html
 は2年前に掲載しています。
 順次読み進んでください。

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2010.01.13

古事記(13)

古事記では根の国は何回でも登場してくる。スサノオの命の母は、根の国堅州と書かれている。
 前出の高麗村に、唐王の地名が現存している。スサノオの命は朝鮮から渡来した。唐とはこの時代には朝鮮のことである。
 スサノオの命の本拠地はこの唐王であったのである。伯耆の国に古代の古事記の舞台があったと云われたことがない。
 従って地名は2000年前の歴史を正直に語ってくれている。
 国譲りまでは天照大神達は蒜山高原の高天原に居った。ここで恐らく万に達する人達が稲作に努力したが、寒気と火山灰の不毛の地だったため、米が取れなかった。
 国譲りが行われるとこの人達は根の国に移ったのである。この時高天原に御所(御座所)があった。この政府機関は、倉吉平野の高千穂に、文字通り高原から降って行った。
 この高千穂の地名が国土地理院の地図には現存している。ここでも地名が古代史の謎の解明に重要な役目をはたしてくれた。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 32ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言-----ここに出て来る地名ぐらいは、地図で確かめてください。唐王、蒜山高原、高千穂。高千穂に行きましたが、天気が悪くて大山は見えませんでした。場所に拠りますと、あのなだらかに見えている山が、高千穂からはギザギサにみえているそうです。

それと、古事記は、原文を読んでください。
自慢するわけではありませんが、私が読んだ古事記を次に掲載しています。

どのように読もうが勝手です。
古事記の新しい読み方
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page250.html
 次第に、日本の歴史全体が見えてきます。(神話の部分だけで、3年はかかりました)

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2010.01.12

古事記(12)

国譲りで大国主命は「豊葦原の中国」を、天照大神の一族に譲ったのである。この意味は極めて重要で神話では全くない。
 「中国」とは「ナカスクニ」と呼ぶべきである。「中州国」でこれは、川のデルタ地帯である。葦の繁ったデルタ地帯には、焼畑農業の時代だから、人が住んで居らなかった。
 天照大神は古事記で、自分の田があったことを明記されている。この田のあぜを壊したのが、スサノオの命である。
 大国主命はまだ稲作をやって居らなかったことも国譲りでハッキリした。大国村は、当時は焼畑地域である。
 この国譲りで米子から安来にかけての、デルタ地帯を天照大神の一族すなはち、天孫族が手に入れた。
 この地帯が根の国であった。現在は境港までが陸続きだが、この当時は境港付近は夜見島で離れていた。米子附近は干潟が木の根の様に拡っていたので「根の国」と呼ばれた。
 本居宣長はこの「根の国」が分からないため古事記を神話にしてしまった。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 31ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言----田村氏は、〔この意味は極めて重要で〕と書いておられます。なにが重要なのかは、此の後、続けて読まれても、意味が分からないと思います。

古事記を訳本ではなく、原文で読めば、少しは解ると思います。全部は大変ですから、国譲りの所だけで良いです。
 天照大神は、大国主命に国を譲る様に命令しますが、なんども大国主命にはまってしまいます。何年もかかって、説得しています。武力は全く使っていないことが分かります。
 それは、何故かと云いますと、「豊葦原の中国」を譲れと云ったからです。誰もいない、畑にもならない所です。
 大国主神も、事代主神もすぐに、承諾しましたが、最後まで反対したのは、建御名方神
でした。この神は、結局は負けて、諏訪湖まで逃げて行きました。建御名方神は、諏訪湖から伯耆国まで、絹を運んでいました。それだけではなく、外のところでも運んでいた形跡があります。
 一方、要求した天照大神の一族は、高天原(ヒルゼン高原)で、稲作をしていました。それも、畦を作っていましたから、スサノオに壊されました。 スサノオは、それだけではなく、馬を機織小屋の屋根から投げ入れました。と云うことは、スサノオは、騎馬民族であったことが分かります。(高句麗の人)
 大国主神は、大国主になる様に命じられました。明日からの連休には、大国村を訪れてください。大国村には、〔倭〕という地名もあります。当たりの神社は、残らず廻ってください。
 そうしますと、やっと、ここに書いてあることが分かると思います。
 こうなりますと、伯耆国は、どこの神社にいっても、楽しいです。
 伯耆国の神社は、http://asilka.blog61.fc2.com/
に順次掲載しています。現在は、日野郡に入っています。

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2010.01.09

古事記(11)

中国との国交に関する記録としては、107年以前は、後漢書に57年に倭国から朝貢したと書かれている。
 この時に「漢倭奴国王」の金印が授けられたのである。
 ニギハヤヒが神武東征直後に生口を献上し、この年が107年とすれば、57年は、古事記のの国譲り直後と考えられる。
 戦後町村合併が各地で行われ、このため大切な歴史が末梢去れて行った。伯の国の西部すなはち、米子平野で、次の二つの重要な合併があった。
 淀江町に、大和(ヤマト)村と高麗村が合併した。又大国村、天津村等は合併して、西伯町が誕生した。
 大和村の小波浜(現存)で、大国主神とタケミカヅチの神との、文字通り国譲りの講和談判が行われた。その詳細は別稿に述べた通りである。
 大国主命は、もとの名は「オオナムチの神」であったが、上記の大国村のボスに選ばれて大国主命と呼ばれることになった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 30ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言-----この機会ですから、後漢書東夷伝を自分でご覧ください。 WEBで〔後漢書東夷伝〕で検索しますといくらでもヒットします。出来れば、岩波文庫 青401-1 410円 に魏志倭人伝なども収録されていますから、買ってください。そして、自分で翻訳してください。
 不思議なもので、自分で、買いますと、自分で訳して見る気になるものです。訳すと云っても、原文は、(建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬)です。
多くの翻訳は、
 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す(奉貢朝賀す)。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。(建武中元二年は、西暦57年)
 
田村氏は、「漢倭奴国王」と書かれましたから、私は、そのまま、「漢倭奴国王」と書きましたが、本物の金印には、「漢委奴国王」彫ってあります。
この印ですと、〔漢が奴国の王に委任した〕印という意味にも、解釈できます。ということは、1784年(天明4)2月23日、博多湾志賀島(しかのしま)で百姓甚兵衛の発見した金印とは、限らなくなります。

又、田村氏は、此の後、神武天皇が即位したのが、西暦元年1月1日と書いておられますから、これを書かれた時とは、考えが違います。
 それにしても、次々と地名が変えられますと、歴史が分からなくなってしまいます。


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2010.01.08

古事記(10)

瀬戸内海には二度の侵入を防ぐための高地性集落が発生した。これは瀬戸内海沿岸の比較的低くて周囲が見透しのきく山の上に出来た集落である。
 農耕には適した所とは考えられない所に集落が出来た。そしてこの跡からは、石で作った武器が多数発見されたのである。
 明らかに敵を監視し、侵入を防止する目的であったので、派遣した軍隊を迎撃する陣地である。
 前期に発生したのは、ニギハヤヒが導入したゲリラの阻止用である。従って武器は従で監視が主になる。
 ゲリラは既に先住民が居る所に侵入して行った。このため地名はゲリラが命名したとは限らない。 
 吉備国すなはち、古代における、備前、備中、備後の全域の海岸線で、高地性集落が、発生しなかった所が、ゲリラが上陸した地点であった。この様に考えると、福山市を流れる芦田川の流域からゲリラは浸透した。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 29ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言----ニギハヤヒのことは、調べたくなかったのですが、今、調べています。
宜しかったら、読んでください。(ややこし過ぎるから頭がまわりません)
石上神宮(1)
http://asilka.blog61.fc2.com/?q=%C0%D0%BE%E5%BF%C0%B5%DC%281%29

 石上神宮(3)まで書いています。石上神宮には、饒速日の子供の宇摩志麻治命が祭神になっていますから、一級の資料です。

前回に続いて、凄い発想です。田村氏は、多くの高地性集落に登られたと思います。
私も真似をして登りました。
高地性集落 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html
に書いています。ここに書いてあるよりも、登りましたが、もう駄目です。どの高地性集落も、2,300メートルの山ですのに、しんどくて登れなくなりました。若い方は、地元の高地性集落に登って、写真と資料をWEBで発表してください。
500はあると思います。新しい歴史が発見出来ると思います。

高地性集落は、一杯あるのですが、田村氏は、お得意の高地性集落がない所に目を付けられました。資料はあればそれに越したことはありませんが、無ければないことが資料になります。
 それに加えることに、地名は重要な要素になります。

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2010.01.07

古事記(9)

天照大神だけは古事記で葬られた所が書かれて居らない。しかしニギハヤヒが大江山の内容を占拠して居ったことで、書かれなかった謎が解けた。
 葬られた所が大江山であったとすれば、国民は、ニギハヤヒを天照大神の直系の子孫と考えるではないか。さりとてニギハヤヒに占拠されていたと書くことも、物部が居る時代には書くことが出来る筈もなかった。
 古事記の編集者には気を使ったことだろう。
天照大神は崇神天皇の御世までは、宮中にまつっていた理由がやっと、はっきりした。
 日本海側では中国との交通が便利すぎる。
何日又渡来民に占拠されるかも知れないので、太平洋の伊勢に、遷宮したと考えたい。
 ニギハヤヒがゲリラを久米国の周辺に送りこんだ。これかが倭人伝の投馬国で、吉備の下道国に相当する。
 吉備上道国すなはち、邪馬台国の住民は、日本海がわから、吉井川を下って集団で計画的に渡来した。しかし、ゲリラは直接に瀬戸内海にやって来た。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 28ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

 私からの一言----このページは、田村氏の頭が最高に回転していた時ではないでしょうか。
〔天照大神だけは古事記で葬られた所が書かれて居らない〕の部分は、素晴らしいですね。普通は、ある天皇がどこそこに葬られていると書かれてありますと、そこから考えを出発させます。書かれていない理由を考えたら、ニギハヤヒが大江山の内容を占拠して居ったと、書いておられます。詳しいことは、書いておられませんが、何所かで書いておられるのだと思いました。
 大江山周辺と綾部市の物部周辺を歩いてきました。2回に分けて。

〔古事記の編集者には気を使ったことだろう。〕なんのことかお分かりにならない思われるでしょうが、古事記と日本書紀を比べながら、読んでいますと、この意味が分かるような気がします。比べながら、読んで3年になります。
 最近の例として、No703神武東征(152)  神武天皇(95)  古事記と日本書紀(18) に書いています。18回目になります。

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2010.01.06

古事記(8)

ニギハヤヒの命は、大江山の、天照大神と月読命をまつった、皇大神社、内宮、豊受神社を占拠した。我こそは天照大神の子孫であると、いつわって人民をだまし戦さを有利に展開しようとした。
 全く同じことを難升米も画策したのである。難升米も何所の馬の骨か得体が知れないが、今度は卑弥呼を利用することを思いついた。神のお告げと称して、丹波の住民を戦争にかりたてたのである。
 この点でも、歴史は二度繰返されたことになる。しかも場所までが同じ所ではないか。
 ニギハヤヒは、かつて自分の部下だった人間を、神武天皇に寝返りして、捕りよにした。この捕りょを160人も漢の皇帝に献上した。
 中国は元来人間の余った国である。今更中国語の分からない人間は、有難迷惑である。
この160人は久米国の周辺に送りこむ、ゲリラを中国の港まで運ぶ道路の構築に使用したと考えたい。難升米も軍用道路を作ったのでこれも歴史の繰返しである。


 田村誠一著 第六話 正史だった古事記 27ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.01.05

古事記(7)

第七代孝霊天皇の御世は、神武東征が107年の直前、第10代崇神天皇の崩御が258年とすれば、190年頃となる。
 卑弥呼共立は「ウソ」としても講和と考えれば年代は正しかったことになる。
 倭人伝の邪馬台国とは吉備上道国であり、投馬国は吉備下道国であった。
 吉備上道国には、大吉備津日子命が居ったので、倭人伝に書かれた、女王の都する所は「ウソ」で、難升米が「ウソ」を教えた。
 朝鮮には正史として、三国史書がある。この中に新羅の173年に卑弥呼が、親善のために使者をだしている。
 従って共立前から女王だったし、仮りに248年に死んだとすれば、百十才には達して居ったことになる。
 難升米は、卑弥呼を共立したと「ウソ」をついたが、同時に替玉にした根拠である。
 卑弥呼は丹波で天照大神と月読命の墓守りだったろう。この人を擁立して悪事を考えたのは難升米である。しかし朝鮮の三国史書が卑弥呼の謎を解いてくれた。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 26ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言----田村氏が「第六話 正史だった古事記」を完成・発行されたのが、1981年です。その後、猛烈な勢いで、研究・冊子の発行をされて、
西暦は日本の建国紀元だった」  
古事記に真実が書かれていた
燦然と輝いていた古代史・総集編
を発行されたのが、平成12年(2000)でした。

なんのことかお分かりにならないでしょう。西暦とは、誰が発案し、どこの国で使かわれるようになったのかと云いますと、調べていただいても、きっと、分からないと思います。
 別に神武天皇が決めたわけでもありませんが、この偉大なる神武天皇に従って、神武東征を成功させたユダヤ人が、日本の絹をヨーロッパに運ぶときにどうしても、どの国を通過しても、共通の年号が必要となり、ユダヤ人が、神武天皇が、奈良に都を定めた1月1日を元日に決めたらしいと云うのが、この「西暦は日本の建国紀元だった」の内容です。
 田村氏としては、丁度、2000年に当たる記念すべき日に、発行をしたかっただと思います。上に書かれた文章の「神武東征が107年の直前、」の部分は、全く、違うことになります。
と云うことは、神武東征が始まったのは、紀元元年より遡ること、16年と云うことになります。田村氏は、このシリーズを書かれた1981年から、19年後の2000年には、
「神武東征が107年の直前、」から「神武東征は紀元前16年」に変ったことになります。

「神武東征は紀元前16年」は、すでに、10年になろうとしていますが、日本では、後、30年位は認められないだろうと思います。
しかし、外国の研究者の間では、認められることになると思います。

何故かといいますと、世界の学者が、頭を揃えて研究しても、西暦元年が、どうして、2010年前なのか、説明が付かないと思うからです。  

西暦は日本の建国紀元だった」を読みましても、ズバリ、このように書いてありません。全部読んで、タイトルのように感じ取って頂こうという書物になっています。

 そこで、私が、田村氏の夢を実現させようと、『西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日』とのタイトルで、本を出版しました。
 所が、出版して、すぐに、発行元の新風舎が、メデイアに叩かれて、あっと云う間に潰れてしまいました。他所の出版社が発行した本は、一切、書店で扱ってくれませんから、10冊程売れたとの報告が、新風舎からありましたが、その後、読んで頂く機会はなくなりました。

 なんだか、嫌なはなしを書いてしまいましたが、田村誠一著 「第六話 正史だった古事記」 から「西暦は日本の建国紀元だった」に至るまでの、田村氏の心の変化も、楽しんで頂こうとおもいました。

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2010.01.04

古事記(6)

卑弥呼を共立したにしても、吉備の上道国と下道国が和睦したにしても、日本国内で、大事件が行っていたことは、否定することはできないであろう。
 魏志倭人伝は日本書紀を編集する時には入手していた筈である。
 日本書紀は古事記よりも多くの事象を取上げしかも、一つの事象に多くの文献を紹介している。
 しかるにこの共立又は講和について、一言も載せて居らない。この編集方針が、千年以上もの間さとられなかったのである。
 日本書紀と古事記を比較するだけでは、このトリックは解けない。しかし魏志倭人伝と朝鮮の三国史書を照合すれば疑惑は簡単に解ける問題だった。
 ニギハヤヒの命の霊名は「天照国照彦天火明奇甕玉饒速日命」である。これなら、天照大神の子孫と家系を偽ったと云われて当然ではないか。
 古事記の前文に家系をいつわる者があるから正すために書いたと編集の理由がある。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 25ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2010.01.03

古事記(5)

倭国が乱れ、卑弥呼を共立したのが、190年頃とはっきりしている。
 これは第七代孝霊天皇の御世になる。古事記には次の様に書かれている。
 「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは二柱相そいて、・・・・・吉備国を言向け和したまひき。かれ、この大吉備津日子命吉備は、吉備の上道臣の祖なり。次に若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖なり。」
 吉備の上道臣と下道臣が争っていたことが明らかにされている。吉備の下道国は、久米国を当時含んだ上道国の隣国である。 この下道国にニギハヤヒはゲリラを導入して、数十年間も内乱状態にしたことは明らかである。久米の軍隊を攻撃して、大和の兵力の弱体化を計った、巧妙な作戦だった。
 しかし大吉備津日子命と若建吉備津日子命に説得された。下道国としては何も上道国と争うメリットがない。ただニギハヤヒが、糸を引いていただけだから、この糸を断ち切るだけでよかった。しかし糸をひきちぎられた子分は吉備国の内乱の禍根となったのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 24ページ
発行日 昭和56年6月10日


私より一言----ニギハヤヒは、神武天皇によって、攻撃され、奈良で負けたことになっています。日本書紀では、天孫族の証拠の品を持っていましたので、神武天皇は許したように書いてあります。その後のニギハヤヒは、登場してきませんから、上に書いてある「下道国にニギハヤヒはゲリラを導入して」のことは、良く理解できません。
ニギハヤヒの正体がはっきりしません。

田村氏が、その後に出版された本では、神武天皇が奈良の橿原に宮を定めたのが、紀元元年1月1日としておられますから、上記の190年頃とは一致しません。 調査を進められて、このように変わったとしますと、「この下道国にニギハヤヒはゲリラを導入して、数十年間も内乱状態にしたことは明らかである。」という説明は矛盾することになります。

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2010.01.02

古事記(4)

107年に160人も、生口を献じたことが、古事記にも、日本書紀にも載せていない。中国ではこの事実を知っていて、倭人伝は、秘密にしたのである。
 古事記は天皇中心の書だから、敵状は知らなかったのだろう。
 日本書紀は、中国偏向の書であり、ニニギの命や物部連に不利な記事を載せる筈もなかった。従って、この重大事項は載せていない。
 日本書紀は、中国偏向の書であり、ニギハヤヒとその子孫の物部に不利な記載しない例がここにもあったのである。
 倭人伝では倭国が長年乱れたのが、卑弥呼を共立して収った結果国内が収ったと書いている。この倭国大乱は、倭人伝では、先方が引金を引いていたので、まぎらわしい、表現で七、八十年続いたと書いている。
 ニギハヤヒがゲリラを、107年に頼んで190年に倭国大乱が収ったと考えたい。
 中国は人が多すぎて、はけ口を探す立場だから、160人の人は、ゲリラを港まで運ぶ道路構築をやったと考えれば納得できる。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 23ページ
発行日 昭和56年6月10日

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