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2010.02.27

「乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。・・・居処の宮室・楼観、城柵厳しく設け、常に人ありて、兵(武器)も持して守衛す。」

卑弥呼については別稿で説明したが、この時には、すでに替玉になっていた。このニュース源は難升米である。真実を伝える筈もない、日本人の忘れては困る、大悪人が、卑弥呼の資料を提供した。
 上記の後半を読めば、日本に武家が発生しない、240年頃に、城が存在していたことになる。中国にはすでに城があった。従って難升米こそは中国人だったのである。中国人が日本占領の軍司令官に任命された。
 中国に救援を求めるや政等を日本に派遣した。敗退するまで、政等は伊都国に、とどまっていた。
 なぜ武家のない時代に城を必要としたかを考えれば、古代史の謎は解ける。
 鬼道とは魔法の事であり、難升米が考えついた丹波の住民を戦争に、かり出す手段であった。神のお告げには反対出来なかった。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 59ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.25

「祖賦を収むるに、邸閣国あり、国に市あり、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」

大倭とは、久米郡久米町に合併した、大倭(ヤマト)村のことである。ここに役人が居って監督していた。ここが久米国の中心だ。
 邸閣国とは屯倉(ミヤケ)のことである。古代史に興味をもたれる人には、屯倉の説明は不要の筈だ。屯とは屯田兵であり、津山盆地に、第一号が1700年前あった。
 大倭村の南隣りは倭文(シドリ)村で、倭文とは織物のことだ。衣服生産の村だった。
 奴国に二万戸、邪馬台国に七万戸、投馬国に五万戸の人は中国からの渡来者で、稲作をやるために、人口はいくら増加しても、食糧は足りた。吉備は穀倉地帯になっていた。
 しかし次に大切なのは「衣」である。この三国の中心に、「衣」の生産地があったことになる。ここでも地名は古代史だった。
 大倭村には錦織の字がある。ここで日本最初の養蚕が行われたと考えたい。中国に献上した錦はここで織られた筈だ。久米国は、古代文化の中心であったと考えるべきだ。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 57ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から一言----「この三国の中心に、「衣」の生産地があったことになる。ここでも地名は古代史だった」

奴国に二万戸、邪馬台国に七万戸、投馬国に五万戸の中心であったとは、なかなか気が付かないものです。
 全国に「倭文」という地名と倭文神社が沢山あります。

参考に 
No655神武東征(104)  神武天皇(48)  香香背男(8)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-10-12

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2010.02.23

「・・・次に奴国ありて、これ女王の境界の尽くる所になり。その南に狗奴国ありて、男子を王と為す。女王に属さず。」

二十国の名をあげたあとに奴国が再度登場してくる。この二十国は、播磨と但馬の国々であった。
 一番遠い須磨国から西に大体、難升米が思い出すままに、魏の都で書きとめた記録に基いたものだろう。古代にしては、上出来の方だ。
 西のはての奴国まで、一わたりしたあとで肝心の狗奴国に触れた。むしろ狗奴国こそは攻撃目標の最重要の国だったのである。
 これは久米国のことである。カツラギ王朝の軍隊の根拠地である。天孫降臨の時には、天ツ久米命がここの王であった。
 神武東征の時の王は、大久米命である。240年頃には、クガミミの御笠を殺した、ヒコイマスの大王が久米国の王だった筈だ。
 「男子王と為す。女王に属さず」と事実を裏付してくれている。
 久米国は現在は岡山県久米郡と津山市に属している。ここの地名を眺めると、公家の出身地でもあった。


私から一言----前の「次に斯馬国、、己百支国、、都支国、、蘇奴国、、鬼国、、為吾国、、邪馬国、、巴利国、、烏奴国、、」の国々は、地図を散々眺めて決められたことでしょう。

 歴史の専門家であれば、だれでも無視されるでしょう。
このページに至っては、「一番遠い須磨国から西に大体、難升米が思出すままに、魏の都で書きとめた記録に基いたものだろう。古代にしては、上出来の方だ。」と想像を逞しくするだけではなく、古代にしては、上出来の方だとほめておられます。

 楽しさは留まることを知らず、一気に最後まで書いておられます。此の時の田村氏の頭の中は、現在の地名ではなく、斯馬国、、己百支国、、都支国、、蘇奴国、、鬼国、、為吾国、、邪馬国、、巴利国、、烏奴国、、の国々でいっぱいだったと思います。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 57ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.21

「次に斯馬国、、己百支国、、都支国、、蘇奴国、、鬼国、、為吾国、、邪馬国、、巴利国、、烏奴国、、」

一大率を置いたと書かれ二十国の内判読出来た一部は上記でこの日本名は次の如くである。
 須磨国、網干国、出石国、曽根国、三木国、妻鹿(メガ)国、、山崎国、、針間国、、有年国

須磨国とは神戸市で、ここには福、神、宮のつく地名が多すぎる。別冊で述べたが、この様な地名のパターンは、まさしく福ノ神族(天孫族)の計画移民が行われた地域であった。神戸市はもと武庫郡の一部である。武庫の地名は、伯耆の日野川の中流にあった。この襲名だったのである。
 神武東征では吉備の高島から、大和に進駐の中継補給基地が見つかったことになる。
 三木国は古事記では、木の国、紀州は記の国と書かれている。
 姫路は古代には伊和国で倭人伝は、伊邪国に相当するだろう


私から一言----「次に斯馬国、、己百支国、、都支国、、蘇奴国、、鬼国、、為吾国、、邪馬国、、巴利国、、烏奴国、、」
のような国のことを書いた人は居られないと思います。馬鹿らしいと思われる方は、ここに書かれた地域の古墳時代のことは、理解できないことになります。
一つずつ、アタックしてください。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 56ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.19

「南の方邪馬台国に至る。女王の都する所にして、水行十日・陸行一月・七万戸ばかり」その3

第七代孝霊天皇の御世に吉備上道国と下道国とが和睦したと古事記に書かれている。
 魏志倭人伝では、倭国が長年乱れていたので、190年頃卑弥呼を共立して平和になったと書いている。これは同一事件を取り扱ったのであった。
 卑弥呼を共立したとある記録は難升米の創作だったのである。卑弥呼はすでに173年には新羅に使者をだしていた事実が現れた。
 邪馬台国に女王が居って、伊都国を治め、一大率を置いて諸国を監察したと、倭人伝は書いている。
しかし吉備二国が和睦後は上道国では、大吉備津日子か、子孫が統治していた筈だから、これも難升米の間違った報告によるものだ。
 稲を植えていたと書かれ稲作民族だったから、吉備上道国では、七万戸の食糧は充分確保出来たものと考えられる。 
 年令は八・九十才から百才となっている。玄米を主食にし、古い魚貝を食べなければ、理想的な健康食ではないか。長生きして当然である。
 下道国と違って上道国の人々は計画移民で、華南から日本海経由でやって来た。何れ大和に都が出来ると大勢の人は奈良に移ったのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 55ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.17

南の方邪馬台国に至る。女王の都する所にして、水行十日・陸行一月・七万戸ばかり」その2

紀元240年頃に栄えた所に、国府や国分寺が出来た筈である。この筆法で吉備の国を眺めることだ。
 岡山市西大寺に古都の地名が残っていた。現在はこの古都の中心を山陽新幹線が、突きぬけて走っている。
 これこそ邪馬台国の都であった筈だ。古都と津山とは吉井川が唯一の交通手段だった。
 日本海から瀬戸内海には、このルートを通る外なかったのである。
 魏志倭人伝は、津山と古都を十日で行けたことと、古代の、日本最初の道を教えてくれた。
 朝鮮には三国史書がある。これには「但馬は邪馬台国の東北千里にあり」と書かれた。
 朝鮮の一里は80米である。西大寺ヤマトの東北80キロに但馬は位置している。
 何百年か探し求めていた幻の国「邪馬台国」の中心は西大寺にあった。
しかもこれは「ヤマト」と呼ぶべきだった。根の国も久米国も都は「ヤマト」だったのが理由だ。


私から一言----「紀元240年頃に栄えた所に、国府や国分寺が出来た筈である。この筆法で吉備の国を眺めることだ」凄い仮説です。仮説とは云わないで、「国府や国分寺が出来た筈である」と書いておられます。これには、厖大な地図を眺めたものが、頭の中に残されているのと、古都と津山とを結ぶ吉井川を実際に走られたときの景色なども脳に残っている筈です。そして、但馬と西大寺を結ぶ道も走られた筈です。
 私はひとまず、但馬に行ってきました。
竹田城の役目
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1339219/
あたりから書いています。この辺りは、古代から絹が盛んであったこと。此の頃の成功の墓と思われる前方後円墓が、竹田城の近くと和田山の近くにあるのを見てきました。しかし、何故か、和田山あたりで勢力があったのに、740年頃には、豊岡市に移動したらしく、
但馬国分寺遺蹟が、豊岡市に存在します。
 このようなことを探っていると、田村氏の「紀元240年頃に栄えた所に、国府や国分寺が出来た筈である。この筆法で吉備の国を眺めることだ」は、たった一行ですが、光ってみえます。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 54ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.16

「南の方邪馬台国に至る。女王の都する所にして、水行十日・陸行一月・七万戸ばかり」

七万戸とは、三十万人以上の国である。縄文期の日本の総人口が、百万とも云われていたのに、なぜ三十万人以上の国があったかを倭人伝を読まれる人は反省して見ることだ。
 この三十万人以上の国が240年に存在していたのである。
この三十万人以上の食糧が自給自足出来た所は「米のなる木」のあった岡山県以外にある筈はなかった。
 九州の一画にこんな国があったとすれば、なぜ他の地域には、こんな人の集った国が発生しなかったかの理由もなければならない。
邪馬台国はななぜ今まで、九州にあったと信じられて来たのだろうか。不思議でならないのである。
松江国から出雲街道を津山まで、歩いてくれば一月かかる。もちろん古代の出雲街道は後世のとは多少異ったルートだった。
 この途中では800メートル以上の高い山を何回か越える必要があったのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 53ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.14

「南のかた投馬国に至る、水行二十日五万戸ばかり」

魏志倭人伝は、同じ南のかたに五万戸の投馬国と、七万戸の邪馬台国があると書いた。 衆を惑わしたのは卑弥呼でなくて、魏志倭人伝を書いた陳寿だったのである。
 米子から倉敷までは伯備線が走っている。この伯備線は終始、川に沿って走っている。川とは日野川と高梁川である。八岐の大蛇でスサノオの命が遡って行った川は、実はこの日野川であった。
 昔の国鉄は流れの緩い川すじに沿って、建設された。緩い川すじには川原があり、対岸に簡単に渡ることが出来る。従ってトンネルの少い国鉄の走っている所は古代の道と並行している。水行二十日とは納得のゆく日数だ。
 高梁川を下った所が、倉敷市玉島である。玉島国を玉の国と略し「投馬国」と書き変えたまでだ。
 240年頃には古事記では、この国は吉備下道国となっていた。ここの住民五万戸は久米国と邪馬台国を攻撃する目的でニギハヤヒが、瀬戸内海から導入した。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 52ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から一言---〔トンネルの少い国鉄の走っている所は古代の道と並行している〕は、見事に言われるようになっています。古代の道が分かれば、その道に沿って、古墳と遺跡が集中しています。
 では、その道は、古代の人は、なんの為に歩いていたと思われますか。

私のように絹を運んでいたと思う人もあるでしょう。塩、米、鉄などいろいろ考えることが出来ます。これを知るためには、この古代の道を実際に歩くことです。歩いていますと、重要なところでは、必ず、二等辺三角形の山を発見出来ると思います。
 では、その山の周辺には、どのような地名があるか

如何ですか、〔トンネルの少い国鉄の走っている所は古代の道と並行している〕は、一層、本当だと云うことを発見出来ると思いますし、歩いたり、車ではしっていても楽しくて仕方がありません。
3月の連休には、是非、高梁川を下って、倉敷市玉島を訪れてください。

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2010.02.12

「東行して不弥国に至るまで百里千余戸あり」

松江国の東百里(44キロ)とは倉吉平野のことである。ここには大栄町に高千穂の地名が現存している。
 この「不弥国」の南にある蒜山高原に、古事記の高天原があった。従って「不弥国」と高天原が日本の発祥の地だったのである。
 大山・蒜山国立公園の周辺が古代史の舞台である。この南の峰に笛吹山がある。笛吹の国が、「笛の国」と呼ばれ、「不弥国」と書き改められたと考えたい。
 古事記では天孫降臨になるまでに、沢山の神々が下った所が「笛の国」だったのである。
 240年には千余国だったが、倉吉には国府と国分寺がおかれた。又奈良の法隆寺と同じ時代に、同じ位の寺が四の寺が四ツも建造されたのである。これは全て廃寺となって寺跡が残っている。
 福岡県の数倍の前方後円墓が集中していることが過去の栄華の名残りである。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 51ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.10

「東南して奴国に至るまで百里二万戸あり。」のつづき

古代史では出雲が舞台になっていたと考んがえられてきた。しかし、実際の、古事記に出て来る地名は、この根の国に大半があった。
 米子の東に淀江町がある。この町に合併された中に大和(ヤマト)村と高麗村があった。
国譲りがあった「イナサのコハマ」は「否砂の小浜」で大和村にある。大和とは天子が講和を行った所である。「否砂」とは岩場のことであった。
 大和朝廷の「大和」の名の起りであった。事代主命はこの講和の時、美保崎で釣りをしていたのである。
 高麗村に唐王の地名がある。ここがスサノオの命の住居のあった所で、古事記には、根の国の堅州と書かれている。
 高麗村の東南に宮内の地名がある。ここは神武天皇の住居のあった所である。
 大国主命は米子の南の、宗像の奥谷で見合いされた。
 航海に従事した、安曇の連中は、天津村の東に同名の集落を作っていた。
「漢倭奴国王」の金印については別稿で述べたが、船が難破して、ここに届かなかった。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 50ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.08

「東南して奴国に至るまで百里二万戸あり。」

百里とは約40キロである。「また東南して云々」と書かれていない以上、松江国から、測量すれば、現在の米子平野である。
 ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである。従って奴国とは根の国である。後世島根となった、由来のもとである。
 国土地理院の米子の地図に西伯待ちがある。ここに合併前に大国村と天津村があった。大国主命は大国村のボスになった。
 このボスになる前に迫害を受けたのが、手間山の赤猪の神話になっている。この手間山は大国村の東隣りの手間村にある。
 「手間の山本(ヤマト)」が神話の舞台であった。この同一地点に現在「倭」の地名が残っている。
 「倭」とは山のふもとの、山本から由来したことになった。
 倭が根の国の都になり、都の外港は、中国式に天津村となった。読み方が「アマツ」とヤマト言葉になっただけである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 49ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.06

「東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。」の続き

世よ王あるも、皆女王国を統属す、と注意すべき記録を残してくれた。倭人伝では、女王国とは、邪馬台国である。これは、難升米が「ウソ」の報告を行ったことは、別稿で述べた。
 しかし伊都国は、他国、正確には、カツラギ王朝に属していた。他国に属していた点では、倭人伝は正確であった。
 この伊都国には、皇大神社、内宮、豊受神社が現存している。
 古事記では丹波国からは后が再々招えられた由緒ある所である。
 又崇神天皇の御世に、「ヒコイマスの大王」を遣わして「クガミミの御笠」を殺させたと書かれている。更に「クガミミの御笠と」とは人の名であると、古事記に注釈までついている。馬の骨でないぞとばかり、いかりに充ちた記録で、日本人ではなかった。
 魏志倭人伝で、伊都国は、魏の国に救援を求めた位の、重大事件である。これだけの重要な大事件が、古事記にあって、日本書紀に全く取上げられなかった。日本の学者は、千年以上日本書紀の編集意図が見抜けなかった。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 48ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.04

「東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。千余戸あり。世よ王あるも、皆女王国を統属し、郡使の往来に常に駐まる所なり。」

これまでは「又云々」と書かれ、これは継続的な地理の表現だが、伊都国以降には、「また」と書かれない以上、末盧国基準である。
 末盧国すなはち、松江国から東南には、出雲街道が伸びている。五百里行った所が、加古川で、この川を遡れば、丹波国である。
 ここは107年には倭面土国と云われ、これも恐らく伊都国と同一名の筈だった。
 魏志倭人伝の国名は難升米が書き残したものを、敗戦の結果野卑な漢字に書き改めたが、自国の伊都国だけは例外だった。
 倭人伝に出てくる、伊都国は、丹波の大江山の、大江町と物部待ちが中心だった。郡使が常駐した所が、勅使の地名で残っている。
 「王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国にいたらしめ、また郡の倭国に使するや、
皆津に臨みて捜露し、・・・・・」と書かれている。 「津」と書かれたのは、現存の天津がふさわしい。中国でも都の外港は、天津である。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 47ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---京都府の地図を出してください。
 大江町あたりを眺めてください。
〔河守〕〔天津〕そして、竹田川に入りますと、〔東勅使〕〔勅使〕という地名があります。
〔河守〕は、河守と云う職種の人が、ここで、登って来た舟の監視をしていたのではないかと考えています。
〔天津〕は、港ではなかったかと推理。
〔勅使〕では、外国からやって来た人を出迎える朝廷の役人がいたのではないかと思います。その人たちが泊まれる施設もあったのではないかと思います。

〔市島〕と云う地名があります。ここに、三ッ塚廃寺跡
http://edu.city.tamba.hyogo.jp/bunka/bunnkazaizuroku/mitsuzukahaiji.htmがあります。国指定 三ツ塚廃寺跡パンフレット(PDF)

三ツ塚廃寺跡は、竹田川右岸の丘陵上に位置する白鳳時代に創建された寺院跡です。ですから、田村氏がかかれている時代とは、ずれますが、天皇家と中国系の人の攻防が繰り返された地域だと考えています。
黒井という地名があり、竹田川は、黒田川に分れます。この先に、「水分れ」があります。
「石生 イソウ」という所です。
此処まで、船で着ますと、少し、船をかついで移動しますと、加古川に着きます。瀬戸内海までの道だったと考えています。

古事記の孝霊天皇のところに、次のような文章があります。
 大吉備津日子命と若吉備津日子命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口として吉備国を言向け和したまひき。

 ここに書かれてある氷河の上流が、「氷上」の水分れではないかと考えています。
 大吉備津日子命と若吉備津日子命の軍隊は、吉備を攻めるに当って、こちらを廻ったのではないかと。
 卑弥呼の時代には、中国人が、支配していた福知山は、孝霊天皇の頃には、天皇家が支配していたことになります。

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2010.02.03

「又た一海を渡り、千余里に・・・」の続き

大量の計画移民は黒潮海流に乗って、日本海にやって来た。この航海途中の、水や食糧の補給港には、福浦か福江の地名が採用された。
 この福浦の地名が日向浦のすぐ東隣りである。福浦、福江の地名は天草から、青森の下北半島までに約十ヶ所が、しかもほぼ等間隔で残っている。
 如何に綿密な計画が実行されたかの証拠の一つである。この詳細は別冊で述べて置いた。
 揚子江のある華南は古代から船がないと生活が出来ない所である。しかも揚子江の様な大河を遡ることだって必要であった。
 上海から天草の方がはるかに近かかった。航海は遡らないですむだけ容易である。
 河を遡るからには風を利用したことだろう。しかも風がないからとて、下流に流されては困る。こだいには現代人の考え及ばない様な、航海術があったと考えるべきだ。
 同時代に砂漠の砂煙りで東西が全く分からないない中を天山山脈の3000キロかなたに、20万人の屯田兵を動員していた。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 46ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

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2010.02.01

「又た一海を渡り、千余里にして末盧国に至る。四千余戸あり、山海にそうて居り草木茂生し、行くに前の人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没して、これを取る」

壱岐からの海を千余里も渡るのに、方向を書かないのも、惑わす手段だった。しかし、魏の単位なら440キロ離れた地点なら、島根半島にビッタリだった。
 島根半島には松江があるから、末盧国とは松江国だったのである。この半島の東には境港がある。この境港の附近は夜見島であった。
 米子から境港までの夜見浜(弓ヶ浜)はまだ形成されて居らなかった。
  国土地理院の境港の地図を見ていただきたい。境大橋の真下が日向浦である。これが古代の港の地名だった。
 神武天皇が東征の時に船出した、日向とはここだったのである。
 境港は現在でも日本海随一の良港である。
 数百隻の船でも停泊できる中海がある。古代の人々は常に良港を選んでいたのである。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 44ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私から一言---田村氏は、このページのことを云うために、「魏志倭人伝に語らせよ」から書いてこられました。ここに戻って、もう一度読んでください。此の末盧国が決まりますと、その後の国々は、全て、決まります。
邪馬台国は九州と云われて居られる方は、それでもかまいませんが、その後の日本史は、謎だらけになります。

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