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2010.03.31

天孫降臨(1)

高天原のあったヒルゼンは都としての、立地条件は申し分なかった。しかし雪の期間が4ヶ月もあって、挙句のはては、火山灰のため米が全く取れなかったのである。
 イザナギの命からヒルゼンを任せられ天照大神はやむなく、倉吉、米子平野に降りることにした。
 大国主命はこの時は米子の南の大国村のボスだった。このボスに米子、安来の葦の繁ったデルタ地帯を譲り渡す様に交渉した。
 これが有名な国譲りの話しである。これが片付くと倉吉の高千穂にヒルゼンから、山を降りたのである。
 この時天照大神の孫のニニギの命が生れると間もなく降りたので天孫降臨と呼んでいる。天照大神は中国から来られたがニニギノ命は第三世だから、この人からが日本民族、大和民族である。
 日系三世はブラジルでも、ハワイでも、知事になる先例ではないか。
 天孫降臨は前述の生れ年が20才位の仮定からBC100頃だった。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 18ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.03.29

皇統連綿(6)

前表で世継が22才頃生れたと仮定した。これも念のため読者は日本書紀を見られることである。
 皇太子が何才の時に生れたかは、すぐ計算出来る様になっている。例えば、2代のスイゼイ天皇が48才で即位されている。
 1代の神武天皇が亡くなられた年令は、127才となって79才の時に、2代目が生れたことになる。何から何まで日本書紀はインチキである。仮りに古事記の崇神天皇の年令の様に間違いがあっても、その理由なりが証明が必要である。
 日本書紀は2代以後も立太子、即位、年令が整然と書かれ、日付まで入れることを忘れなかったのである。
 前頁の仮定の年表 (皇統連綿(4) の表)を見ていただきたい。2代、3代、4代の天皇の方がジンム天皇より先に亡くなられたのである。
 天皇制は日本書紀の作文だったのである。日本書紀は神代は一書にいわくの独特の形式だが、ジンム天皇以降は他説は一切排除してわざわざ偽書をデッチあげたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 17ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.03.26

皇統連綿(5)

朝鮮の三国史記の新羅193年6月に、倭人大いに飢えて、食糧を求めて来る人が、千人以上に達したと書かれている。
 崇神天皇の寿命を168才でなしに、108才と仮定した前期の年表で、7代のコウレイ天皇が190年に、9代のカイカ天皇が191年に引継いて亡くなられたのを、疫病の出来事と考えれば、朝鮮の三国史記の倭国の出来事と一致する。
 念のため中国の年表を眺めて見た。後漢の霊帝は188年に亡くなっている。このあとの弘農王は一年で190年には献帝となっていて、疫病の流行があったことを示してくれていた。
 日本は中国より一年遅れて流行した様で、中国と日本の交通があったことの裏付けとなった。同時に中国と朝鮮の交通はなかった為か、三国史記には疫病流行の記録はなかった。
 やはりエトが一回り計算違いだった仮説は正しかった。22才で王子が生れた仮説も、7代まで遡った所まではよかった。古事記の天皇の寿命も正しかったのである。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 16ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

私の考えたこと----〔弘農王は一年で190年には献帝〕の辺りがよく解りません。
武帝紀を読むhttp://homepage2.nifty.com/o-tajima/san/Buteiki/bu_02.html ここに、次のような文があります。

たまたま霊帝が亡くなり、皇太子(劉弁)が即位し、母親の何太后が朝廷に臨んだ。太后の兄で大将軍の何進は袁紹とともに宦官抹殺をはかるが、何太后はこれを許さなかった。そこで何進は董卓を中央に呼びだして、太后を脅迫しようとしたが、董卓が到着する前に殺されてしまった。董卓は到着すると、皇帝を退位させて弘農王とし、弟の劉協を立てて皇帝(後に献帝と呼ばれる)としたため、都・洛陽は混乱した。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、霊帝の次の皇帝は、少帝弁となっています。
少帝弁http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B8%9D%E5%BC%81には、次の文があります。
霊帝の崩御に伴い、母何太后とその兄である大将軍の何進により擁立された。しかし何進が宦官によって暗殺され、その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立されたために廃位となり、弘農王に封じられた。
その後、董卓による専制に反発した諸侯による董卓討伐戦が起こった時、反乱軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。懐王と諡され、実質的に皇帝とは認められなかった。
劉弁の在位はわずか5ヶ月に過ぎないが、地方豪族の一人に過ぎない董卓に廃立されたことは、事実上、後漢の滅亡を意味していた。
三国志演義では、劉弁は劉協よりも若干年上の少年であったが、劉協の方が聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったために、何太后と共に李儒により高所から突き落とされ殺害される。
と書いてあります。三国志演義は、小説ですから、劉弁は流行病で死んだでは面白くありませんから、〔高所から突き落とされ殺害される〕となったのかも知れません。

中国は不安定な時代でしたから、正確なことは分かりませんが、霊帝の189年の死に続いて、次の皇帝は、190年に死んでいることは事実の様です。

そして、日本の〔7代のコウレイ天皇が190年に、9代のカイカ天皇が191年に引継いて亡くなられた〕、そして、続いて10代崇神天皇の御世に、日本書紀では、5年 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであったと記されています。このことは、古事記にも、記されており、実際にスペイン風邪に相当するような流行病があったと思われます。
【三国史記】新羅本紀第二 伐休尼師今
 十年(193年)六月倭人大饑。来求食者千余人。

 倭人おおいに飢えた。千余人の者が、職を求めてやって来たとあります。田村氏は、『西暦は日本の建国紀元だった』の著書 222ページに於いて、
〔これは191年には人民が多数死んで192年には田植えができなかったことです。
このため倭人はハハの国新羅に食を求めて訪れました〕と書いておられます。 

このように、日本の歴史書【日本書紀】と【古事記】と【三国史記】を突き合わせますと、中国でも、スペイン風邪が起こったのではないかと推理することが出来ます。
 中国の文献をもっと調べますと、中国の歴史を書き換えることになるかも知れません。

このような発想が生まれるためには、二つ必要です。
第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼は、これで 16ページになります。各天皇は、いつ頃の人かを推定して見ることです。日本書紀にかいてあることでは、役に立ちません。もう一度、1ページから読んでいただきますと、ぼーっと、分かってきます。
二つ目は、医学的知識が必要です。

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2010.03.24

皇統連綿(4)

005


中国には「エト」があったし、崇神天皇の御世までは、中国や新羅とは、交通が頻繁だったので、偉い人は自分の生れ年のエトは分かったのである。
 高千穂や後に久米国の役所には、文書の記録係も居った。一般の国民は何所まで記録があったかは疑問である。
 
崇神天皇が108才まで生きたとすれば、生れた年代は150年になる。
 家系と生れ年で論じたことを適用して、天皇の世継は平均22才で生れたと仮定する。こじきには天皇には天皇の寿命が明記されているので、上表は各天皇の年代である。
 神武天皇の治世は長かったので、2、3、4代の天皇が、立太子と即位を書いた、日本書紀はインチキだったのである。
 古事記には即位のことはが全く書かれてなかったことが正しかったのである。
 十代崇神天皇の御世に恐らくスペイン風邪の様な流行病で沢山の人が死んだ。
 この事件はこじきにも日本書紀にも記されていたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 15ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.22

皇統連綿(3)

日本書紀の内容は別稿に既に述べた様に、中国偏向、物部の名誉回復を企てた本である。又年代までがデタラメとなっては、魏書の資格充分である。
 古事記を正史として年代的に不都合な点を検討すべき段階である。
 日本書紀信奉の学者は、雄略天皇の即位は456年頃としている。この天皇は21代である。10代の崇神天皇は「戌寅」の年に亡くなられている。このエトの年は、その前後では、198、258、318がかんがえられる。11代と21代の間には、兄弟が天皇になられたことと、兄弟3人が天皇になられたことがある。従って平均生れ年は、7代で考える必要がある。
 198年と318年では生れの平均は、37歳と20才で不合理で、結局258年が正しかった。258年なら平均28才である。
 古事記では崇神天皇は168才で亡くなったと書かれている。これはエトから後世の人が勘定間違いしたので、一回り少ない、108才が正しかったと仮定したい。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 13ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.19

皇統連綿(2)

日本書紀の年代を修正する位おかしな話はない。最初から、悪意をもって編集されたのである。真面目な態度で書かれた本でなかった。
 日本書紀を何をあわてて、古事記から、僅か8年遅れて出さなければならなかったか。
 古事記には一部の人に困る記述があったから、一般の人達に、如何にも日本書紀は、信用できる本であるかの印章をあたえるために、殊更に立太子の年代と、皇太子の年令まで、記載して、詳細を尽している。
 神武天皇が即位された日が、2月11日までハッキリ書かれたことを、後世の人は何一つ不審を持たなかった。
 万一不審を持てば、不敬罪で刑務所に入れらる運命が待っていた。
 学者は漢字や記録方法がなかった時代に、日本書紀は事象毎に月日が記入されている位おかしいことを、何故棚上げにして、何の天皇に御世にどんな事件があったとおっしゃるのだろうか。ある天皇以後はなぜ記録が正しくなったかについても証明が必要である。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 12ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)


私から一言---この冊子のタイトルは、第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼
です。一向に卑弥呼のことは出てきません。わたしは、家系と生れ年(1) の部分が、未だに、今ひとつ理解出来ていません。〔卑弥呼〕とは直接関係ないのですが、この部分は、日本の歴史を理解する上で、重要な部分です。今までに、このようなことを云われた方はおられないのではないでしょうか。少し、過激な所もありますが、書いておられる通りだと思います。

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2010.03.17

皇統連綿(1)

皇室は皇統連綿として、続いている。前述の考えに基いて、天皇は平均何才の時に、誕生したかを読者も計算されることを,お薦めしたい。
 一例をあげれば102代の後花園天皇が即位されたのは1428年である。109代の明正天皇は、1629年即位された。この間親王が一代あり、八代となる。
 従って201年を8で割れば、25才の時に平均生れたことになる。
 日本書紀によれば神武天皇が即位されたのが前660年で、21代雄略天皇が即位されたのが、456年である。
 この間に兄弟が天皇になられたのが、二代で三人居られる。この三人を除いて、上記の1116年を17で割れば、66である。
 天皇が皇太子を生れた年令が平均66才だったことになる。こんな不合理なことが、千二百年間気付かれずに来たのである。
 如何に巧妙に日本書紀は人をだます様に編集されたことか。今こそ偽書としてのレッテルを、はるべき時だ。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 11ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.16

家系と生れ年(2)

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼
家系と生れ年(2)

 長男が代々相続し、平均25才で、長男が生まれるとすれば、5代前の先祖は125年前に生れたのである。
 これは代々長生きする、しないには全く左右されない。本論の特徴はこの点である。
祖父が生前中に家督を譲っても、5代前の先祖の生れ年には変化は生じない。
 大阪の船場の様に、代々養子を迎えるとすれば、長女が18才位で、あと取りを生んだと考えれば、5代前の先祖は90年前に生れただろう。この先祖とは、もちろん養子の生れた年ではない。養子が生れた年は何才年上の人を養子に迎えたかを考えればよい。
 徳川家康が将軍になったのは1600年であった。第十五代の慶喜が将軍になったのは1866年である。
 この年代差266年を14で割れば、19才の時に世継が生れたと考えればよい。
 仮に途中で養子を迎えても、生れ年の平均は変らない。50代昔が何時の時代に生れたかの推定は出来る。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 9ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.14

家系と生れ年(1)

004


系図がはっきりすれば、先祖の一人一人の寿命が分からなくても、何代前の、先祖は、何年に生まれたかの推定は出来る。
 上の系図で、第何子が相続したかは、かんがえないでおく。長男、末子何れの相続でもよい。
 AからB、C、Dと家系が相続されればもー、十一代K が、K才の時に次の代が生まれたとする。
 この時に、b+b+・・・・・+k=「bk」とする。この十分の一が、相続者は平均何才で生まれたかを教えてくれる。 
 Kが家督を継いだ年代から、B
が家督を継いだ年代を差引いたものは、「b+k」と、略一致する。
 従って先祖の寿命とは全く無関係ら、平均何才の時に生れた子供が家督を継いだかが分かる。
 古来相続には長男が相続するとか、末子が相続するとか、常に養子縁組して相続することが行われて来た。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 9ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.13

古事記の年代

003


古事記では年代が書かれたのは、崇神天皇崩御の年である。これは「戌寅」となっている。
 これ以後も年号が分かる年は少い。しかし日本書紀は一貫して何月何日とまで、詳しく月日が書かれている。現代人でも一年前の事件の日付を覚えている人があるだろうか。 
 さてなぜ「戌寅」と分かったかである。しかも同じエトは60年周期で繰返される。崇神天皇は、魏の敵将難升米を殺したのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 7ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.11

日本書紀の年代

002
昭和十五年が紀元2600年に相当する年代は上の表である。この年代を眺めるだけではインチキを見破ることは至難である。
 魏志倭人伝や、漢書に載っていた年代は、何天皇の御世だったかを考えてみることだ。
 西暦57年に「漢倭奴国王」の金印を、漢から授けられた時には、九州に王国があったことになる。垂仁天皇は、九州まで目が届かなかった。 
 神功皇后は、魏の使者が240年に九州に来たことも、ご存じなければ、九州に神功皇后は行かれたのに、奴国や邪馬台国の数十万人の国が九州にあったことを,気付かなかったことになる。
 成務天皇の御世には倭国に大乱があったが、この記録も全くない。
 卑弥呼を共立したことも全く書かれていないのに、日本書紀を正史と学者は呼ぶのだろうか。


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2010.03.10

古代史をゆがめた日本書紀

歴史年表を何冊かもとめて、驚かされたのである。3世紀頃の日本国内の出来事が、日本書紀を基準にして年代が示してあった。
 紀元2600年を祝ったのは、昭和十五年だった。この年代は日本書紀を信用して決められたのである。
 この建国はインチキだと、マッカーサーから小言を頂戴したと聞いたことがある。
 かし日本書紀のインチキ性を日本の、歴史学者は決断を下してなかったのでビックリさせられた。
 応神天皇以前はただ、おかしいだけでは、困る。一冊の本が、ある時期以前だけでは、間違って居るとするなら、歴史学会として、共通の納得の行く結論を出してくれないと、困る問題ではないか。
 邪馬台国も多数欠論理で九州にあったとする様な、朝日新聞の編集方針も困ったものである。
 日本書紀は物部の名誉回復のために書かれた点は別稿で述べた。今回は年代が天皇制のためにゆがめられた点を述べたい。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 3ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

私から一言---〔崇神天皇の妹だった卑弥呼〕の2ページ目です。
2ページは、歴史は連想ゲームで考えると面白いと、軽い気持ちで始っています。ところが、3ページには、突如、歴史学者に対するご不満から始められました。

これまでも、そうでしたが、歴史書にこのように書いてあるからと借り物で、話は書いておられません。すべて、地名とか、地勢とか、神社のことから、考えを進めておられます。

所が、〔歴史年表を何冊かもとめて、驚かされたのである〕とあります。普通は歴史年表など、何冊も買いません。しかし、数冊買われたら、発見されたのです。私など、歴史年表を眺めますと、100%正しいと思いこんで眺めてしまいます。
 
 歴史年表の年代を日本書紀を使って、平気で書いている様なものは、歴史年表の役目を果たしていません。最近、私もこのように思うようになりました。
そこで、田村氏は、誰も語っていない考えを駆使して、正そうとしておられます。

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2010.03.08

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 連想ゲーム

001


第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼
 連想 ゲーム
 邪馬台国を探し求めることも、卑弥呼が誰だったかを考えることも、一種の連想ゲームです。

学者が日本人を騎馬民族と考えたのも、連想ゲームです。
 
天とは何かを考えて見ませんか。いくつかの、全く別の天が古事記にはあります。しかしシルクロードのかなたの、天山山脈の天を連想するとき、あまりにも、よくあてはまる気がしてなりません。
 天から黄河と揚子江を降って、黒潮の流れを降ったら、いやでも日本海に来てしまいます。偏西風までがお手伝いをしてくれます。

 地名は一つ一つでなしに、パターンで考えてこそ面白いでしょう。これも連想ゲームです。連想は沢山でかんがえる程面白いものです。お便りをお待ちする次第です。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 2ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.03.06

正史だった古事記

魏志倭人伝は紀元240年から250年の僅か10年間に、日本国内に大変革が起きたことを教えてくれた。
 同時に古事記が正史であったことも、証明してくれたのである。古事記には神話は含まれて居らなかった。脚色部分を脚色として、分離して考えればよい。
 他方日本書紀位悪書はなかったのである。
 千弐百年の間、日本人は、物部の亡霊に、惑わされて来たことになる。
崇神天皇の御世に、十二道に将軍を派遣した。いくら日本人がお人よしでも、1700年昔に他所からやって来た、全く知らぬ人を泊め、食事を出しただろうか。
大和に居って日本の地理が分っただろうか。天孫降臨後、日本全土に集団の移民を計画的に行ったから、十二道の人々は、あたたかく歓迎してくれたのである。
 境港が日本の門戸であり、出雲街道から津山を出て、吉井川を下る、交通の大動脈があったのである。天照大神の壮大な偉業を、今こそ考え直して見るべきだ。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 62ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---本日は、【田村誠一著 第六話 正史だった古事記】 の最終回です。
田村氏は、第六話まで調べて来たことを元に、古事記が正史であったことを語ろうとされました。すべて、60ページくらいの小冊子ですが、それぞれの発行日を見ると分りますが、エネルギッシな研究の跡が見てとれます。
 これから先、〔古事記が正史であった〕を元にしますと、謎が多かった歴史が、どんどん解明されますので、その後、冊子の発行が続きます。
少し、休んでから又、お送りしたいと思います。

私の歴史への興味は相変わらず続いていますが、どうしても、〔古事記が正史であった〕
に戻っています。
奥津鏡・辺津鏡のことを調べていましたら、どうやら、随分当時の権力者に取って、重要なものらしいことが分り、考えて見ることにしました。

 次の辺りがはじまりとして、考えています。
No713神武東征(162)  神武天皇(105) 奥津鏡・辺津鏡
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-01-28
その後、続けまして、これでは、理解して頂けないと、書き続けていましたら、
No722神武東征(171)  神武天皇(114) 奥津鏡・辺津鏡(10)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-02-14
から、すっかり、古事記が正しいことを理解して戴かないと駄目だと、古事記のはじめから書いています。特に、古事記には、どうして、〔天〕の字が多いのかにこだわっています。
 古事記は、〔天〕に関係のある人たちが、自分たちが、抹殺されそうだから作った記録だったらです。
 それを見た藤原氏たちは、古事記に書いてあることは、すべて、間違っていると国民に知らしめる為に、日本書紀を作りました。
 古事記に書かれてあることを参考にした証拠は、古事記に出て来る人や地名の名は、採用したのに、悉く違った漢字に替えたことです。
 特に重要な神は、全く別人の如く、別の名前になりました。
大穴牟遅神(大国主神)は、日本書紀では、大己貴命と表記されています。

 田村誠一氏も、その後、いいろいろの研究をされますが、〔第六話 正史だった古事記〕から離れることは出来なかったのではないかと思います。

その苛立ちの様なものが、13ページの屈辱の書〔魏志倭人伝〕から19ページの悪書〔日本書紀〕(4) まで続きます。
 それから、最後まで、古事記が正しかったことを述べておられます。


もう一度、この部分に戻って、読んで頂ければと思います。 お節介かも知れませんが・・・。

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2010.03.04

「又た特になんじに紺地の句文錦三匹・細班華・五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各おの五十斤・を賜い、皆装封して、難升米・牛利に伏し、還り至りて録受せしめん。ことごとく以て、なんじをいとをしむを知らしけべく、故に鄭重になんじに好を賜うなり」

難升米と牛利に宣撫物資を与えた上での、魏の皇帝の詔書の内容である。この前文で、難升米は倭国派遣軍の軍司令官に任命されている。
 この宣撫物資の銅鏡の行方が古来問題になっている。銅鏡は一亘は鬼ヶ城に収められた。
 このあと、すぐ戦争になって、8年後に、伊都国は潰滅した。銅鏡は従って配布する、いとまもなしに崇神天皇の軍隊に没収された。
 この時に日本の文化は最高潮で、正倉院の御物の中にも没収されたものが含まれていると考えたいのである。
 このあと中国との国交は断絶し、文化は180年間は後退を余儀なくされた。正倉院に収められた文物は現在も燦然と輝いている。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 61ージ
発行日 昭和56年6月10日(1981)

私からの一言――――「このあと中国との国交は断絶し、文化は180年間は後退を余儀なくされた」この部分は、どうして、国交は断絶したのか。このことを説明しませんと、歴史は連続しません。

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2010.03.02

「乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼という。・・・・の続き

国土地理院の大江山の地図を眺めて欲しい。大江町の南の山は、鬼ヶ城となっている。鬼道を事とした人の、城のあった所だと地図が教えてくれた。 
この山の東に本城奥と物部町の地名がある。本城奥の地名で、本城のあった所が見当がつく。しかも、倭人伝で城を守って居った人は物部だったのである。
城が全くない時代に、魏志倭人伝に書かれた国に城山の地名が、二十近く現存していることが古代史の謎を解いてくれる。
すなはち伊都国以外の人々も中国から移住して来た事にならないか。
大江山の南に鬼ヶ城がある理由、必要とした理由を日本人は、考えて見ることだ。
魏志倭人伝が城があったことを教えてくれたのである。しかも城を守ったのは、饒速日の命の子孫の物部だったのである。
久米の直と物部連とは、敵味方である。この全滅に近い敗退をした物部が、日本書紀を通じて再起を企てたのである。別稿で述べたが物部に都合の悪いことは古事記に書かれていても、日本書紀では黙殺してあった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 60ページ
発行日 昭和56年6月10日(1981)


私から一言---田村誠一著 第六話 正史だった古事記 も、後2ページを残すのみとなりました。
〔魏志倭人伝が城があったことを教えてくれたのである。しかも城を守ったのは、饒速日の命の子孫の物部だったのである。
久米の直と物部連とは、敵味方である。この全滅に近い敗退をした物部が、日本書紀を通じて再起を企てたのである。別稿で述べたが物部に都合の悪いことは古事記に書かれていても、日本書紀では黙殺してあった。〕

上の〔魏志倭人伝が城があったことを教えてくれたのである・・・・・〕の部分は、皆さんが知って居られる歴史では、考えられないことだと思います。
 私も田村誠一氏と本の上でお付き合いして、10年以上になりますが、何度も物部氏のことは読みなおしていましたが、意味が良く分りませんでした。
 最近、少し、
①饒速日の命の子孫の物部だったのである。
②久米の直と物部連とは、敵味方である。
 ①②は、そうだろうなと思える様になってきました。
 饒速日の命は、誰だと説明できる人はおられないでしょう。物部連はどのような人達だということも説明出来る人はおられないでしょう。
 勿論、多くの方が本に書いておられますが、少し、横道へはいりますと、すべて、辻褄が合わなくなります。
 例えば、神武天皇を祀った橿原神宮は、久米町に在ります。此処には、神武天皇の東征の時に、付き添ってきた久米の人達の子孫が住んでおられたから町の名前が残っていると思います。
 神武天皇の御陵は、日本書紀に、御陵は畝傍山の北東麓にあり、古事記には、御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にありと書かれています。
 何故、記述が違うのか、調べた人がおられます。
  神武天皇陵の謎
 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm
よく調べておられます。
読んでください。

結論だけをかきますと、〔御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり〕と書いた古事記が正しいとしませんと、いくら調べても、解らないと思います。

日本書紀と古事記の記述が 何故が違うのか、どちらが正しいのかと調べて行きますと、物部氏は天皇の軍隊でなかったことが判ると思います。
では、どうして調べるのかと云いますと、これだけで、厖大なものになることがお解りになると思います。
物部という地名は、京都の綾部市に在ります。どうして、このような所に物部という地名があるのか。この町は厖大なお墓が発掘されています。どうして、このように沢山お墓があるのか、ご自分で調べてください。
 綾部市の資料館に行きますと、その資料はありますが、何故、厖大なお墓があるのか、教えて頂けないでしょう。

 奈良の神武天皇の御陵と綾部市を訪れてください。ついでに、大江町の南の山の鬼ヶ城
も訪れてください。

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