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2010.04.30

筑紫の日向のあわき原

このタイトルの場所は、イザナギの命が、亡くなられて、黄泉(ヨミ)の国に葬られたイザナミの命に会いに行かれて、汚いものを見たからと、ミソギをされた所である。
 筑紫の日向の謎解きが分れば場所の発見は至って容易だ。日向は先づ南面した所だ。原生林に覆われた地帯で、木が生えてない所には岩ばがある。
 原とは当時草原を考え易い。従ってあわきの形容詞は草あわき所だったことになる。国譲りの「イナサの小波浜」も海岸と云えば砂浜を連想するから、砂浜でない「否砂」を加えて、岩場の海岸を教えてくれた。現地は大和村小波浜でピッタリだった。
 あわき原は、現在の大山の三の沢で、岩が川の様になっている。ここに大河原、下河原の地名があり、ミソギをしたのは中河原だったことになる。
 この東は鬼女台(キメンタイ)で、ここの坂が黄泉(ヨミ)のひら坂であった。古事記の解説は間違っていたのである。鬼女台に続く山は三平山(ミヒラ)が、ひらの由来だ。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 33ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)


私からの一言----「筑紫の日向」という表現は、3ヶ所でてきます。このように、続けて書きますと、田村氏が言おうとしておられることが、よく解かります。 筑紫 日向を地名とするのは、間違いであることが分かります。今回は、「あわき原]を付け加え、一気に、「否砂」、ミソギの場所、鬼女台や三平山も説明されています。ご自分で確かめてください。

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2010.04.28

筑紫の日向の高千穂(4)

古事記では高千穂の地名は3ヶ所に出てくる。天孫降臨の時には、筑紫の日向の高千穂の「クシフルタケ」となっている。
 これは珍しい丘と考えたい。しかも古事記では韓国に面していて、「カササノミサキ」が正面にあると書かれている。
 「カササ」とは「笠砂」で、砂丘を指していると考えたい。実際には、北条砂丘が、近くに拡がっている。
 ヒコホホテミの命は、天孫すなはち、ニニギの命の子であるが、この方は高千穂の山の西葬ったとある。ここは別稿で述べたが、大山の西の、溝口町にある御墓原のことだ。
 神武天皇は高千穂の宮で東征を決意された。又東征の時に久米の活躍をたたえる歌が古事記に出てくる。
 この歌の中に伊勢の海が出てくるが、この伊勢は高千穂の西北にある地名だった。日向の国から東征前に伊勢の国に行った解説位矛盾する話はない。
 古事記に現われた3ヶ所の高千穂は全て、現在の西伯郡大栄町で相応しかった。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 32ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.26

筑紫の日向の高千穂(3)

大山・蒜山国立公園にはまだ至る所で、ブナの原生林や松林がある。大山・蒜山は火山だから火山灰に覆われ不毛の地である。
 富士山のすそ野と同じ植生を考えてもらえばよい。人の住める所が「ツクシ」すなはち木が生えてない、木尽しの所だった。
 「日向」とは「ヒムカ」で日あたりの良い所で、この様な地名は全国至る所に採用されている。
 なぜ筑紫の国の日向の国とこじつけたのか不思議でならない。
 日本書紀は偽書だから日向の国と書いて、人を惑わせるのが目的の書物だ。こんな本を相手にだまされたから、古代史は謎だらけになったのである。
 現在の高千穂は国土地理院の倉吉の、大栄町に示されている。
 大山は百面相の山だが、ここからは文字通り大山は高千穂に見える。大山はにはアルプスと同じ南壁と北壁がある。
 二氏の溝口から眺めた大山は富士山と全く同じで伯耆富士と呼ばれるにふさわしい。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 31ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.24

筑紫の日向の高千穂(2)

タイトルは「ツクシノ ヒムカノ タカチホ」と読むべきだった。語り部のヒダノアレはこの様に太安万侶に口述した筈だ。
 古事記では国の名前を示す時には、木の国、記の国と国と国の字をつけるのが一般である。
 「ツクシノ ヒムカノ タカチホ」とか「ツクシノ ヒムカノ アワキ原 」と何ヶ所が出て来るが、国がついていたことはなかった。
 地名の時は狭い部分を示すので、人に分かり易くするために、特徴を示す形容詞が、つけられていることも古事記を読む上で注意すべき点であった。
 国にはこの様な形容詞は無用である。国の名にはそのものに由来がある。例えば出雲の国はヒルゼンから眺めて雲が出て来る国だし伯耆の国は、中国の呉の太伯の年よりが居った国だった。
 上記の木の国は、三木の国で加古川の中流の社村だし、紀の国は紀伊国で別の国であった。木の国は倭人伝では鬼の国と書かれていたのである。「ムカヒ」を日向国となぜ解説して古代史を謎にしたのは誰の罪だったのか。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 30ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)


私より一言---なんだか、キツネにつままれたような話です。

「ヒダノアレはこの様に太安万侶に口述した筈だ」と、「筈だ」の言葉を使った割には、その後の記述は、断定したような書き方です。
 そう云われれば、「ツクシノ ヒムカノ タカチホ」を筑紫というところの日向国の高千穂というとなるのでしょうか。筑紫国のなかの日向国の中の高千穂となるのでしょうか。
 高千穂は地名ではなく、山の名前なのでしょうか。
 このように考えると、確かに、おかしいですね。

田村氏の云われる通りに、解釈して考えをすすめますと、謎がみな解けていきます。

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2010.04.22

崇神天皇の妹だった卑弥呼 筑紫の日向の高千穂(1)

本居宣長が「筑紫の日向の高千穂」を恐らく現地を見ないで、日向の国と誤認した。このために宮崎市には、「八紘一宇」の平和の塔がたてられる始末になって、朝日新聞の御用新聞が国民を戦争にかりたてたのである。
 古事記には日向の国とは書いてなかったのである。コノハナサクヤヒメが移り住んだのは日向の国だった。
 当時は秦の始皇帝の時代であり、全世界で文明が最も栄えた時代である。この時代に権力者は最良の立地条件の所を選択出来た時代だった。
 渡来民族であっても、それまでより環境が悪い所に都を定める位、納得行かない話があるだろうか。
 反対により立地条件が良い所があるのに、人が住まなかったとしたら、これも検討を要する問題だ。
 立地条件を考えないで地名のゴロ合わせに終始しては、古代史も邪馬台国も、何時までも謎につつまれたままになる。伊都国は都なのに なぜ糸島半島がふさわしいかを考えるべきだ。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 29ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.20

崇神天皇の妹だった卑弥呼(4)

崇神天皇は天照大神をまつるのに、自分の妹を丹波の皇大神社、内宮、豊受神社に派遣されたのである。
 卑弥呼とは「日の巫女」で天照大神の墓守りのことだった。
 古事記では崇神天皇が丹波のクガノミミノ御笠を殺したとかいてある。しかもこれは人の名ぞと語気を強めて書いてある。人畜にも劣る人間だと書いてある点を、国民は注意して読まれることだ。
 クガノミミノ御笠とは魏志倭人伝の率善中郎難升米のことだった。この点は、別稿に述べた通りである。
 率善中郎将とは魏の植民地司令官のことで、御笠とは姓氏録で高句麗人だった。
 丹波の大江山は二度も敵の基地になった。しかも、何れの場合も天照大神を利用したのである。
 崇神天皇は敵を敗退させると、伊勢の国に皇大神社を移したので、大江山は元伊勢と称されることになった。地名は歴史を教えてくれたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 28ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.18

崇神天皇の妹だった卑弥呼(3) 

中国が日本攻略を企てたのに、日本書紀が一言も触れていないから中国偏向の書ではないか。ニギハヤヒの登場をはなばなしく、記録しながら、、敗戦は全く触れてないことに、一般国民は注意を向けるべきだ。
 難升米は敗け戦さになったので、援軍を魏に求めたのである。3500キロ離れた魏の都からすぐ、政等が飛んできた。
 そして人質の卑弥呼を殺ししまったのである。崇神天皇の妹を殺したのに、日本書紀は一言も書いていない。
 朝日新聞は魏志倭人伝の解釈を敵国に聞いている。これ位おろかなことがあるだろうか。
 このあと卑弥呼の大きな塚を作ったとは、大きなウソである。戦争の最中に塚を作る余裕なんかある筈もない。
 大和の崇神天皇の御陵に並んで、この御陵の倍もの大きさの箸墓がある。これこそ卑弥呼の塚だろう。
 崇神天皇が妹のために築かれたのであり、崇神天皇御陵と、兄妹仲よく、手厚く葬られたと考えるべきではないか。


 田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 27ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.16

崇神天皇の妹だった卑弥呼(2)

魏志倭人伝では、190年頃卑弥呼を共立したので、倭国は大乱は収ったと書かれている。これは別稿で述べたが、敵難升米が、作り事をしたのである。
 卑弥呼が共立されたと称する時より17年前に新羅に使者を出していたのが、一つの理由である。
 190年頃は7代孝霊天皇の御世で、吉備上道国と下道国に二将軍を派遣して、和睦させたと古事記に書かれたので、卑弥呼の登場はウソだったのが、第二の理由であった。
 この崇神天皇の妹を人質にして、敵難升米は、崇神天皇勢の久米国の軍隊を攻撃したのである。こんな卑劣な行為があるだろうか。
 魏志倭人伝を注意して読まれることだ。武家のない時代に城を作り、ここに卑弥呼を囲ったのである。
 城は大江山の地図で鬼ヶ城であり、城を守ったのは物部氏だったことを地図が教えてくれている。
 人質を取り返されないために、城に閉じこめたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 26ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

私より一言----なんだか、小説の様ですが、何回も行きますと、次第に本当に思えてきます。あまり、難升米のことを書いた人は居られませんが、この人物はどうみても、中国からやってきた敵の武将だったと思われます。

大江山の鬼ヶ城に行ってください。今では、ただの山ですが、ここ鬼の交流博物館と云うのがあります。ここの地名は、河守です。 河で見張る役所があった所だと空想しています。見張るだけではなく、やはり、軍隊が居たのでしょう。それが、物部氏です。連想は、ニギハヤヒと進みます。

 展示されてあるものは、全国の鬼に関するものですが、残念ながら、歴史的なものを全く感じることができません。
 しかし、鬼は、中国人の支配していた頃のことが伝承として残っていると考えますと、鬼の交流博物館は貴重なものです。近くに元伊勢、内宮外宮があります。
今度の連休には、大江町の内宮外宮(皇大神社・豊受大神社)に足を向けてください。

参考に、
 皇大神社
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/motoisenaikuooe.html

 豊受大神社
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/motoisegekuooe.html

大江山の鬼伝説-- http://www.nohmask21.com/oni/densetsu01.html


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2010.04.14

崇神天皇の妹だった卑弥呼(1) 

崇神天皇が生れた年代が西暦150年でよかったとなれば、卑弥呼は、崇神天皇の兄妹のミマツヒメの命が該当することになる。
 ミマツヒメの命はオオビコの命の息女も同名異人だったから注意されることだ。
 別稿で卑弥呼が亡くなった248年には、百十才位になっていたから、難升米に殺され替玉が使われたと書いたがこれは間違いで、卑弥呼は248年には、96才位だった。
 朝鮮の三国史記新羅野173年に、卑弥呼が表敬の使者を出したと書かれていた。この時崇神天皇は23才だから、ツマツ姫は21才位だったろう。新羅に丹波の大江山から、親の使者を出してもおかしくない立場の女性ではないか。
 魏志倭人伝は正確に卑弥呼の行状を書いている。天照大神の墓守りの、巫女として、倭人伝を理解することだ。
 ひみこが一生結婚しないのも当然だし、男子を遠ざけ、辞を伝えないと、入室出来なかったのも常識である。神のお告げを、「鬼道を事とし、衆を惑わす」と悪口を書いた。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 25ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.12

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 天皇制 (2)

第3のアンネイ天皇は、スイゼイ天皇25年に21才で皇太子になっている。やはり52才で生れたことになる。
 そして即位したと書かれている。即位とは文字通り、即に位につくことだった。 天皇とて王子を生まれるのは、20才前後だった筈だ。この様になると前表の様に、神武天皇より、2代、3代、4代の天皇が先に亡くなられた場合に即位が不可能になる。
 日本書紀の年代をいくらいじってみても、2代、3代、4代や神功皇后の様に即位してないものを、即位したようなインチキな資料は歴史として使用するのはおかしい。
 古事記では系図だけを主に書いたのに、これにケチをつけたのもおかしい。しかし天皇制を作文した位は気付くべきではないか。
 古事記が正直なことを書いたので、日本書紀を信用あるものに思わせるために、天皇制までデッチあげたのである。
 なぜこんな不自然な点が全く追求されないで書かれた事象が取上げられ、これに作文の年代を確実なものとして加えたのだろうか。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 24ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.10

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 天皇制 (1)

一般のしきたりに従って神武天皇とか、崇神天皇と申上げて来た。しかし古事記には、この様なことは全く書かれてなかったのである。天王と天皇とは混同されないことだ。天王とは天照大神の天と、大王の王を組合わせたのである。ヒルゼン高原が天ノ原で、ここで中国の都のしきたり通り、北の高台が高天原すなはち御座所だった。
 天皇と古事記に書かれたのは、藤原とか、徳川と同じ使い方である。立太子も即位も古事記には書かれてない。
 ましてや1代、2代と番号もいれてなかった。天皇家の記録だったのである。
 これに対し日本書紀は整然と立太子から、即位まで作文したのである。天皇の名をつけたのも日本書紀である。
 神武天皇が在位76年でしかも、3月11日に127才でなくなられたと書いてある。
 2代のスイゼイ天皇は48才で即位したとなって、神武天皇が79才の時に生れたことになっている。昔はこんなことを先生に質問したら、頭から叱られたのである。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 23ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.08

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 神武天皇と東征(3)

話が本論から外れたが、日本書紀モニギハヤヒは天ツ神でないことを暴露したのである。
 ニギハヤヒが天ツ瑞を持って居る筈がないことを、紀は証明してくれたことになる。月読命の副葬品を発いた、私の考えには間違いはなかった。丹波の鬼でよかったのである。
 この人間が物部氏の先祖だったと日本書紀は書いている。古事記ではナガスネヒコの妹とニギハヤヒとの間に出来た子を物部の連の祖としている。
 紀の物部氏とはニギハヤヒが中国から連れて来た一族と解したら如何だろうか。
 ニギハヤヒは義兄弟のニギハヤヒも殺し、かって部下の捕虜(生口)にして、漢の皇帝に献上した。
 神武天皇は大和を平定したが役所は、高千穂にあった。役所が大和になったのは、古事記では景行天皇の御世で、240年頃は魏志倭人伝で、美作の久米国にあった。
 ニギハヤヒは
神武天皇が亡くなると、吉備下道国にゲリラを入れて、カサラギ王朝と久米国に攻撃をはじめたのである。
 
 
田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 22ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.06

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 神武天皇と東征(2)

神武天皇は、他国からニギハヤヒが侵略して来たから東征に出発したのである。ニギハヤヒが天ツ神でないことも、ましてや天ツ瑞を持ってないことも承知だった。
 ニギハヤヒが乗って来た磐船とは何であったろうか。
 話は飛ぶがスサノオの命はヒルゼンの高天原から追放された。スサノオの命はこの時、埴土で作った船で新羅に行ったと、日本書紀に書かれていた。磐船だったのである。
 最近秦の始皇帝の墓から6000人の、等身大の埴輪が出て来た。東大寺の大仏の鋳型も埴土で、磐船は最も作り易かったのである。
 予断ついでに朝鮮の三国史記の新羅のAD14年に、倭人が兵船百隻で襲来して来たと書かれている。これは年代的にもスサノオの命でよかった。
 スサノオの命は息子の五十猛、孫の大国主命と逃げて帰った。この時の上陸地点が、島根県の五十猛で隣りが大国町となっている。しかもすぐ海岸の島は韓島となって地名が歴史を教えてくれた。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 21ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.04

第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 神武天皇と東征(1)

古事記では高千穂の宮で「いかなる地にいませば、平けく天下の政をきこしめさむ。東に行かむと思う」と神武天皇は兄神、五瀬命と相談された。
 これは天下の政事を乱す、不届き者が居ることを意味しないか。日本書紀では「邑に君あり、村に長あり、各自境を作りて」と書かれている。
 稲作が普及しだすと食糧の生産性が数人分になるので、農業をやらないピンハネするボスが発生し出したことを、日本書紀が教えてくれたことになる。
 紀では塩土老が「東によき地あり、その中に天の磐船に乗りて、飛び降るものあり」と発言した。神武天皇が「厥の飛び降るといふ者はニギハヤヒといふか。何ぞゆきて都つくらざむ」と東征の理由を述べている。
 「厥 ソ」とあったのは中国の戦国時代の「楚」のことである。神武天皇がすぐ返答したことからも、有名な国だったのである。
 中国と日本は歴史上最も交通が、ひんぱんに行われていた時代だった。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 19ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.04.02

天孫降臨(2)

天照大神は天孫降臨のときに「豊葦原の水穂の国を治めよ」と詔書を思金の神に託されたのである。この意味が今まで分からなかった。
 天照大神は始めて稲作を大規模にヒルゼンに導入された。
 葦が繁った所は稲作に開墾出来る所である。ここを水田にし稲穂を作れと命令されたのである。
 何十年か経過して国内態勢が整った57年に漢の皇帝に稲作移民を要請に行った。漢に取っては願ったりの話しだから、「漢倭奴国王」の金印を授けられた。
 この金印を押した書類で、移民を募集すると信用を得られたことだろう。
 金印を積んだ船は難破して、志賀島に漂着したのである。しかし百万人を超える大量移民が日本海沿岸に導入された。
 57年は神武天皇の御世だから奴国王とは神武天皇だった。
 この時の役所は高千穂にあったのである。満州国建国以上の大事業が神武天皇の御世に東征と並行して行われたことになる。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 19ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

私から一言---〔百万人を超える大量移民が日本海沿岸に導入された〕の証拠は、全国に神武天皇を祀る神社が一杯あることです。
 その神社の分布が問題です。
 神武天皇を祭った神社 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
熊本県がどうして多いのか、説明出来る歴史家は居られないと思います。大量移民がやって来た所です。しかし、熊本がこれだけ多いと理由にはなりません。
 神武東征は九州から奈良まで行われたことになっています。しかし、記紀に書かれてあることは、実際にあったことではなくて、九州にいた勢力が、奈良に移動したことを表しているだけだと説明しておられる歴史家が大半です。
 それでも、構いませんが、それでは、〔百万人を超える大量移民が日本海沿岸に導入された〕などの仮説は、荒唐無稽なことだという意見を吐くことができません。

 神武天皇は、高千穂(宮崎ではありません)。伯耆国にありました 日向(境港)から、九州の吉野ヶ里を攻撃し、その後、広島、岡山で時間を費やし、和歌山(いちぶは、伊勢を回る部隊もあった様)を経由して、奈良を攻略、柏原に宮殿をつくりました。
吉野ヶ里遺跡は、発掘された時は、凄い人数のひとが、訪れ、邪馬台国だと云われていましたが、次第に熱が冷めてきたのと、研究が進んできますと、色々の事が判ってきました。例えば、発掘された2000にも及ぶ甕棺から出土した骨は、大陸からやって来た人の骨と云わなければならないのに、〔詳細は、今後の研究に待ちたい〕と1991年発行の本に書いてありますが、もう、それからでも20年も経ちますから、ハッキリと分かっている筈です。
 吉野ヶ里遺跡では、卑弥呼が貰ったと云う魏の国の鏡は、見つかっていないと思います。それどころか、有名な環濠集落は、他の地域の環濠集落も、弥生前期のものであることが次第に判って来ています。
 環濠集落 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page230.htmlを参考にしてください。
環濠を作ったと云うことは、襲われるから、防御したことになります。何故、襲われるのかと云いますと、大切なものが、一杯あったからだと思います。大切なものとは、〔絹〕です。
 吉野ヶ里遺跡の住民は、絹の着物を着ていたことが、甕棺から出土しましたから判っています。とうじは、絹の値段と金の値段は同じくらいであったと考えています。

高千穂のことは、
No98 ニニギ命が高天原から、高千穂に降臨
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-11-30
 忘れましたが、どうして、高千穂が宮崎県ではなくて、鳥取県なのかを説明するだけで、一年位かかったような気がしています。

新しい日本の歴史を http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/を見て頂きまして、左の下に検索の場所がありますから、そこに「高千穂」を入力して頂きますと、本文に高千穂が含まれる文章が全て出ます。
その文章を書くために、いろいろのことを調べましたから、厖大な量になると思います。

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