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2010.05.31

天王、唐王、白王(2)

京都府天田郡夜久野町が月読命の移り住んだ所だった。天照大神が余生を送った大江山のある大江町とは隣り同志であった。
 天照大神は別稿で中国古代の呉の太伯の子孫だと述べた。今では不敬罪に問われることもないだろう。福知山市の天照(現地図にあり) に住まわれ、御座所は天座にあった。ここに天照大神ゆかりの地名が多いことは、既に述べた通りである。
 更に補足すれば、伯耆とは太伯の老人のことではないか。安来市に流れる川は、伯太と太伯を反対にしただけである。
 呉市の北に天孫族ゆかりの福浦と天応町がある。恐らく神武東征の時の安芸のタケリノ宮はここにあった筈と考えている。呉市の由来は中国古代の国名だったのである。
 イザナギの命は、三貴子にバトンを渡して淡海(近江)の多賀に移られた。淡路説があるが淡路は古代の地名のつけ方からは納得出来ない。淡路すなはち淡い路では何のことか人に分からせられないが、淡海なら淡水の海で誰にでも通用する。ビワ湖が該当する。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 48ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

私から一言----「古代の地名のつけ方からは納得出来ない」は、解り易いです。

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2010.05.29

天王、唐王、白王(1)

ヒルゼン高原を設けた人達が天孫族であった。この集団は江南からやって来たので貴族階級が天ッ神と呼ばれ、天王の地名の所に住んだのである。
 当初ヒルゼンには、イザナギ、イザナミの命が来られ、後程、天照大神、月読命、スサノオの命が来られた。別稿で述べたが、三人三様で天照大神は揚子江の流域から、月読命は天山山脈からシルクロードを通ってこられたのである。
 スサノオの命の住居は最初は、高麗村唐王にあった。ヒルゼンを追われて、一旦新羅に兵船百余隻で渡った。しかし子の五十猛と沢山の樹の種子を持って引揚げて来た。 (紀)
 この時の上陸地点が島根県温泉津町(ユノツ)の東である。韓島、五十猛町、大国町、が隣り同志で大国主命はスサノオの命の子孫でこれが古代の地名のつけ方のサンプルだ。
 地名をこの様にして眺めると、地名は歴史を教えてくれる。
 月読命は月氏族で、イザナギの命から、夜食之国を治める様に云われた。(別稿)


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 47ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.05.27

混成民族(4)

魏志倭人伝で投馬国と呼ばれた吉備下道国にニギハヤヒはゲリラを入れた。しかし190年頃吉備の上道国と下道国は和睦した。
 従って240年に投馬国5万戸の人口は、一部のみがゲリラで何所から来たかは分からない。ニギハヤヒは楚の出身と考えられるので楚人だった高さんが多い。
 シルクロードと日本とは、朝鮮半島経由で、なしに直結してしかも日本が最も環境が優れていたのである。
 従って日本民族は混成民族で、難民がやってきたのではなかった。むしろ進取の気性に富んだ人達の混成だった。
 牙民坐句説を唱える一派がある。一握りの人間で全人口がなぐく様な国民ではなかったのである。
 古墳からの出土品を、中国を含めた規模で検討し直すべきである。九州や大和から、全国に文化が拡がったと考えるのは、おこがましい。この両地域は余所より文化が遅れて発達した時代があった。奈良の文化の下地は、3世紀に全国各地に出来ていたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 46ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.05.24

混成民族(3)

天孫族は日本海ルートから渡来した。日本海の川の流域と山間盆地に入植した。地名に福、神、宮を残したのである。皇族に相当する人達は天のつく地名で存在を教えてくれた。
 月読命はシルクロードを超えて中国に来た月氏族だろう。仏教くさい地名や象山の地名、仏ヶ仙等賀ある。更にこの周辺の山は〔セン〕又は〔仙〕である。
 ヒルゼンにはシルクロードの天山山脈の、クッチヤの同じ踊りが、無形文化財として残った。宮廷音楽もクッチヤから伝来した。月読命が伝えたとかんがえられるではないか。
 スサノオの命は天照大神にいたずらが過ぎて、神の座から降ろされた。安来の大呂の製鉄所や石見銀山を手中に入れて、各地に鍛冶屋、金屋の集落を設けた。物々交換の米が余裕を生じてからは朝鮮からも鉄を輸入した。
 スサノオの命は高麗人だったが移民を朝鮮からは導入しなかった。従って後日朝鮮から来た人は帰化人とよばれたのである。
 スサノオの命の一族は各地の、素が須佐の地名の所に住み国ツ神と云われた。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 45ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.05.21

混成民族(2)

イザナギの命は恐らく白狄人で中国の中山王国から亡命して来たことだろう。イザナギの命は近江の多賀にヒルゼンから移った。
 多賀の地名は仙台市の北の多賀城市と茨城県の多賀郡に襲名された。多賀郡と福島県の相馬郡は一致する地名が多いことは別稿で述べた。
 白狄人は狩猟民族だが隠岐にも相馬郡にも狩猟民族にふさわしい祭が残っている。
 中山王国には銅鐸があったが、これも近江から周辺に普及して行ったのである。
 イザナギの命は天照大神と月読命とスサノオの命にバトンタッチされた。
 天照大神は中国の文献に、日本に呉の太伯の子孫を名のる人があると書かれた人だった各地に太伯らしい地名を残したのである。天照大神は万を超える人を連れて、ヒルゼンにやって来た。稲作を日本に最初に導入したのである。
この計画移民は華南から稲作を持ってやって来たのである。190年の疫病の大流行を考えれば移住民は百万を超えかろう。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 44ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

私から一言—「多賀の地名は仙台市の北の多賀城市と茨城県の多賀郡に襲名された。多賀郡と福島県の相馬郡は一致する地名が多い」の様なことを云う人は一杯ですが、

「白狄人は狩猟民族だが隠岐にも相馬郡にも狩猟民族にふさわしい祭が残っている。
 中山王国には銅鐸があったが、これも近江から周辺に普及して行ったのである。」を加えますと、初めの部分は生きてきます。
 各地に残っている祭は、全国的に見直す必要があるようです。

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2010.05.19

混成民族(1)

家系が続いて居る限り先祖の誕生年は、大略であるが推定出来ることになった。前稿で神武天皇の誕生年代はBC48年と推定した。この時代は一夫多妻だから、平均生れ年は、22才より20才位に引き下げ方が良かったかも知れない。 
 この時は神武天皇の誕生年はBC28年になる。結論を申せばBC38年プラス・マイナス10年の確度である。 
 天照大神の誕生年はBC143年プラス・マイナス15年になる。
 前漢が朝鮮の北部を占領して、4郡を置いたのは、BC108年だった。前漢が西域でも20万の屯田兵を派遣して、勢力を伸ばした時代である。
 日本にも多数の渡来者があったのは当然である。環境がよいことや交通が西域や高句麗より便利なことから渡来者が少なかったとは云えない筈だ。
 ヒルゼンに如何に計画的に沢山の人を導入したかは別稿に述べた。恐らく万もはるかに超える人が、チベットと云われる所に来た。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 43ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.17

日本海ルート(6)

福島、郡山にはお江戸を通らないと文化が伝わらなかったと考えるの単細胞である。
 真野川の外に、いわき市の夏井川と日立市の久慈川のルートも天孫族が通った臭いが多い。これも地域開発で旧地名がなくなったために頭をいためている。
 相馬の福浦の周辺に、日立木、大甕、石神児島の村の名がある。現在の日立港はもと久慈港だったが古代には福浦ではなかったのか。
 久慈港の周辺に、日立、大甕、石神、鹿島と全く同一の地名がある。地名パターンで考えてこそ、人と文化の流れが分かる。
 親潮に乗ってここまで日本海回りで、中国の会稽から来ても、三国志の呉の国から、蜀の国に行くより楽だったし近かかった。
 境港から磐城の海岸までには、能登半島の海金剛の近くに福浦があり、重要なところだった。
 主な河川のデルタには、例外なしに天孫族特有の地名パターンが残されていた。
 壮大な集団移民しかも、一糸乱れぬ計画性は今まで気付かなかったことこそ、不思議でならないのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 42ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.15

日本海ルート(5)

磐城の国現在の福島県に相馬追いで有名な所がある。ここに最近までの地図には福浦の地名があった。 
 ここから真野川を遡って福島盆地に出るルートがあったのである。真野川は万葉集で歌にまで読まれていた。 
 この周辺には天孫族のパチーンの地名が豊富にあった。ただ残念ながら開発が進んだために古い地名が少なくて新しい地名が多いためと、古い地名がどんどん消されて行ったために、地図を歩くのに苦労させられた。
 古代にはここに日本海から津軽海峡を通って親潮に乗って下る容易なルートがあったのである。
 相馬の一番有名なやぶさめなどの行事は、思いもよらない隠岐島の最大の総社まつりとと同じだった。距離が津軽海峡を越えて、1500キロ離れていても、揚子江流域で鍛えられた海洋??民族には、隣り位の感覚だったのである。
 しかも隠岐のやぶさめ等の行事は狩猟民族の中山王国の亡命者が伝えたものだろう。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 41ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.13

日本海ルート(4)

日本海ルートは津軽海峡を越えて、親潮に乗って南下し、常陸の国まで達していた。
 参考に国土地理院の米沢(米がつく)を眺めて欲しい。ここに天王、天王かわ、天狗山、愛宕山から鬼面川まであった。
 これだけの云はば特殊な地名が、ソックリヒルゼンにあったのである。
 地名は最初にこれを必要とした人達がつけたので、アイヌの先住民が居っても差し支えない。
 ヒルゼンは岡山県のチベットで今でも簡単には行けない所だ。しかしここに2000年昔
があった。宮廷音楽は天山山脈のクッチャから、6000キロの旅をして日本に伝わった。
 ヒルゼンにはクッチャの踊が無形文化財として毎年8月15日に踊られている。
 東北地方も京都や奈良から遠いチベット扱いをして来たのではないか。しかしここにも大和より高い文化があってよかったのである。
 ここには古代の文化は日本海ルートで伝わって行ったと考えられる。地名でルートを探し出すことだ。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 40ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)


私から一言— 私の家の近くにも、天王という地名があります。5月9日に行ってきました。大阪の一番北にある集落です。能勢町と云います。大阪と云うよりは、京都の方が、交流のあった所ではないかと思っています。
 天王小学校の前に、高皇産霊神社があり、この神社に書いてあった由緒には、神社の祭神は、大梵天王だったから、村の名前も、ここから付いたと書いてありますが、間違いではないかと思っています。
 何故かと云いますと、理由は良く解りません。
この集落から裏山を見上げますと、頂上に白い建物が見えます。これは、建設省の雨量観測所です。その横に新しい建造物ですが、高皇産霊神社がありました。
 しかし、この神社は、大阪府神社庁のホームページには、深山神社(みやまじんじゃ)と書いてあった神社です。その証拠は、雨量観測所の入口には、門があり、車は入れないことになっていますが、雨量観測所まで、急こう配の坂道を登った頂上に神社があります。門の所には、深山神社と書いてありますが、村の方にお聞きしたところでは、「しんせんじんじゃ」と云われました。 どうやら、この山の名前が「深山しんせん」と云うらしいのに、大阪府神社庁が勝手に、「みやまじんじゃ」と書いているのでしょう。
高皇産霊神社であれば、当然、祭神は高皇産霊神と思われますが、大梵天王とかいてありました。
 この辺りには、複雑な事情があるのだと思われます。
高皇産霊神の名前は、日本書紀に書かれている名前です。古事記では、高御産巣日神です。この地域では、何時の頃からか判りませんが、藤原氏の支配下になっていたのだと推理しています。
今、調べている最中です。


参考に、
早春たおやか深山高原
http://www5a.biglobe.ne.jp/~unsui/html/miyama4.html

春まだ浅き深山点描
http://www5a.biglobe.ne.jp/~unsui/html/miyama2.html

深山神社には神殿はありません、写真は次のアドレスにあります。
http://www.jinjacho-osaka.net/m36_10_nose_miyama.html

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2010.05.11

日本海ルート(3)

日本海ルート上に、福と神の付く補給基地があったと申上げた。このいくつかについて証明を細くしておきたい。
 福岡の西の糸島半島に福浦がある。ここは邪馬台国九州説の、伊都国があると称した所だから、読者はご存知の筈である。
 ここに神在、宮地岳2ヶ所、城山、福井、道目木、福永、御床と、天孫族のパターンが地図に残されている。
 遠賀川の川口の港は神湊である。ここは神武東征の時に岡田宮があったことは、別稿で述べた。天孫族とかかわりの程度は読者自ら地図を眺めて欲しい。何十かの地名が天孫族ゆかりのものだ。
 神 の沖合60キロに、海の正倉院、沖ノ島がある。糸島半島からここも目標にして、来ればよい。ここで水の補給と海路の安全祈願を行ったのである。
 下関には福浦と福江がある。福江にはアヤラギ古墳があり、米が貯蔵されていたことまで出土品から明らかになった。天孫族の食糧補給基地だったことが証明されたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 39ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.09

日本海ルート(2)

天孫民族は、現在の常識では想像も及ばない、厖大な計画の下に日本海沿岸にやって来た。これは、福浦の地名一つだけ研究するだけでも、一端がしのばれる。
 福浦の地名は青森の下北半島まで、適当な間隔で分布している。更に瀬戸内海も、神武東征に役立つ様に配置されていた。下関の彦島には、潮待ちのための福浦がある。これから東に進めば、
 上関―-福浦、呉西北—福浦、呉東南--福浦、笠岡神島—福浦、倉敷—福江、児島半島—福浦、赤穂—福浦

この外にも、四国の宇和島等にも福浦がある大切なことはこの福浦等の背後地には、福や神のつく地名が必ずあることだ。
 福浦の近くには比較的低い三角形の城山が見つかる。昼は三角形だから目標になる。夜間はのろしをたいて灯台の役目をした筈だ。
 簡単に人が往復出来るために、低い山が選ばれたと考えたい。
 偶然にこの様な福浦の地名がほぼ等間隔に分布したと考えられるだろうか。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 38ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

私から一言—福浦は、現在では、笠岡神島—福浦のように、海岸に無い所もあります。
多くは、海岸とか湾の奥にあります。この様な所へ、海から湾に入っていきますと、三角形の城山がある筈です。
 三角形の城山は、福浦でなくてもあります。又、その麓には、神社の鳥居がみえることもあります。
 この様に考えますと、鳥居は、今では神域にはいる入り口と思われていますが、海から眺めた時に、ここに神社がありますよという目印ではなかったかと考えています。

 田村氏が云われました〔夜間はのろしをたいて灯台の役目をした筈だ〕は、可能性は高いです。三角形の城山に登って、少し、スコップで掘って見てください。2000年も前の事ですから、どれほど掘ると見付けることが出来るでしょうか。

日本海に沿って、道路を走りますと、三角形の城山を一杯みることができますし、〔城山〕と名前が付いているものもあると思います。

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2010.05.08

日本海ルート(1)

魏志倭人伝では、奴国に二万戸、邪馬台国に七万戸があったと教えてくれた。240年にこの二国だけでも、二百万人の位の人口である。
 この人達は中国から日本海経由でやって来た。船は中国から日本海経由でやって来た。船は中国人に取って下駄である。三国志では赤壁の戦いで、魏は五十万、呉は八万の水軍が揚子江で戦ったのである。
 百年間に人口が三倍に増えたとしても、七十万人の人は中国から渡来したのである。
 漢の時代に西域には二十万の屯田兵を、4000キロ奥地に動員していた。この時に途中の砂漠のオアシスが生命線だ。
 中国から日本海に来るにも、水と食糧の補給が必要である。云わば海のオアシスだ。
 興味ある人は、国土地理院の地図を眺めて欲しい。目だたない所に福浦、福江、宮浦、神浦が点在している。
 天草--福浦、五島列島―--福江、糸島半島---福浦、遠賀川---神湊, 関門海峡彦島――-福浦、
下関---福江、浜田---福浦、温泉津---福浦、境港---福浦、隠岐島後---福浦、能登---福浦

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 37ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.06

会稽・東冶の東にあるべし(2)

魏志倭人伝には倭国は会稽・東冶の東にあるべしと書いてくれた。ここから真東へ行けば、1キロの誤差もなしに、九州で一番高い、三角形の宮浦岳(宮がつく)がある屋久島に行きあたる。
 200キロ沖からでも目標になる島で、この島は灯台の役目である。日本海に行くにも伊予海峡を通って瀬戸内海に進むにも大切な目標である。
 投馬国5万戸の人は関門海峡を通らずに伊予海峡を通過した筈だ。
 真東に進む技術は持ち合わせていた。シルクロードの4000キロの奥地に砂漠を越えて行くよりは楽である。しかも、会稽・東冶は北緯30度ではないか。屋久島も、もちろん、北緯30度である。
 北緯30度とは、北極星と水平をにらんだ仰角が30度のことである。道具がなくても30度は最も容易に計れた。
 中国から日本には偏西風と黒潮で容易に来られた。しかし中国に行くには遣唐使が苦労させられたルートだった。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 36ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

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2010.05.04

会稽・東冶の東にあるべし(1)

魏志倭人伝では郡より倭国に至るにはと、親切に断り書までして、道すじを教えてくれたのである。郡とは当時魏が占領していた朝鮮の楽浪、帯方郡のことである。 
 ここに魏が東夷を攻略する基地があった。しかし中国から倭国に来るには、このルート位難コースはなかったのである。
 当時の中国と日本が一枚に載せてある地図を眺めて欲しい。魏と孔明が指揮する、呉,蜀の連合軍が、208年に赤壁の戦いをやった。
 この時北軍の魏が50万人、連合軍の南軍は8万の水軍を準備したのである。蜀の国は揚子江の河口から25000キロ上流にあった。
 日本の大東亜戦争でこの地域に陸軍を派遣したのである。河口から2600キロの重慶まで戦前に2000トンの船が通っていた。
 これ以外にこの流域2700キロの水路にやはり2000トンの船が運航されていたのである。要するに中国は多島国だった。
 地図では揚子江の河口から境港は1200キロに過ぎない。朝鮮経由九州でも海上だけで1000キロ、陸路は更に1500キロである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 35ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

私からの一言----田村氏は〔当時の中国と日本が一枚に載せてある地図を眺めて欲しい。〕と書いておられます。是非、実行して頂きますと、何を云おうとしておられるかが、直ぐに判ります。

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2010.05.02

崇神天皇の妹だった卑弥呼  黄泉の国

イザナギの命の妻のイザナミの神は、出雲と伯岐の国の境の比婆の山に葬ったとある。
 この場所は安来市の南2キロに比婆山神社が国土地理院の地図にあった。
 イザナギの命は黄泉の国に、亡くなられイザナミの命(古事記ではわざわざ、神と命を使い分けている)を訪ねて行かれる。
 この黄泉国は、鳥取県西伯郡溝口町の、御墓原だったのである。鬼女台と中河原の延長線上にあたっている。
 イザナギ、イザナミの命は恐らく別稿で述べたが、中国の中山王国から来られただろう。この国の風葬の習慣に基いて一旦は風葬された。この場所が御墓原だったのである。
 改めて、洗骨して比婆山神地に祭ったことになる。日本の神社の第一号はあり場所を古事記が教えてくれたことになる。
 イザナギの命はウジのたかった、亡きがらを見て逃げ帰った。この時鬼に追いかけられた。御墓原の東隣りに鬼住山がある。副葬品を盗む人が鬼であった。天照大神を祭った、大江山の元伊勢の南の山も鬼ヶ城である。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 34ページ
発行日 昭和56年
7月3日(1981)

参考 比婆山神社
http://websakigake.sakura.ne.jp/05-150.html


私からの一言---前回の4回に出てきた「筑紫の日向の高千穂」の読み間違いのために、日本史が無茶苦茶になりました。今回も同じことです。「黄泉の国」とは現在では、死後の世界になっていますが、紀元前に、そのような概念があったのでしょうか。 そのころは、伝染病ですと、殺されたのでしょうか。伝染することは知っていたでしょう。当然隔離をしました。キリスト教の世界は調べていませんが、手がどんどん、腐って行ったり、今と同じように筋肉が委縮していく病気は有ったでしょう。 そのようなときには、隔離所が作られて、そこで過ごしたと思われます。そのために、その周りには、お墓がいっぱいあったはずですが、大きな古墳などないために、証拠はありませんが、地名が残ったと思われます。 ここは特別ですから、[御]がついて御墓原という地名です。

今、宮崎で口蹄疫の動物をどんどん、殺しています。専門家が決めたそうですが、間違っています。
日本の道(659) 政治(322)  国の制度(1)口蹄疫


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