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2010.06.30

中山王国と銅たく

話は又中山王国文物展にもどる。ここには銅鐘が出品されていた。大きいものから、小さいのまで、14ヶの銅鐘がぶらさげられていた。
 見たとたんに、日本の銅たくを思出したのである。今まで中国には銅たくのお手本がないとされて来た。
 しかしやはり日本の独創品ではなかったのである。お手本は地下に2300年間、寝むり続けてやっと、今度は日本人の目を覚ましてくれたことになる。
 銅たくはやはり楽器だったのである。しかし狩猟民族、焼畑農業の人達の楽器だった。
 筑摩書房から出版された最新の、日本書紀古代史39頁に銅たくの分布図が示してある。これを眺めると銅たくは、イザナギの命が、近江から周辺に普及させたと考えたいのである。
 イザナギの命が白王で、近江八幡市の多賀町に住んだことは明らかであった。しかも銅たくは内陸から、川すじを通って拡がった。
 稲作は天照大神の命令で日本海沿岸から、内陸に浸透して田植祭になって残った。この最古のものがヒルゼンに伝えられていた。


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田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 61ぺージ


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2010.06.28

銅鏡100枚

魏志倭人伝で239年に沢山の宣ぶ用物資を難升米は魏から運んで来た。この中に銅鏡100枚が含まれて居った。
 この沢山の銅鏡が九州で一枚も出土しなかったのである。
 沢山の学者がちえをしぼって、その理由を探し求めたのである。
 難升米は魏の都に半年も居った。この間に日本に派遣する軍隊を港まで運ぶ道路も構築した。同時に鏡も特性したのである。
 この鏡も特製したのである。
この鏡は大江山の鬼ヶ城に運ばれた。万一この鏡が出土すれば、魏の軍使等20人が逃げ帰るまでに渡されたことになり、魏の一派通じた人だ。
 残りの鏡は崇神勢に没収され、こんなゲンの悪い鏡は溶かされてしまった筈だ。
 239年鉛丹があった。これは崇神天皇御陵の陪塚から41kgも出土した。
 崇神天皇が難升米を殺して、魏からの、鉛丹をソックリ没収した裏付はここにもあったのである。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 59ぺージ

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2010.06.25

烏ヶ山、烏ヶ岳、護摩壇山 (4)

神子浜とは文字通り神の子、神武天皇が上陸した地点にふさわしい地名だ。ここから虎ヶ峰までの間には、熊野川の地名が二ヶ所ある。
 日高川の流域にも熊野川の地名があるので古事記の記録とは一致したことになり、紀州の南まで遠回りする筈もなかった。
 いくら古代でも、未踏の地を進軍する様な無謀なことはしなかった。福井などの地名が、食糧生産してくれる味方が居ったことを、示している。
 古事記では、八咫烏が天より使わされたと書かれている。これは護摩壇山が、目標として現れたことを教えてくれた。
 ヒルゼンの烏ヶ山と護摩壇山は同じ山容だったので、烏とは護摩壇山の旧名が烏ヶ城か何か似た名前を思出さしてくれる。
 神武天皇は遠賀川上流の岡田に一年居った。この地図は別稿で示したが、周辺には天孫族ゆかりの地名かせあまりにも多いのに驚かされる。しかも岡田の南は雁
ヶ城で、烏の親類の名前が使用されていた。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 58ぺージ

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2010.06.23

烏ヶ山、烏ヶ岳、護摩壇山 (3)

烏ヶ山、烏ヶ岳、護摩壇山 (3)
 高野・竜神スカイラインバスを、竜神温泉で田辺行のバスに乗りかえた。バスは宮代、福井を過ぎて、日高川から離れて、虎ヶ峰の峠を越えた。
 バスの窓から突然護摩壇山が、これも三角形のいただきをのぞかせたのである。烏ヶ山と全く同じ道しるべの役をしてくれたのである。
 日高川に沿って海岸に出られる。海岸の地名は御坊と〔御〕の字がつく。古事記にでてくる神々には、縁のある地名が組合わせてある。
 この中に日高の文字が含まれるのは、この日高の国の出身だったのである。
 日高川に沿って海岸に出るコースは長い。川すじが長いことは、流れが緩やかで、川原があり、古代の道だった。
 しかし、バスは近道をして、虎ヶ峰と、古代人が天孫族が、採用した動物の名の峠を越えた。
 神武天皇も日高川を遡れば、道を間違う筈がなかったのに、田辺の神子浜(現存)と港でない所から進軍したことになる。ここからはいやでも山脈を越える必要があった。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 57ージ


私から一言---田村誠一氏が、高野・竜神スカイラインバスに乗られて、心を浮き浮きさせながら、車窓を眺めておられる姿が想像できます。
バスに乗って遊びに行かれましたら、居眠り等して居れないことが分かります。私も昔はバスに乗りますと、車酔いするために、薬を飲みます。そのために、直ぐに眠り、到着したら見学して、又眠るという旅を繰り返しました。 どのような旅の思い出が残るかと云いますと、起きている時だけの点の連続の旅です。
 最近は、何処の地名も気になります。最近の地名は、ローマ字で書いてくれますから、交差点やバス停ごとに、地名を教えてくれます。
 眠って等おれません。 最近では、下手な俳句を始めましたから、次から次に現れる緑の山を見ているだけで、遠くからでも、木の種類や新緑などが、次々に語りかけてくれます。
 バスに乗っていても、神武天皇が苦労して進軍をした世界に戻ることができるのです。

お前は馬鹿だな。神武天皇なんていなかったのだよ。全部、古事記を書いた人の作り話だよと云われる学者がおられますが、その方は部屋の中で考えることが楽しいのでしょうね。

地方へ行く高速料無料化が、実験ではありますが、6月28日から始ります。
 高速で、和歌山県まで走り、高野・竜神スカイラインバスで竜神まで行きたいですが、最近は、1時間ぐらいしか運転が出来なくなりました。

このような楽しい旅行は、若い間しかできません。
きっと、田村誠一氏に感謝することになると思います。

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2010.06.20

烏ヶ山、烏ヶ岳、護摩壇山 (2)

神武天皇は東征で、生駒の戦いに破れて南から吉野に攻め入った。解説書では、紀州の南の新宮から熊野川を北上した様に書いている。
 この川すじは峡谷で軍を進めることは、至難である。マスカーで二回通って、こりごりした難コースだった。
 地図を眺めている内に、御坊で海に注ぐ日高川が、流域に天孫族のゆかりの地名が多いことを発見した。熊野川の地名も残っていた。
 日高川の上流に竜神を経て田辺マデ、スカイラインをバスで4時間の旅に出た。護摩壇山は1370米もある高峰である。平維盛が、源平の戦に破れて、ここまで落ちのびて、護摩をたいて、運命を占ったのが地名の起こりだ。
占いの結果は凶だったので、再起をあきらめ、百姓となって身をひそめた。
従って護摩壇山の地名は新しいので、それまでは別の名だったことになる。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 56ージ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.17

烏ヶ山、烏ヶ岳、護摩壇山 (1)

烏ヶ山は大山連峰の東に連なる、1386米の高山である。この山も形状が三角形である。
 大山は海岸から100キロ離れても、1710米もある三角形の山だから、間違うことはない。
 海岸まで来たら、烏ヶ山を目標にすればよい。この山の麓で三角形の山を探せば、ヒルゼンの城山である。
 大量の集団移民しは地図がなくても、間違いなしにヒルゼンまで来られた。
 烏ヶ岳も535米の独立した三角形の山で天照大神が余生を送られた大江山の南にある。
 大江山の近くにも城山があったと書いた。この城山は427米で、烏ヶ岳より低い。
 ヒルゼンの烏ヶ岳と城山の関係と全く同じだったのである。
 遠方からの目標は烏だったのである。大江山の城山の麓に皇大神社、内宮、豊受神社が現存している。
 大江山とヒルゼンは別項でも述べたが、地名は無縁の人がつけたとは思えないのである。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 55ージ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.14

天狗山と城山(3)

城山は日本に武家が発生する以前にあった。城がつくから、謎だったし、謎は解けたのである。守備のための山は要害山となっている。倉吉、米子、須賀(スサノオの命の第二の根拠地) 等に現存している。
 城山とコンビで城山より高い見透しのきく三角形の山が天狗山である。ヒルゼンや米沢だけではない。大江山でも、須賀でも要所には現存している。
 天狗は中国で流星のことだ。北極星の観測所であり、従って三角測量の三角点だった。別稿で魏志倭人伝の測量は正確だったと述べたがこの謎も解けた。
 シルクロードの砂漠を安全に方向を間違わないで大軍を動かす技術も日本にあったことになる。
 天狗とは顔に六分儀のような測量機械をあてがった姿を表現したのだろう。この様な技術は全て失われてしまったのである。
  崇神天皇の御代に情報網が最も完備して居ったから、二将軍は会津まで別のルートを通って行ったが会えたのである。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 54ージ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.11

天狗山と城山(2)

二人の将軍は米沢にまで、天孫族が配備されていたから、各地で歓迎されながら、古代に旅行できたのである。崇神天皇が、丹波の、高句麗からやって来た、クガミミノ御笠(倭人伝の難升米)を退治してから、真の独立国になったので、安心して全国の天孫族を視察して回ることが出来た。
 しかし一人の将軍は北陸道から越の国を経て会津に来た。今一人は東海道、常磐道から北上して、よくも真知子の様な、行き違いにならなかったことだ。
  当時はしるくろーどにはのろし台があった。この役目をしたのが、別稿で述べた、陸の城山だったのである。これは人が常時交替でつめるために低い三角形の山だったのである。これは常時交替でつめるために低い三角形の山だった。のろしと伝令網が全国規模であったのである。
 150米位の低い山だから地名がないことがある。しかしすでに三十ヶ所程見付かった。
 福浦の地名の所にも城山がある。これは灯台を兼ねていた。この中で重要なのが、福岡の沖ノ島(海の正倉院) だったのである。中国から沖ノ島を左に見て航海すればよかった。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 53ージ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.08

天狗山と城山(1)

崇神天皇の御代にオオビコの命を北海道から越前、越後を含めた越の国に派遣された。又タケヌナカワワケを東海道から東北に派遣され、両将軍は相津で一緒になったと古事記に書かれている。
 相津とは会津のことである。読者は古代に全く別のルートを選んだ二人の将軍が、うまく出合えたことを如何にお考えになるだろうか。
 国土地理院の米沢(米子と同じく米がつくの地図を眺めた。ここに陸の孤島ヒルゼンと同と同一の天王、天王川、天狗山、愛宕山、鬼面川(ヒルゼンは鬼女台)を発見した。
 福島の地図にも天王の地名があり、ヒルゼンと同じく城山がある。
 郡山や若松を含めて、神や宮のつく地名が非常に多い。まさしく天孫族の入植した所だった。天孫族の地名のパターンである。
 天照大神が「葦原の中ツ国」をおさめよとの命令は全国規模で実施された証拠である。稲作は、崇神天皇の御世には会津でも普及していたのである。二将軍は各地に天孫族が居ったから巡幸出来たのである。

 
田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 52ージ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.06

天王、唐王、白王(5)

紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけてとらいした、貴族階級は、漢字が書け、中国語も分かり、しかも記憶方法もあったのである。
 日本全土に渡来者が少くて先住民が、北方系や騎馬民族であったら、どうして、全国的に漢字導入と同時に地名がつけられただろうか。北海道の地名と較べて考えることだ。
 まして天孫族のパターンの地名が発生しただろうか。天王の地名一つ取っても、米沢にも、八郎潟にも福島にも、ヒルゼンの様なチベットにも、鉄剣の出た稲荷山にも、或は、天竜川の西岸にも残っただろうか。
 天王は漢字を書ける人であったから、この人が主になって地名をある地域については、名づけてくれたと解したいのである。
 白王も中山王国から亡命して来たとすれば漢字が分かり、来たことになる。
 これらの漢字を書き残すことを含めた文化が奈良朝までに相当量が失われたのである。
 今のおごった尺度では古代史は分からない。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 51ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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2010.06.04

天王、唐王、白王(4)

イザナギの命はなぜ白王だったのか。白狄人の白か、高句麗の白頭山の白と考えたら、どんな不都合が生じるだろうか。
 先づヒルゼンには一白頭と呼ぶ珍しい山の名は白頭山を連想させてくれる。
 この外に白馬山、白髪、白髪山が多発する。津山の北には昔からイザナギの命が来られた言伝えが多い。しかも北にそびえる山は那岐山でこの西麓には中山神社がある。
 格式高い一宮で延喜式では、チュウザンと呼ばれていた。中山王国の名残りだろう。
 大山の北麓に中山町があり字に国主がある。中山王国から来た人にふさわしい地名が、二つかたまっていた。
 中山王国文物展には、二頭の犬には、金と銀の首輪がはめられていた。中山では犬は神聖だったのである。
 地名に犬をつけることは珍しい。しかし隠岐にもヒルゼンにも犬のつく地名は二ヶ所づつあった。中山王国は忽然とBC221年に消えたのだ。亡命者が日本だけは全く来る筈はないと云えるだろうか。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 50ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)


私からの一言----ここに書かれた「中山王国文物展には、二頭の犬には、金と銀の首輪がはめられていた。中山では犬は神聖だったのである。」と「地名に犬をつけることは珍しい」
とは、全く関係ないのですが、厖大な全国の地名が、頭の中に在りますと、展覧会を見て居た時に、何故か、二頭の犬には、金と銀の首輪がはめられていたのが気になったのです。

頭の中には、どれぐらいの地名が入るのか判りませんが、コンピューターはいくらでも入ります。しかも、入れたコンピューターから、どこに「天王、唐王、白王」があるかは、瞬時に取り出してくれます。是は、頭はしてくれませんが、どこかに「天王」はあったなと頭は思いだしてくれます。
「天王」http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-547.html
ここに、天王が出てきます。地名のイワレガ書いてありますが、間違いであるのではないかと頭ですと、考えます。 頭の中はどのようになっているのだろうと思います。
 私は、この資料をもとに調べましたら、高皇産霊神という神話に出て来る二番目の神を祭る人達が、尼崎市まで居られることを見付けました。
 この方たちは2000年前から、丹波から、能勢の天王を通って、なにかを運んでいたのだなという発想になっています。
田村氏は、どうやら、コンピューターを使っておられなかったようです。それだけ、地名は田村氏の頭のなかには、入っていったように想像しています。

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2010.06.02

天王、唐王、白王(3)

イザナギの命は近江の多賀に移られたものとしてルートを探すことにした。ヒルゼンから日本海に出ての居たんしかも、最も容易なルートを古代人は知っていたことなる。
 敦賀の西に三方五湖がある。ここが上陸地点だった。天孫族ゆかりの地名は御神島、常神、神子、天王山、日向、日向湖、矢筈山、御岳山、宮代がかたまってあった。
 天王山の麓を流れる川が、耳川でビワ湖側は八王子川である。耳の字は天孫族ゆかりでヒルゼンにも山の名に使用されている。イザナギの命は8人の王子と一緒にビワ湖に下られたのである。
 天孫族は同志に居所を分からせるために、三角形の山を選んだのでビワ湖の南岸で、三角形になる山を探した。
この山は近江八幡の湖岸(当時は島) の424米の名なしが相当する。
 この島にある僅かの地名が、王ノ浜、多賀、宮内、白王だった。白王が王ノ浜から上陸し宮内で政務を取られたのであり、白王とは伊弉諾神の命でよかった。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 49ページ
発行日 昭和56年7月3日(1981)

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