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2010.07.31

銅たくの謎(3)

中山王国の文物展で多数の注目を集めたのは男子がローソクを立てをささえていた、近代的なデザインである。
 話は横にそれるがローソクはなかったと述べた学者がある。ローソク立てを作るには木型では、はたして出来ただろうか。
 ロストワックスすなはち、木ローで製品と同じ形をつくり、この木ローの周囲に砂をつめて熱を加えて木ローを融かせば空どうが出来る。この空どうにに合金を溶かして流しこむ方法がロストワックス法である。
 この方法でないと出来ない製品が沢山出品されていたので当時すでにローソクはあったと考えるべきだった。
 実はこのローソク立ては男子が蛇をにぎり、蛇が受皿を支えていた。
 ヒルゼン高原の中心に大蛇の地名が現存している。又蛇ヶ峠がヒルゼンにある。こんな人のいやがる、しかも蛇ならありふれて、地名として不向きな命名の謎が解けたのである。伊弉諾神の命が一度はヒルゼンに来たと考えてよいのではないか。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀16ぺージより

私よりの一言---話題が銅たくの謎になってから、アクセス数が半分に減りました。きっと、みなさん馬鹿らしいと思われたのでしょう。田村誠一氏だけが正しくて、日本の歴史学者は全員間違っておられると思います。
 ここに書いてあることを全部確かめますと、何故滋賀県に大きな銅たくがあるのか解ります。そのためには、滋賀県にある銅たくを展示する博物館を全部見学してください。あれだけ、一杯あるのに、銅たくとはなんであるか、説明してある博物館はありません。、 神戸市立博物館 
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/001.html
にも、誇るべき桜ケ丘銅たくが展示してあります。14箇も出土しました。

島根県立古代出雲歴史博物館には、39箇の銅たくがあります。全部行きませんと、頭が回転しません。
 全部に共通することを探って行きますと、今、ここに書いておられることに行き着くことになります。

 今、但馬の事を別の角度から、追いかけていましたら、ドッキングしそうです。
 ①但馬の南の方の事を
  http://skeikas.iza.ne.jp/
②但馬の北の方の事を
 【但馬を探る】http://skeikas.iza.ne.jp/
ロートワックスのことは、次の所に書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-01-17

http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-01-16

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2010.07.29

銅たくの謎(2)

72703

イザナギの命は古事記では淡海の多賀に移られたと書かれている。
 古代の地名のつけ方は原、山、海等の前に形容詞をつけて、他人に分かり易い様に配慮した。従って淡海とは淡水の海であり、ビワ胡を指していた。
 しかし、日本書紀はこれをわざと淡路の多賀と書いて世の中の人を惑わせたのである。別稿で触れるが日本書紀は崇神天皇の時代に日本各地を占領下、漢民族が降伏した後に、漢文の才を利用して書かれた本であった。
 絶えず表向きには日本人にさとられない様に、惑わす目的で書かれたのである。近江に多賀があることを知らぬ筈はないのに、淡路と書いたのである。
 上の近江八幡市の当時島だった所に、多賀宮内、白王と王の浜の地名が現存している。
 宮内とはこれも古事記で神武天皇が居られた所が同名で登場してくる。政り事をした所であった。
 イザナギの命は白狄人だったから、白王としょうしたことも明らかになった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀15ぺージより

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2010.07.27

銅たくの謎(1)

銅たくはイザナギの命が、中国の北京の南にあった中山王国から亡命する時に、日本に導入したと前稿で述べた。
 中山王国は狩猟民族であった。紀元前220年頃滅ぼされたが、北方には先住民族があって逃げ場がないので山東半島に移動した。
 この人達が日本海側から東北等の狩猟に適した土地に渡来した。
 この中山王国の王の一族にイザナギの命とイザナミの命があった。中山王国は犬を愛用したので、イザナギの命等が住んだ所には犬のつく地名が残ったと考えたい。
 すでに述べたが隠岐には犬来(イヌグ)と犬町の地名がある。ヒルゼン高原には、犬挟峠と犬畑峠が現存する。
 中山王国は白狄人の国であったので、ヒルゼンには一白頭(山の名)とか白髪の地名がつけられている。
 イザナギの命がまつられた所は近江の多賀大社で、ここは犬神郡(現在犬上郡)と、ここにも犬の字がつけられていた。地名が歴史を教えてくれたのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀13ぺージより

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2010.07.24

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (6)

国王が自ら出掛けるのはおかしいと述べた。卑弥呼は魏の都に死者を出した。この時は死者は肩書の大夫だけでよい筈だ。
 しかし使者の名前が難升米と書かれ、魏志倭人伝の書き方では難升米が主役になっている。
 難升米は魏のスパイだったから、自国民の名を正史に載せたのである。
 これに反し卑弥呼とは肩書きだけで、日の女すなはち、天照大神をまつった丹波の伊勢神宮の、女のことだった。本名はミマツヒメで崇神天皇の妹だった。
 狗奴国(久米国)は倭人伝では卑弥呼に弓をつけ加えた。卑弥呼の義弟日子坐王であり、崇神天皇の義弟だったのである。
 魏志倭人伝の著者陳寿は、魏の大敗を知られない様に苦心したことだろう。しかしあまりにも大きな損害だったので、正史に全く載せないわけには行かなかった。
 日本の古事記は全く信用しないが、舶来となると敵の戦争記録まで信用するのは、日本人の天性の様だ。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀12ぺージより

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2010.07.22

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (5)

後漢書には倭面土国王師升生口を160人献ずと書かれていた。
 倭面土国王の師升と倭面土国の王師升の二通りの解釈が出来る。
 生口を中国通り捕虜と解すれば、最初の読み方では倭面土国は漢の属国でないことには字句がおかしくなる。如何なる時代にも、例え属国でも国王が外国に出かけたことがあるだろうか。
 二番目の読み方なら漢のスパイが王師升であればよい。しかも字句的にこの様に解釈する外ないだろう。
 倭国大乱とは日漢80年戦争であり、漢が190年に降伏したのであった。
 卑弥呼も親魏倭王の金印をもらったと歴史家は考えている。この時には、卑弥呼は殺されたのであり、単に卑弥呼以って死すと書かれていた。
 肩書きはなしで金印は政等が魏の都に持って帰ったのだ。大庭脩著〝親魏倭王〟104頁にこの金印の印影があるのはおかしいと書かれているが、印影はあってよかったのだ。

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2010.07.20

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (4)

後漢書は57年に金印を授けたと書いた。金印を授けるだけなら、一々正史に書き残さなければならないことだろうか。
 天山山脈のクチヤで、漢は94年に15000人の生口を得たので、107年に生口を僅か160人献じたのに、後漢書にわざわざ載せたのである。 漢は57年に奴国を属国にする積りで金印をだしたのに、答礼がなかったので怒ったのである。
 王師升をスパイとして面土国(恐らく宇土市)に潜入させ、日本人を160人捕虜として連行した。日本語の通訳として使用する目的だった筈だ。
  これ以外の目的に中国語が分からない、日本人の用途は考えられない。
 107年に日漢は戦争状態に入ったと解すべきで、倭国大乱と他人事の様な、書き方をせざるを得なかったのである。
 日本国内が7,80年内乱状態でも後漢書に取あげることがあればおかしいと考えるべきではないか。


私から一言---この様な論法は、使っていいのでしょうか。
①〔天山山脈のクチヤで、漢は94年に15000人の生口を得たので、〕この部分が、ありませんと、〔107年に生口を160人献じたことを、後漢書に載せたのである。〕なぜ、載せたか判りません。
 僅か、14年の事ですから、15000人の生口を得たことに比べたら、160人など、取るに足らない数字です。しかし、献じたと書いてあるので、大切なことだったのです。

②日本語の通訳として使用する目的だった筈だ書いておきながら、その理由は、
 〔 これ以外の目的に中国語が分からない、日本人の用途は考えられない〕だから、筈ではなく、日本語の通訳として使用する目的だったと読者に思わせています。

③日本国内が7,80年内乱状態でも後漢書に取あげることがあればおかしいと考えるべきではないか。
 その通りですね。その後、織田信長がどうした。豊臣秀吉がどうした。そんなことを中国の国史に詳しく書いてある筈はありません。
 
この私の〔筈〕の使い方ですと、中国の歴史書を全部読んで、確かであることを明らかにしなければなりません。
 
 田村氏の文章には、〔筈〕が一杯出てきます。これを習得しますと、相当便利になります。

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2010.07.17

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (3)

神武天皇の使者は〝漢委奴国王〟の金印を正確に漢の委任統治国、奴国王と解釈した。
 神武天皇は大和に前進基地を持っていたが倭国はまだ存在しなかった。古事記に登場してくるのは、根の国すなはち奴国だけで、出雲や因幡には大王と呼ばれる様な人は書かれていなかった。
 神武天皇は銅たく圏を征服して、監視を大和で続けていたのである。
 九州の遠賀川の近くには既に述べた様に、神武東征の基地岡田の宮があった。使者はここに帰着する直前に、すぐ西の志賀島の大きな石の下に金印を隠したのである。 
読者は聖徳太子の使者小野妹子が、隋の皇帝からの返書が屈辱的なないようだったので、焼きすてて、百済で盗られたと報告したことをご存じだろう。
全く同じことが繰り返されたのである。隠すべき理由があったのである。
「倭」と「委」を間違って金印を作る位おかしな話があるだろうか。金印から漢の日本懐柔策が明らかにされた。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀9ぺージより

私から一言---田村氏は、小説家の素質がありますね。難破した船から、金印が流れ着いたよりは素晴らしいですね。
 そのためには、その小説を完成させるために、誰でもが納得できる材料が必要です。

①紀元57年に倭の奴国王が後漢に朝貢した。
②この頃は、神武東征が終了したころである。
③遠賀川を遡った所に、岡田の宮を見付けられました。

確かに、漢の国は、誰かにどこかを委任しても良いぐらい日本を制覇していました。ここには、述べておられませんが、〔前回の魏志倭人伝も、後漢書にも、「使役の通じるものは三十ばかり・・〕が加わりますと、小説ではなく、史実になります。

漢委奴国王のことは、
魏志倭人伝を読む   漢委奴国王の金印
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/04/post_c9f1.html
に書いていますので、魏志倭人伝倭人のころと比べて読んでいただければと思います。

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2010.07.16

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (2)

既に何回か述べたが、古事記には屯倉が始めて大和に設けられたのは12代景行天皇の御世と書かれている。
 これまでは政府機関は倉吉平野の高千穂に置かれていた。これは外国に知れると攻撃されるので秘密である。
 対外的には、古事記に書かれた根の国が日本の代表である。島根半島は、根の国が由来である。
 米子平野は当時海で潟が出来つつあった。これがヒルゼンから根の形に見えたので根の国といわれたのである。
 奴国とは根の国のことだった。奴国王とは神武天皇のことだったのである。
 今までは〝漢倭奴国王〟の金印とばかり、信用していたが印影の写真を念のためしらべてビックリしたのである。
 〝漢倭奴国王〟でなくて、〝漢委奴国王〟だったのである。
 昔南洋諸島は日本の委任統治領だった。金印には漢の委任統治国、奴国と刻まれていたのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀8ぺージより

私より一言---この話は、変な話ですね。いつのことか忘れましたが、〝漢委奴国王〟に刻印されている「委」は、「倭」の省略形であると本に書いてありますので、なるほど、そうだと簡単に思っていました。
 云われてみれば、当り前の事ですが、この結論になるには、長いこと、古事記と日本書紀の研究をされていたからだと思います。
 魏志倭人伝も、後漢書にも、「使役の通じるものは三十ばかり・・」と書いてあります。こちらの翻訳も又、使役とは、使者と通訳だと書いてあります。「三十ばかり」どころか、日本中が、中国人だらけであったことが解ります。では、喧嘩ばかりをしていたのかと云いますと、そうではなかった様に思っています。

 今、「新しい日本の歴史」http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/ のニニギ命が降臨する前の場面の所を書いていますが、この後、大国主神とアマテラスとの間で、戦争などは起っていません。
 ニニギ命の兄の天火明命は、裏切って、京都・天の橋立のところにある籠神社のところへ、降臨しました。天若日子も裏切りました。そのために死ぬことになりました。

 この様なことが判っても、〝漢倭奴国王〟の金印のことは、堂々と今でも、通用しています。

「倭」という漢字は、日本の為に作られた漢字であることは、字典を調べますと判ります。
漢字は、他の漢字と組み合わせて、熟語が使われます、「倭」の漢字は、日本関係にしか使われていないことから、元々、中国にあった漢字ではないことが判ります。
そのような「倭」の省略形が「委」であるわけがありません。

偉い長くなりました。田村氏は、古代史の怪の5番目として、この文章を書いておられるのだと思います。

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2010.07.14

隠された 〝漢委奴国王〟の金印 (1)

紀元57年に倭の奴国王が後漢に朝貢した。この時光武帝から、〝漢委奴国王〟の金印を授けせれたのである。
 前稿で漢委奴国王の金印をもらったのは、ニニギの命だと述べたのは間違いだった。
 漢に圧迫された少数民族の集りが日本人である以上、漢に頭を下げる理由はなかったのである。
 前稿で初代から10代までの歴代天皇の推定年代を示して置いた。57年は初代神武天皇の晩年に相当する。従って神武東征が一段落した年代である。
 国内の平和が確立され、銅たく圏は消滅したので真の独立が達成された。しかも神武天皇が導入した計画的な稲作民族は、雲南や越のむしろ後漢から圧迫された少数民族が主体だった。
 神武天皇はキリストが生れた頃にすなはち紀元ゼロ年頃銅たく圏を奪取した中国人、ニギハヤヒを征服するために大和に進駐した。
 この東征が一段落して初代天皇となり、漢に親善使節を遣ったのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀7ぺージより

私からの一言---〔神武天皇が導入した計画的な稲作民族は〕その後、神武天皇を祀る神社を建設することになります。全く関係ない人が、相談して、祭神を神武天皇にしようかとの相談にはなりません。

 神武天皇を祀る神社 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
 最初に上陸した人々は、熊本県に上陸しました。

 一度、熊本県に行こうと思っていましたが、時間もなし、体力、金力がなくなりました。
 どなたか、この70の社を巡って、なにを感じられたかを教えてください。プロの方には出来ない仕事です。是非、熊本県の方に、お願いしたいものです。

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2010.07.12

古代史の怪(4)

日本人の鏡は古事記の天ノ岩戸事件の時に鉄を鍛えて作ったと書かれ、この方が磨けばよく光る。
 日本人が銅の鏡が好きならば、山城の国からは出土するが大和から出土しなかったのである。 北九州では出土するのに日向の国等の南九州では出土しない。これが古代史の怪の一つである。
 更に面白いのは石器時代、縄文時代の年代の決定にカーボン14による科学方法が採用されている。
 しかし弥生時代と古墳時代にはカーボン14によらない編年なる名人芸が登場する。
 これは、文明は後退することはあり得ない考え方になって居らないか。
 世界中で古代文明が後退しなかった国はなかった。日本だけが例外扱いだから奇怪だと申上げたいのである。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀6ぺージより


私より一言----〔これは、文明は後退することはあり得ない考え方になって居らないか〕これは、明察ですね。
 わたしは、〔世界中で古代文明が後退しなかった国はなかった〕は、全く、調べていませんが、その様な気はします。後退すると云わないと説明が付かないことは、一杯あります。
 例えば、ペルーのナスカの地上絵とか、ピラミッドもそうでしょう。
http://www.tbs.co.jp/nasca-pyramid/

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2010.07.11

古代史の怪(3)

イザナギの命のゆかりの地名は近江の多賀だけではない。仙台市の北の多賀城市には、1250年前に九州の太宰府と同時に政庁が設けられた。
 茨城県には多賀郡があり、ここと福島県の相馬市には共通の地名が多い。このゆかりの相馬郡が茨城県にあり、相馬村は津軽盆地にあって無縁とは考えられない。イザナギの命は実在したと考える外ない。 
 神武天皇ゆかりの大和の地名は奈良県の調査で33ヶ所が実在していた。(樋口著〝大和の海原〟)
 大和東征前の古事記に現れた地名は前稿に述べた様に、国土鳥院の5万分の1の地図に、ほとんど全て現存し、しかも九州でなしに、鳥取県であったのである。
 高千穂も倉吉平野に実在し、しかも鳥取県には奈良よりはるかに多い8000の古墳がある。
 しかしこれだけで沢山の日本一の古墳があることに対し、歴史学者が無関心で、中国の古墳には目を向けている。学門までが舶来尊重の様に思われるのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀5ぺージより

私より一言---また、新しい冊子を始めます。
 今回は、はじめから、田村誠一氏は、ご立腹です。 この冊子は、9冊目です。いくら古事記が正しい、鳥取県が古代の中心だと、書かれても、誰にも見向きされませんから、〔古代史の怪〕となりました。

私も時同じくして、
日本史 但馬の歴史(9) 茶すり山古墳(9)  朝来郡の古墳(2)
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1688400/
の中で、兵庫県教育委員会埋蔵文化財に噛みついています。資料を参考にさせて貰いながら、こんな判り難い資料なのに、

記事・画像などの無断転載を禁じますと書いてありますので、苦情を書いています。
 どんどん、転載して貰うと、素人は歴史を愉しむことが出来ます。
そのためには、プロの先生は、ボサボサして居れません。大いに勉強して、教えて欲しいものです。

しかし、田村氏の云われる通りです。
〔大和東征前の古事記に現れた地名は前稿に述べた様に、国土鳥院の5万分の1の地図に、ほとんど全て現存し、しかも九州でなしに、鳥取県であったのである。〕

たった二行の文章ですが、全部地図を見ながら確かめますと、書いてある通りであることが分かります。さて、何日掛ることでしょうか。そうすれば、一度に、古代史の中心は、奈良や出雲ではなくて、鳥取と但馬であることが理解出来ます。

因みに、次の資料から、古代史の重要な所が分かります。
日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる(平成13年3月末 文化庁調べ)

 でも、プロの人が、素人のブログなど読むわけがありませんから、期待は出来ません。
みんなで渡れば怖くないで、著作権の違反でもしようかと考慮中。

古代史の怪の続きを 

よろしくお願いします。

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2010.07.09

古代史の怪(2)

天皇には系図があり古代には代々天皇の御子に引継がれている。従って世継ぎの王子が生れた時の天皇の年令は平均10代でも、30代でもおかしい。
 21代雄略天皇は456年に即位したとすれば、天皇が生れた年は自ら年代の許容範囲がある筈である。
 この天皇は允恭天皇の7番目に生れたと記されている・従って允恭天皇が30才位の時に生れたと考えられる。
 この様な考え方で天皇家の系図を上代にたどって行った時の、崇神天皇の在世の上限と下限が求められる。崇神天皇は系図を否定しない限り、4世紀より上代に亡くなられた。
 イザンミの命すなはちイザナギの命の妻をまつった所が、古事記に書かれた所、すなはち出雲と伯耆の国境に比婆山が地図に現存している。(比婆ゴンとは別の位置)
 イザナギの命が行かれた近江の多賀が古事記に書かれた所に現存する。
 高天原から降りる前の地名が、地上に現存していたのが、古代史の怪の二番目である。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀4ぺージより

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2010.07.07

古代史の怪(1)

日本書紀は将に古代史の歴史書ブームである。
有難いことに日本の有名な学者は毎年の様に次から次と最新本を出版されている。
 この学者達も当然他の学者の本には目を通された上で本をお書きになったことだろう。従って同一学者の本は、古い出版には一々目を通さないでも古代史が分かるから有難いことだと申上げたのである。
 古代史の文献と古墳は補完関係にあるはずなのに、お互いに他人の領分には立ち入らないのが、日本の古代史の珍しい所である。
 読者は古代史をフイクションとしてではなく読まれるなら、先づこのことを考慮に入れられることだ。
 例えば、古墳の学者が仁徳天皇や崇神天皇の古墳の話をされた時には、古事記や日本書紀を意識された筈である。
 箸墓は大和でも巨大古墳に属する。しかも日本書紀では崇神天皇の御世につくられたと書かれている。
 古墳時代が4世紀から始ると発言されるからには、箸墓は4世紀の最初ではない。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀3ぺージより


表紙の見開きの部分に、次のものがありました。
001


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2010.07.05

地図と古代史 (2)

地図と古代史 (2)日本書紀最古の文献、古事記に出てくる・神代と云われた時代の、イザナギ、イザナミの命、天照大神、神武天皇に関係のあった地名が、全て国土地理院の地図に現存していたのだ。
 地図は歴史の参考書以上のものだったのである。しかし歴史上全も大切な遺産である、神社名は全て地図から抹殺されたに等しい。
 宗教となぜ過去の神社を一緒にして、神社名を消すのだろうか。歴史上古墳以上に地名や神社名を大切にすべきだある。古墳には人名を書いて出土してくれないのである。
 今まで採用して来た地名は全て国土地理院の最新版の5万分の1に載ったものだけである。載せてない地名が分かれば、古代史はもっと確からしさを増すと考えられる。
 山陰や美作は過疎地で、新しく開発が進んで居らないし、古事記や日本書紀でもつて、もっともらしい地名を付けてなかった。
 これが調査に大いに役立った。一人でも多くの同好者が地名を通じて古代史を解くことに興味をもたれることを望んで筆をおきたい。

田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 63ぺージ

私より一言---田村氏の文面の通り、今回で、第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 は終了です。
日本の歴史は、これからは考古学が中心のようになってきましたが、私は、考古学は、歴史の全体の10%ぐらいしか占めないと考えています。
田村氏は、今回の最後に、ちらっと、2ページだけ、地図の大切さと地名の大切さを書かれました。
 では、実際には、どのように利用するかは、我田引水になりますが、
日本史 但馬の歴史(6) 茶すり山古墳(6) 但馬の地名
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1683748/に掲載しましたので、お読みください。田村氏がかかれた福知山のことは、此の後に書こうと思っています。
 長いこと、読んで頂きまして、ありがとうございました。  H220705

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2010.07.02

地図と古代史 (1)

イザナミの命は古事記では、出雲と伯耆の国境いの比婆山に葬られたと書かれている。この場所は島根県能義郡太伯町に現存していた。一旦は鳥取県西伯郡溝口町の御墓原に、風葬され、改めて比婆山神社に祀られたのである。
 伊弉諾神の命は
近江八幡の、王ノ浜で上陸し、この町の白王町で住まわれ、御所は宮内にあった。ここの地名は多賀で、古事記に載せられた通りであった。
 天照大神は京都府の福知山市の天照に住まわれ、御所は大江町の天座にあった。葬られた所は同じ大江町の元伊勢だったのである。
 ここには皇大神社、内宮、豊受神社が現存している。
 月読命は京都府天田郡夜久野町に封ぜられ亡くなられた後隣りの大江町の皇大神社に、天照大神と一緒に祭られた。
 神武天皇は若い頃には、鳥取県西伯郡大山町に住んで居られた。
 このことは別稿で述べて置いた。日本の古代史は此の時地図に遺跡が始めて残された。


田村誠一著 第七話 崇神天皇の妹だった卑弥呼 62ぺージ

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