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2010.08.31

高地性集落の謎

『謎の古代 京・近江』の76ページに森 浩一氏が、京滋の古墳文化というタイトルで、執筆されています。はじめに、弥生時代は、舟を重要視しなければと云う趣旨の文章を書いておられます。つぎは、〔高地性集落の謎〕と云うタイトルで、弥生時代では、見逃せないのが、高地性集落であると書いておられます。
 この集落は、字句の通りで、普通は生活出来ないところ、たとえば、高いために風が強いとか、水がないとか生活に適さないのに、集落が作られました。それも全国的に作られました。多くの場合、環濠がつくられ、明らかに、何者かから襲われた時の防御施設と思われる集落です。
 それも不思議な事に、西暦紀元前と紀元後の二回のピークがあったのですが、森 浩一氏は、西暦紀元前後から三世紀ごろまでずっと続いているのですと書いておられます。
 どうして、このようなものが、全国的に出来たかは、断言して居られませんが、
次のように書いておられます。
<西暦二世紀後半の日本列島について、「倭国に大乱があった」とほとんどの中国の歴史書は書いているのですが、よほど大きな緊張状態が続いたということが高地性集落の研究からいえるわけです>
 
 「倭国に大乱があった」と云うのは、一例を挙げますと、范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。「桓霊間倭国大乱あり」とあります。
別の例は、大乱とは書いてありませんが、魏志倭人伝には、〔倭国乱れ、相抗伐すること歴年〕とあります。
森 浩一氏は、ずっと、続いたと書いておられますが、歴年とは、200年も続いた事ではないと思います。
 この高地性集落の謎の時代が続いた後に、高地性集落は無くなり、謎の古墳時代が始まるわけです。
 と云うことは、大型古墳がなくなるまで、謎の歴史が続くことになります。

この書物は、1981年4月25日の発行ですから、30年前の文章になります。
現在では、高地性集落の研究が進み、又、別の事が判っているのでしょうか。

倭国大乱のことは、何故か、〔魏志倭人伝を読む〕(私の書いたもの)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page691.html
に書いています。倭国大乱などは無かったのではないかと今でも思っています。
これは3年前に書いたものです。なぜなかったのかの理由を書いています。

魏志倭人伝には、武器の事が書いています。
原文
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與 耳、朱崖同。
翻訳
兵器は、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹ヤリ或は鐵鏃、或骨鏃である。(その他産物風俗の) 有無は、 耳、朱崖と同じである。

こんな武器で、200年も全国で争う訳がありません。

魏志倭人伝には、次のようにも書いてあります。
原文
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸+兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與タン耳、朱崖同。(タンは人偏に澹の右の部分)
訳文
禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

この事から、倭人は桑を植え、蚕を飼っていたことが判ります。

争ったのは、この絹を巡って、中国人と倭人が争ったのではないでしょうか。

そうでなければ、中国の歴史書に書く筈がありません。

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2010.08.30

山城の椿井古墳(5)

吉備の造山古墳は最新の筑摩書房の年表では413年の箇所に書かれ、わたしは150年前だと主張したいのである。
 最近中国の2300年昔に忽然と消えた、中山王国の文物展を見て驚かされたのである。
 一言で云えば2300年昔の方が科学的技術は進んでいた。昭和50年代と比較すると現代っ子は不満だろうから、昭和の始めの技術よりは進んでいたと考えて欲しい。
 青銅鋳物の技術は、現在でもただただ感心する外なかった。
 鉄鋳物も80キロ近いものが出品され、わたし達は常識では設計しない青銅との鋳つぎまでされていた。
 黒陶すなはち一見金属としか見えない、模様をいれた黒色の陶器が多数あったが、現在こんな製品が簡単に作れるだろうか。
 水晶の15センチ近いリングは材料があるだろうか。壊れない玉の加工方法も疑問である。
 ふんだんに金を使用した犬の首輪もね、金と銀のリングを連ねてあった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 35ぺージより

私から一言---今回でタイトル〔山城の椿井古墳〕は5回目です。第一回目を書かれた時に戻って読んでください。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/08/1-2ab5.html ここでは、
 後漢は200年頃は滅亡寸前だったのに、300年以降に鏡だけ、代々百年も引継いだ人が九州から山城にまで居ったことになって奇怪なことになる。
 これらの古墳は107年以降漢軍が日本を占領していた証拠だったと主張したいのである。

大胆な仮説です。漢軍は日本を占領していたのは、九州から山城までであった。この事を説明するのに、その頂点にいるのが、<山城の椿井古墳>だと云うために、山城の椿井古墳と云うタイトルを掲げられました。所が、書きはじめる少し前に、新しく筑摩書房の年表を手に入れられたのだと思います。
見た途端に、頭に血が上られたのではないかと推理します。
そこで、どれほどこの年表が間違っているかを知らせる為に、年表のコピーを3ページも取り込まれました。
そして、下段の造山古墳と作山古墳のところを「」で囲まれました。

九州から大移動して岡山を征服した漢人は、最初に、造山古墳を築きました。
413年頃ですと、筑摩書房は書きましたが、これでは、日本史はガタガタになってしまいます。
このコピーを見られた方の多くは、なんの為に掲載されたのだろうと思われるだけだったと思います。 新しく出たばかりの年表は間違っていると、きっと、筑摩書房に抗議をされたと思います。
私の推測ですが、きっと、ボロクソに云われたと思います。自分の本に、掲載しますと、いくら間違った事が書いてあったとしても、ルール違反だろうと思います。
そのような時に、『中山王国』の展覧会が東京、愛知、大阪で催されました。確か、2ヶ所行かれたと思います。
筑摩書房の件がありましたから、展覧会では、見るもの全てが、田村氏の頭を刺激したと思われます。これから先、<山城の椿井古墳>のことは登場しません。
一気に書き進めて出版されたと思います。

書籍・中山王国文物展 中国戦国時代の雄 は、インターネットで検索しますと、最低は、300円から売られています。田村氏の文章をいくら読まれても、その感動は伝わってきません。せめて、古書でも手に入れられて、読まれる事をお勧めします。今ですと、まだ手に入ります。私は、何度眺めたか分りません。製本が悪くて、バラバラになってしまいました。 5000円でも値打ちがあると思います。

『中山王国』で検索しますと、最初にウィキペデイアのものがありますが、これは、関係ある可能性は、大きいです。研究をするとしますと、日本の歴史が教えてくれることになると思います。

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2010.08.28

山城の椿井古墳(4)

カーボン14による年代が発表されていないとすると、素人は何を頼りにすればよいだろうか。
 中国には十干十二支があった。すなはちエトである。このエトが中国と交流のあった時だけは、古事記に書かれていた。
 エトは60年サイクルだから、60年の倍数の誤差は起こり得る。
 この考えで崇神天皇はツチノエトラに亡くなったので258年だったと前稿で証明しておいた。318年なら天皇の世継ぎが、10数才で生まれ、古事記や日本書紀の天皇家の系図が成立たなくなるのだ。
 箸墓は日本書紀では崇神天皇の御世に作られたと書かれている。
 漢軍が日本各地を占領して、戦死者を出したのは倭国大乱の時代とすれば、漢のしきたりの古墳が占領地域にあってよい。
 しかも威勢のよい初期には漢本国にない様な立派な前方後円墳を作ることは、日本が満州国でも企てた例がある。大和以外で最大の吉備の造山古墳は最新式であるべきだった。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 34ぺージより

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2010.08.27

山城の椿井古墳(3)

吉備の造山の巨大な前方後円墳の石棺は、九州の阿蘇の石で加工して遠方の所を運んだことが、昭和56年7月に出版された〝吉備古代史の未知を解く〟で明らかになった。
 X線解析法で科学的に石材の産地が解明されたのである。 
 九州の豪族が吉備で死んだ場合には、吉備にわざわざ九州から石棺を作って運ぶことはしないだろう。
 漢の将軍が吉備に進駐して死んで、しかも中国まで死体を運ぶことが出来ないとしたら吉備に漢の古墳があってもよいのである。
 副葬品は漢の品であれば漢人が古墳の主と考えて良いのではないか。
 九州に漢の日本での基地があったと考えれば画一的な巨大な、しかも漢の銅鏡が沢山出土した謎は氷解するのである。
 従って造山古墳が同年表で413年頃としたのはおかしいと申上げたい。漢が強力で外征に努めていた時代すなはち150年前と考えたいのである。古墳が最新式に見えたので新しい年代だと判定したのではなかろうか。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 33ぺージより

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2010.08.25

山城の椿井古墳(2)

年表に載せられた巨大な古墳群の最後に大和の桜井市の箸墓が加えられている。
 同年表で367年神功紀47年と書かれこの下欄に12代景行天皇陵が作られたことになっている。(桜井市とあるが実際は天理市)
 10代崇神天皇陵はあべこべ370年と景行天皇陵より後世に作られ、おかしくないだろうか。
 日本書紀の年代はデタラメだと前稿で述べておいた。卑弥呼のことは日本書紀では神功紀に登場するのが一例で、これでは古代史は謎につつまれるばかりである。
 前稿で卑弥呼は崇神天皇の妹であり、難升米は日本名がクガノミミノ御笠だと述べたことを参照願いたい。
 箸墓は卑弥呼すなはち崇神天皇の妹ミマツヒメを葬った墓だと述べておいた。
 従って上記年表で他の画一的な古墳と一緒にされては困るのである。
 漢が築造した古墳を模倣して、250年頃作ったと考えたいのである。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 32ぺージより

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2010.08.23

山城の椿井古墳(1) 次の2ページ

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2010.08.21

山城の椿井古墳(1)

928


筑摩書房の〝年表・日本史〟を左記と次頁に示しておいた。昭和55年5月に出版された祭神の年表であり、歴史学者の共通意見と解してよいだろう。
 300年代すなはち4世紀に畿内から瀬戸内海にかけて巨大なしかも画一的な古墳が発生した。これらの古墳からは多数の漢の銅鏡や鉄製武器が出土したと書かれている。
 後漢は200年頃は滅亡寸前だったのに、300年以降に鏡だけ、代々百年も引継いだ人が九州から山城にまで居ったことになって奇怪なことになる。
 これらの古墳は107年以降漢軍が日本を占領していた証拠だったと主張したいのである。
 漢軍が死んだ数だけ鏡を埋葬したとすれば巨大の謎も、画一製の謎も鉄製武器が出土した謎も全て解けることになる。
 年代だけがおかしくなるが、年代の決定には世界中で使われている、カーボン14による科学的方法は、日本では弥生期と古墳期に限って使われなかった謎も解けてくれる。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 28~29ぺージより

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2010.08.19

最大の古墳数は鳥取県(6)

927


〝謎の古代—京・近江〟の86頁を左記(上記)に示しておいた。
 なぜ宮内庁が仁徳天皇陵と呼んでいるものをわざわざ大山古墳とよばなければならないのか。
 お盆には先祖の墓参りをするのは日本の美風である。自分達の先祖の墓は自分達が一番よく知っている。5代前の墓位は間違いなく語り継がれている。
 他人の墓のことは仲々分らないものだ。他人の墓の方が立派だから勝手に自分達の先祖の墓を横取りすることが許されるだろうか。
 天皇陵が代々引継いで先祖のまつりを行って来たので天皇家が一番よく知っている筈である。明治天皇陵や大正天皇陵まで桃山陵、多摩陵と呼ぶべきか。
 大山古墳と呼ぶことによって古代史がの謎が解けるならよい。溶けないのに御陵名を変えたり、地名を新住居表示にすることは混乱を増すばかりである。
 御陵名が仮りに間違って伝承されても、間違ったことが歴史の一コマである。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 27ぺージより

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2010.08.17

最大の古墳数は鳥取県(5)

神武天皇に関して古事記に出てくる地名はなぜ国土地理院の地図に現存しているのか。
 しかも九州の日向の地名であれば、古事記や日本書紀を意識して命名されたと言えるだろう。
 しかし鳥取県は因幡の白ウサギ以外には、記紀を意識して地名をつけられたことがないのに、古事記に現われる地名の、しかも一、二でなくてほとんどの地名が現存している。
 神武天皇のデートの地名も、東征に船出した日向浦も現存していることは、研究に値しないことだろうか。
 古事記に出てくる根の国は、鳥取県の米子平野ではなぜ不合理なのだろうか。ここが中国で奴国と称される所である。
 高千穂のすぐ南が蒜山高原である。ここが一時高天原だった所として、不自然な点を指摘願いたいのである。
 ここに無形文化財の大宮踊がある。大宮人が居ったから大宮踊ではないか。天王の地名も4ヶ所(現在地図1ヶ所) あることは学者が謎を解明すべきではないか。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 25ぺージより

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2010.08.15

最大の古墳数は鳥取県(4)

〝謎の古代—京・近江〟では古墳は天皇や豪族の墓だとすれば、300年間に鳥取県に8000にんもの天皇や豪族が居ったことになって、おかしいと否定されている。
 しかし天皇や豪族の一族が古墳に埋蔵されたらいけないのだろうか。例えば天皇も皇后も王子も王女も、その子供達も古墳に埋葬されたとしたら不自然だろうか。 仮りに3組の子供夫婦が育ち、更に孫夫婦が9組育つとすればこの時の一族は26人になる。20才前後で子供が生れると200年では一族は15万人に達する。
 300年で8000古墳は1ヶ月に2人平均の親類縁者の古墳に過ぎないだろうか。
 倉吉の高千穂に政府機関は何回か述べて来た様に、12代景行天皇の時まで300年以上あったのである。
 古墳が大和より多すぎることは、大和以上の文化があったことにならないか。何故8000もの古墳があったことの解明に努力されないで否定だけされたのだろうか。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 24ぺージより

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2010.08.13

兵庫県・和田山町における縄文・弥生時代の遺跡の位置

兵庫県・和田山町における縄文・弥生時代の遺跡の位置
この資料は、〔おかしな世の中〕に掲載しましたが、地図がどうしてもうまく表示できないので、こちらに移しました。
 データーは少しずつ増やしていきますので、ご利用ください。002


【大蔵地区】
高瀬遺跡
 href="http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-600.html">489.高田散布地 495. 高田遺跡  335.東見寺遺跡 

 521.光明寺附近遺跡 488.池田古墳下層遺跡 

【糸井地区】
 491.林垣遺跡  490.高生田散布地  493. 室尾遺跡  486. 寺内遺跡

 【東河地区】
 379. 大盛山遺跡  494. 岡田遺跡  492. 宮遺跡

  【和田山・竹田地区】
 291. 片引遺跡  342. ケクノ木遺跡  331. 大路遺跡  334. 安井遺跡
 261. 筒江中山墳墓遺跡  481. 加都遺跡  487. 殿遺跡

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2010.08.12

最大の古墳数は鳥取県(3)

漢の進駐軍の将軍は倭面土国王師升とアイマイに書かれた。107年に生口160人を連行した人間だ。国王ではなくて、王師升だった筈だ。
 後漢書は漢の敗戦記録である。以下に上手に敗戦とさとられない様に苦労して作文したかの裏を読むべきだ。
 師升(王師升を略)が吉備を占領した緒戦の頃は調子が良かったので吉備最大のしかも漢のしきたりの、最新式古墳を師升は作って貰った筈である。すなはち吉備の造山古墳の主は師升で年代は150年前と考えたい。
 この古墳の石棺は阿蘇の石で石工まで連れて来たことが分かった。長期戦で勝チ目がない戦争では、後から死ぬもの程古墳もお粗末にする外ない。
 だんだん旧式になり何れ漢からの石工も死んで、九州の阿蘇から石棺を作って運ぶことも不可能になった。
 占領地四国の火山灰を使用せざるを得なくなったと考えれば、〝吉備古代史の未知を解く〟の火山石の謎は解けてくれる。

  
田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 23ぺージより

私から一言----はじめに、「漢の進駐軍の将軍は・・」と書いてありますが、進駐軍とはなんのことか、ご存知ですか。 最近の日本にも、進駐軍がやってきました。私はそのときは、6歳でしたから、よく判りませんでしたが、別に恐ろしい存在でもなんでもありませんでした。大人な人も、別に恐ろしいとは思わなかったと思います。そのころも、日本には政府がありましたが、大切な部分は、アメリカの進駐軍が、取り仕切っていました。
 アメリカの歴史書には、当時の日本のことは、どのように書いてあるのでしょうね。
 それ以後、日本はずっと、アメリカに支配されていますか、その様に思うのは、私より以前の人には理解出来ると思います。
 この冊子を書かれた田村誠一氏は、現在、存命でしたら、102歳になられておられる筈です。この進駐軍の意味は、私とは、又、違った意味で使われたと思います。

22ページに他の方の本のコピーと思われるものがありましたので、掲載しておきます。
Photo


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2010.08.10

最大の古墳数は鳥取県(2)

イキナリ箸墓の様な巨大古墳が作られたのであれば、これこそ謎である。
 250年代に卑弥呼の墓が作られたとして、これ以前にすでに前方後円墳があったと考えては、如何なる不都合が生じるだろうか。
 魏志倭人伝で卑弥呼は248年に死んだ、むしろ魏の命令で殺されたと解すべきだ。
 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼を共立(これもウソ)した年は190年頃である。
 漢は北九州、吉備、山城等を占領していた。しかし400年続いた漢は末期症状で184年には黄巾の乱が起きた。又188年には日本に進駐軍を出した漢の霊帝も死んだのである。進駐軍の補給が途絶えて当然である。
 黄巾の欄は恐らく日本との80年の長期戦に人民の不平が高まったのも一因ではなかろうか。これに更にスペイン風邪が重なって大量の死者を出した。
 日本に進駐していた間軍はガダルカナルと同じ運命になって、日本軍に降伏した。これを卑弥呼を共立して、倭国大乱が収ったと体裁のよいことを書いたのだった。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀21ぺージより

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2010.08.08

最大の古墳数は鳥取県(1)

昭和56年4月に出版された祭神の文献 〝謎の古代—京・近江〟には京都や滋賀の古墳について詳細が述べられている。
 この中で古墳作りは4世紀から7世紀の間と書かれ、しかも政府の1972年の調査で日本一人口が少い鳥取県が8000に対し、奈良は6000、京都は3500だったのである。
 先づ古墳の年代を如何なる科学的根拠で4世紀以降とされたのだろうか。
 日本書紀を学者は引用される。これは崇神天皇の箇所に箸墓を作ったとあり、これは巨大古墳で現存している。古墳の主については日本書紀の記述はゴマ化しで卑弥呼と考えたい。
 問題は崇神天皇を4世紀以降とすると、前稿で述べた様に、天皇の世継は代々10数年でうまれないことには、系図が成り立たなくなるのである。
 古事記を信用すれば崇神天皇は亡くなられた年は258年であるべきで、巨大古墳箸墓は250年代に作られたことになる。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀20ぺージより

私より一言----〔巨大古墳箸墓は250年代に作られたことになる〕は、動かせない事実になりつつあります。これを証明するためには、日本書紀を参考にしてはいけないことを説明しなければなりません。
 『新しい日本の歴史
において、その作業を続けています。
 自分では、完成したような積りになっていますが、まだ、10年や20年はかかりそうです。

田村氏は、鳥取県の古墳が一番多いことの不思議に注目されて、調べることにされて、歴史から鳥取県が、日本書紀によって、けされていることを見付けられました。

 所が、最近、鳥取ではなく、兵庫県が、一番古墳が多いことを発見しました。
 http://www.hyogo-c.ed.jp/~shabun-bo/gyouseisituhp/top/kihonkousou/6(4).pdfをご覧ください。

遺跡所在件数       1位兵庫県25,406 カ所
(平成5年3月文化庁調べ) 2位千葉県25,131 カ所

古墳所在基数     1位兵庫県16,577 基
(平成13年3月末) 2位千葉県13,112 基

どこかで、兵庫県の遺跡数は、28000ヶ所とかいてあるのを見ましたが、確認できません。

そこで、私も田村氏の真似をして、兵庫県の中の但馬を集中して調べることにしました。

http://skeikas.iza.ne.jp/ に於いて、但馬の歴史を書いています。所が、ここで書くだけでは間に合いませんので、http://blogs.yahoo.co.jp/k91293329k/16487925.htmlにおいて、養父郡にしぼって、考えています。

それにしても、兵庫県と千葉県は多すぎますね。

このようなことも、参考にして、〔最大の古墳数は鳥取県〕シリーズをお読みください。

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2010.08.06

銅たくの謎(6)

ニギハヤヒはナガスネヒコを自分が天ツ神だとだましたことは既に述べた。
 神武天皇はこのニギハヤヒを征伐するために東征に出たことを、日本書紀は書いてしまったのである。
 ニギハヤヒは中国人だった。
 神武東征で銅たく圏を征伐したので銅たくは一斉に姿を消した。同時に安芸で7年、吉備で8年滞在した謎も解けたことになる。 
 神武天皇の推定年代は前稿で示しておいたので、銅たくが姿をけしたのは、20~30年頃だったと思われる。
 ニギハヤヒは中国人で、日本書紀占領を企てたのに歴史家は日本書紀すなはち、中国偏向の古代史を信用して、見やぶることが出来なかった。
 ナガスネヒコを大悪人にしたが、古事記にはこの様な扱い方はしてなかった。
 ナガスネヒコがイザナギの命のあとを継いだとすれば、日本建国の功労者として取り扱うべきだと考えたいのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀19ぺージより


私からの一言---田村氏の「銅たくの謎」は、今日でおしまいです。
この6回の話を読んで、成る程と思われた方は居られないでしょう。しかし、ニギハヤヒとナガスネヒコは、日本書紀にも古事記にも書いてあることです。では、ニギハヤヒは誰だということは、どなたも説明が出来ません。
 それよりも、銅たくは、あれだけの立派なものが、農業をするときに、祈る時に叩いたとか、いや、叩いていなかったとか、訳の分らないことばかりです。 一番不思議な話は、あっと云う間になくなってしまったことです。あっという間になくなったものは、大きな古墳もそうです。
 全部説明のつくのが、「古墳の謎」にあるようにも思えるのです。
ここに書いてあることだけでは、誰も納得できませんが、偽書といわれるものに書いてあると、田村氏は云われます。
 そこで、私も偽書に取りつきました。
 これは、お話しになりません。プロの方は、100% 否定されている代物です。

 私は、ここ数年、日本書紀と古事記を比べながら、歴史を考えてきました。そうしますと、偽書の事が見えてきたような気がするのです。おかしいところは一杯あるのですが、所々、真実があるような気がするのです。
 古事記は、焚書の憂き目に遭わない様に、偽書と思われるようにはじめから、作られたのではないかと考えるようになりました。

 どうしても、解決出来ない部分は、偽書の手法を取り入れようと、挑戦した時があります。

No765神武東征(214)  神武天皇(157)  偽書・ホツマツタエ
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-05

 この記事の前後には、確か、オオタタネコが岡山県にいたことや、オオモノヌシのことも書いたと記憶します。今年の5月の事です。ついこの間書いたのに、「日吉津村」のことを書いていましたら、忘れてしまっていました。

私のことは、これだけにして、・・・・・。「ニギハヤヒとナガスネヒコ」のことを調べて頂きますと、
謎だらけの日本史から、謎がなくなると思います。
一番の難関は、100%の歴史のプロが否定しているものをくつがえすことが出来るかどうかです。

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2010.08.04

銅たくの謎(5)

野洲町にイザナギの命の墓があったとかんがえたら如何だろうか。まつられた所は近江八幡市の東方の犬神郡の多賀神社である。
 イザナギの命はヒルゼン高天原に先づやって来たが、ここはいくら広い高原でも狩猟動物が少なすぎた。火山灰土の人間に取って不毛の地は動物のエサまで少なかった筈だ。
 天照大神にヒルゼンのドトンを渡して、近江に移った理由があったのである。
 近江で同志を集め獲物が沢山取れると、銅たくをたたいて、お祭りさわぎをやったことだろう。
 このイザナギの命が開拓した所が銅たく圏だった。
 イザナギの命のあとを継いだのがナガスネヒだった。ナガスネヒコを悪人に仕立てたのは、中国人が書いた日本書紀である。
 ニギハヤヒは中国の揚子江の中流の、楚から揚子江を降って丹波に潜入した。ここで前項に述べた様に、天ツ瑞を天照大神の墓から発いて手に入れたのである。日本書紀は楚の字だけ替えて事実を書いてくれた。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀18ぺージより

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2010.08.02

銅たくの謎(4)

多賀と白、犬、蛇のつく地名が中山王国の亡命者と縁がありこえだと分かれば、この様な地名が1ケでなく、かたまって現れる地域を探し出すことである。
 この様な地域から更に相馬とか馬のつく地名が同じく鍵になることが分った。
 多賀城市や茨城県の多賀郡、相馬市と津軽平野の相馬村及び白神山脈と辿って行くと中山王国の亡命者は東北にも多かったことになる。関東平野には相馬郡が残っている。
 もちろんずはり中山の地名も大山や津山等に出没してくれる。地名こそは歴史であると云わざるを得ないのである。
 中山王国の人達はこの様にして、近江中心と東北中心で拡がって行ったと考えたい。
 前稿で〝日本古代史〟の銅たく圏と銅矛圏の分布図を引用させていただいた。本稿に54頁に再度載せさせていただいた。
 この銅たくの中心は近江だった。中山王国では銅たくは14ケが組で音階がそろっていた。14ヶ組で近江八幡市の南隣の野洲町で出土していたのである。 

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀17ぺージより

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