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2010.09.29

山城の椿井古墳(15)

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東大寺の北8キロからは銅鏡が40数枚出土し、東大寺に高知性集落があった。山城には阿蘇の石棺があり、漢氏が沢山そんざいした。
 しかし、日本書紀には何一つ書かれなかったから、漢軍が淀川、木津川を挟んで、数十年間たいじして居ったと考える外ないいのだ。
 椿井の漢軍からスペイン風邪は大和に伝染した。崇神天皇の御世に伝染病が流行したことは記紀共に書いてあった。
 中国人に利害関係のないことはかかれていたのである。
 吉備で雄略天皇の時前津臣のクーデタが発覚した。これは雄略天皇帝を暴君に仕立てた。
 継体天皇の時には九州で恐らく朝鮮系の磐井が左記(上記)の様に、九州に残った不平分子を集めてクーデタを企てた。
 熊襲とは熊本を襲ったと書かれた、これも僅か2人の中国人だったろう。地方の豪族なら教えて殺す必要はない。しかし中国のスパイはすぐ殺しておく必要性を重々感じていたのである。出雲建もヤマトタケルは征伐したが、これは朝鮮からのスパイだったろう。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 51頁より


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2010.09.27

魏志倭人伝と「自女王國以北」(2)

魏志倭人伝を翻訳された石原道博という方は、岩波文庫の訳本の43頁に置いて次のように書いて居られます。
斯馬國以下、奴国(重出) にいたる二十一国は不詳。九州説と大和説とではその比定もことなるし、又音の似たような国名、地名などみだりにあてても意味をなさない。例えば斯馬を志摩とあるいは櫻島としたり、・・・・。

例えば斯馬を志摩とあるいは櫻島としたり、・・・・。などは、
 当たり前でしょう。 邪馬台国を九州説と大和説などと考えていますと、当てはまる地名は無いでしょう。
 「自女王國以北」は、 難升米から聞いたことを元にして、陳寿が書いたと思われます。難升米が、日本の地名を聞いて、中国風に発音して、陳寿に伝えたでしょう。当然、漢字等は、一致する筈も有りません。
しかし、「音の似たような国名、地名などみだりにあてても意味をなさない」と一笑に付すべきものでもないでしょう。

 田村誠一氏は、『ヒルゼン古事記』という本に、「自女王國以北」の国名を書かれました。
これが正しいわけでもなんでもありませんが、成る程と思われるものが中に有ります。

ヒルゼン古事記  一大率 page—53
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/09/page53-e40b.html
 斯馬---須磨、 己保子---網干、 伊邪---伊和、姫路
都支---出石、 弥奴---美の、好古都---香登、カガト
不弥---? ? 、 姐奴---竜野? ? 、対蘇—千草? 、蘇奴---曽根
呼邑---赤穂? 、華奴蘇奴---相生? 、鬼---三木、為吾、鬼奴---? ? 、
邪馬---山崎、躬臣---? ? 、巴利---播磨、 支惟---宍栗、烏奴、--有年
 これらの国は、舞鶴国が統治していました。 ヤマトの女王国の東に千里(450キロ)海を渡った所に倭の種族の国があったと書かれ、これが近畿にあたります。

上に記しましたように、ヒルゼン古事記の53頁のものです。この前に、1頁から全部掲載しました。探してお読みください。先日、有年から赤穂まで、古墳を訪ねて走ってきました。 有年原のクルミ遺跡などどうして、このような大きな古墳がいっぱいあるのだろうと思っていましたが、
 伊邪---伊和、鬼---三木、烏奴、--有年は、これまでに行きましたが、すべて、関連してきます。
 もういちど、魏志倭人伝を見直しても良いと思います。
 
現在、【但馬の歴史】と題して、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1797271/
に70回書いています。この辺りは、魏志倭人伝で云われています伊都国であることが次第に感じられるようになっています。
 卑弥呼の時代に、既に、伊都国は、中国の人に、支配されていたことが分ります。その後、益々、支配を受ける事が強くなり、式内社が131社となり、現在の所、日本でトップの遺跡・古墳出土の県となっています。

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2010.09.25

山城の椿井古墳(14)

奈良の東大寺から僅か8キロ北に京・近江で最大の前方後円墳がありながら、日本書紀は何一つ記述しなかったのである。
 壬申の乱では何所の坂で誰が殺されたまで詳細に書かれている。原文を見て欲しいのだ。
 箸墓は崇神天皇の御世に作ったことは書かざるを得なかっただろう。とかし卑弥呼が魏に使いを出したことは日本書紀は神功39年にわざわざ小文字でチョコット書かれている。魏志倭人伝を論ずるからには、原文を眺めて欲しい。年代がデタラメだ。
一書にいわくと日本書紀はあらゆる資料を網羅したかの印象を与える様に書かれている。しかるに魏志倭人伝の2000字には目を通しておきながら、日本書紀には小文字で8字しか書かなかったのである。
古事記を書いた太安万侶は朝鮮系の帰化人である。
日本書紀は天皇と朝鮮を攻撃し、クーデタのため一般国民を洗脳する意図のもとに書かれた苦心の作品だった。
田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 49頁より


私より一言---ここに書いてあることは、本当だなと最近思っています。苦心したというものではありません。それ以上です。
 先日、19日と20日に5回目の但馬訪問をしてきました。このときに、藤原氏の先祖の一人が、経津主神であることが妙に気になりました。
 経津主神の名前は、日本書紀を作った中国人が付けた名前であるのではないかと思いました。

但馬は、式内社の数が多いです。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
 どうして、多かったかのか、考えた事を
http://blogs.yahoo.co.jp/k91293329k/16487925.html に掲載しようとしています。

但馬に式内社が多くなったのは、藤原氏にとって必要だったからです。水谷神社も養父神社も、粟鹿神社も、赤淵神社、足鹿神社、佐嚢神社も全部必要だったのです。

日本書紀が720年に完成した時は、ほぼ、日本全土は、中国人による新しい日本が誕生してと考えます。

益々、日本書紀の研究が必要になると思います。

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2010.09.23

山城の椿井古墳(13)

他国から自由に移り住むことが至難とすれば、山城の漢人は漢軍の降伏社である。
 日本書紀は正史に無関係な記述は、細かく取上げられている。しかるに七つの大罪については何一つ書いてなかったのである。
 漢や魏が攻めて来たことも、奈良のすぐ北にまで、椿井大塚山古墳が築かれことも、何一つ書いてなかった。
 日本書紀が天武天皇の壬申の乱については何故異常な紙数を費やしたか。漢氏の七つの大罪を許されたことを宣伝するための、おぜんだてだったのである。
 〝謎の古代--京・近江〟に漢氏は権力者になったと書いてくれた。漢文調の日本書紀を掛ける人は中国人以外には居らなかった筈だ。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 48頁より

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2010.09.21

魏志倭人伝と「自女王國以北」

魏志倭人伝には、女王国より北に多くの国があると書いてあります。北九州に邪馬台国があると思っておられる方は、「自女王國以北」を無視して居られる事になります。奈良に有ると思っておられる方は、奈良より北ですと、いくらでもあります。しかし、このことを論じた人は見あたりません。

自女王國以北をキーワードにして、検索しますと、次の二つだけです。他にもヒットしますが、原文を掲載したものがヒットするだけです。
①自女王国以北と七万余戸
http://itoitokoku.hp.infoseek.co.jp/ihoku.html

②女王国より以北に、特に一大率をおいた
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page558.html
(忘れていましたが、これは私の書いたものでした)

魏志倭人伝 他の諸国のタイトルで書いたことがあるのも忘れていました。
そのまま、転載しておきます。

原文 
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽きる所なり。その南に狗奴國有り。男子を王とする。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡(帯方郡)より女王國に至ること萬二千余里。

①女王國より以北に次の国があると列記してあります。一番北が、奴国とあります。
奴国は、米子平野だと書き、邪馬臺國は、吉備の西大寺あたりだと書きました。
【奴国~邪馬臺國】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page466.html
ということは、上に書かれた国は、岡山と鳥取にすべてあるということになります。一部が現在の地名に当てはまり、その国の特徴を現している所を、地図を眺めながら探してください。

②「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」は、重要だと思われます。「其南有狗奴國」の其の南とは、奴國の南です。国名は、狗奴國といい、男子の王がいて、わざわざ、邪馬臺國の支配下にはないと断ってあります。ということは、他の国は支配下にあったことでしょうか? 

③復習しておきますと、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page464.html
おいて、「伊都国」について触れました。
  「有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」とあり、ここは、岡山から遠いのにも関わらず、「皆統屬女王國」と書かれ、支配を受けていたことが判ります。

④「自郡至女王國萬二千餘里」も重要です。朝鮮半島のソウルの辺りが、魏が支配していた帯方郡です。そこから、邪馬臺國(岡山)まで、萬二千餘里とあります。一里は、ほぼ70mになります。「萬二千餘里」は、いい加減な数値とすれば、すべてが無になります。
   この70mという数字は、朝鮮の一里の数値です。「萬二千餘里」を採用しますと、九州も大和も当てはまらなくなります。陳寿は、中国と朝鮮の数値を混ぜながらつかったのでしょうか? そうとすれば、どこかにキーが隠されているはずです。

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2010.09.18

山城の椿井古墳(12)

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〝謎の古代--京・近江〟133頁に帰化人の漢氏と秦氏について書かれている。
 神武天皇の時に稲作が出来る所には、全国くまなく移民を導入した。それから数百年の間に人口は急増し、食糧の供給と人口はバランスが取れていた筈である。
 どの村にも他国者が入りこむことを許す余地はなかった筈である。従って呼寄せしない限り外国人は尚更来られる筈がない。
 渡来者は大量にあることはおかしい。密航者は見付かり次第殺されたと考えたい。
 この様な国情なのに帰化人、漢人と秦氏が誕生したのである。
 漢氏は上記の様に七つの大罪を許されたのである。個人が罪を犯せば殺されるだけで、かたがつく。しかし氏族として漢民族として大罪を犯したとあれば、日本を攻撃したことしか考えられない。
 倭国大乱を、倭国との戦争と中国の正史は書けなかったのである。そして漢が黄巾の乱等で滅亡し、日本に進駐していた軍隊は本国からの補給が途絶えた。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 47頁より

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2010.09.16

魏志倭人伝と「倭國亂」(3)

倭国大乱の意味を取り違えたばかりに、高地性集落は、「倭國亂」があったから、全国に一杯出来たことになりました。普通に考えれば、判ることです。100ほどあった国が、何を奪い合いをして70年も戦争をしていたと云うのでしょう。

高地性集落と「倭國亂」は関係ありません。
 卑弥呼の事も、陳寿は碌々知らないのに、難升米から聞いたことを元にして、書いたのでしょう。難升米は、卑弥呼に会ったこともなかった筈です。しかし、皇帝に使いに出されたのは、どういう事情だったのでしょう。

邪馬台国になりますと、愈々、日本の学者や素人が入り乱れて、収拾が付きません。永遠に解決しないことになります。

何故、このような事になるのかと云いますと、先に示した①卑弥呼 ②邪馬台国 ③倭国乱 以外の所を読んでいないからだと思います。

例えば、
邪馬台国のことを述べた部分があります。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

邪馬台国は、大きな国ですね、このように書いてあるのに、吉野ヶ里が発見された時には、これは邪馬台国かもしれないとメディアで大騒ぎになりました。
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「吉野ヶ里」現場からの報告
 邪馬台国が見つかった         佐賀新聞社・角川書店編
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この本を買って、吉野ヶ里に行ってきました。
魏志倭人伝に書かれてある通りの、卑弥呼の宮殿である 「宮室・楼閣・城柵」は、見事に復元されていました。
しかし、ここには、七萬餘戸は無理です。
70000戸と云うことは、5人家族で無いと、家族は次第に減って行きますから、最低、5人は要ります。350000人の国になります。350000人の食べ物は何処で作ったのだろうと見まわしました。
 それを作る人の事は、考えておられませんでした。
吉野ヶ里は、邪馬台国で無いことは、素人でも判るのに、「宮室・楼閣・城柵」を建設しました。
 今後、どうされるのでしょう。
なにがなんでも、邪馬台国は、九州にないと困ります。生きている限り、譲るわけにいきません。
 このような施設を九州の各都市では、作ってしまいました。

 調子に乗って書いていましたら、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
この部分のことを書くのを忘れていました。
陳寿は、出鱈目に、書いた筈はありません。
 ここに書いてある国が、現在でも、地名として残っているとは限りません。しか、陳寿は、難升米から聞いた筈です。
 中国人の人に、読んで頂き、探る必要があります。

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2010.09.14

山城の椿井古墳(11)

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漢の銅鏡が一つの古墳で多数出土したのは筑摩書房の画一性巨大古墳の外は、〝謎の古代--京・近江〟89頁に北九州の三雲遺跡と井原遺跡がある。
 邪馬台国論議で伊都国があったと騒がれて来た所である。大和の人が好まない漢の銅鏡が多数出土した。
 ここに漢軍の吉備と大和侵攻の中継地があったと考えたい。従ってここで大量に葬られたのは航海途中に難破した多数の将校を水葬して形見の品と将校の数だけの銅鏡と一緒に埋めた筈である。
漢軍の将校は各自で自分達の銅鏡を準備してやって来た筈だ。日本でも将校は出征の時には軍刀を用意したのと同様である。
 各種の鏡が出土してもよかったのだ。又日本人はにくむべき銅鏡を戦利品として、全国各地の故郷で埋葬した人もあるだろう。
 この様に考えれば崇神天皇と日子坐王の古墳からは戦利品として各種銅鏡や卑弥呼がもらったと考えられる品々が、大和でも出土してもおかしくないだろう。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 45ぺージより

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2010.09.12

魏志倭人伝と「倭國亂」(2)

日本の古事記や日本書紀は、信用置けないと思われる人が多く、中国の資料であれば、信用する人が多い様に思います。その為か、魏志倭人伝はよく引用されます。
 2000字ほどの日本に関する資料ですが、話題に上るものとしては、
①卑弥呼
②邪馬台国
③倭国乱
 この3つです。
 ① 詳しく書いてあるのに、どうして、卑弥呼のことは詳しく判らないのでしょう。
日本の女王だったのに、弟がいたことと、1000人ほどの婢がいた。おかしいですね。婢とは、賎民の召使の事でしょうか。中国人が書いたのですから、普通に考えますと、賎民だったのでしょう。兵隊とは書いてありません。

卑弥呼の姿を見たものがいないのでしょう。それなのに、どうして、〔鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす〕が分ったのでしょう。
「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」
この文章からは、魏の人は、卑弥呼が死んだことも知っていたし、お墓をつくるのも見ていたことになります。分っているのは、この部分だけです。
 
 ② 邪馬台国の事は、これ又、はじめから、詳しく書いてあるのに、何所にあるのかは、九州と奈良に意見が分かれています。 この問題は、いつか決着がつくのでしょうか。

 ③倭国乱です。 いつの時代でも、どこの国でも、戦争は有ったでしょう。たった三文字で「倭國亂」と書いてあるだけなのに、沢山ある国が、70~80年も戦争をくりかえし、これらの国の王は男だったので、纏まらないので、相談をして、女王を決めたと100%の人が、解釈して、納得して居られます。
 魏志倭人伝を書いた人は、魏の国の人が、日本に来て、実情を見ていたら、倭人は、70~80年も戦争を繰り返していたことを見ていた事になります。見ていなくて、70~80年の戦争の有ったことをどうして、知ったのでしょうか。

 「倭國亂」とは、倭の国の人が、中国の皇帝に反乱を企てたことを指すのだと、田村誠一氏は、指摘しておられます。その理由の一つとして、朝日新聞発行の『邪馬台国』の記事を紹介して居られます。
 魏志倭人伝では、どうして、「倭國亂」として、後漢書では、「倭國大亂」としたのでしょう。
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2010.09.11

山城の椿井古墳(10)

3


椿井古墳の石棺は九州の阿蘇の石かどうかは判らない。しかしここから木津川を渡って僅か8キロの奈良の東大寺にまで高地性集落があった。
 これは近くに敵が攻めてきていた、何よりの証拠で、椿井の古墳の主は漢の将軍だったと考えるべきではないか。
 漢の銅鏡の外に釣針や漁具まで出土した。
 生活環境が最悪の山城の極南に古墳があることは、古墳の主は漢の将校でよかった。
 漢軍の食糧調達の誤算については既に述べたが、軍隊が毎日の食糧を魚に頼る位、食糧の欠乏に悩まされたのであった。
 銅鏡が40数枚こんな生活環境が悪い所から出土したから、漢軍は戦死者用に予め特製したのだ。戦死者対策には石棺の石工までも連れて来て準備万全だったのである。
 卑弥呼が鏡がほしかったのではない。難升米が戦死者が100人位出ることを予想して頼んだのである。戦争の打ち合わせに難升米は、わざわざ魏の国に行ったので、表敬訪問ではなかったことは銅鏡からでも明らかだ。
 

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 43ぺージより

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2010.09.09

山城の椿井古墳(9)

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山城の椿井古墳は京・近江で最大の前方後円墳だった。この古墳の位置は〝謎の古代--京・近江〟では38頁の様に木津川の南岸にマークされていた。これでは謎が解けない。
 念のため国土地理院の地図を左に示しておいた。椿井は木津川の北岸で平地がなく、山の斜面にあって生活環境は最悪である。古代にわざわざここに住みついた理由が重要だ。
 ここからは銅鏡が40数枚出土したのに、川の対岸の大和からはすなはち奈良県からは銅鏡は出土しなかったのである。
 〝吉備古代史の未知を解く〟では山城の八幡町の茶臼山古墳の石棺は阿蘇の石だったことを教えてくれた。
 吉備どうようも漢の軍隊に占領され、攻撃目標は大和の崇神天皇だったのである。
 木津川や淀川は日漢戦争の両軍がたいじしていたと考えるべきだった。
 漢の軍隊は奈良の東大寺の僅か8キロの所にまでせまって、しかも80年間たいじしたままだったのである。倭国大乱を日本書紀は全く取上げなかった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 41ぺージより


私より一言---タイトルの〔山城の椿井古墳〕が9回目にして、やっと、出てきました。
 このページは、歴史はこのように眺めるのだという手本の様なものです。
①地形が重要です。 知るためには、地図と現地に行くことです。
②川が重要です。山城の八幡町には、三本の大きな川が山崎で合流しています。
③出土物。なにが出たかも重要ですが、対岸では、銅鏡は出土しなかったことが重要です。
④山城は何度行ったか忘れましたが、私の家から行く時は、いつも山崎経由でした。これで行きますと、山城から平城のある所は、すぐだと云うことに気が付きませんでしたが、最近はそれは、当り前で、奈良の隣りは三重県だということも知り、伊勢に行く時は、奈良経由で行きますと、一層、それが実感でき、古代は、関東から南下する時は、滋賀県はあまり利用せず、名古屋、三重、奈良、大阪のルートであったのではないかと・・・。
 滋賀、京都、次ぎは、丹波、日本海のルートであったのではないか…。
 現在以上に、日本を移動し回っていた人達が頭に浮かんできます。
 
⑤ 最後の〔倭国大乱を日本書紀は全く取上げなかった〕ことは重要だと思います。これは、中国は日本に負けたのでしょう。魏志倭人伝の読み方も当然変わってきます。魏志倭人伝の〔倭国乱〕と後漢書の〔倭国大乱〕の捉え方です。

 田村氏は、だから、日本書紀は中国人が書いたのだと考えて、全体のタイトルとして、
【第9話 中国人が書いた日本書紀】がネーミングされています。

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2010.09.06

魏志倭人伝と「倭國亂」

魏志倭人伝に「倭國亂」という言葉があります。この言葉書かれてある辺りの字句を記します。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。

 岩波文庫・石原道博編訳より、この部分の翻訳文を記します。
その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七八十年。倭國亂れ、相攻伐すること歴年、乃(すなは)ち共に一女子を立てて王となす、名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐(たす)けて國を治む。王となりしより以來、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人有り、給飮食を給し、辭を傳え居處に出入す。宮室・樓觀・城柵、嚴かに設け、常に人有り、兵を持して守衞す。

この翻訳は、正しいと思われますか。私には、判りません。使われてある漢字をそのまま、読みますと、読みやすいように句読点は入っていますが、原文は入っていません。

そこで、句読点をいろいろの場所に打つことにします。
其國本、亦、以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年
その国は、本来、男子が王を勤めていました。(今回は) 七八十年も住むことになったので、(それが原因で)  倭國は亂れることとなり、相、攻伐することが歴年となりました。

 さて、中国語では、このような読み方は出来るのでしょうか。

 現在は、しないとします。でも、この文章は、1800年も前のものです。このような、解釈はしなかったという確かな理由を見付けることは大変だと思います。現在の政治家の話言葉は、私ども庶民には理解しがたい日本語であることを思えば、どのような解釈でも可能となります。
 
 上に紹介しました翻訳は、無理がないように思います。この翻訳は、一部意味が不明な所があります。その部分を皆さんが、自分流に解釈しますと、全く別なものとなります。

一番、問題になる所は、〔鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす〕ではないかと思います。
このように短い語句の中に、意味の判らないものが、二つもあります。
どなたかが書かれたものか判りませんが、次のホームページに書いてあるものが、一般的なものだと思います。
【鬼道】http://www.big.or.jp/~arch-613/gekka/hist/kidou.html
 その一部を書きますと、
「鬼道」のエキスパートであった事が伺える

●鬼道とは
魔法・魔術・邪法などといってシャーマニズムと解し、この技を使う卑弥呼はシャーマン(巫女)といえる。
 鬼道を説明するために、意味不明のシャーマニズムを持ち出しますと、愈々、意味が判らなくなります。鬼道の〔鬼〕はどういう意味なのか。鬼道より先に、〔能く衆を惑わす〕の〔惑〕という漢字は、良くない意味ばかりです。中国では、卑弥呼は、鬼道を使って、良い行いをしていたと解釈するのでしょうか。
 
次のものは、中国の歴史にも詳しいプロの方のものと思われます。
邪馬台国・奇跡の解法 
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/54063c7b766b6723f9e4d854beba8a14

 この方も、私と同様に、〔その国、本また男子をもって王と為す。住るところ七~八十年、倭国乱れ相攻伐して年を歴る。乃ち一女子を共立して王と為す。名を卑弥呼と曰う。鬼道能く事とし衆を惑す。〕
 このことを説明するのに、6953字を使って、説明をされたのですが、ここに書いてあることが、全て、正しいということが解って始めて、この方が言っておられる事は正しいと言える事になります。
 魏志倭人伝を書いた、陳寿もこれらの事を知っていたかどうかです。陳寿は、この文章を書くために、日本へやって来たのでしょうか。きっと、来なかったと思います。
では、だれからニュースソースを得たのでしょうか。魏志倭人伝にかかれてある人物では、難升米は、国へ報告に帰った様ですから、彼から聞いた可能性は大きいです。それをそのまま、魏志倭人伝に記しますと、中国の歴史書にはなりません。中国の尊厳に傷をつけるようなことは書かない筈です。

 中国に傷がつくようなことは書かないのであれば良いですが、難升米を擁護する点があったのではないかと推察します。魏志倭人伝の全体から言える事は、難升米は、卑弥呼の部下ではなく、日本占領軍の総司令官でしょう。仮に、卑弥呼が倭国の女王であれば、女王にも、名前があった筈です。238年頃ですと、崇神天皇というように、天皇もいたのですから、魏志倭人伝に書いてあることだけを信用するのは、間違いでしょう。

名前があった筈の女王に「卑弥呼」という名前を付けたことは確かでしょう。〔鬼道〕の鬼でも、私としまして良い印象を持たないのですが、〔卑〕となりますと、どのように解釈しても〔卑しい〕でしょう。
 難升米も陳寿も卑弥呼の実名を知らなかったと解釈すべきでしょう。

話は、全く別の事になります。
朝鮮の古代史『三国史記』に「倭の女王卑弥乎、使いを遣わし来聘(らいへい)す」とあり、173年に卑弥呼が新羅に使者を出したことが判ります。
(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」))
 ただ、この事は、おかしな部分があります。卑弥呼が魏の国に使者を送った時は、238年です。この時の女王の名前を陳寿は〔卑弥呼〕と書きました。私は意味の良くない〔卑巫女〕を使ったのかと思っていましたら、それよりも50年も前に、新羅の国の歴史書に同じ〔卑弥呼〕が使われていたことになります。(三国史記に虚偽があるのでは?)

これらの事は、記紀を書いた人は、知らなかったのでしょうか。記紀に〔卑弥呼〕の字をみることは、出来ません。

長くなりますので、次回も、「倭國亂」を考えてみます。

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2010.09.05

山城の椿井古墳(8)

筑摩書房の〝年表・日本歴史〟を正しいとかんがえては、日本の古代史は謎に包まれるばかりである。
 〝吉備古代史の未知を解く〟では科学的に古墳の石棺の原料の石の出所を明らかにしてくれた。
 前稿ではこの事実を根拠にして、吉備最大の造山古墳は阿蘇から石棺を運んでいたので古墳の主は日本人ではないと断定した。
 漢の将軍の墳墓であり、古墳が破壊されていたのは敵軍のためと考えれば如何だろうか。
古墳の主がその地域の豪族であれば壊すことはあり得ないだろう。盗掘は別問題だ。
 この時に北九州も占領されていたと述べたが、画一性、巨大古墳の謎は解けてくれる。
 〝吉備古代史の未知を解く〟は古代文化が地方から大和に移って行った理由を説明して居られる。
 これは従来の古代史の内容を100%改めるべき重大な提案である。
 わたしは古代文化と見えたのは、漢の日本占領がもたらしたと申上げたいのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 39ぺージより
38ページに地図が図示されていますが、省略しました。次回に掲載します。

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2010.09.04

高地性集落の謎と倭国大乱

高地性集落の研究の創始者と云われる小野忠熈氏、其の後、森 浩一氏、佐原真と田辺昭三氏、武藤誠・村川行弘、石野博信氏らが、すべて、高地性集落と「倭国に大乱があった」が関係があったことを認めておられます。
 その高地性集落は、弥生時代で終息し、古墳時代へと移行していったのだ。高地性集落という形態の山城は、平城へと変化していった。これは、2002年当時の石野博信氏の結論の様です。
 これだけの事が揃いますと、歴史的事実と考えても良いのではないかと思えます。しかし、いくら年代から判断して、高地性集落の終焉と古墳時代の始まりが繋がるからと云っても、「倭国に大乱があった」から 高地性集落は発展し、大乱が終息したから、高地性集落はなくなり、古墳時代に突に有したという筋書きになりますと、古墳時代は、箸墓古墳のような巨大な古墳から始ったことになっています。
 高地性集落どころか、大乱は益々激しくなったと考えませんと、理屈が合いません。

 このように考えるだけでも、「倭国大乱」と高地性集落は関係無いことが判ります。
「倭国大乱」とは、どういうものかという事を
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/05/post_5a03.html に書いています。
 
リンク先を読んで頂ければ良いのですが、大切なことですので、そのまま、もう一度、掲載します。

「倭国大乱」という言葉は、魏志倭人伝とは関係ありません。范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。
「桓霊間倭国大乱あり」とあります。岩波文庫の訳本では、「大乱」を「おおいに乱れる」と読んでおられます。大いに乱れるとは、どのようなことでしょうか? 例えば、5つの国が、お互いに乱戦しているのでしょうか? 国数がもっと多くて30ヶ国が乱戦ということでしょうか。僅か、1000人ほどの国が、戦いをしたことを「桓霊間倭国大乱あり」と、国家の歴史書に書くでしょうか? 
やはり、桓霊に対して、倭国が、歯向かったのでしょう。
桓帝が即位したのが、146年です。霊帝が死んだのが、189年です。「倭国大乱」があった年代は、146~189年の間であることは、確かです。仮に桓帝が20歳のときの事件だとしますと、20年ぐらい続いたことになります。166~189年のことです。
一方、朝鮮の古代史〔三国史記〕に、「阿達20年(173) 夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた」とあります。記述は簡単で、何のために行ったか判りませんが、使者が行ったことは、確かでしょう。
もう一つの資料です。日本書紀の崇神紀65年に任那国の使者が朝貢してきた記事があります。日本書紀に書かれている年代は、確かではありませんので、何時のことかわかりませんが、崇神天皇の次代に任那があったことは確かです。問題は、朝貢してきたかどうかは、割り引いて考えないといけないと思います。日本書紀は、作者の都合の良いように書いたと思われる所が多いからです。
任那の地は、中国が日本へ軍隊を送るときの、補給地であったのではないかと思っています。崇神天皇は、卑弥呼を通じて、新羅に使者を派遣し、中国の侵略を防ぐために、
任那の地を攻略したのではないでしょうか? 
任那が倭国の国となりますと、中国軍は、補給を断たれます。そうしますと軍人に支給していた鏡は無くなります。これは、軍人が死んだときに是非必要なものです。それまで、本国から送られてきた漢鏡がなくなります。食料もなくなります。そこで、漢人の人は、山に篭城し交戦です。最後には、全滅しますが、その地には、のちに鬼ヶ山とか鬼ヶ城のような名前が付けられました。かつては、そこは、竜王山と名前が付いていたと思われます。吉備の国、福知山の鬼伝説は、このときのものでしょう。日本の記録には、四道将軍の名前を記し、崇神天皇が中国人を攻撃したことを記しています。
すべて、想像になりますが、「倭国大乱」を倭国と中国の戦争だと読めば、その後、歴史は、無理なく説明が付きます。調子に乗りますと、後漢は、倭国との戦争に負けて国が潰れることになります。それほど、絹は国の経済に重要なものであったはずです。歴史書には負けたとは書けませんから、「倭国大乱」と書きました。 蛇足ですが、  桓霊(コウレイ)間に居られた天皇と言う意味で、孝霊(コウレイ)天皇でしょうか?

倭国大乱の事は、同じ『楽しい人生』の中で、田村誠一著 〔第8話 吉備にあった漢の古墳 〕から、倭国大乱(1) から倭国大乱(9) にわたって、転載していますから、読んでください。
倭国大乱(1)**** http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/08/1-3e4f.html

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2010.09.03

山城の椿井古墳(7)

航海術に関して古事記には各種の船が登場してくることは既に述べた。この航海は紀元前が最高潮で何れ航海しなくなると、技術は全く忘れてしまったのである。
 漢の時代には北朝鮮を占領して居った。漢の船は黄河で使用するので、かいでこいでも進めた。
 魏志倭人伝に出てくる帯方郡から松江国(末廬国)や瀬戸内海には来ることは容易だった。しかし季節風が吹けば西に進んでいる船は難破する外なかった。
 これが古代史の謎を解く重要なポイントであった。日本に渡った占領軍の大軍は二度と本国には帰れなかったのである。
 このことは既に述べたが107年から190年まで長期戦になった理由である。漢の黄の乱で漢本国からの補給が途絶し、この挙句にスペイン風邪で全面降伏した。
 この間に日本で死んだ軍人と将校が日本に突然古墳時代をもたらした。漢の習慣に従って鏡と矛と剣と玉が一緒に埋葬されたことは否定できないだろう。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 37ぺージより

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2010.09.02

高地性集落の謎・その後

『謎の古代 京・近江』という書物は、多くの執筆者によって書かれています。その中に、森 浩一氏が、〔高地性集落の謎〕とのタイトルで文章を書かれ、高地性集落の解明が重要なことを述べておられます。
 この時、高地性集落の建設が、紀元前から、三世紀ごろまでずっと続いて、その要因の一つが、「倭国に大乱があった」ことに注目して居られる事が判ります。
 この話は、30年前の時の資料から言えることです。

今回、『邪馬台国と古墳』という本に、高地性集落に対する新しい見解が書かれていましたので、紹介します。
 著者は、石野博信氏です。
第一章 のタイトルを先に紹介します。

 第一章 倭国乱---弥生の山城と平城
  高地性集落から山城へ
  環濠集落から平城へ
  山城・平城の発生と「倭国乱」
  山城と平城の集落構造
 以上は7ページから28ページを使って解説して居られます。

タイトルを見ただけで、理路整然としているのが判ります。
① 高地性集落が発生して、其の後山城へと変わって行った。
② 高地性集落の中には、環濠を有するものが出来、この合体したものは、平城へと発展。
③ 山城・平城の発生と「倭国乱」とは、関係がある。

 以上の事の順を追って、登場する遺跡名を挙げますと、
1.山口県天王遺跡 (1950年) 防御機能あり。小野忠熈
2.山口県島田川流域の弥生集落。濠の存在。 倭国大乱と関係あり。小野忠熈。 (昭和53年書籍)
3.福岡県板付遺跡。 日本考古学協会。
4.紫雲出山遺跡。荘内半島(瀬戸内海) 55年から小林行雄。64年から佐原真。「石鏃の変質」石鏃が近畿では、弥生前期後半から大型化する。 即ち、殺す対象が人間に変わったと結論。
 其の後、佐原真と田辺昭三氏は、高地性集落と倭国大乱について、積極的に論をすすめた。
5.会下山遺跡 芦屋市・六甲山麓。56年から、武藤誠・村川行弘。

 紫雲出山遺跡と会下山遺跡の資料から、こうした高地性集落は、単なる烽火場や見張りや逃げ城だけではなく、日常生活を行っていたことが判った。これは山城であるとの結論になった様です。
 そこで、石野博信氏は、山城の変遷 –山城三段階論を展開して居られます。
 
第一段階  弥生時代中期後半---二世紀後半の日本列島列島内で、本州西端から南関東に及ぶ大きな騒乱があったことを示す。
            
第二段階  近畿地方中心に分布し、その時期は 弥生時代後期前半~三世紀中葉に限定出来る。

第三段階  第二段階の山城の分布地域には認められない。

以上は、14ページまでの論説です。
その後の展開は、次第に素人では、難しい展開になります。

石野博信氏は、第二段階が、『魏志』と『後漢書』にある「恒霊の間」(147~188年)の「倭国大乱」に相当する。
魏志倭人伝では、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という」著名な記事につながると書いておられます。

30年前に、森 浩一氏が書かれた高地性集落は謎でしたが、ずっと、300年位続いたというのが、森 浩一氏の考えでした。

石野博信氏が書かれた『邪馬台国と古墳』は、2002年ですから、高地性集落のことは、随分、進展したことになります。

①高地性集落は、山城であった。(かって、戦争がおこなわれた)
②高地性集落には、3回ピークがあった(ピークの場所が違った)
③第二段階の高地性集落、「倭国大乱」と関係があった。

高地性集落と「倭国大乱」は、はじめに、小野忠熈氏が研究発表されて以来、どの学者も、共通していることです。
森 浩一氏が「高地性集落の謎」のその後を書きました。以上を読んで頂きますと、「高地性集落の謎」は改称した様に思われますが、『邪馬台国と古墳』を7ページから28ページまで読んで頂きますと、あまり、進展していないと云うことがお分かりになると思います。

研究された学者は、全員、日本を代表される方ですが、30年経っても、高地性集落とは、どのようなものであるかが判らないと云うことは、どこかが間違っているのではないかと思います。

高地性集落と「倭国大乱」が関係あると考えているために、ここから抜け出せないのではなかろうかと考えています。

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2010.09.01

山城の椿井古墳(6)

この中山王国は北京の南で日本の一県位の大きさであった。しかも狩猟民族だが、前220年に滅ぼされても北方には行けず、東の山東半島に逃げたのである。
 この亡命者が日本にやって来て一部は、近江路から近江に移った。イザナギの命と何人かの王子は京都の三方五湖からビワ湖北岸に出て、湖を渡って近江八幡の多賀に本拠地を置いた。
 亡命者の他の一団は東北から、磐城、常陸にまで津軽海峡を越えて移って行った。
 津軽平野の亀岡遺跡や八戸市の是川遺跡の紀元前の素晴らしい出土品は、中山王国の技術が基本にあったと考えたいのである。
 古代の文明は紀元前から後退しつつあるのが世界中で共通な現象ではないか。
 古墳の年代を形式等の客観的なことで決めることは極めて危険だと主張したいのである。
 科学的に例えばカーボン14で判定した資料が公開されることを望むものである。客観的に最新式のものの方が、年代が古くないと文明の後退は日本だけが例外になる。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 36ぺージより

私から一言---著者・田村氏は中山王国の展覧会を見られて、古代の文明の質の高さには、相当驚かれたようです。
 古いものの技術には驚かされる例は、次に見ることが出来ます。

日本初のコンクリート製防波堤がある小樽
http://pucchi.net/hokkaido/closeup/otaru_bohatei.php

北の荒波に耐える「小樽港外洋防波堤」
http://www.jcca.or.jp/kaishi/234/234_toku7_yamashita.pdf

それにしても、どうして、「亡命者の他の一団は東北から、磐城、常陸にまで津軽海峡を越えて移って行った。
 津軽平野の亀岡遺跡や八戸市の是川遺跡の紀元前の素晴らしい出土品は、中山王国の技術が基本にあったと考えたいのである」このような表現になると思われますか。

山城の椿井古墳(5)をもう一度ご覧ください。
≪黒陶≫の事が書いてあります。 

イザナギは中山王国の出身か  その2
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/2.html

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