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2010.10.31

壊されていた古墳と銅鏡(1)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

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銅たくは壊されて古墳でない所から出土した。この理由は第9話に述べておいた。

 銅たくの謎(5)  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/08/5-2882.html 銅たくの謎(6)  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/08/6-930a.html
銅たくを持っておればナガスネヒコの部下と思われて神武勢から殺される危険があったのである。
 吉備や河内の古墳には壊されたのが多かったのである。 
 〝吉備古代史の未知を解く〟で小山古墳は全く破壊されていたと書かれている。
 又吉備最大の造山古墳の前方に石棺が放り出してあった。恐らく造山古墳から引き出したものだろう。
 この二つの石棺は九州の阿蘇から、はるばる運ばれたことが倉敷考古館長間壁夫妻によって解明された。
 吉備の主は吉備の人ではなかった。むしろ吉備人の敵だから古墳は破壊されたと考えたいのである。
 日本の村人は古墳の主の名前が分らなくても、祖先の霊は大切にする国民である。
 吉備に巨大な古墳を残した古代吉備王国とは、先住の吉備人の敵だった。

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2010.10.29

吉原神社と大河原神社  古事記を読む

最近、吉原神社の資料を「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/に掲載出来る事になりました。
 ここを開いて、「吉原神社」で検索しますと、
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-641.htmlに吉原神社の資料が出るように成ります。

全て、を転載しますと、
鎮座地 日野郡日光村大字吉原字牛王
地図 http://jinja.in/single/86170.html現在地 鳥取県日野郡江府町吉原283-2

祭神 稚日女命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、大日孁尊、大山祇命、美佐々伎命、誉田別尊、天津児屋根命

由緒 創立年代不詳、旧若宮大明神と称す、明治四年吉原社と改称せられ、同五年子守神社の摂社となる。同六年吉原神社と改めらる、明治四十一年四月日光村大字吉原字児守谷鎮座村社子守神社(祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命)
を合併す、昭和八年十月同村大字吉原字西成ノ二鎮座村社西成神社(祭神 大日孁尊、誉田別尊、天津児屋根命)を合併す。

例祭日  10月11日
建造物 本殿、神楽殿
境内坪数 339坪
氏子戸数 50戸

この資料を見た時の私の見方を書いてみます。
①どうして、明治4年に吉原社と改称されたのか理由が知りたいですが、判りません。
②ここに書いてある祭神は、昭和9年当時のものです。
③その時の鎮座地は、日野郡日光村大字吉原字牛王です。大字は吉原です。小字は牛王ですから、牛王神社と改称されても良かったのですが、そうは成らなくて、子守神社の摂社になりました。(明治5年)
 この時の、子守神社の祭神は、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命です。
④明治4年に吉原社だった神社が、明治6年には、吉原神社となり、摂社だった吉原神社に、本体の方の子守神社を合併したと書いてあります。
⑤そこへ、西成神社を昭和8年に合併したと書いてあります。
⑥ 現在の吉原神社の祭神から、西成神社の祭神を除きますと、祭神は、稚日女命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命になります。
 これは、子守神社と変わりません。
子守神社のなまえは無くなって、稚日女命が加わって、吉原神社に変わった事になります。
⑦ どうして、この様な複雑な経緯をたどったのでしょう

〔稚日女命〕で検索しますと、稚日女尊では、いっぱい出てきます。
〔稚日女尊〕の名前は、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場します。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。
『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、〔稚日女命〕と〔稚日女尊〕とは同一の伝承と考えられます。

従いまして、明治になってから、この神社では、元からあった吉原神社を復活させたと見ています。(長年、藤原氏の支配下にあった神社を天皇家の神社に戻した)

地図 吉原 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351950&l=1333104 をご覧ください。
吉原神社の祭神のメインは、底筒男命、中筒男命、上筒男命です。この神は、住吉三神です。こちらは、殆ど、海の近くに祭られています。
 なぜ、この様に海から離れた所にあるのかと疑問に思いますと、「古事記を読む」に繋がって行きます。
 次回は、大河原神社を眺めます。
「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/ において、大河原神社を検索してください。

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2010.10.28

呉の人が作った銅鏡   第10話 九州にはなかった邪馬台国

呉の人が作った銅鏡   第10話 九州にはなかった邪馬台国
 古代史には多くの謎が含まれていた。このことは一年前までは全くしらなかった。調べ出して気付いたことを毎月パンフレットにして友人に配って来た。
 謎を解いて行くうちに、中国人が日本を長期に占領していたヒントを得たのである。
 先づ今年の7月には吉備の石棺が九州から運ばれていたと〝吉備古代史の未知を解く〟が証明してくれた。
 九州に中国人の基地があり、吉備は中国に占領されていたと考えてよかった。
 9月になって呉の人が日本で銅鏡を作ったと中国から証人が現れた。
 何のために中国人が日本まで来て銅鏡を作らなければならなかったか。
 如何に考えても日本人のために作った理由は発見できない。中国の占領軍の戦死者のために作ったとしか考えられない。
 邪馬台国九州説の人にはお気の毒だが、九州は中国の基地だった。邪馬台国は岡山氏西大寺でよかった様だ。古代史の謎のほとんどは解けたと自己満足して老後を愉しめそうだ。
 
 第10話 九州にはなかった邪馬台国   3ページ


私より一言---〝吉備古代史の未知を解く〟是非 読んでください。

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2010.10.26

240年の日本   第10話 九州にはなかった邪馬台国

 日本勢力圏  天皇第10代崇神帝
  大和三輪------天皇前進基地
  岡山市古都---皇后行宮(コヅと発音)
  吉備上道国 (邪馬台国--------ヤマトと発音)
   将軍---大吉備津彦命
  吉備下道国 (投馬国---------タマと発音)
   将軍---若建吉備津命
  美作久米国 (狗奴国---------クメと発音)
   天皇軍隊本拠地
   将軍-----日子坐王---ヒコイマスと発音          
崇神天皇の義弟
  島根国 (奴国-----ネコクと発音)
  古事記の根ノ国-----米子平野

高千穂---倉吉平野—政府機関
  (不弥国---フエと発音、由来は笛吹童子) 
高天原---大山・蒜山国立公園内蒜山高原
松江国(末盧国)・島根半島・日向浦(境港)
播磨、但馬、摂津一部(一大率地域)


中国軍占領地 丹波国(含丹後、伊都国、発言イツ、由来---舞鶴)
   伊勢神宮—日巫女(卑弥呼)---崇神帝の妹
 九州、四国、山城、河内、大和の一部 etc

私からの一言---今日から【第10話 九州にはなかった邪馬台国】を転載します。
著者は田村誠一氏 です。発行は 昭和56年10月17日 全63ページ 非売品

魏志倭人伝は、「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国。」の言葉から始まります。
 この30国がどこかは判りませんが、中国軍占領地と書いてあるところになるのではないかと考えています。
このような事を云った方は、誰一人と居られませんが、誰かと誰かが、戦をしませんと、奈良に5000、丹波、但馬、丹後に厖大な古墳が発生することはなかったと思います。

 次のものは、私が、随分前に書いたものです。今使訳所通三十国 の部分を考えたものです。

倭人は帶方の東南大海の中http://homepage1.nifty.com/o-mino/page459.html

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2010.10.23

又有裸國黒齒國復在其東南(2) 魏志倭人伝

前回、又有裸國黒齒國復在其東南 魏志倭人伝
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/10/post-8cb3.htmlを書きましたが、この部分は、判ったにしても、日本の歴史を考える時に、役に立ちません。
 本当は、役に立ちます。例えば、中国に海南島があります。ここは、紀元前後には、中国の支配地ではありませんでした。
 尖閣戦争資料編 苗族 http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1832969/に、当時の地図を掲載しておきました。

 少し、見難いですが、海南島、その上の雲南省、四川省、福建省、台湾は、白くなっています。この地域は、現在は、中国が、自分の領土だと云っていますが、殆ど、領土ではなかったことが判ります。
 だれも、賛成して頂けませんが、雲南省からは、多くの人達が、紀元前にやってきました。そして、稲作を持ってきたと推理しています。海南島からは、古事記に掲載されている少名毘古那命が帰って来て、養蚕と薬の知識を伝えたと考えています。
 この海南島を占領したのは、前漢の武帝の時代(紀元前100年)に珠崖など2郡がおかれたとされています。その後、漢人官吏の搾取に対する抵抗が絶えず、Bc82年に[イ詹]耳郡が、Bc46年には珠崖郡も放棄されたとされています。(この辺り、自信がありません)

 WEBで読んだ範囲では、この時に、既に、厖大な軍隊を船で移動させていますから、中国の船の技術は、相当なものであったと思われます。 
 是は、多くの人を運ぶことが出来た例になります。
 所が、魏志倭人伝には、「又有裸國黒齒國復在其東南」の記述があり、そこまで、一年掛けて、帰って来た話が書いてあることになります。
 
 では、本当に、一年も掛けて行った所に、裸國黒齒國が有ったのかと云うことになります。

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2010.10.21

倭国総動員200万(6)

歴史学者は古事記を全く否定している。しかし古事記は倭国大乱も難升米(クガミミの御笠)を殺した事も書いてあった。
 しかし日本書紀はこの大事件を全く黙殺したのである。漢氏が漢文の才があるためにこようされて中国偏向の日本書紀を、古事記から僅か8年後にデッチあげたのである。
 魏志倭人伝も日本書紀も未だに日本人を惑わし続けているのだ。
 邪馬台国7万戸等の異常な人口は一時的な守備態勢で屯田兵だった。魏軍が全滅して、この人達は故郷に復員して行った。
 古事記には崇神天皇が越と十二道に将軍を派遣したと書いている。この復員した人達の労をねぎらったのである。
 神武天皇が初代天皇と書かれたことも、おかしい、進歩的学者は述べている。
 しかし神武天皇から崇神天皇までの、古代史が謎に包まれた時代こそ、大変な時代なのだ。
 漢氏編集の日本書紀と考えれば、古事記こそ正史だったのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 63頁より


私より一言----今回で、田村誠一著 『第9話 中国人が書いた日本書紀』は終りです。この冊子は、63ページで、発行日は昭和56年9月15日の発行です。
第9話と有ります様に、田村誠一氏は、次の様に8冊の本を書いてこられました。
 
 第1話  『神々のふるさとヒルゼン』      昭和55年11月21日
 第2話  『地図が解いてくれた倭国と邪馬台国』 昭和55年12月25日
 第3話  『ヒルゼン古事記』          昭和56年02月11日
 第4話  『西大寺ヤマト』           昭和56年03月10日
 第5話  『古代史と大江山』          昭和56年04月03日
 第6話  『正史だった古事記』         昭和56年06月10日
 第7話  『崇神天皇の妹だった卑弥呼』     昭和56年07月03日
 第8話  『吉備にあった漢の古墳』       昭和56年08月15日

すべて、50~60ページの冊子ですが、内容はともかく、発行するだけでも大変なことです。
読まれた方の中には、田村氏自身が書いて居られることに辻褄が合わないところなども見付けて、全てを否定される方もあると思います。
 
しかし、これらの冊子は、田村氏の研究の集大成ではなく、溢れてくる考えを書きとめて置かずにはおられなかったのではないでしょうか。それだけではなく、日本史の解釈が間違っていることを知らせたかったのではないかと思います。

どれもこれも、いくらページを増やしても、説明しきれないものばかりです。

『第9話 中国人が書いた日本書紀』では、「山城の椿井古墳」に紙面を費やしておられます。
この部分だけでも、もう一度、目を通して頂ければと思います。

これまでに、9話までと、少し飛ばして、『12話 河を忘れた古代史』を転載してきました。

画面の右の欄に、カテゴリーの名前の一覧表があります。
• ここにの田村誠一氏に捧ぐ  にすべて、治めています。
第10話以降も、掲載する積りになっています。 又、覗いてください。

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2010.10.20

倭国総動員200万(5)

魏は日本攻略のために、中国人では具合が悪いから、高句麗人の難升米に潜入させたのである。 
卑弥呼は173年には新羅に親善使節をだしているから、190年に共立したとあるのはウソだった。
 高句麗人難升米をスパイにして潜入させたのは警戒されない為だったのである。
 卑弥呼は能く衆を惑わすと、あべこべを書いたのは陳寿ではないか。
 魏から貰った詔書の書き出しは親魏倭王卑弥呼で、最後は肩書なしの卑弥呼を以って死すは極めて重大な記述である。死んで葬る時に、肩書が書かれるのが常識である。
 しかし卑弥呼を以って死すとあれば、詔書の書出しの親魏倭王はエサに過ぎなかった。金印だって、おあづけをくったのである。
 倭国大乱とは吉備に漢ゲリラが居って長期戦だったと前稿でのべたが、吉備の造山の古墳の主が、九州の阿蘇の石棺に納められていたため、吉備は完全に占領されていたことが明らかになった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 62頁より

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2010.10.18

倭国総動員200万(4)

奴国2万戸、邪馬台国7万戸、投馬国5万戸があった所は今でも穀倉地帯でこの人達は屯田兵として日本全国から召集された人達だ。
 1戸当り25づつ出征したとすればここだけで35万人の男子が高地性集落や久米国大和の護りについたことになる。
 日本を守るために動員された人数は200万人を下ることはなかっただろう。
 これだけの動員をするからには敵の水軍は何十万の単位だろう。渡洋作戦である以上占領に成功するか、全滅しかない。
 大東亜戦争がそのよいお手本である。従って小部隊の水軍は考えられないのだ。
 240年魏の軍使と朝鮮総督を日本に派遣したのは、この日本軍の配備状況の視察目標だった。
 表敬訪問なら伊都国より先に国内に立入ることはおかしい。しかも240年には北朝鮮の攻略は一段落していない時に、朝鮮総督や軍使が長い期間日本に滞在したから疑問をもつべきだった。難升米が日本に帰るとすぐ帰るとすぐ飛んで来たのは余程重大事件だったと考えたい。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 61頁より

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2010.10.16

倭国総動員200万(3)

邪馬台国九州論では各国の位置の決め方が魏志倭人伝に間違いがあったの仮定をしないことには成立しない。
 次に国である以上立地条件が100%無視されている。古代には最適の要害の地が自由に選定出来たはずである。
 倭人伝に邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸と書かれれば、これだけの食糧が自給されなければならない。
 狩猟を主にするか、焼畑か稲作かによって食糧の自給出来る面積は自ら最小限には限度がある。
 この面積まで考慮した論議がなされたことがあるだろうか。
 ヒルゼン高原は要害の展も食糧補給面積も申分なかった。しかし雪が4ヶ月降り、火山灰土で米は全く取れなかったので、放棄されたのである。
 久米国に軍隊の本拠地が置かれた。この南の護りが吉備で邪馬台国7万戸は吉備上道国であり、投馬国5万戸は吉備下道国で、190年までは漢に占領されていた所である。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 60頁より

私より一言----邪馬台国の位置は、魏志倭人伝に書かれている方角や道のりばかりが話題になっていますが、国の基本は、防御と食糧です。このように考えますと、北九州は、すべて、防御は、駄目。高地面積も狭すぎます。

「投馬国5万戸は吉備下道国で、190年までは漢に占領されていた所である」この文章の
根拠は一杯有ります。
190年と云えば、崇神天皇の御世です。どうして、崇神天皇の頃までかと云いますと、それまでの天皇は、危険ですので、大和にいたり、居場所を変えていたと思われます。
その代表は、大日本根子彦太瓊命 です。
〔大日本根子彦太瓊命 神社〕をキーワードにして検索しますと、楽楽福神社がヒットします。今度は、〔楽楽福神社〕をキーワードにしますと、これ又、一杯出てきます。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-489.htmlは私のブログのものですが、チラっとご覧ください。楽楽福神社は、外にもたくさんあります。どの神社も、由緒が詳しいです。
 いくつかの神社を常に変えながら、危険を避けていたのではないかと推理しています。

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2010.10.14

倭国総動員200万(2)

倭人伝で狗奴国と書かれた所が美作の久米国でここは日本海側からも、瀬戸内海からも攻撃され難い要害の地である。
 奴国の人口2万戸は既に述べた様に、米子平野にあった。久米国の北の門戸でうり、日本海側からの攻撃に備えたのである。
 不弥国は前稿に述べた様に高千穂があった倉吉平野で、ここに300年まで政府機関が置かれていた。
 高千穂が攻撃されれば、直ぐ南の高天原があったヒルゼンに後退すれば難攻不落である。
 鳥取県には大和や京都よりも、小さい県でありながら、日本で一番沢山の古墳があったことは別稿で述べた。
 これ位大和や京都が歴史に登場する以前に古代の都があった証明があるだろうか。
 同時にヒルゼンに高天原が一旦は定められたが高千穂に降りたことも、古事記は事実を伝え神話ではなかったのである。
 ヒルゼンの現地を見ればこれ位要害の地は日本中にないだろう。しかも京都より広い耕地面積があった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 59頁より

私より一言----最近は、兵庫県の方が、古墳は多いです。

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2010.10.12

倭国総動員200万(1)

魏志倭人伝で難升米が魏の都に行った景初二年は、魏が東夷を攻略する、大侵略戦争の最中である。北朝鮮も日本も攻略に対称だった。日本だけが攻略される理由はない。
 学者によっては日本が魏の都に使者をだしたのは北朝鮮平定後だから、景初二年六月は景初三年の間違いだと述べた。
 戦争は北朝鮮も日本も同時攻撃こそ常識ではないだろうか。
 倭国の風俗について「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸も或は二、三婦」と書かれていた。
 アラビヤの王様が一夫多妻なら問題はないが、全人民が一夫多妻は起こり得ないことである。
 アフリカの山中の少数民族が戦争で男が減って男一人女数人になった時には男の子が生れないことには民族は滅ぶのである。
 常に男女の割合が1:1になる様に神の摂理が働く。
 邪馬台国が一夫多妻に見えたのは、男子が大量に軒並みに出征していたためだった。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 58頁より

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2010.10.09

山城の椿井古墳(19)

魏志倭人伝で伊都国の中心は京都府の綾部市であった。ここの鬼ヶ城に鬼道を事としたと書かれた卑弥呼が人質として幽閉されたのである。卑弥呼はもともと綾部市の隣りに伊勢神宮の巫女だった。日の巫女とは天照大神に仕える巫女のことだった。
 魏志倭人伝で245年(正始6年)に帯方郡に軍旗を授け高句麗軍が主力で、丹波周辺に敵前上陸し、卑弥呼を人質に美作の久米国を攻撃した。
 〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれた高句麗でも出土する飛禽鏡はこの時の高句麗人の古墳に埋葬したものと考えられる。
 247年には魏の本国軍に命令が下った。240年に魏の軍使は日本の軍備状況を偵察ずみだから、これらに勝つためには、数十万の水軍を日本に出動させた筈である。
 この大部分は海に沈み、生き残って魏の都に帰れたのは20人だった。
 この古墳が丹後半島等に散在することになった。方墳は高句麗人だし、神明山等の前方後円墳は魏の将校の墓だろう。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 57より

私より一言----このページのようなことは、プロの人も素人の人も 誰も無視されると思います。
豊岡市に森尾古墳が有ります。この古墳から、
三角縁同向式神獣鏡(銘帯<文字>「正始元年 陳是作竟自有径辻本自州□社地命出 寿如金石 保子宜孫□□」、の銅鏡が出土しました。
魏の国から派遣された人が、魏の国を出発するときに、身分を証明する物のとして、製作し渡されたものと思われます。この古墳には、もう一枚,三角縁神獣鏡が出土しています。 第1竪穴式石室からは紀元前後の頃の方格規矩鏡も出土しています。 この三角縁神獣鏡は魏の国では、一枚も出土していませんから、帯方郡に住んでいた高句麗軍が出兵するときに、与えられたものと思います。
現在の北朝鮮から船で日本を目指しますと、丹後から越後あたりに着くと思います。 このように考えますと、但馬にやってきたことになります。
 
森尾古墳のことは、〔但馬を探る
に書いている所です。

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2010.10.07

山城の椿井古墳(18)

銅矛の分布図から九州の海の正倉院、沖ノ島が漢ノ基地だったことも明らかになった。
 更に四国の讃岐も占領されていたことになる。〝吉備古代史の未知を解く〟で漢が占領していた吉備と河内にある石棺の石の産地に讃岐の火山石が使用されていた。
 漢軍の将校の古墳には、漢軍が占領した地域の石しか使用出来なくて当然だったのである。
 筑摩書房の古墳、造山と並べて丹後の神明山古墳がある。これも古墳の主は日本人ではなかった。
 〝謎の古代史--京・近江〟 92頁に神明山古墳周辺に大型の前方後円墳が多いことが書かれている。漢の銅鏡が出土すれば漢軍だし、魏の銅鏡が出土すれば248年頃の魏本国の将校の古墳だろう。
 前稿〝古代史と大江山〟でも多少触れたがこの丹波(広域)は舞鶴湾の良港があるために、何回か日本侵略の拠点に利用されるのである。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 56頁より

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2010.10.04

山城の椿井古墳(17)

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銅たく圏について前稿でも述べたが、最新文献、筑摩書房の〝日本古代史〟39頁の銅たくと銅矛の分布図を見て欲しい。
 この地図に示された銅矛が出土した所が、107年から190年まで、漢軍が占領していた地域と考えたいのである。
 前にも引用させていただいた〝吉備古代史の未知を解く〟で阿蘇の石で石棺を作らざるを得なかった古墳の主は漢軍の将軍だと述べて来た。
 この古墳は吉備に限らず、山城と河内でも出土し、銅矛のの分布、漢氏の分布とも一致していたので、この地域は漢軍の占領地だったことが三重に証明されたことになる。
 漢では墓には鏡、矛と玉を埋葬する。この玉については、〝日本古代史〟で出雲と加賀で大量に作られたと書かれた。
 しかもこの玉の産地から小形銅鏡が出土したので、漢の軍隊が玉まで作ったことになる。
 漢本国は末期症状で銅鏡も玉も支給出来なくなって、銅鏡まで小形にし、玉までも作らざるを得なくなったと解するべきだ。

田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 55頁より

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2010.10.02

山城の椿井古墳(16)

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椿井大塚古墳から40数枚の漢の銅鏡が出土したことについて〝謎の古代--京・近江〟は最新文献でしかも、高名な学者が自らの学徒動員の体験から、この程度の鏡は日本で出来た可能性があると述べたことに異議をはさむものである。
 中山王国の銅たくは素晴らしい出来ばえだが日本の銅たくは極めて幼稚でこれでは銅鏡の文様は出せる筈がなかった。
 漢軍は戦死者のために石棺を作る石工まで中国から連れて来た。戦死者は何時生じるか分らないし、大量に必要だから、年号なし銅鏡を準備した。


田村誠一著 第9話 中国人が書いた日本書紀 53頁より

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2010.10.01

又有裸國黒齒國復在其東南 魏志倭人伝

魏志倭人伝に、侏儒国・裸國・黒齒國の事が書かれています。この3つの国の事は、良く解らないらしく、人それぞれです。しかし、皆さん果敢にアタックして居られます。

邪馬台国を行く(侏儒国)
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai08.htm

黒歯国・侏儒国は本当にあったのか
http://www.inoues.net/mystery/kokusikoku.html

『よみがえる魏志倭人伝』
http://wakokujyoou.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-433a.html

読み比べてください。
『よみがえる魏志倭人伝』には、次のような原文を掲載して、見事に説明して居られます。
原文
・ 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
・ 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
・ 又有裸國黒齒國復在其東南
船行一年可至
このページの筆者は、上の原文を掲げ、〔復〕と〔又〕は読み変えなければいけないと書いて居られます。その通りだと思います。

そして、次の様な解釈して居られます。
復の本義は「往来」ということなのである。又はその代替詞であるからそのまま「往来」の意となる。
従ってこの部分の訳は、
・ 女王国の東、海を渡ること千余里にて往来ある国に至るが、これらはみな倭種である。
・ また侏儒国もそのひとつであり、その南にある。人のたけ三、四尺である。女王からは四千余里離れている。
・ 裸国・黒歯国も往来の有る国々の倭種である。その東南船行一年で至るであろう。
即ち、原作者は侏儒国、裸国、黒歯国といった倭種の国々とよく行き来している、ということを強調したかったのである。

侏儒国、裸国、黒歯国は、何処にある国かとなりますと、百人百様の感がありますが、結局解っていません。
『よみがえる魏志倭人伝』
の作者も出だしは良かったのですが、次第に研究にはまり込んで、ご自分は理解して居られるのですが、どうして、このような事が魏志の国の歴史書の倭人伝のところにかいてあるかということは書いて居られません。

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