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2010.11.29

三角縁神獣鏡(9)

地図を眺めていると、そこに歴史がヒソンでいる様に思える。しかし学者はなんとしてでもケチをつけることだろう。
 偶然と云われれば、これに反論出来る根拠は何一つない。古代史のケンカ、敢えてケンカと申したいがこれは科学と事実の無視である。少なく共地名は事実の一つである。
 この事実の上に推理を進めて、おかしくなった時に、この推理は間違いだったとすればよい。しかるに例えば鏡山は鏡を作った証拠がないではないかかと、日本の学会は先づ芽をつむことに全力を傾倒することだろう。
 余談はさておいて鏡山の北4キロの所に採銅所と書かれている。ここは広い村だった。参考までにこの周辺には金田町、勾金村、猪位金村と金のつく地名が多かったが町村合併でなくなっている。
 何か金属に縁のある地名や鍛冶屋敷まであるので銅鏡の生産地
としての資格がありそうである。
 採銅所村の西隣りの方城町が中国軍の本部であったと考えたくなるのである。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 27ページ

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2010.11.27

三角縁神獣鏡(8)

倭国大乱と引継いて卑弥呼の登場を中国の正史に書き残さざるをえなかったのは、あまりにも多くの戦死者を出し、更には大量の敗残兵を日本に残して来たためではないか。
 九州の中国人と朝鮮人はこの時代には敵味方であった。朝鮮の北の帯方郡は中国に占領されていた。従っていくら朝鮮が近くても朝鮮には逃げられなかった。
 この敗残兵を日本人は鬼と呼んだのである。吉備の中国人は大吉備津彦将軍達に攻撃されて鬼ヶ城で最後の一兵まで殺された。
 行橋付近の敗残兵は地図の御所ヶ谷神籠石に立てこもったのである。
 (地図は、三角縁神獣鏡(6))
 この神籠石の西に図師があり、銅鏡の文様をデザインした人が居っただろう。
 この西4キロに呉サンが居ったと地名を愉しむことだ。
 仲哀天皇は九州征伐の途中でなくなったが仲哀トンネルとその名があるのは不思議だ。
 問題の鏡山の地名も残っていたのである。採鉱所村の周辺にこれだけ地名がそろえば、地名は歴史なりと云えないだろうか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 26ページ

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2010.11.25

三角縁神獣鏡(7)

24p_2


日本書紀の景行天皇12年8月の項を上に示しておいた。これから19年9月まで、九州にあって賊を征伐したのである。
 景行天皇は豊前国の長狭県に行宮を建て、この所を京(ミヤコ)と名付けた。地図の小倉南区やこの南はすべて福岡県京都郡(ミヤコ)郡である。
 行橋市を流れる川は長狭川で日本書紀の県名と同一だから、御座の地名の所に行宮があったのではないだろうか。(前回の地図をご覧ください)
 この付近の4つの川の上流に賊が居ったと書かれている。
 行橋の西に採銅所村があった。(現在は香春町に合併)
 賊とは中国軍の敗残兵と考えたいのである。魏の軍隊は245年247年と二回出動したが大敗して、魏の都にたどり着いたのは20人に過ぎなかった。
 何万か十万かの中国人と一部高句麗人は日本に置きざりにされたのである。
 日本軍が南方でジャングルに逃げたのと同じことが1700年昔にあったのである。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 25ページ

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2010.11.23

三角縁神獣鏡(6)

20p


三角縁神獣鏡は中国の占領軍の死者が多く、しかも長期になって漢の補給がなくなって、日本で作ったのである。
 魏の鏡とは無縁で良かったのである。最後には銅か足らなくなって小形銅鏡になった。一つには戦死者が増加した理由もあるだろう。
 銅鏡より簡単な銅剣は早くより日本で作った筈である。しかしこの銅が何所かは未だに知らされてない。
 8月16日の日本経済の記事を示しておいた。現在は2300年前の出土品の銅が、
何所の産地かが質量分析装置で分かる時代である。
 従ってやる気になれば日本の銅山が該当するか否かを調べればよい。
 九州を地図で探した所、採銅所村があり、鏡山、図師、呉まで同じ村にあった。
 いずれもわたしが中国が占領していたと述べて来た地域にあったのである。残る候補地は島根県の石見銀山である。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 21ページ

本文に書かれている採銅所村があり、鏡山、図師、呉の地図は次に掲載します。
22p


23p


私から一言---三角縁神獣鏡も6回目になりました。
日本史において、謎を深めているものの一つに三角縁神獣鏡が有ります。読んで来られて、馬鹿なと思われる方も多いと思いますが、私は、書いてある通りと思っています。卑弥呼が貰ったという鏡と三角縁神獣鏡とは関係は無いと思います。
 その大部分は、お墓の中から見付かっています。確かに、国宝にしても良いですが、
上に添付しておきました新聞記事にある<中山王国の青銅器>を拡大して読んでください。
 この国は、地図でも分るように、北京から50~60キロの所にあったものが発掘されました。
写真のものは、[鉄足大鼎]と書いてあります。足が鉄で、上が銅でできていると云うことです。どうして、全部銅か、鉄で作らなかったか・・・・。融点の異なる鉄と銅をどうして合体させたのか、そりゃ簡単でしょう。はじめに鉄で足を作って、その上に銅で大鼎を継ぎ足したらいい???。そうしたら、くっつくのでしょうか。
 文に書いてある通り、略奪した銅を使う程、中国でも銅は貴重品であったことが分ります。
 この人達が、日本へやってきた可能性は強いです。中山大国が出来たのが、前530年、滅びたのが前296年です。
 三角縁神獣鏡の多くは、呉の国の人が作っていたと思われますが、、[鉄足大鼎]を作る技術が有ったのですから、三角縁神獣鏡などを作ることなどは簡単なことでした。

o71 中山王国の人は、日本の縄文人?
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-10-10
イザナギは中山王国からやってきた
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page673.html

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2010.11.21

三角縁神獣鏡(5)

18p


中国の考古学者が三角縁神獣鏡は、呉の人が作ったと発表して大問題になった。この論文の全訳文は毎日の9月21日付に、全面で発表されている。
 他の新聞例えば朝日の見出しは上の如くで誤解を招き易いことおびただしい。卑弥呼がもらった魏の鏡と三角縁神獣鏡は別物だと本文を読まない人にも間違いを起こさない様に報道すべきである。
 第9話で石棺を作る石工まで中国は連れてきたので銅鏡だって日本で作ったと述べたが証人が現われたのである。
 魏の銅鏡は戦死者を100人予想してもらって来た。しかし難升米は日子坐王に殺されこの鏡は没収された。
 ゲンの悪い鏡はつぶされた筈だと述べておいたが目下の所出土していない様だ。
 何のために呉の人が日本まで来て大量に銅鏡を作ったかが重要で、これが古代史を解く鍵である。中国は日本書紀を占領し石棺の職人まで連れて来たとの発言に対し、呉の鋳物師が来たことで有力なてがかりが出来た。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 19ページ

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2010.11.19

三角縁神獣鏡(4)

250年間も九州は占領されていたと聞かされては、耳を疑いたくなるだろう。
日本書紀で12代景行天皇は足かけ8年かけて九州を征伐している。単なる行幸ではなかったことは別稿を見ていただきたい。
 日本書紀の年代はあやしい。しかし一連の出来事が書かれた時には、例えば九州征伐に8年かかったことは、ある程度信用してもよいのではなかろうか。
 邪馬台国が九州にあったと主張する人は、日本書紀や古事記を一度目を通して欲しいのである。
 邪馬台国があったとお考えの所は、景行、ヤマトタケル、仲哀、神功と何回となく征伐され、邪馬台国と思われる所は地上から姿を消したことになる。
 残ったのは漢の銅鏡と鉄剣だけだった。
 朝鮮の三国史記には新羅や百済と九州の交流は書かれてなかった。この国にとっては九州は善隣国どころか敵国だったのである。これも従来の考え方と全く反対である。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 17ページ

私より一言---「例えば九州征伐に8年かかったことは、ある程度信用してもよいのではなかろうか」と書いて居られますが、九州は中国人に支配されていました。その中国人が征伐される話を中国人である藤原氏が、これでもかと書きたくないと思います。
 12代景行天皇は足かけ8年かけて九州を征伐したという記述は、10年掛けたと検討し直しても良いと思います。
 年数は別にして、結構、ダメージを与えたのではないかと推理しています。

天皇にすれば、大勝利をした天皇は、陵墓が大きいのではないでしょうか。
 崇神天皇と景行天皇は、並んで、造られています。
 どうしてあんなに大きいのか、実際に行った人の子が分る事だと思います。

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2010.11.17

三角縁神獣鏡(3)

漢は184年に黄巾の乱が発生し、日本に補給することがストップした。更に188年には漢の霊帝が、死に、スペイン風邪の猛威は日本にも及んだのである。
 この時に吉備は征伐され、漢軍の瀬戸内海の制海権がなくなった。
 吉備には最初の石棺を使用して立派な前方後円墳を築いた。しかし持久戦となると古墳もお粗末にするし外なくなり、海運力も衰えて九州から
石棺を運べなくなったとことと思われる。
 石棺に高砂市の竜山いし四国の火山石、二上山の石が登場してくる。
 この石を加工する人を中国各地から、しかも進駐の最初から連れて来た。石の産地毎に石棺作りが違っていたことは〝吉備古代史の未知を解く〟に解明されている。魏の職人も呉の職人も交っていた筈である。
 石棺を納めた古墳の形式で年代を決めることはおかしいのであって、科学的な手段で何年と割り出すべきである。後稿で述べるが数十年の誤差は生じないまでに科学は進んでいる。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 16ページ

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2010.11.15

三角縁神獣鏡(2)

漢は建国以来周囲の国々を征服して回った。漢の都から数千キロ離れた西域でも何十万の軍隊を動員して来た。
 天山山脈の少数民族がまさか漢の国を征伐することもないだろう。雲南の少数民族を亡ぼしても得ることがあったろうか。
 ベトナムまでも水軍を派遣した無茶苦茶な国が九州の僅か1000キロ西にあったのである。
 中国史を読めば漢が日本だけは侵略しない理由を発見することは難しい。
 今でも学者は中国からは朝鮮経由でないと来られないと思い続けている。
 しかし巨石を瀬戸内海を九州から山城までも運んでいたのである。
南朝鮮は漢の未占領地だから、朝鮮経由の交流が行われる筈がない。航海術は想像以上に進んでいたのである。
この魏志倭人伝には倭人は中国のはるか南だが海南島の風俗と似ているまで証言してくれている。中国人も日本人も航海にたけていたとなぜ考えないのか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 15ページ

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2010.11.13

三角縁神獣鏡(1)

中国には墓に剣とか矛と銅鏡と玉を入れてもらわないと生仏出来ない民族である。日本でもプリントした六文銭を棺に納めるのと同じ風習である。
 人ごとだと笑ってすますことは許されないだろう。
 万障を繰り合わせても、日本に進駐して来た、漢軍兵士のためには銅鏡を手に入れてやらないことには、指揮に影響しただろう。
 天皇の軍隊は何回か繰り返し述べた様に美作の久米国に本部があった。このことは古事記には久米のつわものと書かれている。
 日本書紀は第9話で述べた様に、美作の中国人すなはち敵国人が書いたので、久米とかいたり来目と書いた。なぜ久米に統一なかったかが解く鍵である。
 この久米のすぐ隣りの吉備に、九州の阿蘇の石棺が沢山運ばれていたのである。
 巨石を海も陸も運べたことが古代史の謎を解く鍵である。東支那海は季節風にのって九州には安全に渡れたが、西行は危険だったことを頭に入れて古代史を考えることだ。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 14ページ

私から一言--今日から三角縁神獣鏡のことになります。

古墳から出土する鏡は、その古墳のことを考えるときには、重要だと思います。政府は、これらの資料をインターネットで公開すべきです。 画像は、見るだけで、いろいろのことが分かります。今回の尖閣諸島のことも、はじめから公開すれば、中国の人でも、船で生活するものが、どのような理由が有っても、相手の船に体当たりをすれば良くないことは分かってもらえる。 それなのに、政府の人は、損得ばかりが、頭にあるために、重大な失敗をしました。
 資料は、専門家だけが所有することは間違いだと思います。

三角縁神獣鏡は、日本で造られたものです。 なぜかと云いますと、今のところ、中国では出土していないと中国の学者が云っています。

この機会に、もう一度 見直したいものです。

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2010.11.12

吉原神社と大河原神社(5)  古事記を読む

イザナギはイザナミを連れて帰ろうと黄泉国を訪問したのですが、見てはいけないと云われていたのに、見難い姿になっているイザナミを見たために、辱めを受けたとイザナミに叱られ、追いかけられます。
 やっと、追っ手から逃れたイザナミは、穢れたと思い、禊をしたことが、古事記に書かれています。(追ってはだれか分りますか)

 田村氏はどうして、白水川を登って、大瀧のあたりで、禊をしたと考えたかは、理由が在りました。何処の川で身体を洗っても、良い筈です。田村氏は、溝口の近くの白水川だと思われました。白水の白は、イザナギが白王と云われていたので、その[王]だと書いて居られます。このようなことは、誰も書いて居られません。
続いて、近くには、大内、大倉、大江川と、「大王」の大の字が付く地名を発見されました。大と云う字がつく地名はいくらでもあります。どうして、と思われるでしょう。きっと、地図を眺めない日は無かったのではないかと思います。
 ただ、この様に、少しずつ、気になりますと、おかしいことに、このような事は、頭のどこかに格納されます。そして、ある日、急に、結ばれることになったのだと思います。
 一つずつであれば、馬鹿らしい話であっても、全部がそろいますと、イザナギという人は、神話ではなく、実在した人である事が浮かびあがってきます。

田村氏は、もう亡くなられておられませんので、どのようにして、次々、見つけられたのかお尋ねするわけにはいきません。
 その見付けられた順序は判りませんが、きっと、この順序であろうと思われる順序で、判っている事を紹介していこうと思います。

 先ずは、イザナギとイザナミが住んでいたのは、高天原ですが、これは何所にあったかです。これは、ヒルゼン高原にあり、宮城は中蒜山の五合目にありました。ここには、現在、小さな祠が有りますが、これを日留宮と呼んでいます。北緯35度18分です。ここから真西へ行きますと、笛吹山が在ります。その真西に、御墓原という地名が在ります。ここは会見町と云います。その真西に、比婆山神社が在ります。ここが、イザナミが葬られた所です。全部、同一緯度に並んでいます。

 どうして、日留宮--笛吹山--御墓原--比婆山神社の4ヶ所が、同一緯度上に並んでいることを、田村氏は発見されたのか判りません。
 すくなくとも、言える事は、日本書紀を読んでいては、見付かりません。古事記に書いてある事が、正しくて、神話では無いと信じていませんと、見付からなかったと思います。


以前に、次の様な事書いています。
笛吹の国
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/11/post-a0db.html大国村
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/11/post-0eb7.html上に書きました御墓原--比婆山神社の間に、かつて、大国村があり、ここに倭という地名が在りました。この〔倭〕は、ヤマトと発音し、今も地名としてあります。
ここへ行ってきましたが、この近辺には、古事記に出てくる話に関連ある神社がいっぱい有ります。
 古事記から、神社を作ったのではなく、神社が在った所へ、ここへ訪れた、稗田阿礼が、これこれの神社に、これこれの神さんが祭ってありましたと太安万侶に報告したので、それを元に古事記を書いた。ここの倭は、倭国の元になった所である。と・・・・。

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2010.11.11

壊されていた古墳と銅鏡(6)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

12p


毎日新聞社から出版された最新の〝邪馬台国はここだ〟には銅鏡の出土地のリストがあって大変ありがたい本である。
 この294頁を上記に引用させていただいた。この著者は卑弥呼の墓を平原遺跡だと断定されている。
 ここには日本で最多数の銅鏡が埋められていた。しかもこの銅鏡が全て壊されていたのである。壊れていたのではなかった。
 古墳や銅鏡が壊されていた謎はこれで解けた様である。吉備の古墳の主は吉備人の敵の中国人だったのである。
 銅鏡は日本人が好むどころか、こわされ、アベコベに、にくらしかった証拠が出て来たことになる。
 吉備の古墳は大和より先につくられたことが科学的に立証された。これもアベコベだったのである。
 先任教授と違った意見をだすと、破門されたり友達づきあいが悪くなると古代史の大家樋口清之教授が〝大和の海原〟に書き残された。これこそ歴史学会の性格ではないか。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 13ページ

私から一言---本日で、田村氏の壊されていた古墳と銅鏡は、お仕舞いです。田村氏は、歴史に関しては、全くの素人です。私も全くの素人です。私は、田村氏の真似をして、田村氏の云われた事を、考えるだけではなく、見るようにしてきました。
 なにを見る様にして来たかと云いますと、博物館、資料館へ行った時に、全部見ると云うことです。判らなかった土器などもみるようにしています。古墳も、絨毯式に、全部みるようにしています。同じ、全部をみるにしても、以前は、車で行いましたが、最近は、全部歩いています。そうしますと、来るまでは通れない道も歩くことが出来ます。
 今、大神神社から、天理まで、三輪山に沿って歩いています。有名な箸墓古墳やホケノ山古墳も勿論、入ってきます。全部、〔おかしな世の中〕http://asilka.blog61.fc2.com/
に納めています。
 付けくわえたコメント、読まれなくて結構です。お近くの方は、実際に歩いてください。全部行きますと、田村氏の云われるように、古墳は内容物が、盗まれてり、壊されたりしている事を発見できます。その壊れ方が問題です。

無くなっているから残念がることは有りません。無くなったことも歴史です。壊された事も歴史です。例えば、九州の古墳からは、銅鏡が出てきます。出土しなかったからと云って、飛ばしますと、ものは見えません。九州の古墳の銅鏡を全部、頭に入れていますと、素人であっても、高齢でも、頭が働くようになってきます。
 田村氏の考えが正しいとは限りませんが、私は、次第に、正しい様に気になっています。

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2010.11.10

吉原神社と大河原神社(4)  古事記を読む

大坂の地名は判りましたか。 次に有ります。
地図 大坂 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351948&l=1332847 
 この地図をスクロールさせてどのような地名があるか、眺めてください。
大瀧の外に、大内、大倉、大江川、白水、福兼、福永があります。大江川を下っていきますと、大江という集落が有ります。「江」は、川の意味です。従いまして、大江川の名前は、川が二つ重なっておかしいことになります。大倉の隣りに、〔富江〕という集落が有ります。「富める川」だったのでしょうか。
 私には、地名は、いつもこの様に見えてくるのです。 
これらの集落は、白水川の近くにあります。「大」は、大きい時に付けられる地名です。大瀧、大坂、大倉 これらの所には、大きな瀧、大きな坂、大きな倉が在るのでしょうか。行ってみませんと分かりません。若し、無いとしますと、この「大」は、大王の大とみます。白水川の「白」は、白王の白。福兼、福永の「福」は、中国の福建省から来た人達が住んだ所。 どれもこれも、そんな馬鹿な事と思われるでしょうが、そのように考えられたのは、田村誠一といわれる方です。
 白王とは何だと云いますと、イザナギことです。滋賀県近江八幡市の多賀町の近くに、〔白王〕という所があります。高天原にいたイザナギが、その後、ここに遣って来て住んだから、白王の地名が残っていると説明して居られます。
 こんな話を聞くと、いい愈々馬鹿らしくなるかも知れません。

 私が確かめたのは、この地図のこの辺り一帯では、稲作が行われていることです。大倉をご覧ください。集落の北には、狭い所まで田を作って有ります。この田は、最近になって、作られたものかも知れませんが、大倉の人は、いつから住んで居られるか分りませんが、稲作を知って居られる方です。地図の記号は、縦に2本線がそうです。

 標高も確認してください。400~500mあります。これぐらいですと、棚田と思います。
 大内、福兼、福永も、この様に、確認してください。
福兼、福永は、現地に行きますと、判ると思いますが、きっと、古い地名と思います。

大切なのは、吉原神社と大河原神社は、海から離れているのに、底筒男命、中筒男命、上筒男命と底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命を祭っていると云うことです。
 どうして、このような所に、海の神さんが祭られているのだろうと田村氏は考えられたことになります。
 どうしてかと云いますと、古事記に登場します高天原は、いろいろの説が有りますが、九州と奈良と云う説が、一般に信じられています。
 田村氏は、高天原はヒルゼン高原だったという本を読んでから、調べる程に、これは確かだと考えられる様になり、古事記に書いてあることは本当だと思われる様に成りました。
 ヒルゼン高原に高天原が在ると成りますと、イザナギがイザナギの後を追って逃げ帰る話が古事記には書いてあります。
 イザナギの身体が汚れたので禊をしたことが書かれています。その時に、次々とアマテラスやスサノオが生れたことなどが書いてあります。
 ヒルゼン高原に帰る途中で、イザナギは、ミソギをしたはずだと考えを進めながら、地図を毎日、眺められて、此の地がそうだと思われたのでしょう。
 続きは、次回に。

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2010.11.09

壊されていた古墳と銅鏡(5)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

〝吉備古代史の未知を解く〟には今一つ壊された、しかも古代史を解く上で重要な円山古墳について52頁に書かれている。
 この石棺の石は四国のさぬきの火山石である。これも高砂の竜山石が入手出来なくて、瀬戸内海の対岸から重量物を運ばざるを得なかったことになる。
 この古墳からは主として三角縁神獣鏡が30面近く出土したのである。
 しかも大切なことは石棺の外側には装飾文が掘られていたのである。
 高砂の竜山石が使用出来なかったことは、ここが日本軍に制圧されたためと考えれば良いだろう。
 四国も中国軍に占領されていたが、日本軍は攻める船がなかった。日本書紀の崇神天皇の時に始めて船を作ったと書かれていた。
 四国は一番後まで、恐らくは景行天皇の頃まで占領されていたのではないか。
 ここから伊勢、東海、環等と侵略を続けたものと考えられる。気座と四国が高炉があったので四国が占領されていた証明になった。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 11ページ

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2010.11.07

吉原神社と大河原神社(3)  古事記を読む

古事記と日本書紀は、似たような事が書いてあると思われる方が殆どだと思います。
丁寧に読んで頂きますと、全く違います。
古事記には、自分達と共に、生きて来た仲間の人がどのような人であったかと云うことが書いてあります。主に、その時のメンバーの名前です。

 一方、日本書紀は、古事記と似たことが書いてあります。どうして似ているかと云いますと、712年に完成した古事記には、自分達にとって、都合の悪いことがいっぱい書いて有りましたので、古事記に書いてあることの一部を書き変えるか、抹殺しようとしました。
そして、自分達の先祖が誰であったかを書くことが重点になりました。
但馬の歴史を調べていましたら、経津主命の事が浮かびあがってきました。

日本史 但馬の歴史(92) 茶すり山古墳(92) 経津主命
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1878106/ ここに書いています。

藤原氏の先祖は、天孫族の一人である経津主命であることが分ります。
 (本当は、天孫族と違いますかが、天孫降臨の時に、アマテラスから命令された重要な仕事である国の明け渡しを大国主神に認めさせたから、藤原氏としては、天孫族の一人だと考えたのでしょう )
それに加えて、歴史上から一度、消えかかっていた物部氏のことを復活させようとしている様に思います。

古事記は、どのようにして作られたかと云いますと、天武天皇が、今のままでは、数年もすると、天皇家の歴史は、書きかえられてしまい、天皇家も無くなってしまうので、せめて、正しい歴史を書き残したいと願ったことが、古事記の序文に書かれています。

いくら天皇家の歴史が云い伝えられて、残っていたにしても、すべて残っていたのではないと思います。どちらかと云いますと、殆ど、残っていなかったのではないかと考えています。
そこで、天武天皇は、作るだけを命じたのではなく、調査をするようにも命じ、正さなければならない所は、訂正しなければいけないと考えたのではないかと推察しています。

命じられたのは、多くの人ではなく、少ない人に依頼したのではないかと。
依頼された人は、記録に残っているだけでは、太安万侶と稗田阿礼です。他にも数人は居たでしょうが、調査したことは、漏えいしない様に、書き残すことはできるだけ避けて、稗田阿礼に暗誦するように命じたと思います。

記紀や風土記を読みますと、共通する点に気が付きます。それは、地名と神社の神さんです。地名は、いい加減に付けられたものではなく、理由があって付けられたと思われます。そこで、記紀でも、そこの地名がどうしてつけられたかのイワレが書いてあります。
神社の祭神は、普通は、その土地に住んでいる人の先祖の人を祭っています。
この点をポイントにして、稗田阿礼は神社を巡ったり、その土地に行き、地名の由来を聞いたり、古老から聞いて歴史を探ったりしたと思われます。

次に神社の例をあげます。

吉原神社と大河原神社の場合は、地名ではなくて、祭神がポイントです。
大河原神社 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命 です。
吉原神社
祭神 稚日女命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大日孁尊、大山祇命、美佐々伎命、誉田別尊、天津児屋根命

今日は、 大河原神社 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、の神だけに注目し、吉原神社の方も、
祭神 、底筒男命、中筒男命、上筒男命、に注目します。
断定できませんが、底津綿津見命は海の神さんです。底筒男命は、海と川の神さんです。

どうして、この様な山の中に、海と川の神を祭っている人達が居たのでしょうか。


【おかしな世の中】http://asilka.blog61.fc2.com/ で検索をします。
キーワードは、〔上筒男命〕です。結果は、下の通りです。
1. 吉原神社 村社 日野郡
2. 住吉神社  村社 東伯郡
3. 東郷神社 郷社 東伯郡
4. 上長田神社
です。
次は、キーワードは、〔上津綿津見命〕にします。
1. 大河原神社 村社 日野郡
【おかしな世の中】には、鳥取県の神社しか入っていません。

この二つの結果から、何が発想出来るかと云いますと、上津綿津見命を祭る大河原神社では、海からやってくる人と交流のある人が住んでいたと云うことです。

 例えば、上長田神社は何所にあるか、クリックしますと、資料が出ますから、そこの地図の部分をクリックしますと、直ぐに場所が分ります。
http://www.mapion.co.jp/m/35.3372080555556_133.329573055556_7/
地名は、上長田です。「田」と付く地名では、稲作が行われていたから地名として残っています。祭神を見なくても、ここの土地は、天皇家の苗族の人が入植された所だと推察出来ます。
この様に考えますと、上長田神社の祭神を見てください。最後に、經津主命が書かれています。この神は、藤原氏が勝手に付けた神の名前です。古事記にはなく、日本書紀にのみ登場します。
 上長田神社は645年以降に、藤原氏の支配下になったと考えて良いと思います。

次回は、吉原神社と大河原神社の近くの地名や神社を探ってみます。

地図 吉原 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351950&l=1333104
伯耆町に大坂 大瀧の地名が在ります。大倉 白水。福兼、福永。 なにか共通点が在りますか。

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2010.11.06

壊されていた古墳と銅鏡(4)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

大阪の四天王寺は日本で一番古い寺である。その庭園の橋に石棺のふたが使用してあった。古墳を壊して、ふみつけてウップンをはらすために橋にしたと考えたら思いすぎだろうか。
 〝吉備古代史の未知を解く〟50頁にこの石の産地について書かれている。
 この石の産地はすぐ近くの大阪と奈良の県境の二上山の石だった。
 これだけなら大した問題にしないでよいだろう。
 しかしこの二上山の石は日本刀で有名な備前長船の築山古墳の石墳にも使われ、この古墳も壊されていた。
 壊されていたから調査が出来たとも考えてよいだろう。古墳の主は河内や吉備の住民の敵だったのである。
 河内と吉備の敵は同じ氏族でしかも、巨石を瀬戸内海を運搬する技術を持っていた。 
 この時期には吉備に一番近い竜山石が使用出来なかったので播磨は日本人の手にあった。航海権を持っていたのは中国軍で、河内まで占領していたことになる。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 10ページ

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2010.11.05

壊されていた古墳と銅鏡(3)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

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鳥越氏は〝古事記は偽書か〟の本を書かれ古事記は偽書なりと言明され、日本書紀を正史扱いされた。
 この日本書紀の崇神天皇の項に大物主命を祭ったいわれが書いてある。
 「大物主命を御諸山に祭れば、平和がすぐ来るだろう。海外の国も自ら帰伏するだろう」と神のお告げがあった。
 第8話、第9話で述べた様に倭国大乱は崇神天皇の御世だったことが日本の本にも書かれていたのである。
 海外がすぐ帰伏するだろうとは如何に解釈すればよいだろうか。
 まさか隣国の新羅や百済が帰伏すると考えるのはおかしい。
 むしろ日本国内に外国が占領した所があったと考えたいのである。
 崇神天皇が西道に将軍を遣わした所に敵国の占領地があったと日本書紀の解釈が出来る。
 鳥越氏が吉備王国があったと思われた所は日本書紀が敵国だと真実を伝えてくれたと考えるべきではないか。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 7ページ

私からの一言---このページは大切な事ではないかと考えています。
日本書紀を作ろうと考えたのは、藤原不比等だと思っています。中国人は紀元前からどんどんやってきたことを何度も書いてきました。その証拠は、いっぱい有ります。歴史と云いますと、最近は、考古学抜きでは語れないようになりましたが、敢えて、違う物差しを利用するとしますと、「龍王山」があります。
 どうして、中国人が龍を好むようになったか、判らないのですが、「龍王山」も中国人とは関係があったと考えても良い様に思っています。
 その代表は龍王山で、岡山県が最多です。

No350 岡山県の龍王山
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-11-18 詳しい分布図が、表示できません。次の所に、2ヶ所あります。スクロールさせて探してください。http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343016&l=1333556
奈良県の天理市に龍王山があります。この麓は、奈良で最高の中国人が活躍した所ではないかと推理しています。少し、南下しますと、大神神社が在る地域になります。ここは現在では、桜井市になります。そこで、先日から、続けてこの地域を訪れて古墳を調べる気になっています。
 【おかしな世の中】http://asilka.blog61.fc2.com/に、訪れた古墳について書いています。

天理市の天理大学で現在、東大寺山古墳で発掘された出土品の展示をしています。
http://www.tenri-u.ac.jp/calendar/q3tncs0000004d8r.html
天理参考館は昭和36年の年末から37年の年明けにかけて、天理市にある東大寺山古墳の発掘調査を行いました。その結果多数の出土品の中から、中国後漢の年号「中平」の文字が刻まれた鉄刀がみつかりました。
 中平の時期は、卑弥呼が生きた時期と重なります。この謎の鉄刀は、どのような経緯で東大寺山古墳に納められたのでしょうか。
 2010(平成22)年は、天理参考館の創立80周年にあたります。その記念特別展として、東大寺山古墳の発掘調査の全容を振り返りつつ、出土品をご覧に入れたいと思います。

◆会期:2010(平成22)年9月22日(水)~11月23日(火・祝)
◆会場:天理参考館 3階 企画展示室1・2

日は残り少ないですが、行く積りになっています。

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2010.11.03

壊されていた古墳と銅鏡(2)  第10話 九州にはなかった邪馬台国

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古代吉備王国と鳥越氏や間壁氏の本の題名にもなった。従ってわたしも日本人の別グループが吉備の大名の様に、自分達の縄張りを作っていたと、まどわされて来た。
 そのため最初の中は倭国大乱を中国人のゲリラ活動と思いこんだ。ゲリラ活動ならば何十年続くことだって可能性はあった。
 しかしこれ以外で長期の内乱があり得る理由がなかったのである。
 巨大古墳の石棺が九州で作られたことで、古墳の主は吉備人ではなかったことになる。
 巨石まで運べたことで、東支那海だって、船団を組んで渡洋出来る能力のある氏属が、吉備まで集団で来られることが証明された。
 吉備王国と云われて来たのは、吉備人の王国ではなかった。
 鳥越氏が吉備王国は強力な水軍を持っていたと述べられたがこれは見事に阿蘇の石棺で証明された。
 これだけの水軍力は日本軍には考えられないことである。中国軍と考えて始めて片付く問題である。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 7ページ

私からの一言---間壁氏の〝吉備古代史の未知を解く〟からの阿蘇の石製の石棺と鳥越氏が吉備王国は強力な水軍の研究を合体して、間違っている部分を外して、鳥越氏が吉備王国と云っている人達は、九州からやってきた中国人であるという結論を導く----このようなことは有りなのでしょうか。 有りなのでしょうね。

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2010.11.01

吉原神社と大河原神社(2)  古事記を読む

大河原神社の資料は、上手く見付かりましたか。
前回と同様に、資料を全部転載します。

鎮座地 日野郡日光村大字大河原字宮山
地図 http://jinja.in/single/86177.html現在地 鳥取県日野郡江府町大河原840番
祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命

由緒 創立年代不詳、旧山王権現龍王権現石牛王と称せしを、明治元年神社改正の際大河原社と改められ、同五年村社に列す、同六年大河原神社と称す、誉田別尊以下の神も往古より当社の末社として境内及村内に鎮座ありしを明治四年合祭せらる。

例祭日  10月13日
建造物 本殿、神楽殿、随神門
境内坪数 828坪
氏子戸数 55戸


前回と同様に、私が考えたことを記します。正しいとは限りません。読み流して頂ければ良いと思います。
①旧山王権現龍王権現石牛王が難物です。
 山王権現----山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 龍王権現—webで検索しますと、何例かヒットしますが、どのような神か分りません。
龍王山という名の山は、全国に1300程ありますが、ここは、漢人が毎日見上げながら、生活していた所ではないかと考えています。この山に登れば、龍王権現が祀られているのではないかと思います。
石牛王--牛頭天王の事でしょうか。分りません。
3つの神は、すべて、須佐之男尊の子供なのではないでしょうか。

大河原神社も、吉原神社と同様に、明治元年に、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三神が復活したのではと推理します。

古事記につぎのような事が書かれています。
イザナギが黄泉の国にいるイザナミのところへ行って、追われて逃げ帰る途中、筑紫の日向でミソギをします。その時に多くの神が生まれたことが書かれています。アマテラスとツキヨミとスサノオは、特別の三貴人として登場します。こんなに重要なことですのに、日本書紀は殆ど、取り上げていません。日本書紀の第6と第10書の一には、取り上げていますが、古事記と相当異なっています。
日本書紀の作者に限らず、現在の歴史の学者も意味が分らないようです。
そりゃそうです。理解せよと云う方がおかしいです。
イザナギが、右の目を洗った時に、アマテラスが生れたとか、川の流れの底の所で洗っていたら、底津綿津見命が生れたなど、日本書紀の作者は、古事記に書かれていることが理解できなかったか、書きたくなかったと推察しています。
 古事記の作者は、どうして、このような訳の分らないことを書いたと思われますか。

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