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2010.12.31

鬼ヶ城 (10)

鳥越氏は日本書紀を正史とし、古事記を偽書としたためにここに吉備王国があった結論になった。
 巨大古墳の主は阿蘇の石棺を使用していないので本来の吉備人でないことが、X線解析法で明らかになった。
 吉備王国を大和王朝が征伐してよかったのである。同時に九州王朝も征伐されて当然で大和朝廷はやっと名誉回復がなされた。
 邪馬台国が九州にあったと主張する根拠は地名のゴロ合せでなしに、歴史のなりゆきから間違いであったことが証明されたことになる。
 7代孝霊天皇の吉備征伐のあと、敵の再攻撃に備えて高知性集落を築き、吉備には上道国に大吉備津彦、下道国には若建吉備津彦が将軍となって護りをかためた。
 これが邪馬台国と投馬国で、ヤマトとタマの国だったのである。
 しかしこの時も四国の敵は大和朝廷には船がなかったので征伐は出来なかった。
 これがスパイ難升米の活躍を必要とした理由だった。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 54ページより


私から一言----短い文章ですが、どうして、こんなに、すっきりしているのか不思議です。
吉備の研究者の第一人者である鳥越氏は、[日本書紀を正史とし、古事記を偽書としたためにここに吉備王国があった結論になった]と書かれただけで、間違っているとも書いて居られません。
 吉備にある巨大古墳の石材の資料を集めてください。阿蘇凝灰岩で作ってある古墳は、近くに四国の鷲の山石や播磨の竜山石の石を使わないで、阿蘇から運んだのですから、九州からやってきたことは、素人でも分る理屈です。

 後半の文章は、短いですが、田村誠一氏が、謎として思っていたことを書かれただけです。
古墳の石材の話は、苦労されて研究をされた間壁忠彦・間壁葭子氏の著作 
『吉備古代史の未知を解く』と『石棺から古墳時代を考える』が参考に成ります。

 但し、複雑で難解です。ここに書いて居られる古墳をすべて、訪れられますと、書いてあることは理解出来ると思います。

 今年も長い間、読んでいただきまして、ありがとうございました。

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2010.12.29

鬼ヶ城 (9)

501


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吉備中山は恐らく日本軍の陣地だろう。ここの楯築遺跡の上部には写真の様なおびただしい石があった。これで石合戦をしたことと思われる。
 この西北の鬼ヶ城が吉備が見下せる山の上で3キロ以上に写真の列石があったのである敵が最後にたてこもった所で水門すなはち水飲場があった。
 ここで食糧攻めにあって全滅した。ここから流れ出る川の名は血吸川が赤浜である。ここまで海岸が入込んでいた。
 秀吉が水攻めした高松城も同じ地図にある。食糧攻めの歴史が繰り返された。
 桃太郎の鬼征伐の部隊である。
卑弥呼が殺された大江山の最後の場所も同名の鬼ヶ城でここにも大江山の鬼退治の唱歌まで同じく出来たのである。
 地名こそは歴史だと繰り返しに述べておきたい。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 53ページより

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2010.12.27

鬼ヶ城 (8)

残る問題はなぜ107年から80年間も占領が続いたかである。この理由はすでにのべたが今回の支那の戦線と同じである。
 渡洋作戦の補給路が長くなって前進も出来ない状態が10数年も続いたではないか。
 同じことを1800年前に中国は日本との戦争で、先づお手本を示してくれていた。
 渡洋作戦は大軍を投入して一挙に勝つか、全滅するか、泥沼にはまりこむかなかったのである。
 倭国大乱とはとりも直さず泥沼の長期戦である。
 なぜ190年に小休止になったか。これもすでに述べた通り占領軍が補給がゼロになりしかも大量に病死者をだしたからだ。
 卑弥呼を共立して大乱が収ったとゴマ化したのはこの小休止のことである。
 陳寿は如何に苦心して敗戦をカムフラージュしようとしたか。その中心を考えて倭人伝を読み直されることだ。ただ日本側の年代は鳥越氏の例に見る様にあてにしないことだ。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 49ページより

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2010.12.25

鬼ヶ城 (7)

日本書紀には古代の年代が細かにかいてあるから偽作である。古事記には天皇の年令が書かれているがこの年令は信用できない。
 年令を本人が正確に知れる筈はない。明治の人に年を聞いたら「ヒノエウマ」式の返事が普通である。
 古代に中国と交流があった時だけ「エト」が分ったのである。崇神天皇が死んだ時と生れた時は中国と交流があったから「エト」が分ったのである。この時期以外のエトは記録方法が確立されてなければ分る筈はなかった。
 この根拠に基いて7代の吉備征伐は190年頃と推察出来た。(第7話)
 〝吉備の古代王国〟では崇神天皇を4世紀後半と推定している。21代雄略天皇が5世紀後半なら代々の天皇は平均10才で皇子を生まなければならないことになる。
 吉備征伐を190年頃としないことには、出生年令に異常を来すのである。
 190年頃とは魏志倭人伝で卑弥呼を共立して倭国大乱が収った時に相当する。日本書紀には書いてないが倭人伝にはかいてあった。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 48ページより

私から一言----鬼の話は伝説やおとぎ話に残っています。この辺りは、民俗学として大切な分野だと思います。各地によって、伝わり方が違うと思いますが、その土地の歴史と絡めながら考えますと新しい発見ができるように思います。
春になりましたら、一度、岡山県の鬼ヶ城を訪れてください。 福知山市にもあります。

倭国大乱のことは、随分前に書いています。
日本大好き76 後漢書に倭国大乱
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-05-19

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2010.12.23

鬼征伐 (6)

46p


日本書紀を書いた人は、自分達の同志が吉備で征伐されたことを書くわけにはいかなかっただろう。
 同時に何日の日にか天皇を打倒したいと考えないと云えばウソになる。
 古事記の前文を心して読まれることだ。家系等をゴマ化す人があるので、今のうちに、ハッキリとさせておかないと大変なことになると明記されているのである。
 こじきと日本書紀を比較すれば日本書紀が中国偏向で朝鮮を敵視記事の選択方法が多いことに気付かれる筈である。
 日本書紀では21代雄略天皇すなはち5世紀の後半に吉備のクーデターで70人殺すまでは何一つ書いてない。従ってこれまでは人っ子殺さなかったとの理論だって考え様によっては成立っだろう。
 しかし古事記には7代孝霊天皇の御世に大吉備津彦命と若建吉備津命を播磨と吉備征伐に派遣したと書いてある。吉備津神社の主神は大吉備津彦命なのに、日本書紀はこの人物まで抹殺する書き方になっている。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 47ページより

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2010.12.21

鬼ヶ城 (5)

最多数の鏡は九州から出土した。従って安本氏の説に従えば山城や河内の僅かの鏡は考えないでよいことになる。
 わたしは僅かだから問題に先づ取上げた上で考えて、不必要ならそれから棄てても遅くないと申上げたいのである。
 僅かだが呉の人が作った鏡が大和の北と西にあったから、呉の人すなはち中国人は敵と判断したまでだ。大和は包囲されたのだ。
 九州で呉の人が作っている位なら、中国の現地工場とでも云えただろう。
 なぜこんなことを繰返し述べたか。目的は別別に述べたのである。
 誰もが邪馬台国九州説を出し、しかも未だに決め手がないから、九州に邪馬台国はなかったのである。九州にホントにあれば、もめる筈はない。
 誰もが疑いもなく信じていることに間違いが多すぎるのである。
 景行、ヤマトタケル、仲哀、神功と最高位の人が自ら何年もかかって、九州征伐したことを九州説の人はなぜ考慮に入れないのか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 45ページより

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2010.12.19

鬼ヶ城 (4)

東大寺の高地性集落から北に8キロの、山城椿井古墳からは40数枚の銅鏡が出土した。
 この中には呉の人が作った三角縁神獣鏡が含まれ古墳の主は呉と関係があった。
 ここは中国軍に占領され古墳は戦死者の共同墓地だったのである。
 倉吉の近くのハワイ町と同様長期に占領していたから各種の鏡が出たのである。
 この古墳の南には木津川があった。この川は歩いて渡れなかった。
 食糧は九州佐賀平野からでも、丹波から陸路でも補給出来たから長期戦になった。
 奈良の西氏の生駒山脈も占領されていた。この時奈良盆地は海抜65米まで海だった。樋口清之が〝大和の海原〟で大和に海原があったと説明されている。
 河内にも大和まで敵は居ったことになるだろう。
 記紀に共に書いていない事柄に、日本始って以来の大事件かがあったのである。なぜ書けなかったか。中国人が日本書紀を書いたからではないか。


私からの一言---高地性集落を太い文字にしておきました。古代の歴史を知るには、現在では、考古学が主流になっていますが、これだけでは行き詰ります。私が考える成果をだすにしては、お金がかかりすぎます。考古学の先生の気持からすると、皇室のお墓を発掘したいらしいですが、発掘はしても、それ程の物は出ないと思います。

 高地性集落からは、攻撃用に使ったと思われる石ぐらいしか出てきませんが、そのような山の中に、村を守る為の集落が有ったと云うことです。

 村に守らなければならないものが有ったからだと考えますが、今の歴史学界は、鉄や銅を制した者が、あの大きな古墳を築いたと考える方向に行きつつあるように思います。
 それは間違いで、戦争に勝ちぬいていった人のお墓から、その時の戦争に必要だった鏡と鉄や銅製品が出土したと。
 では、なにを取りあったのかといいますと、絹ではないかと推理しています。絹は残っていませんので、なかなか、証拠としてお見せするわけにはいきませんが、この高地性集落はそのときの村を防御する施設では無いかと考えています。

但馬にも、高地性遺跡を見付けました。次の資料置き場に書いています。(未完成)
遺跡 但馬 379 大盛山遺跡
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-622.html

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2010.12.17

鬼ヶ城 (3)

42p


日本書紀と古事記に何もかいてないから、天下泰平だったと考えてよいだろうか。
 神武から崇神まで何もかいてなかったからこの間天皇はなかったと大半の意見ではないか。
 鳥越氏は崇神天皇を初代天皇にしている。言論自由の現在でも書きたくても書けないことがあるだろうか。
 古事記か日本書紀か一方にしか書いてないから研究すべきである。そして少数意見も自由に発言を認め尊重すべきである。
 記紀共に書いてなかったが、奈良の東大寺に高知性集落があり、この北8キロには巨大古墳から銅鏡40数枚が出土している。
 瀬戸内海から紀州、関東にまで高地性集落があったのである。
 倭国大乱と中国の本にまで、日本国内の二地域の紛争を取上げるだろうか。
 この問題の解決には安本式の考え方の人が大多数なら困難だろう。少数意見を発表して不愉快な思いまでは誰もしたくないからだ。
 話は横道にそれてしまった様である。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 43ページより

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2010.12.15

鬼ヶ城 (2)

40p


安本氏は55年1月に〝邪馬台国はなかった〟の本を出版された。氏の考え方はわたし達技術ヤとはあべこべなので、76頁を上記に示しておいた。
 この本は古代史の大家古田氏が「邪馬台国」でなくて「邪馬壱国」だとの説に対する反論で、一般人に取って古代史の先生のケンカの仕方が分る面白い本である。
 安本氏は日本書紀と古事記の両方に書かれた資料しか、邪馬台国の資料にしないと述べて居られる。
 しかし邪馬台国を3世紀と考えると何一つ資料はないのである。
 異論の少い部分を尊重すると述べられている。しかし今や異論の少なかった部分は全て間違っていた。
 古墳は吉備から大和に導入された。銅鏡は日本人は好きどころか、にくかった。海上交通は古代の方が発達していた。鳥取県の方が大和より古墳が多かった。銅鏡は中国人が日本に来て作った。石棺はわざわざ遠方から運んでいた。Etcと異論が正しかったのだ。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 41ページより

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2010.12.13

鬼ヶ城 (1)

38p


 中国地方とはなぜこの様に名付けたかは知らないが古代日本の中心の国、中ツ国だった。
 日本海側が日本一古墳の多い鳥取県で300年間政府があった。
 この南の日本海側からも瀬戸内海側からも最も攻撃されにくい津山盆地が久米国である。
 ここに天皇の軍隊の本部があった。和人伝に狗奴国と書かれ男王すなはち日子坐王が居った所である。
 ここから吉井川を下った所が、今まで吉備王国があったと本に書かれた所だ。ここに大和以外で巨大古墳が一番多かったのである。
 この謎に取組んだ本には、鳥越氏の〝吉備の古代王国〟と倉敷考古館長、間壁夫妻の〝吉備の古代王国の謎〟と〝吉備古代史の未知を解く〟の最新本がある。
 吉備王国を今までどの様に考えていたかを知っていただくために上記に鳥越氏の〝吉備の古代王国〟の序文を示しておいた。
 鳥越氏は
吉備王国は大和朝廷に亡ぼされたので、にくむべきは大和朝廷であるとの、お考えの様である。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 39ページ

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2010.12.11

三角縁神獣鏡(15)

36p


墓は銘々個人のものと思いこんで来た。しかし考えて見れば共同墓地だったのである。
 ハワイ町にあった古墳は中国軍の共同墓地だった。長期に占領されていたから各種の鏡が出土してよかったのである。
 アベコベに100以上も占領されていたと云えそうである。
 なぜ一局部が占領出来たかの疑問が残る。古代の武器は日本軍は石が主であった。これは吉備中山で、おびただしい石が表面にあったことから分った。
 大きな石を列に並べた中の敵兵を石で殺すことはなかなかだろう。
 次にはハワイ町は海岸の近くである。日本海側の制海権を先に述べた様に維持していたので補給には事欠かなかっただろう。
 鳥取県にも銅鏡があったと大ザッパに考えてはだめで一箇一箇の出土地を洗わないと間違った判定をすることが分った。
 上の表は銅鏡リストの一部である。環等迄中国軍は分散していたことになる。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 37ページ

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2010.12.09

三角縁神獣鏡(14)

34p


中国人の埋葬の三種の神器はこれでそろったことなる。玉は朝鮮等と交易するために日本人が作っていたのではなかった。
 三角縁神獣鏡は呉の人が日本で作ったので、新聞は国産だと書いた。この表言はおかしくないだろうか。
 戦時中に日本軍が大陸で作った武器は中国産と中国人は呼ぶだろうか。
 銅鏡も玉も巨大古墳も国産と呼びたくないのである。 〝邪馬台国はここだ〟には銅鏡の全国の出土地がリストになっていた。上に鳥取県の箇所を示しておいた。
 鳥取県は8000もの古墳があり、300年間政府(高千穂—現存)があった所である。
 魏志倭人伝で不弥国と書かれた所である。
 ここにも倉吉の隣りのハワイ温泉とPRしている所から多数のしかも各種の銅鏡が出土したのである。
 ここにも中国の占領地があったことになる。8000の古墳に異端者が交っていたのであった。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 35ページ

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2010.12.07

三角縁神獣鏡(13)

32p


 漢の人は墓に銅の剣か矛と銅鏡の外に玉を入れる習慣である。この玉もいくら軽いから中国から運んだ方が楽でも末期には内乱が起きて補給どころではなくなった。
 筑摩書房から出版された〝日本古代史〟の一部を上記に示しておいた。この本も昭和55年に発行されたので、玉についての最新文献である。
 九州で小形の銅鏡を作ったと書かれている。この銅鏡の出土地域を読者は留意して欲しいのである。
 石川県や島根県の出土地域に大量の玉を作った遺跡があったのである。
 著者は北九州の人が南朝鮮と交易していたらしいと述べている。 玉を作っていたのは小形銅鏡が出土したことから中国人だった。中国から玉を加工する職人も連れてきたのである。
 そして花崗岩加工職人から河内と丹波が中国の進駐郡でつながって居り、丹後、加賀、出雲が九州と日本海側で結ばれていることが分ったのである。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 33ページ

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2010.12.05

三角縁神獣鏡(12)

〝古代吉備史の未知を解く〟には古代史を解く重要なヒントがあまりにも沢山含まれている。
 しかも最新の科学によって発見されたので他の古代史の様な推理の連続、積重ねではない。古代史に興味のある方は必読して欲しい。
 古代に花崗岩の様な硬い石まで、山から切出し加工する技術があったのである。
 河内の松岳山古墳と丹後の蛭子山古墳の石棺に花崗岩が使用してあった。花崗岩よりも加工しやすい九州の阿蘇の石を加工した職人が日本人本来の人が技術を身につけたとはかんがえ難いのである。
 丹後の蛭子山は大江山の麓の伊勢神宮からは10キロしか離れていない海岸の近くである。
 卑弥呼はこの伊勢神宮の巫女の頭だったと述べて来たことを思い出して欲しい。
 伊勢神宮だから魏志倭人伝な書かれた様に千人もの巫女があって当然だった。ここが伊都国だと述べて来た。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 31ページ

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2010.12.03

三角縁神獣鏡(11)

銅剣とか銅矛は文様を細かく出す必要がないから鋳砂は銅鏡の様に細かくなくてよい。
 鋳砂を細かくすれば鋳型が壊れ易い。鋳型が壊れ易いからロストワックス法が必要になる。銅鏡を使用して型取りすれば文様にくずれた所が生じるのである。
 この銅鏡を日本で漢や魏の時代に作れたとおっしゃた学者がある。
 しかし日本人にこれだけの技術が1800年前にあったのに、この技術が引継がれなかった理由は一言も述べてなかったのである。
 学門であるなら技術が失われたことも、納得のゆく説明がなされるべきではなかろうか。
 1800年昔にやっと可能になった精密鋳造の技術があった。しかもこれは中国の技術だった。
 日本の呉の人が銅鏡を作り、しかもこれは中国人専用であった。この人達は侵略者で何れ征伐されてしまった。
 この為に銅山も一度廃鉱になり、精密鋳造の技術を改めて学ぶ者がなかったので途絶えと考えたらいかがだろうか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 30ページ

私から一言---
①日本の呉の人が銅鏡を作りの部分は、少し、力不足ですが、証拠は、
三角縁神獣鏡(6)  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/11/610-322d-1.htmlの地図にあります。
②これは中国人専用であった  この部分の説明は、銅鏡が発掘された古墳を全て、しらべなければ成りませんが、余りにも多いので、逆に、銅鏡が見付からなかった古墳には、どのような特徴があるか調べるのも良いかもしれません。
③中山王国の人達が、日本に来ていたとしますと、前回に掲載しました〔金銀象がんを施した角テーブル〕を作る事が出来たのですから、呉の国の人達が、三角縁神獣鏡を作ることぐらいは訳が有りませんでした。
④[この人達は侵略者で何れ征伐されてしまった]
 侵略者であったかどうかを立証するのは、難しいですが、例えば、一か所で、厖大なお墓が有る所では、戦いで、大敗した理由には成ると思われます。(例 大阪、河南町の一須賀古墳群)

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2010.12.01

三角縁神獣鏡(10)

29p

中山王国文物展に出品された金銀象がんを施した角テーブルを上に示しておいた。
 これは2300年前昔の作品である。青銅鋳物であるが戦前なら、鋳物ヤは引受けてくれる人があっただろうか。
 この青銅鋳物は木型が作くれないのである。戦後にやっと開発されたロストワックス法による外ない。
 実物と全く同一品をワックスすなはち「ロー」で先づ作り、これを鋳砂の中に埋めて、熱を加えると「ロー」の箇所が空洞になる。
 細かい砂を使用すれば綺麗な肌に仕上がるのである。奈良の大仏の綺麗な仕上がりもロストワックスのためだと云われている。
 第9話で銅たくの技術では銅鏡は出来ないと申上げたのは、鋳型の作り方が異なるのが理由だった。
 中国には2300年前に〔木ロー〕を使用して鋳型を作る技術があったのである。
 漢軍が鋳物師まで日本に連れて来て始めて銅鏡は出来た。漢軍が作ったものを国産だといばって云うことはいかがなものだろうか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 29ページ

私から一言---[奈良の大仏の綺麗な仕上がりもロストワックスのためだと云われている]の部分は、違っているかもしれません。
次のような記事を見付けました。

奈良の大仏
http://www.kigs.jp/db/kakusinhis.php?kno=13&sno=13&PHPSESSID=奈良東大寺の大仏は巨大な鋳物でその成分はブロンズ(青銅、銅とスズの合金)である。鋳造当時のままと考えられる段座やひざの一部を分析した結果では、銅が93%、スズが1~2%であった。しかし、資料による研究の結果、建立は743年に始まり、鋳造と組み立てに5年かかったのに対して、表面仕上げとメッキに6年とそれより長い時間をかけて作られたことがわかった。・・・・続く・・・

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