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2011.01.30

漢字-3  越

参考図書 『字通』ほか

 エツ、漢---オチ(ヲチ)

声符は、戉。〔説文〕「度ワタるなり」、

意味
①度越して、遠くに至ることをいう。とおい。いたる。
②こえる。わたる。
③与に通じて、と。ここに。
④国の名前。種族の名前。

古訓
 〔名義抄〕越 コユ、ココニ、コレ、オイテ、オク、ムカシニ、ワタル、トホシ、コレニオイテ、ムキカフ、ココロ、  以下省略

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〔越〕を調べる目的。奈良の明日香村越 の地名にどのような意味があるかを調べる。
明日香の場合は、よみかたは、〔コシ〕です。


以下、私の補足
走るに戉を書いて越です。シンニュウに戉も同じらしいですが、コンピューターでは表示できません。

戉は斧のことらしいです。金に戉で(鉞)マサカリです。
越は粤とも通じるらしいです。
戉の字は、左の部分を外しますと、戈の字になり、意味はホコです。

このようなことを考えますと、越は、斧を持って走ることになります。その結果、相手を超えていくという意味があるのでしょうか。

越南と書いてベトナムのことを言うようです。ということは、越の南にあるのがベトナムですから、越はベトナムの北にあることになります。

越前、越中、越後なども気になるところです。
〔越〕は、コス、コシ、エツしかないかと思っていましたが、〔オチ〕があることが判りました。

隣の御所市の越智(オチ)との関連を探っていました。

普通ですと、隣に同じ「オチ」という地名は紛らわしいですから、つけません。

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2011.01.29

実在した神武天皇(3)

天照大神と神武天皇は、村人が何れをまつっても自由なのに、はたして天照大神をまつった神社は、こんなには、ないだろうとおもわれる。先づ神武天皇に、村人が感謝の気持ちから神社を、作ったと考えたいのである。
 従って偶像崇拝ではなくて、神武天皇は、実在されたと考える外ないだろう。
 次には神武天皇が隣の国まで、来られた位で、村人が神社をつくるだろうか。やはり直接身近かに神武天皇が来られたり、恩恵をこおむったから、神社を作ったと、考えたいのである。
 “神武天皇御紀謹解”は、昭和15年3月に、内務省から出版された。わたしは、この古本を56年の暮に、古本市で手に入れた。従って今までの記述とは、全くの無関係である。
 神武天皇が計画的に、雲南等から、稲作民を、日本海沿岸のデルタ地帯に導入して来たと述べたのは、100%地名のパターンからの意見だった。しかし神武天皇は桑の導入までもやられたのだった。


第13話 建国の日は正しかった  5ページ より

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2011.01.27

実在した神武天皇(2)

親類に一人や二人戦死した人があっても、靖国神社に参ることは、悪いことの様ようだ。
 伊勢神宮に総理大臣が参っても、赤旗を立てて、阻止したり、国会て゜は問題として、取り上げない。
 これが日本人である。古代史の学者がなぜ古代史を論ずる時に、太陽崇拝だとか、鬼道ちかをとやかく、云うのだろうか。
 神社に参るのは強制されてではない。全く自由石である。
 お宮は政府が計画的に各村に作らせたのではない。村人が全くの自由意思で作ったものである。
 実は昭和15年に内務省が、神武天皇を、まつった神社を調べた。別表に全部示しておいた。
 全国でなんと440社あったのである。実はこれにもれたものもあると、但書付なのだ。
 日本人とは何か。今一度考えて見て欲しい。この神社は強制されて作られたのではない。誰を祭るのも自由の筈である。日本書紀を見て作ったのだろうか。


 第13話 建国の日は正しかった  4ページ より

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2011.01.25

実在した神武天皇(1)

お正月は好天に恵まれて、初もうでの客で各地とも、にぎわった。全国で7600万人の人が神社や寺に参ったと発表された。
 初もうでも今ではコンクールの対称である。ここで日本人とは何かと、考えさせられる。
 何のために参るのか。神道の信者でないことは明らかである。
 偶像崇拝だとか、太陽信仰ではない筈だ。
 わたしは平素は大阪に住んでいる。大阪市の人口は、300万人しかない。
 それなのに、わたしのすぐ南の住吉神社には、270万人近い人が、お参りした。
 金儲けの神様なら僅か電車で数駅北に、今宮えびすがある。ここには十日えびすに、160万人がお参りしたのである。
 住吉さんと今宮えびすは、電車で10分の距離である。
 同じ場所に、二つの宮があると考えてもよいだろう。僅か1週間に430万人のお参りである。
 東京では明治神宮と川崎大師と成田山で、面白い取りあわせである。

第13話 建国の日は正しかった  3ページ より

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2011.01.24

建国の日は正しかった

建国の日は正しかった

を掲載します。

田村誠一氏の原稿は、全部終了しましたとお知らせしましたが、田村氏の息子さんから、倭国ゼロ世紀 第13話を送っていただきました。

この前の冊子は、

第12話 河を忘れた古代史
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/03/12-1-2-0897.html 

随分、以前に掲載しています。 振り返って見ていただければと思います。

今回は、表紙と、裏表紙を掲載します。
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2011.01.18

漢字  「字」

漢字は、中国の人が発明し、長年使われてきたものです。韓国やベトナムなどでも、使われていましたが、今では、殆ど、中国と日本だけになってしまいました。 例えば、魏志倭人伝は、漢字ばかりで書かれています。書いた人は、日本人ではなく、中国の人です。 この時に書かれた漢字は、現在の中国の人でも、解らない漢字があるのではないかと考えて、漢字の勉強をすることにしました。

今回は、地名などに使われている 大字 小字に使われている「字」の意味を調べることにしました。


参考図書 『字通』ほか

よみかた やしなう あざな もじ
[会意]
「字」はへんの部分と子を加えた字。

子の上の部分は、家廟を表す。廟の字は、へんプラス 朝です。
へんの部分は家を表す。家プラス朝で、廟の会意は、朝まだきころ参拝するみたまやのこと。

以上のことから、
「字」は 家廟に子の出生を報告する儀礼で、これによって養育・字養のことを定める。またそのとき字あざな(幼名)をつける。いわゆる小字である。

[説文]
 14下に 「乳するなり」と字乳、すなわちはらみ、育てる意とするが、生子儀礼とみるべき字である。
〔例記、冠義〕に、「已に冠して之れに字アザナす」、
また 〔公羊伝、僖九年〕「字して之れに笄(いけ)す」とは男女成年のときの儀礼で、男子はこのとき、名字対待の名をつける。
「曾参(驂)、 字は予輿よし」、「孟軻、 字は予輿」はいずれも車馬による対待の字である。女子の字には、金文に多妣・客母で良女のようにいうものがそれであろう。

意味
1 やしなう、廟見の礼によって養育のことが定まってる。
2  あざな、廟見の際にあざなをつける。
3孳を通じ、はらむ
4 慈につうじ、いつくしむ
5 あざなをつけることから、文字の意となる。文は文身でやはりもと通過儀礼の一である。

中国では、男子が成年後、実名のほかににつける別名を あだなという。

関連リンク
①廟 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%9F  一部抜粋
中国において廟は、祖先の霊を祀る場であるが、墓所は別に存在する。その為、仏教における仏壇のような位置づけであるが、仏壇とは違い母屋の中には無く、霊廟専用の別棟があった。祖先を篤く敬う中国では、古代から家中で最も重要な場所とされていた。

②明清時代の皇族家廟 
 http://japan.visitbeijing.com.cn/play/thematic/n214622534.shtml
③戸田家廟園 
http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/city/135.html


設文の意味
説文解字 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97

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2011.01.15

DADIOCAR DATING(3)

鳥越氏は崇神天皇を4世紀後半とされた。大和に巨大古墳箸墓が現存している。この墓は崇神天皇の時に作られたと日本書紀に書かれている。
 しかし先に述べた様に吉備には大和以前に古墳があったことがX線解析で分かった。
 既に述べたが “年表日本歴史”には造山古墳は5世紀になっていた。
 これでは5世紀に九州阿蘇から石棺を運びすばらしい航海術まであったことになる。
 科学が一つ一つ新しい資料を提供するたびに謎が増して行く位おかしなことがあるだろうか。これが古代史にだけ発生する。
 この謎が増加することは魏志倭人伝や古事記、日本書紀に都合が悪いことがあれば、すぐ偽作だ、後世に書かれた等の発言がまかり通ったことにある。
 間違いは全編ではない、局部の筈だ。現代人だって勘違いは起こるのである。
 古代史の謎がふえて行くことは古墳の年代を4~7世紀としたためではないか。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 63ページより


私よりの一言
 今回で、第10話 九州にはなかった邪馬台国 は終了です。
「カーボンの同位元素のカーボン14の放射能を調べることで年代が分かる」とDADIOCAR DATING(2)に書いておられますが、あまり利用されていないようです。検査をするには、高額の費用と技術が必要なのでしょうか。
 第10話 を発行されたのは、昭和56年10月5日です。
 もう30年前のことになります。

 最後の3頁は、田村氏の悲鳴のようにお聞きしました。

古墳の年代は、どの古墳も5~7世紀と書いておられる方がいっぱいです。こんなにあいていますと、役に立ちません。
 例えば、備前の丸山古墳から出土した鏡は、すべて、東京の国立博物館に保存されていて、どのような鏡かは、次のところで見ることができます。

備前市丸山古墳の鏡 
内行花文鏡  変形方格規矩鏡  変形四神四獣鏡  全部で9枚です。全部、古墳時代・4~5世紀と書いてあります。一枚ぐらい、3世紀の後半のものは、混じっていないのでしょうか。

以前、総社の三輪の宮山遺跡から飛禽鏡が岡山市内の博物館にあると書いてあったので、その鏡を見たさに行きました。博物館へ行く道がなかなか、分からなくて難儀していきましたら、その鏡は、外出中でした。せめて、レプリカでも飾っておいてくれればと思いました。
 
 丸山古墳の鏡の中には、だ龍鏡があります。これは、
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=47475で、大きな写真で見ることができます。

このような希望は、国立博物館でなくても、各地方の博物館でも、インターネットで公開してほしいものです。  H23.01.12

紹介しました冊子以外に、次の冊子も発行しておられますが、手元にありませんから、本日で終了です。
第十一話 卑弥呼の墓だった箸墓
第十三話 建国の日は正しかった
第十四話 卑弥呼の霎に捧ぐ
第十五話 創世記の日本
第十六話 古代戦乱期の日本
第十七話 古事記が輝いた古代史
第十八話 真説 建国史
第十九話 壬申戦争は日唐戦争

これらの本をもとにして、『燦然と輝いていた古代』 続編、追編 の三冊を出版されたと思います。

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2011.01.13

DADIOCAR DATING(2)

カーボンの同位元素のカーボン14の放射能を調べることで年代が分かる。前ページの写真は世界中から百人もの学者が1976年に国際会議を開いた時の論文集である。
 この会議は3年に1回開かれている。従って、年々進歩していると考えられる。
 この測定法の制度は例えば1000年の大木の年輪でチェック出来る。そして放射能の測定精度は0.2%~0.3%に向上した。(原本197頁)
 銅鏡等の出土した古墳の年代を何年プラス マイナス何年と、一般書店で入手できる本に公表して欲しいのである。
 一般国民が日本建国の謎を解く熱意に援助の手を伸ばして欲しい。これには学者だけの意見でなしに、科学的に判った資料(見解だけでなしに)をどしどし発表して欲しい。
 実はある学者にカーボン14について、問合せた所あてにならないとの返事だった。あてにならない異常値が大切なのである。 
科学の社会では異常値に疑問を持った時に大発見が行われて来た。

第10話 九州にはなかった邪馬台国 62ページより

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2011.01.11

DADIOCAR DATING(1)

P60


石棺の石はX線解析法で石の見かけによらずに石の産地が判る様になった。このお蔭で吉備の石棺は九州の阿蘇から運ばざるを得なかったので吉備の古墳の主が、吉備人でなかったことが分かった。中国人と考えざるを得なくなったのである。
 吉備の石棺に河内、大和の境の二上山から運んだのがあった。しかも大和よりお先に吉備で使われていた。
 古墳は大和から地方に伝搬した学説はアベコベだったのである。
 副産物として巨石までが自由に海上も運搬できていたことになる。
 日本人は漢や秦に圧迫されて中国から亡命して来たと述べて来た。最初から漢民族は敵でよかったのである。
 三角縁神獣鏡は中国の人が日本で作った。この真疑は質量分析装置で何れ結論が出ることだろう。
 残る問題しかも最も重要問題は古墳などの年代をハッキリさせることだ。吉備の各種の石棺のあった古墳の順序が知りたいのだ。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 61ページより

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2011.01.08

景行西征 (3)

景行天皇は周防の次に先に述べた福岡県京都群に行かれた。ここにも御所ヶ谷神籠石があった。
 これ以後天皇の居られる所をミヤコと呼ぶことになった様である。
 これまではミヤコの代りにヤマトと呼んで倭又は大倭と書いていた。
 古事記の根の国(奴国)の中心は鳥取県西伯郡大国村(現存—町村合併後西伯町)である。日本人が倭とつけたのである。
 岡山県久米郡久米町が久米国(狗奴国)の中心で合併前は大倭村(ヤマト)であった。
 ここから吉井川を下った岡山市西大寺に吉備の中心古都(コズー現存) があった。単にヤマトとこの時は呼んでいただろう。
 難升米がヤマトと魏の都で伝えたのに陳寿は不愉快な当字をしたまでで、邪馬台国とか邪馬壱国と論議してもはじまらない。
 邪馬台国九州説の本拠地を景行、ヤマトタケル、仲哀、神功と4代かかって徹底的に征伐したのである。ここから銅鏡も鉄剣も一番多く出土したのである。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 59ページより

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2011.01.06

景行西征 (2)

高倉氏著〝邪馬台国は筑紫にあった〟の158頁に神籠石の一覧表があった。
 神籠石の特徴は高峻な山の前斜面があって標高100-400米の山のいただきに列石を利用した塁道が2—3キロも走っている。そしてその中に小川のある低地をかかえているのが特長である。しかも眺望がよく平野や川が遠方まで見遥すことが出来ると書かれていた。これは吉備の鬼ヶ城とソックリだ。
 鬼ヶ城とすべきではなかったか。昔は村人に嫌われた他所者を鬼と云ったのである。
 九州に限って城のつく山が多い。単純に城山とあるのは前稿でも述べたが紀元前から日本の人がのろし台に使用した所だろう。 
 ○城山の様な地名は中国軍がたてこもった所と考えたいのである。
 景行西征の最初が周防の左波でこの近くに石城山と神籠石があり村の名は大和である。
 大国主の国譲りは鳥取県西伯郡大和村だった。景行西征の福岡山門郡にも大和村がある。ヤマトでも大和と書いた時には敵が天皇に講和したときに使われている。
 

第10話 九州にはなかった邪馬台国 57ページより

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2011.01.04

景行西征 (1)

P56


 神武東征は中国人ニギハヤヒが占領した近江中心の銅たく圏の征伐だった。(第9話)
 景行西征とは中国軍に占領された九州征伐である。
 この詳細は日本書紀を読まれることだ。107年から350年頃まで続いた、日中交戦史である。
 熊襲も単なる地方の豪族ではなかった。景行天皇の時の熊襲は鹿児島県に居った。
 〝邪馬台国はここだ〟(毎日新聞社発行) に上の鉄剣の出土表が載せてあった。これは九州に武力集団があった証明ではないか。
 日本側は伯耆、美作、吉備の村々に、しかも殆どの村に鍛冶屋又は蚊帳の地名が残っている。 
 ここで日本も鉄剣を作ったのである。日野川には武庫の地名があり、ここに武器を保管したと考えてよいだろう。
 この時の日本書紀側の陣地は小高い山の上にあり城山か要害の地名がつけられている。反対にこの地名の所だけが日本軍の手にあった。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 57ページより

私より一言----あけまして おめでとうございます。 
第10話は、もう少しでおしまいです。

ここに書かれたことは、どの歴史書にも書いてありません。田村氏がかいておられる通り、日本書紀と古事記に書いてあります。 高天原にいたイザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、スキヨミは、天孫族に属しますが、中国人の勢力が強くなり、その方面の防衛に忙しくなります。 イザナギ、イザナミは、多賀に移ったことが書いてあります。 彼らの発祥地の淡路島の多賀ではありません。 滋賀県の多賀です。 滋賀県にも多賀神社が有りますが、ここにも関係が有るので、地名が残っていますが、ここでもありません。近江八幡市の多賀です。イザナギ、イザナミは、ここを出発点にして、あちこち防衛をしたと思われます。激戦地となったところには、大型の銅鐸が残されたと思っています。 しかし、最終的には、ニギハヤヒに負けました。 ニギハヤヒは、ナガスネヒコとともに、奈良盆地に移りました。 ここを攻略するのが、神武東征になります。 イザナギ、イザナミが居なくなった高天原は、アマテララスが、指導者的立場で、高天原を撤退する行動に入ります。(天孫降臨) しかし、福知山あたりも、中国人の勢力が強くなり、アマテラスは、ここの防衛に行くことになります。 このあたりは、地名に〔天〕野着く所がいっぱいあります。 地図で確かめてください

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2011.01.02

鬼ヶ城 (11)

山城も河内も中国軍に占領されていた。これを支援する目的で敵将難升米は丹波の大江山にやって来て、ここの天照大神を祭った伊勢神宮のみこの頭であった崇神天皇の義妹卑弥呼を人質にしたのである。
 崇神天皇は山城のハニヤスヒコを征伐した。このことは記紀ともに書かれていた。
 先づハニヤスヒコの系図を調べることだ。
 河内の青玉が青玉即ちサファイヤのワイロで娘を8代孝元天皇の妃に送り込んだ。この皇子がハニヤスヒコである。
 青玉こそ鬼で中国人の考えそうなことだ。
 この皇子ハニヤスヒコがクーデターを起こした。
 崇神天皇の義妹卑弥呼をだまし、挙句には人質を殺してしまったのも、中国人の卑劣極まりないやり方である。
 ハニヤスヒコは義兄弟のオオビコに殺されるが、皇族間の争いではなかった。
 丹波の難升米は崇神天皇、卑弥呼の義弟日子坐王に征伐された。
 呉の人は日本まで来て巨大古墳の主と鬼ヶ城の鬼のために銅鏡を作っていたのだった。


第10話 九州にはなかった邪馬台国 55ページより

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