« January 2011 | Main | March 2011 »

2011.02.28

神武紀元 (3)

日本書紀に書かれた天皇の年は、あてにならないと申上げた。しかし仮に神武天皇が東征を決意された年が、45才と書かれたのを基準にして推理を進めて見たい。
 この時から「エト」が毎年書かれる様になった。なぜこの時になぜこの時「エト」が分かったか。
 既に何回か述べて来たが、「エト」が分るためには、中国との何等かの交流が必要である。
 この交流は戦争でもよい。敵の捕虜から中国の年代が分る。この外にシルクロードを通って、例えばユダヤ商人が日本に来ても、よいのである。
 神武天皇が東征したのは、ニギハヤヒが、イザナギの命のあとを受けついだ、ナガスミネヒコの銅たく圏を、だまし取ったためだと、述べて来た。
 このニギハヤヒこそ中国人で、揚子江の中流の「楚」からやって来たのである。
 ニギハヤヒは神武天皇に降服したので、中国の「エト」が分ったのである。「エト」が分かりだしたら、日本書紀にエトが書けた。


第13話 建国の日は正しかった  39ページ より

|

2011.02.26

唐古鍵遺跡の勾玉

Photo


整理をしていたら、新聞の切り抜きがありました。読売新聞のものだと思います。
調べましたら、平成13年9月の報道です。
 この写真よりも、唐古・鍵遺跡資料室
http://inoues.net/museum/karako_museum2.htmlのほうが、きれいです。

この新聞記事には、同遺跡の弥生人がすでに神仙思想を理解し、精神世界を持っていた〝物証〟として注目される。
 時代は、弥生時代中—後期(紀元前1世紀‐―紀元1世紀) 
 とあります。
禹余糧は、神仙思想と関係あるかもしれませんが、勾玉は関係ないと思います。しかし、どうして一緒に入っていたのでしょう。勾玉は日本独自のものだと言われていますが、・・・。

この環濠集落は、奈良県では、中国人の最大の集落だと思います。日本の弥生人ではないと思います。
ただ、この集落では、銅鐸が製造されていた可能性があります。私は、銅鐸はイザナギ系の人が造っていたと思っているのですが、後世になりますと、中国人もつくって、伊邪那岐神系の人に供給していた可能性もあります。
 その他、いろいろ興味深い遺跡だと思います。

http://inoues.net/museum/karako_museum2.htmlに掲載されている土器は、仕上がりのいいものです。どう見ても、紀元前とは思えません。

記事は、ホケノ山古墳で出土した神獣鏡も神仙思想を表す最古の遺物と書いておられますが、300年も後の世界とごっちゃにしておられます。

 神獣鏡は、九州の古墳からいっぱい見つかっています。この種の鏡は、神仙思想ではなくて、中国の皇帝から日本へ派遣された中国人が、身分を保証するようなものであったのではと考えています。

 神獣鏡は、必ずと言っていいほど、古墳から出土し、皇帝から貰ったものは、自分のお棺のなかと頭部のところから出ているように思います。部下の誰かに与えるためのものは、お棺の外に並べられています。この遺跡の近くでは、黒塚古墳があります。
 資料館には、レプリカですが、出土した三角縁神獣鏡が展示されています。
レプリカで十分です。一度、訪れてください。

|

2011.02.25

神武紀元 (2)

古事記には天皇の年令だけが書かれている。これは参考にだけ使用すべきだ。
 日本書紀は720年に書かれたが、分る筈もない、700年昔の何年何月何日に、どんな事件があったと書かれているからおかしい。
 既に述べたが天皇が、次の天皇を生まれた時の年令が80才位の箇所が各所に出てくる。これをなぜ取上げないのだろうか。
 エトは一サイクル60年である。ここで一サイクルだけ、サバを読んでいる。こんな誰でも分かるトリックを、見のがして、明治政府は、日本の紀元を西暦より実に660年、サバを読んだのである。
 古事記や日本書紀には、帝紀等の文献があったと論じられている。しかし年代だけを考えれは゛、日本書紀は、偽書というよりも、欺書と呼ぶべきではないか。
 少く共帝紀等ニエトや月日が書かれておれば、この書物も欺書だったと考える外ない。
 古事記は語り部の口述で書かれたから、感違いはあっても日本書紀の様な、人を欺くトリックは見当らないのである。


第13話 建国の日は正しかった  38ページ より

|

2011.02.24

漢字10 勾 と 句

 勾 と 句 の漢字を調べる目的
 勾玉の勾には、どのような意味があるかを調べます。
 日本書紀では、曲玉。 古事記では勾璁
です。

 記紀で漢字を変えるほど、曲と勾の漢字の意味が違うのかどうかです。

『字通』よよれば、
勾---会意 勹+ム。もと句と同字。寛容によって区別される。
   勹もム いずれ屈曲するものの形。おそらくもと 屈肢葬の形であろう。
   形のまがったものの意に用い、勾玉、勾引、勾欄のように用いる。
  ①まがる、まげる、ひさつける
  ②かぎする、かぎかたにしるしする、のぞく
  ③かぎ、かける
  ④とらえる、ひく
  ⑤句と拘と通用する


句---会意 勹+口。勹は人の句曲している形。屈屍の象。 口は祝詞を収める器。
    局とおなじく、屈肢葬を示す字

これまで書いて来た意味としては、〔魔よけの石・幸運を招く玉〕を連想させるものはありません。

|

2011.02.23

勾玉と兵庫県立博物館

Photo


上のものは、兵庫県立考古博物館へ行った時に、頂いたNEWS No5の4ページの下半分に収録されていたものです。
 この勾玉は雨流遺跡から見つかったもので、上のものから、次のページを見つけました。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000vgf.html
このようなものは、勝手に掲載してはいけないのでしょうが、この企画展のページは、今後の博物館のお手本のようなものだと思います。
 資料は一般に公開し、それを元に、考え淡路島まで足を延ばしたいものです。

限られた文章ですが、疑問に思ったことを書きます。
① 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられます。
②韓国でも発見されていますとありますが、似たものではなく、この写真と同じものなのか。


 ごく軽い気持ちですが、どうして、増殖と鎮魂なのか。疑問におもったことを考えて見ようと思います。

 続きは、〔楽しい人生〕か、
〔歴史の不思議〕http://www21.atpages.jp/skeikas/のどちらかにしようと思います。

|

2011.02.22

神武紀元 (1)

古事記で年代が分かるのは、崇神天皇が崩じた年である。この時のエトは戌寅と書かれている。
 これ以後も年代が分かるエトは、書かれてない。年代を論ずる時に、記紀と書かれては誤解を招くだけだから、梅原先生の記述に異論を申上げたのである。
 古事記には天皇の年令が書かれている。人の年令を信用出来る根拠があるだろうか。わたしは年をきかれると、時には〔ネズミ〕だと返事する。これで確実に12才は、サバが読める。20才位少い目にしておいても、当分はゴマ化しが通用する。
 「おんな太閤記」の秀吉が、何才で死んだか確証があるだろうか。僅か300年昔のことでも、年令は調べ様がないのである。
 昔の人はわたしは元禄四年生まれと云ったらインチキだ。ヒツジと云った筈である。
 このエトは申すまでもなく、中国の年代表示である。
 古代にエトが分るからには、中国との交流が前提条件である。

第13話 建国の日は正しかった  37ページ より

|

2011.02.21

漢字9  言  依

言 と依の漢字を調べる目的
 古事記において、天つ神の命令で、イザナミとイザナギが、髙天原に国を造る話があります。
原文で、
於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而。

翻訳文(倉野憲司校注)
 ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、〔この漂へる国を修め理り固め成せる〕と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神、天の浮橋に立たして、

上に書きました、原文の〔言依賜也〕の部分の、言依をどのように解釈するかです。
翻訳者も、少し、自信がないのか、欄外に注釈わ書いておられます。
 〔ご委任なさった〕と。

〔賜〕の漢字は、尊敬を呼名云うときに、使われます。 そうしますと、4つの漢字の中に、言の意味が二つもあることになります。

『字通』を参考にして
〔言〕---会意---辛+口。辛は入墨に用いる針の形、口は、祝詞を収める器の口。 (この口は、口の字の縦の両側に上に少し伸ばした形の記号になります。口とは関係ありません。)
 盟誓のとき、もし違約するときは、入墨の形を受けるという。
自己詛盟の意をもって、その盟約の器の上に辛をそえる。その盟誓の辞を言という。言を神に供えて、その応答を待つ行為が言であった。
①神に誓うことばをいう。神に誓う もうす。
②ことば、はなす、
③おしえ いいつけ


〔依〕---会意---人+衣。衣は、授霎に用いる霊衣、それを身に着けることによって、その霊に依り、これを承継することができた。
意味
①よる、よりそう
②身に受けて、たもつ
③より従う
④委、婉と通じて、うつくし、たおやか
⑤隠と通じて、いたみかなしむ

倉野憲司氏は、〔ご委任なさった〕と注釈しておられますから、④を採用されたことになります。しかし、翻訳された時は、まだ、『字通』は完成していませんでした。

〔言〕---会意---辛+口。辛は入墨に用いる針の形、口は、祝詞を収める器の口。
この元になるものは、甲骨文字からの分析です。

太安万侶は、漢字を大切に扱っています。
於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而。

次の部分・故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而の〔立〕を、わざわざ 【訓立云多多志】と書いています。ということは、間違わないようにしてくださいと書いたのでしょう。 ということは、〔立〕には別の意味もあるということです。
このように、甲骨文字は、骨に彫られた字ですが、殆ど、神との対話を試みて書かれ、神は一言も云われませんから、骨を炙って、神の心を知ろうとしたことになります。

 考えように依りますと、皇帝は、より神に近づこうとしたのかもしれません。

『字通』を参考にしましたが、多くの部分を省略しました。ご自分で確かめてください。

|

2011.02.19

実在した神武天皇(13)

神武天皇の青春時代は古事記だけ、書かれている。ここにでてくる舞台は、鳥取県西伯郡である。
〝川を忘れた古代史〟に地図を示しておいた。又大国主命も同じ舞台で、出雲ではなかった。
 大国主命は大国村のボスだった。職名だから、本名は別に大己貴命等いくつかある。又後世にも大国主は居らないと、困るのである。
 この大国村倭が、根国の都で、ここにも神武神社はあったのである。
 57年に漢に使者を遣ったのは、神武天皇だった。この時には、日本には、漢の皇帝が欲しい絹があった。
 日本の方が優位なのに〝漢委奴国王〟の金印をくれた。このことは既に述べた通りでよかった。
 漢は奴国を委任統治国扱いしたので、使者は途中で、志賀島の石の下にかくしたのだ。金印は漢の委任統治の奴国と書かれていたのである。
絹を忘れて歴史は語れないのである。

第13話 建国の日は正しかった  36ページ より

私より一言---〔金印は漢の委任統治の奴国〕 案外、こんなものだったのかもしれません。
〔神武天皇は、実在していた〕は、反対したい方は、されたらいいでしょうが、延々と、神武天皇を消そうとされていた人が、昭和の時代になっても、居られるということは、人間という動物は、面白いものだなと思います。
さあ、田村氏は、神武天皇は実在していたのだと、13回の文章で訴えられましたが、賛成は得られたのでしょうか。  

|

2011.02.18

漢字8  檍

檍の漢字を調べる目的
イザナギは、死んでしまったイザナミが恋しくて、後を追っていきました。そこで、見たものは、ひどい姿になってしまったイザナミでした。あまりの汚さに、自分の身体が穢れたと思ったイザナギは、川で体を洗って身を清めました。
 このことは、古事記も日本書紀にも書いてありますが、身を清めた場所は、
日本書紀でも、同様に、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と書いてあるところは、「筑紫の日向の川の落ち口の、橘の檍原」と書いてあります。

『字通』を参考にして、
檍---『字通』には、掲載されていませんでした。
 カシオのEX-word には、字音――オク—呉 /ヨク—漢
意味—(名)もちのき。木の名。もちのき科の常緑高木。材はかたく、印材、・弓などをつくる。樹皮から鳥も庤をつくる。
<解字> 形声。「木+音符意(イ)・(オク)」

EX-wordに掲載されているのですから、『字通』にもあるはずと、真夜中に一時間も探してみましたが、見つかりませんでした。

「意」を形つくる漢字は、「オク」の所に、見つかりました。
億 臆 憶 の3つです。イの所に、噫があります。
EX-wordには、億 臆 憶 噫の4つがあります。

『字通』にありませんので、億 臆 憶に書いてあることから、類推することにしました。
憶―--〔形声〕声符は意(オク)。意は音(音)に従い音によって示される神意をはかり、さとることをいう。
① おもう。はかる。
②おぼえる
 (意という字は、音+心)ですから、神が発せられる音を聞いて判断するのだと書いてあるのですが、神は音を出しませんから、よく聞いて、その神意を判断すめのだと書いてあります。判ったような判らない説明です。

臆--〔形声〕声符は意(オク)。意は神の訪れを示す音によって、神意を意度(イタク)する意。
「古訓」「名義抄」臆 ムネ

億—億マンのことが記されています。 沢山書いてありますので、省略しました。ご自分で確認してください。

では、これらのことから、檍の意味を類推するとしますと、読み方は不明ですが、神を迎える時に、使う木のことでしょうか。 例えば、榊のような漢字。

それとも、『字通』の編集者である白川静氏のミスでしょうか。

|

2011.02.17

実在した神武天皇(12)

神武天皇は雲南等から日本語の分らない、稲作民を大量に導入した。神武神社の分布が示す様に、この移民は全国に入植した。従って日本中が一斉に稲作をやると同時に日本語をしゃべる様になって普及した考えられる。
 従って日本中、日本語に統一できたのは、神武天のお蔭だと考えたい。
 魏志倭人伝に、邪馬台国7万戸、投馬国5万戸と書かれたこれは吉備上道国と吉備した道国のことだった。
 久米国え中国軍の侵入を防ぐために、動員された屯田兵である。この外にも奴国(米子平野)に2万戸動員された。
 又全国規模の高地性集落や久米国、奈良等の守備を考えれば、200万人の大量の人が動員された。
 全国に神武神社があったことは、天皇の恩恵を受けた人が全国に居ったことである。従ってこれだけの大動員が出来た理由があった。
 日本各地で別々に豪族が発生した、従来の学説では、大動員は出来る筈がない。


第13話 建国の日は正しかった  35ページ より


私から一言、---今、どこの博物館、資料館、考古学館を訪れても、その土地の豪族の活躍を全面に出しておられます。
 その豪族は、今では大王の称号が与えられ、その証拠として、お墓から、出土した甲冑が展示されています。
 田村氏の云われるとおり、〔日本各地で別々に豪族が発生した、従来の学説では、大動員は出来る筈がない。〕

お互いの資料館の間では、お隣とお隣の大王の関係すら説明がつきません。

魏志倭人伝にかいてある、「倭国乱」は、隣同市の豪族が戦争ばかりしていたのではないでしょう。
 いくらたくさん、甲冑が出土しても、「倭国乱」の証拠にはなりません。

|

2011.02.16

漢字7 伯 太

しらべる目的----大阪府柏原市に流れる石川のことを伯太川と呼ばれていたらしいと書いたものがあった。
この川と大和川に挟まれた山の中に、式内社・伯太彦神社と伯太姫神社があります。この伯太の意味を知る。

『字通』より
白と伯は通じるとあります。そこで白について記します。

白---ハク、ビャク。しろ、しろい、あきらか、もうす
象形—頭顱(とうろ)の形で、その白骨化したもの、されこうべ、。雨露にさらされて白くなるので、白色の意となる。偉大な指導者や強敵の首は、髑髏として保管された。覇者を示す霸(覇)はもと〔雨の下に革〕に造り、雨にさらされた獣皮の意。
白・伯に通じる。
〔説文〕に「西の方の色なり、陰、事を用ふとき、物色白し、入に従ひて二を合はす、二は陰の数なり」と五行説によって説くが、字は二 入を合わせた形ではない。
-----このほかに、沢山書かれていますが、何のことか理解できず、‐―以下――省略---
熟語もいっぱい掲載されていますが、「伯太」の例はない。

伯の漢字は、偉大なものや人を表し、白い意味を有しているらしい。


太 ---〔泰〕 タ、タイ、ダイ おおきい、ふとい、はなはだ
 声符は大 たい。
〔設文〕水部泰字条に「滑らかなり」とあり、その古文として太の象形をあげている。泰は水の上に、人を両手で押し上げている形で人を水没から救い安泰にする意。大の下の点は、水の省略形とみてよい。
・・・・・ この間、省略・・・
古い時期にには大・太を厳密に区別することなく、全文に大宗、大子、大室、大廟、大史の字に、すべて大に作る。
 漢碑には、大守、大尉をまた 太守、太尉としますことあり 
 ・・・・・以下省略・・・・

両方とも、説明文や熟語例は多い。しかし、字は簡単なのに、複雑で理解困難----

|

2011.02.15

実在した神武天皇(11)

神武天皇をまつった神社が、全国津々浦々に分布したことは、如何に壮大な、事業をやりとげたかの実証である。

 地名のパターンだけで、福ノ神族の存在を推理に使用して来た。この時には稲作民族を主体に考えたが、更に、桑の繁殖により大きな努力を、されていたのである。
 しかも、稲作は津軽平野は、撤退せざるを得なくなったが、絹の産地は、2000年間変わることはなかった。
 戦前の絹の産地は全て、神武天皇の神社があったことは、如何に古代にすばらしい、立地条件の判定能力を、持っていたかを教えてくれた。
 〝吉備にあった漢の古墳〟に、日本語のふるさとについて書いた。日本語は隠岐で、1000年位の間に原形ができただろう。
 このあとに、イザナギの命等が隠岐にやって来て、次に大人数で、ヒルゼンに移った。ここに、天照大神、月読命、スサノオの命達各種の民族が集った。この人達は出身地が異なるので、日本語にすぐなじんだ。


第13話 建国の日は正しかった  34ページ より

|

2011.02.14

漢字6 時・量・師

調べる目的
 古事記において、イザナギが禊をしているところがあります。この時に、いろいろの人がやってきました。
 ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき
穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊ぎ為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘
の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。 故、投げ棄つる御杖に成れる神
の名は、衝立船戸神。次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道之長乳歯神。次に
投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神。

翻訳者 倉野憲司氏の注釈には、〔名義未詳〕と書かれています。日本書紀には、この神は登場しません。
どのような神であるか知るために、時・量・師 の漢字を調べます。

時—形声。 声符は寺。寺に、ある状態を持続する意味があり、日景・時間に関しては時。
①とき、ひっき、きせつ ②おり、しお、そのときばかり、そのころ ③ときに、ときには、そのころ  ④是・諟と通じ、よい。


量―――象形。流し口のある大きなふくろの形。下部に土の形の錘をそえている。これによって、穀量を糧る。
①はかる。ふくろではかる。分量をはかる。 重さをはかる。長さをはかる。
②おしはかる。 ③ますめ。はかり、かず。ほとんど。ほど、かぎり。 ④字は又良に造る。
師―――会意。左の部分は、軍が出行するとき、軍社に祀った脤肉の象形。
 将軍はこの祭肉を携えて出行する。帀は帀(めぐる)とは別の字で、把手のある曲刀。刀部に血止めの又 枝を加えた肉包丁の類。

①軍社の祭肉切る刀。その刀。 その刀を扱う人。師官。軍官。
②将軍・軍隊・軍団
③いくさ、戦争
④先生、楽師


--------------**----------**---------**-----
ここで調べたことは、次のところで使いました。 時量師は、太安万侶の造語だと思います。

歴史各論 牽牛子古墳(14)  柏原の地は都だった(6) 時量師

http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-02-14

|

2011.02.13

実在した神武天皇(10)

絹戦争で絹に縁のある地名を、全部〝実用帝国地名辞典〟から引張り出したと述べた。
 この絹に縁のある地名の箇所が、これも全部付近から銅鏡が出土したのである。

 漢は日本の絹を300年頃まで、独占していたのであった。シルクロードを、300年より前に西域に運んだのは、全て日本から略奪したものだった。
 この絹の産地にこれも例外なしに、付近に神武神社があったのである。
 地名は国土地理院の地図と、先の地名辞典である。神社はこれも、先の地名辞典である。
 神社はこれも、八紘一宇と騒がれる前の政府の調べである。
 銅鏡も既に述べたが、奥野著『邪馬台国はここだ』である。わたしの意志で、ピックアップしたものではない。
 誰でもが、古代史に参加できる資料のみで得られた結論である。

 神武天皇から崇神天皇までを、否認して来た学説は、主観のみで、書か楽的根拠は、何一つなかった。神社も古代史を考える重要な要素だったのである。


第13話 建国の日は正しかった  33ページ より

|

2011.02.12

漢字5 柏

目的--奈良・御所市の地名・柏原(かしはら)

柏原市の地図

の柏の意味を調べる。
『字通』より
読み方---ハク、かえ、かしわ
声符は白(はく) 〔説文〕「椈(きく)なり」とあり、〔かえ〕という木。
意味--①かえ ②白+文 と通じる、うつ。③我が国では、かしわの木をいう。
④その字は檞をつくる。

以上、
どうやら、柏は、かしわのことですが、樫と柏は、少し、違うようです。

カシ(樫、橿、櫧)とは、ブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称である。狭義にはコナラ属中のアカガシ亜属を指すが、コナラ亜属中の常緑性の種もカシと呼ばれる場合もある。
なお、アカガシ亜属をコナラ属とは独立した別属として扱う場合もある。
常緑性であり、葉には表面につやがあり、鋸歯(葉の輪郭のギザギザ)を持つものが多い。アカガシ亜属は日本から台湾・中国南部・ヒマラヤにかけての温帯南部の湿潤地域に分布する。日本では中部地方以南に多いが、一部の種は、分布の北限が太平洋側で宮城県、日本海側で新潟県に達する。

柏(かしわ・はく・ポー)
• ブナ科の木。→カシワ。
• 「かしわ(かしは)」または「かへ」とも読み、ひのき・このてがしわ・いぶき・さわらなどヒノキ科の植物を指すことば。

|

2011.02.11

実在した神武天皇(9)

古事記では崇神天皇の時に、大ビコの命を越後方面に、この子のタケヌナカワケを、東海道等の十二道に派遣した。
 中国の敗残兵を征伐した。(この記事も日本書紀にはない)この時親子は会津で、会ったと書かれている。
 福島県付近の神武神社の分布を調べたのである。この結果はわたしでなくても、みなさんの手で引き出せるだろう。
 福島盆地に入植した人達は、阿武隈川と、いわき市を流れる夏井川を遡ったと考えられるのである。真野川(相馬市)の川口には、福浦の地名があった。
 福浦は雲南等からの大量移民の補給港だと述べて来た。天草から、点々と日本海側に、下北半島まで、続いていた。
 津軽海峡を越えて、太平洋岸を南に、福ノ神は親潮に乗って下ったと主張してきたのである。
 神武神社の分布はこの主張の裏付けとなった。地名だけでの推理が間違っていなかったのである。


第13話 建国の日は正しかった  32ページ より

|

2011.02.09

漢字4 橿

漢字を調べる目的は、
神武天皇が、東に16年費やして、奈良に到達したときに、宮殿を作りました。
その時の様子が、古事記と日本書紀に書かれています。
 その宮殿の名前に、「橿」が含まれます。
 どのような意味があるかを調べます。

日本書紀(宇治谷孟氏訳)にかかれてある文章は、次のものです。
 辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。正妃を尊んで皇后とされた。皇子神八井命と神渟名川耳尊を生まれた。だから古語にも、これを称して月背のようにいう。「畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて高天原に千木高く聳え、始めて天下を治められた天皇」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇という。


「橿」の漢字を字通で調べますと、次のように書いてあります。

声符は橿から木を除いた部分とあります。声符ですから、読み方になります。
きょ。う  と書いてあります。
「説分」「枋ホウなり」とあり、枋とはまゆみの木、または檀だという。 みな堅強の木である。
意味は
①かし、赤かし、白かし
②もちの木
③すきのえ
④彊と通用する
 
古訓 〔名義抄〕橿 カシ、カシノ木

とあります。
中国でどのような使い方があるかといいますと、「橿橿」があるのみです。
ということは、中国でもあまり使われていなかった漢字ということになります。

調べたものをどのように使ったかは、次の所に書きました。
歴史各論 牽牛子古墳(8)  地名 柏原(2)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04

|

2011.02.08

実在した神武天皇(8)

雲南から海岸沿いに、福建省の海岸を北上して、会稽付近から季節風すなはち偏西風を利用して、九州にわたったとわたしは述べて来た。このルートが“河を忘れた古代史”の表紙の地図に示されている。
 前には皮船でも来られたと書いた。シルクロードが日本に通じていたと考えれば、帆船も沢山航海していた筈である。
 
 船が九州にたどりついた所、すなはち熊本県には、神武神社が密集している。
 天草(地名に天がつく)は、生活環境の至って悪い、いはば不毛の地である。この天草だけで、神武神社が、44社もあるのだ。
 神武天皇に誘われて、日本にたどりついて感謝の気持ちで、神武神社を寄進したと考えれば、これが日本人の気持ちだ。
 雲南省の放映等で、正月の松飾り等は、日本とそっくりだった。神をまつるのは、雲南の風習で、しかもこの証拠が、天草にあったと考えたら如何だろうか。 
 雲南人を神道とは云わないだろう。神社の原形は天草にあったのである。


第13話 建国の日は正しかった  31ページ より

|

2011.02.06

実在した神武天皇(7)

天照大神は、ニニギの命に「豊葦原の水穂の中ツ国を治めよ」と命令された。今までこの真意が間違って解釈されて来た。
 しかし私の推理は正しかったことは、神武天皇の神社(以下神武神社と略称)の分布から証明されたのである。
 葦がよく繁った、中州国すなわちデルタ地帯に水穂を作れ、と命令されたのである。
 この命令を実行されたのが、神武天皇だった。神武神社のある所は、少く共直接、間接に神武天皇の息のかかった人達が居ったと考えれば、謎は残らないのである。
 わたしは神社の分布を地図に書いて見た。
しかしこれは、みなさんの手でも、出来る様に、神社リストの全部を示しておいた。
 日本の古代史は、閥のある学者にまかしておいては、解ける筈はないのである。自分達の学者生命が失われるのが、その理由である。
 古墳の年代が、当てにならないと、都合の悪いことは、発表されない社会である。


第13話 建国の日は正しかった  30ページ より

|

2011.02.05

実在した神武天皇(6)

津軽平野から1900年昔の、水田跡が昨年11月に見つかった。これもわたしの推理通りだった。
 1900年前は、神武天皇の御世で、年代が正確に一致した。
 しかもこの津軽へいやに、神武神社は、ニ社あったのである。この海岸には天皇山まで、地図に載せてある。
 神武天皇の恩恵を受けただけではなくて、天皇はここまで行幸されたのである。
 ここは十三湖とかね十三潟と云われる、天照大神の「豊葦原の水穂の中州国」だある。
 天皇が津軽まで行幸されたとあれば、このルートを探すことが愉しみである。
 津軽より南の潟なら、八郎潟である。ここには天王町がある。この八郎潟にも神武神社が残っていた。
 神武天皇は、日本海沿岸のすべての、デルタ地帯に、稲作民を、しかも計画的に入植させた証拠が出て来たのである。
 最初に正月の初もうでについて述べたのは神武神社は村人の、自由意志だとの証明だ。


第13話 建国の日は正しかった  29ページ より

私より一言----このルートを探すことが愉しみであると書いておられますが、もう、一歩を踏み出されたことが判ります。
 「天王」の地名を全国で調べてください。一部ではだめです。全国でしらべますと、どのような傾向がみられるか解ります。田村氏はこのようなものをパターンと呼んでおられます。
 「天王」の所には、一時滞在しておられたとみてよいことがそのうちに分ると思います。
 そのようなルートが発見できるのではないか、やはり、「楽」ではなく、「愉」です。
楽という字は、元は樂です。白の横に糸があります。『字通』で調べてください。
愉しみが増えると思います。

 賀茂神社、加茂神社にも、神武天皇が祭られていることが多いです。
 磐余神社も神武天皇を祀った神社です。

|

2011.02.03

実在した神武天皇(5)

神武天皇は古事記では、宮内に居られた。ここは西伯郡所子村だと書いて来た。現在の大山町でここにには神武神社があった。
 東征を決意されたのは、西伯郡大栄町の高千穂である。船出したのは島根半島(当時は島で、魏志倭人伝の末廬国〔松江国〕)の日向浦である。この松江国には、神武神社は3社ある。
 岡山県のチベットと呼ばれる山奥を、高天原があった所だと述べて来た。この山奥にも神武神社は2社あった。(真庭八束村)
 ここはもと県村と呼ばれ、県臣の出身地と考えられる。
 前にも述べたが、佐竹真如著『神代遺跡考』に高天原と書かれた所である。
 村人は高天原があった所だと、云い伝えて来た。しかし口外すれば、不敬罪で取調べをうけたのである。
 真実性がなければ、取調べをうけることはなかっただろう。
 紀州半島に神武神社はゼロだった。表の一社は大阪府との県境だった。


第13話 建国の日は正しかった  28ページ より


私より一言---次の部分は、歴史の学問とは、なんだということを言っておられます。
 このようなことの積み重ねで、歴史が少しずつ明らかになっていくように思います。

村人は高天原があった所だと、云い伝えて来た。しかし口外すれば、不敬罪で取調べをうけたのである。
 真実性がなければ、取調べをうけることはなかっただろう。
 紀州半島に神武神社はゼロだった。表の一社は大阪府との県境だった。

田村氏は、真実性がなければ、取調べをうけることはなかっただろうと考え、佐竹真如著『神代遺跡考』はきっと、正しいと思われたことになります。
 そして、いろいろ調べたうちの一つが、全国に分布している神武天皇を祀る神社です。
 ここから判ることは、いっぱいありますが、一番は、天草に多いということです。どうしてかは、実在した神武天皇(1)から(3)までかけて、書いておられます。
 お世話にならないのに、神武天皇を祀らないというのが、どうして神社ができたかの基本です。
天草に多いということは、誰でも気が付きます。では、どうして多いのかを説明することは大変なことです。田村氏が書かれた書物を全部よみますと、少しは判ると思います。我田引水ですが、私の『新しい日本の歴史』を全部読んでいただきますと、一層、解ると思いますが、やはり、少しは判るだけです。
 このようなことを理解するには、
 紀州半島に神武神社はゼロだった。

の部分を発見することは大切なことです。なぜ、紀州半島は神武天皇の影がないのかです。

|

2011.02.02

漢字-2  府

参考図書 『字通』ほか

調べる目的。
日本書紀の欽明紀に任那日本府(みまなにほんふ)と記されています。
任那日本府(みまなにほんふ)とは、日本書紀の欽明紀に記されている。これは、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあったとされる倭国の統治機関で、倭の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的と日本ではされていますが、この日本府という言葉ほど、政治的に翻弄されたものはないだろうとの感触を持っています。

 このことに対しする詳細は何一つ知らないのですが、ウィキペディアの「任那日本府
 の任那日本府の研究の歴史を読みますと、今後は、いっそう韓国と日本の争いの火種になるような気がします。

任那日本府は、存在していたのは、確かのようですが、潰れたのは、562年とされています。この時には、「日本」という国名もなく、「日本府」というような名称もなかったであろうというところが、一番の問題点かと思われます。
 そこで、「日本」も検討が必要ですが、今回は、「府」だけに焦点を当てます。

〔府〕声符は付。
説文 --「文書の蔵なり」とあり、重要な文書は府庫に収蔵した。
① くら  文書を蔵するところ 府庫
② つかさ、やくしょ
③もののあつまるところ。 あつまるもと。
④みやこ、まち、やしきまち
⑤腑と通じ、臓腑、はらわた、内臓

日本において、どのような使い方をしているかといいますと、
府--国府、大阪府、京都府、鎮守府、任那日本府、大宰府)、幕府、海軍鎮守府、政府、府中
九府: 明治維新直後にそれまでの幕府支配地のうち、江戸町奉行の支配地および遠国奉行の奉行知行所を「府」と改めたもの。箱館府・京都府・大阪府・長崎府・江戸府→東京府・越後府→新潟府・度会府・神奈川府・奈良府・甲斐府。
元々の意味は、上に書きました5つになりますが、
 政府の重要施設になっています。特に、軍事施設の色合いが強いように思われます。

幕府は興味のあるところです。

次のものが参考になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C

|

2011.02.01

実在した神武天皇(4)

Photo

(この神社一覧表は、6ページから26ページまでに収録されています。)

実在した神武天皇(4)の本文
 記紀と云われる言葉位、わたしに不可解な言葉はない。古事記と日本書紀に、一致した記述は、全く見当たらないのである。
 神武天皇の、東征前については、古事記は600字書かれているが、日本書紀は、全くのゼロである。
 神武天皇が東征されたのは、ナガスネヒコの征伐といわれている。

 このことは日本書紀を注意して読まれるとニギハヤヒが、ナガスネコヒを欺いたのである。このニギハヤヒを征伐に東征した。
 この東征するまで、神武天皇が居られた所も、出発地点も、日本書紀には書かれてない。
 東征中の滞在日数が、古事記には岡田宮1年安芸のタケリ宮7年、吉備高島宮8年となっている。
 しかし日本書紀は、岡水門1月、安芸宮 1月、吉備高島宮3年と、滞在地も年数も、異っている。
 これで記紀と一言で云ってよいだろうか。
 日本書紀の作者は、神武について、記録の持合せが全くなかったのである。


第13話 建国の日は正しかった  7ページ より


私より一言---神武天皇社の一覧表は、コピーでは、利用できませんので、次の所に入力し直しましたものを収めています。 ご自由に利用してください。写し間違いはあるかもしれません。そのつもりで利用してください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
古事記と日本書紀は、全く違うことが書いてあることは、ここにかいてあるように確かです。
田村氏が書かれました〔神武東征〕の部分だけでも、確かめてください。日本史の基本だと思います。
 田村氏は、もう一つ基本のことを見つけられました。
延喜式内社には、皇祖神といわれている天照大神が祭られている神社が少ししかないと言っておられます。
 私は、これも、日本史を考える時の基本だと考えています。
どのように考えるかは、みなさんのご自由です。
 こちらは、全部完成しないうちに、止まっています。

途中まででも、見て頂きましたらと思います。

式内社と祭神
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

|

« January 2011 | Main | March 2011 »