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2011.03.30

シルクロードは日本(4)

古代イスラエルは紀元前11世紀に建国された。しかし紀元1~2世紀には自然消滅した国である。
 このイスラエルの国民はユダヤ人だった。
金で世界を支配するために、わざわざ国を滅ぼしたのである。
 ユダヤ商人として、世界の富をかき集める様にふるまった。シルクロードが始まるのとイスラエルが滅びて行くのとが、無関係と云えるだろうか。黄金よりも絹が珍重され、同じ目方なら絹の方が高価だったのである。
 ユダヤ商人なら、何ヶ国語かをあやつってパミール高原でも、ゴビ砂漠でも危険を恐れずに往来したと考えられる。
 南方の海上ルートだって中近東から、日本まで通じていた筈である。イスラエルは地中海に面した国である。カルタゴの海戦だって紀元前398年には行われたのだから、航海技術は持合わせていたと考えるべきではないか。
 シルクロードの道を書いた書物も、今やブームである。しかも全て長安が基点になっていることに疑問を感じたのである。


第13話 建国の日は正しかった  51ページ より

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2011.03.28

シルクロードは日本(3)

イランや西域の珍宝が、中国にもたらせれば、中国の皇帝はだまっているだろうか。権力で珍しいものは、無制限に取りこむ人達だと考えたいのである。
 従って何の品に限らず、街で売られることはないと考えたい。従って正倉院の御物を、中国から、日本人が持帰ったとは考えられない。これが疑問の二である。
 シルクロードを運ばれた絹が、日本製であれば、商人が珍宝と絹を交換すれば謎は解けるのである。
 絹は黄金より珍重された。従って売り手市場である。仮に中国の絹が運ばれた場合でも、中国人が西域やペルシアまで、危険を犯して運ぶ筈はない。
 絹が欲しい人が、黄金以上の珍宝を持って日本や中国へ来た筈である。絹はもちろん天皇や皇帝の財産だったと考えるべきであろう。
 この珍宝を持ってやって来た商人こそはユダヤ人しか考えられないのである。シルクロードを通ったのは、ユダヤ人なら謎は全て解けてくれる。

第13話 建国の日は正しかった  50ページ より

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2011.03.26

シルクロードは日本(2)

錦織も、専門外だが、この錦織を、日本一の竜村でも、模倣するのに、大変苦労されたと聞いている。
 この模倣品のテーブルセンタを、庶民に手の出ない様な、高価で売られている。主として外国人向けで、ここにも昭和のシルクロードがある。
 昨年は又2300年前に滅んだ、中国の中山王国文物展でも、ビックリさせられるもの許りであった。
 鉄器が何時始ったとか云われているが、100キロ近い、鉄のかなえまで出品してあった。ロストワックスの技術は最高に駆使されていた。この技術は戦後にやっと実用化されたのである。
 御物の写真を見ての、第一印象は、漢民族のプロパーの製品は全くなかったのである。
 なぜ遣唐使には、純粋の中国のものが、贈られなかったのか。これが写真を見て感じた第一の謎である。
 なぜ唐にけんらん、華麗な文化があったと云えるだろうか。


第13話 建国の日は正しかった  49ページ より

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2011.03.25

葺石に対する疑問 その7 (五色塚古墳)

葺石に対する疑問に対する疑問も、その7になりますと、「白く輝く古墳」のイメージで歴史にロマンを感じて居られた方は、読む気もなくなってしまったと思います。
 その証拠は、カウンターに現れます。

 カウンターは、壊れていて、表示できませんが、このブログでは、そのカウンターを分析してあり、私だけがみることが出来ます。
 カウンターの数字は、私の記事を読まれた方の人数ではなく、トップページの数字が表示されるように設定してあります。しかし、掲載しました全部の記事のどの文がアクセスされたかも知ることが出来ます。こちらは、タイトルを見てアクセスされたことになります。
 「葺石に対する疑問」を書き始めてから、どんどんアクセスする人は、減って3分の1になりました。
 ということで、上に書きました「白く輝く古墳」のイメージを持っておられた方は、気分を害されたのであろうと推察しています。これは、五色塚古墳だけのことではなく、全国にある「白く輝く古墳」に対して、がっかりされたのではと思います。

葺石に対する疑問は、今日で7回になります。五色塚古墳は、完成して、暫くすると、草ばかりの山が、海の方から見えたと思います。ただ、それだけでも、異様な光景で、話題になったと思います。
 
 確たる証拠はありませんが、五色塚古墳は、4世紀末から5世紀初めに築造された古墳とされていますが、少なくとも、2世紀頃には、原形は出来ていたのではないかと想像しています。原形は、紀元前かもしれません。
 古事記を読みますと、イザナギとイザナミは、次々と国を生んだと書いてあります。
 元々住んでいた人たちをやっつけて自分たちが征服した面もあるでしょうが、国土造成の工事もする技術を持っていたと考えています。

 この五色塚古墳を見本にして、日本中に前方後円墳が造られるようになったと推理しています。

もう一つ、被葬者は、発掘されていませんから、判らないのですが、伊邪那岐神が祭られているのではないかと考えています。
 
このようなことを考える元になるものは、各地にある前方後円墳がどうして、造られるようになったかを調べなければならないのに、どこの前方後円墳も、円筒埴輪は並べて、祭祀をしていたでは、歴史にはなりません。

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2011.03.24

漢字12  臣と言

調べる理由—古事記の序文の最初の文章が、「臣安萬侶言」です。 安萬侶は人の名前ですから、前後にある 「臣と言」の意味を調べます。

臣---『字通』によりますと、臣は象形文字です。目をあげて上を見る形。大きな瞳を示す。 
  金文にみる小臣は王族出自の者で、聖職に従い、臣を統括する。臣は多くの神事に従い、もと異族犠牲や神の徒隷たるものを意味した。  中省略--のち出自や身分に関することなく、他に服事するものをいう。
意味 ①つかえる。神廟につかえる。祭事につかえる。②おみ、けらい、しもべ 
③めしうど、とりこ ④たみ、人民 ⑤臣下の自称

言---会意---辛+口。辛は入墨に用いる針の形、口は、祝詞を収める器の口。 (この口は、口の字の縦の両側に上に少し伸ばした形の記号になります。口とは関係ありません。)
 盟誓のとき、もし違約するときは、入墨の形を受けるという。
自己詛盟の意をもって、その盟約の器の上に辛をそえる。その盟誓の辞を言という。言を神に供えて、その応答を待つ行為が言であった。
①神に誓うことばをいう。神に誓う もうす。
②ことば、はなす、
③おしえ いいつけ

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2011.03.23

シルクロードは日本(1)

昨年東京の、正倉院展には、沢山の人が入場した。当時に新聞では、正倉院の御物にシルクロードの、郷愁を感じた人が多いと、報ぜられた。
 日本放送出版協会からは、時を同じくして松本清張編〝正倉院への道〟が出版された。
 この書物の写真は素晴らしいもの許りである。現在の最高技術水準は、庶民のわたしには分らない。
 しかし技術ヤの一員として、何の一品も、手作りで出来るものは一品もないと、申しあげたいのである。
 カットグラスを例にすれば、これだけ透明なガラス生地の材料は、探すだけでも大変なことだ。
 こはく色に色付けにするには、何を交ぜればよいだろうか。正確な幾何学的模様の割りふりだって大変なことだ。
 これだけ光沢の研磨剤から、不純物の出ない、ルツボ材料まで考えたら、気が遠くなりそうだ。イランのささん朝の技術にはね脱帽する外ない。

第13話 建国の日は正しかった  48ページ より
 

私よりの一言—今日から、又、そんな馬鹿なという話題です。
これは、日本史を理解するには、欠かせないものだと思います。

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2011.03.22

葺石に対する疑問 その6 (五色塚古墳)

前回、全国の自治体で、前方後円墳を復元する時に、どの自治体も五色塚古墳を参考にしたのではないかと書きました。
 それは、実際に復元された前方後円墳を見て頂ければ分ると思います。
公園化された前方後円墳は、それはそれで皆さんが楽しまればいいのですが、そこで、一日中、お弁当を広げて楽しむ雰囲気はないことはすぐに判ります。

復元された前方後円墳を見学された方は、そこにかいてある説明文を読まれて、日本の歴史を見る助けとされることになります。

前方後円墳は、当時の人たちは、どのように眺めたかは、次の言葉に集約されます。
「白く輝く古墳」です。

この言葉は、どこかで見たなと思われる方は多いと思います。
「白く輝く古墳」をキーワードにして検索をしますと、多くの人が使っておられることが判ります。
 例えば、参考の代表になった五色塚古墳は、果たして海から眺めますと、白く輝いて見えるのでしょうか。
 
以下、ヒットした文章を掲載しておきます。

五色塚古墳:兵庫県神戸市
http://blogs.yahoo.co.jp/mt_shirane2005/48761622.html
現代の明石大橋をみながら、当時、朝鮮半島からの鉄を運んだ船の通る海峡に、白く輝くふき石とひれ付きの円筒埴輪を飾ったこの古墳がきらめく姿が目に浮かぶ。

②葺石
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%BA%E7%9F%B3">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%BA%E7%9F%B3③なぜ、同じ古墳なのに名前がいくつもあるのでしょう
http://tabitoma.com/sakai/kofun/nazo/index.html仁徳陵の方向性をよく見ると最長部を海に向けていることが分かります。当時の海岸線は、現在よりももっと仁徳陵に近かったことは容易に理解ができます。
当時、大阪湾の沖合いから内外の船が訪れたと考えられます。海上から仁徳陵古墳、履中陵古墳、反正陵古墳が見え、誰もがその規模の大きさに驚いたであろうことが容易に想像できます。
陸地は、現在のようなグレー系に見えていたのではなく、おそらく原野のグリーンが濃かったと思われます。
高い建物も無く、沖を走る船からは、グリーンの大地に河原石が敷き詰められ白く輝く古墳が巨大な建造物として、見事に権力を誇示していたことでしょう。

1. ④葺石 - goo Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%BA%E7%9F%B3当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられる。

⑤マチャ゛平城京の・・・
http://playlog.jp/masashi-su/blog/archive/201006
周囲から見ると、鬱蒼とした森にしか見えませんが、本来古墳は表面に葺き石を敷き詰め、白く輝く巨大建造物でした。周囲には円筒埴輪などが並べられ、基壇では祭祀も行われていたと考えられています
⑥しおんじ山古墳へ行きました
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/~school/nawatehigashi-e/1,221,23,121.htmlしおんじ山古墳は日本でも有数の古墳であり、古墳には「ふき石」とよばれる石が積み上げられています。
ふき石は日光で白く輝くため、当時はより大きな存在感を放っていたことが想像できます

大人の方が、白く輝く古墳を想像して、歴史はロマンだと思われるのはいいですが、学校の先生が、子供たちを連れて見学に行き、
「前方後円墳は表面に葺き石を敷き詰め、白く輝く巨大建造物でした。周囲には円筒埴輪などが並べられ、基壇では祭祀も行われていたと考えられています」と説明していいのでしょうか。

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2011.03.18

神武紀元 (10)

東北大学の稲作が縄文後期に、津軽でも行われた学説は、一般に否認された。
 理由は東北の様な、寒冷地では、稲が育つわけがないことだった。
 これを主観と云うのである。自分で考えることは、根拠がなくても、正しいとされ、学閥が支配している例だ。
 しかしこれは既に述べたが、1900年昔の水田跡が見付かった。従って東北大学の教授の主張通りだった。
 わたしは福浦の地名と、田のつく村や稲のつく村が、9村もあったのが根拠である。 
 神武天皇が西暦元年に即位されたことが、証明されたので、わたしの古代史を解く、手法も、がい歌があがったのである。
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このページは、途中までです。 あまりにもコメントが多くて、コンピューターが壊れる寸前です。 上記より以下は削除しました。

コメントは書きこまないでください。

【楽しい人生】のブログは、近日中に閉鎖しようと思っています。 長いことありがとうございました。

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2011.03.16

葺石に対する疑問 その5 (五色塚古墳)

『五色塚古墳 復元・整備事業概要』の P35の文章を紹介します。
 前期の整備
 五色塚古墳の整備事業は、前方部の整備(Ⅰ・Ⅱ期—前期)と後円部・小壺古墳の整備(Ⅲ期—後期)に区分することができる。
 前期の整備は最初の基本方針通り〝復元〟することを目標にしたため、築造当時の葺石が残存する部分はそのまま残し、石の不足している部分を補うという形で設計・施工が行われている。
 前方部のうち43・44年度工事は、葺石と盛土との間に若干の砂を使用する方法をとり、石はいわゆる空積として。その結果、雨水で砂が流れ出し、葺きあげた石が沈みはじめるとともに、石が動きやすくなり、葺石の間から雑草が生えやすいことも明らかになった。また、埴輪溝の位置に暗渠を設けていたが、埴輪溝の破損が著しいため昭和45年より復元方法を若干変更した。その結果、葺石の裏ごめをコンクリートにかえ、葺石の沈下・落下を防ぐとともに雑草の生えることを防ぎ、暗渠の構造に改良を加えることによつて、埴輪溝の破損を防止した。


この文章の後に、『五色塚古墳 復元・整備事業概要』の執筆者は、

前方部の復元
墳頂・テラス高
墳頂部
稜線
施工上の問題
後期の整備
もう一度、施工上の問題

以上の小タイトルを設けて、写真とともに、62ページまでを費やし、復元したときに難儀したことを記しておられます。

上に記しました前期の整備を読まれましたら、これでいいのではないかと思われるでしょうが、この古墳が神戸市だけで限定されるのであれば、これでいいのです。しかし、全国に分布する前方後円墳の復元をしようとされた自治体は、この復元された五色塚古墳を参考にされた可能性が濃厚です。

 これでは、前方後円墳が、どうして、全国に造られたかを知るときの妨げになるのではと考えます。

この文章のおかしい部分を説明する前に、五色塚古墳を参考にして復元されたのではないかとの話を次回に書きます。

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2011.03.15

神武紀元 (9)

考古学の大家、森浩一著 〝考古学ノート〟のブックカバーを見ていただきたい。
 「有倭人以時盟不」と書かれている。これは170年頃の有力者の墓に、焼物に刻みこまれていた文字である。
 わたしはこれを、倭人の中には、和睦する人と、和睦しない人があると解釈した。
 九州人は漢と和睦したのである。久米国人は、あくまで交戦したと考えてよい筈た゛。
 なぜ漢が107年以降、日本を攻撃したと考えてはいけないのだろうか。
 中国偏向だと、わたしが述べるのは、ここにも実例がある。
 わたしは神武天皇が津軽まで、日本海沿岸に、大量に雲南から、稲作民を入植させたと述べて来た。
 これには地名のパターンが材料だった。
単なる、憶測ではなかったことは、古い冊子を見ていただければ分る。
 東北大学の教授は津軽から「モミ」が出土したので、稲作が行われたと主張された。
年代までも発表されている。


第13話 建国の日は正しかった  46ページ より

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2011.03.13

神武紀元 (8)

倭国大乱が190年頃収ったことは、中国文献によって、あいまいである。これはある日、中国が全面降伏したためではない。
 中国が知らない内に、中国軍が吉備だけは全滅した。しかし九州は相変らず占領が続いていたためである。
 既に述べたが漢は184年に黄巾の乱が起きた。更にスペイン風邪で、本国も大変だったが、日本えの補給が途絶えた。
 銅鏡の生産を九州でやる外なくなったのである。
 中国占領軍の将軍が戦死すれば、前方後円墳に葬った。従って前方後円墳は日本人が考えだして、改良? したものではなかった。
 漢が威勢がよい時程、古墳は立派でよかった。漢が落ち目になれば、古墳もお粗末になるのが常識である。古墳の年代を主観で決めることには、ここに落し穴があった。ねんだいが全くアベコベになるのだ。しかも前方後円墳の主は、皇族と中国人が混じっていた。


第13話 建国の日は正しかった  45ページ より

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2011.03.11

葺石に対する疑問 その4

前回、
円筒埴輪の実験は、熱が冷めていましたが、今年の1月から又、新たに始めました。このことは、又、別に書いて見ますが、これをきっかけに、やはり、円筒埴輪は、古墳の崩壊を防御する装置であることに、確信を持つに至っています。
と書きました。
 とはいうものの、円筒埴輪だけで、古墳の崩壊を1300年も支えることはできませんから、やはり、葺石は役だっているのではないかと思い、五色塚古墳の葺石について、誰かが書いておられるのではないかと思い、根気よく、インターネットで検索をしましたら、五色塚古墳を復元をするときに、葺石は難儀をしたことが書かれてあるのを見つけました。

 ところが、今、皆さんに見て頂こうと思いましたら、見つかりません。

 どのようなことであったのか、思い出しながら書いて見ます。
やはり、見つかりませんので、どのように難儀をされたのかを書いて見ます。

ウィキペディアによりますと、
 〔1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石、ふきいし)が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである〕
 この文章ですと、約223万個敷き詰められていることになりますが、本当に敷き詰められている数字でしょうか。(ある部分にある石の数を数えて、全体の数値を計算しておられます)

 次の所に、葺石のおおきな写真がありますから、ご覧下さい。
http://minoru1209.at.webry.info/201101/article_4.html 3枚目の写真をよくご覧ください。
葺石の間に、草が一本も生えていません。
 普通ですと、直ぐに草が生える筈です。これは、セメントで固めてあるのだと思います。
どこかに書いてあった話では、セメントで固めたどころではないそうです。はじめは、葺石が亡くなっている部分には、新たに石を置いて復元されたそうですが、上手くいかなかったそうです。
 だから、セメントで固めたのかといいますと、そうでもなかったようです。
 元々あった古墳の上を土で覆って固めて、新たに葺石を並べたとのことです。
 と云うことは、元の古墳より大きく復元された古墳を、皆さんは眺めていることになります。

 ビルの場合は、セメントの寿命は50年と聞いたことがあります。潮風を受けるところでは、セメントも鉄も寿命は短くなると思われます。
 この写真では、草が見えませんが、潮風の当たる南の斜面では、ヒビがはいって、草が生えているかもしれません。
 葺石を並べるだけではなく、凄い手間を掛けて復元されたことが判ります。

ここまで、書きましたが、もう一度、五色塚古墳 復元・整備事業概要 の冊子を読みました。

大分、間違っていましたので、次回、其の部分を書きます。

参考に  子持勾玉が二つのかけらが1つ出土しています。
 
http://www.magatamaya-net.co.jp/user_data/goshiki 子持勾玉 写真

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2011.03.09

神武紀元 (7)

〝崇神天皇の妹だった卑弥呼〟では、崇神天皇は150年に生れ、258年に崩御されたと仮定した。
 しかしこの仮定が正しかった。従って、上記で190年頃、スペイン風邪が流行したと書いたことも正しかった。 
 朝鮮の三国史記には、193年に倭人が、千人からの人が飢えて、食を求めて渡来したと書かれていてた。
 これは日本人が191年に大量に死んで、192年の作付が出来なかったと考えてよいだろう。
 同時に新羅と日本は友好関係にあったことを意味する。173年に卑弥呼は親善使節を遣ったのも真実だった。
 中国では189年から190年にかけて、年号が4回替っていた。伝染病は西から来たのでスペイン風邪は私の仮の名だ。
 中国軍が吉備に来ていたので、中国から日本に伝染ルートがあったである。孝霊天皇が190年頃、開化天皇が191年頃崩御されたことは、古事記で推察される。


第13話 建国の日は正しかった  44ページ より

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2011.03.08

葺石に対する疑問 その3

五色塚古墳の葺石を眺めていますと、この葺石があったから、1300年ほども古墳が崩壊しないのだと考えました。それぐらいのことでは、やはり、古墳は崩壊するだろうと考えて、外に仕掛けがあるものではと、頭に浮かんだものが、円筒埴輪でした。
 この話は、農業土木を大学で修めた人に、話をしてみましたが、お話にならない様に云われました。(そんなことをしなくても、崩壊などしないと) しかし、円筒埴輪は、古墳の崩壊を防ぐためのものであるという考えは、捨てきれず、再度、今度は建設会社を退職されましたが、土木の専門家を紹介して頂き、お宅に伺って質問しました。しかし、この考えは、やはりナンセンスだとのことでした。
 これが、2003年のことです。
 
 私のこの考えを諦めた訳ではありませんでしたが、池田古墳のことをきっかけに、円筒埴輪のことを書いています。
 平成22年8月のことです。

日本史 但馬の歴史(42) 茶すり山古墳(42)  朝来郡の遺跡(26)  池田古墳(10)
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1741790/ 上の方にある、<次へ> と云う部分をクリックしますと、次の所まで、円筒埴輪のことを書いています。
日本史 但馬の歴史(45) 茶すり山古墳(45)  朝来郡の遺跡(29)  円筒埴輪(3)

円筒埴輪の実験は、熱が冷めていましたが、今年の1月から又、新たに始めました。このことは、又、別に書いて見ますが、これをきっかけに、やはり、円筒埴輪は、古墳の崩壊を防御する装置であることに、確信を持つに至っています。

ところが、大阪府の柏原市にある玉手山古墳群のことを調べていましたら、『玉手山7号墳の発掘調査』という冊子に、「後円部の発掘調査」と云うページがありました。 そして、次のような文章が書いてありました。

後円部南側で、後円部の裾から頂上までを確かめる調査を行いました。手前の鉄柵の横に見える大きな石が墳端の基底石です。ここから墳頂までは、高さが11.mあります。斜面の途中にある2ヶ所の意志群は、それぞれ中段と上段の裾部およびテラスにあたり、後円部が3段に土壇を重ねた三段築成であることがわかりました。墳丘斜面の葺石は長い年月の間にはほとんど転落してしまい、いまは裾部の部分のみが残るだけですが、もとは墳丘全体にが葺石に覆われて白く輝いていたことでしょう。

 五色塚古墳を見て、葺石があったから、1500年ほども、当時の形を残していたのだと思っていましただけに、「墳丘斜面の葺石は長い年月の間にはほとんど転落してしまい」には、びっくりしました。そりゃそうですよね。あのように石を並べておくだけで、墳丘の表面に降った雨の大部分は、表面を流れ、一部が葺石の隙間から古墳の中に浸透していくのだと信じていました。
 朝来郡の茶すり山古墳は、復元されて間がありませんのに、階段の横が崩れかけていました。
 この二つのことから、葺石は、これだけで、古墳の崩壊には、あまり重要ではないのではと疑問を持つようになりました。

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2011.03.07

神武紀元 (6)

辛酉の年は西暦元年前60年と西暦61年も考えられる。しかし西暦前60年ならば、第一王子は、平均29才の時生まれたことになる。又西暦61年の場合は平均15才で生まれる計算になるだろう。
 何れも不合理である。今まで行って来た推理は天皇の寿命に全く無関係である。短命で30才で亡くなられたてんのうであっても、百才まで長生きをされても、全く左右されない、計算方法であることが特長である。
 天皇が第一王子を平均22歳の時に、お生みになれば、古事記と日本書紀の年代が、完全に一致したことになる。
 神武天皇以降の天皇の寿命が、古事記に書かれている。
 これから2代、3代、4代の天皇の方が、神武天皇より先き立たれたことが分る。
 しかるに日本書紀では、この4代までの天皇が順次即位されていた。
 実は即位することが、日本書紀に書かれている。紀元が660年繰上げされた謎はここにあったのである。

第13話 建国の日は正しかった  43ページ より


私より一言---次の部分のことです。
辛酉の年は西暦元年前60年と西暦61年も考えられる。しかし西暦前60年ならば、第一王子は、平均29才の時生まれたことになる。又西暦61年の場合は平均15才で生まれる計算になるだろう。

平均29才の時生まれたことになる の部分は解るのですが、
平均15才で生まれる計算になる の部分の15才が理解できません。 15の数字が出てきません。

分ると、今回の計算方法はすばらしいですね。

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2011.03.06

葺石に対する疑問 その2

『歴史楽』のトップページ http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/ の上から2番目に、
2003年09月02日 を入れて掲載していますと書きました。
 この時、この五色塚古墳のことが知りたくて、冊子に書かれてあることをヒントに、次々と調べました。
 4世紀から5世紀にかけて造られたといわれていますが、墓の主が誰であるかは分かっていません。ただ、瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族(ごうぞく)の墓ではないかと思われます。
と書いてありましたので、そりゃそうだと真面目にアタックしました。
 東灘区の先輩宅に車を預かってもらって、市内を自転車に乗って回りました。調べるところは、神社と古墳です。
 【古墳の周囲】
① 小壺古墳 小壺古墳は直径67m・高さ9m(上段の直径43m)で2段に築かれた円墳。墳丘頂
部とテラスには埴輪をめぐらしていたが、斜面に石は葺かれていなかった。
 円墳としては、 兵庫県下で最大。
② 歌敷山東古墳・歌敷山西古墳  五色塚古墳から、約400m西(現五色山4丁目) に存在した古墳。現在は、痕跡もなし。東古墳は直径25m・高さ3m、西は直径20m。昭和6年に住宅にするために発掘したところ東古墳は底径31cm円筒埴輪が1列にめぐらされ、およそ70個 埋められていたと推定された。西古墳は埴輪が2重に並べられていた。

③さらに500m西に舞子公園がある。この付近には、円筒棺が群集している。
④西求女塚古墳・処女塚古墳・東求女塚古墳 の3つの古墳がある。
少し離れますが、神戸市東灘区御影塚町に、前方後方墳の処女塚古墳があり、その西に、
前方後方墳の西求女塚古墳(全長約100m)、そして東には、同じく東求女塚古墳(全長約80m)
があります。3つの古墳は、現在では、町中ですが、作られた時は、海岸線に近くあり、海からよく望めたと思います。
 最大の収穫は、現在の国道2号線が、2000年ほど前は、海岸線で当時でも、東西を結ぶ最大の幹線道路であったことです。
 
 『日本書紀』神功皇后摂政元年春二月の条には、
「播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路島
にわたして、その嶋の石を運びて造る」 〔詳細〕 神功皇后
の記事があったために、神功皇后のことで、振り回されました。

神社では、住吉神社、広田神社、長田神社、敏馬神社 等です。全部行くだけではなく、この神社に関する神社は、大阪府の能勢や兵庫県までまわりました。

 この古墳は、神との関わりを考えに入れないと解明できないといろいろ思考を繰り返しました。
タイトルも次のようなものにして、形になったものは書きました。
五色塚古墳と神への祈り 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page387.html
五色塚古墳が、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族 と云われた神戸の歴史の先生は、嘘を云われたなと次第に思うようになりました。

 並行して、古墳自体のことを考えるようにしました。
 次に、疑問を覚えるようになったのは、「円筒埴輪」です。

タイトルの「葺石に対する疑問」と書きながら、葺石のことは書かず仕舞でした。次回も、古式塚古墳の葺石のことを書きます。


葺石に対する疑問 その1
 葺石で覆われた古墳を最初にみたのはいつだったか。それはどこだったか忘れてしまった。しかし、感動として残っているのは、神戸市垂水区にある五色塚古墳です。その後、自分でもう一度訪れたのが一回。ほかに、3回、案内したのを覚えています。

 初めに、五色塚古墳の写真をご覧ください。残念ながら、その大きさは写真からは伝わってきません。と云うことは、昔であれば、あるほど、その巨大さは明石海峡を通る人には、感動と恐怖心を与えたであろうと思います。
 昔とは
いつのことかと云いますと、神戸市の教育委員会に依りますと、
4世紀から5世紀にかけて造られたといわれていますが、墓の主が誰であるかは分かっていません。ただ、瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族(ごうぞく)の墓ではないかと思われます。
 と云うことは、卑弥呼の時代が250年頃ですから、それから100年か200年ほどたったころということになります。別の言い方をしますと、倭の五王 (413年~502年)の頃となります。
 倭の五王のだれかのお墓という可能性はあります。

五色塚古墳を取り上げたのは、いっぱい理由があります。何分、日本で一番古墳が多い兵庫県では、一番大きい古墳であるのに、何一つ判っていない不思議な古墳だからです。

教育委員会の人は、なにを根拠にして、「4世紀から5世紀にかけて造られた」と云われているのでしょう。
 これが正しいとしますと、「4世紀から5世紀にかけて造られた」にマッチする大王は、倭の五王しかいないことになります。
 それは置くとして、始めに書きましたように、あまりの大きさに人々は畏れたであろうと推察しました。ここだけではなく、全国に数えきれないほどの、前方後円墳が築かれていますが、五色塚古墳を眺めてから、明石海峡を通った人々は、自分の国に帰った時に、真似をしたかもしれません。(どうして、このような大きな古墳をつくるようになったか、歴史の専門家は説明をしなければなりませんが、なるほどと思える説明をした人は居られません)
 上に掲げた、明石海峡は殆どの人々が、通ったと考えています。(それも頻繁に)

上にいつのことかと書きましたが、
『歴史楽』 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/の2番目に、
2003年09月02日 を入れて掲載しています。

 ここの葺石に関する資料を書きます。
【葺き石】 この古墳の最大の特徴は、葺石が表面に出ていることです。先に葺石のことを記します。3段に築かれた墳丘の斜面を葺いてあります。
 
〔葺石のおおきさ〕下段は径5~10cm程度の円礫。
 上・中段は径15~30cm程度の円礫。
〔葺石の石質〕  下段は、層古生系のチャート、硅石などが最も多く、若干の砂岩、流紋岩、花崗岩系の礫やまれに硅化木の礫も含まれている。
上・中段は花崗岩閃緑岩が最も多く、黒雲母花崗岩、サヌカイトも若干含まれる。
〔葺石の産地〕  下段の石は、垂水礫層中の礫の組成と一致する。付近の海岸・河川と思われる。
 上段・中段の葺石の産地は、まだ確実な地域を突き止めていないが、と断りながら、地質学的には、淡路島が有力であるらしい。
それに加えて、『日本書紀』神功皇后摂政元年春二月の条には、

播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路島
にわたして、その嶋の石を運びて造る
」 〔詳細〕 神功皇后

「詳細」の部分も読んでください。


 という記事があるが、これは五色塚古墳に関する伝承であろうと述べ、 深くは関わっていない。
〔葺石の数・重量〕古墳全体で2233500個・2784トンと記されているが、復元に際し、数えられたわけではない。
 その根拠が概要に記されている。数地点において、1平方m当りの個数を計
測。上段平均70個・220kg、中段70個・220kg、下段240個・80kgに達することが判明し、計算上の数値である。 (数量的には、不足したであろうが、どこから持ってきた石で、何割ぐらいあり、その石はどの部分の修復に使われたかは記されていない)

長くなりましたので、中断しますが、もう少し、詳しく次回に書いて見ます。
 五色塚古墳は、昔も現在も、考古学に大きな影響を与えているので・・・・。

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/03/1-c096.html

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2011.03.05

漢字11  皇

皇帝の「皇」を調べる。 小野妹子が、遣隋使で中国に行ったときに、日本のトップのことを天皇といったから皇帝を立腹させた。推古天皇は、どのようなつもりで、「天皇」と名乗ったのか。


 「象形」 王の上部に玉飾を加えている形。
王は鉞頭の象。
刀部を下にして王座におき、王位を象徴する銎首の部分に玉を象嵌し加え、その光が上に放射する形であるから煌輝の意となる。

意味
 ①王位の象徴たる玉飾の鉞、きみ、天子、王、神、神霊
 ②その関係の語に修飾語として加える。
 ③輝く、ひかる、美しい、はなやか。
 ④おおきい、かざる。
 ⑤匡と通じ、ただす。
 ⑥惶に通じ、あわて、おそれる。
 ⑦遑、徨に通じ、いとま、あわただしい。
 ⑧況に通じ、いわんや。

皇帝の帝も調べなければなりませんが、これだけで省略しました。
「皇」は王位、天子、神まで意味があり、最高の漢字が使われている上に、輝く意味でつかわれていた。

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2011.03.04

神武紀元 (5)

古代の天皇には、長生きされた人が多い。しかし168才まで長生きされたとは、到底かんがえられない。
 崇神天皇に限って、生れた時のエトも、亡くなられた時ノエトも分っていた。従って、エト一サイクル60年だけ、後世の人が計算間違いした筈である。
 明治元年神社改正の際生まれの人だって、わたしは「ヒツジ」だからと今までを逆算して、年令が分るのである。本人が毎年、今年はいくつだと、云える様になったのは戦後のことだ。
 ついでに10代までの天皇に長生きされた人が多いのは、粗食で玄米が主食だったためである。ぜいたくになって、稲作民族が、貝などを食べる様になって、短命になった筈だ。
 崇神天皇がなくなられた年は、こじきで、戌寅で258年に相当する。168才でなくて、108才まで長生きされたとすれば、生まれた年代は150年だ。
 日本書紀からの崇神天皇が、生れられた推定年代は、古事記によって150年と確定されたことになる。


第13話 建国の日は正しかった  42ページ より

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2011.03.03

葺石に対する疑問 その1

葺石で覆われた古墳を最初にみたのはいつだったか。それはどこだったか忘れてしまった。しかし、感動として残っているのは、神戸市垂水区にある五色塚古墳です。その後、自分でもう一度訪れたのが一回。ほかに、3回、案内したのを覚えています。

 初めに、五色塚古墳の写真をご覧ください。残念ながら、その大きさは写真からは伝わってきません。と云うことは、昔であれば、あるほど、その巨大さは明石海峡を通る人には、感動と恐怖心を与えたであろうと思います。

昔とは
いつのことかと云いますと、神戸市の教育委員会に依りますと、
4世紀から5世紀にかけて造られたといわれていますが、墓の主が誰であるかは分かっていません。ただ、瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族(ごうぞく)の墓ではないかと思われます。
 と云うことは、卑弥呼の時代が250年頃ですから、それから100年か200年ほどたったころということになります。別の言い方をしますと、倭の五王 (413年~502年)の頃となります。
 倭の五王のだれかのお墓という可能性はあります。

五色塚古墳を取り上げたのは、いっぱい理由があります。何分、日本で一番古墳が多い兵庫県では、一番大きい古墳であるのに、何一つ判っていない不思議な古墳だからです。

教育委員会の人は、なにを根拠にして、「4世紀から5世紀にかけて造られた」と云われているのでしょう。
 これが正しいとしますと、「4世紀から5世紀にかけて造られた」にマッチする大王は、倭の五王しかいないことになります。
 それは置くとして、始めに書きましたように、あまりの大きさに人々は畏れたであろうと推察しました。ここだけではなく、全国に数えきれないほどの、前方後円墳が築かれていますが、五色塚古墳を眺めにから、明石海峡を通った人々は、自分の国に帰った時に、真似をしたかもしれません。(どうして、このような大きな古墳をつくるようになったか、歴史の専門家は説明をしなければなりませんが、なるほどと思える説明をされた人は居られません)
 上に掲げた、明石海峡は殆どの人々が、通ったと考えています。(それも、毎日のように、往来があったと考えています。)

上にいつのことかと書きましたが、
『歴史楽』http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/index.html の2番目に、
2003年09月02日 を入れて掲載しています。

 ここの葺石に関する資料を書きます。
【葺き石】 この古墳の最大の特徴は、葺石が表面に出ていることです。先に葺石のことを記します。3段に築かれた墳丘の斜面を葺いてあります。
 
〔葺石のおおきさ〕下段は径5~10cm程度の円礫。
 上・中段は径15~30cm程度の円礫。
〔葺石の石質〕  下段は、層古生系のチャート、硅石などが最も多く、若干の砂岩、流紋岩、花崗岩系の礫やまれに硅化木の礫も含まれている。
上・中段は花崗岩閃緑岩が最も多く、黒雲母花崗岩、サヌカイトも若干含まれる。
〔葺石の産地〕  下段の石は、垂水礫層中の礫の組成と一致する。付近の海岸・河川と思われる。
 上段・中段の葺石の産地は、まだ確実な地域を突き止めていないが、と断りながら、地質学的には、淡路島が有力であるらしい。
それに加えて、『日本書紀』神功皇后摂政元年春二月の条には、

「播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路島
にわたして、その嶋の石を運びて造る」 〔詳細〕 神功皇后


 という記事があるが、これは五色塚古墳に関する伝承であろうと述べ、 深くは関わっていない。
〔葺石の数・重量〕古墳全体で2233500個・2784トンと記されているが、復元に際し、数えられたわけではない。
 その根拠が概要に記されている。数地点において、1平方m当りの個数を計
測。上段平均70個・220kg、中段70個・220kg、下段240個・80kgに達することが判明し、計算上の数値である。 (数量的には、不足したであろうが、どこから持ってきた石で、何割ぐらいあり、その石はどの部分の修復に使われたかは記されていない)

長くなりましたので、中断しますが、もう少し、詳しく次回に書いて見ます。
 五色塚古墳は、昔も現在も、考古学に大きな影響を与えているので・・・・。

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2011.03.02

神武紀元 (4)

神武天皇は東征を決意された時は、45才で、エトは、甲寅と日本書紀に書かれている。
神武天皇の即位元年は、辛酉だから、この時は52才だったことになる。
 西暦元年に52才だったと仮定して、推理をして見たい。 10代までの天皇は主として第一王子が相続である。このこと古事記の系図で分かる。
 仮に第一王子は天皇が平均22才の時に生れたとして話を進めたい。 
 2代の天皇は、西暦23年の時に、52才だったことになる。この計算を繰り返せば、10代の崇神天皇は、西暦199年に52才であった筈である。
 崇神天皇が生れた年代は、147年になるだろう。
 147年頃は漢が吉備を占領していた時代であった。従って日漢戦争の、最中に崇神天皇は生まれられたのである。
 従って天皇が生れた年のエトは、周囲の人は、忘れられる筈はなかった。
 古事記では天皇は168才まで、生きられたと書かれた。


第13話 建国の日は正しかった  41ページ より


私から一言---「神武紀元」というタイトルになってから、初めて書きます。 私の「私から一言」はできるだけ書かないほうが良いと思っています。 それは、せっかくの田村氏の考えの邪魔をするからです。
日本史の中で、田村氏の新しい考え方で、3本指に入るものだと思います。

①式内社は天皇勢力に対抗する人たち(藤原氏)の生活の拠点である。
②古墳から出土する漢鏡、三角縁神獣鏡は、その古墳が、中国から派遣されて高官を証明する鏡である。
③神武紀元は、世界的に使われた紀元である。
  現在、西暦2011年と呼んで、世界の人が使っていますが、これは田村氏が、提唱される神武紀元と同じです。 神武元年は、西暦元年と同じです。 ということ、きょうは、神武2011年です。

さて、今回の内容は、確かめられましたか。
神武天皇が、神武東征の仕上げとして、奈良の御所市柏原に宮城を定め、国の経営を始めたのが、西暦元年1月1日です。

神武天皇の即位元年は、辛酉だから、この時は52才だったことになる。

崇神天皇は、10代天皇ですから、22×9=198です。これに
1を加えて、199年です。この時が、崇神天皇は、52才のはずです。199年で52歳ということは、引き算をしますと、147年生まれです。
 こんな計算は聞かれたことがないと思います。 上に書きました ③が正しいとしますと、この初めて見る計算式が、10代までの天皇で当てはまります。

検証
崇神天皇5年に、国の民の半分が死ぬという事件がありました。これは、中国と新羅との歴史と合わせますと、190年におこったことが判ります。現在で云うスペイン風邪が、中国と新羅、日本で発生したことになります。
 一見、無謀な計算ですが、史実の190年は、崇神天皇5年ですから、崇神天皇が天皇になったのは、即位したのは、185年ころとなります。 ほぼ、近いすうじが出ています。

現在、用明天皇のお墓のことを書いています。 これほど、後の天皇になると、さすがに、少しブレてきますが、100年もブレることはありません。  少し、遊べると思います。

 

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