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2011.05.20

資料 古墳 箸墓古墳 (1) 北緯と太陽の道

箸墓古墳は、奈良県桜井市に位置します。
 その位置は、
北緯34度32分21.34秒
東経135度50分28.42秒
です。

太陽の道をキーワードにして、検索をしますと、多くの記事がヒットします。
 この言葉、NHKのディレクターをしておられた水谷慶一氏が、
番組で取り上げられ、『「知られざる古代」』というタイトルの本も出版されました。

ある時期に、太陽が、北緯34度32分の上を通りますが、その地上にある構造物は、有名なものがいっぱいあるとのお話でした。

 私が興味を持ち、記事は、次の3つですが、もっとあったように思います。
此の外に、太陽は、大阪府堺市の日置荘を通過しましたが、資料はなに一つ残らず、日置という地名だけが残っています。

 箸墓古墳も、この太陽の道の上に造られたと考えています。

箸墓古墳が教えてくれる歴史の中で、超一級品の資料と思います。

次の記事は、以前に私が書いたものの、〔太陽の道〕を含むものです。

No301 一志町と日置 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-14
No308 伊勢神宮の位置(7) アマテラスの遷都(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-21
No330 名居神社と宇流富志弥神社 (2)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22

次のものは、桜井教育委員会から発表されたものですが、私の記事からリンクできなくなっていますので、インターネットから見つけたものです。


箸墓古墳発掘調査資料http://inoues.net/club/hashibaka.html
箸墓古墳発掘調査資料 纒向遺跡第109次発掘調査資料
(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会 1998年9月13日

Ⅱ.調査の概要

○渡り堤 東西方向に約8mに亙って検出されている。調査区の関係上、後円部との接続部分は確認できなかったが、堤の
南北に丁寧な茸石を施した立派な造り。堤の高さは周濠底より約1.3m、基底幅約4.8m、堤上面の通路幅は約2mと 墳丘に比べて小規模なもの。葺石は北面と南面の葺き方に違いが見られ、北面は比較的小型の石材を急な勾配で積み上げているのに対し、南は面を意識しつつ大型の石材を緩やかな勾配を持たせて葺き上げている。裏込めの手順にも南と北では工程に大きな違いが見られる。北側は基底から頂部にかけて裏込めの土と栗石を入れた後に化粧石を葺き、基底から一気に立ち上げているのに対し、南側は基底石を置いた後、裏込めの土と栗石を水平に入れ、この上に裏込め土、栗石、化粧石を葺くといった2ステップの作業工程を踏んでいた。また、渡り堤の上面には堤に直交して幅約1.6m、深さ約25cmの溝が掘られていた。溝の正確な用途は不明だが、北の濠から南の濠へと水を落とすための掘り込みと考えている。

○周濠 渡り堤の南と北の両方で確認されている。周濠は推定で幅約12m、推積は上・下層と大きく2層に分かれる。下層は周濠が機能していた頃の堆積層で、粘土や粘質土で構成され、上層は最終の埋没段階である植物の堆積によってできた腐植層。この周濠は前方部の南側や北側で行われたいずれの調査でも確認されており、古墳の周囲に幅10m程度の周濠が墳丘に沿う様な形で巡っていた可能性が高くなった。また、北側周濠底の断ち割り調査では渡り堤の下層で地山整形が確認されており、古墳築造当初から計画的に渡り堤が構築された事も解っている。

○外堤 周濠の外側にはすべて盛り土によって構築された、現存する高さ約70cm、幅15m以上の非常に厚い外堤状の高まりが確認されている。盛り土は堤の墳丘側と最も外側に幅2m程度の土手を築いた後に、土手と土手の間に土砂を入れるといった古墳の盛り土によく似た手法をとっていたと考えられる。この堤も前方部の南と北、いずれの調査でも検出されているものであるが、幅が確認されているのは前方都北側で検出された堤の部分だけであり、その幅は17mとやはり大きなものである。

○遺物と出土状況 遺物は主に周濠内と渡り堤や外堤の盛り土内から出土している。周濠下層からは数点の鋤の他に、針葉樹を丁寧に加工した加工木なども見られるが、その用途は不明。周濠内の出土土器は甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く、下層は布留0式期、上層は布留1式期頃の堆積層と考えている。渡り堤や外堤の盛り土は周囲の包含層を削ったものと考えられ、周濠内部と同様に甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く出土し、最も新しいものは布留0式期の土器片が出土した。

Ⅲ.まとめ

今回の調査は後円部では初めての調査であり、今まで実態のよく解っていなかった著墓古墳について実に多くの知見を得ることができた。まず第一には墳丘周囲の構造が解って来た事である。先述したように古墳の周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性が高くなった。また外堤の所々には墳丘へと繋がる渡り堤が築造当初から付設されており、後の渋谷向山古墳などに代表される渡り堤を持った古墳のルーツとも言うべき様相を
呈していたのであろう。最古の大型前方後円墳といわれる箸墓古墳にこれらの要素が備わっていたという事は古墳の構造や周辺施設の意義を考える上で重要な材料となる。第二には築造時期の問題である。後円部の墳丘そのものを調査した訳ではないが、築造当初から後円部と同時に構築されたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器のうち、最も新しいものは布留 0式と呼ばれる時期の土器群である事や、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合わせると箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造された事はほぼ間違いの無いものと考えている。
今後の周辺地区でのさらなる調査が期待される。

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