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2011.05.30

記紀(4)

記紀に共通事項がない一つに、年代がある。年代が書かれたのは、日本書紀だけである。
 しかも年代は、中国式の「エト」で書かれている。
 ここにも日本書紀が、中国人によって、書かれた根拠がある。 日本書紀は、720年に書かれたのに、700年昔の年代を、エトで知り得る根拠は、全くない。
 しかるにこのエトが日本書紀だけに書かれている。古事記と日本書紀の共通の、原典はあっては、この様なことは起こらない。
 古事記には、神武天皇の青春時代について漢字にして、約600字かかれている。しかし日本書紀には、一言も書いていない。
 参考までに、魏志倭人伝は、約2000字である。従って600字は、相当のボリュームではないか。
 ここにも古事記と日本書紀は、全くの無縁の根拠がある。
 神武天皇の青春時代の地名は、既に述べた様に、全て鳥取県西伯郡に、現存している。


第13話 建国の日は正しかった  88ページ より

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2011.05.28

記紀(3)

古事記が書かれたのは、712年である。宮中で古事記が、内密に作成されたのを、漢氏が知って、自己宣伝用に、日本書紀を、720年に書きあげたのではないだろうか。
 日本書紀を書いた漢氏は、名前を表面に出ておらない。ウラで色々策略することが、考えられてよいだろう。
 むしろ謀略の書であり、欺書なら、このやり方が常識である。
 古事記と日本書紀に、一致点が全く見当たらない以上、日本書紀は一般のうわさを主にして書いたとしか、考え様がない。
 噂となれば、何天皇の時に、どんな出来事があったと、語り継がれる。
 従って、発生の順序通り、語り継がれるとは限らない。既に述べたが、崇神天皇の、御世の出来事は、順序不同である・
 書かれた原本があれば、この様なことは起らない。
 天皇の年令が、古事記と日本書紀で、全く異っているのは、推測でかかれたとしか、考え様のないことだ。


第13話 建国の日は正しかった  87ページ より


私よりの一言----古事記と日本書紀をひっくるめて、「記紀」という云い方は、普通に使われるものです。田村氏は、このような使い方は間違っているのだと書いておられます。 ほとんどの人は、古事記と日本書紀は同じことが書いてあると思っておられますが、全く違うことが書いてあります。内容が違うどころではありません。一字一句と云っていいほど、異なり、漢字まで違う漢字が使われています。
 どうして、このようなことになるかと云いますと、日本書紀の編集者が、古事記を参考にして書いたからだろうと、田村氏は考えておられます。
 
 「記紀」のタイトルで、しばらく続きます。いろいろの角度から、書いておられます。
短い文章ですが、ゆっくり読んで頂ければと思います。

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2011.05.27

資料 古墳 箸墓古墳 (4)  倭迹迹姫命は誰だ

前回も見て頂きましたように、倭迹迹姫命の名前は、日本書紀の崇神天皇10年のところに、書いてありました。ですから、崇神天皇の御世の人だと思っていましたが、崇神天皇の兄弟には、倭迹迹姫命はいません。
 崇神天皇は、先代の開化天皇の子供ですから、ここに書いてあります。6年春に崇神天皇は、第二皇子として、御間城入彦五十瓊殖尊の名前がみられます。
 外に、
第一皇子:彦湯産隅命
第三皇子:彦坐王
 が記載されています。

ところが、古事記では、違っています。これが重要な所ではないかと思います。
古事記では、
第一皇子:比古由牟須美命
第二皇子:御真木入日子印恵命
  皇女  御真津比売命------御真木入日子印恵命の父妣な寺の兄弟
第三皇子:日子坐王
第四皇子:建豊波豆羅和気王 


 古事記では、この天皇の御子等、併せて五柱なり。(男王四、女王一) 
 と念を入れて断ってあります。


崇神天皇に妹がいたという話は、あまり聞きません。しかし、上の様に、日本書紀には、違ったことが書いてあります。
 この辺りのことを以前に書いてことがあります。読んで頂ければと思います。

卑弥呼は崇神天皇の妹
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page744.html

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2011.05.26

記紀(2)

門前の小僧、習わぬお教を読む、いろはかるたの文句である。わたし達は小学5年の時には、交替で授業の前に、教育勅語を暗誦させられたものである。 天皇も神武から明治まで間違いなく云えたものだ。どんな漢字を書くかは、全く知らなかったのである。 
 恐らく古事記を口述した、ヒエダアレも、漢字はしらなくて、しゃべった筈である。漢字を知っていることと、文章を覚えていることは別問題だ。
 神父さんだったら、古事記の数倍のボリュウムの聖書の文句を覚えておられるだろう。
 古事記は暗誦しやすい文章である。しかし日本書紀は最初から、紙の上に書かれた形式である。
 古事記はわざわざ語り部のヒエダアレの、口述を文章にしたことは、間違いない。
 なぜ語り部によらなければ、古事記は書けなかったかを、論じた本があるだろうか。
 やはり帝紀や旧辞には、一行も、真実が書かれてなかったためと解したい。


第13話 建国の日は正しかった  86ページ より

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2011.05.25

資料 古墳 箸墓古墳 (3)  被葬者は倭迹迹姫命

もう一度、日本書紀に書いてある「三輪山伝説」を書きます。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。(少し、この部分に間を設けます。)

倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻と為ると書いてあります。
 そして、その後に、倭迹迹姫命を大市に葬りまつると書いてあります。
 
 文章は続いていますから、誰が読んでも、倭迹迹日百襲姫命と倭迹迹姫命は同じ人物ですが、違うことになります。
 
 では、倭迹迹日百襲姫命は、どのような人物なのか、倭迹迹姫はどのような人物なのか、知る必要があります。

ウィキペディア名よりますと、次の様に書いてあります。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳)は、孝霊天皇の皇女。
『日本書紀』では、母は、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命らが、異母兄弟に孝元天皇がいる。『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命。同母兄弟に日子刺肩別命、比古佐勢理毘古命、倭飛羽矢若屋比売がいる。
崇神天皇からみますと、夜麻登登母母曾毘売命は、叔母になります。
 読み過ごさないで、古事記でも、日本書紀でも、各天皇の子供の名前と人数を確認してください。

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2011.05.24

資料 古墳 箸墓古墳 (2)  倭迹迹日百襲姫命

現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。
 
ウィキペディアによると、
 『日本書紀』崇神天皇10年9月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

箸墓のことは、上のように、日本中の歴史家が、日本の正式の歴史書としている日本書紀に書いてあります。
 このことは、日本書紀が、720年ころに作られる時に、知られていたから、ここに掲載されたのでしょう。
 ウィキペディアの筆者の方が、上の様に書きながら、どうして、一般に「三輪山伝説」などと書かれたのでしょう。
 「三輪山伝説」と呼ばれているものは、古事記にもあります。日本書紀と同じ崇神天皇の所に書いてあります。
 と云っても、古事記には、「三輪山伝説」と書いてあるわけではありません。内容も、丁寧に読んでください。 日本書紀の内容と全く異なっています。

 古事記には、意富多多泥古のことは書いてありますが、大物主神のことは書いてありません。
日本書紀は、712年に完成した古事記に書いてあることが、間違っているので、自分達、藤原氏に伝わっている歴史に書換えたのではないかと考えています。
  
 きつい書き方になりますが、古事記に書いてある「三輪山伝説」は、藤原氏から見れば、許せなかったと考えます。
 日本書紀の編集者は、箸墓の被葬者は、倭迹迹日百襲姫命と分かっていたから、このように、歴史書に書いたことになります。

ただ、上の文章を考察してみます。
①倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。
 この部分に、倭迹迹日百襲姫命と倭迹迹姫命は、同じ、人物の筈ですが、どうして、日本書紀の編集者は書換えたのでしょう。 その意図が判りません。

②「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。
 
箸墓が、倭迹迹日百襲姫命のお墓であることを記すだけではなく、なぜ、箸墓という名前が付けられたか、理由まで書いてあります。
 
 考古学者や歴史家が出る幕ではありません。
 宮内庁が、主張するように、倭迹迹日百襲姫命のお墓であるということは、言い伝えではなく、日本の正史に書いてあることになります。

 これを否定する材料は、調べが付きましたら、又、書いて見ます。
 
 しかし、倭迹迹日百襲姫命は、天皇でもないし、正式の名前すら、判らない「大物主神」の妻であるというだけで、崇神天皇や景行天皇よりも大きい、古墳が造られたからには、日本書紀の製作者には、書き残さなければならない理由があったのだと思われます。

 では、何だとなりますと、三輪山であろうと思っています。 奈良の桜井にある三輪山は、元々、鳥取県に造られたと考えています。桜井にある三輪山は、藤原氏が、無理やりに造ったもので、そこの祭神が、大物主というのも、藤原氏の作り話だと思います。

 では、そのようなことをして、何になるのだということになります。
これが判れば苦労は要りません。藤原不比等に聞くしかありません。

三輪山に鎮座する大物主神を祀る神社は、奈良でもっとも、実力のある神社だと思います。その名前は、『大神神社』と書いて、〔おおみわじんじゃ〕と言うそうです。どうして、『大神』を〔おおみわ〕と読むのか、そのようなことを言っている人は、大神=三輪明神
を理解しない人であると叱られるでしょう。では、理解しようとすればするほど、理解できなくなる仕掛けになっています。この仕掛けは、日本書紀、そのものにあります。
 
 1300年経過した歴史を解きほぐすことは、容易ではありません。
 
 箸墓は、宮内庁の人には、悪いですが、倭迹迹日百襲姫命のお墓ではないと思います。
 次回から、何回かに分けて書いて見ます。
 以前に、次のような記事を書いています。読んで頂ければと思います。

No358浦間茶臼山古墳と箸墓古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-04

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2011.05.23

記紀(1)

読売新聞の夕刊に、梅原猛先生が、〝古事記〟のタイトルで、5回連載された。
 この文章の中に、記紀の単語が繰り返し出てくる。しかし古事記と日本書紀には共通のことが書かれた箇所は全くない。
 疑問を持たれる方は、一度両書を突き合わせていたたせきたいのである。
 しかし年代が書かれているのは、日本書紀だけである。
 しかも神武天皇が東征される数年前から、「エト」が書かれている。出来事は全て、何月何日と、日付が入れられている。
 なぜ神武天皇の御世から、突然に、天皇の何年何月何日に、どの様な事件があったと、書けるだろうか。これが書ける前提条件は天皇直属の、記録機関と記録方法が必要だ。
 古事記や日本書紀には、その寄り所の本があったと、学者はすましておられる。
 しからば例えば帝紀等に、日付が書かれていたのだろうか。わたしは昨日のことでも、日付となると覚えておらない。


第13話 建国の日は正しかった  85ページ より

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2011.05.22

勾玉(4) 勾玉の形は胎児からか(2)

犬でも猫でも、一個の卵であったものが、次々と分裂を繰り返し、63日後には、親のお腹から出てきます。その時は、全ての部品というか、臓器は揃っているだけではなく、歩き始めます。ただ、肉食動物は、たちあがるのは遅いですが、草食動物では、鹿や馬では、仲間の集団に囲まれながら、お産をします。しかし、親の集団も弱いですから、ゆっくり移動をしながら、餌を求めると同時に、肉食動物からの襲撃を避けようとします。
 従いまして、生れた草食動物は、30分~1時間以内に、自分で立ちあがり、ふらふらでも、親と一緒に移動をします。
 どのような動物にも、一人前になるまでの日数は決まっていて、生れでる時点では、一応完成品と考えていいことになります。
 しかし、カンガールやパンダは、未熟な状態で生まれてきます。

 このように考えますと、全ての動物が、妊娠期間の例えば、5分の1の所では、勾玉の形になっているとは、言えませんが、あの勾玉の形の時は、通過するのではと考えています。
 このような状態のときの動物を、普通の人は見ることはできません。
 
 犬猫では、妊娠してから63日で、生れますが、何らかの障害がありますと、妊娠を継続できなくなります。その時は、胎児は、生れ出ることになりますが、妊娠期間が短いときは、生れても育たないことになります。たとえば、犬猫の場合、予定よりも10日早くうまれても育ちますが、勾玉の形の時であれば、全く育ちません。
 このようなときは、胎児は、別にどのようとも表現しませんが、生れることを流産と云います。勿論、胎児の形はしていません。
 人間の場合は、蛭児と呼ばれています。このようなことは、紀元前でも知られていたようで、古事記では、蛭子と書いてあります。

このように蛭子をみる機会は、昔でもありましたから、妊娠後、1ヶ月未満の流産も経験して、見ていたと想像は、出来ますが、それを見て、
〔 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられます〕の意味を含んでいたと考えるようになり、流産しないように、身に付け、次には、無事生れるようにと祈ったのかも知れません。又、前に死んだ蛭子の鎮魂を願ったのかもしれません。

 しかし、これが、三種の神器にまで、結ぶ付くようには思えません。

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2011.05.21

絹戦争(17)

蚕をかうことは人手を要することだ。錦を織る千歳な技術は日本人独特のものである。従って、315年頃は、中国軍の将校が絹産地を支配した。
 ヤマトタケルはこの親玉だけを殺せばよい。住民は全て、神武天皇が導入に幽した
 このあと再び絹はユダヤ人によって、西域に運ばれた。正倉院の御物は、ユダヤ人が、物々交換にもたらしたものだ。
 中国は楽浪絹の産地を失った。しかも黄土地帯では桑は育たなかった。
 シルクロードを運ばれた絹は全部、日本書紀のであり、一時期は中国人が日本占領中だけは中国経由もあり得ただろう。
 戦前は日本の絹は世界を独占していた。この絹が日本書紀経済を実に2000年間、変わることなく支えて来たのである。
 日本人がシルクロードに郷愁を感じるのは、これも2000年の遺伝体質だと考えたら如何だろう。

第13話 建国の日は正しかった  84ページ より

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2011.05.20

資料 古墳 箸墓古墳 (1) 北緯と太陽の道

箸墓古墳は、奈良県桜井市に位置します。
 その位置は、
北緯34度32分21.34秒
東経135度50分28.42秒
です。

太陽の道をキーワードにして、検索をしますと、多くの記事がヒットします。
 この言葉、NHKのディレクターをしておられた水谷慶一氏が、
番組で取り上げられ、『「知られざる古代」』というタイトルの本も出版されました。

ある時期に、太陽が、北緯34度32分の上を通りますが、その地上にある構造物は、有名なものがいっぱいあるとのお話でした。

 私が興味を持ち、記事は、次の3つですが、もっとあったように思います。
此の外に、太陽は、大阪府堺市の日置荘を通過しましたが、資料はなに一つ残らず、日置という地名だけが残っています。

 箸墓古墳も、この太陽の道の上に造られたと考えています。

箸墓古墳が教えてくれる歴史の中で、超一級品の資料と思います。

次の記事は、以前に私が書いたものの、〔太陽の道〕を含むものです。

No301 一志町と日置 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-14
No308 伊勢神宮の位置(7) アマテラスの遷都(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-21
No330 名居神社と宇流富志弥神社 (2)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22

次のものは、桜井教育委員会から発表されたものですが、私の記事からリンクできなくなっていますので、インターネットから見つけたものです。


箸墓古墳発掘調査資料http://inoues.net/club/hashibaka.html
箸墓古墳発掘調査資料 纒向遺跡第109次発掘調査資料
(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会 1998年9月13日

Ⅱ.調査の概要

○渡り堤 東西方向に約8mに亙って検出されている。調査区の関係上、後円部との接続部分は確認できなかったが、堤の
南北に丁寧な茸石を施した立派な造り。堤の高さは周濠底より約1.3m、基底幅約4.8m、堤上面の通路幅は約2mと 墳丘に比べて小規模なもの。葺石は北面と南面の葺き方に違いが見られ、北面は比較的小型の石材を急な勾配で積み上げているのに対し、南は面を意識しつつ大型の石材を緩やかな勾配を持たせて葺き上げている。裏込めの手順にも南と北では工程に大きな違いが見られる。北側は基底から頂部にかけて裏込めの土と栗石を入れた後に化粧石を葺き、基底から一気に立ち上げているのに対し、南側は基底石を置いた後、裏込めの土と栗石を水平に入れ、この上に裏込め土、栗石、化粧石を葺くといった2ステップの作業工程を踏んでいた。また、渡り堤の上面には堤に直交して幅約1.6m、深さ約25cmの溝が掘られていた。溝の正確な用途は不明だが、北の濠から南の濠へと水を落とすための掘り込みと考えている。

○周濠 渡り堤の南と北の両方で確認されている。周濠は推定で幅約12m、推積は上・下層と大きく2層に分かれる。下層は周濠が機能していた頃の堆積層で、粘土や粘質土で構成され、上層は最終の埋没段階である植物の堆積によってできた腐植層。この周濠は前方部の南側や北側で行われたいずれの調査でも確認されており、古墳の周囲に幅10m程度の周濠が墳丘に沿う様な形で巡っていた可能性が高くなった。また、北側周濠底の断ち割り調査では渡り堤の下層で地山整形が確認されており、古墳築造当初から計画的に渡り堤が構築された事も解っている。

○外堤 周濠の外側にはすべて盛り土によって構築された、現存する高さ約70cm、幅15m以上の非常に厚い外堤状の高まりが確認されている。盛り土は堤の墳丘側と最も外側に幅2m程度の土手を築いた後に、土手と土手の間に土砂を入れるといった古墳の盛り土によく似た手法をとっていたと考えられる。この堤も前方部の南と北、いずれの調査でも検出されているものであるが、幅が確認されているのは前方都北側で検出された堤の部分だけであり、その幅は17mとやはり大きなものである。

○遺物と出土状況 遺物は主に周濠内と渡り堤や外堤の盛り土内から出土している。周濠下層からは数点の鋤の他に、針葉樹を丁寧に加工した加工木なども見られるが、その用途は不明。周濠内の出土土器は甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く、下層は布留0式期、上層は布留1式期頃の堆積層と考えている。渡り堤や外堤の盛り土は周囲の包含層を削ったものと考えられ、周濠内部と同様に甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く出土し、最も新しいものは布留0式期の土器片が出土した。

Ⅲ.まとめ

今回の調査は後円部では初めての調査であり、今まで実態のよく解っていなかった著墓古墳について実に多くの知見を得ることができた。まず第一には墳丘周囲の構造が解って来た事である。先述したように古墳の周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性が高くなった。また外堤の所々には墳丘へと繋がる渡り堤が築造当初から付設されており、後の渋谷向山古墳などに代表される渡り堤を持った古墳のルーツとも言うべき様相を
呈していたのであろう。最古の大型前方後円墳といわれる箸墓古墳にこれらの要素が備わっていたという事は古墳の構造や周辺施設の意義を考える上で重要な材料となる。第二には築造時期の問題である。後円部の墳丘そのものを調査した訳ではないが、築造当初から後円部と同時に構築されたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器のうち、最も新しいものは布留 0式と呼ばれる時期の土器群である事や、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合わせると箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造された事はほぼ間違いの無いものと考えている。
今後の周辺地区でのさらなる調査が期待される。

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2011.05.19

絹戦争(16)

 中国は日本の絹が欲しいために、日本書紀各地を占領した。しかも絹の出ない所には、兵を進めなかったのである。
 ヤマトタケルが熊襲と出雲の出雲タケルを征伐して、帰還すると、すぐに東に征伐に行く様に云われた。
 この征伐のルートは〝大日本読史地図〟に示されている。
 秩父、買い、信濃、諏訪、岐阜、桑名、福島と全て、絹の産地であり、絹に縁のある地名の密集地は網羅されていた。
 しかも、これが全て銅鏡の出土地だった。近くには竜や、城、雷のつく地名も必ず見付かったのである。
 何故ヤマトタケルは急に征伐を頼まれたか。実は中国が北朝鮮の支配権を失ったのが、315年である。この年に高句麗が独立した。
 高句麗が独立したので、中国から南朝鮮沿岸沿いのルートが絶たれた。従って日本各地の中国軍は、本国との連絡が失われてしまった。景行天皇が九州征伐ができたのも、高句麗独立と関連していたのである。

第13話 建国の日は正しかった  83ページ より

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2011.05.18

勾玉(3) 勾玉の形は胎児からか

例えば、犬や猫のような動物では、交尾という行為によって、オスが持っている精子とメスが持っている卵が、一体になります。普通は、一つの卵を沢山の精子が、卵を囲むことによって、そのうちの精子が一つだけ、卵の中に入ります。精子がはいった卵は、受精卵と呼びます。
 しばらくしますと、一つの卵が、二つに分かれます。顕微鏡下で見ていますと、ゆっくり別れる様子を見ることが出来ます。
私は獣医師ですので、50年前に、ウニが分裂していくのを、夜にずっと、観察しながら、スケッチをしたのを覚えています。
 二つに分かれた卵は、暫くしますと、又、ゆっくりと二つに分裂をします。今度は、4つにみえます。(全体は一つです。その中に、4つの部屋が見えます) 次は、8つです。その次は、16個です。 これぐらいになりますと、もうスケッチが難しいぐらいのものに成長します。これ以降の受精卵は、益々、大きく似り、受精卵の中は、複雑な形となり、桑実期と呼ばれる時を経過します。
 一つの卵であったものは、この頃には、細胞と呼ばれるのでしょう。この細胞は、全体は丸いものですが、どんどん、中に細胞の数を増やして、大きくなっていきます。
 勿論、この細胞は、母親の子宮と呼ばれる部屋で大きくなっていきます。
 この後は、見たことがありません。

 どれぐらいの大きさになったら、胎児と呼ぶようになるのか、忘れましたが、大きさではなく、いろいろの器官(目、耳、鼻、脚、手など)がそろえば、胎児と呼ぶのだと思います。

 不思議なことに、どの動物でも、大きく分けますと細胞は3つの層に分かれ、全ての器官や組織はここから作られることになっています。 ただ、細胞が増えていくのではなく、はじめから、どの部分が、将来目になるとか、足になるか決まっていることになります。
• 内胚葉からは、消化管、肺、膀胱等ができる。
• 中胚葉からは、筋肉、骨格、血管等ができる。
• 外胚葉からは、神経管や皮膚等ができる。
次の所に、4周目の人の胎児と、10日目のネズミの胚の図か掲載されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E7%94%9F%E5%AD%A6私は獣医師ですから、避妊手術の依頼を受けて、妊娠した動物の胎児を子宮ごととりだすことは多くしてきましたが、胎児がどのような形をしているか見たことがありません。

ネズミが受精卵になってから、分裂を繰り返しますが、母親の子宮にくっついた状態になり、栄養分を親から貰うことになります。母親の子宮にくっついた状態を妊娠と云います。
 ネズミの妊娠期間は、ほぼ。20日です。ということは、妊娠してから、20日後には、全ての器官を揃えて、生れてくることになります。
 
 先ほど、見てもらいました、10日目のネズミの胚の図は、まだ、器官は肉眼では見えませんが、略揃っていますから、丸い部分は、10日後には、頭になり、反対側は、お尻の方になります。
 
 如何でしたか。
 この勾玉の形は、背骨のある動物ですと、全部基本は同じだと思います。 先の細い部分は、尾の部分になるのですが、人では生まれた時には、尾は無くなっています。 蛙の此のオタマジャクシは、卵から孵ったときは、勾玉の形をしていますが、尾の部分は、無くなり、足も生えてきて蛙になります。
 
 案外、昔の人は、オタマジャクシの生命力というか、繁殖力のすごさを知って、
 兵庫県立博物館の研究員に、
〔 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられます〕と言わしめたことになりますが、そうであれば、勾玉は、中国でも、世界でもあっても良いことになります。
 韓国では出土しているそうですが、中国ではないらしいです。

 次回、もう少し、考えて見ようと思います。

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2011.05.17

絹戦争(15)

魏志倭人伝だけは、是非全文をしかも繰り返し読まれることだ。又聞きでは古代史の謎は解ける筈がない。
 例えば最も重要なことは、難升米は魏の皇帝から卒善中郎将に任ぜられている。日本人が中国から、任命されることはおかしいと考えるべきだろう。
 
 しかもこの官職は植民地軍司令官である。何れこの郡司令官は2名に増員されたのである。難升米は日本書紀占領の総大将である。
 しかも最後に逃げ帰ったのは、僅か、20人でしかも、このリストには最高司令官、難升米の名はなかった。
 日本の学者はなぜ中国偏向なのだろうか。難升米は殺されたとは考えたがらないのである。戦争なら郡司令官でも殺されることがある。
 しかも僅か20人が逃げかえったあと、425年まで国交が断絶した事実が残ったのである。
 邪馬台国が九州のどこかと、大騒ぎする前に、歴史の本すじをなぜ、討論しないのだろうか。

第13話 建国の日は正しかった  82ページ より


私から一言---魏志倭人伝だけは、是非全文をしかも繰り返し読まれることだ。 この通りだと思います。
我伝引水ですが、 〔ノックさんの目次〕http://homepage1.nifty.com/o-mino/ に、私が翻訳しようと、頑張った
〔魏志倭人伝〕の翻訳があります。 〔日本のオリジナル〕をクリックしていただきますと、〔魏志倭人伝を読む〕と〔古事記の新しい読み方〕を掲載しています。

どちらも素人の読み方ですから、納得できないことがいっぱいでしょうが、私の真似をして、ご自分で、魏志倭人伝と古事記読んでみてください。 

このブログは、壊れていました。お金ばかりかかるので、やめようと思っていましたが、なおりましたので、〔式内社と祭神〕を完成させようと思っています。 

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2011.05.16

勾玉(2) 勾玉の形

勾玉の形は、写真を含め、これまでに見たものは、一方が丸く、その反対のほうは細くなり、全体は曲がっています。
 次の写真は、現在、販売されているものの写真です。形をよく眺めてください。なにに見えるかです。
勾玉屋 http://www.magatamaya-net.co.jp/products/list.php?category_id=98一見、動物で、丸い部分の丸は、目に見えます。写真では判りませんが、表面はツルツルのように光っています。古いものも、結構光っているように思います。
 動物であれば、イルカが、背を曲げている様子を想像できます。ただ、日本の近海に、イルカは居たのでしょうか。
兵庫県立博物館のパンフレットに書いてあったものでは、
 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられますと書いてありましたが、イルカは、その動きをみているだけでも、精力的ですが、動きだけですと、イルカでなくても、サンマでもいいことになります。

兵庫県が発掘された雨流遺跡からは、
http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000vgf.html は、普通の勾玉と子持ち勾玉が出土しています。 子持ち勾玉は、良く見ますと、曲がっているところは、同じですが、魚で、背びれと腹びれとお腹に3匹の子供までいるように見えます。

 子持ち勾玉は、普通の勾玉から発展したものと分かっていますと、勾玉は、魚だということになります。
 雨流遺跡では、両方の形のものが、出土しましたから、可能性は大きいです。

この形を見たら、増殖と鎮魂は湧き上がってくるでしょうか。
威勢のいい、イルカや魚の増殖力から、想像は出来るかもしれません。しかし、鎮魂は無理のように思います。

 ウィキペデアでは、次の様に書いています。
「形の由来」の説として、以下のものがある。他にも幾つかの説があり、なにが由来となっているか、そもそも一つのものを由来とするのかもよくわかっていない。
• 動物の牙で作った牙玉を基とする説
• 胎児の形を模したとする説
• 巴形を模したとする説
• 月の形を模したとする説
• 形そのものに意味があったとする説
• 破損した耳飾を再利用したとする説

随分書かれていますが、賛同できるのは、胎児の形を模したとする説 でしょうか。

 胎児を見られたことがありますか。 胎児はお腹の中にいるときの赤ちゃんです。人の30日ぐらいの胎児の写真は、インターネットで見ることが出来ます。この頃ですと、勾玉の形どころか、手足も備わっているはずです。
 しかし、目ははっきりとし、身体全体は曲げていると思います。きっと、勾玉のようにきれいではないと思います。
 
次のブログは、勾玉を販売しておられる方のものですが、上手く書いておられます。
http://amy.to/html/whatsmaga.htmlセールスポイントとして、強力な護符を挙げておられます。
 〔古代から魔よけの石・幸運を招く玉として、また強力な護符として用いられてきました〕

これは、きっと、本当なのでしょう。だから、古墳からではなく、兵庫県の雨流遺跡から、発掘されたことになります。
 これで、前回、書きました、子持ち勾玉は、中国人のもの。普通の勾玉は天皇家ゆかりのものという、私の推理は砕けてしまいました。

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2011.05.15

絹戦争(14)

難升米が魏の皇帝に献上?した、品目リストは、注意深く見ることだ。
別稿デ述べたガ、倭絹がリストにあった。これは、日本の錦の方が優秀だった、何よりの証拠である。
 更に弓矢がリストにある。これは日本軍の武器の方が、すぐれていたので、サンプルも提出したのだ。

 リストに生口男4人、女6人と書かれている。生口とは捕虜のことである。学者がこれを奴れいと訳したために、古代史が解けなくなった。
 古代の日本の奴れい制度までが、精しく本に書かれている。女の生口は魏の皇帝の、夜の相手をさせられただろう。
 男にの生口は日本語の通訳に必要だったのである。日本人を捕虜として、連行した難升米は、魏のスパイである。
 わたしが進歩的学者は中国偏向だと述べるのは、これが理由の一つだ。なぜこの時に中国に進駐されたと云わないのか。

第13話 建国の日は正しかった  81ページ より

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絹戦争(13)

魏志倭人伝では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に至るまで七千里」と書かれている。南朝鮮で北岸とかいてあることは、チエをしぼって見ることだ。
 狗邪韓国とは、イチガラセの国名である。日本の国名には、全て、下卑なアテ字をしてもらったのである。
 久米国には狗奴国、ヤマトには邪馬台(壱)となっていた。この二つの日本の代表国名の一つ字づつ取ってある。
狗邪韓国とは、韓にある倭国と解して、良いのではないか。
 北岸となっていめが、任那国のあった所は現在真釜山付近だから、朝鮮の北岸ではなくて、倭国の北岸又は北限と解したいのだ。
 魏志倭人伝の、倭と韓の記述を較べるだけで、任那国が倭国だったことは、証明がつく国が倭と境をせっしていたと、書かれている。
 従ってこの倭国とは狗邪韓国を指していたのである。陳寿はさとられぬ様に書いたのだ。
 
 
第13話 建国の日は正しかった  80ページ より

私より一言---任那国が日本にあったと発言しますと、韓国の方から、叱られるとどこかで読んだ気がします。
 こんな説明で、韓国に任那があったと結論付けてもいいのでしょうか。 いいのでしょうね。

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2011.05.14

絹戦争(12)

日本書紀の崇神天皇の御世の出来事は、わざわざ年代をチグハグにさせて、欺くように書かれていたことは、既に述べておいた。
 古事記と日本書紀は、崇神天皇の記事を見る限りでも、共通点は全く存在しなかったのである。記紀の言葉は不穏当である。
 更に既に述べたが、奈良市の一部を除いて、周囲は全て魏の軍隊に占領されていた。記録を戦時下に、つけられただろうか。
 後世何々天皇の時にどんな事件があったかは、言い伝えは残る。まして戦争である。
 吉備や大江山の、鬼退治の伝説は残らない方がおかしい。ついでだが、ヒルゼンには、昔高天原だった伝説は残っていたのである。
 日本書紀に南朝鮮に任那国が、日本の属国としてあったと書かれている。 
173年に卑弥呼は新羅に親善使節を遣った。恐らくこの時以来、中国の占領軍に朝鮮南岸を使用させないため、日本は軍隊を駐屯させていただろう。朝鮮の正史には、取られたことは載せないのが常識である。


第13話 建国の日は正しかった  79ページ より

私よりの一言---〔173年に卑弥呼は新羅に親善使節を遣った〕以外、何ひとつとして、正確な資料はありません。
〔古事記と日本書紀は、崇神天皇の記事を見る限りでも、共通点は全く存在しなかったのである。〕 この部分は、田村氏が思われただけです。
 それでも、全体に書かれていることは、認めなければ仕方がないでしょう。

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2011.05.13

絹戦争(11)

古事記では、崇神天皇は大ヒコの命に山城国(城が地名につく)のタケハニヤスを征伐させた。山城国の高麗村の、椿井古墳から、三角縁神獣鏡が、20枚出土した。
 タケハニヤスは高麗人だと述べたのは、このためだった。じつは高麗村は綴喜郡に属していたので、占領目的は、つづれ織があったのである。
 正始4年(245年)の魏におくられた、倭絹はここで作られたとかんがえたら如何だろう。
 河内の青玉(人名)が、青玉で孝元天皇を買収して、妃に娘のハニヤス姫を送りこんだ。この王子がタケハニヤスで、クーデターをやるために孝元天皇を欺いた。
 〝正倉院への道〟に載せられた、写真の、素晴らしい青玉こそは、この贈物だろう。
 河内はもと錦部郡で、ここに紀の川の橋本からのルートには神武神社が多い。
 青玉はユダヤ商人が錦と交換に、高麗の占領軍に渡されたことだろう。
 河内は石棺からも、中国が占領した所だったことが明らかな所である。


第13話 建国の日は正しかった  78ページ より

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2011.05.12

絹戦争(10)

ヤマトタケルが東征した時のルートは〝大日本読史地図〟に6—7に示されている。
 新治、筑波、香取と征めて進まれた。これも中国人の占領地の地名を考える時、目的がハッキリしたのである。
 地方に豪族が居ったと古代史に書かれている。この豪族とは全て、中国人だったのである。
 神武天皇に恩恵を受けた人を、中国人が心配して、絹をつくらせた。従って豪族すなはち中国人のボスを、ヤマトタケルは、一人でも征伐出来たのである。
 天皇とは何か。いかに日本全土に御稜威が行き渡っていたかを、考え直して見ることだ。
 この関東の計略は重要である。再び中国軍に占領されない軍備が必要である。
 古事記で崇神天皇の、第一王子、上毛野君、下毛野君の祖と書かれている。君とは君子の君である。崇神天皇としては、大和よりも関東を重視したことは、明らかである。
 なぜ両毛を重視したかの之雄は、絹が日本の生命線だったためである。


第13話 建国の日は正しかった  77ページ より


私から一言--〔古事記で崇神天皇の、第一王子、上毛野君、下毛野君の祖と書かれている。〕
   古事記に書いてあるとありますが、日本書紀にも書いてあります。 読者に注意するようにという印でしょうか。 古事記では、小さい字で書いてあります。

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2011.05.11

絹戦争(9)

結城は、○城と中国人の占領地だった地名である。この下流に竜ケ崎がある。
 鬼と○城と竜の地名パターンが、ここでも発見出来た。他方絹と桑のパターンで、絹産地であったことが分る。
 地名を一つだけ取上げて、同名の地名を全国から探したのでは、古代史は分らない。
 どんな小さな集落の地名も、かえられたのでは歴史が消されてしまうのである。地名は古墳以上に重要な例がここにもあった。
 少く共現在のこの付近の地名からは、何一つ古代を教えてくれるものはない。今一度地名はパターンが大切なことを強調したい。
 〝邪馬台国はここだ〟には、前橋市、高崎市、富岡市、藤岡市から、三角縁神獣鏡が出土したことが分る。
 この地名をいくら、ひねくりまわしても、歴史が分るだろうか。
 更に千葉県香取郡小見からも三角縁神獣鏡が出土した。結城と合せて、この勢力圏に加えて考えることだ。三角縁神獣鏡は漢が衰えてから後に作られたものである。


第13話 建国の日は正しかった  76ページ より

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2011.05.10

勾玉(1) 勾玉は天孫降臨のときの持ち物

古墳から出土するものには、いろいろの物があります。
鏡、武器、武具、土器、埴輪、石釧、腕輪、車輪石、鍬形石は、有名ですが、絹織物、紡錘車、勾玉は、出土しても取り上げられません。
 絹織物は、少ないので、仕方がありませんが、紡錘車は、沢山出土しますから、研究されてもいいように思います。が、話題にはなりません。

 上にあげたものは、どれも大きいですが、勾玉は、小さいものですから、古墳にあっても見逃す恐れのあるものです。
 それだけに、出土したときに、その意義が語られても良いのですが、余り見かけません。
 
勾玉のことを調べるきっかけになったことを
勾玉と兵庫県立博物館
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/02/post-a9d4.html に書きました。そして、勾玉の「勾」の漢字にどのような意味があるのかを調べました。
漢字10 勾 と 句
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/02/10-b13f.html に書きました。

① 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられます。と、県立博物館の記事には書いてありましたが、探ってみるつもりになっています。
タイトルのように、勾玉は、アマテラスの孫のニニギの命が、高天原から降りる時のことを記した、普通、天孫降臨と云われている所に、掲載されていましたので、
記しておきます。

古事記原文
爾天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命并五伴緒矣。支加而。天降也。於是副賜其遠岐斯【此三字以音】八尺勾?鏡。及草那藝劍。亦常世思金神、手力男神、天石門別神而。詔者。此之鏡者專爲我御魂而次思金神者取持前事爲政。

倉野氏翻訳文
ここに天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命併せて五人の供が緒を支えて天降らしたまいき。ここにその招(お)きし八尺(やさか)の勾玉、鏡、草薙剣、又常世の思金神、手力男神、天の石門別神を副(そ)え賜りて、詔りたまいく、「この鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく斎きまつれ。次に思金神は前の事をとりもちて、政(まつりごと)をしたまえ」とのりたまいき。

 勾玉は、天孫降臨する時に、大切な3つの持ち物の内の、1つであることが判ります。誰にとって、大切なのかと云うことを太安万侶は、書きとめたことになります。

 勾玉は、天皇家の人たちの人にとって、大切なものと云って良いでしょうか。

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2011.05.09

絹戦争(8)

関東平野では、稲荷山の鉄剣で、一躍クローズアップされた、埼玉古墳群がある。
 先づ関東平野は何所まで海が、入りこんでいたかを考えることだ。これは貝塚の出た所を結べば分る問題である。
 次に先にあげた神社神社の分布を、地図ニプロットして見ることだ。これによって、秩父銘仙と結城つむぎの産地に、2000年昔に、神武天皇が、大量の人を入植させたことが明らかになる。
 神武神社はこの地点以外には、分布してなかったのである。
 先づ結城について考えて見たい。現在の行政区にとらわれないことだ。ここは茨城県だが、古代史を考える時は、下毛野の国の勢力圏である。
 この周辺には絹村、桑村、絹川村、絹島村、大桑村、養蚕村と絹に縁のある地名が多い。
 鬼怒川がこれらの村の中央を流れている。
 鬼怒川も、もともとは絹川と呼ばれ、平和な地名だった。地名が変わったことも、この場合は歴史だった。


第13話 建国の日は正しかった  75ページ より

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私よりの一言----「先づ関東平野は何所まで海が、入りこんでいたかを考えることだ。これは貝塚の出た所を結べば分る問題である」 現在の歴史家で書いておられる方はありません。中国の人は、日本へやって来るぐらいですから、船を操るのは、得意でした。関東の港がどこにあったかを知らなければ、紀元前の歴史は解りません。
 しかし、貝塚の所を結ばなくても、海抜ゼロメートルのところまで海が来ていました。
 例えば、大阪から、岡山まで、国道2号線を走りますと、ほぼ、これが海岸線であったことが分ります。 播磨に竜山石の産出地を通過します。2号線から、海までは、遠いですが、当時は、近くに港がありました。 車で走っているときに注意をしていますと、「津」と云うような字がつく地名が見えると思います。
 竜山はいつの時代か分りませんが、中国人が支配するようになって、しばらくしてから、このように呼ばれることになったと思います。地名は大切なものです。


戦争(6)に書いてあった「これが絹の産地の地名のパターンである。錦でも、綾でも、綴でも絹の完成品だ。織機があったことは、古事記に天照大神専属の機織女が居った記事から分る。
 この綾部の西に、鬼ヶ城と竜ヶ城がある。竜又は雷と、○城と鬼が、占領された地域の地名のパターンである」
の文章を覚えておられますか。

 「鬼怒川も、もともとは絹川と呼ばれ」の発想は見事だと思います。
このように眺めますと、宮城県と茨城県は、「城」の字を含む地名です。
この2県には、紀元前から、中国人が、やって来て中国まで絹を運んでいました。金よりも高価で、この絹は中国を通りこして、ローマ迄運ばれていました。

神武神社のある所は、
神武天皇を祭った神社 に収録してあります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html このページは、壊れて修理ができません。 ここに書いてある所在地は、昭和15年の頃のものですから、殆ど変っていると思います。全部、完全な住所を調べて、地図がすぐに出るようにしておきますと、研究は飛躍的に進みます。
 このうちの鳥取県と岡山県の神社は、今、「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/に蓄積しているところです。
 この二つは、私の財産です。
 できれば、コピーして眺めてください。
 最近、掲載しました 「那岐神社」や「茅部神社」は、高天原が、ヒルゼン高原にあった証拠となるものだと考えています。

「那岐神社」http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-760.html
「茅部神社」http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-762.html

一言が長くなりすぎました。

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2011.05.08

絹戦争(7)

古代史には、九州王朝とか、吉備王朝、東北王朝の言葉が登場する。前二者については中国の占領地だった解明が出来た。 東北で一番大きな前方後円墳は雷神山である。九州に邪馬台国があったと主張される人が伊都国として取上げる所は、糸島半島である。
 この地域はすべて敵の占領下にあった。ここにも雷神山がある。
 別稿で述べるが古事記でイザナギの命を1500人の鬼が襲った。この鬼とは中国人のことだ。この時の鬼の8人のボスが全て、雷神と書かれている。
 ○城となった地名は岩城、石城、宮城と数えればキリがない。鬼首村、鬼柳村、竜山だって見付かる。
 絹に縁のあるのは福島県の錦村、宮城県の錦織村、福島盆地の桑野村がある。
 福島盆地の絹は阿武隈川から宮城平野に運ばれたので、東北王朝と思われた中心は、絹の集散地だった。地名と同時に地形も合せて考えて見ることだ。


第13話 建国の日は正しかった  74ページ より

私よりの一言----今、歴史各論 牽牛子古墳(85)  日本書紀(8)古事記序文(43)古事記を読む(41) 那岐神社 を書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/ 

古事記では、太安万侶は、イザナギが、黄泉の国にいるイザナミを迎えに行く話が書いてあります。
 ここで、イザナギは、8人の雷に取りつかれているシーンがあります。 このような馬鹿な事はないので、神話扱いにされていますが、雷は中国人のことです。太安万侶は、そのことを書いて、警告したことになっています。
 雷の字が含まれる地名が、全部そうとは、限りませんが、周りの神社や古墳を調べますと、神社の祭神の名前は、殆ど、日本書紀と同じ書き方に改められているはずです。たとえば、 古事記に、「神」と書いてある神社では、「尊」とか「命」に書いてあります。 古墳からは、中国人特有の石釧や道鏡が出土します。
 
参考に
雷神山古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

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2011.05.07

絹戦争(6)

240年から、250年頃魏は、伊都国を占領した。
 これは丹波の大江山の周辺である。わたしは綾部が、敵の本拠地だと述べて来た。早速絹に縁のある地名が現れた。
 この南が、北桑田郡と南桑田郡である。この綾部は二大製糸会社の一つ、郡是製糸の本社のある所である。
 昔の人も、今の人も立地条件の考え方は、全く同じだったことになる。
 天照大神を祭られた、伊勢大神宮(古事記にはこの名前が使われている) の北隣りが桑飼村である。
 これが絹の産地の地名のパターンである。錦でも、綾でも、綴でも絹の完成品だ。織機があったことは、古事記に天照大神専属の機織女が居った記事から分る。
 この綾部の西に、鬼ヶ城と竜ヶ城がある。竜又は雷と、○城と鬼が、占領された地域の地名のパターンである。
 綾部の近くの園部と加悦町からは、銅鏡が出土した。日下坐王が征伐した所である。


第13話 建国の日は正しかった  73ページ より

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2011.05.06

絹戦争(5)

三角縁神獣鏡は中国の将校の、埋葬に使用されたと仮定して、日本の占領地を調べて見ることだ。
 この近くに、竜とか城とかの地名のパターンを探して裏付けすればよい。
 この作業には毎日新聞社で出版した、奥野正男著〝邪馬台国はここだ〟が役立ってくれる。
 この書物の末尾に、三角縁神獣鏡の出土地の全国リストが載せてある。
 全国の絹の産地は文献出版の復刻版〝実用帝国地名辞典〟が有効である。この原本は明治34年で、地名変更の影響を根最も受けてない点が有難い。
 この中から地名に、桑、絹、錦、蚕、が、一字目、二字目につくものを、全数リストアップすることだ。
 古い分県地図に、全市町村名があるのが、万一手に入れば、作業はもっと楽である。
 わたしは地名のパターンで、一年間古代史の解明をおこなったが、学者は偶然の一致だとの批判する便利な言葉を利用される。


第13話 建国の日は正しかった  72ページ より


私からの一言---この書物の末尾に、三角縁神獣鏡の出土地の全国リストが載せてある。「三角縁神獣鏡」のことは、 誰でも知っていますが、全部丁寧に読む人はおられないでしょう。読むと頭に残っていて、自然と「三角縁神獣鏡」がどのようなものであるか分ります。卑弥呼が貰ったものではないことなどは・・・・。

この中から地名に、桑、絹、錦、蚕、が、一字目、二字目につくものを、全数リストアップすることだ。 これは、田村氏はされて、残されているはずですが、全国で持っている人はおられないでしょう。これを見ますと、古代にどこで絹が作られていたかが分りますが、古い地図がないと正確には、その地名が今ではどこであるか判りません。

わたしは地名のパターンで、一年間古代史の解明をおこなったが、学者は偶然の一致だとの批判する便利な言葉を利用される。 田村氏の怒りが聞こえてくる文章です。いくら地面を掘りまくっても、古代史は解りません。「地名」は古代史を解くために必要なものだと思います。 


三角縁神獣鏡は中国の将校の、埋葬に使用されたと仮定して、日本の占領地を調べて見ることだ。 続いて、「この近くに、竜とか城とかの地名のパターンを探して裏付けすればよい。」と書いておられます。
この文章は、「三角縁神獣鏡は中国の将校の、埋葬に使用されたと仮定して」と仮定のはなしになっています。

 ご自分で、竜とか城とかの地名のパターンを見付けられたからこのような文章を書かれました。
 これは、各論としての書いたものは、残っていませんが、残された冊子にいっぱい出てきます。
「第13話 建国の日は正しかった」の発行は、昭和57年2月です。(1982年)

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2011.05.04

絹戦争(4)

古代に九州に、朝鮮文化が伝って来たと学者は強調している。
 北朝鮮は315年までは中国だったのである。中国の文化? と九州の文化? が酷似していたと、なぜ云われないのだろうか。
 九州も315年に景行天皇が征伐するまでは、中国に占領されていたのである。107年に、王師升が日本人捕虜を、160人も、漢に連行した時から実に200年間占領されていた。
 三角縁神獣鏡は福岡県田川郡採銅所村が、生産の中心だった。この村の呉の地名の所に、中国から技術者がやって来ていた。
 銅鏡は占領地で現地生産されたのである。国産だと云えるだろうか。
 楽浪郡と酷似していて何の不思議も生じないのである。
 次には奈良市の周辺も全て占領されていた。従って、明日香村の古墳は、天皇の古墳と敵将の古墳が、まじって存在することでよかった。
 全国各地の巨大古墳は、敵将だと考えてよいだろう。


第13話 建国の日は正しかった  71ページ より

採銅所村
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/kinn04.htm
私よりの一言---〔絹戦争〕という言葉すら、始めて聞かれたのではないかと思います。田村氏の造語でしょうか。 紀元前から九州が中国人に占領されていたと仮定するだけで、邪馬台国九州説が、駄目なことも、岡山県に大きな古墳が沢山あることも、全て解決することになります。

 上に紹介しました採銅所村の記事は、奈良時代までですが、この周りの地名や神社などを調べますと、もっと、時代は遡ることが出来ます。
 三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡ではありません。このことからでも、三角縁神獣鏡が九州から沢山出土することが納得できます。
三角縁神獣鏡に限らず、古墳から見つかる鏡は、中国人がもっていたものでしょう。

 三角縁神獣鏡(9) この前後の記事は、田村誠一氏のものです。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/11/9-2998.html

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2011.05.03

絹戦争(3)

〝吉備にあった漢の古墳〟を56年8月に書いた。これには科学的根拠があった。 
 古墳の主は日本人ではなかったのだ。日本人は死んだら墓を故郷に作るのが常識である。

 吉備人の古墳であれば、吉備の石を使用するだろう。しかるに吉備の石棺の石は九州の阿蘇の石だった。
 これだけなら阿蘇の石が優秀だから、わざわざ手に入れたと考えられる。しかし四国の石も、飾磨の石も、更に河内の二上山の石まで使われていた。 この地域は銅剣も、銅鏡も出土した地域と一致する。
 56年九月には中国の学者が、三角縁神獣鏡は、中国人がわざわざ日本に行って作ったと、証言してくれた。 
 倭国大乱の末期には、漢は衰亡する直前で日本進駐軍えの、漢からの仕送りが、途絶えたので日本で銅鏡を現地生産したまでだ。
 この時のある新聞では、ある学者は国産だから自分の主張が正しかったと述べられた。


第13話 建国の日は正しかった  70ページ より

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2011.05.01

絹戦争(2)

古事記に崇神天皇だけが、崩御された年の「エト」が書かれていた。この崩御の年を、258年として推理を進めた。
 今回は日本書紀に書かれた神武天皇の即位の年を西暦元年としても、古事記の崇神天皇の年代が、ピタリ一致したのである。
 神武天皇から崇神天皇までの200年間は書きたくても、お互いに書けなかった。
 この橋渡しをしてくれたのが、魏志倭人伝だった。
 中国は107年から、315年まで、日本各地を占領していたのである。
 この中国の帰化人が、裏であやつって、日本書紀をかいたのである。
 日本書紀に海外の俗が騒動を起こしたと書かれたのは、海外の賊のことだった。従って日本書紀は中国偏向の書だった。敵と書けなかったのである。
 南朝鮮を占領しないで、日本に来たのは、絹が目的だった。国内でも絹に縁のない地域は占領しなかったのである。アベコベに絹の産地は例外なしに占領された。


第13話 建国の日は正しかった  69ページ より

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