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2011.06.30

記紀(19)

古事記には原本はなかったと考えられる、根拠を私なりに述べておいた。
 ここで古事記の序文を、よく読んでみることだ。
 諸家のもっていね、帝紀と本辞は事実と違っていると書かれている。これを一般学者は、アベコベに、古事記は天皇に都合よい様に書き改めたと強調して来た。
 序文にはハッキリ虚偽を帝紀と本辞が書いていると指摘している。
 ヒエダアレに帝皇日継と先代旧辞を見せたと書かれている。しかしこれは、地名が漢字で書かれてなかったことは、明らになった。
 やはり音標漢字、すなはち沢山の、和歌と同じ様な書き方をしてあったと考えられる。
 念のため、古事記と日本書紀に書かれた、同じ和歌の音標漢字を較べて見た。しかるに同じ和歌でありながら、漢字は全く別だ。
 日本書紀が書かれた時より、700年以上昔の和歌である。書き物を見て日本書紀を、書いたのであれば、こんな間違いは起こる筈がなかった。

 
第13話 建国の日は正しかった  105ページ より

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2011.06.28

記紀(18)

地名でいささか道草を、くったが、これは古事記と日本書紀の、性格を考える上で、極めて重要な資料である。
 国土地理院に載せられた、伯耆の地名は、両書の影響を全く受けて居らない。云はば、バージンの資料である。
 大国主命や、神武天皇について、沢山の地名が、古事記には、登場した。
 しかし先づ日本書紀には、神武天皇が、東征に出発した時に、何所に居られ、何所から船出したかが、全く書かれてない。
 これで正史の資格があると、云えるだろうか。更にこれ以前に記載がなかったのである。
 古事記は語り部のしゃべることを、太安万侶が、文章に書いた。仮りにこの時、ヒエダアレが、何等かの、書き物を見て、暗誦したのであれば、太安万侶が、地名を原本で、チェック出来た筈である。
 古事記に書かれた地名を、発音を考えて、新しい漢字を、わたしは見出した。この結果ふさわしい地名や、ふさわしい地形の場所が見付かったのである。


第13話 建国の日は正しかった  104ページ より

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2011.06.26

記紀(17)

古事記には、船に入ったと書かれた、神がある。別稿で述べたが、日本の倭錦や絹を、入手するために、ユダヤ商人が来ていた。
 ユダヤ商人は雲南から、帆船で来ていた筈である。海に入るとは、この船に乗って、雲南に渡ったと解してよいのではないか。
 常世の国に行かれた神がある。これは発音がトコヨで、恐らく、豊岡ではなかったか。
  ここには竹野川が流れ、ここから天照大神の居られた、大江山や、月読命の居られた、夜久野に、ルートが通じている。
 竹野川流域からは、最近縄文末期の、古墳が発見されている。
 安来市は、安南から渡来者と考えたらいかがだろう。越とは、雲南のことと解したい。
 越後の人も雲南人であり、御墓原の北隣りの越敷野は、道教神が、雲南出身だったことたせろう。
 古事記で高志(コシ)と書かれておれば、越すなはち雲南と考えたい。
 福の地名はこの地域には、至って多い。これこそ福建省の福州を経由して来た人だ。


第13話 建国の日は正しかった  103ページ より

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2011.06.24

記紀(16)

古事記に書かれた地名は、おかしいと思えば、一度音に戻して、考えることだ。 
 伯耆の地名と同じ地名が、各地で襲名されていることも、注意することだ。少なく共大和には、古史跡や日本書紀を意識してから、地名はつけられたと、考えるべきだ。
 大国主命が国譲りの談判を行った所は、伊那佐の小浜と書かれている。小浜とは、小さい浜と考えては、意味が分らない。
 語り部は「イナサノオハマ」と、発音した筈である。これなら、否砂の小波浜でよいだろう。砂のない海岸とは、いそ釣り場所で、しかも遠浅で、小さな波のたつ、海岸である。
 現在の淀江町は、もと大和村だった。ここに小波浜の地名が見付かる。
 大国主命が、出雲大社を、国譲りの条件で作ってもらった。ここは同じく多芸志の小浜と書かれている。これはタギシで、多岸と解すれば、斐伊川のデルタになる。
 八岐の大蛇の、肥之河は、日野川が現地にあっている。2000年昔を考えることは、まさしく連想ゲームである。


第13話 建国の日は正しかった  102ページ より

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2011.06.23

記紀(15)

三崎の地名の東に諸木がある。古事記の解説書では三諸の山の、東の山は三輪山と書かれている。
 しかしこれも年代的に考えればおかしい。三諸とは三崎と諸木の頭文字で、此の東の山とは大山であり、神社は大神神社でなくて、大神山神社と考えるべだろう。
 天ツ神に大山津見云々の名前の神が多い。これこそ大山が見える所が本籍の神で、大山村(現在大山町) に居られる筈だ。
 大国主命が見合いした、むなかた奥宮のあった奥谷、妃が八尋殿をたてて、子供を生まれ、八尋等の地名が見付かるだろう。
 神武天皇が青春? 時代を過ごされた、古事記に出てくる舞台も、この根の国である。
 あまり名文でしかも、和歌が主になっている。わたしが書いては、イメージが壊されてしまう。
 みなさん各自が2000年昔をしのんで読まれることだ。前地名が国土地理院の地図(なるべくは2万五千分の1)に載っていたとだけ申上げておく。


第13話 建国の日は正しかった  101ページ より


私からの一言----上に書いておられる所へは、車で行ってきました。この時は、オンボロのカーナビが付いていましたので、近くまでは到着できました。
 ところが、集落への道は、狭いところが多く、四苦八苦でした。それだけに、記憶も残っています。
 ただ、田村氏は、カーナビはお持ちではなかったと思います。地図首っ引きで、私より時間を掛けながら、回られたと思います。
 そうしますと、「三崎の地名と東の諸木と大山」が見えて来たのだと思います。家に帰られてから、数日は、2万五千分の1の地図の上で、旅を続けられたと思います。

みなさん各自が2000年昔をしのんで読まれることだ。前地名が国土地理院の地図(なるべくは2万五千分の1)に載っていたとだけ申上げておく。 と自信満々の文章となります。

私は、和歌は苦手ですので、コンピューターで、「三崎」の辺りの海抜を調べました。この辺りまで、海が来ていたことが判ります。「三崎」は 「御崎」だったのでしょう。稗田の阿礼も、同じ所に座って、大山を眺めたのかも知れません。

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2011.06.21

記紀(14)

大国村の北隣りが天津村(現在西伯町) である。北京の外港が天津である。この都と外港の地名の付け方も、地名のパターンである。
 この時の根の国の都はは大国村倭だった。地名は歴史である。
 この地名のパターンは、伊都国(丹波大江山周辺)にも見付かる。ここは魏志倭人伝に書かれた所で、天津と勅使の地名が、残っている。
 さて外国から日本書紀には日向浦に来て、ここで小舟に乗りかえ、天津で上陸した。ここから御机を通って、三平山の内海峠に来るのが古代のルートである。
 内海峠からヒルゼン高天原には、川を下ることになる。この川の名が天田に川である。
 天田に川を下って高天原に、来るのであれば、天より降ったと書かれて当然である。
天より降ったとは、日向浦から来たことだ。
 天津村の近くに、三崎があり、安曇の集落がある。安曇とは日本書紀古代の水軍部隊で海がここまで、入りこんでいた証拠である。根の国とは干潟が根の形をしていたことだ。


第13話 建国の日は正しかった  100ページ より

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2011.06.18

記紀(13)

地名について、今少し道草を許して欲しい。三平山の峠に、鬼女台(キメンタイ) がある。地名に鬼がつけばと考えてみることだ。
 黄泉国からイザナミの命と鬼が1500人イザナギの命を追跡したと書かれている。
 鬼女台の女とは、イザナミの命と考えれば、鬼と女のことだった。鬼の女ではなかった。
 鬼女台のすぐ北に、見返峠がある。天孫降臨の時にヒルゼンから、ここまで明ツ神が上って来た。従って川の名前は明連川である。
 見返峠で神々はヒルゼンに別れをつけたのである。ここからヒルゼンが最後に見える峠である。
 ここから「ツクシのヒムカの高千穂」に降りられた。「ツクシ」とは「木尽し」のことだった。高千穂は大栄町だが、ここも丘であって、「クシフルタケ」と書かれた。
 「タケ」とは山のことだ。平地に山があれば、クシフルすなはち、珍しいと解すべきだ。
 平地には珍しい山になった、木が生えてない高千穂と解釈すべきである。ここからの大山の眺めは文字通りに高千穂である。


第13話 建国の日は正しかった  99ページ より

私からの一言---鬼女台の事は、次の所に、2回にわたって書いています。

ヒルゼン古事記 筑紫の日向のあわき原
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/page24_da66.html
「ヒルゼン古事記 古代地名の化石」に書きました。
 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/06/page9_7f11.html 

〔鬼女台〕の真相をどのように思われましたか。

この地名まで、太安万侶が作ったとは言いませんが、何時名つけられたにせよ、付けた人には、理由があったはずです。
 山は、何千年も前からあったはずです。私のヒルゼン高原に高天原があったという話が本当としますと、多くの人が、この峠を通ったことは、確かでしょう。
 そうすれば、早くから、この峠にも名前がついていたように思われます。

 700年後に古事記を書くときに、イザナミの話と絡めて、太安万侶が名前を付けたとすると、これ又、おかしいことにもなります。
 
 ただ、どこの地名も、必要があって、生れるものですから、全体に、今よりも少なかったことも想像できます。
 「高千穂」の例を挙げましたが、田村氏の説を確かめるために、高千穂から、大山を眺めますと、なだらかではなく、ギザギザになっているかどうか、行ってみました。残念ながら、天候が悪くて、確かめることはできませんでした。 

 今回は、「ツクシのヒムカの高千穂」の後ろに書いてある〔クシフルタケ〕のことを書いておられます。
 田村氏は、このように、全ての所へ実際に行って、その場所が、古事記に書いてあるのと同じであることを確かめておられます。

 〔鬼女台〕の所も、真似をして行くつもりをしていましたが、最近の体力では、不可能なことが判りました。
 どなたか、〔鬼女台〕の印象か、高千穂からの360度の写真を送って下さい。

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2011.06.17

記紀(12)

イザナギの命が実在された、証明材料は数多くあったのである。既にいくつかは述べた。
 伊弉諾神の妻がなくなられて、祭られた所が、出雲と伯耆の、国境いの、比婆山と古事記に書かれていた。
 この場所には、国土地理院の地図に比婆山神社が載せてある。 (安来市の南2キロ)
 イザナミの命は夫に先立たれ、もがりにされた所が、御墓原である。先に述べた鬼住山の西隣の高原である。
 ここでこの付近の地名について、道草を許して欲しい。
 御墓原の地名位、変った地名があるだろうか。御の字がつくことは、高貴の人の墓所である。
 御墓原の東南に御机の地名がある。御机は、神社の神前に、ごちそうを飾る、机のことだろう。
 イザナミの命は、古事記で、黄泉国にもがりにされたと書かれている。
 夜見国と語り部が発音したのに、太安万侶が「黄泉」とわざわざ、音標でない漢字を、使用したものと考えられる。


第13話 建国の日は正しかった  98ページ より


イザナミの命は夫に先立たれ の部分は、「イザナミの命が、先立たれ、」の間違いと思われます。

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2011.06.16

96-97ページ地図

P96

P97


この2枚の地図を並べますと、神武天皇が活躍していた伯耆の国になります。楕円で囲まれた地名は、古事記に登場する地名です。現在のように、どんどん地名を変えていきますと、100年もしますと、無くなると思います。

97ページの御墓原や越敷野という地名はどうしてつけられたのでしょう。 調べてほしいものです。

昔の人は、お墓を汚いものとはしないで、大切にしたようで、誰にでもすぐにわかるように地名を付けていました。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page655.html

膨大な墓地名が、殆どなくなってしまいました。

ここの地名は消さないでほしいものです。

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2011.06.14

記紀(11)

八上姫にプロポーズに、出かけた時、80人もの神が、玄莵の人を、海水をあびる様に欺いたのである。
 あとから80人の神の荷物まで持たされた大国主命が、玄莵の人を正しい治療法を教えて助けたと書かれている。
 古事記の様な正史に、なぜ一見正史には、不用と思われることを、書いたかの真意を考えることである。
 80人もの神は、玄莵の人にとっても、大国主命に取っても、敵だと暗示させたかったためではないか。
 鬼住山の西隣りが、御墓原である。墓の地名に御までつけられた、不思議な地名だと考えることだ。
 これが古事記に出てくる、黄泉国だ。語り部は「ヨミノクニ」としゃべった筈だ。「夜見国」が本来の文字の筈である。
 ここは高天原のあった、ヒルゼンから夜でも浮かび上って見える、高原である。
 古代のこの周辺の地名は、地形を形容詞をつけて呼ばれていることが多い。


第13話 建国の日は正しかった  95ページ より

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2011.06.12

記紀(10)

古事記だけに大国主命を手間山の上から、焼いた猪の形の石を、転がして殺す話が、書かれている。
 この時に大国主命の、兄弟の80人むもの神が謀殺を企てた。なぜ解説はこのような悪事を血が継った兄弟がやったと、考えたのだろうか。暴力団で兄弟と呼ばれるのは、ご存じないのだろうか。
 大国主命とは大国主命村の村長格である。現在は西伯町だから、この周辺の地図を眺めて欲しい。
 大国主命は、大国村の倭が本拠地で、この真東8キロに鬼住山がある。
 八十神は鬼住山に居った鬼だった。因幡の白うさぎの話は神話でないと、理由を書いて来た。
 原文では、玄莵の人が〔海のワニ〕をだましたと書かれている。〔海のワニ〕とわざわざ書かれれば、〔陸のワニ〕がなければ、おかしい。これが謎解きの鍵だ。
 〔ワニ〕とは潮干狩に来た、文書係の人のことだった。


第13話 建国の日は正しかった  94ページ より

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2011.06.10

記紀(9)

漢氏と秦氏は帰化人である。この帰化は、天武天皇の時に許された。680年頃で、これまでは、日本人扱いではなかった。( 〝中国人が書いた日本書紀〟)
 漢氏と秦氏はもと、七つの大罪を犯したことは日本書紀に書かれていた。七つの大罪とは、日本を相手に戦争したことではないか。
 暴力団が前科の多いことを、宣伝材料にするのと、全く同じである。
 具体的に一つ一つの悪事については、ゴマ化して、他人事にするか、かくしておいて、しかも前科7犯だと、漢氏はは、威んくした、書き方をした。
 日本人と秦と漢に圧迫されて、日本に安住の地を求めて、渡来した。
 しかるにこの秦戸漢の人が、市民権を得て秦氏と漢氏になったのではないか。
 この漢氏が、漢文の才を、駆使して、日本書紀を、天皇制打倒のために書いた。
 従って古い過去の記録など、日本書紀の作者は持つ筈がなかった。もしあれば帰化後に書かれた筈である。

第13話 建国の日は正しかった  93ページ より

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2011.06.09

記紀(8)

日本書紀には、一書に云わくの、独特の書き方がある。しかもこの書き方は、神武天皇以降にはないと申上げる位しか、発生しない。
 神武東征で、古事記には筑紫の岡田宮に、1年、安芸のタケリ宮に7年、吉備高原に8年も天皇は滞在された。
 この滞在された付近には、沢山の神武天皇を祭る神社が密集している。沢山の屯田兵を集めたためだろう。
 この東征は、近江中心の銅たく圏の征伐だと述べて来た。銅たく圏は瀬戸内海まで、拡がっていたので、征伐に長年月かかって、当然である。
 しかるに日本書紀は、天皇は筑紫の岡水門に1月、安芸の埃宮に1月、吉備の高島に3年滞在されたと書かれている。
 なぜこの様に全く違っているのに、一書に云わくと書かなかったのか。一書もなかったではないか。
 これに反し、神代には、一つの出来事に一書に云わくが、10位も登場するのである。
神話の本は沢山あったと信用できないのだ。


第13話 建国の日は正しかった  92ページ より


私よりの一言---この部分は、重要なことですが、指摘された方は、ゼロだと思います。日本書紀にかいてあることが正しい。古事記は、間違いと思っておられます。 岡水門はどこにあるのでしょう。

古事記---筑紫の岡田宮に、1年、安芸のタケリ宮に7年、吉備高原に8年

日本書紀--筑紫の岡水門に1月、安芸の埃宮に1月、吉備の高島に3年

安岐と吉備には、すでに、中国人がいっぱいいましたから、征伐に時間がかかりました。 筑紫の岡田宮は、吉野ヶ里を攻撃するための基地です。 周りは神武天皇を祀る神社でいっぱいです。 神武天皇を崇拝する人たちがいましたから、1年で方がついたことになります。

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2011.06.07

記紀(7)

日本の古代史を、わたしは地名をたよりに考えて来た。しかも地名の位一つ、一つをとりあげるのでなくて、地名のハターンを考えて来た。
 古事記や日本書紀に、2000年昔の地名が出てくる以上、この時代に人が多く住んだ所には地名があったと考えてよいだろう。
 最近津軽平野から、1900年昔の、水田跡が見付かった。
 わたしはこの平野にも、神武天皇が、稲作民を雲南から、計画的に入植させて来たと述べて来たのである。
 私の根拠は、この十三潟に福浦の地名があったことである。しかも潟すなはちデルタ地帯であった。
 次には、田のつく地名の村が実に8ヶと稲垣村は、津軽平野にあったのである。
 神武天皇が計画移民をされたと、推理した。この天皇は実在した根拠は、古事記だけに書かれた、青春時代の地名が、全て現存していたのが根拠である。
 古事記を正史とする理由の一つである。


第13話 建国の日は正しかった  91ページ より

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2011.06.05

記紀(6)

〝卑弥呼の墓だった箸墓〟に、古事記と日本書紀では、天皇の系図が、異っいたと、述べておいた。
 系図が異なる位おかしな話が、正史にあってよいものだろうか。
 古事記では開化天皇には妹がなかった。しかし日本書紀には、開化天皇には、妹があった様に書かれたいる。
 この創作の妹が神話化されて、自殺している。更にこの創作された妹が現存する巨大古墳箸墓の主となっている。
 今一つ、この箸墓は昼は人が作り、夜は神が作るとまで、神話化されている。
 なぜ250年代まで、日本書紀に限って神話を登場させなければならないのか。
 今述べた日本書紀の記事は、古事記には、全く書かれていない。
 古事記だけに、崇神天皇の妹が、伊勢大神宮を拝き祭ったと書かれている。この伊勢大神宮は、丹波の大江山の麓に、これも現存している。
 記紀の言葉は、ミソとクソのミックスだ。


第13話 建国の日は正しかった  90ページ より

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2011.06.03

記紀(5)

神武東征に関する記述は、アベコベに日本書紀は古事記の数倍に達する。この中で重要なニギハヤヒの命について、日本書紀は、300字以上費やしている。しかるに古事記では僅か40字である。
 古事記には吉備征伐は書かれている。(これこそ吉備王国と云われて来た国を征伐したのである) しかし、日本書紀には全く載せてないのである。
 四道に将軍を派遣したと解説されて来た。しかしこの重要なことも古事記とは全く異なるのである。
 日本書紀では崇神天皇の時に、海外の賊が各地で騒動を起こしたと書かれている。ある歳には降服した人があったと書かれている。
 又別の年には本国に復員して行った人があったとまで書かれている。
 日本が外国軍隊に占領されていたことが、日本書紀には明記されているのに、古事記には一字もこまことは書かれて居らない。
 奈良に現存する箸墓は日本書紀にあって、古事記には書かれて居らない。


第13話 建国の日は正しかった  89ページ より

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2011.06.01

資料 古墳 箸墓古墳 (5)  倭迹迹姫命は誰だ(2)

日本書紀の崇神天皇の10年の所に、書かれている〔倭迹迹姫命〕は、先代の開化天皇にもみることはできませんでした。
 しかし、その前の孝元天皇には、どのような子供が生まれたかは書いてあります。

皇后:欝色謎命との間には、
 第一皇子—大彦命。
 第二皇子--稚日本根子彦大日日尊 (開化天皇)
第三子--- 倭迹迹姫命 です。

倭迹迹姫命の名前は、古事記には、書いてありません。
と言うことは、日本書紀の編集者は書きたかったことになります。


 現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。

古事記  --夜麻登登母母曾毘売命  第7代孝霊天皇の皇女(宮内庁) 
と言うことは、孝元天皇と兄弟(姉妹)です。
日本書紀  倭迹迹日百襲姫命 崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹。

上に書きましたように、日本書紀の崇神天皇の10年の所には、倭迹迹日百襲姫命の名前は書いて無くて、第三子として、--- 倭迹迹姫命 が書いてあります。

 倭迹迹日百襲姫命は、天皇の系図ではなくて、三輪山の宿る神、すなわち、大物主神の妻と言うことにして、紹介してあります。その大物主神は、実は蛇だったのです。(と日本書紀に書いてあるのですが、それは、あくまで神話であって、ご神体は三輪山であると、歴史家は書いておられます。)
 と言うことで、現在、大神神社がありますが、ご神体は三輪山、其のものであるということになっています。その証拠に、普通の神社には、神殿があるのですが、大神神社には、神殿がありません。 これが不思議なことに、このような形態が、神社の本来姿のだということになっています。
 どして、本来の姿なのか、説明できる人はおられないと思います。

 どうして、このようなことになっているかと云いますと、日本書紀に書いてあることは正しいという所から、日本史は出発しているからだと思います。

日本書紀の孝元天皇の子供には、どのような人がいたかと云いますと、第三子--- 倭迹迹姫命 がいます。別の所では、倭迹迹日百襲姫命がいることになっています。
 これはどうして、このようなことになっているかと云いますと、三輪山の話を挿入しているからです。
 三輪山は、伯耆の国にあったのに、伯耆の国に関係するものは、日本書紀では極力、排除しようとしました。
 一番に、消し去ろうとしたものは、神武天皇のことです。神武天皇の皇后の名前は、無くしました。大物主神は、神武天皇の岳父です。本当は、名前はあったのでしょうが、大物主と言うような名前にしました。
 三輪神社も大神神社に名前を変えてしまいました。

 現在の大神神社の所に、神社はなにもなかったと思っています。
ウィキペディアの「大神神社」をご覧ください。
 御神体は、山だとしながら、祭神は、
〔主祭神とし大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀する〕
と書いています。主祭神とは、どういうことでしょう。大己貴神と少彦名神を配祀するとは、どういうことでしよう。
大己貴神とは、日本書紀に書かれている神の名前です。古事記では、大国主神です。この神は、出雲大社の祭神です。 これが不思議なことに、日本書紀では、大己貴神が出雲大社に行かれてからは、一切、日本書紀には登場しません。
 どうして、大神神社の祭神として、祀られているのでしょう。

 いくら、神話と云え、神話なりに、ストーリに筋が通っていませんと、神話とは言えません。神話には、それなりに、歴史が読み取れませんと、創作になります。

 もっと、詳細を知りたい方は、調べれば、直ぐに分ると思います。
倭迹迹日百襲姫命を祭神にしている神社が、全国に、どれぐらいあるか調べることです。同じく、倭迹迹姫命を祭神にしている神社も探すことです。
 一社も無かったら、それほど、重要視する人物ではなかったことになります。

倭迹迹姫命は誰だ の結論です。
 日本書紀の編集者が、苦心して作りだした架空の人物と考えるしかありません。

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