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2011.08.30

第19話 壬申の乱は日唐戦争  偽史グループ

本居宣長は35年間も研究した結果古事記こそ正しい古代史とした。しかし明治の始めに太陰暦を太陽暦に改める必要が生じた時に充分検討も行わないで、日本書紀の天皇の在位を合計して皇紀は西暦より660年古いと発表した。古事記には天皇が崩御されて後皇太子が即位されたとは書かれてない。天皇家の家督を継いだ人は全て天皇で、倭建命も従って天皇と称されている。
 日本書紀は天皇が崩御された後、皇太子が即位する天皇即位制を作為した。皇太子が天皇より早世されたことが一例もないのは異常である。皇太子が全て60才以上でないと出生されてないことを、ご存じなのか。これは在位を短くすれば矛盾が消えるとお考えなのだろうか。天皇即位制を否定しない限りこの問題は片付く筈はない。
日本書紀を国史を基本にした東大の黒板博士達は政府と組んでなぜ不敬罪で取締ったのか。伯耆の古事記に登場する地名をなぜ隠滅させたのか。これこそ古事記が正史だった何よりの証拠である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  14ページより、転載

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2011.08.27

第19話 壬申の乱は日唐戦争  宮から転化した神社

大国主命と少名彦名命を同一神社に祀った例も〝神社名鑑〟では東北まで分布して約70社あった。こじきではこの二人で国を作り固めたと書かれている。更に四国の大洲の少名彦名神社の由緒には、この二人の神がここまで来られ、ここで少名彦名命が川に落ちて、おぼれ死んだ所に神社を建てたと書かれている。又ニニギ命等の妃が単独の神社に多数伯耆で祀られている。これは子孫が後世に居住地に神社を創建したのではない証拠だ。
 古事記では崇神天皇の御世に疫病が大流行したので、此の時に先祖が住んだ宮をことごとく探し出して祭を行った。この時に神々が住んでいた宮が神社に転化したと考えたい。
 従って伯耆や全国規模の先にあげた神社に祀られた神々は偶像ではなくて実在の人物だった。
 180年代後半にスペイン風邪が大流行し中国では189年に元号が4回も変わっている。又朝鮮の三国史記の新羅の193年に倭人が職に飢えて大量に渡来したと書かれている。
 これは192年に作付が出来なかったことだ。わたしの作成した16頁の年表では正しく疫病が大流行した年代は崇神天皇の御世だった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  13ページより、転載

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2011.08.25

第19話 壬申の乱は日唐戦争 全国分布の神社

古事記を基準にして得られた16頁の年表によると中国文献の後漢書、魏志倭人伝、宋書との間には、全く矛盾点が見出せなかった。又遺跡の謎も全て解消てくれる。
 昭和9年に〝鳥取県神社誌〟が出版され全神社830社の由緒、祭神の詳細が書かれている。これで祭神が多い上位80名の神は僅か数例を除いて古事記に記載された神だ。
 又134頁には神武天皇以前の系図を示してあり、この神々の末尾に伯耆にあった神社数を記入してある。135頁にはスサノオの略系図を示してあり、これにも同じく神社数が示してある。これらの事実は伯耆が古事記の神代とは密接な関係がある証拠ではないか。
 神武天皇を祀った神社は内務省調べで、明治以前に440社あった。この全神社リストは前著に示しておいた。これに基いた府県別統計を139頁に示してある。又〝神社名鑑〟でイザナギ、イザナミ命を探出して統計を取り140頁に示しておいた。これらの人物が架空であれば、この様な現象が生じるだろうか。古事記を偽書とした学者の教示が欲しい。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  12ページより、転載

私よりの一言
上に書いてありますページは、大分、先になりますが、掲載します。

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2011.08.23

第19話 壬申の乱は日唐戦争  藤原一味が改ざんした現古事記

現存する古事記の最古の写本は真福寺本で、この中巻の奥書に1263年に藤原朝臣が仮病をつかって、家に籠って校正したと書かれている。仮病をつかってとまで奥書に書くことは原古事記を改ざんして、原本は焼捨てでもしない限り、書ける字句ではない。現古事記の矛盾点を探出して加筆、訂正、抹殺の証拠を多数前著に示しておいた。本稿でも神武天皇が皇后を選ばれた時の、注の入れ方に矛盾がある点が一例として述べてある。
 藤原朝臣は1263年に9名の天皇の享年を60年ずつ引延していた。これを修正して得られたのが、16頁の歴代天皇家年表である。これでは古事記で10名の天皇が崩御された時の干支を信用して作成されている。この年表では皇太子を出生された時の天皇の年令を常識的な値になる様配慮して、第一王子は平均21才、第二王子は平均23才で出生されたものとして推定を行った。この年表では天皇の享年に狂いがあっても大きな影響はない。神武天皇が橿原宮で即位宣言をしたのは日本書紀では辛酉の年で、時に52才だった。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  11ページより、転載

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2011.08.21

第19話 壬申の乱は日唐戦争 延喜式で制定された式内社の謎

応神天皇を祀った神社八幡宮は、全国浦々浦々に見つかる。又神武天皇を祀った神社は、明治以前に全国で440社もあった。このリストは前著に示しておいたし、139頁には府県別統計を示しておいた。
 927年に延喜式の法律で、国から幣帛料を授与される神社、3132社が制定され式内社と呼ばれている。この神社の中には上記の様に天皇を祀った神社は著しく多かったのに、天皇一族を祀った神社は一社も含まれてなかった。この延喜式の法律の署名は藤原忠平関白である。
 この時の天皇は醍醐天皇であるが、全くのロボットに過ぎなくて、藤原の専政が行われ藤原は式内社の氏子だけに、軍資金を渡していたのである。学者は醍醐天皇が善政を行っていた模範だと述べて来たが、実態は正反対だったことになる。
 式内社は天皇勢力の拠点だった伊勢神宮、出雲大社、熱田神宮、継体天皇の出身地だった越前では、この拠点を包囲する様に分布されていて藤原の専政の本質が暴露された。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  10ページより、転載

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2011.08.18

第19話 壬申の乱は日唐戦争 虚偽の帝紀と本辞を書いた藤原朝臣

帝紀とと旧辞を整理して直接筆をとった中臣連大島とは如何なる人物だろうか。紀では鎌足同様登場する度に異なった名前になっている。これを列記すれば

 681年    大山上中臣連大島
 683年    小錦下中臣連大島
 685年      藤原朝臣大島
 686年   直大肆藤原朝臣大島
 688年      藤原朝臣大島  (政府代表)
 690年   神祇伯中臣大島朝臣
 693年   直大弐葛原朝臣大島
 天武天皇が崩御された時には中臣から藤原に姓が変って、兵政の長として弔辞を宣べ、2年後の688年には国政の代表として同じく弔辞を宣べている。しかし神祇伯の時には旧姓の中臣となっている。この人物こそは鎌足亡き後の革命政権のボスと考えてよい。
 日本書紀が完成した720年の権力者は藤原の不比等である以上藤原朝臣大島の書いた帝紀や本辞はそのまま採用され、従って日本書紀は正実と違い、多くの虚偽が含まれる。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  9ページより、転載。

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2011.08.15

表参道(1)

第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日

◆  表参道(1)     4ページ
美作と伯耆、因幡には神のつく地名が至って多い。あべこべに神々の国、出雲には神のつく地名は少ない。
 失礼だが神々の故郷は、この三つの国の中心ヒルゼンだと申し上げたい。大山・蒜山国立公園を含めて、ヒルゼンと呼ばせていただきたい。 
 ヒルゼンの国鉄の最寄りの駅は、中国勝山である。ここからヒルゼンまでは、更に50キロある。県庁の所在地、岡山市からは特急バスでも4時間かかる。しかも日に2便しかないから、岡山のチベットがふさわしい。更にチベット同様神秘の国である。
 2000年昔、正確には紀元ゼロ年頃、天照大神がここを、都に選ばれたのである。キリストと全く同じ年代であることが面白い。
 古代史の謎を、地図を頼りに解いていきたいので、興味ある方は、国土地理院の五万分の一の地図を見ていただきたい。村名等よりも、小字まで分かることが大切である。小字なら多少は住んだ人の、お里が分るだろうる。

私よりの一言、
随分古い話ですが、田村誠一氏の冊子を、No1
より、紹介し始めましたが、上の表参道(1) が抜けていましたので、ここに掲載しました。

次のページは、〔表参道(2)〕
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/2page5_d1f3.html
に掲載しています。

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2011.08.13

第19話 壬申の乱は日唐戦争 唐の敗戦を指摘した古事記

古事記の序文を112,3頁に示しておいた。この序文には「朕聞く、諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり。今にしてその失を改めずばその旨滅びなんとす」と書かれ、これは異常な社会情勢にあったことを示している。
 この序文に書かれた虚偽の帝紀と本辞は、日本書紀の引用文の114頁に示すように、中臣連大島が681年に自ら筆を執って録したものである。これを多数写本して公家たちには配った。帝紀とは天皇家の系図である以上、天皇の手元に一部だけあればよいものが、天皇には渡されなくて、天皇はうわさにしか系図の内容を聞く外なかったことになる。これこそ天武天皇は幽閉され実権がはく奪されていた証拠である。
 この古事記の序文に大海人皇子が東国を攻めて大勝利を収め、敵は華夏すなはち中国本土に帰って行ったと書かれている。しかるに古事記の解説者は、華夏とは大和のことだと詭弁を弄して、国民を欺し続けて来た。歴史学者は中国偏向と断定してよいのではないか。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  8ページより、転載。

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2011.08.10

第19話 壬申の乱は日唐戦争  中国偏向の歴史教科書

壬申の乱の賊軍の正体は唐の軍人だった以上日唐戦争と呼ぶべきである。この事実を隠したのが日本書紀である。壬申の乱は僅か二ヶ月で官軍の勝利に終った。朝鮮ではこれから4年後の676年に唐は朝鮮半島から敗退したことは、朝鮮の歴史家が認めている。
 壬申の乱までは毎年唐や唐の支配下の百済と交流があった。しかし壬申の乱後日本書紀の記述の終りまで24年間、唐と全く交流が無かったことは唐が敗退した証拠である。
 史書を解読する能力さえあれば、日本書紀の記述だけでこれだけの事実が見つかるだろう。学者はなぜ白村江で官軍の敗戦を取上げながら、これ以後にわが国に如何なる事件が発生したかを、一切黙殺しているのか。
 〝テキストブック日本史〟を注意して読んでいただきたい。唐の本国から四千名もの人が進駐して来ているのに、この事実を隠さなければいけないのか。なぜ唐は近江と関東に進駐して来たが僅か2ヶ月で撃退したと書けないのか。歴史教科書の編者は、古代の歴史まで中国偏向でなければいけないのか。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  7ページより、転載。

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2011.08.07

第19話 壬申の乱は日唐戦争  内乱でなかった壬申の乱

671年には唐は近江に傀儡政権を誕生させた。 これが世にいう近江朝廷である。この時の太政大臣、大友皇子以下数名だけが日本人で、これ以下の約70名の大臣クラスや役人はすべて百済人だった。この時の百済は唐に占領されていた事実を理解出来る能力さえあれば、近江朝廷は唐の傀儡政権であったことは容易に分る筈である。
 更に唐が擁立した太政大臣の大友皇子は宮中の炊事女中の家におった子娘と中大兄皇子の間に生まれた落し子で、唐はこの人物を天皇に擁立する目的で太政大臣に登用した。
 近江朝廷が樹立されると天智天皇を小屋におしこめて、敵は毒殺したしまった。この時大海人皇子は修道僧に変装して敵の目をくらませて近江から吉野に脱出した。
 
 唐の本国軍は669年にも二千余が近江と関東に進駐していたが、天智天皇崩御の直前には再び新手の二千余が五島列島に待機していた。天皇が崩御されると唐の軍隊は美濃、尾張で武装蜂起した。これを壬申の乱と称して、学者は天皇家の権力闘争だと国民を洗脳教育して来たのである。

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2011.08.05

第19話 壬申の乱は日唐戦争  二大主権者の対立

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第19話 壬申の乱は日唐戦争  5ページより

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2011.08.03

第19話 壬申の乱は日唐戦争  中国文献一辺倒の古代史

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第19話 壬申の乱は日唐戦争   4ページより

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2011.08.02

第19話 壬申の乱は日唐戦争  はじめのことば

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掲載者より 田村誠一氏の冊子より、掲載します。
第19話 壬申の乱は日唐戦争   3ページより

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