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2011.09.30

第19話 壬申の乱は日唐戦争   中大兄皇子大津京に島流し(1)

 665年に唐の本国から国史劉徳高、郭務悰が来朝して一年後の667年3月19日に都を近江に移した。この時の日本書紀は 「都近江に遷す。是の時に天下の百姓、都遷すことを願はずして、ふう刺したり反抗する者多し。わざうたまた多し。日日夜夜、失火の処多し。」
と書いている。百姓が全て大反対なのに都を移した以上、中大兄皇子の意向でなしに、鎌足が唐の命令で強制的に島流しした筈だ。
 実は先代の斉明天皇が崩御されたのが661年で、これ以降の日本書紀の記述は天智天皇元年から始まっている。しかしこれも虚偽で近江の大津宮に移されるまでは、天皇の位には即位されてなかった。
 日本書紀は668年1月3日に皇太子、天皇位につく。或る本に云わく前年の3月に位につきたまうと書かれている。これこそは大津京に移った時に天皇になったのだ。しかも進駐軍が擁立した天皇で何一つ実績はなかったし、幽閉された状態の天智天皇が、この時になって始めて誕生したのである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  30ページより、転載

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2011.09.28

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(10)

日本書紀の666年の記述(127頁)を注意して読んでいただきたい。関東に進駐させた百済の二千余の食は、白村江の戦の年から関東に進駐して一年後までも、官から支給されていたのである。これこそは鎌足革命軍が支給したとしか考え様がない証拠である。
 白村江の戦より10年も昔の653年に鎌足の長男、定恵を唐に遣わしている。これは唐と鎌足の革命軍が協力して天皇の官軍を朝鮮で滅ぼす目的だったのだ。
 更に遡って宋書に、倭王武が朝鮮の九十五国を平げたと上奏文がある。この倭王武は鎌足の先祖の中臣だったのだ。
 白村江の戦以後3年間も食を関東に進駐した百済人に供給していた一事は、古代史を解く上で極めて重要な事件である。
 667年には河内の高安城、讃岐の屋島城、対馬の金田城を築いたとあり、これも天皇側が築いたのでなくて、鎌足革命軍が築いたものである。出雲から最近大量の銅剣が出土したが、銅剣、銅矛が異常に密集して出土したのが讃岐と対馬だったのが証拠である。


127頁は、画像をダブルクリックしてください。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  29ページより、転載

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2011.09.25

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(9)

古代史の学者は文化は全て九州を経由しなければ、大和へはもちろん、日本全国何処にも伝播する筈はないと国民を指導している。このために遺跡の発掘がいくら進んでも古代史の謎は解けないで深まる原因を作ったのである。国民に正直に666年に敵国人である百済人が関東にまで進駐していた事実を伝えてあれば古代史の問題はもっと早く正確に解けたと考えてよい。
 大学のテキストがこの進駐の事実を秘たために、全国の教育委員会が遺跡の発掘に対し間違った解釈を下す様になったので、禍根を残すことになった。
 漢の時代の銅鏡が甲州や信州の内陸部で出土する謎のルートが解けたこととなる。関東の稲荷山の中国製鉄剣が運ばれたルートも日本海ルートと考えてよくなった。魏志倭人伝の魏が一時占領した伊都国も丹波で矛盾は無かった。わたしは大国主命と少名彦名命は日本海から津軽海峡を越えて太平洋岸を四国の大洲市まで養蚕と薬を指導して回ったとのべたが、これも間違いではなかった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  28ページより、転載

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2011.09.24

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(8)

関東の稲荷山の鉄剣には辛亥の年と刻まれていた。これは471年と解読されている。この年代は雄略天皇の御世にあたる。更に鉄剣は「シキ宮のワカタケル」に仕えた杖刀人すなはち将軍だった。シキ宮とは古事記に書かれた河内の「志畿(紀)宮」のことである。大県主は若い将軍だからワカタケルと刻まれた。熊襲タケル、ヤマトタケル、出雲タケルの「タケル」とは将軍のことだ。
 更に常陸風土記では中臣鎌子(鎌足)が鹿島の地に鹿島神宮を創建したと書かれている。この神宮は延喜式の式内社の中でも別格である。従って軍資金として幣帛料が大量に授与される。鎌足は鹿島神宮までも創建して勢力圏を準備していた。従って百済の男女、二千余は霞ケ浦周辺に入植したと考えてよいだろう。
 稲荷山の鉄剣等は中国製の鉄を鍛えたもので、しかも武器である。唐の本国軍が関東に進駐する条件がそろっていた。この本国軍の食糧は現地で調達する外ない。このために先遣隊として百済人を屯田兵として進駐させた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  27ページより、転載

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2011.09.21

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(7)

唐は666年冬には先遣部隊として、百済の男女を二千余も関東に進駐させた。これは敵国人であって、亡命者ではない。従って、如何にして関東に進駐したかは、矛盾がない推理が必要である。この百済人は屯田兵であって何れ後続の唐の本国軍の食糧を現地調達するために、先遣隊として進駐した。
 この進駐こそは654年に派遣した遣唐使の提供した情報に基づくもので、132頁を参照願いたい。遣唐使は鎌足が派遣したのであって歴史教科書は間違った指導をしている。
 古事記ではアメノホヒ命の子のタケヒナドリが出雲と武蔵の国造の祖と書かれている。
又隋書では出雲は秦王国と書かれ、この国は華夏すなはち中国と書かれ従って出雲も武蔵も国造は中国系だったことになる。
 又141頁に示す様に割竹・舟形石棺が、九州、出雲、越前に密集し式内社が出雲、越前に密集して藤原の勢力圏が連なっている。これこそは九州から関東に進駐軍が進んだルートが解明できたことになる。日本海こそは当時の表玄関である。

 
第19話 壬申の乱は日唐戦争  26ページより、転載

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2011.09.20

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(6)

唐は九州の一角に挙点さえ築かれれば、鎌足の使者と相談する必要はない。鎌足の長男定恵を人質にして、鎌足をおどせばよい。敵は既に大野城等三城を確保ずみである。
 中国の三国志を理解すれば、中国人の戦術には義理も人情もない。今までの味方でも人質にして挙句には殺すことだって常道だ。
 魏志倭人伝でも魏のスパイ難升米は崇神天皇の妹だった日巫女(ヒミコー卑弥呼)を人自治にした前例がある。この時も難升米は卑弥呼に自殺を賜ったのである。この詳細は拙著〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟等に述べておいた。
 定恵は665年に死んだと別の文献に書かれ、これは人質にされて殺されたと考えたい。
 この年に唐の郭務悰に物を賜うとあり、これは話がアベコベだ。郭務悰が賠償物資を没収して持去ったのだ。天皇の御物を集めた正倉院と比べて異例である。賠償物資で先づねらわれるのは黄金製品で、これを敵は3ヶ月もかかって、しかも大部隊で先づ収集たと考えてよい。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  25ページより、転載

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2011.09.18

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(5)

白村江の戦から2年後の665年9月には戦勝国唐の本国から国史の劉徳高や前年に下準備のために来朝した郭務悰等一行254人もの人が来朝している。大部隊の目的が何であるかは今更説明を要しないだろう。この目的のために、1ヶ月前の8月には百済の築城顧問に大野城等を築かせている。
 しかるに〝テキストブック日本史〟の記述は104頁に示す様に、敵と味方すら取り違えた書き方をしている。大局を判断する能力すら欠いた歴史学者が大学教育用の教科書を編集している。このために古代史が、遺跡の発掘が進むに従って謎が増えるのだ。
 九州は前漢時代から銅鏡が大量に出土し、これは漢族が渡来していた証拠である。
 この九州に再び敵国人の唐人が来朝したのだ。
 一行が254人と著しく大部隊なのは、この時一緒に連行された鎌足の長男、定恵を人質にして賠償物質を根こそぎ探しだして没収するのが任務と考えてよい。
 太平洋戦争で敗戦国がどの様にみじめで、どの様な終戦処理が行われたかを知るべきだ。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  24ページより、転載

私から一言-――白村江の戦で大敗した朝廷には、中国が日本に攻めて来ると考えるのは、普通です。
ウィキペディアでは 次に詳しく書いています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 3回に分けて、兵を50000人ほど派遣しています。 逃げ帰った時には、大野城を造って防衛したとも書いています。

天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。
 
 3年ほどの間に、沢山の山城を造ることが出来たのでしょうか。

もっと古い話になりますが、九州には、朝鮮式の神籠石という遺跡が残っています。何回か書いたことがあります。
No548 天孫降臨(121) 九州・立岩遺跡(7) 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-04-06 は、中国人が、籠るためのお城だと思います。

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2011.09.14

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(3)

663年の白村江の戦いは130頁
に示す様に官軍すなはち天皇の軍隊が敗けたことが詳細に書かれている。これは日本書紀の編集者が、藤原の先祖の手柄話として書いたのだ。
 白村江の戦で、わざわざ関遇と百済との連合軍を大敗させたと書いた。わが国には此の時官軍と対立関係の革命軍が存在していた。
 この日本書紀の記述を注意して読まれることだ。白村江の戦が終った翌年には
129頁
に示す様に百済の鎮将、劉仁願が郭務悰を派遣して来た。この人物はこれ以後672年の壬申の乱まで何回も来朝とている。しかもこの中の二回は唐の本国軍を二千余と一緒に来朝している。。従って唐の進駐軍司令官と考えない学者はおかしくないだろうか。
 665年には唐の本国からの国史劉徳高、郭務悰と一緒に鎌足の長男定恵が帰国している。しかし、この事実は132頁  に示す様に、654年に全く矛盾した箇所に書かれていた。
 これこそは鎌足は天皇の官軍を白村江で敗戦に導くために唐に協力し、665年には定恵は今度は人質に取られていたと考えたい。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  22ページより、転載

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2011.09.12

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始(2)

わたし達日本人の源流の倭人にとっては、漢族の王朝は宿敵である。反対に漢族の王朝と対立した王朝とは前輪関係にあった。
 わが国の各地で漢の銅鏡が出土する。これは華僑が、わが国特産の絹を密輸するために渡来していた証拠である。この漢族のゲリラを糾合してゲリラ組織を拡大強化して行ったのが中臣で本拠地は河内だった。
 この中臣が南宋の皇帝に使書を遣わして倭王の肩書をもらっている。これは南宋が武器を供給して、わが国と朝鮮半島の侵略を共同謀議を行ったのである。倭王武の上奏文では朝鮮半島に九十五国のゲリラ挙点を築いていた。南宋も唐も漢族の王朝で従って唐は中臣鎌子、後の鎌足の協力朝鮮半島の侵略を企図した。653年に鎌足の長男、定恵が朝貢した時は唐は歓迎したことだろう。
 654年の朝貢使はわが国の軍事機密の情報までも唐に提供している。この記述の中に定恵が665年に帰国したきわめて不自然な記述がある。これこそは裏に何が隠されているかを、周囲の条件から見つけるべきだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  21ページより、転載

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2011.09.09

第19話 壬申の乱は日唐戦争   唐の進駐開始

朝鮮半島は670年には完全に唐に占領されこの状態が676年までも続いていた。この様な侵略主義の国がわが国だけは友好国として親善のために本国から4000人もの人を派遣するだろうか。
 “テキストブック日本史”は一方では白村江の戦いで官軍が負けたことを書きながら、これ以後の史実を百%ゆがめて書いていたのである。日本書紀に基いて18、19頁の略表を作成しておいた。653年から659年まで4回も遣唐使を派遣している。倭人や天皇に取って漢族の王朝は宿敵だから、親善使節をする筈がない。テキストは先づ遣唐使の性格を誤解して述べている。
 遣唐使を派遣したのは鎌足である。古事記の雄略天皇の御世の記述に天皇の敵が河内で天皇と同じ家を建てていたので焼かせたと書かれている。この天皇の敵が「志紀の大県主」と書かれている。新選姓氏録で河内の最有力氏族は中臣である。従って中臣鎌足は河内出身のゲリラのボスだった。宋書で倭の五王に任ぜられたのも中臣である。


 第19話 壬申の乱は日唐戦争  20ページより、転載

653年から659年まで4回も遣唐使を派遣している所の根拠は
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/09/post-29c9-1.html
の653年から659年までを読んで確認しておいてください。


追加
第19話 壬申の乱は日唐戦争  偽史グループ
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/08/19-9ea8.html
 において、下4行が抜けていましたので、追加しました。申し訳ありませんが、もう一度読んで頂ければ嬉しいです。

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2011.09.07

620年からの年表2

6202


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2011.09.06

620年からの年表1

620


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2011.09.05

朝鮮史年表

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2011.09.04

第19話 壬申の乱は日唐戦争  歴代天皇家年表 16ページへの一言

歴代天皇家年表は読んで頂けましたか。

田村誠一氏は、昭和59年(1984年)に「第19話 壬申の乱は日唐戦争」を出版されて、〔歴代天皇家年表〕を発表され、神武天皇が即位されてから、丁度、2000年目の平成12年4月29日の昭和天皇誕生記念日に、

 西暦は日本の建国紀元だった
  古事記に真実が書かれていた 
  燦然と輝いていた古代・総集編 
 を発行されました。

 この本の始めに、(13ページ)に 〔歴代天皇家年表〕を掲載しておられます。
若干、数字の変更はしておられますが、基本的には、同じものです。

歴代天皇家年表に書いてあることは、理解出来ましたか。

例えば、神武天皇のことは、ウイキペディアに拠りますと、
神武天皇(じんむてんのう、Jimmu Tennoh, Shinmu Tennoh 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)~ 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。

と書いてあります。
(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)は、西暦に直しますと、紀元前660年だと書いてあります。
 これは、歴史の専門家が書かれた文章だと思います。
 続けますと、神武天皇元年は紀元前660年になってしまいます。
 日本書紀には、即位した日が書いてあります。
辛酉の年春一月一日とあります。この頃に、「即位」というシステムがあったかどうか、怪しいですが、辛酉の年は、60年ごとにめぐってきます。
 西暦で云いますと、西暦元年が、神武天皇が即位した年の一月一日になります。

『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されています。

 日本書紀に書いてあることは、デタラメであることは、誰にでも分りますが、古事記の137歳で亡くなったというのは、現実にあり得る話かもしれません。しかし、他の高年齢の天皇をすべて正しいとしますと、神武天皇元年は紀元前660年になってしまいます。
 そこで、田村氏は、古事記に書いてある137歳は、60を減じて77才とされました。
 そして、他の資料から、神武天皇の生まれた時を割り出されました。 生まれたのは、紀元52です。そうしますと、崩御は紀元前25年で、77才です。
 「修正前享年」に数字が書いてある天皇は、日本書紀を書いた人たちが、苦労して60年狂わしたとして、訂正しておられます。

 問題は、之で、各天皇の歴史に狂いが生じないかどうかです。

全部、確認してください。
 もっとも、素晴らしいのは、神武天皇の業績は、神話ではなく、説明できます。また、崇神天皇も、説明が出来ます。

西暦は日本の建国紀元だった の本は、神武天皇の即位から2000年を記念して出版されたことになります。

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2011.09.03

歴代天皇家年表

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2011.09.01

第19話 壬申の乱は日唐戦争  唐に占領された朝鮮半島

古事記によって古代の年代が推定出来た。これに基くと魏志倭人伝の時代は崇神天皇の御世で倭人と魏との戦争があった。又中国で倭国大乱と書かれたのは、孝霊天皇の御世吉備征伐に該当し、漢との戦争だった。
 壬申の乱前後の東アジアの情勢を先づ知っていただくために、朝鮮の歴史学者が作成した雄山閣から出版された“朝鮮史年表”の一部を抜粋し17頁に引用させていただいた。
 日本書紀は日本古典文学大系の〝日本書紀上〟に全く手をかけないで、年代順に抜粋させていただいた。この抜粋だけを裏まで読まれれば、わたしの説明は蛇足に過ぎなくなる。
 史書には「どう書かれているか」が大切である。どこかに隠しごとがないか、アリバイ工作がしてないか矛盾点を探すことが大切だ。
 日本書紀は天皇の享年や在位をゴマ化してあった以上、660年以降に限って記述の月日等が正しいと考えることは非常識だ。何れの国の史書も当事国の記述には歪曲された箇所があって当然だ。わが国の歴史学者だけは中国文献のわが国に関する記述は百%信用した。


 第19話 壬申の乱は日唐戦争  15ページより、転載

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