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2011.10.29

唐の傀儡政権だった近江朝廷(2)

大友皇子が如何なる人物であるかは、日本書紀の668年(126頁)に精しく書かれている。中大兄皇子には皇后の外に、側室が四人おられた。更に宮人四人の間にも子供が生まれている。大友皇子は炊事女中の家におった子娘との間に生まれた素性すら分らない人物である。従って落とし子で皇子の資格がない。
 この大友皇子を太政大臣にして、近江朝廷の組閣人事を行ったのは、百将の鎮将が遣わした唐人、李守真である。
 日本書紀では天皇の享年や在位等がなぜデタラメかの謎を解くことである。この理由が分らない以上、日本書紀にはアリバイ工作はないと考えることは矛盾してないか。
 太政大臣が大友皇子に決まったのは1月5日で百済の鎮将劉仁願が李守真を遣わしたのが1月13日だから、李守真は近江朝廷の組閣には無縁だとのアリバイが成立する。しかも李守真は唐人と分かるのは7月11日の記述である。なぜ1月13日に来朝した時には唐人であることを隠したのか。日本書紀の記述に矛盾があれば裏を読むことだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  43ページより、転載

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2011.10.27

唐の傀儡政権だった近江朝廷(1)

鎌足が殺されたことによって、革命政権の支配力がなくなった。天智天皇は名ばかりの天皇で、幽閉の身である。ここで唐は当然傀儡政府を作るのが常識である。かくして誕生したのが近江朝廷である。
 先づ近江朝廷の性格を読者自ら122,3頁に引用された671年の記述を確かめてほしい。現代式に云えば法務大臣、文部大臣、国立病院と多数の参謀本部の要職全て百済人である。更に五十余の達率と書かれたのも百済人で占められているのに、唐の傀儡政権だと学者は分らないのか。
 役員全員が唐の支配下の百済人である以上唐の傀儡政権と呼ぶべきである。国民は大学の歴史教科書〝テキストブック日本史〟にどの様に日本書紀を曲解して、指導しているか103頁で確かめていただきたい。
 近江朝廷には皇子の資格が全くない大友皇子が太政大臣に任命された。テキストブックはこの様な非常識な任命を天智天皇が行ったと重大な根本的な間違いを起こしている。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  42ページより、転載

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2011.10.24

19話 壬申の乱は日唐戦争 激動の669年(8)

古事記の序文で帝紀と本辞は正実と違い、多くの虚偽を加えてあると書かれている。この帝紀と本辞は681年に中臣連大島が自ら筆を取って録したものだと、日本書紀に書かれている。

この帝紀と本辞は681年に中臣連大島が自ら筆を取って録したものだと、日本書紀に書かれている。この中臣連大島は後の藤原朝臣大島である。藤原朝臣大島の後継者でしかも絶大な権力を持っていたのが藤原不比等で、しかも681年には既に23才に達していた。従って帝紀や本辞と日本書紀の内容には大きな違いはないとかんがえられる。
 したがって鎌足に関する記述は、古事記の序文が指摘した様に正実と違っているとかんがえてよい。何より大切なことは中大兄皇子は鎌足のパートナーであるような記述は、事実は正反対だったのだ。大化の改新は鎌足が中大兄皇子を人質にして、革命を成功させたのだ。従って、〝テキストブック日本史〟は間違いだ。
 鎌足位逆賊は世にまれで、中国風の壁画があり、人骨に首なかった高松塚の古墳の主は殺された鎌足ではないだろうか。兎に角天皇一族の墓に中国風の壁画はあり得ない。

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2011.10.21

19話 壬申の乱は日唐戦争 激動の669年(7)

日本書紀では天皇の在位や享年に虚偽があることは説明を要しない。このような作偽的(作為的の印刷ミス? )な偽書は偽書扱いしなかった。しかもこの日本書紀には序文すらなかったのである。
  アヘコベに序文まで備っていて、編集者の太安万侶の墓までも見付かっても、古事記を偽書扱いした学者は節を改めただろうか。
 日本書紀は如何に書かれているかを先づ考えて見ることである。史書として厳正に書く意図が全くなかったことは、鎌足の名前すら登場する度に、次の様にまちまちだった一事からでも推察出来る。
 645年  6月    内臣(大化の改新)
 653年  5月    内大臣
 655年  正月   中臣鎌足連
 664年  10月    中臣内臣
 668年  5月    内臣
       9月    中臣内臣
 669年  5月    藤原内大臣
       秋     藤原内大臣宅に落雷
       1月     藤原の姓を賜う
 673年  2 月    藤原大臣

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2011.10.18

19話 壬申の乱は日唐戦争 激動の669年(6)

天智天皇は10月15日に鎌足宅に使者を遣わして藤原の姓を賜ったと書かれている。しかもここに「これより以後、通じて藤原内大臣と曰う」と書かれている。しかるに5月5日の記述には既に藤原内大臣と書かれている。これこそ矛盾した記述である。
 これらの矛盾を矛盾でない様に考え直して見ることだ。
 藤原は独裁者だから、自分で勝手に藤原姓を名乗れる。従って5月5日には既に藤原内大臣と称していた。
 鎌足の宅に落雷したのではなくて、唐の刺客が火を放って鎌足を殺してしまった。しかしこの様な記述は許されないので、暗に天智天皇が見舞ったと味方に引き入れた。天智天皇が病床に見舞うことは不可能であることの裏を読むことだ。
 この年に近江朝廷で左大臣になった曽我赤兄臣が大宰府に呼び出されている。この人物は無実の有馬皇子を謀反をたくらんでいると告げ口して殺した前科者である。この人物が大宰府で鎌足暗殺の命令を受けたと考えたい。鎌足を暗殺した功で左大臣になった筈だ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  39ページより、転載

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2011.10.15

19話 壬申の乱は日唐戦争 激動の669年(5)

「是の年」(669年)に百済人が近江に七百余進駐し、併せて近江は千百余に達した。又関東には既に二千余の百済人が進駐し、これらは屯田兵である。この屯田兵は唐の本国軍の食糧補給の目的を兼ねている。
 「是の年」に郭務悰が唐本国軍二千余と進駐して来たのは、ほぼこの百済人の割合で近江と関東に分散したと考えてよいだろう。
 この唐の本国軍は近江へ越前から上陸したと考えてよい。越前には藤原忠平が定めた式内社が異常に多いのが理由である。
 唐本国軍の進駐が成功すれば、次は革命政府のボスの鎌足を殺すことだ。白村江で唐に協力した鎌足には最早用はない筈である。
 日本書紀の記述の中から矛盾した点を探し出すことである。鎌足の宅に落雷して焼けた日付がなくて「是の秋」とある。日本書紀では極めて、ささいな出来事にまで月日が明記されている以上、鎌足の宅が焼けた日付がわからないのは矛盾である。天智天皇は敵国人の百済人千百に囲まれている以上、鎌足の病床を見舞ったと書かれたのも矛盾している。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  37ページより、転載

私からの一言
 このページに書いてあるようなことは、現代の人は認めたくないでしょう。学問でないからです。私は学問としては、認められなくても、大切なことだと考えています。


上に書いてあります、越前の式内社の事は、 まだ、完成していませんが、ご覧下さい。
越前には藤原忠平が定めた式内社が異常に多い
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

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2011.10.12

第19話 壬申の乱は日唐戦争 激動の669年(4)

古事記でスサノオが大国主命に「大国の主の神となり、宇迦の山の山本に宮殿を作れ」と命令した。大国村倭は、山の麓にあり、倭とは山本をつめたものであった。そしてこの時の根の国が西伯郡に、夜見の国が日野郡に改められた。1263年に藤原朝臣が夜見国を黄泉国と改ざんしたために、学者は欺されて黄泉国を神霊の国と解説して来たのである。
 根の国と夜見の国を併せた地域を「奴国」と命名したのもスサノオで、これもスサノオが大国主命に国譲りしたセリフに出てくる。
 倭と同じ発音の地名が大和、大倭、夜麻登と三つある。大国主命が天照大御神の使者と国譲りの平和交渉を行った所が大和村小波浜で、現在の淀江町である。この大和とは天子の講和の意味である。大倭村(久米町)は美作の久米郡で、天皇の軍隊の久米のつわものの本拠地で、しかも魏志倭人伝に登場する。
 夜麻登は備前国でこれも魏志倭人伝の邪馬台国、ここにおられた女王が崇神天皇の伯母の夜麻登登母母曽姫である。倭の国名を悪んだのは天皇に縁がある地名のためだった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  37ページより、転載

私よりの一言----①大国村倭が本当にあるのですよ。今はどんどん、住所変更されて、無くなっていきます。最近まで、実際にありました。 宇迦の山の山もあります。

本当か、確かめに行ってきました。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html

②倭と同じ発音の地名が大和、大倭、夜麻登と三つある。 どこにあるか、調べてください。私は地図の上ではなく、実際に行ってきました。
 美作というところは、きれいなイメージの名前ですね。 どうしてか、地元の方は、なくそうとされているようです。

③崇神天皇の伯母の夜麻登登母母曽姫は、奈良の箸墓古墳に埋葬されたことになっています。このような名前は、生まれたところや、生まれた所が書いてあると解釈しますと、この人たちが、活躍していたところが推察できます。夜麻登登母母曽姫は、夜麻登で生まれたか、育ったか、住んでいたかです。住んでいたとしますと、
箸墓古墳と相似形で、箸墓の2分の1の古墳が岡山県にありますから、この古墳は、夜麻登登母母曽姫掃除のお墓ではないかと推理できます。根拠はありません。 崇神天皇や仁徳天皇のお墓も、根拠はありません。夜麻登に一度行ってください。いっても、何も残っていません。

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2011.10.08

激動の669年(3)

倭の地名は古事記の神代に、三ヶ所に登場する。大国主命が出雲から倭国に帰っている。
大物主命が倭の東の山上すなはち大山を神体として崇拝せよと告げている。今一つは神武天皇が皇后を選ばれた時の次の歌である。
 倭の高佐士野を 七行く乙女ども
 誰をし 枕(マ)かむ

これは137頁の古事記と91頁の記述を読んでいただきたい。この倭は西伯郡大国村倭と考えると全く矛盾が生じない。しかもこの地名は国土地理院に載せてある。更に大国村倭の賀茂神社に大国主命と神武天皇が祀られている。
魏志倭人伝と呼ばれて倭国伝でないのは、倭国の中の一部分の倭人だけを対称にしたためである。後漢書では倭国と書かれて、これはわが国全体を指す言葉だった。
古事記の解説者は上記の三ヶ所に現われた倭を大和と勘違いしたので、古代史は矛盾に充ちたものになった。古事記が神話ではなかったことを理解するには、昭和29年まであった大国村とこの中の倭を研究することだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  36ページより、転載

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2011.10.07

激動の669年(2)

外国に進駐する場合は原則として、食糧は現地調達が出来ない。百済人の百姓を先づ近江に四百余進駐させ更に七百余増強した。関東には二千余を進駐させている。これで食糧の現地調達の道が拓けたから、唐の本国軍が二千余進駐し、関東が当然本拠地だ。
 従って「是の年」と書かれているが近江に百済の進駐が真先に行われて、この秋のみのりを待っていた本国軍が進駐したことだろう。
 この前後関係を隠すために、「是の年」の字句を669年に多用したのだ。重要な記述程、あいまいに書かれる日本書紀の編集方針を重要視すべきである。編集者が中国系だったために、味方の唐の敗退を覚られないために記述をあいまいにしたのだ。
 唐の本国軍の進駐が行われたので国名を倭国から日本に改めた。そして神武天皇の正式名は神倭伊波礼彦であるが、日本書紀は神日本磐余彦と名前すら変えてしまった。日本書紀の書名も、日本武尊も、同じ手口である。
 669年の唐の本国軍二千余の進駐軍司令官、郭務悰の名前を国民は忘れないことだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  35ページより、転載

私より一言— 私のコメントは、絶対書かないでおこう、そうでないと田村誠一氏の思いを私が台無しにしてしまうと思いました。 しかし、久しぶりに、〔私より一言--〕を2回前の「大宰府に進駐軍政府誕生」に書きました。おかしなことに、本文よりも私の方が長くなりました。なのに、又、書いています。

 田村氏の考えられたことは、全部が正しいわけではありませんが、考え方は素晴らしいものだと思います。しかし、歴史の事は、もう、お仕舞にしようと考えていますので、〔田村氏に捧ぐ〕コーナーもいつまで続けるか判りません。現在、このシリーズを読んで頂いておられる方は、一日、100人前後の方です。
 
 《同じ手口である》のような文章の意味はお分かりになられないでしょうから、読まれる方は、殆ど居られないことになると思います。

 このように別の意味でも、歴史を楽しんで頂ければと思います。

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2011.10.06

激動の669年(1)

669年には日本書紀に「是の年」の記述がある。これこそは不比等が月日を明らかにすることを、こばんだ事項である。
 先づこの中で河内直鯨が唐に使者として派遣され、これは伝令の役目だった。この伝令がわが国名が倭国から日本に変ったと伝えた。この詳細は岩橋小弥太氏著“日本の国号”を参考にさせていただいた。
 唐書に「咸享元年(670年)使いを遣わして高麗を平げたことを賀す。後やや夏音を習ひて、倭の名を悪みて、更めて日本と号す。使者曰く、国日出る所に近し。以てちて名となす」と書かれている。
 敗戦国の天皇は島流しされており、使者を出すことは矛盾している。更に高麗が滅んだ賀詞など述べる筈はない。
 この伝令は河内直鯨で年末に出発していた。名前の河内は中臣の本拠地である。国名を変えるだけの大事件は唐本国軍二千余の進駐と、革命政権のボス鎌足の死である。鎌足が単なる病死であれば、これだけで国名を変える理由にはなり得ない。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  34ページより、転載

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2011.10.05

第19話 壬申の乱は日唐戦争   大宰府に進駐軍政府誕生

 667年3月中大兄皇子は近江の大津京に島流しにされた。この同じ年の11月には百済の占領軍司令官劉仁願が使者を派遣し九州の大宰府に唐の進駐軍の政府が樹立されたと考えられる。この時の大宰府の長官は大山下坂境部連石積と考えてよい。この人物は665年に唐の本国からの国史劉徳高が来朝したときの決定に基いて唐に派遣され、教育指導を受けた人物である。唐の進駐軍の政府が樹立されたと考える理由はここにあった。
 668年7月には近江で軍事訓練が行われ軍馬が集められている。これこそは百済人が戦闘力を増強し、唐の本国軍の進駐の準備だ。
 この年に唐は700年続いた高麗を滅ぼして、朝鮮半島を完全に収めてしまった。高麗や百済が滅んでも皇国史観の学者は唐が我が国に進駐してくるとは考えなかった。
 全くお人好と云わざるを得ないのだ。物事を全アジアの視野で考えることこそ必要である。この年に大宰府には唐の日本支配のための政府がもうけられたと、学者は理解することすら出来ないのだろうか。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  33ページより、転載


私より一言----ここに書いてあることは、正しいような気がします。 仮に、正しいという人が増えたとしても、九州の歴史の先生は、認めることはしないでしょう。 認めますと、地元の人から叱られることになって、九州には住んでいることが出来なくなると思います。
 それは別にかまわないのですが、中国の人は、九州全域は、中国人が支配していたという歴史を子供のときから教育しますから、彼らが大きくなったときは、自分たちの国で住もうということになると思います。気が付いたときは、九州の大部分の土地は、中国の人の名義になっていると思います。

 この話の小型のものが、竹島問題だと思います。
 尖閣諸島は、堂々と中国のものだ発言していますから、もう、日本が防衛することは無理だと思います。現在の中国の力であれば、九州を買い占めることは訳がないと思います。

 2000年前に、中国人が住んでいたことと、中国人が、大宰府に進駐し、軍政府誕生したこととは、全く違うことです。
2000年前に、ソウルのまわりを中国が支配していたから、朝鮮半島は中国のものだと発言し、韓国と北朝鮮は、抗議していますが、中国はそのようなことはお構いなく、朝鮮半島を支配すると思います。当時、支配されなかったのは、朝鮮半島の新羅だけです。 倭国と新羅は、同じ、苗族ですから、支配はされましたが、乗っ取られることはありませんでした。 

 このような歴史は馬鹿げていると思われるでしょうが、半分以上乗っ取られても、取り戻したのは、日本です。最初に抵抗したのは、神武天皇です。

 私のコメントは、無視して頂いても結構ですが、
〔第19話 壬申の乱は日唐戦争〕 の最初から、読み直してください。 そして、私のようなバカもいるものだと思っていただければいいと思います。

中国が、日本に対して、日本の馬鹿どもは、日本の歴史をもっと、勉強しなさいと公言したのが、6年前です。小泉首相に云いました。
 私か゛腹を立てることはありませんが、それなら日本の歴史を勉強しようと思って、書き出したのが、「新しい日本の歴史」です。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
タイトルの下に、『中国は、「日本人は、日本史の勉強をしなさい」と忠告してくれました。日本は、感謝して忠告を聞き、お返しをすべきです。」』と書いてあります。中身は、つまらないですから、誰も読みませんが、
〔日本は、感謝して忠告を聞き、お返しをすべきです〕の意味は、中国人よ、貴方たちも、2000年以来、ずっと、世界の人をやっつけることで、生きて来た人間であることを知るべきですよ   のつもりで書きました。

〔大宰府〕の府は、重要であった所に、付けられたところだと考えています。
〔大宰府〕の外には、大阪府、京都府があります。これは、誰が付けた名前か、調べてください。

こんなことでも、歴史の解明に役立ちます。


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2011.10.04

リマン海流と対馬海流(2)

北朝鮮を逃げ出した9人の人が、能登半島沖で平成23年9月13日に石川県輪島市の能登半島沖の日本海で発見されたことは、前回、お知らせしました。彼らは、調べに対して、韓国へ行きたかったと述べたと報道されていますが、私は、韓国に行くには、船に動力をつけなくても行くことはできますと書きました。しかし、エンジンを付けていたのとガソリンは無くなっていたと云われていますから、日本に来るために、エンジンを使ったと考えました。
 
 この事件のことをWEBで検索しましたら、次の報道が見つかりました。

北朝鮮住民9人が脱北か 船で韓国へ
2011.6.15 19:12
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110615/kor11061519130002-n1.htm
【ソウル=加藤達也】韓国の聯合ニュースは15日、北朝鮮住民9人が船で脱北し、11日に黄海の北方限界線(NLL)を越えて延坪島付近の海上を通り、韓国側に入ったと報じた。以下、省略。

これは、先日の記事ではありませんが、今年の記事です。 この記事には、エンジンを使っていたことは書いてありません。
 この記事を読みますと、国境を越えて韓国域に入りますと、直ぐに見つかってしまうことが判ります。最後に書いてある通り、受け入れますと、北朝鮮との間でトラブルになりますから、北朝鮮に返されるか、中国に送られるのではないでしょうか。
 
 日本を経由しますと、韓国へ入国できる可能性は大きいです。
 
 その後は、報道が一切されませんでしたが、目出度く、今日、10月4日の報道で、韓国に送られたと報道がありました。

 「リマン海流と対馬海流」のことを2回にわたって書いた理由は、別の所にあります。

大陸から日本に渡って来るには、あんな小さな船でも、簡単にわたってくることが出来ることをもう少し、歴史を考える時に取り入れてもいいのではないかと思いました。

もう一つ、名前と少しだけの知識があったリマン海流は、大陸から日本に来るときは、大変ですが、日本から大陸に行くときは、海流に乗りますと、北朝鮮、韓国に行くことが出来ることが判りました。
 もう一つの対馬海流も調べてしましたら、これは、どんどん北へ流れていきますが、
一部は、青森と北海道の間の海峡に流れ込んでいることが、日高高次著『海流の話』に書いてありました。その海流は、対馬海流の3倍の速さで、通り抜け、太平洋に出ると、南に向かって流れ、金華山の所まで、流れていると書いてありました。

 魏志倭人伝を読みますと、当時の軍人が、日本を一周したような可能性がありますが、それ以前にも、稲作が、このコースで伝えられたと田村誠一氏が、本に書いておられます。田村氏の説は、少し無理があると思っていましたが、無理をしなくても、対馬海流に乗って、金華山辺りまで、簡単に行くことが出来たことが判ります。

東北の稲作の遺跡を全部、ピックアップして確かめてください。

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2011.10.03

第19話 壬申の乱は日唐戦争   中大兄皇子大津京に島流し(2)

古事記ではスサノオの命令で大国主命の庶兄弟を伯耆から追放した。この中の大山咋命は嵐山の松尾神社と近江の日枝の山(比婆山)の日吉神社に祀られた神だと書かれている。更に大山咋命は鳴かぶら矢を用いる将軍だと書かれている。
 大国主命は天皇の一味であるから、大山咋命は従って天皇の敵の将軍に相当する。日吉神社とか日枝神社は近江に多い。更にこの天皇の敵としては重要な人物は日本書紀には全く登場しない神で、編集者は如何なる人物であるかは秘匿していた。古事記でわざわざ近江の日吉神社に祀られた神だと注意したのは敵の神だと分らせるためだった。
 近江には式内社が155社と異常に多い。これも天皇の敵の勢力圏だった証拠である。この近江に更に官軍に勝った唐の支配下の百済人男女四百余が進駐していた以上、中大兄皇子は完全な敵の真中に島流しされたことにならないか。
 中大兄皇子の官軍が白村江で敗退した以上何れ殺される運命にあったと何故考えないか。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  31ページより、転載

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2011.10.01

リマン海流と対馬海流

能登半島沖で北朝鮮からの逃げてきた9人の報道がありました。
 つい先日の事なのにいつだったか忘れてしまっています。
 
 確か、彼らは調べに対して、韓国に亡命したいと述べた記事を読んだ記憶があります。
その時に、おかしいなと思いましたが、すっかり、忘れています。

能登半島沖で脱北者9人乗った船確認、幼児3人も「北朝鮮から来た」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110913/crm11091311300011-n1.htm
上の記事は、産経ニュースの記事です。

 ここには書いてありませんが、9人の中の一人は軍人だと書いてありました。
 軍人なのに、韓国に行くつもりが日本にやって来たのがおかしいのです。

台湾の方から流れて来た海流は、九州のところで、日本海と太平洋に分かれます。前者は対馬海流、後者は黒潮と呼ばれています。日本海には、対馬海流のほかにも海流があります。
 【日本近海の海流】 http://imagic.qee.jp/kairyuu.html をご覧ください。
確か、大陸に近いリマン海流は、対馬海流にくらべますと、流れは小規模ですが、日本にやって来るためには、船に動力がないと手で漕いていますと、リマン海流に流されて韓国に流れ着くと理解していました。
 脱北者のリーダーは、軍人だと書いてありました。そして、「発見当時、漁船はエンジンで航走中で・・」と書かれ、テレビのニュースでは、ガソリンは無くなっていたと報道されました。
 ガソリンもエンジンもを手に入れるのは、大変だったと思いますが、軍人であれば、リマン海流に流されて韓国に流れ着くことぐらいは知っていた筈です。
 それなのに、ガソリンもエンジンも用意していたということは、始めから、日本にやって来るつもりだったと思いました。

その後の彼らのことは、忘れていましたが、希望通り、韓国へ行くことが出来たのでしょうか。調べて見ました。 
 そのことは、リマン海流と対馬海流(2)に書きます。

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この記事は、最近書いています、〔第19話 壬申の乱は日唐戦争〕とだぶらせて、考えているものです。 遣唐使の前後は、驚くほど、大陸と日本の間で行き来があります。 日本海を渡るのは、大変だったという歴史家の考えは間違っているのではないかと思っています。

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