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2011.11.30

中国偏向の日本書紀 (1)

日本書紀の壬申の乱までの記述を今一度振返って見たい。鎌足の死と郭務悰が本国軍二千の進駐とは前後関係がぼかしてあった。しかも近江には百済からの亡命者でなしに進駐軍が千百もおった筈なのに、天智天皇が鎌足の病床を見舞ったと矛盾した記述があった。
 近江朝廷で大友皇子が、太政大臣になった11日後に唐人の李守真がしかも百済から来朝している。高級役人は全て百済人なのに、太政大臣の任命には無関係と書かれている。
 天智天皇が発病される直前には二千余の軍隊と五島列島で待機しておりながら、壬申の乱勃発の直前に離日して、軍人としてあるまじき行動を取っている。
 日本書紀の記述が作為的と、どうして考えてはいけないのだろうか。まさに完全なアリバイである。これと同じ様な作為が崇神天皇の御世の四道に同時に将軍を派遣した事件である。180年代の吉備征伐と240年代の丹波征伐が同時に行われたことになっていた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  53ページより、転載

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2011.11.25

壬申の乱は日唐戦争(5)

大海人皇子が先づ先制攻撃をかけたのは東国である。ここには百済の鎮将すなはち唐の将軍が進駐させた百済人が二千余もおった。更にここに唐の本国軍が本拠地を置いたと考えてよい。この事実をみとめれば、中国の鉄剣等が出土する謎も解ける。従って古墳も倭人以外のものが多くあって当然である。
 近江や河内は中国系の藤原の本拠地だったし、ここに唐や敵国としての百済が進駐して来た。又九州は長期にわたって漢族に占領されていた。従って遺跡は敵国人のものが主だ。
 魏志倭人伝で15万戸もあった倭人は海南島系だとの記述を認めるならば、海南島人に取っては漢族は紀元前からの宿敵である。しかるにこの記述を多くの学者は黙殺し、自説に都合のよい箇所だけを取上げて論じている。
 壬申の乱は天皇の官軍と唐との戦いで、漢軍は僅か2ヶ月で撃退したと述べられないような例史学者に、大学教育用テキストの編集を任せておいてよいのだろうか。文部省としての方針を国民は知りたいのである。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  52ページより、転載

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2011.11.22

壬申の乱は日唐戦争(4)

672年6月22日に大海人皇子が出陣され、先づ関東を攻め、次いで河内と近江の賊を一掃した。7月26日には大友皇子の首級をあげて戦は終った。しかしこの時征伐した関東や近江には、当時唐に征服された百済人が三千百もおったことは、この背後に督戦隊として唐の本国軍がおったと考えるべきだ。
 従って歴史家は壬申の乱と呼んでいるが、真実は日唐戦争である。これについて大学教育用の〝テキストブック日本史〟が如何に取り扱っているか、国民は一人残らず内容を検討していただきたい。
 テキストブックでは天智天皇が大友皇子を太政大臣に任命したと書いている。そして壬申の乱を大友皇子と大海人皇子の権力闘争だと書いている。従って大海人皇子の方が不当だとの印象を与えている。更に学者によっては大友皇子を大友天皇として天皇の系列に加えたものすらある。
 天智天皇が大海人皇子を病床に呼んで後事を託された記述すら黙殺して、歪曲して書かれたテキストブックは即刻改訂すべきだ。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  51ページより、転載

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2011.11.18

壬申の乱は日唐戦争(3)

大海人皇子は近江大津京に停っていては何れ殺されると予知して、出家僧に変身して吉野にのがれた。これを不比等は「虎に翼をつけて放った」と後悔している。
 近江朝廷の左大臣が中臣金連であり、帝紀や本辞をかいたのが中臣連大島で、後の藤原朝臣大島である。日本書紀が完成した時のボスが藤原不比等である。中臣や藤原は天皇の敵だったことを国民は認識することだ。
 大海人皇子は壬申の乱が片付くと即位されて天武天皇にられた。この天武天皇天皇が極秘で編集を命じたのが古事記である。この序文の一部の113頁の原文を見て欲しい。壬申の乱の記述があり、敵は東国におったので虎の如く襲いかかったことが明らかである。しかも戦争が片付いて華夏が帰った記述すらある。なぜ〝テキストブック日本史〟では東国に敵国の唐の支配下の百済人が二千余も進駐した事実を黙殺し、中国偏向の日本書紀を更に歪曲して、唐の進駐すらかばった記述を行うのか。古事記の解説者までが華夏とは、この場合は大和を指すと間違った解釈を行った。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  50ページより、転載

古事記の序文の全文を次に、書いておきます。

古事記序文 

臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。所以出入幽顯。日月彰於洗目。浮沈海水。神祇呈於滌身。故太素杳冥。因本教而識孕土産嶋之時元始綿[辷貌]。頼先聖而察生神立人之世。寔知懸鏡吐珠。而百王相續。喫釼切蛇。以萬神蕃息歟。議安河而平天下。論小濱而清國土是以番仁岐命。初降于高千嶺。神倭天皇。經歴于秋津嶋。化熊出爪。天釼獲於高倉。生尾遮徑。大烏導於吉野。列[イ舞]攘賊。聞歌伏仇。即覺夢而敬神祇。所以稱賢后。望烟而撫黎元。於今傳聖帝。定境開邦。制于近淡海。正姓撰氏。勒于遠飛鳥。雖歩驟各異。文質不同。莫不稽古以繩風猷於既頽。照今以補典教於欲絶。

曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。[シ存]雷應期。聞夢歌而相纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蝉蛻於南山。人事共洽。虎歩於東國。皇輿忽駕。浚渡山川。六師雷震三軍電逝。杖矛擧威。猛士烟起。絳旗耀兵。凶徒瓦解。未移辰。氣[シ診-言]自清。乃放牛息馬。愷悌歸於華夏。卷旌〓戈。[イ舞]詠停於都邑。歳次大梁。月踵侠鍾。清原大宮。昇即天位。道軼軒后。徳跨周王。握乾符而摠六合。得天統而包八荒。乘二氣之正。齊五行之序。設神理以奬俗。敷英風以弘國。重加智海浩瀚。潭探上古。心鏡[火韋]煌。明覩先代。於是天皇詔之。朕聞諸家之所〓。帝紀及本辭。既違正實。多加虚僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家經緯。王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。

伏惟皇帝陛下。得一光宅。通三亭育。御紫宸而徳被馬蹄之所極。坐玄扈而化照船頭之所逮。日浮重暉。雲散非烟。連柯并穗之瑞。史不絶書。列烽重譯之貢。府無空月。可謂名高文命。徳冠天乙矣。於焉惜舊辭之誤忤。正先紀之謬錯。以和銅四年九月十八日。詔臣安萬侶。撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭。以獻上者。謹隨詔旨。子細採[手庶]。然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難。已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣長。是以今或一句之中。交用音訓。或一事之内。全以訓録。即。辭理[匚ロ]見。以注明意。况易解更非注。亦於姓日下謂玖沙訶。於名帶字謂多羅斯。如此之類。隨本不改。大抵所記者。自天地開闢始。以訖于小治田御世。故天御中主神以下。日子波限建鵜
草葺不合尊以前。爲上卷。神倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲中卷。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲下卷。并録
三卷。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐頓首頓首。

和銅五年正月二十八日。正五位上勲五
等太朝臣安萬侶謹上。

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2011.11.16

壬申の乱は日唐戦争(2)

朝鮮の歴史家は百済が滅んだのは17ページの年表が示す様に660年だと認めている。鎌足がこの前年の659年にも朝貢師を派遣している。この事実と660年10月に美濃に唐人を百余名入れた時事を総合的に考えて見ることだ。唐人を捕虜と書いたのは偽証だ。
 鎌足は百済に天皇の官軍が支援に赴くことを妨害するために、美濃に唐の軍隊を進駐させたと考えるべきではないか。白村江で天皇の官軍と百済の再興を企てた軍隊とが、唐と新羅の連合軍と戦った。この戦争を敗戦に導いたのは鎌足である。従って不比等は白村江での敗戦を仰々しく取り上げたのだ。
 日本書紀が百済が滅んだのを663年9月としたのは、660年10月の唐人の美濃進駐を隠す目的だった。
近江朝廷が美濃と尾張の唐の進駐軍に武装蜂起を命じたのである。そして唐の進駐軍の主力が東国だった。大海人皇子は先づ東国の進駐軍に襲いかかったので、近江朝廷の幹部は周章ろうばいして、逃亡するものすら現われ国内で協力したものが無かった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  49ページより、転載

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2011.11.14

壬申の乱は日唐戦争(1)

天智天皇が崩御された報告を郭務悰は大宰府で受け、同じ人物が大量の武器等を5月に受け取っている。これは国内に唐の将軍と呼応した人物がおった証拠である。しかも同じ5月末に郭務悰が離日し軍人としてあるまじき行動だ。これこそアリバイ工作である。
 この同じ5月に近江朝廷が美濃と尾張の国司に天智天皇の山陵を作る目的で人夫を集める様命令を出している。しかしこの人夫は実は武器を持っていたとまで書かれ、これこそ武装蜂起ではないか。この美濃と尾張に先づ出動命令が下ったのは、不破の関と桑名が近江と東国を結ぶ重要挙点だった証拠である。
 日本書紀では660年10月に唐人の捕虜を百余名も百済人が連行して来たと書かれ、これが今も美濃に残留していると書かれている。日本書紀が完成したのが720年で、同じ年に独裁者の藤原不比等が死んでいる。
 唐人は倭人と天皇の宿敵である。この唐人に700年代でも不破の関を護らせていたのだ。これこそ藤原は唐と協力関係にあった証拠で、藤原は中国系と呼ぶべき敵である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  48ページより、転載

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2011.11.10

近江朝廷天智天皇を毒殺工作(3)

天智天皇が崩御されれば、太政大臣の大友皇子を進駐軍は天皇の位につけることは明らかである。大海人皇子も何れは殺されることは、左大臣が有間皇子を謀殺した前例から予想される。ここで大海人皇子は「天皇のために出家して修道せむ」と申出て、天皇はこれを許された。 即刻、紙をそって吉野に行かれた。この様にでもしないと大津京から逃げ出すことは不可能な筈である。
 日本書紀は天武天皇の即位前の記述にこの行動を「虎に翼をつけて放てり」と書いている。これこそ大海人皇子が本心から出家をすることではなかった証拠と考えてよい。

 天智天皇は12月3日に大津京で崩御された。この時に読まれた歌は次の如くである。
 みよしのの 吉野のあゆ あゆこそは
 島へもよき えくるしみ なぎのもと
 せりのもと 我は苦しむ

これこそは天智天皇は吉野のシマ宮におられるべきなのに島流しされて一生苦しみの連続だったと考えてよい。鎌足こそは中大兄皇子の敵だったことを国民に知らすべきだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  47ページより、転載

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2011.11.07

近江朝廷天智天皇を毒殺工作(2)

天智天皇が発病されて間もなくの、671年11月10日には唐の郭務悰達が五島列島で待機していた。この時の唐等の軍隊は二千余で、47隻の艦隊である。何の目的で五島列島に敵の艦隊が来ていたかを考えることである。「どの様に書かれているか」が重要で天智天皇が人民には覚られぬ毒殺されるのを待っているとしか考えらない行動だ。
 天智天皇は10月17日に極秘で病床に大海人皇子を呼び寄せた。これは天武天皇の即位前と二ヶ所に分けられて書かれ、内密で対策が練られている。大海人皇子が出家するのは陽動作戦だったことを学者は忘れている。
 この時天智天皇は重病だからと後事を大海人皇子に託された。崩御されるより1ヶ月半も前に、死期を感じ取っておられたことこそ毒殺だった今一つの証拠である。
 〝てきすとブック日本史〟では天智天皇が大友皇子を太政大臣に任命したと書いたのは日本書紀を曲解している。日本史を混乱に陥れたのは、この様な大学での歴史教育の結果ではないだろうか。


 第19話 壬申の乱は日唐戦争  46ページより、転載

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2011.11.04

近江朝廷天智天皇を毒殺工作(1)

近江朝廷の右大臣の中臣鎌足金連は、鎌足亡き後のボスである。このことは670年3月に祝詞を代表で述べたことから推察出来る。
 近江朝廷が樹立されると5月には、天皇は「小殿に御す」と書かれこれこそ異常で、天皇は小屋に幽閉されたと考えてよい。
 この9月には天智天皇が発病されている。しかもここにも、或る本には8月に発病したと書かれていると逃げをうっている。これこそ注が正しいと考えてよい。
 この天皇発病直前の7月に問題の人物李守真が離日している。これ位矛盾した記述が許されるだろうか。唐が朝鮮半島の占領に成功したからには、全力をあげてわが国の侵略を考えることこそ常識である。このために唐人の李守真を遣わして、近江朝廷の組閣を行った。次には天智天皇を毒殺した上で、大友皇子を天皇にするのが常道だろう。
 日本書紀の編集責任者、藤原不比等等は中国偏向である。中国に不利な記述は一切抹殺するか、作為を施してある。日本書紀の基本の帝紀や本辞は正実に違うと古事記に書かれた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  45ページより、転載


私からの一言---前回は、〔唐の傀儡政権だった近江朝廷〕は、このようなバカなと思われたのですね。読まれる方は、激減です。 田村氏の考え方を知っていただこうと続けて、残された著書を紹介していますが、これでは、一層、田村氏をがっかりさせることになります。私の体調のこともあり、中止の方向で、進めています。

今回の〔近江朝廷天智天皇を毒殺工作〕になると、読まれる方はまた、減ってしまうと思います。

しかし、天智天皇、天武天皇の時代は、このように考えませんと、壬申の乱の真実は解けないと思います。

という次第で、時々、訪問してください。

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2011.11.01

唐の傀儡政権だった近江朝廷(3)

近江朝廷の左大臣は蘇我赤兄臣で、658年に有間皇子が陰謀を企てていると、虚偽の申立てをして殺した人物で、131頁を参照されたい。鎌足が死ぬ9ヶ月前に大宰府に呼出されている以上、この時鎌足刺殺の命令を受けていたと考えたい。この功績で左大臣に登用された重要人物である。
 左大臣は中臣金連で、鎌足亡き後の革命軍の最高指導者ではないか。日本書紀の記述は先づ大局を認識して読まないと、重大な全く正反対の結論に達するおそれがある。
 この様な人事を後の天武天皇の大海人皇子が行う位矛盾したことが許されるだろうか。
日本書紀で「或る本に云わく大友皇子宣命す」と書かれている。これは注でないと矛盾が生じる。中大兄皇子を天智天皇に擁立した年月も、注ならば矛盾がなかった。
 日本書紀の記述に如何に矛盾が多いことか。そして「注」で逃げたり、「一書に曰く」で逃げを打っている。日本書紀を引用するからには本文を不比等の主張と考えることだ。本文には真実は皆無である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  44ページより、転載

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