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2011.12.31

魏志倭人伝の国名を解く(3)

句奴国とは久米国と書くべきで、神武天皇の軍隊が久米のつわものと書かれていた。美作の久米郡大倭村(ヤマトと読む)が本拠地であった。孝霊天皇の本名は大倭根子彦フトニ命で、この頭字の大倭が大倭村出身の事である。ヤマトタケルもここ出身であり、倭人伝では大倭で物資の管理した記述がある。
 丹波は伊都国と書かれていたがこれ伊勢大神宮の都の頭字である。国土地理院の地図では大江山の麓に皇大神社、内宮、豊受神社、宮川の地名が載せてあり、現地には五十鈴川も流れている。ここが現在の伊勢神宮に遷される前の神宮で、日本書紀が隠して不明にしていた。天照大御神は蒜山高原の高天原からここに移られ都を開いた。この証拠はここと高天原に酷似した地名があまりにも多かった。
 魏志倭人伝では邪馬台国の北の国二十国の詳細は分からなかったが監視が厳重だと書かれている。これは播磨と但馬の国々で、この時の国とは村単位である。
 魏志倭人伝が教えてくれた倭人の国が天皇勢力圏と完全に一致していたのである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  66ページより、転載

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2011.12.29

魏志倭人伝の国名を解く(2)

伯耆の東部が不弥国でここに高千穂があり末廬国の東百里(44粁)である。不弥とは政治がゆきわたらないことで、逆にここに都があったことを倭人伝が教えてくれた。
 米子から日野川を遡りやがて国境を越えて高梁川を降れば旧玉島市に達する。これが語源で投馬国と書かれ瀬ス式には備中である。この二つの川は流れが緩るくて現在は伯備線が同じコースを走っている。水行二十日だが、現在は二時間半でよい。
 この備中の東隣りが備前であり邪馬台国と書かれていた。邪馬台と三字で構成され、これは夜麻登と、野卑な字をあてていた。この備前の岡山市の中心に岡山神社があって、崇神天皇の伯母の夜麻登登母母曽姫一族がまつられていて、夜麻登の語源が解けたことになる。
 この備前を流れる吉井川を遡れば津山盆地である。津山と旧西大寺は最近まで高瀬舟が主要な交通手段だった。
 津山盆地から出雲街道よりの伯耆街道が米子に通じ、倭人伝の水行10日陸行1ヶ月の記述は正確だった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  65ページより、転載

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2011.12.27

魏志倭人伝の国名を解く(1)

日本海で随一の良港は境港である。こりが古代に日本海文化があったと云われ出したのに登場しなかったのはおかしい。ここは代々天皇勢力下の外港だった。境港の対岸が日向でこれがある島根半島が倭人伝に書かれた末廬国である。ここに松江があり、これが語源ある。ここが倭人の玄関である以上、倭人の国はここが基準で書かれないことには地理誌としては矛盾している。
 先にも述べたが壱岐から末廬国の間は千里すなはち440粁だったが、方角を入れるわけには行かなかった。しかし距離は正確で測量技術こそ問題である。倭国の情報は全て魏のスパイだった難升米が提供していた。しかし難升米は句奴国すなはち美作の久米郡と播磨、但馬は警戒が厳重なため潜入出来なかったことも倭人伝の記述で明らかになった。
 末廬国の東南五百里(220粁)にあるのが丹波である。奴国は末廬国の南百里(440粁)で、これこそは伯耆の西部である。この奴国はスサノオが命名したことが古事記の記述で明らかになった。

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2011.12.26

能く衆を惑わした陳寿

魏志倭人伝ではわが国の国名や人名に極めて野卑な漢字が当ててあった。これは作者の陳寿が、魏が敗けたために腹いせにやった証拠である。つぎには壱岐を一大国と書いて、この一大国すら方三百里しかない小国だと、中国人を欺していた。ここまでは韓の里の単位を採用し、これ以降は魏の単位を採用した。壱岐は円形の島で径23粁だから、国の里の単位は76米である。
壱岐以降に魏の里の単位を使用することは当然て、韓の属国でもないのに、韓の里の単位を使用することは史書としては許せない。
 壱岐以降は一里440米で、この単位を使用すれば倭国を中国人は極小国とあなどることだろう。そして壱岐と末廬国との間のハシゴを外してあった。対馬から壱岐なら方角は殊更には必要がない。しかし壱岐からは何所に行くにしても方角が必要である。必要な箇所に限ってしかも唯の一ヶ所だけ方角を書いておかなかった。これらの事実が「春秋の筆法」
であるる千二百年間陳寿のだまし方に気付かなかったのだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  63ページより、転載

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2011.12.24

人類学者の犯したミス

魏志倭人伝で倭人は中国の遥か南の海南島人と同じ風俗習慣と書かれ、しかもこの時すでに僅か数ヶ国だけで15万戸もあった。これは約二百万人の人口である。海南島には漢の時代には苗族が主で、この少数民族は漢と戦った記録まで残っている。現在でも苗族は雲南方面の有力な少数民族であり、テレビの放映ではわたし達とあまりにも酷似点が多い民族である。わたし達の先祖が古代に主力であっても百姓だから土葬でしかも各自の家の近くに墓を設けた。従って各民族の人口比で人骨は出土しないし九州等は侵略されていた。
 人類学者が古代人の人骨を研究している。しかしこれらの多くは侵略者で立派な古墳に葬られたり、集落を営みサンプリングは疑問だ。
 倭人に君臨したのが天皇で、天皇勢力圏は古事記で崇神天皇東征に登場する国だ。東征に出発するまでおられた国は伯耆である。安芸に7年、吉備に8年駐在された。この間に大量の屯田兵をユダヤ人の手引きで雲南方面から導入された。これが倭人であって、この導入の詳細は多くの前著を参照されたい。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  62ページより、転載

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2011.12.22

中国偏向の日本書紀 (9)

崇神天皇の御世が魏志倭人伝の時代である。この天皇がおられた大和を包囲していたのは高句麗人だった。このため天皇の代行として伯母の夜麻登登母母曽姫が備前におられた。
この備前の北の美作の久米郡が、神武東征で活躍した久米のつわものの本拠地で、狗奴国と魏志倭人伝に書かれ、ここの王が崇神天皇の義弟の日下坐王である。
 丹波の伊勢大神宮を拝き祭っていたのは、古事記で崇神天皇の妹だと明記されている。従ってこれらの天皇一族は、不比等に取って最も好ましくない人物だ。日下坐王は仮空の丹波道主命を登場させていた。
 夜麻登登母母曽姫は、倭トド百襲姫と、百人も襲った名前に替え、夢に大物主神を登場させて神話的結婚をさせている。更に手がこんでいるのは、この姫が自殺したかの印象を与える作文を行っていて、この姫ではなしに倭トド姫が自殺し箸墓に葬られたと記した。
 この倭トド姫も開化天皇の妹で仮空の人物だった。崇神天皇一族は、魏軍を破った好ましくない人物で日本書紀は抹殺したのだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  61ページより、転載

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2011.12.21

中国偏向の日本書紀 (8)

日本書紀で好ましくない天皇は先づ神武天皇である。この天皇が東征に出発した地点を全く明かしてない。学者は暗示にひっかかって日向の国としたが、日向の地名は伯耆の日本海随一の良港のことだった。地図では境港の対岸であり、当時境港は夜見島で、米子とはまだ継ってなかった。

 神武天皇の義父君が大物主神であることを恐れて事代主神に、紀では改めてある。そしてこの大物主神は崇神紀に神話として登場させて偶像の神に仕立ててある。更に皇后を大和に来てから迎えた様に偽証の地名まで設けていた。これについては後に記述してある。
 孝霊天皇は漢が占領していた吉備を征伐した敵である。このために吉備津彦と称する、如何にもホントらしい人物を崇神紀に創作したのである。丹波せいばつは、魏の軍隊を攻撃しクガミミノミカサ(難升米)を殺したので、仮空の人物を、ただ丹波に遣わしたとだけ書いた。大毘古命とタケヌナカワワケが東日本全域の華僑を征伐したが、これは中部地方までにとどめ、藤原の地盤の東国を除外した。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  60ページより、転載

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2011.12.19

中国偏向の日本書紀 (7)

日本書紀の編集者は同俗の中国人が官軍と戦って破れた話は書きたくないのが当然である。日本書紀の崇神紀には各所に「海外の俗」が騒いだと明記され、ある箇所では本国すなはち中国に引揚げたとまで書かれている。編集者が中国人だったことは、日本書紀自体が証拠であった。
 この日本書紀編集の責任者は藤原不比等でなければ矛盾したことにならないか。この人物がすでに天武天皇の実権をはく奪し幽閉していた。天皇の一味は全て好ましくない人物である。この第一にあげられるのが天照大御神で、従って現在の伊勢神宮に移される前に笠縫にあったと所在を不明にした。笠とは丹波の加佐郡で大江山の伊勢大神宮に該当する。
 次に好ましくのは天照大御神に平和交渉で国を譲った大国主命である。紀では国譲りで入人自殺に見せかけ、出雲大社は抹殺してあった。第三は神武天皇の義父にあたる大物主神で、現古事記では伯耆に渡来した時にこの人物名を抹殺したために、記述としては異常である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  59ページより、転載

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2011.12.18

中国偏向の日本書紀 (6)

四道将軍の残の二人の人物は古事記と日本書紀では一致している。古事記では大毘古命は北陸道から会津まで賊を征伐して進んだ。この賊とは絹を密輸出していた漢族すなはち華僑と考えてよい。大毘古命の子のタケヌナカワワケは東の道十二道に同じく賊を征伐して会津で父と落合った。これが会津の地名の起りだと書かれている。会津若松の伊佐須美神社には、二将軍が出会った由緒が残っている。現古事記で相津と地名を謎にしたのは1263年に藤原朝臣が改ざんした証拠だ。
 古事記では吉備征伐を行ったのは大吉備津彦と若建吉備津彦である。この人物が仮空でない証拠は伯耆の九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた。又由緒では鬼林山(日南町)、鬼住山(溝口町)の鬼を征伐した詳細の記述が残っている。吉備にはこの二将軍はもちろん兄妹の夜麻登母母曽姫が祀られた神社が存在する。
 吉備の鬼征伐の伝承は官軍に攻められて巨人古墳群の西の鬼ヶ城に立籠った中国人、温羅を征伐した事実を語ったものだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  58ページより、転載

私から一言--「九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた」と書いてありますが、ご自分で必ず、さがしてください。

 若建吉備津彦と関連のあることは、次の所に書いています。

①孝霊天皇、漢人を攻撃する
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-29
②孝霊天皇の吉備征伐
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-10
③東楽々福神社 ここに、若建吉備津彦命が祀られています。
楽楽福神社と呼ばれる神社は、6社あります。

楽楽福神社の事は、次の所に書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/c35373229-3

6つのうち、祭神が、大日本根子彦太瓊命とかいてある神社は、8世紀以後に、藤原氏の支配を受けて、このように祭神をうたうことを強制されたと思います。東楽々福神社も、大日本根子彦太瓊命と記すように云われたと思いますが、従わなかったか、例えば、江戸時代とか、明治時代になってから、祭神を変えられたと思います。

この5つの神社には、大吉備津彦と若建吉備津彦も祀られていたと推理しています。

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2011.12.16

中国偏向の日本書紀 (5)

四道将軍の今一人の丹波道主命も古事記に見当らない人物である。この人物は9代開化天皇の王子の日子坐王の更に子供である。従って10代崇神天皇の10年にはまだ生れておらないと考えてよい。従って吉備津彦と丹波道主命が同時に出陣することはあり得ない。
 古事記では丹波征伐したのは日下坐王で、日本書紀の彦坐王に該当する。日本書紀は丹波征伐の手柄を日下坐王にしたくなかったので、仮空の人物を登場させたのである。
 古事記では孝霊天皇の御世に大吉備津彦と若建吉備津彦に吉備征伐をさせている。中国で倭国大乱が収ったのが180年代で、私の16頁の年表では孝霊天皇の御世である。
 中国で倭国大乱とあれば、「大」は
天子や皇帝を意味する。大礼、大典、大葬がその例で従って倭国大乱とは日漢戦争を意味する。
 魏志倭人伝で魏と句奴国が戦ったのは、句奴国とは久米国のことで、ここは天皇軍隊の本拠地で、美作の久米郡のことだった。これは従って日魏戦争で、この時も魏が大敗し時代は240年代だった。


 第19話 壬申の乱は日唐戦争  57ページより、転載

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2011.12.14

中国偏向の日本書紀 (4)

日本書紀で10代崇神天皇紀の9月9日に「大彦命を北陸に遣す。タケヌナカワワケを東海に遣す。吉備津彦を西道に遣す。丹波道主命を丹波に遣す」とだけ書かれ、賊を平下で10月1日には帰還したと書かれている。
 東大の黒坂博士は日本書紀の記述には正確に日付が入れてあったので、国史の基本にした。そしてわたし達戦前の者は、これを四道に将軍を派遣したとして教えられた。
 古代に僅か22日で賊を平げ、しかもそろって同日に帰還することが、果たして可能だろうか。更にこの場合には日本書紀独特の「一書に曰く」すら見当たなかった。
 吉備津彦は日本書紀にしか登場しない人物で7代孝霊天皇の王子である。孝霊天皇のあとには孝元、開化、崇神と続いていて、夫々の天皇の在位が書かれている。吉備津彦は崇神天皇の60年に出雲征伐に出かけている。従ってこの時には230才位に達しており、四道に派遣された時は180才位である。吉備津彦は古事記の大吉備津彦や若建吉備津彦と誤認させるための架空の人物だった。


 第19話 壬申の乱は日唐戦争  56ページより、転載

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2011.12.13

中国偏向の日本書紀 (3)

日本書紀の記述を信用すると応神天皇は神功皇后紀元年に出生されたことになる。これから6代後が雄略天皇である。この間で履中、反正、允恭天皇は兄弟であり、安康天皇と雄略天皇も兄弟である。これを考慮に入れれば雄略天皇の曽祖父が応神天皇である。
 神功皇后紀の39年が仮に239年とすると応神天皇は201年生れである。雄略天皇が450年代に即位されたとすれば250年前に曽祖父が生れたことになり人道的常識に反する。これを干支二回り120短くすれば、皇太子は20才台の時出生されたことになり、常識的な値になる。日本書紀は干支を狂わせない様に60年単位でシフトさせた犯罪の手口がつかめたことになる。
 現古事記ではこの120年のシフトに合せるために、応神天皇と雄略天皇の享年を60年ずつ引延してあった。この享年を修正するだけで、16頁の年表(歴代天皇家年表)では応神天皇から雄略天皇までの皇太子が出生された時の年令が常識値になった。従って9名の天皇の享年が、60年ずつ伸ばしてある根拠が得られた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  55ページより、転載

私からの一言
 このタイトルを見ただけで、読むのが嫌になる方が多いと思います。しかし、このページは、読み過ごすのではなく、書いてあることが、本当がどうか、ご自分で確かめてください。
その後、16頁の年表(歴代天皇家年表)をご覧ください。日本書紀が中国偏向のものかどうか、私には、判断できませんが、書いてあることは、歴史に矛盾している箇所があるように思います。

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2011.12.02

中国偏向の日本書紀 (2)

日本書紀では三十巻の中の一巻が全て神功皇后紀で占められ、天皇紀と同じ体裁である。しかも神功皇后は69年まで書かれ、これでは神功皇后が独裁でこの間は天皇が無視された記述である。神功皇后が三韓征伐を行ったと詳説していた。しかし古事記では神功皇后は三韓征伐はしておらない。日本書紀は中臣が行った朝鮮でのゲリラ活動を自己宣伝するためこの一巻を設け、他方で魏志倭人伝で魏が大敗した事実隠しに利用していた。
 この神功皇后紀の39年に「是の年太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月倭の女王太夫難升米等を遣わし云々」と卑弥呼が魏に使者を派遣した記述がある。日本書紀では即位の年しか太歳は書かれていないのにこの39年に限って太歳を入れたことは作為的と考える外ない。しかも景初三年(239年)の太歳も己未で一致していた。日本書紀に注があれば、要注意である。
 神功皇后は九州におられ、三韓までも精しいのに、倭の女王の詳細が分らない位矛盾した編集方針が許されるだろうか。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  54ページより、転載

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