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2012.01.29

倭の五王(2)

〝テキストブック日本史〟がなにを根拠に倭王武が雄略天皇だと断定したのか、根拠を教示願いたいのである。この場合も日本書紀に登場した雄略天皇の名前に武の一字が含まれていたたけの根拠ではないのか。これだけの理由で雄略天皇を南宋皇帝に隷属させたのだ。
 魏志倭人伝で15万戸もあった邪馬台国等の風俗習慣は海南島と同じだと書かれた。
 この中国の文献の、しかもこの部分だけは、〝テキストブック日本史〟はなぜ黙殺されるのか。しかも現実にわが国の人々の風習は中国や朝鮮よりも東南アジア方面の風習と酷似点が多い。これは日常のテレビ放映でも明らかだが、このテキストの編者はこの事実はご存じないのだろうか。
 倭人は魏志倭人伝の記述を信用すれば、漢族は宿敵になる。日本史だけをかんがえないで、全アジアの視野で古代史を検討すれば、倭人に君臨した天皇が南宋皇帝に使者を派遣する位矛盾した考え方は許されないのである。
 テキストは壬申の乱でも倭の五王でも重大な間違いを起こし、これが毎日つかわれている。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  80ページより、転載

私から一言、 田村氏は、〝テキストブック日本史〟のことを追及されています。このテキストが、どの様な性格のものなのかは、解りません。インターネットで検索したものでは、なんだか、政治色の強いもののように思われます。

102頁から111頁まで、抜粋したものを掲載しておられますが、107頁と106頁をおかしな世の中に収録しておきました。
 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-891.html

 内容は、間違っていますね。
〝テキストブック日本史〟だけとは限りません。多くの新聞社も間違った歴史感を持たれた記者が記事を書いておられます。

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2012.01.28

倭の五王(1)

大学教育用〝テキストブック日本史〟の倭の五王の引用文を先づ読んでいただきたい。
先づ倭王讃に該当する天皇が見当たらない。倭王珍は反正天皇、倭王済は允恭天皇と比定されている。そして倭王興は安康天皇、倭王武は雄略天皇と断定されている。
 倭王武が478年に遣使し、この時の上奏文の一部が採用されている。すなはち「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡り海北を平ぐること九十五国」と書かれている。海北とは朝鮮のことである。この様な上奏文は古代に宣伝するのが常識で、朝鮮の九十五国は村単位とすれば、わが国の国数もなぜ村の数でもよいと考えないのだろうか。この中には大和はもちろんのこと伯耆、美作、備前、備中、備後、安芸等の天皇勢力圏はふくまれなくてよかった。
 この上奏文に「にわかに父兄を失い目下諒闇にあり」の部分があることを学者はご存じなのか。これは倭王興と雄略天皇が同年代で、テキストは間違いである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  78ページより、転載

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2012.01.26

日魏戦争(6)

崇神天皇の第一王子は本来は天皇の後継者である。しかしこの王子は関東の君と書かれ、この方は宇都宮の二荒山神社に祀られていた。古事記に書かれた天皇一族の消息が全てつかめたことになる。崇神天皇が全国統一したことを否定された学者は今一度これらの事実を自ら確かめていただきたい。
 国民はここで是非“テキストブック日本史”の109頁以降を検討していただきたい。「邪馬台国を中心とする三十の小国が統合し邪馬台国連合が成立し、その連合国の王に立てられたのが卑弥呼だった」と書かれている。
 この様な記述は魏志倭人伝を何所を根拠にして生まれるのだろうか。岩波文庫から〝魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書倭国伝〟が僅か200円で出版されている。国民のは是非自からの目でテキストブックの編者が魏志倭人伝を歪曲してかいているかを確かめていただきたい。
 この編集者は魏志倭人伝で倭人は海南島系だと記述には一顧も与えてない以上、中国編向も著しいテキストではないか。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  78ページより、転載

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2012.01.24

日魏戦争(5)

魏志倭人伝は自説に都合のよい箇所だけ取上げないことである。邪馬台国に関する全ての書物が15万戸もあって、これが海南島系だとの記述を黙殺しておられる。海南島の風俗習慣をもっと論じないのだろうか。ここには苗族が主で、しかもこの苗族は漢と戦った民族である。この証拠は前著に提示しておいた。この苗族は漢族が宿敵だったことさえ理解出来れば古代史の謎は簡単に解ける。
 倭人伝にはこの国もと男子を立てて王となす、とどまること七・八十年と書かれている。
 16頁の歴代天皇家を見ていただきたい。初代の神武天皇の享年は77才で倭人伝の記述は極めて正確だった。神武天皇のオクリ名は後世の藤原が命名したので、この根拠は同じ時期の漢の皇帝、光武帝と、神を神戸式に発音すれば同じである。孝霊天皇のばあいはの漢の皇帝は恒帝と霊帝で藤原の謀略だ。
 倭人伝には卑弥呼には男弟ありて国を治むとあり、これは崇神天皇である。伊都国にも国造があるが女王国すなはち夜麻登(備前)に隷属したと書かれている。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  77ページより、転載

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2012.01.21

日魏戦争(4)

崇神天皇の御世にタケハニヤスが山城からこの妻が河内から大和の天皇勢力を攻撃した。
これは大和が敵に包囲されていたことである。タケハニヤスの本拠地の山城町から三角縁神獣鏡が三十数枚も出土したのである。更に山城町の旧名が高麗村だった。タケハニヤスも難升米も高句麗人で、これが天皇の敵である。
 大和が敵に包囲されていたため崇神天皇の伯母の夜麻登登母母曽姫が天皇代行の女王として夜麻登国すなはち邪馬台国におった。これが備前で、この北の久米国の大倭村(ヤマト)が物資を管理していたと倭人伝に書かれている。又邸閣国すなはち屯倉は津山にあったと考えてよい。
 大人は四・五婦と書かれたのも一夫多妻と学者は勘違いしている。これは大家族主義で若主人は全て召集されていたことだ。大和の護りや高地性集落で敵の来襲があるものとして正に国家総動員であった。これだけの軍備が3世紀前半の状態だった。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  76ページより、転載
 

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2012.01.18

日魏戦争(3)

卑弥呼に利害関係があることは裏を読むことである。ひみこを共立して倭国大乱が収まったと書かれたのがその一つだ。173年に卑弥呼は新羅に親善使節を派遣している。この時は瀬戸内海全域が漢に占領されていた。大和も敵の包囲下だった。このために卑弥呼は丹波から新羅に救援を依頼した。そして任那に官軍の基地をおいた。このために漢から吉備への補給路が遮断されることになった。
 こりために漢が何れ敗退せざるを得なくなった。これをアベコベに卑弥呼を共立して倭国大乱が収ったとウソを書いたのである。
 卑弥呼をイキナリ「親魏倭王」にするからと素性も分らない人物を史書で取上げることが許されるだろうか。
 倭人伝では卑弥呼には男弟ありて国を治むと書かれ、これは崇神天皇のことである。又「その国もと男子を以って王となし、とどまること七、八十年」と書かれ、これこそ初代の神武天皇のことだった。わたしが作成した16頁の年表
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html
でも神武天皇の享年は77才で魏志倭人伝の記述に狂いはなかった。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  75ページより、転載

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2012.01.16

日魏戦争(2)

狗奴国王は卑弥弓呼と書かれ、これは卑弥呼と兄妹だったことからつけられたアダ名である。久米国王の日下坐王は崇神天皇の義弟であり、従って崇神天皇の妹の日巫女とは義理の兄妹である。
 卑弥呼が人質に取られる条件がそろっている。この卑弥呼を「親魏倭王」にするからと句奴国王に同盟を求める条件にした。
 崇神天皇は歴代天皇家年表 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html
で150年生まれで258年に崩御されている。朝鮮には三国史記があって毎年の出来事が詳細に書かれている。この中の新羅の173年に卑弥呼が親善使節を遣わしたと書かれている。この時卑弥呼は既に成人していたと考えれば、倭人伝の240年には88才位だったと考えられる。 
 倭人伝で卑弥呼は鬼道に事えと書かれている。我が国の神道は中国では鬼道と書くことが正式である。倭人伝で卑弥呼について書かれた記述は、利害関係がないものは、全て正確だった。そして卑弥呼がおった城は武器を持った兵に守られた城内で幽閉状態だった。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  74ページより、転載

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2012.01.13

日魏戦争(1)

中国文献の後漢書には倭国は百余国で、この中で使駅通じる国三十余とある。この三十余が漢に朝貢した国である。わが国には優秀な絹があったためにこれを収奪し密輸していたのが華僑だった。魏志倭人伝で239年に魏から錦が贈られた。しかし243年には逆に魏の皇帝に倭錦が贈られた。これは贈物の常識で魏の錦より倭錦が優秀な証拠である。 
 九州では紀元前に庶民が絹の着物を着ていたことが出土品から分った。又日本海沿岸の各所から絹の出土品がでている。又大化の改新で田四町について絹一匹の徴発わ命じている。これは如何に大量に絹が生産されていたかの証拠であり、鎌足の軍資金の財源だ。
 銅鏡が出土した場所は全て絹の産地か港であった。そしてこの付近には、〇城式に二字目に城がつく地名と竜がつく地名、鬼がつく地名が見付かる。例えば関東の結城の周辺に絹に縁がある村が八つもあり、鬼怒川と竜ヶ崎の地名が一例である。正倉院の御物に西域のものが多いのは、絹と交易を行った証拠でシルクロードで運ばれた絹はわが国の産物だ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  73ページより、転載

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2012.01.11

福岡県で作られた三角縁神獣鏡

銅鏡は漢族の副葬品であって、倭人には不用のものである。万一倭人が持っておれば、これは戦利品である。この銅鏡が中国本土から来なくなった。あわてて銅鏡をつぶして小形銅鏡にする外なかった。その内に銅鉱が見付かったので、より大きな三角縁神獣鏡を呉から職人を呼寄せて作った。
 この三角縁神獣鏡は福岡県田川郡採銅所村でつくられたとかんがえられる。村の名が採銅所であるが、一つの理由である。更にこの村には鏡山、図師、鍛治屋の地名の外に呉、小呉の地名まで残っていた。これだけの地名のパターンがあれば、呉の人が渡来していたと考えてよいだろう。地名も歴史の一部である。
 吉備の最もデラックスな古墳は初期で、この時は石棺は阿蘇の石で作って運んだ。何れ河内まで進出し、石棺は二上山のピンク石を加工したことだろう。
 この漢軍を孝霊天皇の御世に吉備と伯耆は征伐出来た。しかし天皇方には水軍がなかったので、九州には漢族すなはち呉の勢力が残留することになった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  72ページより、転載


私から一言---三角縁神獣鏡は、20cmを超えるものが多いです。この大きさを問題にした歴史家は居られませんが、田村氏の様に考えますと、一理あるようにも思えます。
500個を超えた三角縁神獣鏡を、小さい順にならべますと、古い順に並ぶかも知れません。

三角縁神獣鏡の分布  http://www21.atpages.jp/skeikas/page027.html
やっと、170個になりました。毎日、一個ずつ掲載しますと、一年後には、500個になると思っています。
 500個をコンピューターで並べれば、ある程度は分かると思いますが、全部頭に入れますと、人間の頭は、急に動き出すと思います。もっとも10人の人が実行しますと、10人の学説が登場して、歴史界は無茶苦茶になるかもしれません。
 福岡県の方、頑張ってください。

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2012.01.09

107年に始った日漢戦争

吉備の古墳はデラックスなもの程年代が古くて不思議ではない。漢が107年にわが国に進駐を開始した。これは
倭の面土国王の帥升等が倭人を160人も捕虜にして連行した年である。九州から漢の銅鏡が大量に出土したことは漢族が占拠していた証拠で、面土国は九州にあった漢族の国と考えたい。漢が大軍を進駐させるために大量の通訳や地理が分かる倭人を捕虜にして連行したのだ。
 漢族に圧迫された倭人が、倭人を捕虜にして連行する位、矛盾した話があるだろか。107年に漢は大軍を日本に進駐させた。しかし漢軍は食糧等一切を、本土から運ぶ外ないので長期戦となった。ガダルカナルの戦と同じで渡洋作戦は至難である。従って何れ多数の将軍が戦死した。この場合は初期に戦死した将軍程デラックスな古墳が築かれるのが長期戦における常識である。漢は何れ戦争のため疲弊し184年には黄巾の乱の内乱まで生じ、漢の本国からの補給は一切途絶した。将軍の古墳は貧弱になり、銅鏡まで国産化する外なくなった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  71ページより、転載

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2012.01.07

古代史年代の非科学性(3)

考古学会の体質を認識していただくために最近の実例を紹介したい。東京工大は技術者養成の名門である。この大学の製鉄史研究会が〝日本古代の鉄と社会〟の359頁に及ぶ学術図書を昭和57年に出版された。
 実は筑波山の西に製鉄遺構が見付かって、ここからは木炭置場まで出土した。この木炭をカーボン14で測定した結果紀元前170年、プラスマイナス110年と分った。しかしこの時期に製鉄が行われる筈はないとの先入主だけで、このデータを否認している。東京工大はカーボン14のデータに不審を感じたら、先づ検討すべき立場にはないのか。これを何の理由も示さずに否定したことは東京工大ですら考古学では科学軽視の害毒を、世に流していたのである。
 この遺跡から同時に出土した土器から年代を9世紀として、9世紀の社会の創作を行ったのである。ここでも年代に千年の開きがある。銅鐸は紀元前に作られた以上、これだけの技術があれば製鉄が行われて矛盾はない。考古学会の科学否定の体質こそ問題である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  70ページより、転載

 
私よりの一言---この本が出版されたのは、昭和59年11月10日(1984)です。27年前です。
〝日本古代の鉄と社会〟の359頁に及ぶ学術図書を昭和57年に出版された。これだけ膨大な学術書ですから、きっと、日本古代の鉄を解明されたことでしょう。それだけに、東京工大としては、この田村氏の抗議などに、耳を傾けるわけには行かなかったと思います。
 これを読んだ人は、大阪の人は、えげつないことを言うなと思われたでしょう。
 
 しかし、カーボン14は、今では、世界でも、認められないのでしょうか。もし、認められているのであれば、この製鉄遺構は、紀元前170年と考えてもいいはずです。最大の誤さをみても、紀元前50年となります。
 紀元前170年となりますと、スサノオが、高志の八俣の大蛇を退治したころになります。
 スサノオは自慢の十拳劔で大蛇の尾を切りますと、自分の刀の刃が欠けました。そこで大蛇を割いて調べましたら、都牟刈の太刀が出て来たと書いてあります。
 この大蛇は、十拳劔より素晴らしい太刀であったことを書いてあります。
 田村氏は、この二つの事から、高志の八俣にあった山は、全体が製鉄所であったという話を書いておられます。
 古事記には、神話しか書いて無くて、歴史書ではないことになっていますが、それは間違いであることが判ります。

 東京工大は、田村氏から指摘されたことを訂正していないのであれば、今からでも遅くはありません。
 そうなりますと、紀元前から、多くの中国人がやって来ていたのは、私が主張している絹だけを求めてやって来たのではなくて、日本の鉄が欲しくてやって来たことになり、無茶苦茶の日本史は、正しく修正されることになります。

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2012.01.05

古代史年代の非科学性(2)

弥生前期、中期、後期と云われて来た遺跡をカーボン14で較正した結果が、斉藤 忠氏著〝日本考古学の視点・上〟に発表され、142頁に紹介させて頂いた。読者は是非自らこの表を見て、弥生前期よりも弥生後期かぜ古い例すら多い事実を、確認していただきたい。考古学会は自説に都合の悪い証拠はこれが科学的に正しくて、しかも世界的にみとめられていても、黙殺する体質を認識いただきたいのである。弥生じだいについてはカーボン14の資料を否定しながら、同じ学者が縄文期にはカーボン14一辺倒の無節操ぶりについて、私は憤りを感じるものである。これが古代史を謎にする最大原因である。
 古墳時代の年代は、この先代の弥生期そのものの基礎がデタラメだった。従って主観的に最もデラックスな古墳程年代が古くてよかったのである。漢の国力が最強だった時に進駐して来た将軍の前方後円墳の方がデラックスでないと戦争の常識に反することになる。吉備や美作から漢の銅鏡が出土することは、一時漢が進駐していた何よりの証拠である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  69ページより、転載

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2012.01.02

古代史年代の非科学性(1)

九州からは漢の時代の銅鏡が大量に出土し、れは漢の時代にすでに漢に占領されていた証拠で、後に漢を滅ぼした呉の勢力圏だ。
 実は吉備からも漢の銅鏡が出土し、ここに大和につぐ巨大古墳群がある。これらの前方後円墳の石棺の石の産地を調べられたのが、間壁夫妻で詳細は〝吉備古代史の未知を解く〟を参照されたい。石棺は阿蘇の石、播磨の竜山石、讃岐の火山石、河内二上山のピンク石を加工して運ばれていた。これこそ瀬戸内海全域を漢が支配していた証拠で本拠は吉備だったことになる。古墳の主は漢の将軍だ。
 ここで先づ古墳時代の前は弥生時代の前期、中期、後期と呼ばれている。これは土器の文様だけを挙り所にしたもので、大和民族は単一との仮定に基いている。しかし多数の民族が渡来し、進駐して来た以上民族によって模様は異なっていると考えるべきである。遺跡の層毎に土器の模様が異なっていたことは民族の攻防があった証拠である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  68ページより、転載

私から一言---このページに書いてあることは、当たり前の事ですが、現在でも、まだ、土器の形、模様によって、年代が決められています。

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2012.01.01

魏志倭人伝の国名を解く(4)

藤原忠平関白が制定した式内社の国別統計を138頁に示しておいた。これでは出雲には187社も式内社があって、この氏子は藤原氏から幣帛料の名目で軍資金を受け取っていたのである。これに反して伯耆、美作、備前、備中、備後、安芸を合せて六ヶ国でも式内社は83社に過ぎなかった。ここは従って藤原氏の勢力圏ではなくて天皇の勢力圏である。
 倭人に君臨したのが天皇であり式内社の分布密度から倭人が多い地域が分り、しかも式内社からも魏志倭人伝で、倭人ががおった国とは完全に一致していた傍証が得られた。
 この伯耆、美作、備前、備中、備後、安芸からは藤原に遠ざけられた人々や勤王の志士が多く出ている。菅原道真を祀った神社が伯耆には73社もある。名和長年は伯耆の出身だった。後醍醐天皇の美作の行在所にかけつけたのは備中の出身だし、南朝の忠臣で桜山神社に祀られた桜山茲俊は備後の出身である。これもこの地域が天皇勢力だった証拠である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  67ページより、転載

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