倭の五王(5)
倭の五王の本拠地は河内だった。この河内で最も有力な氏族は中臣である。これは新選氏姓録で証拠が得られた。この河内の一宮は枚岡神社で、この祭神は鎌足の先祖のアメノコヤネ命である。これも河内が中臣鎌足の本拠地だった証拠である。
河内には式内社が113社もあった。式内社は学者が格式が高い筈の神社の50%が現在所在が分らない。こんな不思議な現象があってよいものだろうか。927年に式内社を制定した時の氏子は藤原氏からの幣帛料と称する仕送りがあった。しかし藤原氏が弱体化したので
仕送りが途絶えて四散したことだろう。
式内社は約10社を除いては素性が全く分らない神である。この様な素性が分らない神を祀っていた氏子に藤原氏は軍資金を渡していた。これは鎌足が大化の改新を行う以前から行われていた。日本書紀で鎌足が神伯を固辞したとかいてあるのは、真実は神祇伯の実権を握っていたと解すべきである。日本書紀には真実の記述は無かったと考えてよい。
第19話 壬申の乱は日唐戦争 83ページより、転載
私からの一言 ---倭の五王に関しては、田村氏は、何度も書かれています。今回は、5回でしたが、読み返されますと、解りますが、〝テキストブック日本史〟をはじめとて、他の歴史が間違っていると書いておられます。素人がいくら主張しても、倭の五王は、日本を征服した中国人だったという話は、日本人が納得しても、現在の中国政府と韓国の政府は認めないでしょう。
中国と韓国と日本が、共通の場で、正しい歴史を考えて見ようとなりました。
倭の五王は、勿論、日本の天皇であり、宋の皇帝に、日本の天皇が、自分たちであることを認めて貰いに行って、認められたことになっています。その天皇の誰か判りませんが、
高句麗を攻めたことになっています。
私には、よく判りませんが、「この碑は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である」ことになっています。
どこで読んだか忘れましたか、高句麗に日本が攻めて来たことが書いてあるそうです。そんな馬鹿な事はない。日本は、この頃、字も無かった筈だ。それに対して、高句麗では、漢字が、使われていた証拠が、この碑です。総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっているそうです。
この碑は、一部削られている箇所があって、その部分は、第二次大戦中、日本軍がせめて来た時に、日本に都合の悪いことは、削ったのだと書いてありました。
こうなりますと、中身は問題ではなく、国の意地がかかっています。
歴史は、いくら調べても真実は分らないような気がしています。


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