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2012.02.29

建国発祥の地、伯耆(10)

古事記では大国主神には大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神の合わせて五つしか別名はないと書かれ、この中には日本書紀の大己貴命は含まれていない。ここで話はそれるがスサノオの一族40数名全員の神名の末尾は神で、これこそ改ざんの証拠である。日本書紀では大己貴神で統一され、この人物が大国主命と分るのは古事記と照合した時だけである。これこそ日本書紀が大国主命を抹殺した証拠だ。
 大国主命の母君だけが新羅系だったので、スサノオ一族の中で異端者だったため庶兄弟から迫害を受けた。この大国主命が平和交渉で天照大御神に国譲りしたために、この人物も多紀理姫も藤原氏にとっては好ましくない人物だった。大国主命は国譲りで出雲大社を交換条件で建ててもらった。しかし日本書紀では国譲りで入水自殺に見せかけ、出雲大社は抹殺してある。
 天皇勢力が出雲大社に結集することを防止するために、この大社を187社もの式内社で包囲したのである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  93ページより、転載


私より一言----田村氏は、上に、「合わせて五つしか別名はないと書かれ」と書いておられますが、原文は、
併せて五つの名あり。(併有五名) です。
太安万侶は
大国主神、大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神を記し、確認する様に、
(併有五名)と書き加えましたから、正確に翻訳すると、田村氏の<合わせて五つしか別名はないと書かれ>となるかも知れません。

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2012.02.27

建国発祥の地、伯耆(9)

神武天皇の皇后の母君は三島溝咋姫でこの方は久古の西2粁の三島神社に祀られている。又父君は大物主神は久古の北6粁の淀江町の三輪神社に祀られ地理的にも矛盾が見当たらない。現古事記で美和と書かれていたが、これは原古事記では三輪だった筈だ。
 皇后がおられた狭井河に変っているのは作為の証拠で、しかもこの川は大和の三輪山の麓を流れていた。又摂津には三島郡まであってここの溝咋神社に溝咋姫が祀られている。大和の三輪山も佐韋川も三島郡も溝咋神社も偽装目的で作られたものだ。
 皇后の祭神名が全て日本書紀式になっているのは古事記を偽書とする工作だった。
 大国主命は胸形の多紀理姫を妃にされ、大国村の北の米子市の宗像の胸形神社に多紀理姫が祀られている。このばあいも福岡の海上遥か80粁の沖ノ島に宗像大社があって多紀理姫が日本書紀式の名前で祀られている。この様な絶海の孤島に姫が住んでいることに、何故矛盾を感じないのか。倭人が参拝することを防止するための偽装工作である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  92ページより、転載


私よりの一言----こんな話は、目を閉じたくなるし、誰かから聞かされたら、耳を塞ぎたくなる話です。 奈良の大神神社の方や、奈良県の人は、そんな話にびくともされないでしょう。福岡県の人も、びくともされないでしょう。それほど、日本の歴史を信頼しておられるのだと思います。
 ここに書かれた大神神社を一度訪れてください。そして、一番行ってほしいのは、佐韋川です。普通の川です。そして、すべての境内にある社を回って下さい。本殿はありません。後ろの山がそうですから、登ってください。一日かかります。
摂津にある溝咋神社に行ってください。この神社を中心に、2キロ以内を普通に歩くだけで結構です。この辺りは、100年に一回は、傍に有る安威川は決壊した筈です。
 いつかは、調べていませんが、ここから淀川まで、人家が少ないことが示しています。少し、北に歩いて行きますと、阪急電車とJRが走っています。ここより北側に、継体天皇の墓があります。この辺りは、昔から安全でしたから、多くの人が住んでいました。溝咋神社は地形を見るだけで、無理やり造られたことが判ると思います。勿論、これらの元の神社は、伯耆に有ります。三輪神社、三島神社、久古神社、胸形神社です。
 伯耆の方は、全部まわっても、一日もかかりません。

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2012.02.25

建国発祥の地、伯耆(8)

日本書紀の記述に従うと神武天皇が橿原宮で即位宣言されたのは辛酉の年で、これは西暦元年と完全に一致していた。そして天皇はこの時52才で、大和で皇后を迎えられたと書かれている。この様に高令になるまで皇后を迎えられないことが常識だろうか。
 古事記で神武天皇が皇后を迎えられた一部始終を137頁に引用させていただいた。先づ皇后が宮内(ミヤの内は原文と相違する)に訪ねて行かれた。この宮内は西伯郡大山町にあって、ここの賀茂神社に天皇は祀られている。「倭の高佐示野」と歌に出てくる倭は既に述べたが大国村倭のことで、ここの神社に天皇と大国主命が祀られていた。
 地図では倭の東に越敷野の地名があり、これこそ高佐示野と考えてよい。この付近はもと会見(アイミ)郡、これこそ天皇と皇后が始めて会われたのにふさわしい地名である。
 皇后は狭井河のほとりに居られたと書かれ岸本町久古の久古神社に皇后が祀られている。
しかもここを流れる川は狭くて井戸の様に深い形状で、地形こそは証拠である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  91ページより、転載

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2012.02.23

建国発祥の地、伯耆(7)

建国発祥の地のが伯耆だとすると、真先に問題になるのが神武天皇が居られた国である。
神武天皇はは日本書紀では何所から東征に出発されたかを隠してあるのに学者はお気付きだろうか。いきなり東征で速吸の瀬戸が登場し、学者はこれを伊予海峡と早合点したのである。
 日向国と日本書紀が書けない裏を読むことだ。
 古事記では高千穂で兄の五瀬命と東征について相談されたと明記されている。これは明らかに九州の現在の高千穂峯に降ったと解釈する外ない。これでは高天原は高千穂峯より高所でないとおかしいし、ここに降る前に出雲で国譲りの交渉を行ったこととの間に、なぜ矛盾を感じないのだろうか。戦前はこの矛盾を批判すれば不敬罪だが、戦後には矛盾の追及は自由である。
 古事記では神武天皇は日向から船出したと書かれ、この地名は現在国土地理院の境港の対岸に載せてある。ここが既に述べたが天皇勢力下の外港で、しかも日本海一の良港だ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  90ページより、転載

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2012.02.21

建国発祥の地、伯耆(6)

国主命の伝承は全て古事記に基くもので日本書紀では、大己貴神の名前で国譲りの時に入水自殺したとしか書かれてない。伝承で最も有名なのは因幡の白兎であるが、この原文を143頁に示しておいた。原文の莵とは朝鮮にあつた玄莵国人のことで、淡海の和珥村の人を欺したので、衣服を脱がされ、たたかれたのである。
 こじきには神話が書いてあると学者が盲信して出雲神話等の書物が沢山出版されている。しかし古事記には神話は皆無だった。
 この時は大国主命一行は八上村の八上比売に求婚に出かけた。八上村の比売沼神社に比売は祀られていた。しかし藤原が式内社を制定する時に、神社名を売沼神社に改めさせられ、これも八上比売を抹殺する工作である。
 八上比売は大国主命を主人に選んだので、兄弟神は伯耆の手間山で大国主命の謀殺を企てた。この手間山の地名は戦前の地図では抹殺され、現在の地図には載せられている。学者も藤原も政府も古事記を偽書化する工作を行っていた証拠が、ここでも三件見付かった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  89ページより、転載

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2012.02.19

建国発祥の地、伯耆(5)

大国主命は日本書紀では大己貴命と書かれスサノオと稲田姫の間に生れたと書かれている。この外に国譲りの記述と二ヶ所にしか登場しない。しかもこの系図すら古事記と異なっている。スサノオ一族の系図を古事記に基いて書いたが、この詳細は別稿を参照されたい。これによると大国主命に八十八人もの兄弟神があったと書かれていたのは庶兄弟を含めれば事実だった。
  スサノオの略系図を134頁に示してある。更に神々の名前の末尾の( )内の数字は伯耆にあった神社数である。最下段は平安京で祭られていた神社名である。最下段は平安京で祀られていた神社名で特に注意願いたい。京には日吉神社、松尾神社、賀茂大社、伏見の稲荷の外に吉田神社、大原野神社が有名である。後の二社には鎌足の先祖のアメノコヤネが祀ってある。八坂神社にはスサノオを祀り祇園には高句麗人が住んでいた。太秦は文字が示す様に、秦の始皇帝を先祖とする民族が住んでいる。天皇の御所は倭人以外の高句麗人と中国系の藤原一族一味によって完全に包囲され、天皇がロボットだった証拠が現れた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  88ページより、転載

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2012.02.17

「是奴也」びっくりしました

古事記に「奴国」が出ていたのですね。 なにか反応はありましたでしょうか。

私はこの前の日本書紀が気になって調べてみたところ下記の結果を得ました

1.日本書紀:日本表記 215以上、倭表記181以上
2.古事記:日本表記  0  倭表記 66以上

日本書紀ですが 日本はやまとと読まれているようです  さらに1箇所
倭日本とかいてやまとと読み下しています。男の神様には日本が使われ
女の神様には倭が使われています。 歌の中では夜麻登と書かれており
文字よりも言霊の栄えた国という感じが解ります。

上記とは変わりますが一書曰に対して魏志云とか百済本義云と書かれており
呉国朝貢とか新羅朝貢もありました
とにかく原文にあたる必要がありますね


管理人より
 この文章は、August 27, 2009  に頂いたメールのものです。 
 丁度、今日、「奴国」のことをかいたばかりです。魏志倭人伝に出てくる「奴国」は 末廬国から100里の所にあると書いてあるのですが、皆さん、どこかわからないようです。末廬は、出雲の松江の所になります。魏志倭人伝は、240年ころのことですが、古事記の
「奴国」ハ、スサノオが大国主に向かって、結婚の許可をした時の口上にあります。 日野川流域一帯は、昔から、奴国とにほんでもね呼んでいたのを難頌米は知っていたことになります。

古事記には、〔日本〕はゼロなのに、日本書紀には〔日本〕 215もあるというのは、面白いですね。 日本書紀の作者は、〔日本〕 という言葉を認めさせたかったことが判ります。

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2012.02.16

建国発祥の地、伯耆(4)

神武天皇以前の系図が分れば自ら天照大御神が高天原におられた年代が推定出来て、紀元前2世紀と考えてよい。神々と云えども第一王子を出生された時は20才台と考えて得られた年代である。
 スサノオは根の国堅州に住んでいた。この女のスセリ姫は特定の人物である。このスセリ姫が伯耆の西伯郡高麗村(淀江町)唐王の唐王神社に単独で祀られていた。唐王とは唐津のの例の様にカラ王と考えてよい。従って高句麗人で唐王と称していたことになる。
 中国の史書魏略で紀元前194年に衛満が北鮮に独立国を建てた。この時衛満と争った準王は海を渡って韓地に渡り準王と称したと書かれていた。スサノオこそは準王と考えてよい。年代的にも矛盾が生じなかった。
 日本書紀はこの事実を隠すために高天原があった時代は神武天皇より百七十九万二千四百七十九年前と書いている。この様なフザケタ書き方の日本書紀を明治以来国史の基本にして来たから、未だに古代史は謎に包まれているのだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  87ページより、転載

管理人・私から---伯耆が建国発祥の地であることは、歴史に興味をもった10年前から思っていました。その理由は単純なことです。その当時、鳥取県は、遺跡、古墳の出土数が一番多いとされていたからです。一番多いということは、人が多く住んでいた証拠だと思いました。特に、古墳が多いということは、多くの種類の人が住んでいたために、トラブルが多く、死んだ人が多かったのだと考えました。
 でも、その証拠はありませんでしたが、最近、系統立てて、ここは天皇家の人が多く住んでいたということが云えるようになったと思っています。
 このことは、今、http://skeikas.iza.ne.jp/ において書いています。
 北緯35度27分上に引かれた線を天神ラインと呼び、この上にならんでいるということを説明する気になっています。
 現在は、地名〔宮内〕です。

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2012.02.15

建国発祥の地、伯耆(3)

蒜山高原の高天原は古代はもちろん現在でも百万都市が出来るだけの漢鏡である。しかし高冷地のために稲作全く育たなかった。紀元前2世紀に天照大御神の水田のあぜをスサノオが壊したとまで書かれている。
 稲が育たないために都を倉吉平野の高千穂に移した。これが世にいう天孫降臨で、天孫とは天照大御神の孫にあたるニニギ命が天王として高天原より、平野部の高千穂に都を移したことである。この高千穂は倉吉の西の大栄町に現存している。ここにニニギ命を祀った大宮神社と妃の木花サクヤ姫を祀った亀谷神社もあり、これ位確実な証拠があるだろうか。しかし高千穂の地名だけでは戦前の参謀本部の地図には抹消されていた。国民は政府の謀略を追求していただきたい。佐竹先生の無実の罪で政府は外地にまで左遷し、たのである。更に研究が行われることを不可能にしたのである。
 中臣や藤原が古事記を改ざんし、更に偽装の地名を命名し、伯耆の神社の祭神名を日本書紀式に改めていた。しかし明治以後の政府までが中国系の藤原に加担した悪事を働いた。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  85ページより、転載

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2012.02.13

古事記王朝と日本書紀王朝の戦いが壬申の乱だった

 前回に対して、メールをお出ししましたら、次の様なメールをいただきました。


早速丁寧なメールを頂きありがとうございます

この前は気になりながらも書かなかったことがあります
古事記王朝と日本書紀王朝の戦いが壬申の乱だった
そして日本を版図とする日本書紀王朝が現代も続いている
このような考え方はいかが思われますか

その他、2000年前頃の東アジアについて
主家(中国本土)~庭(東シナ海)~渡り廊下(朝鮮半島)
~奥座敷(日本列島)と言う仮定で色々と考えています
例えば奥座敷に行く必要があった場合に取りあえずは
庭を通って行き来していましたが、渡り廊下の完成に従い
廊下経由も多くなりました。ただあくまでも渡り廊下なので
途中に立ち止まる部屋(文明の留まる場所)は出来ませんでした
いかがでしょうか

開設者より----壬申の乱の部分に於いて、古事記と日本書紀を読み比べて頂きますと、
古事記王朝と日本書紀王朝と云ってもいい位の違いが見えてきます。

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2012.02.12

建国発祥の地、伯耆(2)

佐竹先生の論文は〝神代遺蹟考〟で東京山中会で出版されている。佐竹先生は不敬罪に問われ、外地の京城中学の平教員に左遷させられた。この時裁判すら行われなかった暗黒政治が行われたのである。高天原が蒜山高原でなければ黙殺するか、裁判にかければよい。
 現に他の国が高天原だった説は戦前でも不敬罪には問われなかった。日支事変事変が始まるより前に、既にこの様な暗黒政治が行われたことは、政府内に高天原が蒜山高原だったことを知っていた証拠ではないか。
 私はこの事実に義憤を感じ、古事記を始めて入手し読み始めた。この結果おびただしい数の、古事記を偽書化する工作が見付かったのである。大正には既に蒜山と地名が改められていた。ここでイザナミ命が水蛭子すなはち早産児を産まれた御所が仲蒜山の造成地にあった。これに由来して蒜山とかかれていたのに、明治政府が難読の蒜山にあらためた。
 蒜山はヒルゼンと発音される現在でも岡山のチベットと呼ばれる位山奥の地名すら中央政府が干渉していたのである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  85ページより、転載

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2012.02.10

日本書紀のタイトルについて

漢書というのは漢という版図を支配した中国人の歴史書であり魏書というのは魏という版図を支配した中国人の歴史書である。これから類推すれば「日本書」紀というのは日本という版図を支配した中国人の歴史書であり、当時の倭国の征服できた地域を日本と命名したのである。これから導かれる結論として「日本書」紀の作者の藤原不比等は倭にいた中国人であり祖先が倭に居なかったため、正当化するための書物「日本書紀」を書き上げたのです。そのために「日本書紀」には200箇所以上「日本」という文字が使われていますが「古事記」には一箇所も使われていません。藤原不比等は「日本」という国号を当時の
中国王朝に売り込もうとしたのです。
参考:神野志隆光著「日本」とは何か


開設者より----この記事は2009.07.27 に、私のメールに対する返事として頂いたものです。
古事記が作られるようになった経緯は、古事記の始めに書いてあります。
この文を翻訳された人は、見たことがありません。

 とは、嘘で、中西進著 『天つ神の世界』に書いてあります。丁寧に、解説されていますが、私の頭が悪いのでしょう。チンプンカンプンです。

 序文には、なにが書いてあるのか、一言で云えませんが、30字ぐらいで、説明できなければ、翻訳したとは言えません。
 一方、日本書紀は、日本の正史とされているのに、作られた経緯が書いてありません。
 田村氏のように考えますと、経緯は、書くことが出来なかったことが理解できます。


日本と云う国名は、何時、どのようにして、決められたのか、誰が名前を付けたのか。何一つ、分かっていません。
〔「日本書」紀というのは日本という版図を支配した中国人の歴史書であり、当時の倭国の征服できた地域を日本と命名したのである
 こんな短い文章で、日本の国名ができた経緯が、語られました。

田村氏の記事よりも、私のコメントの方が長くなってしまいました。 
H240210

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2012.02.08

建国発祥の地、伯耆(1)

紀元前2世紀に、漢や秦に圧迫されて渡来した民族が、最初に築いた国が高天原である。これは大山・蒜山国立公園の蒜山高原である。東西20粁、南北10粁の広大な高原は四方を千米級の山に囲まれた要害の地で、海抜は平均500米である。更にここには太古に湖があったため、広大なしかも平坦で葦が繁った沼地が展開していた。葦原の中ツ国の表現通りの地形で、一見阿蘇盆地に似ていて中央に山がなくて、広大な水田の適地に思われた。
 ここに高天原があったし、天の岩戸の伝承が残っていた高原である。更にここには天王の地名が4ヶ所もあって、現在も1ヶ所だけ残っている。ここの無形文化財の大宮踊りの名前が示す様に大宮すなはち天子の宮があった所である。この歌の文句も天子の子が躍るとなっている。
 ここが高天原だったと昭和3年に勝山中学校の教頭だった佐竹淳如氏が論文を書いた処不敬罪に問われ論文は戦後になってやっと発表された。この遺稿が出版されたのが昭和55年で、わたしはこれに興味を覚えた次第だ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  84ページより、転載

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2012.02.07

倭の五王(5)

倭の五王の本拠地は河内だった。この河内で最も有力な氏族は中臣である。これは新選氏姓録で証拠が得られた。この河内の一宮は枚岡神社で、この祭神は鎌足の先祖のアメノコヤネ命である。これも河内が中臣鎌足の本拠地だった証拠である。
 河内には式内社が113社もあった。式内社は学者が格式が高い筈の神社の50%が現在所在が分らない。こんな不思議な現象があってよいものだろうか。927年に式内社を制定した時の氏子は藤原氏からの幣帛料と称する仕送りがあった。しかし藤原氏が弱体化したので
仕送りが途絶えて四散したことだろう。
 式内社は約10社を除いては素性が全く分らない神である。この様な素性が分らない神を祀っていた氏子に藤原氏は軍資金を渡していた。これは鎌足が大化の改新を行う以前から行われていた。日本書紀で鎌足が神伯を固辞したとかいてあるのは、真実は神祇伯の実権を握っていたと解すべきである。日本書紀には真実の記述は無かったと考えてよい。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  83ページより、転載

私からの一言 ---倭の五王に関しては、田村氏は、何度も書かれています。今回は、5回でしたが、読み返されますと、解りますが、〝テキストブック日本史〟をはじめとて、他の歴史が間違っていると書いておられます。素人がいくら主張しても、倭の五王は、日本を征服した中国人だったという話は、日本人が納得しても、現在の中国政府と韓国の政府は認めないでしょう。
 中国と韓国と日本が、共通の場で、正しい歴史を考えて見ようとなりました。
倭の五王は、勿論、日本の天皇であり、宋の皇帝に、日本の天皇が、自分たちであることを認めて貰いに行って、認められたことになっています。その天皇の誰か判りませんが、
高句麗を攻めたことになっています。
 私には、よく判りませんが、「この碑は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である」ことになっています。
 どこで読んだか忘れましたか、高句麗に日本が攻めて来たことが書いてあるそうです。そんな馬鹿な事はない。日本は、この頃、字も無かった筈だ。それに対して、高句麗では、漢字が、使われていた証拠が、この碑です。総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっているそうです。
 この碑は、一部削られている箇所があって、その部分は、第二次大戦中、日本軍がせめて来た時に、日本に都合の悪いことは、削ったのだと書いてありました。

 こうなりますと、中身は問題ではなく、国の意地がかかっています。
 歴史は、いくら調べても真実は分らないような気がしています。

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2012.02.06

漢字資料23 末と廬

漢字資料23 末と廬   『字通』より転載。一部省略。

利用の目的。 魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。


指示---木の枝の末端。 その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。

意味
①すえ、こずえ、さき ②こな、しも、おわり、えだは  ③よわい、かいか、小さい  ④くず



声符は盧。
〔設文に「寄カリヤなり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕

意味
①かりや、ものかりや、いみのかりや  ②いおり、かりずまい  
③やどる、はたご  ④いえ、書斎などをいう  ⑤とのいの間、 宿直室

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2012.02.05

田村邦夫の部屋 開設

本日より、「田村邦夫の部屋」を開設します。私の【楽しい人生】では、「田村誠一氏に捧ぐ」のカテゴリーで、記事を読んで頂いています。
 田村邦夫氏は、田村誠一氏のご子息に当たられます。

 これまで、田村誠一氏のご著書やその他の資料を提供して頂くとともに、その内容を、【楽しい人生】にて公開することの許しを頂戴していました。もう、随分長くなりますが、田村邦夫氏は、歴史には、あまり、ご興味が無かったのか、歴史に関するお話をお聞きする機会は、ございませんでした。
 
2009.07.27 に
〔日本書紀のタイトルについて〕の御提案を頂きました。 素晴らしい考えで、驚きましたが、手いっぱいのため、私の考えは及びませずで、そのままになっていました。

 この部屋には、田村邦夫氏の考えられたことを納めたく思います。

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2012.02.04

倭の五王(4)

関東の稲荷山から鉄剣が出土し、これには百十五文字が刻まれていた。この鉄剣の作られた年代は辛亥で471年と解読されている。しかもこの鉄剣の主は「シキ宮のワカタケル」に仕えたと書かれている。これこそは古事記の河内の「志紀宮の大県主」で天皇の敵だ。
 九州熊本の江田船山の鉄剣の主も「シキ宮のワカタケル」に仕えたと刻まれていた。九州の挙点が筑紫でなくて熊本だったことは南宋と往来していた証拠である。更に鉄剣は中国の鉄を鍛えて作られ武器まで支給された。
 雄略天皇は長谷の朝倉宮におられたので、この天皇に仕えたのであればアサクラ宮のスメラミコトと刻むべきだ。倭王武と学者が断定した根拠は雄略天皇の本名が幼武とあって倭王武と、武の一字が共通だったことだけが理由ではなかった。しかし477年に倭王興が死んだので、雄略天皇の時代は倭王興であり、ワカタケルと呼ばれていた。天皇と倭王を比定する根拠が皆無の場合には、中国文献を日本史は優先的に採用すべきなのか。文部省の教科書の編集方針を伺いたいのである。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  82ページより、転載

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2012.02.02

倭の五王(3)

先入主を捨てて古事記の雄略天皇の記述を読んで欲しい。ここには河内の天皇の敵が、しかも天皇気取りでおったと明記されている。この人物を倭の五王の一人と考えてはなぜいけないのか。古事記を偽書にしたのは東大黒板博士達偽史グループの謀略だったのである。この詳細は本稿にも各所に示しておいた。古事記を正史とすれば藤原や中臣は天皇の敵だ。
 南宋があった時代は南北朝時代で、南宋は漢族の王朝で、北魏は鮮卑族の王朝である。この北魏のあとに隋の時代があって、同じく鮮卑族の王朝だった。隋を倒したのが唐であって従って漢族の王朝である。
 南宋に使者を派遣したのは天皇の敵の中臣だった。聖徳太子は中臣を倒すために隋に小野妹小を派遣した。隋書では聖徳太子の国書「日出ずる所の天子、書を日没する所の天子にいたす、つつがなきや」とあったので怒ったと書かれている。しかし、これは表向きで翌年小野妹子に同道して使者を遣わし、親善関係にあったことを行動で示していた。中国は単一民族でないことを念頭におくことだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  81ページより、転載

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