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2012.03.31

神話にすぎない日本書紀(1)

第19話 壬申の乱は日唐戦争  の付録と題して、「神話にすぎない日本書紀」が5ページありましたので、掲載します。


日本書紀の神代の本文は四分の一しか書いてない。残りの四分の三は「一書に曰く」の日本書紀独特の書き方である。これは他の本にはこの様にかかれているが、日本書紀の編集者は、この説に反対で、本文が正しいのだと主張したのだ。従って日本書紀を引用する時には本文に限られる。
 「一書に曰く」は日本書紀ではなく、全く別の本である。これをあたかも日本書紀に書かれていた様に、古代史の学者は全て誤認している。日本書紀も古事記も神話が書かれていると万人が信じている。しかし神話が書かれていたのは、日本書紀であって、古事記には神話は全く書かれてなかった。例えば大国主命の因幡の白兎の原文には、白兎もワニザメも登場して来ない。これを神話化したのは後世の学者である。
 古事記文学作品ではなくて史書である。従って原文に近い読下し文を参考にされることだ。これには日本古典文学大系等が好都合である。手ごろなのは角川文庫本で、これには読下し文と意訳文の両方が載せてある。

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2012.03.29

魏志倭人伝の謎解き II

はじめに 
『魏志倭人伝の謎解き II 』は、ブログ管理の私あてに、頂いた私信です。 これを参考にして、私の勉強を充実させてと思っていましたが、なかなか、進みませんので、掲載させていただくことにしました。 読者の皆さんで、発展させれる部分がありましたら、参考にしていただければと思います。
添付されていました地図は、最後に貼り付けました。 上の黄色に囲ったところが、末廬国です。 拡大できます。


この前の謎解きの続きです。 地図を添付しておりますが、この地図は最新情報を用いて説明するほうが理解して頂き易いと考えて、昭文社の中国道路地図(2010年版)の米子近辺を合成させていただきました。 今後のこともあり、歴史等も併せて楽しむのであれば購入をお勧めします。
前回、筆者が想定した末盧国の位置は、境港市の対岸にある日向浦、福浦と表示されている一帯です。 また、前回述べましたように「末盧国」が朝鮮半島から見て付けられた呼称としますと、魏志倭人伝における日本列島の起点は末盧国としても良いと考えます。 古代の地名は2地点を往き来する人に取っては、経由地情報を含まないほうが重要と考えます。 
魏志倭人伝では末盧国に続いて、東南陸行五百里到伊都国、という文章がありますが、今回は起点という考えにより伊都国を飛ばして次に出る文章、東南到奴国百里、を追いかけてみます。 添付した地図の南のほうに南部町と表記されていますが、すぐ左に倭(やまと)という地名があります。 こんな地名がまだ残っているのです。 この近辺は明治時代には大国村と呼ばれていました。 倭から西には青垣山も見つかります。 倭から東北すぐに会見(えみ)という地名があり、近くの三崎、諸木(みもろ)を東にたどりますと大山の中腹に大神山神社があるのです。 また、会見の辺りは明治時代には手間村となっており、この地図には表記されていませんが手間山の麓には赤猪岩神社もあります。 さらに地図の右上、淀江の近くに小波という地名がありますが、この辺りは明治時代には大和村(やまと)と呼ばれており、三輪神社、大神山神社(冬社)も残っています。 奴国は末盧国の東南百里ですのでこの辺り一帯が最適地です。 なお「奴」は華北弁では(ど)、華南弁では(ぬ)と発音されています。 「漢委奴国王」の奴国であり、日本列島で最古の国ではないでしょうか。 ついでになりますが、「金印偽造事件」幻冬舎新書という本が最近出版されており、95%偽造という結論を著者の三浦佑之氏は導いておられます。 古事記では、八上比売の物語の最後に、於高天原氷橡多迦斯理而居是奴也、と書かれており「奴」という土地を示しているのではないでしょうか。 古事記に書かれている神話が地名、神社名を辿ることにより奴国に結びつくように思いませんか。
 
問題:倭の文字が古事記には66回、日本書紀には181回、大和(やまと)の文字が古事記には0回、日本書紀には215回出ます。 ほとんど同時に出来た書物ですがどのように解釈すればいいのでしょうか。

「img001shou.jpg」をダウンロード

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2012.03.24

四塚山古墳群

少し 古い記事ですが、共同ニュースの記事です。

http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011080501000418.html (共同ニュース)
 島根3 件県益田市の四塚山古墳群から出土した青銅製の鏡「三角縁神獣鏡3 件」(4世紀)が、東海や近畿地方で出土したものと同じ鋳型で作られた鏡だったことが5日までに、島根3 件大の岩本崇准教授(考古学)の研究で分かった。
 岩本准教授は「近畿から東海地方だった鏡の分布地域が本州の西端近くまで及ぶことが明らかになり、大和政権が広い範囲の地域と交流を持っていたことが分かる」としている。
 岩本准教授によると、同じ鋳型で作られた鏡と分かったのは、1972年に出土した直径約20センチの三角縁鏡の一部。 写真あり


ブログ管理人より
この記事の文面では、「三角縁神獣鏡3 件」は大和政権と関係があるような文面ですが、「三角縁神獣鏡」は、中国人、特に魏国の人が支配していた所から出土した物ではないでしょうか。中国では出土していないと云われていますから、日本にやって来た中国人が作った銅鏡ではと考えています。
 出雲の国は、特に、秦王国と隋書に書かれている国です。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1174.html

このことから、出雲は、古くから、中国人が支配する土地でしたが、三角縁神獣鏡の出土数は少ないです。即ち、魏の国の人は、入り込むことは困難であったことが分かります。どちらかと云いますと、九州に上陸した呉の国の人が作った三角縁神獣鏡ではなかったでしょうか。
 同氾鏡は、東之宮古墳(愛知県)、円満寺山古墳(岐阜県)、南原古墳(京都府)、ヘボソ塚古墳 で見つかっています。これらの古墳に埋葬された人は、絹を介して、同じ仲間だったと思います。

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2012.03.20

建国発祥の地  結言

日本書紀は藤原一味が天皇一族や大国主命を抹殺するために書かれた偽書である。現古事記は日本書紀の記述に合致する様藤原一味によって改ざんされた。従って日本書紀で神話化された部分は、現古事記でも不可解な記述になっている。古事記にしか書かれてない部分だけは改ざんを免がれている。
 藤原一味は古事記を偽書化するために、古事記に登場する全ての地名に、偽証目的の地名を九州や大和等に命名していた。又神名も古事記とは別の日本書紀式にして、これを伯耆の祭神に押付けていた。
 本居宣長は35年も研究した結果古事記が正しいとした。しかし明治以降もとうだいの黒坂博士グループは日本書紀を国史の基本とした。このために地名かくしや不敬罪の暗黒政治を継続して行った。戦後の歴史学者は、はたして日本書紀を一読したのだろうか。一読すれば偽書だと立ち所に分る筈だ。この偽書を証拠にして現存する仁徳天皇陵を大仙陵と勝手に地名変更する無節操な学者まで現れた。異議があればご教示願いたいのである。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  101ページより、転載

私より一言----〔建国発祥の地、伯耆〕は如何でしたか。
 このようなことを言われた歴史家は居られたのでしょうか。現在でも、居られるのでしょうか。学会の事は知りませんが、どうでしょう。
 昨日、大阪の紀伊国屋に行ってきました。さすが、紀伊国屋です。人も多いし、本の数も多いです。我が家の近くの本屋さんですと、歴史の本は殆どありません。
 
 では、図書館はどうかと云いますと、新しい歴史関連の本はありません。これまでに紹介してきた『第19話 壬申の乱は日唐戦争』は、田村氏が昭和59年11月に発刊されたものです。西暦は、1984年です。27年も前に発刊されたことになります。
  田村氏の〔建国発祥の地、伯耆〕の研究は、このとき、既に完成していたと思っています。
 〔建国発祥の地、伯耆〕だけではなく、瓊々杵命は、鳥取の大栄町の高千穂に降臨したことも唱えられました。これこそ、同じく、歴史界からは、無視されました。
 今、私は、このことが本当かどうか、検証しています。
 どの様に考えたかは、http://skeikas.iza.ne.jp/ に書いています。天皇家の人たちが、どのように活躍したかをです。

 『第19話 壬申の乱は日唐戦争』とは関係ありませんが、付録と題して、「神話にすぎない日本書紀」を6ページにわたって書いておられますから、引き続き、連載します。

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2012.03.17

建国発祥の地、伯耆(17)

隋書が出雲の国造が中国系だと証言し、古事記は出雲と武蔵の国造の先祖がタケヒナドリだと注意を促していた。この出雲から最近銅剣が350本出土した。この銅剣は九州と四国の瀬戸内海沿岸から密集して出土する。
 この出土地が141頁に示した割竹・舟形石棺の出土地と一致する。むしろ出雲からの出土が全くなかったら矛盾していた。出雲の特殊性は解けたようである。
 伯耆から神武天皇が大和に前進基地を築いて、伯耆の官軍が弱体化した。この時に乗じて出雲の国造が、57年漢に使者を派遣した。そして漢の皇帝から奴国占領を委託され「韓委奴国王」の金印までも授与された。
 しかしこの使者が乗った船は難破して、金印は福岡の志賀島の岩の下に隠された。安来や米子から漢の銅鏡が出土することは、出雲から奴国に侵略が行われた証拠である。
 古代史は魏志倭人伝が証拠の海南島系倭人と中国系の中臣との対立が分れば謎は全く残らない。そして原古事記には証拠が残らず見付かり日本書紀の本文には真実は皆無だった。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  100ページより、転載

141頁に示した割竹・舟形石棺の出土地
59565421


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2012.03.15

建国発祥の地、伯耆(16)

藤原が制定した式内社は天皇の味方の大国主命を祀った出雲大社を包囲して187社もあった。しかし、隣国の伯耆には6社しかなかった。この伯耆から大和に通じる伯耆街道の関所が美作の湯原町社にあった。この集落に7社も式内社も式内社を布陣していた。
 伊勢神宮がある渡会郡と西隣りの多気郡には式内社は併せて110社もあった。しかし、この南は新宮にいたるまで式内社は皆無である。
 これらの事実は出雲が天皇反対勢力の重要な挙点だった証拠である。聖徳太子が戦費族の王朝の隋に援助を求めるために607年に小野妹子を派遣した。この翌年に隋の使者と同道して帰朝記録が隋書にある。
 「前文略、又筑紫国に至り、又東して秦王国に至る。その人華夏(中国)に同じ。夷洲となすも疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。筑紫より以東は皆倭に付庸す」と書かれ上陸港が日向港(境港)なら疑問が解ける。秦王国とは出雲で国造は中国系だった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  99ページより、転載


私から一言—田村氏が書かれたこの記事は、意味がお分かりでしょうか。
私が以前に書いた記事は次のものがあります。出雲は、中国で500年続いた秦の国の人たちが、紀元前にやって来た人たちが、築いた国です。それを発見した人は、隋の国の人たちです。「筑紫より東は倭に属しているのに出雲は夷洲」だと書き残しました。ここにやって来た中国人は、直ぐに、自分たちと同胞だと思ったのでしょう。

出雲は夷洲 
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1174.html

夷洲はどこにあったか
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1175.html

秦王国は出雲だった その1
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1176.html

秦王国は出雲だった その2
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1180.html

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2012.03.12

建国発祥の地、伯耆(15)

スサノオはイザナギ命から倉吉平野を治めと命令されたが不服で、高天原の天照大御神を奇襲した。しかしこれは事前に感ずかれて不成功に終った。この時神々のグループから除外されて根の国堅州に住んでいた。
 大国主命は庶兄弟からの迫害が下火になるとスサノオの許を
訪れ、ここで女のスセリ姫と恋仲になった。しかしスサノオは結婚を許さないので、二人はカケ落した。スサノオはこれに気付いて追跡したが追付けず、あきらめて二人の結婚を認め、スサノオが治めていた根の国(西伯郡)と夜見国(日野郡)を国譲りした。この時この地域が奴国と命名されていた。魏志倭人伝に登場する奴国は伯耆の西部のことだった。
 この時スサノオが大国主命の庶兄弟を伯岐から国外追放を命令していた。出雲が秦王国と呼ばれる様になったのは、この時追放された大国主命の庶兄弟で高句麗人だった。
 この国譲りの事実は大国主命とスセリ姫を祀った板井原神社が日野町にあり、これと唐王神社の由緒が証拠である。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  98ページより、転載

私からの資料
板井原神社
http://asilka.blog61.fc2.com/?q=%C8%C4%B0%E6%B8%B6%BF%C0%BC%D2

唐王神社 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-331.html

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2012.03.10

魏志倭人伝の謎解き   執筆 田村邦夫

魏志倭人伝を理解するためには、編者:陳寿(233~297)の生育時の環境だけでなく時代の変化も知る必要があります。 さらに魏書東夷伝に著わされている文章の内容は、著された順序に従って陳寿の頭の中に鮮明な記憶として残っていると考えねばなりません。

1.まず陳寿の生育時の環境ですが、蜀で生まれ最後は西晋で終えたということは華北人であり、華北弁(漢音)をしゃべっており、魏の度量衡に慣れ親しんでいたと考える必要があります。 次に時代の変化ですが、魏(220~265、洛陽)、蜀(221~263、成都)、呉(222~280、建業)、の三国は著作完成時には全て滅亡していました。 魏が滅亡して20年後ぐらいに三国志は著わされていますので、前時代のことは明瞭に記憶しているでしょう。 風俗、地理の部分はほぼ正確だと思われますが、魏と倭の外交について述べている部分には陳寿及び報告者の誤解や偽装報告も含まれていると思われます。 呉に対しては、華南人の国、即ち華南弁(呉音)でしゃべっていることでもあり、魏の敵国として好悪の感情もあったでしょう。 魏の滅んだ理由も重要ですが、滅亡に向かう10年程前から30年間位は、陳寿が生活をしていた地域も相当荒廃していたと思われます。

2.上記前提の下に謎解きを進めてみます。 魏書東夷伝には高句麗伝、馬韓伝などの後に倭人伝が書かれています。 即ち、陳寿の頭の中では、魏志倭人伝における文章の内容や用語の用法も、高句麗伝等に繋がっていると考える必要があります。 先ず高句麗伝をご覧頂きますと、高句麗在遼東之東千里、という文章が最初に出てきます。 この文章を解読するためには魏の距離単位、千里=約430Kmを採用する必要があります。 即ち、陳寿が慣れ親しんだ魏の距離単位を使っているわけです。 魏志倭人伝の謎解きをするためには、文章中において何処の距離単位を採用しているかを知ることは重要です。 このことを知った上で、倭人伝の初めの部分に出てくる、到其北岸狗邪韓国七千余里、という文章の解読を要求されるわけです。 朝鮮半島の地理に対しては、陳寿は情報を持っておらず、帯方郡で生活をしている報告者の述べたままを転記していると考えれば理解できます。 即ち、報告者が現地で使用している朝鮮半島での当時の距離単位は、千里=約75Kmとなります。 続けて、報告者は対馬を対海国、壱岐を一大国と呼び、面積まですらすらと述べられるぐらいに詳しい情報を持っているのが解ります。 ところが次の到着地点である末盧国に対して、距離は解っているのですが、方角と面積の情報を持っていないことになります。 もし、壱岐よりすぐ南に見えている松浦を、末盧国と決めるなら、方角を書かなかった理由が必要になります。 さらに、又渡一海千余里至末盧国、と記されていますが、壱岐より松浦までは朝鮮半島の距離単位で五百里と言ってもいい位の距離です。 ということは、この報告者も育ちは華北人とすれば、詳しく知っている領域を外れると慣れ親しんだ魏の距離単位を採用してしまうわけです。 即ち、末盧国は、壱岐から千里=約430Kmの所に見つける必要があります。 又、以降に記されている距離数字も、魏の距離単位を採用していると考えなければなりません。 筆者は末盧国の候補地として現在の境港の対岸を選んでみました。 現地は岩浜であり、魏志倭人伝に書かれている土地を説明する文章、浜山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之、にぴったりした山影にある風の影響を受けにくい良港です。 方角が書かれていないのは報告者が知らなかったからです。 面白いのは、倭人伝の中程に書かれている、参問倭地絶在海中中洲島之上或絶或連周旋可五千余里、という表現です。 陳寿も、日本列島の本州は島であり一周が2000Km余りと知っていたということです。

3.次は末盧国の名称について検討したいと思います。 馬韓伝には末盧国のように盧の文字の付く国名、速盧不斯国、莫盧国、離牟盧国、狗盧国、駟盧国、萬盧国、捷盧国、牟盧卑離国、が記されています。 弁辰伝には、瀆盧国、斯盧国が出てきます。 陳寿もしくは報告者は何らかの意図を持って盧の字を使っていると考えられないでしょうか。 日本列島における地名、人名には漢字に意味を持たせない呉音表記の文字が引き当てられています。 倭人は文字を使用していなかったのであり、これほど普遍的に呉音表記の漢字が使われているということは、地名、人名の文字表記を必要とした非常に多くの華南弁をしゃべる華南人(呉人、越人、苗族等)が日本列島に来ていたということです。 彼らは一体何をしていたのでしょうか。 また、朝鮮半島には呉音表記の地名は残っているのでしょうか。 ここで末盧国に戻りますと「末」の字は2音で発声されます。 ということは、朝鮮半島からみて命名された、もしくは報告者が情報として知っていた「末盧国」であると考えられます。 斯盧国と組になった末盧国と考えられないでしょうか。 斯盧国から船を出しますと容易に末盧国に到着できるのです。 

この後、邪馬台国に行き着くわけですが、「末盧国」がここにあったとして皆様でルートを考えてみてください。

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2012.03.09

建国発祥の地、伯耆(14)

中山王語句に住んでいたのは騎馬民族で白狄人だった。近江八幡市に多賀の近くに白王の地名があった謎が解けた。この民族がわが国に稲作技術をもたらしたのである。青森の亀ヶ岡や是川の遺跡の出土品も白狄人もものだった。天がつく地名は例えば天王等は天皇家の先祖に縁がある地名であり、福が付く地名は倭人特有と考えてよかった。
 このイザナギ命の後継者のトミヒコを、中国の楚から渡来したニギハヤヒが自分は天照大御神の子孫だと欺して支配権を握った。このために神武天皇が征伐に立上った。この時白狄人は今まで秋のみのりを愉しんで鳴らしていた銅鐸を地中に埋めて関東,東北に大民族移動を再び行ったのである。この人達が後世に蝦夷と呼ばれることになった。
 神武天皇を祀った神社が139頁に示す様に全国分布することは全国統一の証拠である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  97ページより、転載

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2012.03.07

建国発祥の地、伯耆(13)

中山王国は紀元前4世紀に滅ぼされた国で、中国の北京の南にあった。この王墓が最近発掘され、わが国で半年間も展示された。この展示品は現代人でも驚く様な高度の工芸品ばかりで青銅器、漆器、黒陶器、玉等が含まれていた。この中に偏鐘が14ヶ、つり下げられて楽器として音色までも聞かせてくれた。これは正しく銅鐸の原形なのに、学者はこの事実を黙殺して国民に知らせ様とはしないのである。
 我が国でも7音階の二倍にあたる14ヶの組で近江八幡市の西隣りの野洲町と神戸市の桜塚で出土している。中国では四川省でも同数の14ヶ出土していた。この銅鐸は中部地方以西全域で出土している。鳥取県下でも大阪湾沿岸と共通の型で作ったものまで出土し現在11ヶを数えている。この鳥取県の出土地から遠くても数粁以内にイザナギ、イザナミ命を祀った神社が例外なしに見付かった。 
 又イザナギ、イザナミ命を祀った神社は〝神社名鑑〟で140頁に示す様に全国に分布していた。これは偶像ではない証拠である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  96ページより、転載


私からの一言---〔140頁に示す様に全国に分布〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page154.html
は、見にくいので、私のブログに転載しました。県別の詳細を掲載しようとしましたが、断念しています。
 
 以下のリンク先は、すべて、私のブログです。眺めただけでは、よく判りませんが、この様に、一つのデータとして、まとめ、そして、現地に行きますと、いろいろの事が浮かんできます。
 
鳥取県の白狄人を祀った神社と銅鐸出土数
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page693.html

銅鐸の全国分布
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page385.html

鳥取県の古墳・銅剣・銅鐸分布図
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-date-20090121.html

鳥取県出土の銅鐸
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page670.html

静岡県銅鐸出土地
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page659.html

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2012.03.05

建国発祥の地、伯耆(12)

ヒルゼン高天原に紀元前2世紀に、中国の中山王国からイザナギ、イザナミ命が亡命して来られた。御所を中蒜山の中腹に出島を作った場所に建てられた。これがオノコロ島と書かれている。ココデイザナミ命が水蛭子やなはち早産児を産まれたので、この山は明治の時代までは蛭山と書かれていた。この地名が大正の始めに難読の蒜山に改められた。
 イザナミ命は二度目も難産で結局亡くなられ古事記では伯耆と出雲の国境の比婆山に葬られ、この地名も指摘された場所に国土地理院の地図に載せてある。しかしこの地名も偽証目的のが備後と出雲の国境にあって、国定公園として有名だ。
 イザナギ命は天照大御神に高天原、月読命に夜久野(丹波)、スサノオには(梅のほとりの平野の意味で倉吉平野)を治めよと命令されて近江の多賀に移った。これは近江八幡市に多賀、宮内、白王、王ヶ浜の地名が密集した地点である。この宮内とは御所のとだか、この地名だけが戦前の地図に抹消され、現在の地図には載せてあった。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  95ページより、転載

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2012.03.03

建国発祥の地、伯耆(11)

古事記は天皇が極秘で編集させたが、藤原に没収され、これを「一書に曰く」に内容を改ざんして加えていた。これは古事記をを見ないでは興る筈がないダブルミスが証拠で、詳細は前著に述べておいた。
 日本書紀の神代の本文は四分の一に過ぎない。この本文を藤原不比等のホンネとして読むことである。記紀は合成語が古代史を謎にしたので、両史書には共通事項は皆無である。
 藤原氏は古事記を没収して、これに登場する全ての伯耆の地名について、九州や大和等に替玉を作っていた。これは地理的、年代的に矛盾したものばかりである。
 古事記の解説者はこの偽装工作に気付かなかったために、古事記には矛盾に充ちた文学作品と考える外なくなった。完全に藤原が仕掛けたワナに陥入れられたのである。
 藤原は自分達の本拠地が九州だったために天孫降臨の場所を筑紫の襲の高千穂峯にした。これを九州と誰でもが信じるが、ここにはそれらしき遺跡は見付かる筈もなかった。ここには都の条件は皆無である。

第19話 壬申の乱は日唐戦争  94ページより、転載

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