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2012.04.29

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(1)

戦後の歴史教育は日教組の謀略におどらされた中国偏向の学者が古代の応神天皇以前の天皇を抹殺している。
 仁徳天皇陵をも抹殺して、歴史的遺産の地名まで大仙陵と改めさせたのが一例である。
  雄略天皇は中国の南宋の皇帝に忠節を尽くしたと教えている。これが中国偏向であり、民族の誇りを失わせる歴史教育の実態だ。
 邪馬台国九州説はこれよりも240年代に卑弥呼が魏の皇帝から親任され「親魏倭王」になって、日本を治めたとする中国偏向の学説である。これは全て間違いだった。
 鎌足を偉人に仕立てたのは明治以来日本書紀を信奉して来た歴史学者グループの仕業だった。この鎌足は宋や唐から武器まで供給されていた。中国のゲリラグループのボスで、クーデターを起こして大化の改新をやった。
 鎌足の次男不比等が日本書紀なる欺書を編集して、貴族階級を中国偏向の洗脳を行った。
 藤原の占領行政は天皇をロボット化していたのである。本居宣長だけが古事記を
史書にせよと述べ、これが正しかったのである。


第17話 古事記が解いた古代史 9ページより転載
  3ページから9ページの間には、目次と地図があります。

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2012.04.26

第17話 古事記が解いた古代史 まえがき

前書きのまえがきを書きます。

第17話 古事記が解いた古代史は 17話とあります。この前に16冊出版されたことになります。 前回までは19話を掲載しました。
 11話、14話~18話もあるのですが、所持していません。 と云う次第で、今回の第17話が最終になります。
 
第17話は、昭和58年8月15日 発行です。ページ数は、255ページです。
例によって、片手の指一本でしか、入力をようしませんので、一ページずつ掲載します。

第12話~16話は、昭和57年度に発行されています。調べられた範囲は、広く、文章にされたものは、膨大なものです。考えながら、本の形にされ、現地に出かけて、考えられた様子が判ります。その為、途中で訂正されてある部分もあります。

少し、以前の12話は次の所から始めています。読んでおられない方は、読んでいただければと思います。

第十二話を始める前に
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/03/post-d7cd.html

以下、田村誠一氏の〔まえがき〕です。

 三年前に生れて始めて古事記を手に入れ、難しいオトギ話の様な意訳文を読んだときには、これがまさか歴史の本とは思えなかった。
 しかし地図で古事記にでてくる地名を国土地理院の地図で探している内に意外なことに気付いたのである。これは5万分の1でないと役に立たない。大字とか小字は古代に誰が地名をつけたかが愉しみになる。
 かくして遂に古事記に登場する全地名が、従来の全く物理的に不自然な所ではなくて、矛盾を生じない地点に見付かった。
 次に昭和9年に出版された〝鳥取県神社誌〟を古本屋で入手して祭神毎の分布を調べ出した所、上記の地名の所にこれも全て、祀られるべき神が祭られていた。
 この調査を全国に拡げるべく〝式内社の研究〟を手に入れて、全く意外なことに今度は古事記にない神許り登場し、天皇一族を祀った神社が全く除外されて驚かされたのである。
 この結論が古事記は原文は正史で、故意か否か意訳文は全く歴史家等遊離していた。国民に是非この事実を知っていただきたいのだ。

第17話 古事記が解いた古代史 3ページより転載


私からの一言---〝鳥取県神社誌〟を古本屋で入手して祭神毎の分布を調べ出した 
これは、本当です。それを元にして本に書いておられるからです。
『鳥取県神社誌』は、読むだけでも大変です。何故かと云いますと、20程の神社を読めば分かりますが、私の場合は全部忘れてしまいます。
 神社毎のデータは、【おかしな世の中】http://asilka.blog61.fc2.com/ に掲載しています。掲載を始めてからどれほどになるでしょう。まだまだ、残っています。せめて、〝鳥取県神社誌〟だけは、掲載するつもりですが、私の命の方が、あやしくなってきました。

〝式内社の研究〟を手に入れて、全く意外なことに
 この部分も本当です。

 【式内社と祭神】に掲載しています。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

式内社は、全部で3000少ししかありませんから、祭神ぐらいを並べた一覧表は直ぐに完成と思いましたが、現在中断しています。ここに現れた事実を無視して歴史は語ることは出来ません。
 ご自分で完成させて下さい。

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2012.04.24

「卑弥呼の宮殿」エリアの南端か 奈良・纒向遺跡 大型建物南側で溝出土

「卑弥呼の宮殿」エリアの南端か 奈良・纒向遺跡 大型建物南側で溝出土
このタイトルは、産経新聞が、2月17日に掲載した記事のタイトルです。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/546181/

歴史に興味のある方ですと、このようなニュースを見ますと、直ぐに行きたくなり、現地説明会には、長蛇の列が作られることになります。

記事を少し、転載して見ます。
 邪馬台国の最有力候補地とされる「纒向(まきむく)遺跡」(奈良県桜井市)で、「女王卑弥呼(ひみこ)の宮殿」との指摘もある大型建物跡(3世紀前半)の南側から溝が出土し、市教委が16日、発表した。建物跡南側ではこれまで柵跡も確認されているが、今回見つかった溝はさらに南側にあり、宮殿エリア南端の境界線だった可能性もある。

 (中略)

現地説明会は18日午前10時~午後3時。JR桜井線巻向駅の西約100メートル。雨天時は19日に延期。問い合わせは市立埋蔵文化財センター

 この報道から、この報道を発表したのは、桜井市教育委員会であることが判ります。
ただ、新聞掲載が、2月17日で、現地説明会は18日とは、新聞を読んでも、説明会に行くことは出来ない方は多かったと思います。特に、遠方の方は、無理だったと思います。
 ところが、主催者は市立埋蔵文化財センターであることが判ります。

 私は、読売新聞を読んでいますが、このニュースは知りませんでした。しかし、後日、行く機会があって、見てきました。JR桜井線巻向駅の西に在ります。この駅は、無人駅ですから、駅に入って、前に拡がる草の生えている空き地がそうです。
 この日は、「卑弥呼の宮殿」の周りの遺跡を一日掛けて回ってきました。

纒向矢塚古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、箸墓古墳、茅原狐塚古墳、慶運寺裏古墳などです。

 この辺りには、邪馬台国があったような雰囲気はなかった様に思いました。しかし、私の様な考えは、間違っていたことが判りました。

2012年4月5日の読売新聞の夕刊に掲載されたものです。

 【纒向研究拠点が開所】
 邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究する「桜井市纒向学研究センター」が同市東田(ひがいだ)で開所し、5日、式典が行われた。
同センターを拠点に発掘調査を進め、遺物の展示、大型建物跡の復元などを行う。
 大和王権発祥地の地ともされる同遺跡は3~4世紀の都市とされ、2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土。しかし調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロのうちまだ5%で、同センターは、調査範囲の拡大にも取り組む。  17行  4月5日 夕刊

全部で、17行の記事でした。
他の新聞社は、どの様に報道しているかと、調べて見ました。朝日新聞、産経新聞などです。
 一番、報道積極的なのが、産経新聞であることが判ります。写真を組み込んであるものは、報道したい意欲があることになります。

こんなことを考えていますと、以前は、どの様に報道されていたのかを知りたくなり、ブログのトップの「卑弥呼の宮殿」エリアの南端か 奈良・纒向遺跡 大型建物南側で溝出土の記事が見付かりました。

2月17日の報道は、この様に眺めてきますと、この時点で、【纒向研究拠点が開所】の計画が決まっていたことが判ります。

 2月17日の報道の次の日に、現地説明会が行われた意味が判るように思いました。

外に、見付かったものは

纏向遺跡は邪馬台国なのだろうか?/やまとの謎(26)
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-6a24.html
 この記事を読みますと、NHKも認めていることが判ります。
 どんどん、調べていきますと、「卑弥呼の宮殿」の事は、2008年にも語られています。
 私は、卑弥呼は岡山県と京都市福知山の間を行き来していたと考えていましたから、あまり「卑弥呼の宮殿」には興味がありませんでした。

 でも、今回の報道を見ますと、「卑弥呼の宮殿」のことは、略、確定したことになり、桜井市の事業としてスタートしたことが判ります。

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2012.04.23

伊都国

華南弁(呉音)表記    

華南弁表記が日本でどれ程行き渡っているのかを知っていただくために、まず都府県名を調べてみました。 最初の訓みが華南弁、続いて華北弁(漢音)を表します。

群 ぐん :くん  馬 ま  :ば   京 きょう:けい  岐 ぎ  :き
賀 が  :か   都 つ  :と   兵 ひょう:へい  和 わ  :か
奈 な  :だ   

ここでは華南弁、華北弁とも同じ訓みの漢字は省略させていただきました。 福島、群馬、東京、神奈川、福井、岐阜、愛知、滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山、徳島、高知、福岡、佐賀、には華南弁、華北弁の訓みが含まれていますが、以上のうち京都の「都」だけが華北弁表記です。 ここには記されていない青森、大阪等の府県名と、上記都府県名に含まれる、島,神、川、井、良、山、岡、等の残りの漢字は全て訓読みで表記されています。 
続いて他の重要と思われる漢字も拾ってみました。 以下でも、三,四、五、火、水等の華南弁、華北弁共通の訓みの漢字は省略させていただきました。

一 いち :いつ   二 に  :じ    六 ろく :りく   七 しち :しつ 
八 はち :はつ   九 く  :きゅう  十 じゅう:しゅう  百 ひゃく:はく
万 まん :ばん   上 じょう:しょう  下 げ  :か    右 う  :ゆう
内 ない :だい   外 げ  :がい  南 なん :だん  西 さい :せい 
赤 しゃく:せき   黄 おう :こう   青 しょう:せい   緑 ろく :りょく
白 びゃく:はく   父 ぶ  :ふ   母 も  :ぼ    兄 きょう:けい
弟 だい :てい   妹 まい :ばい  日 にち :じつ  月 がち :げつ
木 もく :ぼく    金 こん :きん  土 ど  :と    年 ねん :でん 
時 じ  :し     神 じん :しん  社 じゃ :しゃ   寺 じ  :し 
祭 さい :せい   仏 ぶつ :ふつ  教 きょう:こう   宗 しゅう:そう
手 しゅ :しゅう  足 そく :しょく   目 もく :ぼく   耳 に  :じ 
鼻 び  :ひ    口 く  :こう    頭 づ  :とう   毛 もう :ぼう
米 まい :べい  豆 づ  :とう    麻 ま  :ば    田 でん :てん


まだまだ有りますが華南弁の発音で表記される漢字の方が、華北弁の発音で表記される漢字よりも、生活に密着して使用されているのをご確認ください。 元々日本列島に住んでいた人たちだけでは、これ程までに華南弁が行き渡るとは思われません。 いつの時代かに多くの華南弁を話し言葉とする人々が、日本列島に到来したと考えると説明は簡単です。
 なお、朝鮮半島では 神社は(しんしゃ)、○○寺は(○○さ)、地図は(ちと)と発音されるように華北弁がより行き渡っていたのではないでしょうか。

参考までに平仮名あいうえおの漢字語源も記しておきます。
(安 あん:あん)(以 い:い)(宇 う:う)(衣 え:い)(於 お:よ)
(加 か:か)(幾 き:き)(久 く:きゅう)(計 け:けい)(己 こ:き)
(左 さ:さ)(之 し:し)(寸 すん:そん)(世 せ:せい)(曽 ぞう:そう)
(太 たい:たい)(知 ち:ち)(川 せん:せん)(天 てん:てん)(止 し:し)
(奈 な:だ)(仁 にん:じん)(奴 ぬ:ど)(祢 ねい:でい)(乃 ない:だい)
(波 は:は)(比 び:ひ)(不 ふ:ふ)(部 ぶ:ほ)(保 ほ:ほう)
(末 まつ:ばつ)(美 み:び)(武 む:ぶ)(女 にょ:じょ)(毛 もう:ぼう)
(也 や:や )(由 ゆ:ゆう)(与 よ:よ)(良 ろう:りょう)(利 り:り)
(留 る:りゅう)(礼 らい:れい)(呂 ろ:りょ)(和 わ:か)(遠 おん:えん)


如何でしたか。 ここで魏志倭人伝に記されている伊都国に移りたいと思います。 その前に前回に問題として取り上げた(やまと)の漢字表記としての、「日本」と「倭」について気が付いたことを記しておきます。 日本書紀、巻第一、第四段に初めて 廼生大日本 日本此云耶痲謄下皆效此 豊秋津洲 と振り仮名が出てきて、「日本」を(やまと)と云うように指示しています。 ということは、当時、「日本」は新しく導入しようとした国名であり、書物を読む人々にとっても、振り仮名を必要とする文字であったということです。 古事記には「日本」表記が無くて、日本書紀には200回以上見出される理由もはっきりします。 さらに男性の名前には日本が用いられ(例:神日本磐余彦天皇)、女性の名前には倭が用いられている(例:倭迹迹日百襲姫命)ように思います。 日本書紀もやまと書紀と呼ばれていたのではないでしょうか。 また、巻第三には 倭国磯城邑、曰虚空見日本国矣 と出てきますが、ここでも小さな領域の「倭」と、大きな領域の「日本」を使い分けているように思われます。

日本書紀、巻第一、第六段には 臂著稜威之高鞆 稜威此云伊都 と振り仮名があり、稜威を(伊都)と読むように指示しています。 さらに読み下し分では(伊都)を(いつ)と読んでいます。 日本書紀、巻第六では 意富加羅国到干穴門時其国有人名伊都々比古 と書かれており伊都々比古を(いづつひこ)と読み下されています。 日本書紀、巻第八に於いては、筑紫伊覩県主祖五十迹手 と出ており「都」の字は使われておりません。 即ち日本書紀においても「都」は(つ)と読まれているわけです。 伊都国を(いとこく)と読むのであれば、帯方郡の連絡者が命名した地名と考えるべきです。 しかも都の意味を持たせていると思います。 日本列島では○○国の訓みは、(○○のくに)となり、(生まれはどちらのくに?)という風にも使えるはずです。 邪馬台国を(やまたいのくに)とか(やまたいの生まれ)とか言えますか。 日本では多くの場合、国は郡を意味しているようです。 このような理由により、伊都国は(いつのくに)と読むべきです。 現在の地名で当てはまるのは出石とか舞鶴ではないでしょうか。 出石は伊都志と書かれる場合があります。 どちらでも魏志倭人伝の謎解きIに述べた末盧国の日向より東南に歩き始めて五百里余(約200Km)です。 もし伊都国という地名が帯方郡よりの報告者の命名であれば、大江山の近傍を当時は伊勢(現在は元伊勢)と呼ばれていたことでもあり適合します。

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2012.04.16

神話にすぎない日本書紀(6)

原古事記を参考にして日本書紀が書かれ、日本書紀に合わせる様に現古事記は改ざんされた。従って現古事記と日本書紀との共通の事項に限って、現古事記に神話的要素が見付かる。 反対に原古事記にしか書かれてない事項は改ざんを免れた。例えば因幡の白兎は神話には原文はなっておらない。神武天皇の皇后選びも証拠が全て伯耆に見付かって、既に述べた様に狭井河の注に改ざんのあとが見付かった。
 これからは原古事記が如何書かれていたかが研究課題である。古事記にはもともと神話はかかれてなかったとして、史書として見直すべきである。例えば「伊予の国を愛比売という」と書かれておれば、ここの国造が愛比売と考えてよい。「次に津島を生みたまひき、、またの名を天の狭手依比売」とあれば、天の狭手依比売が対馬を平定したと考えることだ。隠岐の三子の島を生んだとは、隠岐の島後が本拠地であって、後に島前の三つの島を征服したと考えればよい。
 原古事記には神話は全く無かったが、現古事記で八岐の大蛇の神話が発生したのだった。


私より一言----神話にすぎない日本書紀のシリーズは、6回で終わりです。
上の文章を納得される方は、ゼロだと思います。

 どうして、ゼロかと云いますと、どの部分をとっても、理解困難だからと思います。田村氏は、研究されたことを書籍にされたのではありません。本に書きながら、日本中を走りながら、考え、考えながら、日本中を走り、ご自分の考えたことを本の形にされました。

 書いてあることは、不思議なことに、全部正しい様な気がしています。
 このような歴史の流れの中で、日本書紀は、無理矢理、神話仕立てにされた本であることを述べておられます。

 藤原不比等は、手に出来る物は、全部手に入れたと考えています。
手に入れることが出来なかったものは、自分の出自ではなかったかと考えています。
 誰からも後ろ指を指されないほど、自分の出自を完成させたのが、日本書紀だったのではないかと。

 完成したのが、720年です。 その720年に人生を閉じました。 

しばらく、休んでから、田村誠一氏の最後の一冊を紹介したいと思います。

『古事記が解いた古代史』です。

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2012.04.13

神話にすぎない日本書紀(5)

喪山が伯耆の何所にあるかは、国土地理院の米子の地図を拡げて頂きたい。溝口町に御墓原の地名があり、これは原とあるが、現地を訪れば山である。御墓原の御は御所の御と同じ意味で、貴族の墓所である。
 この御墓原から流れ出した河は会見を流れ「伯耆の会見の河上の御墓原」こそは天若日子を葬られた所であった。現古事記は日本書紀に合わせて改ざんされ、日本書紀は原古事記を没収して参考にして書かれたと考えてよくなった。この御墓原はイザナミ命がもがりにされた場所だった。これは前著に証拠が示されている。又日子穂穂出見命が葬られた所だと古事記に書かれている。
 倉吉平定が出来て、奴国の大国主命と国譲りの交渉がまとまる、古事記では「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケ」に都を移した。日本書紀では、「日向の襲の高千穂峯」に降ったと書かれ、これは明かに九州である。原古事記では、「木尽しの日向の高千穂」と書かれていた筈だ。木が生えてない地点が「尽し」と考えればよい。これが筑紫に改ざんされた。


私から一言---このタイトルは間違っていますね。日本書紀には神話が書いてあるどころか、嘘が多いですね。

今、日本史 五色塚古墳はイザナギのお墓 イザナミのお墓(90)目印-日御碕(72)  出石
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2650105/
において、出石は、北緯35度27分の上にあることを確認しています。
この線上にある遺跡は、全部天皇に関する遺跡で、古代の人は、緯度を測量する技術を持っていただけではなく、徹底的に、拘って、寺院や墓地、宮城を造り、城山という山を造成し、基準としていました。

 一日に、40kmは、移動したと思われますが、日本の地図は、身体で覚えて活発に移動していたと想像しています。
 出石の先は、天座と皇大神社を残すだけとなっていますが、これは、間違いなく、天照御大神と関係あります。しかし、出石も天皇から許されてこの地に住むようになったと思っていましたが、なんだか、変な予感がしています。

 出石神社は、但馬の一宮です。その神社に祀られているのは、天日槍命 と出石八前大神
です。天日槍命は天皇と関係があると思っていましたが、直接、関係はなさそうです。
何故かと云いますと、出石神社は、北緯35度27分の上に無いからです。
 天皇と関係のある神社が、現在の城山の近くにあったのではと考えています。このような見方をしながら、天日槍命はどのような人物だったのかを考えていますと、無理やりに造られた神社ではないかと考えている最中です。
 みなさんも、先ず、天日槍命は、日本書紀では、どのように書いてあるか、又、古事記では、どこに書いてあるか、そして、どの様に書いてあるか調べてください。
訳が解らないということが、判ると思います。 私は、簡単だと思うようになっています。
日本書紀には、やたらと精しく、天日槍命の系統が書かれています。精しく書かれているのは、おかしいと思わないといけないと考えています。

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2012.04.10

神話にすぎない日本書紀(4)

高千穂に都を遷すために先づ倉吉平野平定作戦が行われた。この時日本書紀で服従しなかったのは、星の神香々背男だけだったと書かれて倭文神(シトリ)の俗称の建葉槌命を遣わして平げたと書かれて倉吉の北に同じ名の倭文神社があって、しかも建葉槌命が祀られている。更にこの神社には平定に登場する天若日子、下照姫、アジスキタカヒコネ達が祀られている。これこそは倉吉平野の平定が行われた証拠である。
 更に高天原から遷した都の高千穂も倉吉の西の大栄町に地図に載せてある。ここに天照大御神の孫すなはち天孫のニニギ命を祀った大宮神社までも残っていた。
 従って天若日子は原古事記では「伯耆の会見(アイミ)の河上の喪山」に葬られたとと書かれていた筈だ。これを日本書紀が前述の美濃の藍見の河上と偽証した。この原古事記を藤原朝臣が13世紀に、日本書紀を見て美濃の藍見と改ざんした。この様な矛盾した地名が古事記と日本書紀に登場するダブルミスは作為的な改ざんが行われない限り起きえない。

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2012.04.07

神話にすぎない日本書紀(3)

現在の古事記の写本で最も古いものは、真福寺本でこの中巻の奥書に弘長3年(1263年)に右近衛大将藤原朝臣が、仮病をつかって家に籠って校正したと書かれている。現古事記はこの時日本書紀に抵触しない様に改ざんされていたのだ。927年に国から幣帛料が授与される格式が高い式内社3132社の中に全く、天皇を祀った神社が含まれていなかった。これを制定したのは藤原忠平関白で、時の醍醐天皇を敵視していた証拠が現れた。
 現古事記は天武天皇が極秘で編集を命令した史書である。これが藤原氏の手に渡って改ざんされたので、わたし達は藤原氏に作為された現古事記しか見ることが出来ない。
 現古事記を否定する形で日本書紀が編集された。この日本書紀に抵触しない様に、現古事記は改ざんされている。この証拠は日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。

私より一言---この回に書いてあることから、どうして、古事記が書換えられたと云えるのかが判りませんでした。いつ判る様になったか記憶にありませんが、古事記や日本書紀を毎日の様に読むことになってから、5年は経っていたでしょうか。

 美濃と聞けば、誰でも、岐阜県にあった国を思い出すでしょう。美濃という地名ではないと思います。(美濃市という地名はありますが)
 美濃という地名を調べてください。
私の住んでいる所は、箕面です。「みのう」だったと思うのですが、現在は、「みのお」です。本当は、「みのう」と「みのお」の間だったと考えています。
 と云うことは、「う」と「お」の間です。ドイツ語にあるウムラウトです。「お」のウムラウトです。 「美濃」も「箕面」も、他府県の人は読めないと思います。
 岐阜県にも、大阪府の箕面にも、ウムラウトを使う人がいたのではないかと考えています。箕面は、役行者と関係があります。

 話が、変な方向へ行きました。
日本書紀の選者は、伯耆国にあった「みのう」は、是非とも知られたくなかったのだと思います。伯耆にあった「みのう」は、消されたために、現在ある町の歴史を遡ることは出来ません。このような所は、外にもあります。
 この様な、いろいろの類似することを集めていますと、やっと、田村氏が言っておられることが判る様になってきました。

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2012.04.04

神話にすぎない日本書紀(2)

日本書紀の神代の、しかも本文は四分の一に過ぎない。これは日本古典文学大系から抜粋させていただいた。末尾の日本書紀は本文しかも全文である。これと古事記とを比較しながら読まれれば面白い。結論として共通の記述は皆無である。
 〔このページの後ろに、日本書紀の神代上と神代下の全文が掲載されています。〕
 
 古事記は天武天皇が極秘で命令して編集を命じた書物である。この時すでに後の藤原朝臣大島が作成した帝紀と本辞があった。これが誠正実と違い、虚偽を多く加えてあったのが古事記の書かれた理由である。
 この古事記が藤原一味に没収された。そしてこれを参考にして、時の独裁者藤原不比等が日本書紀を編集した。もともと天皇と藤原は対立関係にある。これさえ分れば、古代史の謎は解ける。藤原は中国呉の出身であり、倭人と天皇は越からの渡来民族である。呉と越の対立がわが国内でも展開されていた。
 日本書紀は後の藤原朝臣大島が書いた帝紀と本辞に。更に没収した古事記を「一書に曰く」に追加して、藤原不比等が完成させた。そして「一書に曰く」で古事記を否定したのだ。

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