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2012.05.30

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(12)

本居宣長は古事記が日本の正史だと主張して来た。しかし太陰暦を太陽暦に改める時に日本書紀を採用したのである。古事記には神武天皇が橿原宮で天下を治めたとだけしか書かれてなかった。
 しかし紀では辛酉の年の正月に即位したと書かれていたので、これを基準にした。この時の低陰暦の正月が太陽暦の2月11日だったのである。ここまでは正しかった。
 この時に日本書紀の天皇の在位年数を加えると西暦より660年も遡ることになり、これを皇紀元年にしたのである。日本の歴史は本居宣長の言を信用しないで、無批判に日本書紀を採用したために矛盾が生じた。
 先に述べた様に天皇即位制は中国系不比等が持込んだ謀略である。この日本書紀を偽書だと云われれば困るのは誰だろうか。一度犯した間違いを今更訂正出来なくなった。このために日本独特の土器編年表で、年代を全てゴマ化して来たのである。しかしカーボン14で絶対年代が計れるが計れることになり、ここでこの年代を国民に内緒にする外なくなった。


第17話 古事記が解いた古代史 21ページより転載

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2012.05.28

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(11)

日本には3世紀から明治の始めまで、常に主権者が二人居った。しかも天皇以外の今一人の主権者は、中国に本山がある唯一の仏教すなはち天台宗の坊主にお経をあげてもらわないと、成仏出来なかったのである。
 この天台宗の寺には式内社の神社が一体となって存在している。例えば比叡山延暦寺—日吉神社、鞍馬寺―-貴船神社、輪王寺―-東照宮-―二荒山神社、大山大山寺—大神山神社等である。藤原四代の中尊寺も北条の最後が自殺した寺も、中国に本山のある天台宗だ。
 上記の東照宮には徳川家康ではなくて、源家康として祀られており、しかもここには源頼朝、秀吉も合祀されている。天皇と今一つの主権者がそろって、天台宗の天海の命令で日航に祀られた。ここが天皇反対勢力の総本山である。明治維新で何故神仏分離が早速行われたかを反省して見ることだ。
 明治維新で主権者は天皇一人に統一された。ここで役人が登場し、月給を支払うことになった。ここで太陰暦だと、うる年には年に13回も月給を払う問題が生じた。


第17話 古事記が解いた古代史 20ページより転載

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2012.05.25

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(10)

テレビの放映で関東から出土した鉄剣は、稲荷山を含めて7口が全て、中国の鉄を鍛えて作られていた。これは中国からの武器まで持ち込まれていたのである。
 この稲荷山からも銅鏡が出土している。これはわたし達の先祖が好んだのでもないし顔を写すものでもなかった。顔をうつすものなら生きている内に使用するから、古墳以外から何十倍かの出土がないとおかしい。
 銅鐸は祭祀用でなくて踊りの伴奏用だから、墓からは出土しなかったし、これを使用したことが分ると、天皇勢力に殺されるので壊して東北地方に民族移動して行った。この民族とは中国の中山王国からの亡命者の騎馬民族の白狄人だった。しかもこの白狄人は一時期日本書紀全土に住んでいたのである。
 銅鐸は中部地方以西全域から出土したが、銅鏡は各地で古墳がある所に限られ、て出土したのである。
 日本には銅鏡が副葬品として必要な、中国から支援を受けたゲリラ組織が全国的にあった。これが中臣であり藤原だ。

第17話 古事記が解いた古代史 19ページより転載


私から一言---
①〔これはわたし達の先祖が好んだのでもないし顔を写すものでもなかった。顔をうつすものなら生きている内に使用するから、古墳以外から何十倍かの出土がないとおかしい。〕
 この様なことを言われた方は居られるでしょうか。 この通りです。

②銅鏡は、15.5cmの中型銅鏡「画文帯環状乳神獣鏡」が出土しています。魏鏡より小さい所に注目です。 魏鏡よりも古いはずです。「画文帯環状乳神獣鏡は畿内政権が地方の首長に分配し威力を誇示した」と書いてあった記事がありましたが、間違いでしょう。中国から貰って日本にやって来た人でしょう。

③銅鐸は、祭祀用としておられる方が多いですが、その証拠はどこにあるのでしょう。
 そうだとして、どうして、住んでいた所から、2キロばかり離れた所に埋められたのでしょう。
 鳥取県出土の銅鐸
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page670.html
 
 銅鐸と伊弉諾神が関係あることを立証するために、
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2696310/ にて検証しています。これが完成しますと、
五色塚古墳はイザナギのお墓だということが云えます。

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2012.05.23

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(9)

倭の五王は中臣鎌足で鎌足の先祖である。ソ連が各国共産党のゲリラに武器と資金援助をするのと全く同じことが、日本の古代にも行われていた。中国の漢族系(これに限定)王朝は倭の五王に武器まで与えて、ゲリラ活動を援助していた。関東の稲荷山は東のゲリラの挙点だった。
 神社でも官幣社や国弊社は一般の神社~格式が高いものと思って来た。古代にはこれに類するものが延喜年間に決められた式内社と称する神社である。
 927年に藤原忠平関白が延喜式と称する法律の一部に全国3132社の神社を選定していた。
 これが式内社と呼ばれ戦前の官幣社、国弊社の様に国から幣帛料が送られた。
 現在までこれらの神社は格式が高いものと思われて来たが、この考え方も100%間違いだった。これだけたくさんの神社に一社も天皇一族を祀った神社が含まれなかった。
 藤原は関白の地位で式内社の氏子に幣帛料の名目で軍資金を渡していた天皇の敵だったことが明らかになった。

第17話 古事記が解いた古代史 18ページより転載

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2012.05.22

銅鐸について考えた事  小銅鐸と環濠集落

http://www21.atpages.jp/skeikas/page247.html 資料は、前回より2件増えて、35例です。備考欄には、出来るだけ記事を書くようにしていますが、「環濠集落」は
3件になりました。
草刈I区遺跡  
板付遺跡  ③滋賀下鈎
  
  環濠遺跡は、単純に考えますと、集落の周りに造られ、水を蓄えた濠を持つものです。自分の目で確かめたものは、佐賀県の吉野ケ里遺跡です。この環濠は、断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木(さかもぎ)と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる様子から集落の防御的性格があったことが窺える(ウィキペディア)

 池上・曽根遺跡(いけがみそねいせき)は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡(ウィキペディア)。こちらは、環濠の深さは、歩いて渡れるように見受けられましたが、私は別の所を眺めていたのかも知れません。二重に造られてはいますが、あまり防御の役割は無い様に思われます。 
 土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。(ウィキペディア) 

執筆者は、何故か
年輪年代測定法を採用されないで、土器編年を採用して弥生時代中期後半とされています。ということは、紀元後200年頃と云うことでしょうか。奈良の唐古鍵遺跡とチームを組んでいたのではと推理しています。

 環濠遺跡は遺跡内に、取られては困るものがあったはずです。環濠は、始めのころは深く作られましたが、後の世になりますと、防護をする必要が無くなったのではないでしょうか。吉野ケ里遺跡では、米の倉庫は、遺跡の中に作らないで、遺跡の外にありました。お米ではなかったことになります。次は、鉄、銅、金、銀などの金属になりますが、余り多くは見付かっていません。

 絹は、あまり見つかっていませんが、吉野ケ里遺跡では、甕棺の中から、絹が出土しています。
 大切な絹を所持していただけではなく、膨大な量を持っていたから、襲われることを警戒したのではないでしょうか。

愛知県清須市の朝日遺跡は、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも日本の弥生中期遺跡としては最大級である。(ウィキペディア
 この遺跡では、やはり、方形周溝墓が見付かっています。

 一つずつ、確かめませんと、まだ、判りませんが、環濠を有する集落は、絹を扱っていたのではないか。
 その中で、方形周溝墓を有する集落と有さない集落に分れるのではないか。方形周溝墓を有する人たちの方が、古い時代の人たちではないかと推理しています。

 「遺跡では、南環濠集落の南縁では環濠掘削以前に銅鐸が埋納された」かれていますが、環濠を造る前に、銅鐸を持っていた人が、居て、村の所有者が、銅鐸を持っていた人から、持たない人に変ったということでしょうか。
 と云うのは、環濠がある遺跡では、銅鐸が見付かっていない様に思うのです。
 私の記憶違いでしょうか。

 書いたことは、確定ではありませんが、このような傾向が見られるのではないでしょうか。

環濠集落は、元来、集落が襲われるのを防ぐために作られたと思います。何を取られることを恐れたのでしょう。もし、お米であれば、自分たちが食べる以上のお米を作ったり、蓄える必要が無いはずです。

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2012.05.21

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(8)

Photo


古事記を現わすに至った理由は、この序文に精しく書かれている。すなはち天皇に内緒の帝紀や本辞は正実に違い虚偽を加えてあるので、太安万侶が天皇の命令で作成したのが古事記である。
 正実に違い虚偽を加えた帝紀や本辞は、天皇すら見ることが出来なかったのである。これを誰が何の目的で創作したか。このあとに現われたのが日本書紀で、これこそ虚偽の帝紀や本辞をまとめたものと考えてよい。少なく共何一つ記と紀で共通の事象も神名、天皇名も天皇の年令すらなかったのである。
 日本書紀は中国系ゲリラのボス、藤原不比等が中国属国にふさわしい、建国史を創作したのである。
 
 戦後の歴史教育では中国の宋書にだけ書かれた、倭の五王を無批判に取上げた。そして日本書紀とは全く一致点は何一つなかったのに、倭王、武は雄略天皇だと断定した。
 これに基いて今度は日本の天皇までが中共の属国にの主催者にされてしまった。この中共偏向の教科書は進歩的学者によって作られた。


第17話 古事記が解いた古代史 17ページより転載

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2012.05.19

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(7)

古事記は天皇家の家督相続の記録で、しかも壬申の乱のクーデター起こした中国系の藤原不比等等極秘で作成された。これが世に出たのは、13世紀以降である。
 しかも1263年に藤原朝臣が次ページのように自分達に都合悪い箇所は訂正したり、注を入れたり、カットした。従ってわたし達が見られる写本は藤原に都合よく改められている。
 日本書紀は不比等がクーデターが成功すると高句麗人のスサノオ命を盟主とした、虚偽の建国史を創作したのである。
 藤原はこのいつわりの建国史で天皇制を導入していた。天皇が崩御して始めて皇太子が即位するのが天皇制である。天皇家はもともとはわたし達と同じ様に祖父が生きていても家督相続がおこなわれていた。従ってこじきには即位とか在位の様な単語は現れない。
 日本書紀を真実だし衆を惑わすために神代の神の名も全て古事記と一致したものは皆無である。天皇の年令すら記と一致したものはなかった。日本書紀は10代崇神天皇までは完全な創作で事実は皆無である。


第17話 古事記が解いた古代史 15ページより転載

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第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(6)

古墳は大和で発生して東西に拡がって行った学説も間違いだった。何故古墳が九州から拡がったかを考えることだ。
 日本語の源流を論じているが、言語の基本は数詞である。この数の数え方が20まで、チベットと全く同じだったことを教えてくれたのはテレビである。ブータンの王の谷の放映では数え方は6まで同じだった。それなのに日本語は北民族から伝わったと云わなければいけないだろうか。
 録音器がない時代だから、人間が動かないことには発音は伝わらない。しかも土着民族が仮に居ったのであれば、これを圧倒する程大量の人が渡来しないことには、チベットと同じ数詞の発音は伝わらないのである。
 日本書紀は720年に出来上がって早速これの普及がはかられた。何故普及化を急ぐ必要があったかを考えることだ。紀に由来した地名は検討を加えることだ。紀以後の文献は検討してすらでないと、無批判に信じることは許せない。証拠として考える時の第一条件である。

第17話 古事記が解いた古代史 14ページより転載

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2012.05.16

銅鐸について考えた事  小銅鐸(2)

前回、銅鐸の中には、〔小銅鐸〕と云うものがあり、現在の所、50程あるらしいですと書きました。
 
小銅鐸(1)は、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/05/1-db55.html に書きました。
 資料の保管場所は、【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ です。このコーナーは、私以外に見られる方はありません。

 【銅鐸のおはなし】http://www21.atpages.jp/skeikas/page195.htmlの小銅鐸をご覧ください。

 まだ、50件には到りませんが、33件の資料が集りました。
 静岡、千葉、福岡が、断然多いです。この3つの県には、共通のものがあるはずです。

 小銅鐸一覧のページから「戻る」をクリックして頂きますと、まだ、完成していませんが、大きな銅鐸の一覧表を掲載しています。 大きな銅鐸は、全部で500個近くあるそうです。現在、136個ですから、まだ、利用できませんが、静岡、千葉、福岡には一致しません。
 と云うことは、小銅鐸と普通の銅鐸は、別のものだと考える必要があるように思います。

 銅鐸は、豊作を願ってお祈りするときに使ったとされていますが、そうかもしれませんが、そのような絵が残っているわけでも無く、伝承すらありませんから、考え直す必要があるのではと思います。
 小銅鐸の方は、大きいのと小さい銅鐸があります。どのような所で発掘されたのか、複数個見付かったとか、どの様な場所で見つかったかなど、詳細に見ていく必要があります。

少なく共、静岡、千葉、福岡で多く見付かったということは、今後、ここで見付かるという予想を立てています。

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2012.05.15

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(5)

古代の文化は全て朝鮮経由で渡来したと云われる。稲作までが朝鮮経由だとして、その先は知らんふりである。
 魏志倭人伝を論ずるなら、倭人伝の前に韓や高句麗等について詳細に書かれている。この中には倭人と共通のものは風習等何一つなかったのに、何故朝鮮経由を学者は固執するのだろうか。240年代の15万戸もあった従って当時としては、全人口の大半?  を占める人は、中国系でも朝鮮系でもなくて、海南島系だったとの、倭人伝の記述だけは学者は全く取上げないで、中国の属国扱いの歴史教育を国民に押付けるのか。
 文化は朝鮮から渡来し何れ東漸した証拠は何一つなかった。反対に古代には日本海側は隠岐、能登、津軽の全域が文化が高かったのである。これは新聞のニュースが何よりの証拠である。世界最古の土器があったし、5千年昔の88センチ以下の26本の柱が見付かったのも能登である。津軽の水田は1900年昔だったし、静岡の登呂遺跡の水田は2300年昔に営まれていた。


第17話 古事記が解いた古代史 13ページより転載

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2012.05.11

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(4)

戦後教育を受けた人は静岡県の登呂遺跡で日本人が弥生後期すなはち、紀元後300年の生活を教えられた筈である。しかしこれはカーボン140の測定の結果、水田跡は紀元前350年だったのである。(斉藤 忠氏編 “日本考古学の視点、上”187頁)
 弥生時代と云われてきた年代は後で述べるが全くデタラメだったのである。これに続く古墳の年代も従ってまちがいなのに、未だに4~7世紀だと教え続けられている。
 少く共古代史の年代が現在から何年前と書かれたのではなくて、何世紀と書かれたものは間違っていると疑問を持って考えることだ。
 教科書に書かれた、土着民族が外来文化を吸収して現在に至った考え方は根本的に間違っている。アイヌを除いた全ての日本人の先祖は渡来したのである。
 北方系蒙古族と南方系蒙古族が、主体で漢民族に圧迫されて渡来した少数民族の集まりである。鎌足やこの先祖は漢民族に支援されたゲリラであって一握りの中国系占領軍だ。


第17話 古事記が解いた古代史 12ページより転載


私よりの一言---
上記に、登呂遺跡は、〔カーボン140の測定の結果、水田跡は紀元前350年だったのである。〕とありますが、このデーターの外に、次の3つのデーターがあります。

①静岡市登呂遺跡 
 A材料
場所場所   集落趾 
検査材料   矢板
測定資料番号 Gak・794
 測定結果 2060±90
 紀年 -110
 
B材料
場所場所   集落趾
検査材料 柄穴材
測定資料番号 Gak・793
測定結果 1960±80
 紀年 -10

C材料
場所場所   水田跡C地点
検査材料 杭
測定資料番号 Gak・796
測定結果 1720±90
 紀年 +230

以上 4つの資料から、カーボン140の測定の結果が正しいとしますと、
登呂遺跡は、紀元前350~紀元後230年に存在していたことになります。

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2012.05.08

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(3)

戦前の教育を受けた人は先づイザナギ命が天照大御神、スサノオ命と月読命を同時に生んだと教えられて来た。この様な三つ子が生まれて、生れるとすぐそれぞれの任地をあてがわれたと教えられた。これこそ神話だが、古事記の原文にはこの様な神話は書いてなかったのである。三人の神々は渡来したのであって、生れたとは書かれてない。
 因幡の白莵の話は記にだけ書かれ、兎が人語をしゃべる筈もなかった。原文は兎ではなくて、莵で、玄莵人のことだし、「ワニ」は近江の和邇村に住んでいたイザナギ命と同一氏族だ。
 天照大御神の孫すなはち天孫が降った高千穂は、これは原文では何所にも日向国とは書いてなかった。日向国ではなくて、日向であって、これは文字通り日当りがよい所である。
 これからのことを調べるには日本古典文学大系が原文と読下し文が、同じ見開きにあって好都合である。
 高千穂は日向国だった先入主を捨てて欲しいのである。高千穂は伯耆の東伯郡で、地図にこの地名は現存している。


第17話 古事記が解いた古代史 11ページより転載

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2012.05.05

第17話 古事記が解いた古代史  先入主を捨てよ(2)

日本にはレッキとした古代史について、古事記と日本書紀がある。これが発表されて以後に書かれた資料は、今一度原点に戻って考えて見ることだ。戦後の学者はこのプロセスを全く行わないで、記も紀も抹殺してしまったのである。例えば出雲大社は厳然として存在している。しかしこのことに学者は何一つ検討を加えないで、黙殺して、研究しようとしないのが現状だ。出雲大社が建てられたことは古事記には書かれているが、日本書紀には書かれていない。先づ現存する神社が何故記には載せてあって紀では抹殺されたのかの謎を解くべきではないか。
 しかるに戦後の学者はこの問題の解決を計らない、大社があるのに、大社について全く書かれてない紀を取上げて、応神天皇以前の記と紀の記述は当てはまらないとした。学者の態度は許せるだろうか。
 仁徳天皇陵はこれも現存している。しかし仁徳天皇は虚構だと、仁徳天皇陵をせめて伝
仁徳天皇陵ともしないで、大仙陵と国民の同意も得ないで地名まで変えた学者がいる。


第17話 古事記が解いた古代史 10ページより転載

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2012.05.01

銅鐸について考えた事  小銅鐸(1)

別に珍しくもありませんが、銅鐸の資料を蓄えています。毎日、一つずつ、蓄えますと、500日後には、日本で見つかっている銅鐸を集めることが出来るのではないかと思っています。
資料の保管場所は、【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/ です。
出来るだけ毎日、
調べたことを付け加える様にしています。最近は、銅鐸のことを蓄えています。発見したことを書いておきます。

 銅鐸の中には、〔小銅鐸〕と云う物があり、現在の所、50程あるらしいです。判ったことは
①10㎝以下の小さい銅鐸であること。(12㎝のものもあり)
②舌と呼ばれる棒が付いている銅鐸があるということです。
 一例として、福岡県嘉麻市馬見の 原田遺跡 から見つかった銅鐸
③静岡県と福岡県に多い。

 今の所は、これだけですが、毎日、確認していますと、いろいろ考えさせてくれます。私以外の方には、読みづらいですが、辛抱して読んでください。

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