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2012.05.22

銅鐸について考えた事  小銅鐸と環濠集落

http://www21.atpages.jp/skeikas/page247.html 資料は、前回より2件増えて、35例です。備考欄には、出来るだけ記事を書くようにしていますが、「環濠集落」は
3件になりました。
草刈I区遺跡  
板付遺跡  ③滋賀下鈎
  
  環濠遺跡は、単純に考えますと、集落の周りに造られ、水を蓄えた濠を持つものです。自分の目で確かめたものは、佐賀県の吉野ケ里遺跡です。この環濠は、断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木(さかもぎ)と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる様子から集落の防御的性格があったことが窺える(ウィキペディア)

 池上・曽根遺跡(いけがみそねいせき)は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡(ウィキペディア)。こちらは、環濠の深さは、歩いて渡れるように見受けられましたが、私は別の所を眺めていたのかも知れません。二重に造られてはいますが、あまり防御の役割は無い様に思われます。 
 土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。(ウィキペディア) 

執筆者は、何故か
年輪年代測定法を採用されないで、土器編年を採用して弥生時代中期後半とされています。ということは、紀元後200年頃と云うことでしょうか。奈良の唐古鍵遺跡とチームを組んでいたのではと推理しています。

 環濠遺跡は遺跡内に、取られては困るものがあったはずです。環濠は、始めのころは深く作られましたが、後の世になりますと、防護をする必要が無くなったのではないでしょうか。吉野ケ里遺跡では、米の倉庫は、遺跡の中に作らないで、遺跡の外にありました。お米ではなかったことになります。次は、鉄、銅、金、銀などの金属になりますが、余り多くは見付かっていません。

 絹は、あまり見つかっていませんが、吉野ケ里遺跡では、甕棺の中から、絹が出土しています。
 大切な絹を所持していただけではなく、膨大な量を持っていたから、襲われることを警戒したのではないでしょうか。

愛知県清須市の朝日遺跡は、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも日本の弥生中期遺跡としては最大級である。(ウィキペディア
 この遺跡では、やはり、方形周溝墓が見付かっています。

 一つずつ、確かめませんと、まだ、判りませんが、環濠を有する集落は、絹を扱っていたのではないか。
 その中で、方形周溝墓を有する集落と有さない集落に分れるのではないか。方形周溝墓を有する人たちの方が、古い時代の人たちではないかと推理しています。

 「遺跡では、南環濠集落の南縁では環濠掘削以前に銅鐸が埋納された」かれていますが、環濠を造る前に、銅鐸を持っていた人が、居て、村の所有者が、銅鐸を持っていた人から、持たない人に変ったということでしょうか。
 と云うのは、環濠がある遺跡では、銅鐸が見付かっていない様に思うのです。
 私の記憶違いでしょうか。

 書いたことは、確定ではありませんが、このような傾向が見られるのではないでしょうか。

環濠集落は、元来、集落が襲われるのを防ぐために作られたと思います。何を取られることを恐れたのでしょう。もし、お米であれば、自分たちが食べる以上のお米を作ったり、蓄える必要が無いはずです。

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