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2012.06.17

魏志倭人伝の謎解き Ⅲ

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今までに三編の報告書を書きましたが、距離基準という根本問題の理解をしていただけないようですので再度書き改めてみます。 過去に数多く出版された魏志倭人伝に関する著書、レポート群では、倭人伝が著された当時の日本列島に関する情報だけを利用するのではなく、以降に知り得た知識を加えた視点で著述されています。 三国志はAD290年頃に晋の陳寿により著された書物です。 魏志倭人伝は、その中に含まれているほんの一部分なのです。 ということは、三国志に著されている内容は、恐らく当時洛陽にいた陳寿が、司馬遷により著された「史記」を見習って、各地の情報を集めて書き残したものでしょう。 洛陽で書かれたことを前提にしますと、三国志では一部の例外部分を除き、全編にわたり魏の距離基準が採用されていると考えなければなりません。 
 例えばアメリカで発行された日本への旅行書を考えてみます。 ニューヨークからロサンジェルスまでは当然マイルが距離基準として使われています。 多分、東京までの距離もマイルが使用されているでしょう。 ところが東京に到着した後、横浜とか大阪までの記述ではKm単位になっていると思います。 何故だか理由はお判りでしょうか。 距離などは現地の単位を採用しないと道を尋ねることもできません。 この例の場合にはマイルとKmという距離基準の表記が異なっていますので誤解を生じません。 しかし魏の「里」と朝鮮半島の「里」では、文字は同じですが距離基準が異なっているのです。 又、同一の場所の地名でも、見る人の立場により表記が変わってきます。 上記旅行書では、国名にしても日本(NIHON、NIPPON)ではなくて、JAPANになっているはずです。 何故問題にしないのでしょうか。 最近韓国ではありとあらゆる方法で、世界地図上の日本海(SEA OF JAPAN)を、東海(TONHE)に書き替えようと画策しているのをご存知でしょうか。 地名はどうでもいいというものではないのです。 
 再び三国志に戻ります。 三国志東夷伝にはまず、高句麗の条があり、高句麗在遼東之東千里、で文章が始まっています。 高句麗は遼東半島の東、千里に有りますということで、ここでは魏の距離基準、一里=約430mを採用しても千里=約430Kmとなり異論は出ないと思います。 続いて表された数値では、高句麗の面積に関して、方可二千里、と書かれており約850Km四方と考えても違和感はありません。 ところが次の東夷伝馬韓の条を見ますと、韓在帯方之南東西以海為限南与倭接方可四千里、と書かれています。
もし同じ魏の距離基準を採用しているとすれば、馬韓の面積は高句麗の面積の4倍ということになります。 ここで重要なことは、朝鮮半島の情報に関しては、陳寿が採用した魏の距離基準ではなくて、現地に詳しい役人の報告通りに記載しているわけです。 従って東夷伝馬韓の条では朝鮮半島の距離基準、一里=約75mを採用する必要が生じます。 上記に引用した馬韓の条に記された、方可四千里は、約300Km四方となり朝鮮半島南部の現状に適合する大きさです。 
 続いて東夷伝倭人の条を読んでみます。 距離の表現を持った最初に出る文章は、従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里、です。 千里=約75Kmで計算すると、帯方郡より現在の釜山の南にある巨済島の辺りまで海岸沿いに約520Kmとなり適合するのではないでしょうか。 さらに続いて、始度一海千余里至対海国・・・・方可四百余里、・・・・又南渡一海千余里・・・・至一大国・・・・方三百里、という文章がありますが、75Km余り・・・30Km四方・・・75Km余り・・・22Km四方となり不都合は生じません。 ここで注意が必要なのは対海国(たいかいこく)、一大国(いちだいこく)という名称です。 朝鮮半島ではこのように呼んでいたわけであり、間違いではありません。 対馬)、壹岐は日本列島に居り、地名を必要とした人々(いわゆる弥生人)が使用した名称であり、うまく該当すると思った方がいいわけです。 一大国ですが壹岐には長崎県で最大の平野があるのです。 一応ここまでが帯方郡にいる役人の管轄領域と考えられます。 何故かと云いますと、続いて書かれている文章、又渡一海千余里至末盧国、には距離は書かれていますが方位は書かれていません。 ここからは自分の知っているのは距離だけですと言っている感じがあります。 目の前に見えている場所までの距離(しかも間違っている)は書きながら、方位は未記入ということがあるでしょうか。 即ち、以降の文章では再び魏の距離基準に戻っていると考えれば辻褄が合います。
現在では全ての文献において、末盧国は松浦に確定ということになっています。 しかし、松浦は壹岐の南約40Kmに位置します。 比定するには、はっきりと南に見えている松浦を何故、南と書かなかったのか、わずか40Km位の距離を何故、千余里と書いたのか、末盧がどのような変遷を経て、麻都良⇒松浦と書かれるようになったのか、答える必要があります。 なお、日本書紀、古事記を見る限り、「都」は「つ」と読まれています。
白紙地図に戻って、末盧国を現在の境港の北岸にあったとすれば、末盧国以降の文章を説明するのに都合が良くなります。 一大国より末盧国までの距離は約400Km(千余里)ぐらいです。 魏志倭人伝の謎解きに記したとおり、現地は砂浜ではなく岩浜なので人影も無かったでしょうし、上陸するのには良港があります。 末盧国等、魏志倭人伝に記された国名は、邪馬壹国を含めて全て魏、もしくは朝鮮半島で呼び慣わされた呼称だと考えます。 さらに末盧国の名称に対する疑問については、魏志倭人伝の謎解きに書いた通りです。 誰が何の目的のために国名、地名を必要としたかということを説明する必要があるのです。 私は朝鮮半島から日本列島に何らかの物資を求めて人々が訪れていたと考えます。 魏志倭人伝には、帯方郡より女王国(岡山の西大寺近辺、古都)まで萬二千余里と書かれています。 ここでは帯方郡からの距離を論じられていますので、朝鮮半島の距離基準を用いますと約900Kmとなり、正しく知っていたことになります。 日本列島の情報として、本州が周囲約五千余里(2000Km余り)の島であるのを知っていたのも驚くべきことです。 あと一つ付け加えますと、魏志倭人伝の最後の方に、大作塚径百余歩、という文章が有りますが、ほとんどの専門家は魏の距離基準(一里=三百歩=約430m)を暗黙のうちに採用して、直径約150mと云っています。 何故、ここの説明には理由なしに魏の距離基準を採用するのでしょうか。

 ここからは私の独り言です。 
 魏志倭人伝は、後漢が滅んだ後に魏が日本列島の征服を企てていた証拠の情報記事であり、単に邪馬壹国を目的地とした旅行記事ではないと考えます。 日本列島にはまず苗族が気候寒冷化によりBC1000年ごろに移動してきました(初期弥生人)。 続いて晋、前漢の中国統一により追われた人々が、BC200年頃に水稲、養蚕技術を携えてやって来ました(中期弥生人)。 主に越人であり、天照大御神の一群と考えます。 朝鮮半島からも移住して来たでしょう(須佐之男命)。 水稲とか養蚕に関連のある地名は本州全域で大量に見出すことができます。 その後に来たのが、環濠集落に住んだ人々=渡来人(占領軍)=後期弥生人(後漢人)と考えれば、当時の情勢を説明しやすくなります。 例えば、華南弁(呉音)が日本列島に行き渡った理由も、苗族、越人、呉人(後漢の人々)が日常に使っていたと考えれば納得できます。 絹の集積をしていた呉人は、越人とは仲が悪かったために環濠集落に住まざるを得なかったわけですし、日本各地の土器が環濠集落で発掘されるのも当然です。 船はBC2000年頃には相当の進歩を遂げていたようです。 魏は内陸国であり船に関しては相当遅れていたのではないでしょうか。 後から日本の占領を狙った魏と、吉野ケ里等日本の各地に環濠集落を作り住んでいた後漢と、水田稲作をしていた中期弥生人が、日本列島で戦争をしていたと考えればどうでしょう。 魏志倭人伝には、官、副官の名前が書かれていますが、進軍の際の交渉すべき担当者名として必要な情報です。 女王国と伊都国との関係など、何故旅行記に必要なのでしょうか。 日本列島で呼び慣わされた地名とか、とりあえず書く必要のあった人名に用いられた文字、例えば、邪またいこく、卑みこ等 見下していると思いませんか。 これ等の文字が使われていれば、魏にとって敵国、あるいは敵国人だと考えれば納得できます。 もし友好的であればこのような文字は採用しなかったと思います。 征服する目的ですから、各地の戸数、風俗、それに軍隊の上陸地である末盧国を起点としての距離、方位が必要なのは言うまでもありません。 特に侵攻目的国への距離ですが、軍隊を末盧国に上陸させた後での必要日数等を示しています。 例えば投馬国には、軍事物資を持って日野川を遡り、高梁川を下るために水行二十日必要なのです。 金印とか銅鏡百枚とか記されていますが、卑弥呼を買収できると考え、各地で卑弥呼の軍の大将に与えるための戦略物資だったのでしょう。 しかし卑弥呼は買収されなかったために殺されました。 卑弥呼しか開くことの出来ない封印付の書類の内容を、使者が知っていたのはおかしなことです。 魏志倭人伝の後ろの方に、 詔賜倭難升米黄幢付郡假授、 黄幢という文字が出てきますが、黄色の旗を意味します。 これは皇帝が与えた軍旗のことであり、難升米を大将としての戦争開始を意味しています。


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