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2013.09.30

古事記が解いた古代史  シルクロード(1)

昭和57年11月の新聞が九州では紀元前1世紀に既に庶民が絹の着物を着ていたと報じたのである。わたしは紀元前から絹があった筈だと主張続けて来たのである。 
福や宮と稲に縁がある地名があり、一方で全国規模であれば、地名をつけられたのは同時代と考えてよいのではないか。
秦の始皇帝が日本を宝来の国だと知っていたのは長寿だけではおかしい。皇帝は徐福を日本に遣したが、絹があることを知って本国には帰らなかった筈である。
前漢は西域について何の知識もなかったので張騫を西域に紀元前139年に派遣したのである。これはシルクロードが長安から通じてなかった証拠である。 
月読命は月氏国から渡来したと考えて良い事実がいくつかあった。その一つはヒルゼン周辺の山は、大山、蒜山、氷山の様に全て、仏教の須弥山の山と同じ読み方をする。又仏ヶ仙の様な仏がついた地名まである。又月読命の月の字が月氏国と共通だった。


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古事記が解いた古代史  172ページより転載

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2013.09.27

古事記が解いた古代史  神武天皇の全国統一(3)

神武天皇を祀った神社が熊本次いで多いのが、広島、岡山、福岡である。これは神武東征の時の、安芸のタキリ宮、吉備の高島宮、筑紫の岡田宮に長期滞留した記述と合致している。東征時に大量の屯田兵として導入したと述べて来たのは、この事実と倭人特有の地名のパターンがこの地域にあったためである。
 天照大御神の「豊葦原の水穂の国を治めよ」の命令は神武天皇によって実現され、全国統一されたことは神武天皇を祀った神社が全国にもれなく分布していたことで証明された。
 神武天皇を祀った神社は山梨、長野、栃木、群馬、福島等の内陸部に見出せる。これは絹の名産地と一致している。この地域には絹錦、蚕、桑に縁がある地名が見出せる。
 すでにこの様な地名をつけられた所に倭人が後から入植させたと考えてよいだろう。
 この絹に縁がある地域に何れ竜がつく地名が発生し、二字目に○城式に城がつく地名が見出せる。これと関連して銅鏡が出土し、中国人が占拠した事実が発生した。
 神武天皇の全国統一は神社し地名が証拠だ。

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古事記が解いた古代史  171ページより転載


私から一言---神武天皇は実在してなくて、崇神天皇とダブらせて古事記に記されているように書かれてあるものが多いです。
 田村誠一氏は、僅か、三ページで、「神武天皇の全国統一は神社し地名が証拠だ」と書かれましたが、是を立証するためには、
①神武天皇を祀った神社をすべて、上げられて、その神社の周りには、どのような地名があるか、どの様な山があるか、どのような産業が発達しているか、どのような古墳があり、そこからはどのような銅鏡が出土したか 
 全部、調査しますと、1~2年では時間が足りません。
 上にあげました内、せめて、次の神社一覧表を眺めて、せめて、実際に神社を訪問してください。落ちずれてください。

★神武天皇を祀った全国440社のリストは、私が転載しておきました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html

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2013.09.24

古事記が解いた古代史  神武天皇の全国統一(2)

天草から下関、浜田、温泉津、隠岐、境港、能登、十三潟(津軽)、下北半島、更に太平洋岸の相馬市に福浦の地名がある。この外に五島列島と下関の北に福江がある。
 宇和島から瀬戸内海の赤穂までにも、福浦の地名が10ヶ所近くある。更に比較的低い三角形の城山が全国に分布し、のろし台の役目をしたことだろう。今一つ遠方から見通せる独立した天狗山も全国分布していたのである。これも計画的に配置された地名である。
 日本海沿岸には十三潟、八郎潟、新潟、河北潟、三方五湖、湖山池、東郷湖、中海等の葦が繁っていただろう所に、福と宮のついた地名と米に縁がある地名が集っている。これこそ倭人が最初に入植した証拠だ。
 十三潟には米に縁がある村が9ヶ村ある。稲が育つ筈がない広域にこの様な地名があることは何万かの稲作民が1~2年で入植し、しかも食糧を他の地域から補給しなければ起らない現象である。ここにも1900年昔の神武天皇時代の水田跡が出土した。天皇山の地名と神武天皇を祀った神社があった。

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古事記が解いた古代史  170ページより転載


私から一言

福浦に関しては、あちこちに書きました。興味ありましたら、どうぞ、

No178 渡来人がやってきた証拠 福浦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05

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2013.09.19

古事記が解いた古代史  神武天皇の全国統一(1)

 昭和14年に内務省が神武天皇を祀った神社を調べた全国で実に440社もの神武天皇を祀った神社があり、この全神社のリストは“建国の日は正しかった”に示しておいた。神武左記に、(左記の代りhttp://o-mino.la.coocan.jp/page311.html 古事記が解いた古代史  神武天皇の全国統一(1) >)
この神社の府県別統計を示しておいた。神武天皇を祀った神社も全国にもれなく分布していたのである。
 熊本にはこの神社が70社と異常に多く、しかもこの大部分が天草(天がつく地名に注意)にあった。これこそ神武天皇と倭人の大量渡来と関係があったことの証拠である。
 少名彦名命はチベットの皮船で帰来したと述べて来た。この皮船で通天河から金沙江を降り、途中から船をかついで、紅河に移る。
 紅河を降って海岸に至り黒潮に乗って海南島から台湾海峡を北上する。揚子江の南の会稽で季節風の偏西風が吹く日に沖に漕ぎ出せば東シナ海を一両日で渡って着く所は天草である。一人でかつげる皮船は20人以上が安全に、日本に来られるのだ。神武天皇が稲作民の大量導入を行ったことは天草に70社近い神武天皇を祀った神社があったことが証拠だ。


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古事記が解いた古代史  169ページより転載

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2013.09.14

古事記が解いた古代史  神武東征(7)

神武東征の記と紀の記述には一致した記述はなかった。更に紀はいかにも日向国から船出したと印象を与える書き方をしている。これこそ伯耆が建国発祥の地だと分らせないための謀略である。
 紀では記の様に高千穂で東征を決めた記述がない。いきなり日向国でなくて、日向から船出すると水先案内が登場する。次に出てくるのが宇佐だから、日向を日向国とだまされることになる。記では水先案内は明石海峡の時に登場している。
 記と紀は比較しながら読むべきで、今まで記紀と書かれた記述は一方だけ尊重したことになる。
 紀で役に立ったのは東征中の干支が書かれていたことだ。当時漢字がある以上、干支があった証拠である。橿原宮に即位したのが、辛酉の年の正月で元年としたと書かれていた。
 これが西暦元年正月と完全に一致していたのである。この時天皇は52才だった。これを基準に人道的常識からわたしは歴代天皇の年表を作成したのである。

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古事記が解いた古代史  167ページより転載

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2013.09.10

古事記が解いた古代史  神武東征(6)

縄文晩期はまだ稲作が始っていないと教えられて来たのである。稲作が始った時代の土器が弥生土器と呼ばれて来た。この定義が全て板付の上層と中間層の出土状況で間違いと判明したのである。しかも更に古い層から水田跡が出土したのだ。
 日本の考古学は進んでいると自負しているが最も基礎そのものがくずれたのに、基礎はそのままにして、重箱のすみだけがの研究が進んでいると申上げたら失礼だろうか。
 中山王国文物展は東京、名古屋、神戸で半年間も催されたのである。しかるに最近の文献では全く無視されている。
 マクロで銅鐸分布を考えれば、この民族は青銅文化を持っていた。銅鐸が広域に分布していたことは航海が自由に行われたことであり、この航海区域は日本海沿岸に限られたとは云えない事実である。
 神武天皇は航海自由なら山陰の日本海随一の良港、日向浦を確保していることが常識であって、宮崎県の港もない所から船出したと考えることが矛盾している。


私から一言—この『古事記が解いた古代史』を出版されたのは、昭和58年8月15日です。今では当たり前の話ですが、昭和58年1983年のことです。田村氏は、一大発見をされたので書かれたことになります。
 僅か 30年前のことです。
 それまでは、縄文時代---弥生時代(稲作が始る)と考えられていました。時代の順序はこれでいいのですが、稲作は、縄文時代から作られていたかも知れないのです。
 30年前の本を読むときは注意をして読まなければいけません。

 712年に完成した古事記には、イザナギ、アマテラス、スサノオ、ツキヨミが高天原に住んでいた時、スサノオが大暴れをして畦を壊したことが書いてあります。弥生時代というようないい加減な時代ではなくて、紀元前200~150年ぐらいの時のことが、古事記に書いてあります。
 古い書物でも、丁寧に読みますと、新しい発見が出来ます。

須佐之男命の勝さび
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page293.html
・・・天照大御神の営田の畔を離ち、その溝を埋め、またその大嘗(オホニヘ)を聞こしめす殿に屎(クソ)まり散らしき。・・・

古事記が解いた古代史  166ページより転載


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2013.09.07

古事記が解いた古代史  神武東征(5)

神武東征の目的はニギハヤヒ命を降参させることである。白狄人そのものは敵ではなかった。従って筑紫等の白狄人は新しい安住の地を求めて、大民族移動を行ったのだ。関東から東北に銅鐸を埋めて移動して行ったのであった。
 銅鐸が出土したが、これが埋められた正確な年代すなはち紀元前何年まで分らないと、移動の時期が東征の前か後か分らない。
 筑紫だけでもこの時点で、白狄人と倭人の民族変化があった。更に漢族や高句麗人も来襲した。これを土器の紋様だけで編年する位無謀なことはないのである。白狄人だけでも紋様が一様とは言えない筈である。
 静岡の登呂遺跡で紀元前350年に水田を営んでいたのが白狄人である。倭人は雲南方面から別のやり方の稲作技術を導入したと考えるべきである。
 福岡の板付遺跡では一番上の層から弥生土器が出土し、中間層から弥生土器にまじって縄文晩期の土器が出土した。更に縄文晩期の層の下に水田跡が見付かったのである。

古事記が解いた古代史  165ページより転載

私から一言---福岡の板付遺跡の不思議はお分かりでしょうか。

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2013.09.03

古事記が解いた古代史  神武東征(4)

筑紫の岡田宮の近くに猿田峠があり、これは猿田彦の名残りと考えたい。この岡田宮の付近には倭人特有の、福と宮がつく地名が多く一時期倭人がここ中心に住んでいたことが分る。この倭人は自由意思で各所に住んだのではないから地名を必要としたのである。
 内務省が昭和15年に神武天皇を祀った全国440社のリストを発表している。(“建国の日は正しかった”に全神社紹介) この神武天皇を祀った神社の、府県別統計だけは、168頁に示しておいた。
 岡田宮、タキリ宮、高島宮の場所を推定した今一つの理由は、この神社が密集していることだった。タキリ宮には、天王の地名があったのも選択理由の一つである。
 神武天皇を祀った神社の近くに、どの様な地名が特に多いかのパターンを見つければ、倭人の動きがつかめる。
 神武天皇が長期に駐留した安芸や吉備が天皇勢力圏であり、式内社が少ない国であり、魏志倭人伝で海南島系倭人が居ったと云われた所である。

古事記が解いた古代史  164ページより転載

私からの一言---神武東征は、日本の歴史では、もっとも長期にわたって行われた戦争ですが、日本の歴史では、実際にあった話ではないことになっています。ではなんだったのかと言いますと、神話でもないのです。
 田村氏は、岡田宮、タキリ宮、高島宮は、古事記に掲載されている宮(天皇が居られた所)をすべて、推理ですが、確定し、実際に現地へ行って確かめておられます。
 そのもとになったものは、地名とその土地にある神社誌をすべて分析しておられます。

★神武天皇を祀った全国440社のリストは、私が転載しておきました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
 できれば、全部現地に行く必要があると思います。そうしますと、神武天皇を先祖とする皆さんが、今でも、生活をしておられて、神武天皇はどのような人であったかが分ると思います。

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