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2013.10.31

古事記が解いた古代史  漢の侵略開始(5)

漢は107年にスパイを潜入させて倭人を160人も捕虜にして連行した。これは大規模の日本進行のために通訳として必要としたのである。この年に漢は公式に宣戦布告したと考えてよいだろう。
180年第二は吉備が漢軍の本拠地で、九州四国から河内、播磨を占領していたと考えてよい。漢は戦争が長期化して国力が衰え、軍の徴発を嫌って黄巾の乱が184年に発生した。この時吉備駐留軍に対する補給が途絶えたのである。
この期に孝霊天皇と将軍が一斉に敵を征伐した。しかし後漢書は負けたとは書ける筈がない。又損害が人民を欺くにはあまりにも大きくて、黄巾の乱まで発生したので、卑弥呼を悪用して停戦したことにしたのだ。
 これが敵国の歴史書を読む上での注意事項である。敵国の文献なら百%信用してのが日本の進歩的学者だった。
中国地方の漢軍は一掃されたが、船がないために九州の敵の基地はそのまま残され、これが禍根を残すことになった。


古事記が解いた古代史  183ページより転載

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2013.10.28

古事記が解いた古代史  漢の侵略開始(4)

吉備は神武天皇東征の時に高島宮に8年も駐留された所で倭人の国である。若し古墳の主が倭人の大王であれば、石棺を九州の阿蘇で作って運ぶことはかんがえられない。地元で手にはいる石を使用するのが常識である。更に吉備以外の倭人が居った所にも、同じ形式の古墳がないとおかしい。
 吉備の石棺には竜山石、四国の火山石、生駒山系の二上山のピンク石まで使われていた。更に吉備からは銅鏡が出土している。周囲には竜王山と称する山が10数カ所もあり、これは普通名詞である。
これは古墳の主は漢の将軍とかんがえてよいことになった。古墳の年代は科学をを否定する外ない意見がまかり通っている。古墳の年代を石にかじりついても4世紀から7世紀と主張し続けなければならない学者グループがあるのだ。
要するに戦後の日本史の教科書は百%中国偏向である。例えば安田元久氏編“テキストブック・日本史”は大学の教科書だから読者は一見されることをお奨めする。


 
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古事記が解いた古代史  182ページより転載

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2013.10.25

古事記が解いた古代史  漢の侵略開始(3)

後漢書では57年の奴国゛朝貢した時には返礼として金印があった。しかし107年には「倭国王帥升等生口願朝見桓・霊間倭国大乱」と書かれ、献生口に続くのは倭国大乱である。
中国人が大乱とあれば大礼、大典、大葬と同じで漢皇帝に対する反乱のことで、これこそ倭人が漢軍と戦争状態にあったことだ。
桓帝は147年から167年、霊帝は168年から188年の間在位で、日本では7代孝霊天皇の御世である。
孝霊天皇は大吉備津彦、若建吉備津彦と播磨、吉備を征伐したことは古事記に書かれている。更に伯耆の神社の由緒書等で隠岐や鬼住山、鬼林山の鬼を征伐している。
後漢書の記述と記とは完全に一致している。この吉備には巨大古墳が多い。この石棺について“吉備古代史の道を解く”が科学的に石の出所を解明している。X線回析仿法によって多くの石棺が九州の阿蘇の石で加工して運ばれていたのである。吉備の古墳の主は吉備に定住している人ではなかったのだ。


古事記が解いた古代史  180ページより転載

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2013.10.22

古事記が解いた古代史  漢の侵略開始(2)

従来の学者は後漢書に生口160人を献ずと書かれていたのを、中国人の解釈に従わずに、わざわざ奴隷だと手前勝手な学説を発表している。
 次ページに陳舜臣氏の“中国の歴史”第五巻の一部を引用させていただいた。これは中国人の解釈で西域で生口1万五千も得たと書かれている。これこそ捕虜のことで、西域ら奴隷が居ったのではない。捕虜を奴隷にするのは戦争の常識である。
この一件をとらえて日本に古代に奴隷制度があったと学術文献まで書かれ、大学の日本史まで書かれていることは恥ずかしい思いをさせられる。
 話が先に飛ぶが、古事記では仁徳天皇の時に「秦をして役せしむ」と書かれ、これは倭人伝の魏の軍隊である高句麗人が倭人の捕虜になって奴隷として働かされたことである。
ある学者は倭国王の帥升等と訳しているが国王が外国に出かけることはあり得ないことだ。ここでも学者の常識に疑問を持たざるを得ないのである。

古事記が解いた古代史  179ページより転載

上記に書かれている「次ページに陳舜臣氏の“中国の歴史”第五巻の一部」は省略させてもらいます。

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2013.10.19

古事記が解いた古代史  漢の侵略開始

漢の時代の事は、後漢書倭伝に書かれている。この時日本全土には百余国あって、これは倭人の国白狄人の国等ょ合計したものである。この中で漢と交流のあった国が30許りあった。これは前漢や後漢の銅鏡を出土した国で、漢と交流していたから、漢の銅鏡が出土したのだ。
この銅鏡を出土した所の地図で地名を調べれば、ここには漢族特有の地名パターンがあることが分る。竜のつく例えば竜王、竜城の地名がある。地名の二字目に城がつく地名は例えば福岡では昭和14年の村名でも築城、葛城、方城、大城、水城、蜷城(ひなしろ)があり、これは倭人がつけた地名ではない。
この様に二字目に城がつく地名が全国の絹産地にあった。更に鬼がつく地名がも付随していることが多い。
 この様な漢との交流があった国は日本の絹を密輸出していたのである。
 後漢書ではこの中の一国が日本人を160人もむ107年に連行したと書かれている。この時の日本人を捕虜にしたのは、王帥升等だ。  


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古事記が解いた古代史  178ページより転載

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2013.10.15

古事記が解いた古代史  捨てられた金印(2)

左記は邱永漢氏の“ダテに年は取らず”から引用させていただいた。中国人は中国周辺の人を野蛮人だとしてさげすむ習慣がある。
 更に西洋人でも西洋料理でも、字句の始めに鬼をつけている実例をあげて居られる。
げんざいでも、周囲の少数民族の独立を一斎認めない国である。これこそ覇権主義だが、他国が覇権主義を取ることは認め様としない国だ。
紀元前後にはこの漢民族の注か思想のお手本の国があった。当時のアジアの地図を拡げて漢のテリトリーと考えて見ることだ。日本書紀だけが局外中立だと考える位矛盾した話があるだろうか。南蛮よりも西戎、北狄よりも近距離に日本は位置している。
漢の侵略の手が伸びる筈がないと考えることの方が矛盾している。如何なる手段で漢は日本を侵略したかを考えることである。
 「漢委奴国王」の金印は神武天皇の使者のプライドをいたく傷つけたのだ。漢の字がある以上属国扱いだから、金印は途中で志賀島に捨てられたのである。捨てたのでなければ岩の下になどある筈がない。

古事記が解いた古代史  177ページより転載


私から一言---176ページに、邱永漢氏の“ダテに年は取らず”から引用文が有りましたが、新しく購入したコピー機からスキャンし掲載する方法が分らなくて、出来ません。フランス人にもそのような所が有る話から、始まって、中国人の中華思想のことが書いてあります。

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2013.10.11

古事記が解いた古代史  捨てられた金印(1)

西暦57年に漢に奴国王が使者を出した。これは神武天皇の御世である。全国統一が完了し稲作が普及し更には絹の着物を庶民までが着る様になった最も安定した平和な時代だから、漢の皇帝と対等のつもりで天皇は使者を漢に出したのである。
倭人はもともと漢に圧迫され雲南から渡来した民族だから対等でなければわざわざ使者を出す必要がない。この時には恐らく倭錦をお土産に持って行った筈だ。
ここでは読者は中華思想を思い出して欲しい。漢の皇帝は毎年大量の絹を持って朝貢することを期待して「漢委奴国王」の金印を使者に言伝けたのだ。
中華思想とは“広辞苑”によれば「中国本部にに居住した漢民族が、周囲の文化的に遅れた各種族 (東夷、西戎、南蜜、北狄とよぶ)に対して、自己が世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ称」と書かれている。
日本は中国とは無縁ではなくて、東夷に含まれ、漢民族に属すべきものとされている。

古事記が解いた古代史  175ページより転載

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2013.10.08

古事記が解いた古代史  シルクロード(3)

日本にあまりにも沢山のユダヤの風習があることを指摘した本が本屋に並んでいる。例えば、“ユダヤと天皇家”が一例である。 伊勢神宮の内宮と外宮の間の御幸道路には石灯籠には火ぶくろにダビデ王の紋が入れられている。
正月に内宮を訪れて所付近の家の入口には蘇民招来のお札が家毎にはられていた。蘇民とは耶蘇の民と無縁と云えるだろうか。
 東北の十和田湖の近くに戸来村があり、ヘライと発音する。この村にはキリストの墓と称するものが伝わっている。ヘライとは、ヘブライに通じる様に感じられる。
四国の石鎚山にはソロモンの財宝が埋められた伝説が伝わっている。
ここで今一度古事記の大物主神について思い出して欲しい。大物主神は自分を山上にお祭りすれば世の中が治まると述べられた。しかもこの人だけが、神であることが古事記で2ヶ所に書かれている。
更に西暦元年と神武天皇即位が完全に一致する謎とが何か因縁がある様だ。

 古事記が解いた古代史  174ページより転載

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2013.10.04

古事記が解いた古代史  シルクロード(2)

 数の数え方が1から20までチベットと全く同じこしは、チベット方面からの渡来者が大量に居らないことには起こる筈がない現象である。
最大のシルクロードが日本から始っていた根拠は神武天皇が橿原で即位した即位元年の正月が西暦元年正月と一致していたことである。
ローマもギリシアもペルシアも何れの国も自分達の別々の紀元がある。キリストが生まれたのは西暦元年以前だが明確でない。まして、12月25日に生れたのであれば、この日を正月にする筈である。リスト教国がグレゴリー暦を採用したのは16世紀である。
日本の紀元元年を必要としたのは絹を日本から運んだユダヤ人とすれば、この商人は各国まちまちの暦では、商人同志の相談に支障を来たした筈である。これには絹の産地の暦を使用することが全も便利である。
シルクロードが日本から始っておれば物々交換で西域の芸術品が正倉院に残された謎は解けることになる。

古事記が解いた古代史  173ページより転載

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