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2013.11.29

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(4)

倭人伝には使訳通じる国が三十国と書いている。これは奴国や邪馬台国を指しているのではない。倭人は漢族に圧迫されて渡来した民族だから、漢族はもともと敵であって善隣ではない。従って使者を出すことなどは原則としてない。卑弥呼が難升米を使者として出す根拠はないのである。
日本の各地から銅鏡が出土する。これは中国人が居った証拠である。中国と交流しないことには銅鏡は入手出来ない。次には銅鏡が出土した所は全て絹にかかわりがある所だ。
 更にこの近くには○城と二字目に城がつく地名、竜がつく地名、鬼(日本人が地名を付けた時は鬼は異人のことだ)がつく地名のパターンがある。
この様な中国と使者が交流したり、訳が分った国が、使訳通じる国だ。
倭人伝で倭人が風俗習慣が海南島人と同じだと書かれ、海南島には紀元前後には苗族が住んでいた。しかもこの苗族は漢と戦ったと書かれた文献まである。
 この苗族を主にした倭人が漢の銅鏡をわざわざ手に入れるだろうか。


古事記が解いた古代史  192ページより転載

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2013.11.26

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(3)

わたし達の先祖が朝鮮から渡来したのではなかった。まして稲作が朝鮮から技術導入された考え方は、倭人伝を一部でも日本史に採用する限り、学者の発言は一貫性を欠く。
倭人伝に百余国あったと書かれている。これは先づ日本中を知り尽さなければかけない記述である。中国人は日本全国を調査して、絹の産地を全て支配下に収めていたから、国の数が分ったのである。
神武天皇を祀った神社が全国に分布していたから、倭人の国が全国にあった。又銅鐸技術を持って渡来したが何れこの技術を失って行った白狄人(後世の蝦夷)も各地で集落を作り、国扱いにされたのである。
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸等合せて15万戸の倭人は、ここに住んでいたのではなくて、漢族の来襲に備えて、全国から徴発された屯田兵で、250年代には何れ各地に戻って行ったことだろう。
倭人伝で本州の周囲が5千里と書かれたことは、日本全国の様子を、中国人が知っていたので、占拠地が全国にあった証拠である。


古事記が解いた古代史  191ページより転載

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2013.11.22

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(2)

日本の古代についての中国の文献を要領よく、まとめた書物に岩波文庫(33-401 200円)の魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書倭国伝がある。この中の一部を取上げて話を進めるので、読者は是非全文を参考にして欲しいのである。
先づ倭人伝とか倭国伝、倭伝とあり、倭人イコール古代の日本人ではない。既に述べたが銅鐸をお祭りの楽器に使用した白狄人の狩猟も一時期には全国に分布していた。この白狄人は神武東征の時に畿内の人は東日本に追われた。
 魏志には鮮卑、烏丸(京にこの地名あり)扶余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓について書かれている。この何れの国の風俗習慣もわが国と似たものはなかった。しかも倭人伝を書いた陳寿が、倭人は海南島系と証言している。
しかし学者は倭人伝の倭人が海南島系だとの記述だけは黙殺して、他の記述はこれも百%信用して、そのまま日本の歴史に拡大解釈して採用しているのが現状だ。


事記が解いた古代史  190ページより転載

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2013.11.18

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(1)

魏、呉、蜀の三国時代の史書が三国誌で、この中の一国の魏志に東夷伝があって、この最後に載せてあるのが倭人伝である。中国の史書が東夷伝を書くのは、魏と呉との攻防の中での魏が倭人を同盟に引入れ、九州にあった呉の植民地を攻撃する作戦が失敗した、敗戦記録である。
この真意を戦後の進歩的学者は認識しないで、卑弥呼が「親魏倭王」に任命されて、30国の邪馬台国連合の主権者になって、国を治めたと曲論をたてたのである。
 更に大学の歴史教育の教科書、安田元久氏編“テキストブック日本史”の古代史は中国で発表された、日本に関する文献一辺倒で書かれている。この内容については驚いたことに何一つ裏付けがなかった。
 極めて僅かの人命とか地名のゴロ合せだけで日本の古代史(日本人を教育するための)を創作したものであった。
 現在も倭人伝の方向や距離を全く一致点がないのに、地名のゴロ合せが続けられ、この裏付けを探す努力は全くなされていない。

古事記が解いた古代史  189ページより転載

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2013.11.15

古事記が解いた古代史  三角縁神獣鏡(4)

外国を占領した時の戦死者のためには、本国にない様なデラックスな墓をつくらないことには残された軍人の志気に影響する。中国にない様な大型の三角縁神獣鏡を作ったから、中国人が日本に侵略して来た証拠である。
 学者は古墳でもすぐ中国と比較されるが、戦争心理の理解がない様である。
 昭和57年9月には中国の考古学者が、三角縁神獣鏡は、中国の呉の人が日本で作ったと論文で発表された。わたしはこの意見に賛成である。採銅所村には、呉、小呉の地名までも残っていたのである。
景行、仲哀天皇が九州征伐に八年以上かかった。地図の長峡はこのときの紀に出て来る地名である。
ここは京都郡で景行天皇が都にしたのに由来している。
この時の中国人が逃げて山城に立てこもった。地図の御所谷神籠石がこの時の山城だ。中国の学者の証言の呉の地方の人が漢の時代に九州から吉備を占領したのである。
この呉の地方の南宋から、倭の五王は日本占領の肩書と武器までの供給を受けたのだ。


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古事記が解いた古代史  188ページより転載


私より一言---三角縁神獣鏡の大型が中国ではなくて、日本で作られたことが、「本国にない様なデラックスな墓をつくらないことには残された軍人の志気に影響する。中国にない様な大型の三角縁神獣鏡を作ったから、中国人が日本に侵略して来た証拠である。」
と結論づけておられます。
この外に、大型の三角縁神獣鏡を作る理由があるでしょうか。

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2013.11.12

古事記が解いた古代史  三角縁神獣鏡(3)

紀では崇神紀に任那があったことが書かれている。従って崇神天皇の妹の卑弥呼が新羅に使者を出したことは、新羅の一部に倭人の基地として任那を設けることの相談だったと考えてよいのではないか。
卑弥呼の努力で任那が出来たために、漢の補給路がしゃ断されたとしたら如何だろうか。この様な時には敗戦国の史書は卑弥呼を共立して倭国大乱が収まったと書く外ないのではないか。真実倭国大乱が卑弥呼を共立するような明確な方法で収まったのであれば、何年と年代を正確に書くことが常識である。史書毎に大乱の期間があいまいだから共立は無かった。
この時まで漢の将軍の戦死者の、副葬品の銅鏡は中国から補給を受けていた。しかし補給がされなくなって、あわてて今までの銅鏡をつぶして小型銅鏡にして数をふやした。
その内に左記の福岡県田川郡採銅所村に銅鉱を見付けたので、従来よりも大きな三角縁神獣鏡を作ったのではないか。
村の名が採銅所でここに鏡山、図師、鍛冶屋等の地名がそろっている。

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古事記が解いた古代史  187ページより転載


私より一言---186ページに、国土地理院 行橋の地図が掲載されていますが、上手く掲載できませんので、次の地図で確かめて下さい。鏡山は少し南下しますと有ります。

福岡県香春町大字採銅所
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.85117629421&latitude=33.709403292433
図師は 上の地図の鏡山から、少し、東に移動した所に有ります。次のアドレスでも、表示されます。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.9187972&latitude=33.67659444

この文章は、本当は、採銅所、鏡山、図師、鍛冶屋の地名を「行く橋」の地図を見付けられて、ここで三角縁神獣鏡を作っていたのではないかと連想されたのではないでしょうか。
福岡県で見つかった銅鏡を調べる必要がありそうです。

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2013.11.08

古事記が解いた古代史  三角縁神獣鏡(2)

漢族は九州や吉備を占領したが倭人は当然奥地へ逃げただろう。従って食糧まで本国から運ぶ外無かった筈だ。これが長期戦となり太平洋戦争と同じ様に、補給路が長い海上だったためにどろ沼に陥ったのである。
 暑気の将軍の墓が壮大で何れ漢の国力が衰えるのと非礼して墳墓も小さくせざるを得なかったと考えたい。この時まで葬具の銅鏡は本国から供給されていたが黄巾の乱で補給が止まった。
 朝鮮には“三国史書”があり、これは朝鮮三国の建国以来の歴史が書かれている。この中の新羅の西暦173年に卑弥呼が使者を遣したと書かれている。
 卑弥呼は崇神天皇の妹で152年頃生れたとこだろう。173年頃は瀬戸内海は全て漢に占領され、河内までも占領されていたことは、吉備の古墳の石棺に二上山の石が使われていたことで判明した。
 伯耆も隠岐も占領されていたのである。この様な状態だから丹波の伊勢大神宮の巫女頭の日巫女(卑弥呼)が新羅に使者を出した。


古事記が解いた古代史  185ページより転載

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2013.11.04

古事記が解いた古代史  三角縁神獣鏡(1)

天の石屋戸事件で洞穴内を照らすためな、ヒルゼンの鉄山の鉄で鏡を作った。倭人の鏡はもともと鉄製でこの方がよく反射する。神社の神殿にある鏡も中国の銅鏡とは全く別物である。
 銅鏡は顔を見るためのものではなくて葬具に過ぎないのだ。顔を日常写す目的なら古墳以外で大量にしかも、1ヶづつの単位で出土しないとおかしい。銅鐸はお祭り用楽器だから古墳以外からの出土が多かったのが一例だ。
吉備に侵攻して来た将軍は竜王と称せられた。これはこの付近に竜王山があることは固有名詞でない証拠である。
この竜王を葬った古墳から銅鏡が出土したので身許が分ったのである。
この銅鏡は中国から補給されていたが、漢が倭人との戦争のため衰えた。更に人民は徴兵を忌避して184年には黄巾の乱の内乱が発生した。山東半島方面にこの内乱が大きかったことは、漢の吉備侵攻とは無縁でなかった証拠である。


古事記が解いた古代史  184ページより転載


私からの一言
ウィキペディアに竜王山が記されていますが、ここに書いてあることは考え直す必要があるのではないでしょうか。

・・・大雑把ですが、全国に竜の字が付く地名は、1350ほどあります。その内、最初に竜が付く、例えば、竜王山とか、竜王岳は800ほどあります。
 その分布は、熊本34、長崎26、福岡24、大分22、愛媛32
岡山56、廣島36、山口38、兵庫31、京都26、滋賀22、奈良39、愛知19、静岡35、
山梨27、福島30、茨城22 ・・・・
以上は、私が以前に考えたものです。

No350 岡山県の龍王山 に書いた文章の一部です。
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-11-18

この山の近くには、式内社が多い様(全て、確認していません)に思いますので、古代から絹に関した人達が住んで居たのではないかと推理しています。

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