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2013.12.31

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(9)

大和が完全に孤立していたから、吉備上道国に、崇神天皇の曽伯母の夜麻登母母曽姫が天皇の代理として居った。古代天皇の一族には出身地が人名の最初につけられたものが多い。例えば根は根国、大倭は久米国大倭村を意味して、人名に採用されている
この天皇の代理の最初の文字、夜麻登が吉備上国のことで倭人伝で邪馬台(壱)国と書かれたのである。
岡山市のしかも岡山神社に夜麻登母母曽姫と一族が祀られていた。これこそ女王がここに居った何よりの証拠ではないか。
 7代孝霊天皇が吉備征伐をした。この時に女王の弟の大吉備津彦が吉備上国の将軍になった。吉備下道国が倭人伝の投馬国で、ここは女王の義弟の若建吉備津彦が将軍である。
この二人の将軍も備前一宮の吉備津神社に祀られている。念のためこの一宮は式内社でなかった。
240年代の日本書紀の危機を救ったのは7代孝霊天皇の三人の王子、王女と10代崇神天皇の三人兄妹だったのである。


古事記が解いた古代史  200ページより転載

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2013.12.27

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(8)

藤原忠平関白が定めた延喜式の式内社の分布で、特別に少なかったのが、伯耆、美作、備前、備中、備後、安芸だった。ここが天皇の勢力圏で神武天皇東征に登場した地域である。ここに雲南方面から大量に稲作民を導入したと述べて来た。
この天皇勢力圏の中心で、日本海側からも攻撃されにくい所に、狗奴国があった。美作国久米郡が久米国で狗奴国と書かれ、神武天皇東征の時に、久米のつわものと書かれたのである。
ここの狗奴国王が崇神天皇の義弟で、日下坐王(ひこいます)である。従って卑弥呼の義弟でもある。倭人伝は卑弥呼に弓を引いた兄弟の意味で。卑弥弓呼とアダナをつけている。
240年代は河内も山城も高句麗人に占領されていた。これは記や紀で建ハニヤスと妻が崇神天皇を攻撃しようとした記述から証明される。
大和はこの時代には完全にこりつしていたのである。この高句麗人も漢が九州を攻めたときの敗残兵がゲリラ化したものだ。


古事記が解いた古代史  199ページより転載

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2013.12.23

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(7)

倭人伝を理解するには卑弥呼が誰だったかを先づ申上げたい。倭人伝の時代は10代須崇神天皇の時代である。
「卑弥呼には男弟ありて国を治む」とありこの国とは呉に占領されていた九州は除かれる。天皇系図が記と紀と異なっていたので両者を比較出来る様に載せておいた。紀の作者不比等は漢族が負けたことは不愉快な出来事だから系図まで偽作したのである。
(2ページにわたって、日本書記と古事記と別々に系図が掲載されていますが、旨く紹介できません。 省略します)
卑弥呼の男弟とは崇神天皇で国を治めていた記述通りである。
「卑弥呼は鬼道に事え」とあり、これは既に邸永漢氏の証拠を示しておいたが、中国人は倭人の神道を鬼道と書くことが正しかった。
記では崇神天皇の妹は伊勢大神宮を拝き祭ったと書かれ、この伊勢大神宮は丹波に現在元伊勢として残っている。
従って巫女が千人居ったことも、卑弥呼(日巫女)が未婚の女性の記述も正しい。更に240年代には大変老齢(90才位)だった記述も正しい。この卑弥呼の住居が厳重に兵に護られた城の中の一室で、幽閉されていた。


古事記が解いた古代史  198ページより転載

私からの一言
①伊勢大神宮に巫女が千人居ったこと
 これまでに3回行きました。一度、訪れてください。外宮も行ってください。

②卑弥呼(日巫女)が未婚の女性の記述

③240年代には大変老齢(90才位)だった
 以上 3つのことが、魏志倭人伝に書いてあって、正しい。
こんなことを言われた歴史家は居られるでしょうか。

 このことから、卑弥呼は、卑弥呼の住居が厳重に兵に護られた城の中の一室で、幽閉されていた。という結論が導かれました。
素人だから出てくる発想ですが、この城はどこにあったかといいますと、京都府福知山にありました。
この川の東側は、市が違います。綾部市です。ここに「物部町」というところがあります。

ここへは、10年ほど前に行ってきました。物部氏と関係があるかどうかを確かめるためです。資料館の方とお話をしていましたが、私が物部氏と関係があるかとユダヤ人の名前を出した途端に、忙しいからと話を中断されました。

そのことだけで、私は物部氏とユダヤ人かが関係あると思いました
其の後、調べたことを次のところに掲載しました。

ノックさんの目次 http://homepage1.nifty.com/o-mino/
次に現れる表示を順番にクリックしてください。
日本のオリジナルの品
資料室
二段目の6の「古墳」
古墳の資料の京都
綾部市の古墳
綾部市の遺跡の物部地区-----地図が古墳の見つかったところです。
物部地区は一覧表です。

ご覧の通り、未完成です。
狭い地域に、1229の古墳が見つかっていますが、お金さえあればまだまだ発掘されると思います。
ということは、重要なところだと思います。
この近くに私市円山古墳があります。
http://www5.nkansai.ne.jp/off/a-siryoukan/%E7%A7%81%E5%B8%82%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%85%AC%E5%9C%92.htm

古墳も興味がありますが、私は「私市」という名前に興味があります。物部磐船が私市(きさいち)にあります。

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2013.12.18

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(6)

三国志は魏と呉と蜀との戦争のれきしである。この中の魏志は、魏が呉と如何に戦ったかを魏を中心に書いたものである。この時代は軍師が縦横に活躍した時代で、しかも九州は呉の対岸にあった国で、しかも漢の時代に呉の地方の人が占領した残党がおった。
中国の考古学者が三角縁神獣鏡は、呉の人が日本で現地生産したと証言した場所は吸収であった。
魏は呉を征伐する速交近攻の策として、九州の呉を、中国地方から攻める戦術を考えたのだ。
 魏は倭人を味方の軍隊にしたかったので、この軍隊の本拠地狗奴国の王と同盟する作戦を考えた。このために倭人の実情を先づ書いたのである。
倭人伝に「この国はもとも男王が7,80年とどまっていた」と書いている。これは神武天皇を指している。わたしは歴代天皇年代表では在位73年となっている。この記述は性格だったことになる。この神武天皇が奴国王で漢に使者をだしたことを招致していた。


古事記が解いた古代史  195ページより転載

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2013.12.11

邪馬台国は九州にはなかった

中国には三国志と云う歴史書があります。 紀元後1世紀から3世紀にかけて、中国には後漢と云う国が有りましたが、西暦220年に滅亡しました。 広大なる後漢の領域で覇権を争ったのが魏、蜀、呉の三国であり、三国時代と呼ばれています。 三国時代の各国および周辺の情勢を書き記した書物が三国志です。 秦の始皇帝による文字の統一の結果、後漢の北方領土(主に魏、蜀により領有=華北)、南方領土(主に呉により領有=華南)では事物に対して同じ漢字を使用していましたが発音は異なっていました。 例えば、邪〈や、じゃ〉、馬〈ま、ば〉、台〈だい、たい〉(前が呉音=華南弁、後が漢音=華北弁)の如くです。 華北弁を使用していた魏は西暦265年に滅亡し、華南弁を使用していた呉も西暦280年に滅亡して三国時代は終了しました。
 
三国志を著した陳寿は蜀で仕官し、魏に住み続けたようですので華北弁で日常生活を送っていたと思われます。 この事は魏志倭人伝なり、邪馬台国論争を理解するために重要なことです。 即ち、魏志倭人伝が著されるよりも以前に日本列島にやって来た多くの渡来人(呉人、越人等)は華南弁を日常言語としており、日本人(倭人)が話す言語を表記するために用いた文字は、ほとんどの場合華南弁を起源とする一音節の漢字であったということです。 倭人語(縄文語?)の発音では必ず母音を含むため、一音節の漢字を使い易かったと思われます。 その当時「邪馬」は「山」と書くことが可能だったかも知れませんが、華南人が意味する「山」と、倭人が話す「やま」とは、まだ結びつきが無かったのでしょう。 その後「山都」という地名も現れます。

三国志魏書の末尾に東夷伝と云う、主に魏より東方に位置した国々の地理、風俗、魏との外交等について述べられた部分があります。 東夷伝には、高句麗伝、馬韓伝、倭人伝等が含まれています。 以降では、三国志の倭人伝の部分に通常用いられる用語、即ち「魏志倭人伝」に記されている文字、その後に著された文献、出土品、さらに九州北岸の現地名等との関連によりもたらされた連想により、既定の事実とされている「末盧国」の位置を疑ってみました。 現時点では「末盧国」は唐津市周辺にほぼ確定ということになっています。 
 
「魏志倭人伝」は以下の文字列で始まります。
① 倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

② 初度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴

③ 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

④ 又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

以下では文字列の適当な部分を順次取り上げて、≪末盧国が唐津市近辺に有ったとする現時点での定説≫に対する反論を試みます。 まず文字列②には對海國と有りますが、朝鮮半島から見た地名として、対馬のことを對海國と呼んでいたのではないでしょうか。 土地山險多深林、乗船南北市糴、と書かれています。 陸地の通行が困難なため、船で対馬の南北各地を巡って物々交換をしていたのでしょう。 対馬では場所により異なった産物が取れたのだと思われます。 面積は方可四百餘里、即ち四百里×四百里位、人口は有千餘戸と記されていますので、当時は一戸当たり四人家族とすれば、四千人位だったと考えられます。
 
続いて記されている文字列③の一大國ですが、上記と同様に、当時の朝鮮半島より見た場合の壱岐の呼称でしょう。 壱岐の地勢について述べますと、最高峰が213m、南北15㎞東西13㎞位、面積は134㎢、長崎県で一番大きな平野が有ります。 ③の文字列中に於いて面積は、方可三百里(三百里×三百里)と書かれているところから判断すれば、領海?を含めても百里=約5㎞~7㎞という換算が成立します。 多竹木叢林とは、現在の里山を想像すれば良いでしょう。 有三千許家と書かれていますので、人口は約一万二千人位(現在人口28000人弱)でした。 この人口数から判断すれば十分、一大國と呼べるのではないでしょうか。 ①に記された七千餘里、②の千餘里、③の千餘里を上記換算率、百里=約7㎞を用いて計算しますと、①は約490㎞、②と③は約70㎞となり、不都合な数値だとは思われません。 これ等の数値は①に書かれた帯方(郡)の役人の報告だと考えられます。 この文字列に続いて、差有田地耕田、猶不足食、南北市糴と書かれています。 田圃はあるけれども食料が不足するため南北に物々交換に出向いているということです。
 
ここで重要な問題点が出てきます。 ほぼ平らで平野のような島ですが、食料が不足するために南北に交易に出かけていると書かれていることです。 南とは何処のことを意味するのでしょうか。 ①、②、③までの文章には「末盧國」のことは何も書かれていません。 次の文字列④に初めて末盧國の説明が出てきます。 なぜ③で南北市糴と書きながら、国名の解っている「末盧國」と書かなかったのでしょうか。 現時点の定説に因りますと、壱岐からは、対岸に東松浦半島「末盧国」、糸島半島「伊都国」も見えており、船で少しばかり沖に出ると志賀島「奴国」も見えたでしょう。 九州の北岸が市糴の対象地域だったとすれば、問題はありません。 

しかし、魏の住人であった陳寿(華北人)は、呉の住人(華南人)に占領されていた九州北岸については詳しく書きたくはなかったのでしょう。 ①、②、③までの説明に「末盧国」については、まだ記述の順序として考慮されていなかったのです。 陳寿が、一大國の人々の九州北岸への物々交換を、単に南北市糴とのみ記しているのであれば、彼は訪問するべき必要のある国々の存在を九州北岸に認めていないことになります。 わざわざ壱岐より、対馬海流に逆らって対岸の一番西に位置する東松浦半島から糸島半島、博多へと順序をたどって訪問することの理由を説明する必要も無くなります。 ④以降に続いている文章中の五百里とか、百里の距離、東南という方角も問題解決です。 
 
さらに付け加えますと、陳寿が、④に於いて、又渡一海千餘里至末盧國、と著していますが、この語列には③において南北市糴と記された南という方角も書かず、一大國より末盧國?に属する九州北岸の呼子まで約五百里(約35㎞)にも満たない距離を、わざと千餘里と記している理由の説明も必要です。 要するに④の文章では、「魏志高句麗伝」と同じ魏の距離基準に従って著しているのです。 陳寿は、“「末盧国」の方角は解らないが、距離は千餘里でしょう”と言っているわけです。 改めて考えてみますと、平野の少ない東松浦半島に四千餘戸、即ち16000人も住むことの出来る土地を見出すことが出来るのでしょうか。 広い壱岐でも12000人です。 

繰り返しになりますが、陳寿は、一大國以降の文章に関しては、改めて東夷伝の初めにある「魏書高句麗伝」に戻って、魏の距離単位(千里=約430㎞)を採用して著述していると考えれば、「魏志倭人伝」の読み方に一切の問題は生じません。 後は「末盧国」の位置として、壱岐(一大國)より方角は考慮せずに、約430㎞離れた適地を探せば良いことになります。 結論として「末盧国」の位置が変われば、「邪馬台国」は九州にはあり得ないことになります。

以前に書きました『末盧国は松浦近辺で正しいのでしょうか』も併せてお読みください。

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/09/post-1cf2.html


ブログ解説者より
尚、田村邦夫氏のこれまでの記事は、右の欄にあるカテゴリーの田村邦夫の部屋をクリックして頂きますと、そのすべてを読むことが出来ます。


 原稿には、一大国と、九州北岸にあるとされる末廬国、伊都国、奴国が見える地図が添付されていましたが、
新しいコピ器ーに買い換えてから、これをブログに載せれなくなりました。 ご自分の地図で、壱岐と北九州が載っている地図で、位置関係を確かめてください。

H25.12.29 訂正の以来がありましたので、訂正しました。

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2013.12.07

健康・医療(90) ガンをやっつけよう(59) ) 私の近況

私の近況など知りたくないと思われるかもしれません。ガンのことを書いて今日で59回目になります。

 第一回目は、健康・医療  医療費が国家の予算に近づいていく
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/06/post-782d.html
です。
 確か、つい先日に発表された数字も、全く同じ調子で、毎年、1兆円を超えていきます。
以前に比べて、癌は治るようになったと云われていますが、きっと、癌になる人は二人に一人より増え続けているのでしょう。

 私も膀胱がんになり、もう少し生きて見ようといろいろ考えたことや自分で出来ることをしたことを書いてきました。
 しかし、読まれる方は殆ど居られませんでした。

 人間、やはり、皆さんから見放されますと、元気がなくなるもので、今年の8月10日を最後に、書くことを止めてしまいました。

私の癌の治療は、体調がよくなってからも続いています。
 治療は病院での治療と私が自分で治療しているものとに分かれます。

私がしている治療は、カテゴリーで、「健康・医療」を選んで頂きますと、最後のペーシ゛がトップにでます。そのまま下にスクロールしますと、最後から5番目がスタートです。
 ここにすべてを書きました。

病院での治療は、昨年の8月に再発ということで、再手術を行いましたが、その時に、取った膀胱の組織の検査では、マイナスでした。

 ということで、私の膀胱がんの一回目の手術が、2年前の12月2日でした。その後、牛結核菌を智勇乳する治療を6回しました。
 其の後の何回かの検査では、尿中に、癌細胞がみられたり、カメラでの様子も良くありませんでしたが、4月の検査では、全部結果は良好となりました。

そして、8月再発し、手術となりましたが、マイナスてしたから、私の治療は、術後、4ヶ月で、治ったことになります。 8月の手術の後は、3ヶ月に一回の血液、尿、カメラによる検査となりました。

半年に2回のCT撮影で、他の組織への転移も、確認しています。

最近の検査・診察は、丁度2年目の12月3日に在りました。
 すべてのチェック項目が正常でした。

 ただ、前立線癌の時に、特異的に高くなる数値があります。PSA ですが、今回は、4.388でした。これは、4以上ですと、前立線癌の疑いが濃厚らしいですが、私の場合は、カメラを膀胱に挿入する時に、尿道も、前立線もきれいで腫れてもいませんでした。

 この2年間、PSA は最高4.7であったり、3.0であったり、いろいろ変化が見られますが、膀胱は良好という判断で、次回から、4ヶ月に1回の検診になりました。

 この4ヶ月に1回の検診はいつまで続くのか怖いので、お聞きしませんでしたが、カメラ挿入後、排尿時には、まだ、尿が出ないうちから、痛みが伴います。

 時々、健康・医療について、考えたことを書きますので、覗いてください。

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2013.12.03

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(5)

九州では紀元前1世紀に既に庶民が絹の着物を着ていた。古代には文化は日本海沿岸が最も進んでいたのである。これも学者の定説が誤りだった証拠が続々と出てきた。
倭人伝では239年(景初2年)に魏の皇帝が中国の錦を贈った。この4年後に今度は逆に皇帝に倭錦が贈られたのである。これは贈物の常識からすれば、、倭錦の方が、中国の錦より優れていた文句の云いようのない証拠だ。
 この絹を奪略するため後漢は瀬戸内海沿岸を占領した。しかし漢は全国制覇が出来ず、長期戦化したので倭国大乱と書残した。ここにも中華思想のあらわれがある。全くの異国の内乱を自国の史書に書く筈がない。しかもこの長期化のために漢に内乱が起き、国力は衰えて221年に漢は滅びたのである。
しかしこの時孝霊天皇は吉備や四国の漢族は征伐したが、九州は征伐出来ずに残された。この九州の漢族は何れ魏の敵の呉の支配下になったのである。九州の対岸が呉であり、日本の絹が恐らく広州に運ばれ、呉の財源になっていたことだろう。


古事記が解いた古代史  193ページより転載

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