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2014.01.30

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(14)

 倭人伝では奴国の南に狗奴国があったと書かれている。これが美作国久米郡で、神武天皇の軍隊の本拠地である。日本海側からも瀬戸内海側からも攻撃され難い要害の地である。
しかも北には天皇勢力の末廬国、奴国、不弥国があり、南に邪馬台国、投馬国があって、この中心に狗奴国は位置している。
240年に魏の使者は狗奴国の北を通過したので、奴国の南にあるとしか分らなかった。倭人伝で物資の整理を大倭がしていたと明記していた。久米郡の中心に大倭村には大宮の地名があり、久米国王が代々位置していた所である。
倭人伝に邸閣ありと書かれこれは軍用倉庫のことで、吉井川沿いの津山盆地にあったと考えてよいだろう。ここからは高床式倉庫までが出土している。
 倭人伝では邪馬台国から東に海を渡ること千余里に倭種ありと書かれ、これは河内で、しかも倭人ではなくて、倭人に近い人種すなはち高句麗人(後述)が居ったのである。

古事記が解いた古代史  206ページより転載

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2014.01.23

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(13)

旧西大寺市が合併する前に、古都村があった。これ位ここに夜麻登国の都があったのにふさわしい地名があるだろうか。この近くに大多羅寄宮跡がある。この名前からして中国臭で、これが漢の占領時代の宮と考えたい。
ここで崇神天皇の曽伯母が吉備上道国に女王として天皇の代行をしていたのである。
投馬国とし旧玉島市の頭字の国で吉備下道国である。ここには末廬国からは先づ日野川を遡り国境を越えて高梁川を降ればよい。このルートを現在伯備線が百%この川に沿って走っている。古代に両岸から舟を引っ張って上下出来た川である。
ここは吉備王国であったと云われて来た所で巨大古墳が多い所である。この古墳の主は漢の将軍だった。
吉備征伐後には若建吉備津彦がここの将軍で、大吉備津彦、夜麻登登百百曽姫と三人は兄弟だったのである。
倭人伝では邪馬台国に7万戸、投馬国に5万戸の倭人が居ったと書かれ、この人達は全国から防備のため集められた屯田兵である。


古事記が解いた古代史  205ページより転載

私よりの一言---ここは、懐かしい思い出のある所です。このように、田村氏が書いて居られるので、確かめに行ってきました。
旧西大寺市が合併する前に、古都村があった---なに一つ邪馬台国の臭いのするものはありませんでした。古都というちめいだけでも、のこしてほしかったですね。

大多羅寄宮跡
http://www.city.okayama.jp/museum/okayama-history/04oodarayorimiya-ato.htm
 このブログは、私がここへ行った時には、掲載されていなかったように思います。[大多羅]という地名と、田村氏の説が正しいかどうかを確かめるために行きました。ここは、大多羅のという所を探すだけで、時間は取られ、大多羅寄宮跡を見付けることもできませんでした。しかし、地図に書いてあるらしき、山の上まで、車で登ることは出来ました。 少なくとも、ここは古代の見張り台には持って来いの所だなと思いました。しかし、f半日は掛って、収穫の無い所でした。

[大]は、昔、地位の高い人が住んでいた所に付けられることが多かったのではと今までも、考えています。
 上に書いてあったようなこと—--多くの神社を潰すことは、明治の世には行われましたが、江戸時代となりますと、外に、例が有るのでしょうか。
やはり、気になる遺跡です。
大多羅寄宮跡 --ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%AF%84%E5%AE%AE

寄宮からの展望---写真  http://4.pro.tok2.com/~et1125/run/11/02/0203/2.html

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2014.01.20

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(12)

末盧国から陸路1ヶ月水行10日でしかも南にある国は吉備上道国である。これが邪馬台(壱)国と書かれたが、正式には夜麻登国と書くべきだ。これも卑劣な文字をあててある。伯耆街道を1ヶ月かかって、津山市の北の奥津温泉がある奥津に出る。ここから吉井川を10日で降った所が旧西大寺市で、ここに古都村があり、ここが女王がおった所である。奥津の地名の様に津がつく所は船乗り場があった所である。
美作の国吉井川?の小説があったが、津山から岡山には吉井川を高瀬舟で往復することが、津山線が出来るまで続いていた。
古事記と日本書紀では崇神天皇前後の系図が異なっていたので、比較出来る様に示しておいた。ここにも古事記の序文で、帝紀が正実と違ったと書かれた証拠が現れた。この女王もなぜ記と紀で名前をわざわざ変えてあったか裏を読むことだ。岡山市中心部の岡山神社に女王一族が、紀の名前で祀られて、ここに居られた証拠が出て来たのである。藤原が古事記を偽書扱いにする手が伸びていた。


古事記が解いた古代史  204ページより転載

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2014.01.15

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(11)

倭人に君臨したのが天皇である。この神武天皇が東征に船出した日向浦(境港)がある所が倭人伝の末盧国で、日本式には松江国である。松江は出雲だと思われているが、松江は昔は島だった島ね半島にあり、島根半島と出雲は、氏族が異なるのだ。石見と出雲が中が悪いことは司馬遼太郎の『歴史の中の日本』に書かれ、これと同じことが云える。
末盧国の東南百里(44キロメートル)にあったのが奴国である。この奴国は前述したが、スサノオ命が大国主神に、伯耆の西伯、日野二郡を国譲りした。この時に「是れ奴なり」とスサノオが命名したので、この都が大国村倭だった。ここに2万戸の倭人が屯田兵として護りについていたのである。
末盧国の東百里(44粁)は高千穂宮があった東伯郡で不弥国と命名された。不弥とは政治が行きわたらない意味のアダ名である。
大和は神武天皇から景行天皇までは前進基地で、記では景行天皇の時に大和に屯倉が設けられたと書かれ、屯倉がない時代の政府は高千穂で、対外の都が大国村倭であった。


古事記が解いた古代史  203ページより転載

私よりの一言
 このページの一ページ前は、魏志倭人伝の翻訳文を掲載して居られますが、省略しました。
[不弥国]のことも書いてある部分です。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GWAJIN.html
にありますが、
ご自分で読んでください。この方は、[原文、又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之]を
[壱岐国から再び一海を渡ると、千里(90㎞)余りで九州の末盧(まつら)国(現在の佐賀県東松浦半島付近)に着きます。]と翻訳して居られます。

 [末盧国の東百里(44粁)は高千穂宮があった東伯郡で不弥国と命名された]田村誠一氏の見解です。なかなか難しいので、田村氏のご子息が、違う角度から、解明されています。

【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のカテゴリ[田村邦夫の部屋]をクリックしてください。少し、難しい所もありますが、邪馬台国は、九州に無かったことが分ると思います。
そして、不弥国は、鳥取県の国府のあった辺りにあったことが分ります。


「不弥国」は、日本人が命名したのではなくて、中国人か名づけたことが分ります。
ここは、式内社が少ない国です。
 未完成ですが、ご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
 伯耆 6、安芸、美作、飛騨、安房、上総、下総、 祭神も、一緒に眺めてください。
 美作は、ユダヤ人がいっぱいです。

 伯耆には、久米、八橋(やはし)、汗入(あせり)、会見(あいみ)、日野の4郡が有ります。久米の人達は、天皇家の軍隊です。その後、岡山県へ移動、奈良の橿原神社の近くに移動しています。

それがどうしたのかと云いますと、それを知っていた魏志倭人伝を書いた陳寿も知っていたから、魏志倭人伝にt書いたのでしょう。天皇家が本拠地にしていた所が、どのような状態であったかを知っていたことになります。

余談ですが、久米郡に倭文神社が有ります。是は、全国にあります。倭文(しどり)という織物の神さんを祭った神社です。
倭文神社は、現在15あります。もっとあったと思います。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page115.html
 この神社を全ていかれますと、それだけで、日本には、古代から全国で絹が作られていたことが分ります。 行きませんと解りません。

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2014.01.09

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(10)

卑弥呼をいきなり「親魏倭王」にして、倭人伝を書き出すわけには行かない。少く共卑弥呼に魏の皇帝が「親魏倭王」の肩書きを与えるからには、これに値する人物評価が先づ必要である。
このために創作されたのが卑弥呼を共立して倭国の大乱が収ったとする、卑弥呼でなしに陳寿が衆を惑わす策略である。
孝霊天皇と将軍に征伐されたのは、魏の敵の呉の前身だから、何と書こうと、魏志には傷はつかない。
魏志倭人伝は魏が狗奴国王との同盟に失敗して、しかも何十万かの死者を出したために全く黙殺も出来ずに己むを得ず書き残したのだ。
外国の日本に関する歴史書は裏を読むべきである。魏が負けたとは一言も書いてない。しかし最後に魏の都に僅か20人しか帰らなかったのである。しかもこの中には、肝心の何升米の名は見当たらなかった。
 この時まで交流が毎年の様に行われていたのに、これ以後200年近く、中国との交流の記録が途絶えたことが裏の証拠である。


古事記が解いた古代史  201ページより転載


私からの一言---このページのような記事は、はじめてお目にかかると思います。
残された歴史書を読むときは、大切なことだと思います。
このような物の見方は、現在の日本では特に大切なのではないでしょうか。

日本は、世界中の人を敵に回しながら、新しい年が始まりました。
中国と韓国は、聞き飽きたぐらい、日本の歴史は間違っていると云っています。

ドイツ、アメリカ、フランス、イギリス、オーストラリア、国連総長も・・・・。是に乗り遅れた国は、国益を護ることは出来ません。

 上の記事は、3世紀後半のことです。田村氏の見解は、正しいと思われますか?

新しい日本の歴史 1月2日
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/20140102

難升米のことは、「新しい日本の歴史」http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/の検索を使って頂きますと、自分でも関心するぐらい書いています。重要な人物であったのに、日本の歴史に取り入れておられる方は少ないと思います。

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