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2014.02.24

古事記が解いた古代史  親魏倭王(2)

魏志倭人伝は魏と呉が戦争状態にあり、しかも軍師が大活躍した時代に倭人が如何なる状態に丘置かれていたかを考えれば、謎は何も残らない。「狗奴国王もとより和せず」とあれば、最初から魏の軍司令官、難升米の申出に賛成しなかったことである。
 狗奴国王に汝の姉の卑弥呼を親魏倭王にしたい、同盟を求めたのである。同盟を結んで、狗奴国王に九州の呉の勢力の攻撃をさせようとしたのだ。
三国時代は遠交近攻が最も常識的な策で、これを九州の呉の勢力打倒に用いることは最も可能性が多い作戦だ。
沢山の贈り物は同盟に対する土産で、一部は中国軍人の戦死用葬具である。銅鏡百枚とか白絹がこれにあたる。


古事記が解いた古代史  213ページより転載

私からの一言----- この文章は、だれでも、そんな馬鹿なと思われるでしょうが、当時、九州は、呉の勢力が強かったことは、筆者は、解き明かして居られます。その研究成果を踏まえて考え付く推理です。しかし、当時と云え、銅鏡百枚とか白絹が貴重なものであることも知っていないと考え付かない推理です。

[沢山の贈り物は同盟に対する土産で、一部は中国軍人の戦死用葬具である。銅鏡百枚とか白絹がこれにあたる]
こんな発想をした歴史家はおられないでしょう。
 この様に考えますと、1800年前の人間も現在の人間も考えることは、あまり代わりありません。
意外と、この説は魏志倭人伝の正しい読み方かもしれません。

 卑弥呼が貰った鏡の事は、次の辺りに書いていると思います。
歴史各論 三角縁神獣鏡(39)  卑弥呼が貰った鏡(7) 朝貢 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-04

[朝貢]だけで7回書いています。 本当は、三角縁神獣鏡のことを全部読んで頂きますと、
[沢山の贈り物は同盟に対する土産で、一部は中国軍人の戦死用葬具である。銅鏡百枚とか白絹がこれにあたる]
の意味が理解出来ると思います。 もっとも、三角縁神獣鏡の研究は、今は中断しています。


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2014.02.19

古事記が解いた古代史  親魏倭王(1)

 卑弥呼が居った宮室は物見やぐらで見はりされ、城柵をめぐらして、兵が武器を持って護っていたのである。
「卑弥呼は鬼道に事え」とあったのは鬼道とは神道だったことは既に述べた。これでは卑弥呼は祭り事は行えないので、幽閉されていたことである。
更に男弟が国を治めていたので、学者が30国の邪馬台国連合の国王だと発言したことは全くの間違いである。
一室に幽閉された状態でよく衆をどの様にして惑わすことが出来るだろうか。
卑弥呼が難升米を使者として出す筈もないが、使者として派遣したと書かないことには、敗戦国の記録は、おさまりがつく筈がない。
239年に魏の皇帝は卑弥呼を「親魏倭王」にするから狗奴国王に同盟を結ぶことを求めたのである。この時狗奴国王の姉が卑弥呼だったのである。
 これは先方の申出でで何所にも卑弥呼が親魏倭王になった記述も倭人伝にはなすし、金印を実際に渡した記述も無かった。


古事記が解いた古代史  212ページより転載

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2014.02.13

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(16)

瀬戸内海には高地性集落が二度出現した。これは最初は漢の侵略監視の目的であり、二回目は180年代に吉備の賊を征伐したので何れ中国から再び侵略軍がやって来るのに備えたものである。
これは海岸に面した見通しが出来る高台に出来た集落である。左記古田武彦氏の〝邪馬壱国の方法〟から引用させていただいた。これが倭人の勢力圏を考えるのに役立つ。例えば大和を護るための布陣として眺めて欲しい。更に、これは讃岐も孝霊天皇の時に漢から奪回していたことが分る。
倭人伝に「大人は皆4・5婦、下戸も或は2・3婦」と書かれていた。これはこの時代から倭人は大家族主義で、一つ屋根の下に若夫婦も一緒に生活していた。しかも若主人は全て軍人として出征していたのである。一夫多妻の様な風習が仮りにあったとしても、この様な習慣が一瞬に亡くなるものだろうか。
更に、皇室の古事記や日本書紀の記述にも、これを察知出来る記述は見あたらない。しかし歴史家は一夫多妻だったと主張している。


古事記が解いた古代史  209ページより転載


私からの一言----208ぺージに、高地性集落の分布の地図地図と記事が掲載されていますが、スキャンした物を掲載することができませんので、省略します。

大阪には、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page301.html の集落があります。

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2014.02.05

古事記が解いた古代史  魏志倭人伝の時代(15)

末廬国の東南5百里(220粁)にあった伊都国とは丹波のことである。ここに伊勢大神宮が現存して居り、ここの巫女頭の日の巫女が卑弥呼と呼ばれたのである。
倭人伝で郡使が常駐していた所が勅使の地名であり、津に臨んで使者を迎えた所が天津の地名で残っている。伊都国とは伊勢大神宮の都の頭文字を組み合わせたのである。
倭人伝に書かれた末廬、奴、不弥、狗奴、邪馬台、投馬、伊都国は全て神武天皇ず雲南方面から稲作民を導入したり、東征の時に長期駐留した所であった。
倭人伝で海南島系と云われた人が全て天皇の勢力下にあったのである。
わたしは地名のパターンから稲作民の大量導入を全国的に行ったと主張して来た。次には全く別の角度から神武天皇を祀った神社リストで天皇の全国統一を主張した。〝鳥取県神社誌〟も神武天皇の実在と記の記述が正しいことを立証したのである。更に魏志倭人伝によって倭人の密集地が天皇と無縁ではないことが証明されたのである。


古事記が解いた古代史  207ページより転載

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