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2014.03.30

古事記が解いた古代史  日魏交戦(4)

古事記では丹波に日下坐王を遣わして、玖賀耳之御笠を殺したとある。更にこれ人の名なりと注意書きまでしてあった。人の名なりとは人畜に劣る行為をした兇賊だったのだ。これこそ天皇の妹を人質にして、最後に殺したとしか考え様がない記述である。
倭人伝で卑弥呼が居った所は、正しく城であり、ここを武器を持った兵が護っていた。
神社に居ったのではないから、人質に取られていたと述べた証拠が現れたのである。
左記は(下記は)福原会下山人氏編の〝多紀郷土史話〟からの引用である。古事記とは全く無縁の資料に古事記と全く同じ記述が、しかも古事記より詳細に書かれている。
この一事をもってしても古事記を偽書だと主張できるだろうか。倭人伝で洛陽に逃げ帰った中に難升米の名が欠けていた。玖賀耳之御笠こそは難升米でよかった。しかも史話では北海の大陸から来た異民族の酋長とある。
〝新撰姓氏録〟では御笠とつくのは高句麗人だった。ここでも全く異なった資料で、高句麗のスパイだったことが確認出来た。


左記
彦坐王の武勇でおはした事については、丹波国加佐郡由良川の河口なる志高村の青葉山で玖賀耳之御笠といふ兇賊を退治せられた事が伝はってをる。その時王は騎馬で御笠を追躡された。御笠逃げあぐんで遂に稲田の中に隠れたのを発見されて殺されたとある。この時の軍の有様、敵味方互いに駆け廻つたことを「シタク」というた。これは蹂躙の意である。郷名志託は今志高となってゐる。玖賀耳とは陸(クガ)の酋長の事である。古代に耳といふ事はすべてその部族の長者を云った詞である。
この由良川の上流は即ち丹波の鬼ヶ城である。大江山の鬼の事もこの陸耳のことと、同じ出来事で、どうしても北海の大陸から漂着した異民族の様に思はれる。

私からの一言
福原会下山人氏編の〝多紀郷土史話〟は、近くの図書館にありませんでしたので、ワザワザ福知山まで見に行ってきました。大切に保管されていた本を出して頂き、二時間ほど読みましたが、大して読まないうちに、時間が無くなり、今度は一泊でやって来て読もうと思いましたが、其の後、読んでいません。
じっくり、読みませんと田村氏のような発見は出来ないなと思いました。


古事記が解いた古代史  日魏交戦(3)
 倭人伝の時代の日本側の記録として、先づ日本書紀の崇神紀を取上げたい。これには四道将軍の記述かある。崇神紀10年9月に大彦命を北陸に遣わした。武淳川別を東海に、吉備津彦を西の道に、丹波道主命を丹波に遣わしている。しかしこの中には紀にしか書かれていない謎の丹波道主命を含まれ、紀の系図では大彦命と丹波道主命は年令が80才位開いて同時に将軍として出動は矛盾している。
紀は藤原不比等の創作だから、何所に虚偽があるかを徹底的に見付け出すことである。しかしこの虚偽に充ちた紀でも海外の俗が騒動を起こしたことは、崇神紀7年、10年、11年、12年と四ヶ所に記述がある。
紀では年代の前後関係は全くデタラメなことは吉備津彦の件でも明らかで、これはもともと180年代の孝霊天皇の御世の出来事である。丹波征伐は248年頃の倭人伝の難升米征伐を意味する。
 この様な紀でさえ海外の俗の騒動を記していた。しかも賊としないで海外の俗と書いてあるから作者は不比等と同俗のことである。


古事記が解いた古代史  217ページより転載


古事記が解いた古代史  日魏交戦(2)
239年に難升米は卑弥呼を城に幽閉した上で、卑弥呼に極秘で魏の都に戦術の相談に出かけた。240年(正始元年)に魏の使者が詔書を持って卑弥呼に「親魏倭王」にしたいと魏の皇帝の意志を伝えた。
 この時から狗奴国王に「汝の姉を親魏倭王にするから」と同盟の平和交渉を行った。
243年(正始4年)には卒善中郎将を更に一人ふやした。この将軍は恐らく河内に派遣されたことだろう。
狗奴国王との同盟を結ぶ平和交渉が進まないので245年(正始6年)に帯方郡の軍隊を丹波に派遣して、卑弥呼を人質にしてしまった。しかしこれでも狗奴国王は同盟に応じないで、今度は攻撃して来た。
将軍は勝ち目がないので247年(正始8年)に、難升米は援軍を要請し、中国の本国軍隊に護られて、魏の使者張政等が派遣された。
 そして難升米に命じて卑弥呼を自殺させたのである。卑弥呼の墓を作ったのは崇神天皇であり、日魏は激戦なって、魏の都に帰れたのは僅かに20人だった。


古事記が解いた古代史  216ページより転載


私からの一言----- この文章も、だれでも、そんな馬鹿なと思われるでしょう。しかし、前漢、新、後漢と続けて、中国は、日本にやってきました。今の中国のように日本を乗っ取る気はありませんでした。
その証拠が「親魏倭王」の金印のことが、魏志倭人伝に書いてあります。中国からみれば、東方の小さな国等どうでも良かった筈ですが、魏の国にとっては、放っておけなかった筈です。それは、呉という国と競争しませんと、日本に残ることはできません。
後漢が滅びた後でも、呉と魏にとっては日本が必要だったことになります。
それは、「絹」だったと思います。
難升米のことは、日本書紀では、卑弥呼よりも沢山のことが書いてあります。歴史家は、卑弥呼より、もっと重要視しなければいけないと思います。
このような歴史の流れを考えれば、このページも突拍子もない文章ではありません。

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2014.03.24

古事記が解いた古代史  日魏交戦(3)

 倭人伝の時代の日本側の記録として、先づ日本書紀の崇神紀を取上げたい。これには四道将軍の記述かある。崇神紀10年9月に大彦命を北陸に遣わした。武淳川別を東海に、吉備津彦を西の道に、丹波道主命を丹波に遣わしている。しかしこの中には紀にしか書かれていない謎の丹波道主命を含まれ、紀の系図では大彦命と丹波道主命は年令が80才位開いて同時に将軍として出動は矛盾している。
紀は藤原不比等の創作だから、何所に虚偽があるかを徹底的に見付け出すことである。しかしこの虚偽に充ちた紀でも海外の俗が騒動を起こしたことは、崇神紀7年、10年、11年、12年と四ヶ所に記述がある。
紀では年代の前後関係は全くデタラメなことは吉備津彦の件でも明らかで、これはもともと180年代の孝霊天皇の御世の出来事である。丹波征伐は248年頃の倭人伝の難升米征伐を意味する。
 この様な紀でさえ海外の俗の騒動を記していた。しかも賊としないで海外の俗と書いてあるから作者は不比等と同俗のことである。


古事記が解いた古代史  217ページより転載

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2014.03.22

がん増殖の謎解明 無酸素で代謝細胞死防ぐ=山形大学

癌はどうしてできるか
 その刺激になる物質はいろいろ見つかっています。 
 癌は、低酸素細胞であることも見つかりました。
 
 酸素が少なくても生きていける理由が判った。それが、次の記事です。

 癌が、どうして、低酸素のところで、大きくなっていくのかと云いますと、血液の流れが悪くなるから、その悪くなった所で、時間をかけて大きくなるのだ
と云う説が、田村誠一氏の「スピン説」です。

がん増殖の謎解明 無酸素で代謝細胞死防ぐ=山形大学
http://blog.goo.ne.jp/cinogi/e/ecb323bb50037a140bc4c213b901fad4

 がん細胞はなぜ、細胞死(アポトーシス)せずに増殖するのか―。山形大医学部の北中千史教授=腫瘍(しゅよう)分子医科学=らのグループは24日、がん細胞がエネルギーを生み出す際、あえて酸素を利用しないことでアポトーシスを防いでいるメカニズムを発見したと発表した。研究は、米国立がん研究所刊行の世界的ながん専門誌(18日付)に掲載された。

 酸素を使わず、ブドウ糖でエネルギーをつくるがん細胞の性質は約80年前、ノーベル賞受賞者のオットー・ワールブルグ博士(ドイツ)が突き止めている。だが、増殖に多量のエネルギーが必要ながん細胞がなぜ、効率の悪い方法を行うのかは、長年の謎だった。

 北中教授らは、がん細胞が酸素を使わないことで、細胞内のミトコンドリアの膜に付着し、アポトーシスを引き起こすBax、Bakという2つの分子の活性化を回避していることを発見した。

 2つの分子は、一定のシグナルが細胞内に生じると急に暴れだし、ミトコンドリアに穴を開け、毒となる分子をまき散らす。いわば、アポトーシスの「スイッチ」。酸素を使ってエネルギー代謝する場合と、酸素を使わない状態で、これらの分子の働きの違いを調べた結果、酸素を使わない状態では「スイッチ」が動かず、アポトーシスも起きなかった。

 がん細胞は正常の細胞と違い、ミトコンドリアではなく、細胞内の別の場所でブドウ糖を使ってエネルギーを産出していることも分かった。酸素を必要としないため、ミトコンドリアに付着する2つの分子が活性化しないという。

 がん細胞を酸素を利用する状態に移すことができれば、アポトーシスに導くことが可能になる。研究グループは、がん細胞内のエネルギーの代謝状態を変えるため、幾つかの種類の薬品を組み合わせることで、臨床に応用できないか研究している。

 北中教授は「がんに潜んでいる治療抵抗性に挑むための突破口になる。放射線や抗がん剤と併用すれば、より治療効果が向上するのではないか」と期待する。


田村誠一氏のスピン説のことを次のブログに書いています。

これからの日本(250) 歴史を知らない日本人(486) 如何にして戦うか(462) 癌をやっつける(16)
tp://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-03-15 これの前にも書いています。

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2014.03.18

古事記が解いた古代史  日魏交戦(2)

239年に難升米は卑弥呼を城に幽閉した上で、卑弥呼に極秘で魏の都に戦術の相談に出かけた。240年(正始元年)に魏の使者が詔書を持って卑弥呼に「親魏倭王」にしたいと魏の皇帝の意志を伝えた。
 この時から狗奴国王に「汝の姉を親魏倭王にするから」と同盟の平和交渉を行った。
243年(正始4年)には卒善中郎将を更に一人ふやした。この将軍は恐らく河内に派遣されたことだろう。
狗奴国王との同盟を結ぶ平和交渉が進まないので245年(正始6年)に帯方郡の軍隊を丹波に派遣して、卑弥呼を人質にしてしまった。しかしこれでも狗奴国王は同盟に応じないで、今度は攻撃して来た。
将軍は勝ち目がないので247年(正始8年)に、難升米は援軍を要請し、中国の本国軍隊に護られて、魏の使者張政等が派遣された。
 そして難升米に命じて卑弥呼を自殺させたのである。卑弥呼の墓を作ったのは崇神天皇であり、日魏は激戦なって、魏の都に帰れたのは僅かに20人だった。


古事記が解いた古代史  216ページより転載

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2014.03.09

古事記が解いた古代史  日魏交戦(1)

中華思想の大国の魏と弱少民族の倭人が、狭い日本に居った場合は同盟を結ぶか戦争するかの二つの手段しかない。これさえ分れば古代史は解ける。異民族が融和して単一民族の日本人になった学者の説は妄想に過ぎないのである。卒善中郎将とは漢族以外の民族の人が、属国のの司令官になった時の肩書だ。卑弥呼は「親魏倭王」だったと全ての学者が述べている。先づこの問題を先に解決したい。247年(正始8年)には「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず」とある。
卑弥呼が若しも「親魏倭王」の金印まで実際にもらっていたのなら、親魏倭王に対し、こんな失礼な全く肩書なしの書き方が許されるだろうか。女王とか男王とは倭人の国の最高位の日と手なくて、30国には30人の男王なり女王があってよい、平の王である。
更に「卑弥呼すでに死す」とは、仮りに「親魏倭王」であったのなら、死者に対し礼を失していないだろうか。


古事記が解いた古代史  215ページより転載

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2014.03.02

古事記が解いた古代史  親魏倭王(3)

詔書にはわざわざ、ことごとく人民に見せて、如何に魏の皇帝が、倭人を、いとをしく思っているかを知らせよと条件付である。宣撫物資だと考えるべきで、卑弥呼個人に与えられたものでないことは明らかである。
この証書は239年に出され、これだけの下準備をした上で翌年に魏の使者が、倭人の住む国を視察して回ったのである。
従って倭人伝で利害関係のない記述は極めて正確だった。ここで特に読者は、倭人の風習が海南島と同じだ書かれた点に注意して欲しいのである。
魏志倭人伝には韓の風習も書かれていたが韓人と倭人は別の民族と考える外ない記述になっている。
学者は口を開けば日本人は朝鮮から渡来したとか、日本の文化は全て稲作までもが、朝鮮経由だと発言されている。
 倭人伝を引用されるなら先づ第一に倭人は卑弥呼を含めて、韓系でも中国系でもなくて海南島系と発表
すべきではないか。わたしたちは倭人伝のこの記述が最重要だと考える。


古事記が解いた古代史  214ページより転載

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