古事記が解いた古代史 日魏交戦(4)
古事記では丹波に日下坐王を遣わして、玖賀耳之御笠を殺したとある。更にこれ人の名なりと注意書きまでしてあった。人の名なりとは人畜に劣る行為をした兇賊だったのだ。これこそ天皇の妹を人質にして、最後に殺したとしか考え様がない記述である。
倭人伝で卑弥呼が居った所は、正しく城であり、ここを武器を持った兵が護っていた。
神社に居ったのではないから、人質に取られていたと述べた証拠が現れたのである。
左記は(下記は)福原会下山人氏編の〝多紀郷土史話〟からの引用である。古事記とは全く無縁の資料に古事記と全く同じ記述が、しかも古事記より詳細に書かれている。
この一事をもってしても古事記を偽書だと主張できるだろうか。倭人伝で洛陽に逃げ帰った中に難升米の名が欠けていた。玖賀耳之御笠こそは難升米でよかった。しかも史話では北海の大陸から来た異民族の酋長とある。
〝新撰姓氏録〟では御笠とつくのは高句麗人だった。ここでも全く異なった資料で、高句麗のスパイだったことが確認出来た。
左記
彦坐王の武勇でおはした事については、丹波国加佐郡由良川の河口なる志高村の青葉山で玖賀耳之御笠といふ兇賊を退治せられた事が伝はってをる。その時王は騎馬で御笠を追躡された。御笠逃げあぐんで遂に稲田の中に隠れたのを発見されて殺されたとある。この時の軍の有様、敵味方互いに駆け廻つたことを「シタク」というた。これは蹂躙の意である。郷名志託は今志高となってゐる。玖賀耳とは陸(クガ)の酋長の事である。古代に耳といふ事はすべてその部族の長者を云った詞である。
この由良川の上流は即ち丹波の鬼ヶ城である。大江山の鬼の事もこの陸耳のことと、同じ出来事で、どうしても北海の大陸から漂着した異民族の様に思はれる。
私からの一言
福原会下山人氏編の〝多紀郷土史話〟は、近くの図書館にありませんでしたので、ワザワザ福知山まで見に行ってきました。大切に保管されていた本を出して頂き、二時間ほど読みましたが、大して読まないうちに、時間が無くなり、今度は一泊でやって来て読もうと思いましたが、其の後、読んでいません。
じっくり、読みませんと田村氏のような発見は出来ないなと思いました。
古事記が解いた古代史 日魏交戦(3)
倭人伝の時代の日本側の記録として、先づ日本書紀の崇神紀を取上げたい。これには四道将軍の記述かある。崇神紀10年9月に大彦命を北陸に遣わした。武淳川別を東海に、吉備津彦を西の道に、丹波道主命を丹波に遣わしている。しかしこの中には紀にしか書かれていない謎の丹波道主命を含まれ、紀の系図では大彦命と丹波道主命は年令が80才位開いて同時に将軍として出動は矛盾している。
紀は藤原不比等の創作だから、何所に虚偽があるかを徹底的に見付け出すことである。しかしこの虚偽に充ちた紀でも海外の俗が騒動を起こしたことは、崇神紀7年、10年、11年、12年と四ヶ所に記述がある。
紀では年代の前後関係は全くデタラメなことは吉備津彦の件でも明らかで、これはもともと180年代の孝霊天皇の御世の出来事である。丹波征伐は248年頃の倭人伝の難升米征伐を意味する。
この様な紀でさえ海外の俗の騒動を記していた。しかも賊としないで海外の俗と書いてあるから作者は不比等と同俗のことである。
古事記が解いた古代史 217ページより転載
古事記が解いた古代史 日魏交戦(2)
239年に難升米は卑弥呼を城に幽閉した上で、卑弥呼に極秘で魏の都に戦術の相談に出かけた。240年(正始元年)に魏の使者が詔書を持って卑弥呼に「親魏倭王」にしたいと魏の皇帝の意志を伝えた。
この時から狗奴国王に「汝の姉を親魏倭王にするから」と同盟の平和交渉を行った。
243年(正始4年)には卒善中郎将を更に一人ふやした。この将軍は恐らく河内に派遣されたことだろう。
狗奴国王との同盟を結ぶ平和交渉が進まないので245年(正始6年)に帯方郡の軍隊を丹波に派遣して、卑弥呼を人質にしてしまった。しかしこれでも狗奴国王は同盟に応じないで、今度は攻撃して来た。
将軍は勝ち目がないので247年(正始8年)に、難升米は援軍を要請し、中国の本国軍隊に護られて、魏の使者張政等が派遣された。
そして難升米に命じて卑弥呼を自殺させたのである。卑弥呼の墓を作ったのは崇神天皇であり、日魏は激戦なって、魏の都に帰れたのは僅かに20人だった。
古事記が解いた古代史 216ページより転載
私からの一言----- この文章も、だれでも、そんな馬鹿なと思われるでしょう。しかし、前漢、新、後漢と続けて、中国は、日本にやってきました。今の中国のように日本を乗っ取る気はありませんでした。
その証拠が「親魏倭王」の金印のことが、魏志倭人伝に書いてあります。中国からみれば、東方の小さな国等どうでも良かった筈ですが、魏の国にとっては、放っておけなかった筈です。それは、呉という国と競争しませんと、日本に残ることはできません。
後漢が滅びた後でも、呉と魏にとっては日本が必要だったことになります。
それは、「絹」だったと思います。
難升米のことは、日本書紀では、卑弥呼よりも沢山のことが書いてあります。歴史家は、卑弥呼より、もっと重要視しなければいけないと思います。
このような歴史の流れを考えれば、このページも突拍子もない文章ではありません。
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